韓国略史

1.檀君誕生

古朝鮮の建国(紀元前2333年)

今から約4300年前、韓半島に朝鮮最初の部族国家が誕生する。檀君王儉(ダングンワンゴム)は紀元前2333年、阿斯達(アサダル=現在の平壤)に朝鮮最初の部族国家である古朝鮮を建国した。
古朝鮮の建国に関する記録としては古代中国北魏の歴史書《魏書》に記述があり、朝鮮の歴史書に登場するのは高麗時代に一然が書いた三国遺事が最初となる。
その三国遺事には次のように記されている。

『魏書によると、今から二千年前(魏の時代から見て)檀君王儉が阿斯達に都を定め新しい国を建て朝鮮と称したが、これは中国の堯王(中国の神話上の名君で三皇五帝の中の五帝の一人)と同時代であったという。
古記によれば、むかし神様(恒因=ハンイン)の庶子である恒雄(ハンウング)は地上世界に関心を持ち人間社会を治めたいと考えた。
恒因は恒雄の思いを見抜いて三危太伯山に降りてみると、収め甲斐のあるところと判断できたので、天符印を三つ与え地上を治めさせることにした。
恒雄は三千の獣を従えて太伯山の頂上、神檀樹の下に降り立つとその地を神市と称し、風伯・雨師・雲師を従え、穀・命・病・刑・善・悪など人間社会の360余個の事柄についての教えを説いた。

ある時、熊と虎が恒雄に自分たちを人間にしてほしいと願い出てきた。
あまりの熱心な懇願に恒雄はヨモギ一握りとニンニク20個を与え、「お前たちが陽の光を浴びず暗い洞窟の中でこれだけを食べて百日の間過ごすことができれば願いは叶うであろう」と告げた。
忍耐心の弱い虎は途中で洞窟を出てしまうが、熊は我慢強く耐え21日目に女子に変身し熊女(ウンニョ)という名を貰った。
恒雄は熊女と結婚し、檀君王儉が生まれた。

檀君王儉は中国の堯王が王位について50年目の年に阿斯達を都と定め国を建て朝鮮と名乗った。
檀君王儉は1500年の間国を治めたが、中国の周の武王が即位した年に箕子を朝鮮王に封じ黄海道・九月山の蔵唐京に移った。その後再度阿斯達に戻り山神となったが、その時年齢は1908歳だったという。』
以上が朝鮮民族の始祖である檀君王儉についての所謂『檀君神話』であり、最初の国家である古朝鮮の建国神話である。
三国遺事以外にも李承休の帝王韻紀、権南の応製詩註等に王儉と建国についての記述があるが、内容は少しずつ違っており、一然が引用した魏書と古記の内容は伝えられてない。

檀君神話から読み解く古朝鮮

檀君神話は永い間人々の口から口へと伝承されてきたものである。ゆえに、その内容が古朝鮮建国当時を正確に現わしたものだと言うことはできない。しかし、古朝鮮社会について多くのことを知る端緒になっているといえる。

神話の内容をみると例えば当時の部族社会が熊や虎などを崇拝していたことが分かる。
恒雄と熊や虎との関係は集団が統合される過程を表すもので、恒雄の命令のとおり洞窟の中で過ごし女子になった熊女が恒雄と結婚をしたことは恒雄部族と熊を崇拝する部族が統合されたことを意味し、洞窟の外に出た虎とは即ち、虎を崇拝する部族とは統合されなかったことを意味する。
また、恒雄が風・雲・雨の扱いに長じていたということからは、当時の社会が自然の力を絶対に必要としていた農耕社会だったことと、農業が重要な位置を占めていたことを推し量ることができる。

恒雄と熊女の間に生まれた檀君王儉は二つの部族が統合され建てられた国家の棟梁を示している。檀君王儉とは人の名前ではなく、「檀君」は「祭事長」、「王儉」は「政治権力者」を表す言葉だ。
檀君についての話は永い間口頭でのみ伝えられて来たが、高麗時代になって朝鮮民族の始祖であると認識されるようになり、それによって檀君神話も具体的に叙述される様になった。
古朝鮮が歴史として書物の中に登場するのは紀元前7~8世紀頃である。当時、中国の斉の政治家である管仲が書いた管子に初めて記述された。
管子に依れば「朝鮮のまだらの獣の皮」は世の中の7つの宝物の一つであると紹介されている。
古朝鮮の社会については同じく中国の漢書地理志に出てくる『古朝鮮の8条法』を通してもうかがうことができるが、こちらは『8条法』としながらも実際に伝えられているのは次の3条 項のみである。

1.人を殺したものは死刑に処する。
2.人に傷を負わせたものは穀物で賠償する。
3.盗みを犯したものはその家の奴婢とする。但し、奴婢を免れようとするときは50万銭の金を支払わなければならない。

この3項目を見ても当時の古朝鮮の社会が人の命を大切にしていたことがわかるが、これは人の労働力がそのまま経済力とつながったためである。人に傷を負わせれば必ずその賠償をしなければならず、財産を盗んだものはその家の奴婢にされたことから、当時すでに私有財産が存在し、上下の身分構造が形成されていたことも伺い知ることができる。

一方で、古朝鮮社会では人が死ねばその者が普段使っていた物や穀物などを一緒に墓に入れてやり、奴婢がいた場合は奴婢もともに生きたまま殉葬させた。
これは当時の人たちが来世を信じ、死んだ者が生まれ変わった時に不便の無いようにという意識を持っていた為である。
また檀君神話には、中国の周の武王が箕子を朝鮮の王に封じ、檀君の後を委ねたという「箕子東来説」が登場する。しかしこの東来説には様々な異論もある。
その内容は概ね次のようなものだ。

①「箕子東来説」とは漢の漢四郡(楽浪郡など)の支配を正当化するためのものである。
箕子朝鮮は中国からの渡来人によるものではなく古朝鮮の発展過程で生まれた強力勢力だ。
③東夷族の移動過程で箕子を称した部族が古朝鮮の権力を掌握した。
   
この他にも異論は多く存在し、どれが正しい箕子朝鮮の歴史であるかは明らかでない。

2.古朝鮮と中国の戦闘

衛満朝鮮の登場(紀元前194年)

韓半島で古朝鮮が平和に暮らすなか、中国では繰り返し新たな王朝が登場しては国土を細かく切り裂き、ついに春秋戦国時代を迎えることとなる。各国の王たちは拡張と存続の為に隣国との戦闘に明け暮れるが、最後は秦の統一により終結を迎える。中国で最初の統一国家を成した影幀は自らを始皇帝と称し、それまでは地域などによりバラバラであった書体や度量衡の統一を行うなどの功績を残した。また一方では、思想をも統一しようと焚書坑儒を敢行したがこちらは 後世まで批判を受ける事となる。

始皇帝は万里の長城と巨大な阿房宮を建てるべく過酷な税金をかけ強制賦役を強き、百姓達の生活は日増しに疲弊していった。その結果、紀元前221年中国を統一した秦はわずか15年後の紀元前206年に滅亡し、中国は改めて大混乱に陥る。

この後中国は5年の間戦争に明け暮れ、その余波から罹災民が多く生まれ中国東北部(満州)や韓半島に移住する人々が続出した。このときの状況を魏志は次のように記録している。
『・・・天下が秦に反し戦乱が起こると 難を逃れようとした多くの人々が燕、斉、趙などから朝鮮に向かい、その数は数万に及んだ』
このようにして古朝鮮に入った多くの人たちの中に衛満(ウィマン)という者がいた。彼は元々燕の人だったが、匈奴に滅亡させられると千余名の群衆を率いて古朝鮮に移ってきた。衛満はまず古朝鮮の準王に許され国境近くの地に居住し、その後さらに王の厚い信任を受け博士の官職と辺地を与えられ、中国の流移民者たちの統率まで任されるようになる。

自身の勢力が拡大した衛満は野心を抱くようになる。準王を追い出し自らが王になろうと考えたのである。そしてそれは紀元前194年に見事達成され、衛満は王になった。
この時期を衛満朝鮮という。
追い出された準王は漢江以南の辰国に逃亡し、衛満朝鮮はさらに勢力を拡大していった。そして衛満の孫である右渠王(ウゴワング)の時代にその勢力は絶頂を迎える。

古朝鮮の滅亡(紀元前108年)

一方、中国では劉邦(漢の高祖)が紀元前202年に漢を建国したが、衛満朝鮮の台頭時には中国東北部の勢力は匈奴が握っていた。衛満の勢力が大きくなると、これを脅威に感じた漢の武帝は、右渠王に使臣として渉何を送り朝貢を要求してきたが、右渠王はこれを拒絶し渉何を鴨緑江まで送り返した。しかし、渉何は鴨緑江で接待官を殺すと武帝に対しては朝鮮の大将を殺したと報告し、武帝は渉何を遼東東部都尉に任命した。

これを聞いた右渠王は渉何を不届き者とし大軍に鴨緑江を越えさせることとなり、古朝鮮(衛満朝鮮)と漢との戦いが始まる。
漢武帝は樓船将軍・楊僕に7千の軍を与え王儉城(現在のピョンヤン)への攻撃を命じるが、楊僕軍は大部分が殲滅し楊僕と数名の部下だけがようやく逃げ帰った。
その後漢武帝は新たにより一層の軍を遼東に送ったが、やはりこの軍も古朝鮮の軍を破ることはできなかった。

両国間の膠着状態が続くなか、先に逃げ帰っていた楊僕が再び現われ王儉城の南側を攻めてきた為に、右渠王はいよいよ和睦を考えるようになった。
そんな折、王儉城の中では和睦派と主戦派に分かれ意見が対立していた。路人・韓陶・尼谿相・参など和睦派は漢に投降することを謀議し、結果として主戦派である右渠王を殺め路人が投降することになった。これにより右渠王は和睦派の手にかかり、路人も投降の途中で殺されてしまった。(理由は不明)

右渠王は亡き後も最後まで王儉城は陥落しなかった。大臣であった成己が城の中の者たちを励まして引き続き対抗した為である。しかし、戦争が1年以上も続いた紀元前18年の夏、漢はすでに投降していた右渠王の子である長と、路人の子である最をけしかけて成己を殺させ、ここに古朝鮮は滅亡する。
古朝鮮は結局漢により倒れたが、戦争に敗れた訳ではなかった。
中国の歴史家・司馬遷は古朝鮮と漢との戦争について
「・・・両軍ともに傷を負い生きながら功を建て諸侯(大臣)に封じられる者がいなかった」と記している。
漢武帝は108年に古朝鮮の地に楽浪・真番・隣屯の3郡を置き、その翌年には玄菟郡を置いた。

この中で楽浪郡は最も朝鮮の社会に影響を与え、その文化は急速に韓半島全域に広まることとなった。
楽浪郡で発掘された多くの文化遺産からは当時の豊かな生活ぶりをうかがうことが出来る。
漢に対抗した古朝鮮の遺民たちは静かに力を蓄え、後にこれら四郡の支配者たちに対抗し始める。そして一方、玄菟郡は新しい力である高句麗(コグリョ)により追い出され、その後楽浪郡もこの勢力に併合される。

3.東明聖王(朱蒙)とその子達

高句麗の建国(紀元前37年)

扶余(トンプヨ)の王である解夫婁(ヘブル)は年を重ねても息子に恵まれなかった。そのため、霊験あらたかな名山と聞けばどこへでも出かけ息子を授かるよう祈祷した。そうしたある日のこと、解夫婁が祈祷を終えて家に戻る途中鯤淵という小さな川のほとりまで来ると解夫婁が乗った馬が歩みを止め、そばにあった大きな石を見て涙を流し始めた。解夫婁は何事かと思いながら、部下にその石を退かさせる。すると石の下には金色の光を放つ蛙の形をした小さな子供がいた。それを見た解夫妻は天が願いを叶えてくれたと考え、その子を金蛙(クムワ)と名付け自身の後継者にしようと考えた。
そしてその通りに、解夫婁が亡くなると金蛙は王となった。

ある日、大きくなった金蛙王が太白山の南の優渤水に狩りに出かけるとそこで美しい娘にあった。金蛙王は娘に何故このような所にいるのかと尋ねる。すると娘は「私は河伯(ハベク)という者の娘で柳花(ユファ)と言います。ある時、私が弟たちと遊んでいると天帝の子の解慕漱(ヘモス)と名乗る男が現れ、私と結婚すると言い放ったまま戻ってきません。この事を知った私の両親が私をここに寄越したのです。」と答えた。
金蛙王は柳花を気に入り宮に連れ帰ったが、ある時から陽の光が柳花を追い掛け始めた。柳花が部屋へ入れば陽の光も部屋に入り、扉を閉めても陽の光は隙間から入って柳花を照らすのだった。
そんな中しばらくすると柳花は懐妊し、やがて大きな卵を産む。金蛙王はこれを良くない前兆だと考え卵を犬や豚に与えたが、犬も豚も決して食べようとはしなかった。それならと今度は道に捨てたが牛や馬も卵を避けて通り、野に捨てればあらゆる鳥たちが寄って来て卵を守ろうとするのだった。
これを見た金蛙王は更に不審に思い、いっそ卵をたたき割ってしまおうとも試みたがついぞ卵が割れることはなく万策尽きた金蛙王は仕方なく卵を柳花へ帰してやった。柳花は卵を布で包んで暖かい所に置き、大切に見守った。すると数日後、卵から元気な男の子が生まれた。子供はすくすくと健康にそして賢く育ち、7歳になると自ら弓と矢を作るほどになった。

金蛙王には全部で7人の息子たちがいたが、柳花の息子に勝る者は一人もなかった。この子はあらゆる面で優れていたが特に弓使いが達者で、そのことから朱蒙(ジュモン)と呼ばれるようになった。(当時扶余では弓の名手を朱蒙と言った)
金蛙王の長男・帯素(テソ)はそんな朱蒙を疎ましく思い、王に朱蒙を亡き者にしようと建議した。そんな帯素の思惑に対し王はいつまでも明確な答えを出そうとはしなかった。王は内心、朱蒙を何よりも大切に思っていたのである。しかしそうした周囲の状況を察した朱蒙は次第に警戒を強めていった。
王子やその家臣たちの多くが朱蒙を疎ましく、恨めしく思う様になっていることを知った柳花夫人は、そうした人々に襲われる前に朱蒙を遠くへ逃がそうと考え、朱蒙は心から信頼できる者数名と共に南方へ向かった。
それを知った扶余の人々はすぐに軍隊に朱蒙一行を追い掛けさせたが捕らえる事は出来なかった。
朱蒙は奄利水(今の鴨緑江の東北部)に着くと「我は天帝の子・河伯の孫である! 橋が無くて河を渡ることが出来ず、後ろからは敵が追ってきているがどうしたら良いか!」と叫んだ。すると、河の中から多くの亀が出て来て道を作ってくれた。
  
無事に奄利水を越えた朱蒙一行は鴨緑江の中流地域である卒本に拠点を置き、国作りを始めた。この国が高句麗であり朱蒙は即ち、高句麗の始祖・東明聖王である。朱蒙22歳、時は紀元前37年のことであった。
卒本は高い山と渓谷の多い所であったが河川沿いに広がる土地は肥沃で、多くの国々と隣接しており、高句麗の征服活動と膨張には格好の条件が揃っていた。朱蒙は旺盛な征服欲で付近の松譲国・人国・北沃沮などの国を併合すると、その評判を聞いて周辺の国々が進んで高句麗に集まって来る様になっていった。

沸流と温祚 百済の建国(紀元前18年)

高句麗(コグリョ)・百済(ペクチェ)・新羅(シンラ)の三国の中で一番あとに建てられた百済は、東明聖王の息子である温祚が建てた。東明聖王には3人の息子がいた。その内、北扶余を出る前に結婚した禮氏から生まれたのが長男琉璃(ユリ)、卒本扶余で結婚した後に生まれたのが沸流(ピリュ)と温祚(オンジョ)である。
扶余を出て南下した朱蒙が卒本扶余に入ると、その地の王は朱蒙の類まれな才能を見抜き、自分の2番目の娘と結婚させた。そうして生まれたのが沸流と温祚である。朱蒙が高句麗を建て東明聖王となり国の拡張を図っていた頃、琉璃が父を訪ねて来て太子となった。
ある時、沸流と温祚は烏干・馬黎など10余名の臣下を連れ新たに国を建てるべくその地を求めて旅に出発し、この事を知った多くの農民達は普段から二人の王子を大変慕っていたので自ら彼らについて行った。
二人の王子は漢山(現在の北漢山)と負兒嶽(三角山)に来て地形を調べた後、河南の地に来た。すると家臣たちは「北には漢水(漢江)が在り、東には高い山、南には肥沃な土地が、西には大きな海が在る。この地こそ最も都にするにふさわしい土地と言えます」と、河南城を都とする様二人に請うた。
温祚は臣下の申し出を受け入れ河南を都にしようと決めたが兄の沸流は聞き入れなかった。結局、沸流と温祚はここで決別し、一緒に来た農民達も二つに分かれた。
温祚は河南の慰禮城(現在のソウル市江東区一帯)を都と決め国の名前を十済とし、沸流は彌鄒忽(現在の仁川)に行きそこを都と決めた。しかし彌鄒忽は、海にあまりに近く塩分が多いため植物が育ちにくく、多くの人が暮らす地としては適していなかった。喜んでついてきた農民達の間にも次第に沸流を恨む声が強まり、こっそり河南に移って行く人が増えていった。
ある時沸流は弟がどの様に国作りをしているのか気になり様子を見に行くことにした。するとそこは既に都としての体面が整っており、農民達の表情は安心しきっていた。それを見た沸流は自分の判断が間違っていたことを悟り後悔の内に命を落とすこととなる。沸流について来た農民達は全て十済に来ることとなった。農民達が増えると、温祚は国の名前を百済と替え、高句麗と同じく扶余から来た事から姓を扶余とし、東明聖王の祠堂を建てた。

以上が百済の建国に関する話である。この話と一緒に伝えられている百済建国の別の話として、金富軾が書いた三国史記には次のような内容が伝えられているがどちらが正しいかは明らかでない。
 
『卒本扶余の部族長である延陀勃の娘である召西奴(ソソノ)は北扶余王の解夫婁の庶孫である優台と結婚して沸流と温祚を産むが、優台が死ぬと卒本に戻って暮らした。そうした中、朱蒙が卒本扶余に定着するようになり召西奴は朱蒙と再婚をした。朱蒙が高句麗を建国して王となると、北扶余から朱蒙の息子である琉璃が訪ねて来て太子となる。すると召西奴は二人の息子を連れて南下し別の国を作る。その国こそが百済である。
兎にも角にも、百済を建国した温祚は熱心に領土を拡大させ建国13年目には百済の領土は、北には河(禮成江)、東には走壌(春川)、南には熊川(公州)、西には仁川の海辺までを占めた。しかし、翌年になると温祚は都を今の南漢山城に移してしまう。理由は楽浪と靺鞨がしきりに侵犯してきた為であった。』

4.新羅建国と卵の秘密

新羅の建国(紀元前57年?)

韓半島で建国された国家には各々独自の説話や神話などが伝えられており、新羅(シンラ)もその例外ではない。特に新羅の説話は人の誕生に関わるものが多く、これらの説話から新羅の成り立ちを見ることが出来る。
新羅の建国は紀元前57年ということになっているが、これは後世の人の伝え話で実際のところは定かでないとされている。
新羅は〈三国志〉に見られる“斯盧(サロ)”と〈三国史記〉〈三国遺事〉などに見られる“徐伐(ソボル)”“徐那伐(ソラボル)”から始まり慶州地方を中心に発達した小部族国家の一つであった。
当時の慶州地方では6つの部族が一団の様に集まって暮らしていた。部族はそれぞれ閼川楊山村、突山高墟村、茂山大樹村、觜山珍支村、金山加利村、明活山高耶村から成った。彼らは互いに関係が良好で、次第に外敵を抑え6部族の力を合わせることが出来る共通の指導者が出てくることを望むようになった。そしてその指導者を探し求め頻繁に会同を持った。
指導者探しに苦心するある日、楊山の井にある井戸の傍らで白馬が膝を曲げて涙を流しながら平身低頭していた。
不思議に思った部族長たちがそこに近づくと、馬はどこかに消えており青白い光を放つ大きな卵がただ一つ残されていた。突山高墟村の村長が卵を持ち帰り真心をこめて世話をしていると、すこしして卵から男の子が生まれた。部族長たちはその子に赫居世(ヒョクゴセ)という名前を付け、ふくべの様な卵から生まれたので姓を朴(=ふくべの意味)とした。
朴赫居世は常人より早く成長し周囲の人々を驚かせた。彼は非常に叡智に富み、少年時代から多くの人々に慕われ敬われる存在であった。部族長たちは彼が13歳になると王に推戴し、朴赫居世は新羅の第1代王となる。
  
彼は国号を徐羅伐(ソラボル)とし都を金城(現在の慶州)と定めた後、自身を居西干(ゴソガン)と称した。
永年の願いであった王を迎えた部族長たちは一安心するが、間もなくすると今度は王妃について気を揉むようになる。しかし暫くすると、閼英井という井戸に龍が現れ右の脇から女の子を産んで立ち去った。子供の名前は井戸の名から閼英(アルヨング)と付けられ、後に朴赫居世の王妃となった。

昔脱解と金閼智

この他にも誕生説話が伝えられている人物として新羅の第4代王である昔脱解(ソクダルヘ)と金閼智(キムアルジ)がいるが、そのうち昔脱解の誕生説話は次の様なものである。

『昔脱解は多婆那国の王と女人国の王女との間の子であるが、なんと王女が妊娠して7年目に生まれた。それも、人ではなく卵で生まれたので国王は大変に怒り「人が卵を産んだとは!これはとても不吉な事だ。何処かへ捨てて来てしまえ!」と言った。そして卵は櫃に入れて海に捨てられ漂流する。
櫃は海を漂い新羅のある東海岸まで流され、阿珍浦(現在の迎日)で一人の老人により発見された。老人が櫃を開けると、そこにはとても気立ての良い男の子が入っていた。老人は櫃が海の上を流されている時に一羽の鵲が櫃を守る様にその上を飛んでいた事から、鵲の鳥の字を取ってこの子の姓を昔とし名前は脱解とした。
昔脱解は第2代の王である南解次次雄(ナムヘチャチャウング)の婿となり、後に第3代・儒理(ユリ)王の後を継ぎ新羅第4代の王となった。
昔脱解が王となって9年が経ったある日の晩、王は金城の西方の始林から鶏の鳴く声を聞き、不思議に思って臣下に様子を見て来る様に命じた。そしてそれからしばらくすると臣下は金の箱を持って戻って来る。
臣下は王に「始林に行きますと、ある木の下にこの箱が置いてあり、その横では白い鶏が鳴いていました。」と報告した。
王が直接箱を開けてみると箱の中には男の子が入っており王はこれを見ると大変に喜んだ。王は男の子が金の箱に入っていたことから金という姓を与え、名を閼智と付けた。また鳥が鳴いたことから地名も始林から鶏林へと変えた。王は金閼智に自身の後を継がせようと考えたが、金閼智はこれを固辞した。
  
それから時は流れ慶州金氏の始祖である金閼智の7代後の孫が王となる。味鄒(ミチュ)王の誕生である。
当時、新羅の王の称号は定まっておらず“居西干”“次次雄”“尼師今(イサグム)”“麻立干(マリップガン)”などが使われた。それぞれ“居西干”は第1代王の朴赫居世が、“次次雄”は第2代王の南解王が使用し、“尼師今”は第3代の儒理王から第18代の実聖(シルソング)王の時まで使われた。
“麻立干”は第19代の訥祗(ヌルジ)王から第22代の智證(ヂジュング)王まで使われ、その後からは王という称号が使われる様になった。国号もまた斯盧・斯羅・徐伐・徐那伐・徐耶伐・徐羅伐などが使われ、智證王以降から新羅が使われた。

建国の始祖は皆卵から生まれた?

王についての様々な名称は“指導者”“年長者”を意味するもので、これらは全て強力な指導者を示す言葉だ。この内、尼師今には次のような話が伝えられている。
南解次次雄が死に臨んで自身の息子と儒理と、婿である昔脱解を前に座らせて二人の内の年長者を王にすると決めた。ここで言う年長者とは単純に年の多さを指し、それだけ智恵があると考えたためと思われる。
儒理と昔脱解はどちらが王になるべきか議論し、昔脱解が「智恵がある者は歯が多いと言うが餅を噛んで歯形を数えればどちらが年長者かわかる筈だ」と言い、二人は餅を噛んでその歯の跡を数えた。その結果儒理が第3代の王となり、歯の跡を意味する(==尼師今)が王の称号となった。
元々新羅三韓と言われた馬韓辰韓弁韓の中の辰韓に属する小さな国だった。慶州を中心に同等の力を持つ6つの部族が合力して作った国が新羅である。6つの部族の関係は非常に協力的で平等であったために戦闘や争いごともなく平和であった。初めは朴氏の一族が政権を握り、その後より力をつけた昔氏一族へ、またその後は金氏一族へ政権が移って行った。
 
この事は王権が体系的に整っていなかったことを意味し、政権が移る度に熾烈な葛藤と対立があったであろうことが想像出来る。
また政権を取った一族は、政権の神聖さを強調し一族の優越性を誇示するために独特の誕生説話を次々に作っていった。
  
国や部族に関係なく伝えられている誕生説話を見ると、どの話も共通しているのは彼らが卵から生まれていることである。人が卵から生まれる事自体、普通の人とは違うということであり、即ちそれだけ常人より優れていると言うことを誇示しようとしたのであろう。

5.伽の建国

亀旨歌を歌え

紀元42年、韓半島の漢江以南地域では百済新羅が成長し、また多くの小国も発達していった。特に百済新羅の間にある洛東江の中・下流地域は広大な平野の中に幾つかの部族が一体となって集まっていた。これらの部族には国も王もなく9人の部族長がそれぞれの集団を指導していた。9人の部族長たちは9干と呼ばれ、自分たちの部族が大きくなり、隣国である百済新羅の勢力が強力になると、自分たちを統率してくれる指導者の出現を望むようになった。
 
そうしたある日、9干達が集まり指導者を探す方法について議論していると、何処からか聞き慣れない声が聞こえてきた。

「そこに誰かいないか?」
声が繰り返し聞こえると、9干達は声の方角である亀旨峰(グジボング)という山の頂上まで登って行った。

「そこに誰かいないか?」
また、声がした。
 
「はい、ここに私達がいます」
「ここは何処だ?」
「ここは亀旨と申す所です」
そう答えると天からまた声が聞こえて来た。
「天は私に、ここに国を建て王になれと命じられた。
お前達にもし王が必要ならば、亀旨峰の頂を掘りながら“亀よ、亀よ頭を出せ。出さなければ焼いて食うぞ“と歌って踊れ!そうすればお前たちは王を授かるだろう」
人々が天から聞こえた通りにしてみると、果たして紫色の綱が天から降りて来た。人々が綱の先を見るとそこには、赤い布に包まれた金色の箱が結ばれていた。人々は箱に恭しく礼をしてから箱を開けると、中には6個の卵が光を放っていた。
彼らはその箱を持ち帰り、9干の最年長者である阿刀干(アドガン)は心を尽くして卵の面倒をみた。すると12日目に卵の中から男の子が生まれ、その10日後には大人になった。
人々は一番初めに生まれた子を首露(スロ)と名付け、姓は金とした。その後、金首露は本伽(金官伽)の王となり、他の5人の子たちも各々伽の王となった。
 
紀元48年のある日、金首露王は臣下である留天干に海に出て見るように命じた。留天干が命じられたとおり海辺に出ると、西南の方角から赤い帆と旗を掛けた船が一隻近づいて来た。留天干がこの事を王に伝えると、王は9干達に迎えに行って中の者を宮へ連れて来るように命じた。船には果たして麗しい女人が乗っていたが、9干達が宮に連れて行こうとすると女人は「私はあなた達を知らないのに、どうして軽々しくついて行けましょうか?」とそれを拒んだので王は自ら女人を迎えに行く。すると女人はようやく船から降り、着ていた絹の上着を脱いで山神霊に一礼をし、それから王に従って宮殿に向かった。
この女人は阿踰陀(アユタ)国(インドの国の一つ)の王女で名前を許黄玉(ホファングオク)と言い、このしばらく後に金首露王と結婚した。許黄玉は金首露王との間に9人の息子を生むが、その内の一人には、許の姓を名乗らせるようにしたと言う。
以上が伽の建国説話であり〈三国遺事〉の駕洛国記に記された内容である。

華やかに咲き消えて行く

伽は加羅(伽羅、迦羅)・加洛(駕洛)・六伽などと呼ばれ、さらに六伽とは金官伽(クムグアン、現在の金海)、阿羅伽(アラ、現在の咸安)、古寧伽(コニョング、現在の咸昌)、大伽(現在の高霊)、星山伽(ソングサン、現在の星州)、小伽(現在の高城)を指す。
中国の漢の影響を受けた伽は、百済新羅の間で独特の文化に花を咲かせ日本と交易をしながら、韓半島の物産を日本に伝えた。また、金海地方は良質の鉄の産地で、多くの鉄が中国や日本へ輸出された。先に述べた建国説話から、当時の伽がインドとも往来があった事をうかがい知ることが出来る。
6つの伽の関係を見ると、先ず先に生まれた金官伽が最も強力な勢力を持って他の5つの伽の盟主国となった様だ。しかし、532年に金官伽が新羅に滅亡させられると伽の主導権は大伽が持つようになる。百済新羅に挟まれた伽は双方からの攻撃を受けたが、512年に百済の武寧王に娑陀、牟婁など4県を取られると、周辺国からひどい圧迫を受けるようになった。そして伽は532年の金官伽の滅亡以降は次第に衰退し、新羅に一つ、二つと併合されついに562年、完全に新羅に吸収されてしまう。

その後、新羅で名を建てた代表的な伽の遺民としては金信(キムユシン)と于勒(ウロク)が有名である。金信は金首露王の12代孫で伽が新羅に帰属した後に新羅で生まれ、後に新羅が三国を統一する際に金春秋(キムチュンジュ)とともに基盤作りをした功臣である。一方作曲家であり演奏家であった于勒は伽琴(カヤグム)を作り、彼の作った伽琴曲は新羅の宮廷曲となった。
 
伽は500余年の間存続したが中央集権国家としては発達しなかった為、独自の歴史書や記録が全く残されていない。三国遺事の駕洛国記編と魏志東夷伝の“狗耶韓国”部分に伽に関する内容が残るのみである。

6.高句麗の発展

名宰相・乙巴素
韓半島で成長する三国の中で最初に発展した高句麗(ゴグリョ)は開拓精神と勇猛さでその勢力を徐々に広げ、歳月を重ねると共に部族国家から集権国家へと変貌して行く。特に第6代・太祖(テジョ)王は7歳で即位し92年もの間王位に就いた人で、領土の拡張だけでなく政治体制の確立にも力を注ぎ、高句麗を中央集権国家の形態に発展させた。そのことから実際の国家としての高句麗の建国は太祖王の時であったと見るのが一般的である。

太祖王の後を継いだのは彼の弟である遂成(スソング)で第7代・次大王となった。次大王は太祖王とは違い、横暴な虐政を敷いたために庶民達は苦しみに怨嗟の声を上げた。自らの王権を守るためにはそれに従わない者を殺し、挙げ句の果てには、自分の甥である太祖王の息子までも殺してしまった。結局、次大王は明臨答夫(ミョングインタップ)によって殺されることとなり明臨答夫は次大王の弟である新大王を王位に就かせた。明臨答夫は173年に玄菟太守が侵入して来ると、自ら戦場に出て功を建て国が正しい道に進む様に力を注いだ。彼が113歳で死ぬと王は進んで弔葬し慟哭したと言う。

新大王が死ぬと大臣たちは、長男より英得な次男の男武(ナンム)を王に推戴する。これが第9代・故国川(ゴグックチョン)王である。
高句麗が徐々に強大になると中国では高句麗をけん制する目的で頻繁に侵略行為を行う様になり、184年には後漢の遼東太守が高句麗を攻撃した。すると故国川王は自ら戦場に出向き後漢の兵らを撃退した。
 
一方、朝廷では王の外戚たちが幅を利かせていた。故国川王は朝廷から外戚を追い払い優れた人材を求めた。すると多くの人が晏留というものを推薦したが、晏留は「小生は大きな政治をする人材ではありません。乙巴素(ウルパソ)なら出来る筈です。彼は性格が剛直なだけでなく果敢であり智恵深く、彼以外にふさわしい者はいません。」と言った。故国川王は在野に埋もれていた乙巴素を呼んで自分を助けるように頼んだ。
「私は身分卑しく御命をお受けすることが出来ません。もっと有能な人材を探されて最高の官職をお授け下さい。」と乙巴素もまた丁重に辞退するが、故国川王は最高の官職である国相の位を乙巴素に下した。
「王様!それはいけません。政治を全く知らないものに最高の官職をお与えになるとは?」
「そうです。あの様な卑しいものに国事を任されてはなりません。」
王の登用に大臣たちの反対が相次いだ。しかし、故国川王の心は確固不動のものであった。
「今後、乙巴素の指示に従わない者は、私の指示に従わなかったものと見なすのでそう思いなさい」との王の言葉に、大臣たちはそれ以上反対することが出来なくなってしまう。

国相となった乙巴素は賑貸法を作った。そして故国川王が賑貸法を実施すると、貴族たちは慌ててそれを批判した。当時、貴族たちは財産を増やす方法として貧しい農民達に高利で穀物を貸し付けていた。そしてそれを返せない農民たちは財産を取られるのは勿論のこと、その貴族の奴婢になることも日常茶飯事であった。
 これ以外にも故国川王は乙巴素とともに賢明な政治を施し太平聖代を謳歌した。故国川王が197年後継ぎを決めないまま他界すると、皇后の意思で故国川王の弟である延優(ヨンウ)が山上(サンサング)王となった。
すると、故国川王の別の弟である発岐(パルギ)が遼東に逃げた後に、公孫度に兵を借りて故国である高句麗を攻めたが失敗し自殺した。
 当時の高句麗の都には二つの城があり、王たちは平常時には国内城を使ったが、戦争が起ると国内城の西にある尉那厳城を使った。209年になると尉那厳城を丸都城と改称した上で増築して平常時に宮として使う様になった。
その後、山上王が亡くなると憂位居(ウウィゴ)が王と就き東川(トングチョン)王となった。

忠臣 密友と紐由
ある年東川王は臣下たちを引き連れて狩りに出かけ、そこで虎に出会ってしまう。すると、密友(ミルウ)が王の前に出て勇敢に虎と組み合ったが、当然虎との争いはあまりにも分が悪かった。虎がひと噛みで決着をつけるかの様に大きく口を開けた瞬間、何処からともなく矢が飛んで来て虎の心臓に突き刺さった。 
「虎が死んだぞ!」
見ていた人達がいっせいに歓声を上げた。
「誰が矢を射ったのか?」
東川王が問うと若い軍官が前に出てきた。この若い軍官こそが紐由であった。そしてこの日を機に密友と紐由は義兄弟となった。

彼らは魏の丘儉が高句麗を攻めて来ると東川王を護衛して戦争に参加した。ところが東川王が敵の計略にはまり丸都城は奪われ、追われる状況に陥ってしまう。密友は決死隊を組織して危機を脱しようとし、紐由はただ一人で敵陣に入り敵将に食糧を捧げ偽りの降伏をした。そして敵将が気を許した隙に短剣を取り出して刺し殺し、自身も自決した。
これを見た魏軍はそれ以上戦う意欲を失い、これを契機に高句麗軍の士気は上がり都を取り戻した。紆余曲折を経て敵の攻撃を防いだ東川王は宮に戻ると密友に一等功臣の賞を与え、紐由には九使者に封じた。

7.三国の仏教

近肖古王
高句麗から分かれて漢江を中心に根拠地を構えた百済(ペクチェ)は肥沃な土壌と、恵まれた地理的条件のもと日々成長して行った。
近肖古(クンチョゴ)王は肖古王とも言われ比流(ピユ)王の2番目の息子である。彼は369年頃、全羅道南海岸を本拠としていた馬韓(マハン)を攻撃し勝利を得る。更に、洛東江流域の支配権も伽(カヤ)から奪うことに成功する。371年、近肖古王は高句麗を攻撃し、王の息子である近仇首(クングス)が自ら兵を率いて高句麗の首都を攻め高句麗の王である故国原(コグックウォン)王を戦死させた。これにより百済の勢力は黄海道(ファンへド)地域にまで伸びることになり、百済の歴史上最も広い領土を持つこととなる。

313年楽浪郡の滅亡で西海の海上権は高句麗に移っていたが、この戦いで百済が勝利したことにより海上権は百済が掌握する事となる。
京畿(キョングギ)道・忠清(チュングチョング)道・全羅(チョルラ)道などと江原(カングウォング)道の一部、そして黄海(ファングへ)道の一部までを占め古代国家の礎を築いた近肖古王は、漢山(現在のソウル)首都を遷し中国の東晋に朝貢した。中国の南朝文化を取り入れた百済は、こんどは日本へ阿直岐(アジッキ)と王仁(ワングイン)を派遣し論語、千字文などの儒教経典と漢文を伝えた。彼らは日本の王や太子などの王族に直接講義をし、日本ではこの時から文字の使用が始まったとされる。この他にも近肖古王は最高の工芸品と言われた七支刀を日本の王へ下賜した。

領土の拡張以外にも国外の国々と積極的に外交活動を繰り広げた近肖古王は王権の権威を高め、さらに自身の業績を高めるため、博士・高興に百済の国史である書記を書かせた。
近肖古王は部族連盟の百済を古代国家の形態に作り変え、王権を強化し王位の継承を父子相続に変えた。375年に近肖古王が退くと彼の息子である近仇首が王位に上った。すると百済との戦闘に続いて敗れていた高句麗はここぞとばかりに再び百済を攻撃し水谷城を陥落させた。これを契機に百済高句麗は、攻守を繰り返す戦闘に入ることになる。そして391年、高句麗史上最高の征服君主である広開土(クァンケド)大王の即位で百済の勢力は急速に弱体する。檀君王儉(ワンゴム)が建てた古朝鮮の領土を取り戻すことを夢とした広開土大王は海外遠征に先立ち、392年百済を攻撃し10余個の城を征服した。

こうした中、仏教が韓半島に伝来する。高句麗には372年に、百済には384年に伝えられた。
百済は日本へ仏教を含め様々な文化・技術を伝え、日本では飛鳥文化が仏教を中心に形成されることとなる。

韓半島の仏教
紀元前500年ごろにインドで生まれた仏教はインド中部を中心に発展し、海外へも広く広まることとなった。韓半島にも中国を通して伝えられる。
最初に韓半島に仏教が伝えられたのは高句麗の小獣林(ソスリム)王の2年である372年であった。仏教は中国の前秦から僧・順道が仏像と仏経を持って来たのが始まりで、その2年後には東晋から僧・阿道が高句麗に入った。彼らは375年に王の承認を受け省門寺と伊仏蘭寺を建て本格的な布教が始められる。

小獣林王は仏教だけではなく儒教も受け入れ太学を建て、貴族の子弟たちに儒学を学ばせた。部族国家の部族長たちの役割の中で最も重要なことは民を代表して祭礼をとり行うことであった。古朝鮮の檀君や新羅の次次王は王を表す言葉であるが祭礼長と言う意味も持っていた。
国が発展して社会が複雑化していくと王が成すべき仕事は肥大化し、王は祭礼を上げることよりも、国力強化と民を治める統治力が求められる様になった。そこで、専門的に祭礼を担当する者が必要となり、王はどういう立場の者に任せるかを考えるようになる。

こうした状況を解決すべく小獣林王は果敢に仏教と儒教を受け入れる。儒教により新しい社会規範を、仏教によりそれまで人々が心の拠り所とした先祖神や自然神より一次元上の宗教を高句麗に取り入れたものだった。
高句麗の仏教は大いに発展し金剛砂・平壌九寺・磐龍寺などが建てられ、仏教の研究が発達し幾つかの宗派が誕生した。また、高句麗の曇徴・法定・雲聡・恵便法師などの僧侶達が日本に渡り仏教と文化を伝えた。
高句麗に仏教が伝わって12年後の384年、東晋から来たインドの僧・摩羅難陀により百済にも仏教が伝わり、修徳寺・漢山仏寺・王興寺・弥勒寺などの有名な寺院が建造された。

異次頓の殉教
後に三国を統一した新羅は三国の中では一番あとに仏教を受け入れる。遅れた理由は根深く信じられてきた加持祈祷の文化と貴族たちの反対の為であった。その新羅が仏教を受け入れる決定的な動機となるのは異次頓(イチャドン)の殉教である。
異次頓、姓は朴氏で一名を居次頓ともいい、葛文(カルムン)王と呼ばれた(新羅王室で直系による王位継承ができず、それ以前の王の兄弟などの系統から王位を継承した場合の王の生父・舅・外祖・女王の場合の配偶者などへの称号で朝鮮時代の大院君に似たもの)習実(スプシル)の息子である。

阿道が仏教をつたえるため新羅に入って来ると、多くの臣下たちはすぐに仏教に対し強い反発の色を示した。しかし異次頓だけは一人で賛成する。臣下たちはそんな異次頓を罰することを王に勧め、法興(ポブン)王は異次頓の首を刎ねさせることに決めた。
「私は仏法の為に死ぬのだから、本当に仏法に神がいるのなら、私が死んだあとに異変が起るだろう」との言葉を異次頓は死ぬ直前に残した。いざ異次頓の首が落とされると、なんとその血は乳白色に変わり噴き出した。これを見た多くの人は驚き、貴族・大臣は勿論のこと、朝廷のすべての人が仏教を認め新羅の国教となった。
法興王は栢栗寺を建て、石憧を作るがこれは異次頓を称える為のものであった。
異次頓の殉教については幾つかの伝説があるが、彼が死ぬ時首が飛んで落ちたところが慶州の北側の金剛山で、817年恵隆と言う僧がそこに墓を造り、碑を建てたと言う。また、異次頓の死は寺を建てる為であったとの説が次のように残されている。
法興王の時代、新羅百済高句麗の影響で仏教が伝来し多くの人が仏教を信じるようになった。これを見て法興王は寺を建て公式的に仏教を受け入れようとした。しかし、多くの大臣・貴族が反対したことで王は悩みを抱えることとなる。この時、若さと覇気を持つ異次頓が出て来て寺の建築担当となる。若い異次頓が担当する事を知り貴族たちの反発はさらに強まり、法興王は異次頓を犠牲にすることで決着をつけたのだった。
難しい事情を乗り越え新羅に入った仏教であったが、新羅が三国を統一した後、百済高句麗の遺民達と融和を図る際に大きな役割を果たすこととなる。

8.高句麗 二人の王

広開土大王
紀元前37年に朱蒙(ジュモン)が高句麗を建国して以来ずっと高句麗は広い領土を保っていたが、百済の近肖古(クンチョゴ)王が強力な軍事力で攻撃して来ると防戦に終始する。371年には百済の攻撃で黄海道地方を奪われ、この時の戦闘で高句麗の故国原(ゴグックウォン)王は戦死する。
それから4年後に生まれた談徳(タンドック=公開土王)は幼い時から祖父の死に対し復讐を誓っていたという。彼は生まれついての勇猛さと智恵深さで庶民たちの大きな期待を受けて育ち、391年に王位に就く。広開土(クァンケド)王と呼ばれるのは彼の死後に長寿(チャンス)王が碑石に「国岡上公開土境平安好太王」と刻んだ為だ。これは、国の領土を広げ庶民を平安にしたと言う意味である。

広開土王は常日頃から臣下たちと国事を論じる度に「我々は檀君の子孫だ。だから我々は檀君の時代・古朝鮮の昔の領土を取り戻し、我が民族の優秀性を世の中に知らせなければならない」と言った。
広開土王は、まず祖父の復讐をするとともに今後再び高句麗を攻撃して来ることのない様にとの思いで百済を攻撃した。広開土王百済を攻撃するもう一つの理由は、(古朝鮮の領土回復の為)中国を攻める前に韓半島での高句麗の地位を確立しておく目的があった。

当時の中国は晋が滅亡し五胡(匈奴、、羯、羌、鮮卑)の五民族が建てた16の国々が次々に代わる代わる生まれ、政治は安定せず世上は不安を極めていた。
 これを好機と考えた広開土王百済の10余城を奪った後、軍馬を中国に向け契丹の一部族を平定し数百の村を占領した。
その間に百済高句麗に奪われた漢江以北の地を取り戻そうと、改めて高句麗への攻撃を始めた。百済が引き続き攻撃して来ると知ると、広開土王は396年、大々的な攻撃を敢行して漢江以南の58個城と700余個の村を占領し、当時の百済の首都である漢城に攻め込んだ。

百済の阿(アシン)王は、慌てて直接広開土王の前に出て膝を屈し「我が百済は今後永遠に高句麗の奴客になります」として、男女1千人と細布千反を送った。男女1千人の中には王の弟や大臣10人が含まれていた。
広開土王百済がこれ以上高句麗に攻撃して来ないことを確認した上で、奪った漢江以南の領土を戻してやり漢江以北のみを高句麗の領土とした。これにより臨津江(イムジンガング)以北は完全に高句麗が掌握した事となった。広開土王の野望はここで留まらず、すかさず中国の北魏を攻めその地に46万の高句麗人を移住させた。

こうした高句麗の動きを警戒したのが中国の後燕であった。後燕は、高句麗が引き続き勢力を伸ばすことに不安を覚え、広開土王新羅を攻撃する隙に高句麗を攻撃してきた。すると広開土王は、すかさず遼河を越えて後燕に攻め入り宿軍城を陥落させた。これにより高句麗の領土は、南は漢江、東は沿海州、北は黒竜江、西は内モンゴルと中国東国地方を横に見るところまでに広がり、朝鮮民族史上最も広い領土を支配することとなった。高句麗最大の征服君主である広開土王は、古朝鮮の領土を取り戻したが39歳の若さで急逝してしまう。

《5世紀の高句麗の領土》

長寿王
広開土王の後を継いだ長男の巨連(コヨン)は、高句麗の第20代・長寿(チャンス)王となり、この時再び高句麗は成長期を迎える。
長寿王は472年に首都を国内城から平壌城に移し、強力な南化政策を始める。彼は道林(ドリム)と言う僧を百済に送り揺さぶりをかける。道林は百済の蓋鹵(ケロ)王に会うと「私は高句麗から来ました道林と申します。長寿王とは碁を共にする間柄でしたが、いつも勝ち続けましたところ私を殺そうするので逃げてきました。」と述べる。
話を聞いた蓋鹵王は道林を自分のそばに置き、毎日の様に共に碁を打つ様になった。そして次第に二人は親しくなり、碁を打ちながら様々な話をするようになる。そんなある日道林が「百済は国の成り立ちに比べ宮殿や城、堤防などが粗末です。」と言うと、それを真に受けた蓋鹵王は無理な工事を命じるが、それにより国力が弱体してしまうのだった。
道林が高句麗に戻りこの事を長寿王に告げると、長寿王は軍を率いて百済の首都である漢城(現在のソウル)を陥落し蓋鹵王を殺した。そしてそればかりか新羅も攻撃し高句麗の領土を最大限に広げた。
 
国の内外を整備した長寿王は先王である広開土王の業績を称えようと碑石を建てた。
この碑は1882年になって発見されるが、これを発見した日本人が一部の文字を削り取り内容を歪曲してしまった。この歪曲された部分は4世紀末から5世紀にかけての倭軍との戦闘で何度か破れたとする部分である。

倭以辛卯年来渡海破百残○○○羅以為臣民

これを削り取ることで日本人は「日本が辛卯年(391年)に海を越えて来て百済新羅を破り臣民とした」と解釈したが、19世紀末から20世紀前半にかけての日本の侵略を正当化する為の文化遺産への破壊行為であった。

広開土王碑》
広開土王の業績を称える為に長寿王が414年に建てた碑石で、当時の高句麗の国勢を物語るように巨大な規模を誇っている。満州(現在の地中国吉林省)輯安県通溝にあり、高さ6.39mの自然石に1700余字の碑文が刻まれている。4面に文字を刻むのは高句麗の独特の様式で、勇壮な文字からは当時の高句麗の文化水準の高さを示している。

□碑文改竄説

 この記述に関しては、1884年に大日本帝国陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰って解読した、いわゆる酒匂本を研究対象にした在日朝鮮人の歴史学者李進熙や、北朝鮮の学者から、日本軍による改竄・捏造説が唱えられたことがある。

 その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は

百残新羅舊是属民由来朝貢而後以辛卯年不貢因破百残倭寇新羅以為臣民。

 百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。

 という表記であって、「破百済」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗百済新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。

 しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、日本の『日本書紀』、朝鮮の『三国史記』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。

 これに対して、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽六年以降の広開土王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された[4]。

 2005年6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一である旨の新聞報道がなされた。

 さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。

 これにより、旧日本陸軍による改竄・捏造説が成立しないことが確定した。

■まとめ、感想など

 この改竄説は、韓国系および朝鮮系の学者の学者たる資質を疑わせしめよう。

 倭国に過去、征服されていたという事実を認めたくないといういわば恣意的に歴史をミスリードさせようとしたものであろう。

 改竄したとされる酒匂氏こそ、迷惑極まりない。

 学問とは、事実のみの上に立脚するものである。

9.発展する新羅

高句麗広開土王の後を継いだ長寿王は強力な南下政策を取り、危機に陥った百済新羅は共に手を組むこととなる。百済の有(ビユ)王は、高句麗の激しい攻撃を受けると新羅の訥祗(ヌルジ)麻立干(マリップガン)に対し連盟を提案した。訥祗王は高句麗の力を借りて王になった立場ではあったが、高句麗の影響を受けずに自分の思いのままの国作りをしたいと思い同盟に同意し、433年に攻守同盟(羅済同盟)を結んだ。この同盟は、493年に百済の東城(トングソング)王と知(ソジ)麻立干とで交わされる婚姻同盟に発展し、同盟により高句麗に対抗し奪われた領土回復に邁進した。羅済同盟は120年の間続いたが新羅の真興(チヌン)王が553年に百済の領土であった漢江流域を奪ったことで決裂した。

百済で有王の後を継いだ蓋鹵(ケロ)王は高句麗の長寿王の送った僧・道林の策略により、領土の一部と首都である漢城(ハンソング=現在のソウル)さえも奪われ自身も落命した。それでも羅済同盟により新羅が救援に入り、高句麗は兵を引いたのだった。百済新羅が力を合わせて高句麗に対抗すると、長寿王は481年に靺鞨と連合して新羅を攻撃した。高句麗新羅の7個城を奪うと新羅は、百済と伽の助けを受け高句麗に対抗した。

知(ソジ)麻立干の時代からそれまでにない成長を始める新羅は、智證(チジュング)麻立干が即位した以降は更に発展する。智證王はまず殉葬法を廃止し、斯盧(サロ)、斯羅(サラ)などと呼ばれていた国号を新羅(シンラ)と改正し王の称号を使用する様になった。智證王は初めて牛耕法を実施するなど農業技術を向上させ、新羅は政治的にも経済的にも安定期に入っていく。
 
新羅の復興期-法興王と真興王

514年智證王が亡くなり後を継ぎ即位した法興(ポブング)王は、亡くなった先王に対し智證という諡号(しごう)を贈った。また、法興王は中国の梁に使臣を送って国交を結び、律令を頒布し、初めて百官の公服を制定した。
 一方、金官伽(クムグァンカヤ)の王は自身の勢力を堅固にするために522年に法興王に婚姻同盟を求めてきた。これに答えて法興王は新羅の高官・比助夫(ビジョブ)の妹を金官伽の王に嫁がせた。2年後法興王は自ら新羅南方の辺境を巡視し土地の開拓を推進し新羅の国力強化に努めた。

更に527年、異次頓(イチャドン)の殉教で仏教を承認し国教と定め、532年には金官伽の国王である金九亥(キムグヘ)が降伏してくると金官郡を置いた。金官伽が新羅に降伏したことで伽六国の主導権は大伽に移る。
国が安定すると法興王は534年に大興寺と永興寺を建て、535年には仏国寺を建てた。その翌年法興王は新羅で初めて年号を制定し、年号は建元とした。

法興王の後を継いだ真興(チヌン)王は仏教をさらに奨励し興輪寺、大原寺などを創建し、549年には中国・梁から韓半島に最初に仏舎利を持ち込んだ。これを機に新羅の仏教は大きく花を咲かせることとなるが真興王は551年に年号を開国と改めると、その年に高句麗を攻撃し10余個の城を奪った。また、戦争で死んだ軍人の為に百座講会(ペクジャカングへ)と八関会(パルグァンヘ)を開催した。

高句麗との戦闘に勝利した真興王は更に領土拡大の手を伸ばした。120年間同盟関係を保っていた百済との関係を清算し、553年に百済の領土であった漢江流域に奇襲攻撃をかけたのである。当然百済の聖王はこれに対抗すべく新羅を攻撃したが、すでに情勢は新羅に傾いていた。聖王は戦死、百済の国力は極度に弱体していく。これにより新羅は名実ともに漢江の主人となった。562年異斯夫(イサブ)の功で大伽を没落させた新羅は、高句麗の力が弱まるすきを突いて咸境道地方にまで影響力を示すようになる。

三国統一の一等功臣・花朗

この様に新羅が全盛期を迎えることが出来たのは真興王の優れた指導力と花朗(ファラング)たちの功労が大きかった。花朗とは新羅の青少年の武装集団である。真興王以降に組織強化され、後に新羅が三国統一をする際に大いに活躍する。
〈三国史記〉を見ると「真興王 37年(576年)に南毛(ナムモ)と俊貞(ジュンジョング)という美しい二人の女子を選び源花と呼び300余名の花朗を率いることとさせた」と記録されている。しかし、562年新羅が大伽を滅亡させた時の記録を見ると、「花朗・斯多含(サダハム)が功を建てたので王が褒美を与えようとした。しかしそれを受けずにかねてより死友を誓っていた友の後を追って死んでしまった」という文章が確認できる。このことから花朗そのものの存在は、実際にはこのかなり以前より在ったであろうことが推測される。

新羅で民間狩猟団体から始まった花朗は貴山(キィサン)と箒項(チュハング)が真平(ジンピョング)王の時代に圓光(ウォングァング)法師という僧から世俗五戒(事君以忠、事親以考、交友以信、臨戦無退、殺生有択)を受けるが、この世俗五戒が花朗道の根本精神となった。
世俗五戒を根本に生きた花朗たちは新羅躍進の重要な役割を果たす。この時代、金庚信(キムユシン)など忠臣、賢士、勇壮と呼ばれた者の多くは花朗出身であった。死を恐れず、戦死することを自身の栄光と考えた花朗達がいたからこそ、新羅が三国統一を成し遂げることが出来たのである。

10.高句麗と中国の戦争

12.高句麗の戦争
 
高句麗と隋の16年戦争

中国と国境を接する高句麗は建国当初より中国と戦争・和睦を繰り返しながら成長していった。6世紀末まで中国では幾つかの国が競い合っていたが次第に隋が勢力を伸ばす様になり周辺国を次々に征服していった。そして589年には陳を滅亡させ中国全土を統一する。
隋の台頭を知った韓半島の国々は次々に隋へ使臣を送り友好関係の構築を図りながらも国防の整備に努めた。中国を統一した隋が韓半島の政治に干渉を始めると、高句麗は598年に遼西地方を先制攻撃した。ここから高句麗と隋の16年に渡る戦争が始まる。

いつ来るかわからない隋の攻撃に備えていた高句麗は、靺鞨の兵士を動員して隋を攻撃し戦いに有利な地域を奪った。すると今度は隋の文帝が30万の大軍をもって高句麗を攻撃する。しかし天候は高句麗に味方する。隋軍は梅雨による雨と伝染病により韓半島へ入ることさえできないまま多くの負傷者と病人を抱え、やむを得ず帰国する羽目になった。その後隋の人々は高句麗と聞いただけで首をすくめ恐れるようになったと言う。
 隋がしばらく高句麗を攻撃しないと見るや、百済は隋へ使臣を送り引き続き高句麗を攻める様に要請した。すると、このことを知った高句麗が先に百済を攻め2城を奪い3000人の捕虜も奪った。

新羅もまた百済と同じように、隋に盛んに使臣を送った。その内容もまた百済と同様に高句麗を攻撃してほしいというものだった。

薩水大捷(612年)

隋で文帝の後を継いだ煬帝は612年1月に宇文述、宇仲文、来護兒などを将軍とし100万を超える大軍で高句麗を攻撃した。
まず、隋軍は遼東城を包囲したが3ヶ月が過ぎても高句麗は堅く城を守り抜き、隋軍は仕方なく新たな作戦を模索する。そこで軍を二つに分け、一つは来護兒が率いて大同江に集まり、もう一つは宇文述と宇仲文が率いて鴨緑江流域に陣を取ることにした。
 高句麗軍を率いた乙支文徳(ウルチムンドク)は宇仲文の軍と対峙していたが、偽りの降伏をして自ら直接敵の陣営に入り敵の情勢を探った。隋軍は高句麗と対峙する期間が長くなるに連れ戦意を喪失するようになる。宇仲文は直接自身の陣営に入って来た乙支文徳を捕虜にしようとしたが、劉士龍たちが反対し乙支文徳は無事に自陣に戻ることとなった。

隋軍の士気が上がっていないことを知った乙支文徳は更に隋軍の軍事力を消耗させるために敗走を装い、敵を平壌城の外30里まで誘い出した。その上で宇仲文に次のような詩を送り彼を愚弄した。

 神策究天文  神妙なあなたの作戦をどの様に形容しようか
 妙算窮地理  妙略の天分が地理に至らせたか
 戦勝功既高  戦うたびに勝ち、戦功はすでに高いのに
 知足願云止  不足のあることを知り戦の終わることを望め

乙支文徳がわざと敗走したことを後から知った宇仲文は慌てて後退したが既に高句麗軍は重武装をして隋軍を待ち受けていた。多くの死傷者を出して後退を続ける隋軍が、薩水(現在の平安堂清川江)を中程まで渡った時を見計らって乙支文徳の高句麗軍は総攻撃を掛け、これを受けた隋軍は全滅同然となり30万の大軍の中で生きて逃げ延びた人はわずか2700余人に過ぎなかった。また、大同江に進撃した来護兒の軍も高句麗軍に大敗を喫し敗走した。

隋から唐へ

隋の煬帝は雪辱戦を期して様々な新兵器を開発し翌年613年に直接高句麗を攻撃する。しかしそんな折に隋で内乱が起こり、またも高句麗からの撤退をやむ無くされるのだった。諦めきれない煬帝は更にその翌年再び高句麗を攻撃するが、この時高句麗は長い間戦争が続いたことで国力が弱まっていたこともあり、隋の攻撃を避けるために偽りの降伏を約束し隋軍は撤退した。しかし、高句麗は隋軍が撤退すると約束を履行しなかった。

4度にわたり敢行された高句麗との戦争で多くの死傷者を出した隋では、国内の各所で農民蜂起が起きるなど内乱が続出した。すると、618年に李淵(唐の高祖)が煬帝を殺し自らが王となり国号を唐とした。唐の高祖は高句麗と友好関係を結び両国の間にはようやく平和が訪れたと思われた。しかし、平和の時間はそれ程長く続かない。高祖の後を継いだ太宗は、隋の借りを返すとの名目で新羅と友好関係を結び高句麗に強硬姿勢を取るようになった。太宗は高句麗政策に並行して中国の唐に従わない国々を征服し政治の安定に努めた。

中国の動きに敏感に対応せざるを得ない高句麗は唐に対抗する為に630年から扶余城から渤海にかけて千里長城の築造を始めた。千里長城はこの後16年の歳月をかけて完成する。こうした中、高句麗の内部でも様々な変化が起きるがその中で最も大きな事件は淵蓋蘇文が実権を持つ様になったことである。〈三国史記〉には淵蓋蘇文を泉蓋蘇文としているが、これは姓である淵が唐の太祖(李淵)の名と同じであることをはばかって、(淵と)意味が似ている泉を姓として記録したものだと言われている。

淵蓋蘇文は早くに父の後を継いで高い官職に就くこととなったが性格は傲慢で傍若無人、営留(ヨンニュ)王が臣下たちと謀って自身を殺そうとするのを知ると、642年何と自分が王と臣下たちを殺して宝蔵(ポジャング)王を王位に突けた。そして自身は最高の官位である大莫璃支(テェマクリジ)となり高句麗を思うままに動かした。淵蓋蘇文は唐に強硬政策を取り、唐と手を結んでいる新羅を攻撃する。すると唐の太宗は644年11月、李世勣に6万の陸軍と張亮に4万3千の水軍を与え高句麗を攻撃させた。更に数ヵ月後には王の大権を太子に預けて直接高句麗遠征の途に就いたのである。

これに高句麗の各城は城門を固く閉ざし唐の攻撃をしのいだ。結局唐軍は大きな犠牲を払いながら僅かに幾つかの城を陥落させただけであった。645年6月、唐軍は安市城(アンシソング)を包囲し攻撃に拍車をかけた。すると高句麗の高延寿(コヨンス)と高慧真(コヘジン)は15万の大軍を率いて安市城の救援に向かったが唐軍の計略に落ち、多くの死傷者を出して降伏する。

安市城の攻防

太宗は高句麗の二将が降伏すると意気軒昂に安市城に総攻撃をかけるが城内の結束は変わらず固くその攻撃に耐えた。この時、唐に降伏した高延寿が安市城はそのままにして他の所から攻撃をしてはと助言する。しかし、唐の武将の長孫無忌が安市城をそのままにすれば後方が危険だと主張し引き続き安市城を攻撃した。

安市城を落とすことなど到底出来まいと判断した唐軍はふた月をかけて土を盛り、安市城より高い場所を確保するが、これも高句麗に奪われてしまう。高句麗と唐の戦闘は熾烈を極めるが、益々上がる一方の高句麗軍の士気に唐の太宗もどうする事も出来なかった。いつの間にか季節は秋になり寒くなり始めると唐軍は食料も不足がちとなり、唐の太宗はやむなく撤退を命じるのだった。

11.百済滅亡

滅亡の足音

羅済同盟により百済新羅は互いに力を合わせ、ある時は共に国防にあたり、またこの時期になると国力が弱まった高句麗を活発に攻撃するなどした。ところが百済が漢江流域の領土を確保すると、新羅の真興(チヌング)王は120年もの間続いた同盟を破って百済を攻撃し漢江流域を占領した。これに対して百済の聖(ソング)王は554年、軍を整備して新羅を攻撃したが既に大勢は新羅に傾いており、管山城(現在の忠清北道玉川)で大敗を喫し自身も戦死してしまう。

これにより百済は危機に陥り、これを見た高句麗百済の熊川城を攻撃する。しかし、この攻撃は聖王の後を継いだ威徳(ウィドク)王が無事に防ぎきった。威徳王は聖王の戦死を雪辱と勢力の回復を図るため新羅を度々攻撃した。また、中国と積極的に外交交渉を行い中国の多くの国々に使臣を送った。

威徳王が亡くなったその後は、恵(へ)王と法(ボッブ)王が即位するが、際立った業績もないまま2年で次々とこの世を去り武(ム)王が王位に上がった。

武王は新羅をしきりに攻撃しながら同時に隋に朝貢し、高句麗を討伐する様にしきりに出陣を要請した。しかし隋はこの時百済の要請には応ぜず、代わりに韓半島の三国が争わないように命じた。618年に隋が唐に変わると百済を先頭に韓半島の三国は互いに使臣を送り、624年唐の高祖は武王を“帯方郡百済王”に封じた。武王は軍を整備し新羅に奪われた領土を取り戻そうとしたが唐の中止命令により果たすことが出来なかった。

この様に武王は国の勢力を回復させるために中国(隋・唐)に対し懸命な外交努力を行った。また、新羅の攻撃に備え高句麗と同盟を結んだりもした。しかし、晩年は奢侈と享楽に溺れ百済滅亡の原因となった。

悲運の義慈王

641年武王が亡くなり義慈(ウィジャ)王が即位した。義慈王は英邁で父母に対しても孝道を尽くし、兄弟に対する思いやりも深く、多くの人々から海東曾子と呼ばれた。
義慈王は王位に就いた翌年には新羅を攻め40余城を陥落させ、その後、当項城・大耶城・腰車城などを攻撃し新羅を苦境に陥らせるなど国威の発揚に力を注いだ。

連勝を続けた義慈王は次第に傲慢になり贅沢を好み享楽にふける様になって行く。朝廷では王の周辺は忠臣よりも奸臣たちにより固められただけでなく、忠臣が真心をこめて王に諫言を呈してもかえって王の恨みを買い多くの忠臣が朝廷を去って行った。
佐平の役職にいた成忠(ソングチュング)は泣きながら義慈王を諌めようとした。

「王様!今は国がどうなるかわからないとても厳しい状況にあるのに、その国の王が酒池肉林に溺れているのは正しいことではありません。今庶民は飢えに耐え粗末な服を着、その不満の声は天を突く勢いです。どうか国と庶民の為に何をすべきかお考え下さい。」
「何!何だと?お前が私にああしろこうしろと命令するのか?」
「王様に指図をしようと言うのではありません。早くから海東曾子と称賛された王様が、国がどうなっても構わないという態度でいられるのは痛恨の極みです。どうか国のことをお考えください。」
「ええい、お前の顔なぞ見たくもない。下がれ!」
成忠が下がると奸臣たちや後宮の女官たちは、先を争ってつぎつぎに成忠の陰口を言い始めた。

「王様、成忠の話は事実ではありません。御心配には及びません。」
「成忠はうそを言って王様のお心を傷つけました。彼に罰を与えねばなりません。」
奸臣たちや後宮の女官たちは様々な言葉で成忠を非難し、また王は彼らの言葉を鵜呑みにして成忠を投獄してしまった。成忠は断食をしながらもいつ来るかもしれない他国からの攻撃に備える方法を血書に残して死んでしまう。

『…万一他国が攻めて来たら水軍は伎伐浦(ギバルポ=錦江の入口)の丘を越えさせてはならず、陸路軍は炭(タンヒョン=忠清南道、錦山と完州の境界の丘)を越えさせてはならない。』

しかし、成忠の遺書は途中で奸臣たちの手により義慈王へ伝えられることはなかった。
その間に新羅では真徳(チンドク)女王が亡くなり、新羅で最初の真骨出身(新羅の身分制度は骨品制度と言い、真骨は聖骨に次ぐ身分ではあるが、それ以前の王はすべて聖骨出身であった)である金春秋(キムチュンジュ)が大臣たちの推薦で太宗武烈(テジョングムヨル)王となった。そして、金春秋が実際に唐へ行って積み上げた中国との外交成果が実を結び始める。

この様な周辺の状況も知らないまま義慈王は更に放蕩生活に溺れて行く。百済の状況を把握した新羅の太宗武烈王は唐に援兵を請い660年羅唐連合軍が形成され百済攻撃を始める。

百済最後の将軍-階伯

羅唐連合軍が堰を切ったように押し寄せてくると、ようやく自らの過ちに気がついた義慈王はそこで初めて今までの自分の愚かを悔やみ、兵を備え敵の攻撃に対抗しようとしたが、既に綱紀が緩んでいる上に18万の羅唐連合の攻撃を前にして充分な対抗が出来る状況でなかった。

唐の蘇定方が率いた13万の大軍は既に伎伐浦に到着し、金庚信(キムユシン)が直接率いた5万の新羅軍も炭を過ぎ山伐(ファンサンボル)に陣を構えた。百済の最後の名将である階伯(ケェベク)は黄山伐の戦いを前に家族たちと会い合意の上で家族を殺して戦に臨んだ。
5万の新羅軍を前にして階伯の旗下には僅か5000の兵が全てであった。しかし彼らは死を覚悟して新羅軍に対抗したため反対に新羅の士気は徐々に落ち始める。
この時、新羅軍にいた若い兵士で花朗の官昌(クァンチャング)が2度にわたり一人で百済軍の陣営に突進し結局命を落とした。これをきっかけに新羅軍の士気が再び上がり、百済軍は全員が戦死する。

一方、義慈王は熊津城に避難したが泗城が陥落したことを知り降伏した。これにより百済は31代678年の歴史に幕を下ろす。
唐は義慈王を始め、太子や大臣たち、更に多くの百済人たちを唐へ連れて行った。また、熊津に都督府をおいて百済の地を支配した。
この時百済の遺民の中には新たの地を求めて日本に渡るものや、百済の再興を目指すもの少なくなかった。しかし、再興運動は内部の分裂などにより大きな成果を得ることなく終わった。

12.新羅による三国統一

Ⅲ.統一新羅時代

《慶州 仏国寺》

高句麗の滅亡(668年)

中国の隋とその後の唐による繰り返しの攻撃に疲弊した高句麗であったが、すぐに今度は羅唐連合の攻撃に悩まされることとなる。高句麗を征服しようと何度も攻撃を繰り返しながらその都度失敗を繰り返した唐が、百済との戦いで勝利したその翌年の661年に高句麗への攻撃を始めるが、この時は高句麗の頑強な抗戦に羅唐連合軍は敗退する。

しかし、戦闘に勝利した高句麗の内部では徐々に亀裂が生じ始めていた。60余年に渡った隋との戦争で国民の生活は疲弊しきり、同盟関係にあった百済が羅唐連合軍により滅亡したのを目の当たりにして高句麗支配層の間で羅唐への対応についての意見の分かれる様になったのである。特に国土防衛の総帥であった淵蓋蘇文が666年に死ぬと、その息子である男生(ナムセング)・男建(ナムゴン)・男産(ナムサン)らが莫璃支(マクリジ)の地位を争い、高句麗は取り返しのつかない深みに陥っていく。

男生は弟たちに追い出され唐の太宗に降伏してしまい、淵蓋蘇文の弟の淵浄土も甥たちに追われ新羅に降伏する。
高句麗が内紛に陥ってふら付いている時、軍を再整備した羅唐連合軍は667年高句麗を攻撃した。唐は李世勣を総司令官にして50万の大軍を水陸両面から送り、新羅からは王弟である金仁問(キムインムン)が27万の大軍を持って北進した。
南北から巨大な大軍が押し寄せると高句麗はひと月で降伏し、28代705年の歴史に幕を閉じる。

半分の成功

唐の李世勣は宝蔵(ポジャング)王を始めとして高句麗の遺民20万を率いて唐に戻り、唐は平壌に安東都護府を設置した。これにより三国は統一されるが完全な統一とは言い難かった。それは新羅を助けた唐が韓半島の征服の野心を持っていたためだ。

いまや新羅にとっては唐をどの様にこの韓半島から追い出すかが一番の課題となった。前に述べた様に唐は、百済に熊津都督府を設置し百済に対する支配権を行使したが、新羅の文武(ムンム)王は再興の動きを見せる百済を唐の支援を受け攻撃する。671年新羅扶余を占領して旧百済の地の支配権を確立した後、高句麗の王族である安勝(アンスング=報徳王)を高句麗の王に封じ唐をけん制した。

新羅が強硬な姿勢がはっきりすると唐は本格的に新羅への攻撃を始め、9年間にわたり韓半島の支配権をかけた戦争となった。その結果新羅は韓半島から唐の勢力を完全に取り除くことに成功したが大同江以北の地域は唐の領土となってしまった。
完全な三国統一を果たした文武王は百済高句麗の遺民たちを激励し、新羅に馴染ませる為に唐との戦争で功をあげたものに褒賞を与え、支配階層にいた者には新羅の官職を与えた。

その上で、文武王が最初に行ったことは王権を強化する為の改革政治の断行であった。重要な官職の大部分を占めていた真骨(チンゴル)たちの勢力を弱め法典を改正した後、行政官庁の官僚を6頭品以下のものを充てることとした。すると太子妃(文武王の長男・神文王の妃)の父・金欽突(キムフムドル)を中心に王の改革政治に反発する様になった。

681年文武王が亡くなり神文(シンムン)王が即位すると金欽突は政権の交代期を利用して反乱を図るが途中でその事実が漏れ、神文王は金欽突らを処刑し妃を廃位した。
神文王は更に王権を強化するため全国を九州五小京に分け、軍隊も中央軍(九師団)と十地方軍に分けて管理した。この後、韓半島は長い間戦争のない太平聖代を送ることとなる。

15.高句麗は生きている

大祚栄-渤海建国(699年)

高句麗が滅亡した後、高句麗の多くの遺民たちは唐へ強制的に連れて行かれたが、旧高句麗の地に残された人々は羅唐戦争の結果により大同江以北に住んでいた人々は唐の民として暮さなければならなかった。
そうした696年遼東地方の朝陽で契丹人・李盡忠が反乱を起こすと、唐の実権を持っていた則天武后は30万の軍を動員して1年をかけて乱を鎮圧した。当時のこの地方には契丹人以外にも靺鞨人と高句麗人が多く住んでいた。

反乱が起こると高句麗人・大乞乞仲象(デェゴルゴルチュングサング)と靺鞨人・乞四比羽は人々を率いて朝陽を脱出した。しかし、大乞乞仲象が途中で病死し、則天武后が送った李楷固によって乞四比羽と多くの者たちが戦死すると、残った者たちの中では新たな指導者の登場が求められた。新たに指導者となったのは大乞乞仲象の息子の大祚栄(デェジョヨング)であった。
大祚栄は唐軍に対抗して懸命に闘い、ついに唐を退けると李楷固は命からがら退却した。

その後、大祚栄は698年東牟山(吉林省)に本拠を置いて国を起こし国号を震として自身は震国王となった。震国渤海と改称するのは、唐の玄宗が713年に大祚栄に渤海郡王の爵名を下したことからだ。この時、大祚栄は渤海高王と名乗った。
 大祚栄が渤海を建国した目的は他でもなく高句麗の再興であったことが、渤海が日本へ送った国書から確認できる。
また、その意志は後継者にも受け継がれ大祚栄の後を継いだ武(ム)王と文(ムン)王は日本へ使臣を送った際に自らを高句麗王と名乗っている。

忘れられた歴史

14代228年続いた渤海は長い間我が国の歴史の記憶から忘れられていた。その理由は渤海新羅と何ら関係を持とうとしなかったためだ。しかし、後世の多くの学者たちの研究と中国や日本の文献から渤海の歴史もまた我が国の歴史であることが明らかになった。
渤海新羅と関係を持たなかったのは新羅に対する警戒からだ。唐とは建国して間もなく交易を始め官制や国都の建設などはそのまま模倣するなど唐の文化を積極的に取り入れた。しかし、新羅とは引き続き何ら関係を持つことはなかった。

第10代・宣(ソン)王が即位した時期(818年~830年)の渤海は国力が充実し〈唐書〉には渤海を海東の盛国と記されている。宣王は多くの部族を討伐し国土を開拓して全国を5京・15府・62州に改編するなど多くの業績を残した。
907年に唐が滅亡すると中国は一時的な混乱期に陥る。その隙に乗じて耶律阿保機が契丹の諸部族を統合して916年に契丹(遼)を興した。契丹は建国直後から渤海を攻撃し926年渤海の首都を包囲した。

渤海は急変する国際情勢に何ら対処せず朝廷では相変わらず権力闘争に明け暮れ、契丹の攻撃に対抗する事もなく僅か3日で降伏し228年の国の歴史に幕を閉じる。
渤海の滅亡により我が国の国境は豆満江と鴨緑江を越えることがなくなり、渤海の領土であった旧満州地方は永遠に我が国の歴史から消えてしまい、渤海史は歴史の中でも一時期忘れられていた。そして、朝鮮後期に柳得恭(ユドゥッコン)が渤海考という歴史書を著し、改めて我が国の歴史に登場する様になった。

現在、渤海に関する研究は活発に行われており、中国と共に渤海の遺跡発掘調査も進められている。渤海に関する遺跡は中国東北部各地で発掘されており、特に中国の吉林省は渤海の5京の一つである上京龍天府であった為に多くの渤海遺跡が発見されている。

13.張保皐と崔致遠

揺れる新羅

太平聖代はいつの間にか幕を下ろし新羅は徐々に慌ただしくなっていく。貴族たちは権力を求めて王位争奪戦に明け暮れ、王は王権を強化する目的で寺院や塔、仏像などを盛んに作り王権の誇示に躍起になる。
こうした建築に使用された資材や資金には庶民たちの募金が当てられる。国から次々と募金や税金を取り立てられた庶民の生活は当然大変厳しくなり、全国各地で不満の声が上がる様になる。
その上、飢饉が起こり生活の厳しさから盗みを働く者が出たり、国を捨て唐や日本へ移って行く者も少なくなかった。
そうしたことから統一新羅以降に建てられた塔や鐘、仏像などには当時の悲しい出来事が伝説となって今の時代まで伝えられている。
国の中が騒がしくなると沿岸防御が弱体して、中国や日本の海賊たちが新羅の海岸部を襲い略奪をする様になった。しかし、新羅は海賊たちを追い払う力さえもなく庶民たちは逃げ回るよりなかった。
また、官職に就くことが出来たのは貴族だけで一般の庶民達はどんなに知識が豊富で才能が優れていても官職に就くことはできなかった。そして、才能あふれる若者たちは自身の夢をかなえる為、国を飛び出し唐で官職を得るものも少なくなかった。また、唐で官職を得た者の中から後日再び、新羅に戻り改めて新羅で官職に就く者も出る。その代表が張保皐と崔致遠だ。
 

無敵の海の男・張保皐

清海(現在の全羅南道・莞島)で漁夫の息子として生まれた張保皐(チャングボゴ)は幼名を弓福(クングボク)といった。早くから大きな夢を持っていた弓福は当時の新羅社会を嘆いて友人の鄭年(チョングニョン)と一緒に唐へ渡り苦労の末、徐州にある武寧軍の少将になった。上官からは厚い信任を受け部下からは尊敬を一身に集めた張保皐はある日、海賊に拉致され唐へ連れて来られて苦労をしている新羅人を見て、唐の官職を捨て新羅に戻る決心をする。

826年張保皐は興徳(フングドク)王に諫言し、鎮の設置を願い出て清海鎮大使に任命された。清海に城を作り港湾施設を修複しながら水兵たちを訓練させ海賊たちを掃討し、漁師達の漁業権を保証して清海は人の住み易い所となった。それだけでなく張保皐は唐と日本の商いの橋渡しの役割もして完全に海上権を掌握した。
 
張保皐が海上を掌握する間にも新羅の内部では王位の争奪戦が激しく繰り返されていた。835年興徳王が亡くなると王の弟である金均貞(キムギュンジョング)と王の息子である金悌隆(キムジェリュング)の間で血闘が起こり、勝った悌隆が僖康(フィガング)王となった。その後、金均貞の息子の金祐徴(キムウジング)は身の危険を感じ清海鎮に逃れ張保皐と親交を温めた。二人は後に婿・舅の関係となる。
こうして王位争奪戦は一段落するが838年1月上大等(新羅の高官職の一つ)の金明(キムミョング)が侍中の利弘(イホング)等と反乱を興し僖康王を殺し金明が閔哀(ミネ)王となった。その間も清海では金祐徴と張保皐が王権を奪う機会をうかがっていた。

839年閏1月、金祐徴は軍を率いて閔哀王を攻撃して殺し、4月に金祐徴が神武(シンム)王となり即位した。神武王は即位して3ヶ月で亡くなってしまい、神武王の息子である慶膺(キョングウング)が文聖(ムンソング)王となるが、神武王と張保皐の約束を果たす為に張保皐の娘を王妃としようとした。しかし、朝廷の大臣たちが「どこの馬の骨とも知れない漁夫の娘を一国の国母とする訳にはいかない」と言いだす。
娘が王妃になるのを今か今かと待ち望んでいた張保皐は、大臣たちの反対で実現が難しくなったと知ると兵を率いて王宮を襲った。
張保皐の軍は訓練が行き届いており、王宮ではこれに立ち向かう者もなかった。しかし、茂朱(全羅道)出身の閻長(ヨムジャング)が偽って張保皐に投降した後、機会をうかがって張保皐を殺害する。これにより張保皐の乱は鎮圧され、清海はその後徐々にその力を失っていった。

天才・崔致遠

張保皐が死んだ11年後、慶州では一人の天才が生まれた。彼こそが慶州崔(キョンジュ・チェ)氏の始祖となる崔致遠(チェチウォン)である。六頭品出身の崔致遠は当時の新羅社会では高い官位に就くことが出来なかったことから、12歳で唐に渡り苦学を続けながら18歳で賓貢科に合格し官職に就いた。その時の唐では黄巣が反乱をおこし10年もの間、中国大陸全土が混乱に陥っていた。
そうした状況で崔致遠は黄巣の乱を鎮圧する任務に就いた高弁と言う者の従事官となった。元々文章作りに優れていた崔致遠は討黄巣檄文を書いて黄巣に送り、これを見た黄巣は眠れぬ日々を送ったという。また、戦場においても大きな功を建て崔致遠の名声は唐の至る所に広まっていった。
唐に来て当初の目的を果たした崔致遠は唐の官職を辞め885年29歳で帰国した。しかし新羅の社会では未だに身分の障壁が立ちはだかっており、地方の太守などの閑職を転々とするよりなかった。
当時の新羅の王は政治に関心がなく贅沢と享楽に溺れており、国は大変混乱した。政治を担当する高官たちは賄賂集めに汲汲となり、いたる所で農民たちが蜂起していた。そうした状況の中892年には完山州(現在の全羅道・全州)に後百済(フペックチェ)が建国された。

894年、崔致遠は六頭品者の最高官職である阿(アチャン)となると、社会の矛盾を解消させる為に10項目に縮約した時務十餘條という改革案を作成し真聖(チンソング)女王に建議した。しかし彼の建議は当時の貴族達に不利な内容が含まれていて結局採択されなかった。
崔致遠はこの様な社会に落胆して官職を捨て全国各地を巡る放浪生活をした後、海印寺(ヘインサ)で隠遁生活に入り余生を送ったと言う。崔致遠が官職を捨てた後、海印寺に入る前に次のような詩を残している。
僧乎莫道青山好  僧よ、青山が良いと言わないでくれ
山好阿事更出山  山が良いと言うなら、なぜまた山を降りるのか
試看他日吾踪跡  よく見なさい、いつか私がどうするかを
一入青山更不還  一度青山に入れば二度と出ないであろう

14.新羅滅亡

後三国の建国と没落(892年~963年)

新羅が混乱して国に対する庶民の不満が高くなると全国各地で蜂起が起きた。この時全羅道地方の蜂起を率いたのは甄萱(キョンフォン)であった。甄萱はもともと尚州(慶尚道)の農民の息子であったが武芸に優れ、軍に入隊すると主に全羅道を勤務としてその基盤を作った。
甄萱はまず武珍州(現在の光州)を占領した後に完山州(現在の全州)まで進むと「私が義慈王の恨みを晴らす」と言って892年完山州に後百済(フペクチェ)を建国した。

その後、弓裔(クングエ)が901年に後高句麗(フコグリョ)を建て韓半島は再び三国に分かれることとなった。
もともと弓裔は新羅の憲安(ホンアン)王の庶子として生まれたが彼が生まれる時、宮殿では不吉な出来事が起ったという。これを見た日官(天文を担当する官職)たちは憲安王にその子を育ててはならないと進言し、この言葉を受け入れた王は子を殺す様に命じた。王の命令を受けた者が子を高いところから落として殺そうとしたが、この子を可哀そうに思った乳母が落ちて来る子を受け止め命を救った。しかしこの時、運悪く片方の目を失うこととなり弓裔は隻眼となった。乳母は弓裔を自分の子供の子として育てたが、余りにも生まれ持った立居振る舞いが異才を放っていたので10余年後には出生の秘密を明かし、何事にも注意を怠ってはならないと付け加えた。
その後、弓裔は世達寺という寺の僧になるがこれに満足せず、寺を出て竹山地方の実力者である其萱(キフォン)の下に入ると、其萱は弓裔の思い通りに処遇してくれた。その後、梁吉(ヤングギル)の旗下に入り信任を得て将軍となった。
更にその後勢力を伸ばした弓裔は自立して王建(ワングコン)等と一緒に松嶽(現在の開城)に国を建国し、国号を後高句麗とした。904年弓裔は国号を摩震(マジン)に変え、首都を鐡原に遷都したが911年再び国号を泰封(テボング)と定めた。
またたく間に後高句麗の領土は、江原・京畿・黄海道の大部分と忠清・平安道の一部にまで拡大した。また、王建に水軍を与え全羅道の珍島と錦城(現在の羅州)を討たせ、西南海岸の海上権まで掌握することとなった。国力が強まり国家体制が確立すると弓裔は傲慢になり自らを弥勒仏と称し自身の息子を菩薩と呼ばせ、国事を顧みず贅沢と享楽に溺れる様になった。すると民心は徐々に弓裔から離れ、918年に申崇謙(シンスングキョム)が反乱を興し弓裔を追い出し、弓裔は後高句麗を興して18年で没落してしまう。
申崇謙たちは新しい指導者として王建を推戴し王建は首都を松嶽に移して国号を高麗(コリョ)として高麗の太祖となった。一方、甄萱は927年大軍を率いて新羅を攻撃するが、これを迎え討つべき新羅の景哀(キョングエ)王は高官大爵たちと鮑石亭で宴会にふけっていた。後百済軍は景哀王を殺し王族である金傅(キムブ)を王とし敬順(キョングスン)王とするが、後に敬順王は高麗の太祖に降伏してしまい新羅の最後の王となった。この時、敬順王の息子は降伏に反対して金剛山に入り終生を古びた麻の着物だけを着て暮らしたと言い、人々は彼を麻衣太子と呼んだ。

一方、後百済の甄萱には何人かの母親の違う息子たちがいたが、甄萱はその内の4番目の息子である金剛(クムガング)を寵愛して王位を彼に継がせようとする。しかし、神劒(シンゴム)などの他の息子たちがそのことを事前に察知すると甄萱を金山寺に閉じ込め金剛を殺して神劒が王となった。後に甄萱は紆余曲折の末に金山寺を脱出すると高麗に渡り太祖に降伏した。

高麗の王建とは?

高麗の太祖(王建)は後百済から来た甄萱を尚父と呼んで丁重にもてなし936年に甄萱と共に後百済を攻撃し征服して、後百済は45年で国の歴史を閉じた。これにより韓半島は再び一つの国となり高麗475年の基礎を固めた。
王建は877年に王隆(ワングリュング)の息子として生まれたが王建の誕生には次の様な話が伝えられている。
王隆は当時松嶽(現在の開城)地方の豪族で、結婚してすぐに家を建てる為に土地を探していた。すると、ある僧が通りすがりに彼が土地を探すのを見て「つっ!つっ!」と舌打ちするのだった。そこで王隆は僧に舌打ちの理由を聞くと「今見ていた土地も良いですが、その隣の土地に決めると優秀な人材が生まれるでしょう」と僧は答えた。王隆は僧の言った通りの土地に家を建て、その1年後に生まれた男の子こそ王建である。
王隆に家を建てるべき場所を教えた僧が、後に多くの仏学徒から神と崇められた道(ドソン)である。道の死後も高麗の歴代の王たちは引き続き彼を崇拝し粛宗(スックジョング=高麗10代王)は道に大禅師を追贈して王師の称号を追加し、仁宗(インジョング=高麗17代王)は先覚国師の尊号を送った。

15.韓半島統一

高麗の建国(918年) 

新羅時代末期、新羅の弱体化などによって三つに分かれていた半島の国々は50年足らずで王建(ワングゴン)によって一つにまとめられ、高句麗の流れを汲んでいることから国号を高麗(コリョ)とした。また、年号を天授とし首都を松嶽(後の開城)に移した後、官制を改革しつつ融和政策、北進政策、崇仏政策を三大建国理念とした。
高麗を建国した後、王建は高麗の初代王・太祖(テジョ)となるが、彼が最も気を使ったのは高句麗百済新羅人の融和と民生安定であった。そのことから新羅時代の様々な税金制度を改め租税と貢賦そして力役の三つのみとした。

新羅が滅びると同時に身分制度である骨品制もなくなったが高麗社会でも良賤制という身分制度が厳然と存在した。良賤制とは、庶民の身分により良人と賤人に分けて良人には、農民と手工業に従事する工匠、商人などが属した。また、賤人には奴卑(ノビ)、才人(広大=クァンデ=大道芸人)、揚水尺(ヤンスチョク=狩猟をしながら流れ渡る人)などが属した。

太祖は国家体制を確立するため様々な政策をとったが、大きな力を持つ豪族たちを従わせる為に自らとの結婚による婚姻融和政策を積極的に採用し、その結果太祖の夫人は29人に上った。また、豪族たちに一定の権限を付与する代わりに豪族たちの子弟を松嶽に住まわせる其人制度を実施した。

高麗の建国理念の一つである北進政策の一環で926年に渤海が滅亡すると渤海の遺民達を積極的に受け入れ、渤海の王族たちには(高麗王家と同じ)王(ワング)の姓を下賜するなど手厚く待遇した。

太祖の遺訓‐訓要十條

3つわかれていた韓半島の国々を改めて統一した太祖は943年重臣の朴述希(パクスリ)を呼び、今後歴代の高麗の王が守るべき10項目から成る遺訓、即ち訓要十條を下した。その内容の全文は高麗史と高麗史節要に残されており主な骨子は次の通りである。
一. 仏教を良く慈しむこと                      
二. 寺院は道の決めたもの以外建てぬこと
三. 王位の継承は嫡子が原則ではあるが長子が不肖である場合兄弟の中から優秀なものとする
四. 契丹の風習には従わぬこと
五. 西京(平壌)を重視すること
   高麗三京 :西京(平壌)、開京(開城)= 首都、東京(慶州)
六. 燃燈会や八関会などの祭礼行事は大切に行うこと
七. 信賞必罰を公正に行うこと
八. 車以南、光州江(錦江)以外の山形地域は背逆するので
この地方の者は登用しないこと
九. 良く歴史を学びいつでも警戒を怠らないこと      
などである。
しかし、この頃の高麗はまだ基盤が強力とは言えず第2代の恵宗(へジョング)と第3代の定宗(チョングジョング)の時代は外戚間で後継王位争いが起こるなどしたが、第4代の光宗(クァングジョング=在位期間949~975年)が即位してようやく安定期を迎える。

国家の礎を築く光宗

光宗は王権を強化し豪族たちの力を弱めるため、地方の産業などの実態調査を行い956年には豪族たちが不法に所有していた奴卑の中で元々は良民であった者たちを審査した後、元の身分に戻してやる奴卑按検法を実施した。
更に、958年には中国人の雙冀の建議で科挙(国家の官吏を選抜する試験制度)を実施し崔暹(チェソム)が最初の合格者となった。

勿論それ以前も官吏選抜試験は存在しており代表的なものには788年(新羅時代)に実施された読書出身科などがある。
読書出身科は科挙と違い貴族の子弟だけが受験を許され、左傳・禮記・文選を読み、その意味を述べさせ、論語・考経に明るいものを上品、曲禮・論語・考経を読めるものを中品、曲禮・考経を読めるものを下品に区分したことから読書三品科とも言った。
当時の社会は試験によって官職を得ることは極めて稀で大部分は親の官職を子が継承するものだった。しかし、雙冀の建議により始まった高麗の科挙制度は良民であれば誰でも試験を受けることが出来た。また、代々官職を受け継いで来たものの子であっても自らが官職に就くためには試験を受けなければならなかった。

しかし、庶民たちにとって科挙はまだ高い障壁であった。なぜなら、科挙の準備の為の教育機関に入ることの出来るのは王族や貴族に限られていたのだ。従って、庶民が科挙に合格して官職に上ることは極めて稀なことであった。
光宗は王権をもっと強化しようと王権を脅かすすべての勢力を大々的に粛清し、官吏の綱紀確立のため序列により色を指定した官服を着るようにした。
光宗の後を継いだ景宗(キョングジョング=在位期間976~981年)は即位するとすぐに光宗により整備された官僚体系により田柴科を実施した。
田柴科とは田とは農地の意味で柴は林野を意味し科は等級を意味する。即ち、農地と林野を等級で分けて、その等級によって管理したのである。後日、田柴科は何度か改正されながら結局は制度としては崩壊するが、豪族たちの勢力弱体化の目的で実施されたものであり、豪族の勢力が弱体化すると高麗では新しい支配階層が形成される様になる。

16.高麗の統治

成宗の改革

草創期に活発であった景宗(キョングジョング)の政治も暫くすると功臣を遠ざけ奸臣たちを好むようになる。すると自然に国情も安定を失い、それに追い討ちを掛ける様に景宗は急な病を受けこの世を去ってしまう。すると太祖(テジョ)の7番目の息子である旭(ウック)の2番目の息子が王となり高麗の第6代王・成宗(ソングジョング=在位期間982~997年)となった。
成宗は浪費癖のついた国家財政を本来あるべき姿に戻すため崔承老(チェスングノ)に改革の基本とする時務策28條を作らせた。
時務策では太祖以来の歴代王の治世を検証し、行き過ぎた仏教行事などへの過多な費用の支出を指摘し儒教の必要性を強調した。
時務策の主たる内容は次の通りである。
  - 寺院による高利の金貸行為を禁じ庶民の被害をなくすこと 
  - 百官の公服制度と平民の衣服は秩序を持って定めること
  - 禮楽と詩書(詩経と書経)の教訓、君臣と金持ちの道理は
    中国にならい、衣服制度は我々独自の風習に従う
  - 贅沢と倹約を適切に行うこと
  - 過重な負担を与える霊灯と八関などの仏教行事を慎むこと
  - 王は下の者に対し謙虚に振る舞い法に従い公平に論罪し、
    国家の体系を守ること
  - 家屋制度を作り身分の貴賤に従い遵守すること
  - 良民と賤民の区別を明確にし、賤民である者が上の者を
凌辱出来ないようにすること
  - 僧侶が客館(旅館)や駅舎に宿泊することを禁じ、仏像の彫刻や写経は簡素に行うこと
 
成宗は、先ず贅沢を助長しているとして仏教行事の八関会を禁止させた。これは太祖の遺訓である訓要十條の「霊灯と八関会は必ず執り行うこと」に違背することになるが、この時代の八関会は太祖の時代の姿を相当に逸脱する華美なものとなっていた。
そもそも八関会の“関”とは“禁”を意味し一日を殺生や盗み・
淫行など8つの事柄を禁じ、ただ一度の食事だけを持って仏さまの修行を見習おうとするものだった。純粋に仏教の教えをさらに広めようと太祖が祝祭としたものだったが、歳月を重ねるうちに宴に変わり、贅沢に走り踊り歌って一日を過ごす様になっていた。
社会が贅沢と享楽に溺れる状況を見た成宗は行き過ぎた贅沢な風潮を改めようとする思いから八関会を禁じたのだった。
そうした一方で成宗は崔承老の提案した時務策に立脚して官制の改編にも力を注いだ。新しい政治を行おうと文武百官の称号を改正し中央には、3省・6曹・7寺を置き、地方には12牧を設置した後に牧使を派遣し管理することとした。
その後、成宗は地方の財源に充てるため公須田、紙田、長田などの公田を支給した。
仏教のあらゆる行事を簡素化しようとした成宗は、それとは反対に儒教を国の定める理念とするため12牧に経学博士を送り儒学指導に当たらせ、儒教理念のもとに厳格に法律を改正した。最も代表的なものは奴婢還賤法である。奴婢還賤法とは良民と賤民の区別を明確にし、父母の内のどちらかでも奴婢であるなら、その子も奴婢とする制度である。

また、成宗は農業の重要性を強調し豪族たちが持っていた武器を回収して鎌などの農具に打ち直して農民に与えた。また、黒倉(官庁から農民に対し春に穀物を貸し与え、秋に返させる制度)を義倉と改称して春に食糧に困窮することの多かった農民を助けた。991年には国中に日照りで被害が出ているとの知らせを聞くと、罪人を許して山村の復旧に当たらせるなど農民の為に陣頭指揮に当たり社民生活の安定に尽くした。
また、一方では国子監を設置してより体系的に儒教を教える人材の養成を行った。

契丹との戦争(993~1018年)

こうした中、中国では契丹族が建てた国である遼(ヨ)が東進政策を繰り広げ、中国大陸を強力な軍事力で切り取っていた。しかし、960年に宋が建国されると契丹と宋の双方が対立し頻繁に争いが起きるようになった。この時、高麗は宋と連携し契丹と積極的に対抗した。
この時、契丹と宋は激しく対立していて、契丹高句麗の子孫が建国した渤海(パレ)を滅亡させたことを理由に高麗は宋との連携を強めたのだった。契丹からの連携要請を何度も拒絶した高麗に対して、契丹は宋との戦いに先立って高麗を攻撃すべく993年から1018年まで3度にわたり高麗に侵攻した。しかしこの時の高麗には、徐熙(ソヒ)や姜邯贊(カングガムチャン)といった有能な将軍たちが国防を担っていて高麗の勝利で終わる。

契丹の将軍・蕭遜寧が80万の大軍を率いて初めて高麗に侵攻した993年、徐熙将軍は中軍使となり契丹と戦うが契丹の目的が高麗と宋との関係を切ることであることを看破し、ただ一騎で契丹の陣営に入り蕭遜寧との談判に至った。
「私は高麗の将軍徐熙だ。何故お前達が高麗を侵略するのか確かめる為にここに来た。」
「我が遼(契丹)は中国の多くの国々を統一した大国であるのに、高麗は我らに使臣も送って来ない。なぜ我国を粗略に扱うのか?また、頻繁に国境を侵犯して来るのでこの機会にお前たちを降伏させようと来たのだ」
蕭遜寧が自分の言い分だけを言って席を立ってしまうと、堂々と対等の立場で談判に臨んだ徐熙もそのまま戻るより外はなかった。しかし、徐熙は契丹軍の意図を充分に理解することが出来たので成宗に契丹との和睦が可能であると報告した。
ところが成宗と文武百官達は契丹の繰り返しの脅迫に耐えられず、弱腰になり西京(平壌)以北を分け与えることを決めてしまうと徐熙は再度単独で蕭遜寧に会いに行くのだった。

徐熙が国書を携えつつ高麗の立場を細かく説明すると、蕭遜寧はもう一度改めて徐熙の勇猛さと愛国心に感嘆する。この会談で両国は和睦に合意し、高麗は少しの国土も奪われることなく契丹は自国に帰って行ったのである。
その後、徐熙は蕭遜寧との約束を守るため先鋒将となり咸鏡道と平安道北部にまで入り込んでくる女真族を追い出し、外敵の攻撃に備えるため鴨緑江東部に江東六州(興化、龍州、通州、鐡州、亀州、郭州)を置いた。しかしその後、高麗は江東六州を設置すると改めて契丹と敵対するようになる。
成宗の後を継いだ穆宗(モクジョング=在期間997~1009年)は田柴科(税制)の改正や、学問の奨励などの善政を行うが後継ぎとなるべき実子がいなかった。すると、穆宗の母である千秋太后が外戚である金致陽(キムチヤング)と姦通して生んだ息子を王位に就けようと穆宗の後継者に決まっていた大良院君(テェヤングウォングン)・詢(スン=後の顕宗)の追い落としを図った。そうした動きを感じ取った穆宗は西京都巡検使の康兆(ガングチョ)に大良院君の警護を命じた。すると康兆は武力を盾に穆宗を廃位させると大良院君を王位に迎えた後で金致陽一党を殺害した。
契丹の聖宗は高麗が朝貢をして来ないことを不満に思っていたが、この時に康兆の乱が起きたことを知りこれを口実に1010年直接大軍を率いて高麗に侵攻した。契丹軍が西北の幾つかの城を撃破して、更に都である開城を占領すると顕宗(ヒョンジョング=在位期間1010~1031年)は羅州に避難した後、河拱辰(ハゴングジン)を請和使として契丹の聖宗に送り講和を要請した。

すると、聖宗はこれを受け入れ河拱辰を人質にして撤退した。
契丹の聖宗は撤退にあたり顕宗が直接契丹を朝貢する様に要求したが、高麗では顕宗の病気を理由に親朝(王が直接出向くこと)は出来ないと通告すると同時に、逆に契丹高麗から奪った江東6州の返還を求めた為に国交は断絶する。その後契丹は幾度となく高麗に侵攻するが、その都度高麗の反抗を受け撤退する。
月日が流れ1018年、契丹の聖宗は将軍・蕭排押に10万の大軍を与え高麗を攻撃すると、高麗の顕宗は姜邯贊を上元帥に命じて対抗させた。
姜邯贊は寧州(安州)に待機していて契丹の動向を探っていたが、城東大川という大河に堰を築く作戦を取った。契丹軍が城東大川を渡り始めると堰を大破させる先制攻撃を仕掛け大損害を与えた。また、生き残った契丹軍も要所に隠し置いた高麗軍の伏兵によって掃討される。これにより蕭排押は後退を命じるが、この時姜邯贊は契丹軍が亀州(ギゥィジュ)を通って退却すると予測し待ち伏せて契丹軍を急襲し高麗軍を大勝利に導いた。この戦いが亀州大捷(ギゥィジュデェチョブ)である。
それまで、25年の間に3度にわたって侵略を敢行した契丹は亀州大捷のあとは高麗と和親を結び再び侵略することはなかった。

この間、高麗朝廷では契丹の度重なる侵略に仏力にすがろうと、1010年に霊灯会と八関会が復活した。また、1014年には朝廷が文臣たちに与える禄俸の財源を作る為に武臣の土地である京軍永業田を朝廷が回収することを決めると、これを不満にとした契丹との戦争で活躍した将軍たちが反乱を起こし、朝廷が鎮圧するという事件が起きたりした。しかし、この様な内外の試練を乗り越え高麗は次第に安定期を迎えることとなる。

17.八萬大蔵経

高麗大蔵経(八萬大蔵経)の完成(1251年)

高麗時代には王たちの仏教の更なる布教への意欲と、それに加えて繰り返された契丹や元などの外敵からの侵略を仏の力で逃れようとの考えから大蔵経(デェジャンギョング)と呼ばれた組版(仏経の版画版)が3度にわたり制作された。
顕宗(ヒョンジョング=高麗の8代王)は太祖(テジョ=高麗の初代王)によって定められ、その後は余りに盛大になりすぎたことを理由に為に取り止めていた一大仏教行事である八関会と霊灯会を復活させた。仏教の布教に熱心な顕宗は中国と高麗に存在するすべての仏経を集めた後に最初の大蔵経の制作を指示した。

この大蔵経は文宗(ムンジョング=在位期間1046~1083年=高麗の11代王)の時代まで30余年を掛けて全5048巻が完成する。この最初の大蔵経は初彫あるいは顕宗版と呼ばれている。高麗の安泰と平和の願いをこめて制作された大蔵経は嶺南(慶尚道地方)の符仁寺(プインサ)に収められ、多くの国民の心の拠り所となったがその後の蒙古軍の侵攻の際に焼失してしまう。
父・顕宗の遺志を継いで大蔵経を完成させた文宗はその信仰心から、息子の一人である煦(フ)を王師である爛圓(ナノォン)の勧めもあり僧門に入れる。煦は法名を義天(ウィチョン)と言い後に、教宗と禅宗に分かれていた高麗仏教の宗派を天台宗に統一させるなど高麗仏教の発展に尽力する。

義天は宋や契丹などからも仏書と経典を取り寄せた後、興王寺に教蔵都監を置いて高麗で2度目の大蔵経である續蔵経(ソクジャンギョング)を刊行するが、これも後に蒙古軍の侵略により焼失してしまう。現在、僅かに伝えられている續蔵経の印本の内の一部が日本の奈良の東大寺にも保存されている。その後、義天は大覚国師の称号を受けて高麗の国師として高麗の仏教の発展に努めた。
高麗で3番目に作られた大蔵経は八萬大蔵経(パルマンデェジャンギョング)と呼ばれている。これは、蒙古の侵略を受けた時の王・高宗(コジョング=在位期間1213~1259年)が民心の安定を図ると共に、強大な軍事力で短期間に中国大陸を征服した後に、執拗に高麗に向けられて来る蒙古の侵略を仏力によって防ごうとする思いで制作を命じたものだった。

先行する活字文化

16年の永い月日を掛けて完成したこの大蔵経は全6529巻から成り、八萬大蔵経と呼ばれる理由は大蔵経を印刷する為の木版の数が81,137枚にもなることからだった。現在、この八萬大蔵経は現在も大韓民国の国宝第30号に指定され慶尚道の海印寺(ヘインサ)に保存されている。
 蒙古に侵略され首都・開城(ケソング)は蹂躙され江華島への遷都を余儀なくされた高麗であったが当時の文化水準の高さを示す話がある。当時の宰相であった李奎報(イギュボ)が書いた東国李相国集の中の新序詳定禮文には「詳定古今禮文の50巻を鋳字(金属活字)で印刷して全国の諸寺に分け与えた」と書かれている。
詳定古今禮文は高麗の仁宗(インジョング=在位期間1123~1146年)の時、崔允儀(チェユニ)が書いたもので1234年に鋳字で28部を印刷したものが世界最初の金属活字印刷である。
(但し、この事実は世界的には認められておらず、世界最初の金属印刷はドイツのグーテンベルグの発明したものとされている)
多くの人々が詳定古今禮文の印刷本を見たことがなく世界最初の金属活字であることを知らずにいた。しかし、フランスのパリ国立博物館で高麗の直指心経が発見されことは世界最初の金属活字が高麗で作られたものであることを証明している。
この様に世界で最初に作られた金属活字は朝鮮時代になって更に発展していくこととなる。

《八萬大蔵経=海印寺貯蔵》

18.妙清の乱

高麗の黄金時代

文宗が1083年7月に亡くなるとその後を長子である順宗(スンジョング)が継ぐこととなったが、その3ヶ月後の10月にはその順宗も亡くなってしまい文宗の2番目の息子で順宗の弟が王位を継ぎ宣宗(ソンジョング=在位期間1083~1094年)となった。宣宗はまだ子供であった文宗の時代に国原公に封じられ順宗の時代まで高麗の要職を務めていた。王に即位すると科挙制度に僧科を設置し法興寺(ポブングサ)に教蔵都監をおいて仏経書籍を刊行するなど仏経振興に大きな力を注いだ。
1094年に宣宗が亡くなると国がまとまりを欠く様になる。その理由の一つは宣宗の後を継いだ獻宗(ホンジョング=在位期間1094~1095年)がまだ11歳と余りにも幼かった為であった。
宣宗の時代に高官を努めた李資義(イジャウィ)は、幼い時から病弱だった獻宗を追い出して自分の実の妹である元信宮主(宣宗の妃の一人)の生んだ漢山候を王位に就けようと乱を起こすが事前に鶏林公に知られ刺客により殺害され失敗する。
獻宗は李資義の乱を平定した後に叔父である鶏林公(後の粛宗)に王位を譲位するが、その2年後に亡くなってしまう。
獻宗の病が理由であったとはいえ幼い甥から結果として王位を奪ったこととなった粛宗(スックジョング=在位期間1095~1105年)は国情の立て直しに力を注ぎ、高麗の黄金時代の礎を作った。
国の経済を安定させると弟である義天(ウィチョン)の勧めもあり鋳銭官(造幣所)を設置して銀瓶(ウンピョン)という鋳貨を作って普及を図った。しかし銀瓶は銀で作った貨幣であった為に高価で一般の庶民が使うには無理があった。すると粛宗は1102年には海東通宝を作り、これにより庶民達にも貨幣が普及する様になった。

女真の侵略

徐熙将軍の江東6州の開拓以来、なりを潜めていた女真族が1104年に侵略してくる。粛宗は林幹(イムガン)に命じて対抗させたが失敗し尹(ユングァン)を送って和睦する。
その結果、定州長城(平安北道西南海岸に位置した江東6州の一つで亀州郡が設置された所)の外(北西)側の村が女真族の治下となった。
尹は粛宗に軍を再編することを建議して、騎兵と歩兵とにより構成された別武班(ピョルムバン)が作られた。また、別武班には奴婢や僧侶で構成された軍もあったが騎兵は神騎軍、歩兵は神歩軍と呼ばれた。
高麗と和睦を結んだ女真族が3年後の1107年に再び侵略して来ると、尹は17万の別武班を率いて女真族を撃退し東北国境に9つの城を築城した。しかし、度重なる女真族の攻撃により1年後にはこの9城も再度女真族に奪われてしまう。

李資謙の反乱

粛宗の後を継いだ睿宗(エジョング=在位期間1105~1122年)に自身の2番目の娘を嫁がせた高官で名門貴族の李資謙(イジャギョム)は、睿宗が何かに付け尹へ依存する事を快く思わず次第に権力に向けた画策を始める。1122年に睿宗が亡くなると李資謙は王位を狙うライバルを退け、自分の娘が生んだ睿宗の子の仁宗(インジョング=在位期間1123~1146年)を14歳で即位させ権力を握り、更に自身の3番目と4番目の娘を仁宗に嫁がせた。これにより李資謙の3人の娘は実の姉妹でありながら嫁姑の関係となった。
李資謙はこれに満足することなく自身の誕生日を仁寿節(インスジョル=当時は王の誕生日を節と呼んで祝わせた)と呼ばせ国を挙げて祝わせた。更に「十八字(即ち李)が王になる」という図讖説(予言・噂話:トチャムソル)を信じ王位を簒奪しようと、王であり婿でもある仁宗を自身の家に幽閉し毒殺しようとしたのだが、これは李資謙の4番目の娘で仁宗の妻となっていた王妃により失敗し仁宗は難を逃れる。
その後、李資謙はそれまで共に気脈を通じあっていた同じ一味の拓俊京(チョクスンギョング)により捕らえられ幽閉された後に死に、同じ時期に娘たちも王妃から廃位された。
拓俊京は李資謙を捕らえた功で功臣として推戴されるが、鄭知常(チョングチサング)が拓俊京を弾劾する上書を王に出したことで全てが明るみとなり、拓俊京など元々李資謙と共に乱を引き起こした者たちは流刑となった。
国の内外が混乱する隙に乗じるかの様に、図讖説(トチャムソル)を言い当てることで有名を馳せていた、西京(平壌)出身の僧・妙清(ミョチョング)が高官の白寿翰(ペクスハン)たちに取り入り高麗の中央政界に入っていった。
1127年王室の顧問となった妙清は白寿翰などと首都を平壌に遷都しようと企て、目的を達成のために様々な権謀術数を用いた。
妙清一党は隠れて大きな餅を作ってその中に油を入れて大同江に沈めた。数日すると餅から自然に油が流れ出して水面に怪しい光を放って浮かび上がると「これは河の中に住む神龍のヨダレである」と触れまわった。これ自体は間もなく事実が露見するが、それでも王は『預言者』・妙清の意を汲んで1132年に西京(平壌)への視察に向かうが急な暴風雨で多くの死傷者を出す事故に遭ってしまう。その以後、王が西京遷都にはまったく触れることはなかった。

妙清の乱(1135年)

1135年、妙清は西京の分司侍郎の職にあった趙匡(チョグァング)や分司表兵部尚書の柳(ユチャム)などと大為(テウィ)と言う国号を名乗って乱を起こす。これに対し開京(ケギョング=開城)では王が反乱軍を鎮圧する為の討伐軍を送るがその隊長には、日頃から妙清の言動に反対する立場にあった金富軾(キムブシク)を任命した。金富軾は反乱軍の討伐の前に開京に居ながら妙清に通じていた鄭知常(チョングチサング)や白寿翰などを討ち取る。
金富軾も大変な文才の持ち主でもあり後世に多くの史書などを残すが、この時に討ち取られた鄭知常も詩や絵画、文字、易学、仏典などに非常に優れ、特に詩には卓越して才能を持っていて高麗12詩人と呼ばれた一人であった。
金富軾は反乱軍を鎮める為に幾度となく降伏を促すと、反乱軍の主導者の一人である趙匡(チョグァング)が、妙清など他の主導者の首を持たせた使者を送り投降の意思を示した。しかし、開京ではこれを認めず使者を投獄してしまうと不安を感じた趙匡は引き続き西京に留まり反乱を続けた。趙匡は城門を固く閉じたまま1年余り耐えるが、1136年2月官軍の総攻撃により追い詰められた趙匡が自決すると反乱軍は士気を失い投降して妙清の乱は鎮圧された。
妙清の乱を鎮圧した金富軾はその後、1145年に全50巻からなる歴史書の三国史記(高句麗百済新羅を中心に描いた歴史書)を編纂した。また、毅宗(ウィジョング=在位期間1146~1170年)が即位すると仁宗実録の編纂を主宰した。
中国・宋の露允迪は高麗を訪問した際に金富軾の書を見て感嘆し、宋に戻って著した高麗図経によって金富軾の名は宋にも広く紹介されることとなった。

19.高麗の武臣政変

武臣政変(1170年)

1170年8月のある日、毅宗(ウィジョング)は武臣たちに護衛をさせ文臣達と普賢院へ野遊に出かけた。文臣達が王と軽口を言い合い遊ぶ間も、武臣達は食事もせずに彼らの警護にあたっていた。
 王は上機嫌で「今日はとても天気が良いな、武臣たちはシルム(相撲)でも取って見せろ」と命じた。毅宗のこの言葉に武臣たちは年齢を問わずこれに従った。この時の野遊には還暦間近の李紹膺(イソウング)も参加していたが若い軍卒とシルムをして負けてしまう。

それを見ていた文臣の韓頼(ハンレィ)という者が李紹膺を不甲斐無いとなじって頬を殴った。するとこれを見た鄭仲夫(チョングチュングブ)・李義方(イギバング)・李高(イゴ)などの老武臣達はその行いに我慢が出来ず激昂して文臣たちを殺してしまう。更にそれだけでは収まらず開京(開城)に残っていた多くの文臣達をも殺してしまうと、毅宗をも巨済島に流配して王の弟を新たな王として迎えた。新しい王は明宗(ミョングジョング=在位期間1170~1197年)でこの事件は鄭仲夫の乱という。
高麗の始祖・太祖(テジョ)は自らも武力で国を起こしたこともあり文武の均衡を保った政権を確立したが、中国から様々な制度が入って来るに連れこの文武の均衡は徐々に崩れ始める。特に科挙制度が定着するようになると、文臣が次第に重く用いられ始め武臣たちは閑職に追われて行った。また、成宗以降は契丹と女真族の侵略に悩まされ、これに対抗するため多くの武臣たちは戦場に駆り出されたのだが、そこで功を建てても大部分の褒章は文臣の元へと行き、軍の最高指揮権を持つ官職までもが文臣の受け持つところとなり武臣は益々冷遇される様になった。

武臣たちに対する待遇は歳月が経つほどひどくなり何度か武臣たちが改善を求めたが、却って文臣達の手によって崇文抑武(文を崇め武を抑える)政策を広める結果となった。
鄭仲夫の乱が成功して以後、朝廷に文臣の姿が消えて多くの官職を武人が勤める様になったが武人たちは、それまでの鬱憤を晴らすかの様に互いに自分たちの利益を得ることに汲汲とし国は更に混乱していった。「刃で立った者は刃で倒れる」との言葉の通り鄭仲夫は同じ武人である慶大升(キョングデスング)の手でこの世を去ることになる。しかしその慶大升も30歳で夭折してしまう。
その後、政権は李義(イウィミン)が執るところとなるが、これを受け容れることの出来ない鄭仲夫の腹心だった金甫当(キムボダング)が、毅宗(ウィジョング)を復位させようと反乱を起こすが失敗し、毅宗も殺されてしまう。元々賤民出身である李義が政権を担当させたのは明宗の意志であり、慶大升が死んだ時に慶州にいた李義を開京に呼び寄せ政権を任したのだった。明宗が政権を李義に任せたことで高麗は益々混乱し全国各地で蜂起が起き、李義もまた他の武人たちと同じ様に1196年崔忠獻(チェチュングホン)の手にかかり落命する。

奴婢・萬積の乱

鄭仲夫が武臣の乱を成功させた以後、高麗の社会は安定せず甚だしい混乱に陥った。加えて政権が変わるたびにその混乱の度合いを増していった。新たに政権を狙う者は、始めは国を正しく建て直そうという気持ちを持っているのだが政権を取った後は、またそれ以前の者たちと同じで自己の栄華と保身に努めるだけだった。
武臣の乱以後、最も特徴的な現象は下級武人や賤民が高い官職に就ける様になったことである。賤民出身の李義が明宗の推挙で政権を執ると、これを快く思わない者たちが多く出るがその代表と言えるのが崔忠獻であった。
崔忠獻は代々上将軍を排出する家柄の出身で、1174年に趙位寵(チョウィチョング)の乱を鎮圧した功で別抄都令になり、その後は李義と政治的に対立する立場となるが結局、李義を殺して政権を担うこととなった。
自身の政敵を全て退けた崔忠獻は明宗に当時の社会の矛盾点と是正すべきことを整理して封事十條を献じるが、その主な内容は成宗の時代に崔承老(チェスングロ)が書いた時務28條に似ている。

崔忠獻は封事十條を書いた翌年の1197年に明宗を王位から降ろして王弟である平涼候の(ミン)を擁立して神宗(シンジョング=在位期間1197~1204年)が即位した。崔忠獻の弟で共に神宗の擁立を奨めた崔忠粹(チェチュングス)は自身の権力を更に高めようと神宗の太子妃を追い出し自分の娘を太子妃にしようとするが崔忠獻に殺されてしまう。神宗が即位した年からは各地で更に反乱が頻繁に起こる様になり、病の為に太子に王位を譲る1204年まで毎年起きた。その最初は奴婢・萬積(マンジョク)の乱であった。

奴婢萬積は崔忠獻の私奴(サノ)で鄭仲夫(チョングチュウブ)の乱以降、奴隷など賤民出身の高官が多く出たことを知って仲間の私奴たちと反乱の機会を謀っていた。
「みんな!みんなも良く知っている様に今の朝廷では俺たちと同じ賤民出身の者が大きな顔をしている。昔から言われる王侯貴族という言葉はもはや特別なものじゃない。それは俺たちだって力を合わせれば今の様な立場から抜け出せるということだ。みんなで力を合わせて立ち上がろう!」
萬積の言葉に私奴たちは心を一つにして数千枚の黄紙(粗末な紙)に丁の字に切り取りこれを目印として5月17日に興国寺に集まり旗揚げすることとした。ところが興国寺に集まった者がとても少なく仕方なく延期することとした。
 彼らの計画では先ず崔忠獻を殺し、その後各自が自らの主人を殺してから証文を燃やすこととしていたが、共に誓った中の順貞(スンジョング)は実行すべきか悩んでしまう。なぜなら順貞の主人である韓忠癒(ハンチュングユ)は律学(法律)博士で性格も穏健で一度も奴婢を殴ったり、罵倒したりする事がなかった。悩んだ順貞は到底、自分の主人を殺す事は出来ないと考え結局密告してしまう。

これにより萬積は捕らえられ、彼と共に行動した百余人も捕らえられて全身を縛られたまま河に投げ入れられ死んでいった。
神宗の在位期間中、萬積の乱を始めとして江原道溟州(ミュングジュ)・晋州(チンジュ)・金州(キムジュ=金海)・陜川(ハップチョン)・慶州(キョングジュ)・全州(チョンジュ)などでこうした乱が全国的に引き続き起きた。
蜂起者に対して朝廷は大変過酷な処分をしたにも拘らず乱が引き続き起こったことは、当時の社会がどれだけ不公平な社会であったかを物語っており、こうした乱の多くは農民や賤民によって引き起こされたものであった。
反面、権力を保ち続ける為に実の弟まで殺した崔忠獻は李義が政権を執った際に廃止した都房(トバング)を復活させ教定都監(キョジョングドカム)という機関を設置して権力の強化を図った。1219年に死ぬまで崔忠獻は、何と6人の国王を次々と変えて自らの権力を誇示した。崔忠獻が王権に介入をしたのは1197年に明宗を廃位してからだが、神宗が病で亡くなると太子(熙宗)である淵(ヨン)を擁立するが、熙宗(ヒジョング=在位期間1204~1211年)が自身を排除しようとすると熙宗とその太子を廃して明宗の息子の康宗(カングジョング=在位期間1211~1213年)を即位させた。
また、康宗が即位して3年で亡くなるとその太子を即位させ高宗(コジョング=在位期間1213~1259年)となった。
崔忠獻が擁立した6人の王の中で明宗と熙宗は廃位させられ、神宗・熙宗・康宗・高宗は彼の権力により即位した。この様に国事を自分の思い通りに行い、崔氏への権力集中の基盤を確固たるものとした崔忠獻ではあったが、永く続いた民乱を平定し、様々な制度改革や文化芸術の活性化(文運再興)を図るなどの業績も残した。

20.蒙古の影響

6度にわたる蒙古の攻撃(1231~1259年)

高麗の武臣たちが互いに政権を奪い合う混乱の続く中、中国では蒙古族が次第に力を持つ様になり1206年チンギスハンが新たな国を建国した。それ程大きくもない部族の長から中国最大の国を作ったチンギスハンとは果たしてどんな人だったのか?
チンギスハンは廊号を太祖言い、名前はテムジン、チンギスハンは号である。蒙古族は元々が満州の西北部を主たる拠点とした遊牧民族で、1182年テムジンが部族長になるとそれまでバラバラだった部族を次第にまとめ上げて国の基礎が出来て行く。その後テムジンは大汗(皇帝)の地位に上がると、自らをチンギスハンと称して蒙古の西方の西夏や東方の満州の他部族を平定し大帝国を建設した。
チンギスハンが死んでオゴタイ(太宗)が即位して蒙古の領土はさらに広げた1231年、初めて蒙古が高麗を侵略して来る。高麗軍は懸命に防ぐが強大な蒙古の軍力に対抗できるすべもないまま戦争が終わると高麗にはダルガチ(達魯花赤=蒙古が占領地を管理する機関)が設置された。

翌年、蒙古がまた侵略して来て符印寺(プインサ)に保管されていた大蔵経も消失される。今後の更なる蒙古の侵略を恐れる高麗朝廷では崔怡(チェ・イ)の建議で蒙古軍が水戦に弱いとの理由から首都を江華島(仁川の西方の島)に遷都する。
王と朝廷が江華島に移り蒙古軍に対抗する為に城を築いたりするが、このことで反対に高麗全体が無防備状態となり国土は蒙古に蹂躙され長い間に渡り重圧に耐えなければならないこととなった。

1234年に中国で金を征服した蒙古は再び高麗侵略を強行し、慶州までが焼け野原となった。しかし、この時の高麗は不屈の意志を持って蒙古と戦い通し蒙古は退却して行った。
一度は兵を引いた蒙古であったが、いつまた攻撃してくるかも分からず、またこの様な状況の中でも国内の反乱は引っ切り無しに起こり、高麗は内外両面に問題を抱えることとなった。こうした状況の中で高宗(コジョング)は荒れた民心を安心させ激励する為、先の蒙古の侵略の際に焼失した大蔵経を新たに作ることを指示し、八萬大蔵経(パルマンデェジャングギョング)が16年の歳月をかけて作られることとなった。
しばらく高麗に対して攻撃をして来なかった蒙古が1247年に高麗の北部に現われ略奪を始めるが、こうした行為は徐々に広がって行き5年後には忠州まで南下する事態となった。しかしこの時、高麗の僧将の金允候(キムユンホ)が蒙古の将軍を討ち取ると急速に蒙古軍の士気が落ち撤退した。その2年後、蒙古は軍を再装備して高麗を侵略して来るが、この時高麗はこれまで経験したことのない大きな被害を受け結局は蒙古に降伏した。
蒙古に降伏した1259年の夏、高宗は急逝して戦後処理の為に蒙古へ朝貢していた太子が急きょ戻ることになるが、蒙古は首都を開京(開城)に戻すことを求めてきた。また、この同じ時期に蒙古でもチンギスハンの孫のフビライが登場し首都を燕京(現在の北京)に移して国号を元とした。

三別抄の抗蒙闘争

父の死により蒙古から戻り即位した元宗(ウォンジョング=在位期間1259~1274年)は、何度も使臣を元へ送って和平への理解を求めたが叶わず、度重なる元からの圧力に屈して王位に就いて11年目の1270年に都を開京(開城)に戻した。すると江華島にいた三別抄(サムピョルチョ)と呼ばれていた特殊軍隊はあくまでも元に対抗すべきと還都に反対し、裵仲孫(ベチュングソン)・金通精(キムトングジョング)等が率いて兵を起こした。ところが彼らに対し江華島の人々など呼応するものがなく、将校たちでさえ離脱する者が続出した。すると裵仲孫は1000余の船に兵を載せて南下し珍島(チンド=全羅南道)に拠点を置いて対蒙活動を続けた。

三別抄の勢力は全羅道から慶尚道にまで広がり、海を越えて耽羅(タルラ=済州)にまで延ばして高麗朝廷と蒙古の連合軍との抗争を続けるが結局は4年で消えていく。
その後、元は高麗の政治・経済・文化・風俗などあらゆるところに干渉し王室用語や官制も変更させた。それまで王がその呼称に使っていた祖や宗などを使えなくして王という呼び名を使うこととし、王が亡くなった後の諡号(贈り名)には忠の字を使って元に対する忠誠心を表す様にさせた。また、高麗に元の官吏を派遣し1258~1301年までは双城總管府(サングソングチョングァンブ)、1273~1301年までは耽羅總管府が設置された。更に忠烈王(チュングヨルワング=在位期間1274~1308年)からは、元の公主(王女)が王の正妃となり高麗は元の馬国(プマグック=婿の国の意)となった。

その結果、高麗には蒙古式の髪型(辮髪)と衣服が流行し、元から朱子学や西洋文化(サラセン文化)等が伝えられ文化や産業の交流が進んだ。1363年文益漸(ムンイクチョム)が元から戻る際に元からの持ち出しを禁じられていた綿花の種を隠して持ち帰った。これとは反対に、高麗のトゥルマギ(外套)や菓子、首飾りなどが元へ伝えられた。
この時代、文化は急速度で発展して新しい視覚による歴史書が続々と編纂され、1285年には一然(イルヨン)が金富軾(キムブシキ)の三国史記で漏れ落ちた古い記録を集めて三国遺事を書き、1287年には李承休(イスングヒュ)詩調風に書いた帝王韻記(チェワングインギ)が編纂された。
また、雙花店(サングファジョム)、満殿春(マンジョンチュン)等の俗謡(民謡に似たもの)が庶民達の間で流行したが、貴族社会は全般的に贅沢が蔓延し、高官たちは自身の個人的な願いを叶えようと金や銀で出来た仏経や仏花などを作るなどした。

留まる事を知らない内政干渉
元の内政干渉により高麗朝廷には幾つかの新たな機関が設置されるが、その中には結婚都監というものまであった。結婚都監とは貢女を選ぶ為の官庁で貢女とは元に貢ぐ為の女達であった。
6度にわたって高麗を侵略した元は若い女達を捕まえて行ったが、それは未婚か既婚かを問わなかった。その後、様々な内政干渉をする元は直接貢女を選ぼうと高麗朝廷に禁婚令を出させたりした。最初は主に賤民や百姓達の娘が貢女とされたが、後には官職を持つ者の娘もその対象とされた。また、禁婚令を破って密かに結婚する者は罰を受けたり官職を奪われたりした。忠烈王(チュングヨルワング)の18年に正二品の高官であった者が禁婚令を破って娘を嫁に出したことが発覚すると朝廷は官職を奪った上にその高官を流罪とした。その結果、人々は娘が出来ると隠して育て、幼いうちに結婚させる早婚の習慣が出来て7~8歳で結婚させた。
元が奪ったのは貢女だけに留まらず、全国各地の特産物もその対象であり、高麗に駐屯していた元軍には望むすべての物資が用意された。更に、フビライが日本を征服しようと2度にわたり攻撃を敢行した時には、その際に使用された船や食糧などの全てを高麗が準備しなければならなかった。庶民達に様々なしわ寄せが行くことになり、元々の税金と合わせ庶民生活は困窮を極めた。

元の内政干渉は限度を知らず元の指示での王が即位し、廃位となり、復位するといったことも起こり高麗の王は名ばかりのものとなった。その間、忠烈王、忠宣王(チュングソンワング)、忠粛王(チュングスクワング)、忠恵王(チュングヘワング)、忠穆王(チュングモクワング)、忠定王(チュングジョングワング)、恭愍王(コンミンワング)などが即位したが、忠烈王、忠宣王、忠粛王、忠恵王、忠定王が廃位され、忠粛王と忠恵王は復位した。また、忠恵王は復位後に病に倒れ再び廃位となった。7代の王の内で最も若くして王となったのは忠穆王で僅か8歳であった。

21.高麗の衰退

恭愍王の反元政治(1356~1371年)

高麗の王が元の意思によって実質的に定められるように成ったこの時代に唯一人、名前に“忠”の字が付いていない王が恭愍王(コングミンワング)である。恭愍王は若くして元に渡って親しみ、元の魏王の娘と結婚した後に元が忠定王を廃位を命じたことで王位に就いたのだが、元に対する反発心を非常に強く持った人物だった。
一方、高麗朝廷内では奇轍(キ・チョル)が権力を握り親族たちを集めて国政を私物化していった。奇轍の姉は元に貢女として奉げられたが、元の皇帝・順貞の太子を生み皇后となると順貞は高麗にいた奇轍に元の官職を与えた。これを受けて高麗朝廷でも奇轍を徳城府院君に封じると奇轍は横暴を極めた。
こうした元の圧力を見過ごすことが出来ない恭愍王はまず最初の反元政策として奇轍一党を粛清し、元が設置して100年間高麗にあった双城總管府を廃止した。また、元に奪われた領土を取り戻すなど積極的な反元政策を進めたのだが、恭愍王の9年と10年に紅巾賊と外敵の侵攻により大きな被害を受けると高麗の国運は次第に弱まって行く。
更に恭愍王の14年に王妃が出産途中に難産により亡くなってしまうと、恭愍王は王妃を思うあまり政務には関心を持たなくなり、これを元々僧である辛(シントン)に一任してしまう。
辛は身分は本来高いものではなかったが金元命(キムウォンミョング)の推薦で朝廷に上がり王の信任を得るようになった。当時の高麗の混濁した社会を改革しようと田民弁正都監を置き、富豪たちが権勢を利用して奪った土地を以前の持ち主に戻してやり、奴婢を平民に開放するなどして民心から支持を得た一方で、彼の改革政治は上流層から反感を買うこととなった。また、王が絶対的に自分を信任してくれることを知ると行動は次第に傲慢になり淫らな行動が目立つようになり王に少年を送ったりして、高麗は再びふらつきを見せるようになった。
そうした中、恭愍王の17年に中国では朱元璋が明を起こすと使臣を送って共に明と協力して元の勢力を弱めようとした。
1369年、辛は風水を理由に首都を忠州(チュングジュ)遷都を画策するが王と大臣達の反対に会い挫折する。
1372年に恭愍王は宮中に子弟衛という機関を設置し、侍女の代わりに少年達に自らの侍従をさせる様にした。宮中に若い美少年たちが入って来ると妃嬪たちとの間で問題が起こり子供を懐妊するなどの事態となった。これを知って溜まりかねた崔萬生(チェマンセング)がこうした事実を恭愍王に訴えると、王は「直ちに問題を起こした少年たちを宮中の外に連れ出し殺してこの事実を隠蔽しろ。また、お前もこの事実を知っているので死を免れない。」と言い渡した。
崔萬生は王の言葉に従うべきか悩んだ末に少年達と共謀して恭愍王を殺してしまう。しかし、血痕の付いた彼の衣服が発覚して処刑されることとなる。

綿花栽培の始まり(1363年)

高麗では元の属国状態が続き穀物や各地の特産品は元に献じなければならなかった。反面、西洋文化を取り入れ発達した中国文化や物資が伝わったりもしたが、中国物資は元の規制があって何もかもが入って来た訳ではなかった。そうした物の代表が綿花であった。
綿花はインドが原産地で実が熟すと綿の花が咲き、綿で布地を作り衣服としたり冬用の布団を作ったりした。当時、隣国同士は食うか食われるかの関係であった為、少しでも有用となるものは伝えないのが常道であり元でも綿花を高麗に伝えて来なかったのである。
当時、庶民達は寒かろうが暑かろうが常に同じ服を着なければならなかった。庶民は麻の服を貴族層は絹を着て、木綿の服はまだ存在してなかった。綿花は文益漸(ムンイクチョム)という学者により初めて高麗に持ち込まれた。文益漸は1363年書状官と言う官職を得て元に渡った人であった。文益漸が元に渡り赴任した当時の雲南地方の農作物の大部分が綿花であった。国外への持ち出しを禁じられていた綿花の種を何とか高麗へ持ち帰ろうと考え、様々試してみるのだが監視が非常に厳しくその望みはなかなか果たせなかった。そうしたある日、筆で字を書いていた文益漸は筆の柄の中に隠して高麗に持ち帰るという奇抜な考えを思いついた。
高麗に戻った文益漸は舅の鄭天益(チョングチョニク)と綿花の栽培に力を注ぐと、ついに高麗での栽培に成功する。また、文益漸の孫の文来(ムンレェ)は綿花から糸を取る機械を発明し、人々は文来の業績を讃えてこの糸をつむぐ機械を“文来”と呼んだ。

 
火薬の発明(1377年)

そうした中、高麗の海岸部では倭寇が頻繁に侵入し南海岸一帯の被害は甚大であった。倭寇の侵入は次第に激しくなり1373年には江華島(カンファド)や海州(ヘジュ)にまで北上して来た。倭寇の振る舞いは凶悪無道で幼い子供まで見境なしに殺した。
朝廷では倭寇を抑える為に水軍を整備したが、水軍も力は弱く凶暴な倭寇を抑えることが出来なかった。武器もまた弓・刀・槍などが全てであった。当時、元では既に火薬を使った強力な武器を使われていたが、これは国家機密でありその製法などは高麗にも決して伝えることのないものであった。
すると火薬を自力で作ってみせるという若者が現れる。この若者が後日、火薬と大砲を作る崔茂宣(チェムソン)だ。小さい時から火薬に関心を持っていた彼の夢は火薬を作って外敵を高麗から追い出す事であった。火薬の製法など誰も知らなかったこの時の高麗で火薬を作ろうとする崔茂宣は人々の理解を得るどころか却って変わり者扱いを受けた。しかい何度も試行錯誤を重ねた崔茂宣は元の言語を学び、火薬製造のきっかけを得ようと元の商人達が頻繁に行き来する港に通い何ヶ月か過ぎたある日、李元と言う元から来た商人と知り合うこととなる。
崔茂宣は李元を自宅に招き丁重にもてなすが、李元は火薬の製造方法を知る人であり、李元は心から国の為を思う崔茂宣の気持ちを知って火薬の製造法を教えるのだった。
二人は火薬を作る為の研究に昼夜を分けず没頭し、いよいよ完成間近と言う時になって李元は火薬の製造実験中の事故で死んでしまう。崔茂宣はそれでも研究を続け、ようやく実験を成功させるが実に20年の歳月をかけての快挙であった。
高麗から外敵を追い出す事が夢だった崔茂宣は、先ず役所に行き火薬が完成したことを伝えるが役人たちはこれを信用しなかった。崔茂宣は何度も繰り返し役所を訪れ良く説明をしたうえで実験を見せると、役人たちはその実験を見て驚き、開いた口を閉じることが出来なかった。
1377年、崔茂宣は王(ウワング)に建議して火筒都監を設置して火薬を製造する一方で武器の製造研究も始め、更に武器を載せた戦艦も作った。そして、この3年後に倭寇が大挙して侵入して来るが、崔茂宣は水軍の元帥である羅世(ナセ)と共に戦艦を率いて倭寇の船500余隻を撃破した。
この後、高麗軍は崔茂宣が作った火薬武器を使って多くの敵を殲滅し外敵を一掃し、1389年には倭寇の根拠地である対馬を攻撃して大勝する。これにより人質として対馬に捕らえられていた多くの高麗人達は故国に戻れることとなり、倭寇はこれまでの様に高麗へ侵入して来なくなる。
ところで、後に高麗を滅亡させ朝鮮を建国する李成桂(イソンゲ)は火筒都監を廃止させるが、その理由を倭寇の侵入が減ったこととしたが、実際は火薬武器の普及によって従来の武人(李成桂も武人)の地位が危うくなることを心配した為だった。
火筒都監の廃止で失意のどん底に落ちた崔茂宣は自分の知識を後孫達に残そうとこれまでの研究結果を記録して息子である海山(ヘサン)に与えた。後日、海山は火薬研究に全力を尽くし朝鮮時代の火薬武器の開発に大きく貢献するのだった。

22.威化島回軍と朝鮮建国

威化島回軍(1388年)

1388年3月、王(ウワング)は崔(チェヨング)将軍を八道都統使(パルドトトングサ)に、曺敏修(チョミンス)を佐軍都統使(チャグントトングサ)に李成桂(イソンゲ)を右軍都統使(ウグントトンサ)に任命して遼東征伐を命じた。
これと同時に王は高麗でも使用していた明の年号である洪武を使わないことと決めるが、これはこの時期まで永く続いていた親明政策を改めようとする王(ウワング)の意志が込められていた。
5月になると崔将軍と李成桂等が5万の軍を率いて王の命に従い遼東に向かった。しかし、彼らが途中の威化島(ウィファド)に着いた時、急な風雨に襲われ疾病にかかる兵が続出する事態となると将軍たちの意見が分かれた。崔将軍は引き続き王の命に従い進軍する事を主張し、李成桂と曺敏修は四不可論を掲げて回軍(軍を戻すこと)を主張した。四不可論とは
一. 小国が大国を攻めることは有ってはならない。
二. 人手の必要な農繁期に軍使を動員する事は良くない。
三. 挙国的な遠征のすきに倭寇が侵入する可能性が大きい。
四. 蒸し暑い梅雨の時期で軍内に伝染病流行の恐れがある。
李成桂は四不可論を理由に2度にわたり王に使臣を送って回軍(軍を帰還させる)を要請したが黙殺されると、自身に従う軍使を率いて回軍した。
すると、崔将軍は王の命に背いた回軍を許す事が出来ず李成桂よりも早く首都である開城(ケソング)に戻ると回軍してくる李成桂に対抗したが呆気なく敗れてしまい、崔は流配されて後に殺害される。また王も廃位となり江華島へ流配される。

浮上する新勢力-新進士大夫

李成桂が威化島回軍(イファドフェグン)を成功させることが出来たのは、新進士大夫(シンジンサデブ)という文人勢力の後押しを得ていた為だった。彼らは“反元親明”と“私田改革”を主張して政権への影響力を持とうとする勢力であった。しかし、彼らが影響力を発揮する為には武人勢力と手を結ばなければならず、そうした武人の代表的立場の一人が李成桂であった。
ところが王の即位の問題で新進士大夫たちは穏健派と急進派で意見が分かれ穡(イセク)や鄭夢周(チョングモングジュ)等の穏健派は王の息子である昌(チャング)を王に就けようと主張するが、李成桂と鄭導傳(チョングトジョン)・趙浚(チョジュン)等の急進派は自分達が推す者を王に就けなければならないと主張した。
紆余曲折の末、穏健派の推す昌が即位したが結局その在位した期間は一年も続かなかった。李成桂などが昌王が歴代の高麗王の王(ワング)氏の系列ではなく、の辛(シン)氏の系列であり、王としての正当性がないとして廃位させたのだった。急進派が昌王の姓を辛氏だと主張するのは、昌王の父である王が辛(=シンドン、高麗末期の高僧)の息子であるとのうわさ話を根拠としたものであった。これに因り、後の高麗史(朝鮮時代に書かれた)では王のことを辛王と記したりしている。しかし、別の書には王が恭愍王(コンミンワング)の息子とも伝えているものもあり本当のところは明確でない。
廃位された昌王の後を恭譲王(コングヤングワング、在位期間1389~1392年)が継いだが何の権力もなく、全ての実権は既にこの時には李成桂に移っていた。
こうした中、鄭夢周などの穏健派は趙浚・南誾(ナムウン)・鄭導傳などが李成桂を王に推戴する陰謀があることを知り、李成桂などを排除しようとその機会を伺っていると1932年、明から戻った息子を迎えに出た李成桂が落馬して怪我をする事故が起きた。すると穏健派はこれを絶好の機会とみて李成桂を襲おうとするが、事前にこれを察知した息子の一人である李芳遠(イバングウォン=太宗)が父・李成桂を他の場所に移しこの計画は失敗する。
李成桂と李芳遠は自分達の主導権を確固たるものとする為に何としても鄭夢周を味方に付けようと様々な手を打つが、彼の気持ちを容易に変えることは出来なかった。政治家であって高名な学者でもあった鄭夢周が「二君に仕えず」と断ったからである。

朝鮮の建国(1392年)

すると李芳遠は門客の趙英珪(チョヨングギュ)を使い鄭夢周の外出の帰り道を善竹橋(ソンチュクキョ)で待ち伏せさせ鄭夢周を殺してしまうのだった。もはや全ての権力は李成桂に渡り、趙浚・鄭導傳等が恭譲王を廃位させ李成桂は王に推戴されて朝鮮の太祖(テジョ=在位期間1392~1398年)となった。
太祖は庶民の混乱を最小限に抑えようと初めは国号も変えずに法律も高麗の時のままとしたが、庶民の動揺は大きく到底そのままでは統治できないと悟り翌年、国号を朝鮮として首都も漢陽(ハニャング=現在のソウル)に移した。また、終生仏教を信じてきた太祖(李成桂)であったが崇儒排仏・事大交隣・農本民生の三つを国家の基本理念とした。
一方、クーデターに成功した新進士大夫たちであったが朝鮮の建国を推進した急進派と、あくまで高麗の継続と改革を望んでいた穏健派でその後の運命も大きく分かれることとなった。朝鮮の建国に反対した多くの有能な人材がある者は野に下り、またある者は死を選ぶこととなった。特に申珪(シンギュ)・趙義生(チョウィセング)・孟好誠(メングホソング)・林先味(イムソンミ)・成思斎(ソングサジェ)・高天祥(コチョンサング)・徐仲輔(ソジュングボ)などの高麗の忠臣と列士・72人が杜門洞(トゥムンドング)に入ったまま出て来ないという事件が起きる。また、太祖の長男の芳雨(バングウ)は父等の行為を恥じて官職も家族もすべて捨てて山に入ると終生身を隠して暮らした。
太祖は杜門洞に入った者たちを外へ出そうと様々な懐柔を行ったが効果はなく、杜門洞の裏山に火をつければ出てくるのではと考え火をつけるが誰も出てくる者はなく、火に焼かれて全員が死んでしまった。後の時代になって正祖(チョングジョ=在位期間1777~1800年)は表節祠(ピョジョルサ)を建て慰霊した。

《善竹橋=黄海道・開城》

23. 李成桂と李芳遠

無学大師との出会い

高麗(コリョ)を建国した王建(ワングゴン)に道国師(ドソンクックサ)との深い関わりがあった様に朝鮮を建国した李成桂(イソンゲ)には無学大師(ムハクテサ)との関わりがあった。
李成桂は幼い時から聡明であり、また豪胆で弓の扱いがうまく近隣の村でも彼を知らないものはなかった。早くから武人の気概を身に付けた彼は、武官となって数十回の戦闘に加わり多くの手柄をあげるが、特に紅巾賊と倭寇を掃討したことで庶民からの信望を一手に集め彼の名声は全国に轟いた。
その上に性格もとても穏やかで自家の使用人であった継母を大切にして異腹兄弟たちとも非常に仲が良かった。
ある日、李成桂は妻の実家を訪ねる途中の咸境南道安辺の近くの小さな寺で一夜を過ごすこととなったが、そこでの事であった。殆ど崩れかけた古い建物に入ると、その家が突然崩れ落ち3本の柱が背中に落ちて来てそれを背負って出て来るという不思議な夢を見た。その内容に驚いた李成桂は翌日になると夢払いを頼もうと、近くの寺を訪ねた。夢の内容を話すと僧は姿勢を正して、   
「そんなに偉い方とはお見受けしませんでした。どうぞお許し下さい」と言うのだった。
「上人様、何をなさいますか?」
「今後、この夢の話は誰にも話してはいけません。万一、話をすれば大きな罰を受けることとなるでしょう」 
李成桂の問いには何も答えずに僧は訳の解らない話を繰り返した。 
どうにも気になる李成桂が
「絶対に他の人には話しませんので夢のなぞ解きをして下さい」
と言うと、僧は
「あなたは後日、必ず王になる筈だ」と答えた。
「な、何と言われましたか?」
「夢で崩れて行く家は高麗を指すもので、柱は家の最も重要な材
木が落ちて来たということは国を背負って立つという意味であり、
即ちそれは王の姿につながるものです」と言うのだ。
この夢のなぞ解きをした僧こそが無学大師(ムハクテサ)であった。
当初、太祖は高麗の国号と法制をそのまま使って国を治めようとしたが、多くの人々が高麗を懐かしみ自身に従わないことを感じると、国号を変え都も変えようと決心するが都の候補地として鶏龍山(ケェリョングサン=忠清南道・公州)と漢陽が最終的に残った。
最初に首都として決まりかけたのは鶏龍山であったが様々な条件を検討した後に、1394年結局は漢陽(ハニャング=現在のソウル)を都とすることを決める。漢陽への遷都が決まると王宮をどの様に建設するかで無学大師と鄭導傳の間で意見が対立するが、太祖・李成桂は風水学に造詣の深い無学大師の意見を採用し新しい都の建設が行われることとなった。

 
王子の乱

太祖・李成桂には二人の夫人との間に8人の息子がいたが、その内6人は最初の夫人である韓氏との間の子であり、残りの2人は2番目の夫人である姜氏との間の子であった。
李成桂が王になると誰を太子とするかが問題となった。
なぜなら、長男である芳雨(バングウ)が、李成桂が高麗を滅ぼし朝鮮を建国したことに反対し海州(ヘジュ=黄海道)の山奥深くに籠ってしまった為だ。こうなると状況からいえば朝鮮建国の際の最大の功労者である芳遠(バングウォン=6男)が太子となるべきなのだが、王妃である姜氏は鄭導傳の力を盾に自らの息子である芳碩(バングソク=8男)を太子に決めてしまった。
これに芳遠と彼の兄弟達が不満を表わし、特に功労者の芳遠と芳幹(バングガン=4男)の不満は大きかったが、芳碩の後ろには王妃と鄭導傳は勿論のこと太祖・李成桂まで付いており何ら行動に移す事は出来なかった。
何年かの歳月が過ぎて1398年になると太祖が床に伏せるようになる。これが芳遠とその兄弟達にとっては二度とない絶好の機会となった。芳遠は鄭導傳とその一党が太祖の最初の夫人である韓氏の息子たち、即ち自分たちを殺す計画を立てたとして彼らを捕らえて殺した上でその責任を太子に押し付けた。これにより太子は廃位となり、同じく姜氏の子である兄の芳蕃(バングボン=7男)と共に流罪となった後に殺される。このことを“王子の乱”“芳遠の乱”“芳碩の乱”“鄭導傳の乱”などと言う。
乱を主導し成功裏に終わらせた芳遠は太子の席を自身の兄である芳果(バングァ=2男)に譲って周辺を驚かせた。しかし、芳遠の配慮はしばらく後に新たな骨肉の争いよる悲劇の引き金となる。
一方、太祖は子供たちが互いに殺し合う事件が起きると、慌てて王位を芳果に譲って自らは上王となり芳果は朝鮮第2代王の定宗(チョングジョング)となった。
定宗は官制を改革して学校を建て、楮幣(チョペ=と呼ばれた貨幣)を作るなど国政に力を注いだ。定宗は性格が穏健であったが決断力に欠ける面があり、王としての決め事の大部分を兄弟たち、特に芳遠に相談し結局自らの後継も芳遠に委ねた。この決定に密かに王位への野心を抱いていた芳幹が不満を持つ様になった。
この時、前の“王子の乱”の際に功を立てながら評価に不満のあった朴苞(パクポ)は、定宗が後継者を芳遠に決めたのを知ると芳幹を密かに誘い行動を起こした。これが“第2王子の乱”であり“朴苞の乱”とも言う。最初の“王子の乱”は兄弟が力を合わせたことで成功したが、“第2王子の乱”は芳幹と芳遠の争いとなり芳遠の勝利で終わる。これにより芳幹は流罪となり朴苞は死刑となった。
この事件の後、定宗は急ぎ王位を芳遠に譲位し、芳遠は朝鮮第3代の王・太宗(テジョング=在位期間1400~1418年)となり定宗は上王となった。太祖は太上王となるが、咸境道に移り隠居生活に入ると同時に2度に渡った息子達の王位争奪に心を痛め出家した。太祖の傍らで黙々と過ごしていた無学大師はその後、太祖の心の痛みを知って慰め漢陽に戻ってくる様に薦めた。

太宗の改革政治

太宗は王位に就くと先ず、これまで乱の起きる原因ともなっていた私兵を廃止して王権と国防力の強化に努め、抑仏崇儒策を更に強化した。その一方で、申聞鼓(シンムンゴ)を設置した。申聞鼓とは中国の宋で創設された制度で今日の抗告(不服申し立て)と同様のものであり、申し立てについては王が直接事件を処理した。また、太宗は三嫁禁止法を強化するなど儒教道徳を確立した。更に太宗は儒教経典の普及をはかる為に鋳字所(チュサソ)を設置し銅活字を作り書籍の編纂を更に容易にした。
1413年太宗は全国を8道に分けて管理することとするが、これは現在も“朝鮮八道(チョソンパルド)“の名で受け継がれている。高麗時代には全国各地に有力豪族が周辺の郡までも治める界首官と呼ばれる官職を与えられ強大な権力を誇示していた。
忠州、清州、慶州、尚州、晋州、全州、羅州、黄州、海州、江陵、原州、平壌などが代表的な界首官に属した。8道の名称についてはこれら主要都市の名を取り、忠清道(忠州~清州)、慶尚道(慶州~尚州)、全羅道(全州~羅州)、黄海道(黄州~海州)などとした。
 地方制度をおおむね改編した太宗は庶民達も容易に把握できる戸籍を作り、16歳以上の男子には戸牌(ホペ=身分証)を常時腰に提げさせた。良民身分のものには戸籍の作成を義務付け3年ごとに確認させた。戸籍が作られた後には勝手に他地へ移り住むことを認めず、これを破った時にはムチ打ちの刑を科した。
更に、庶民を世帯単位で5戸を1統という単位で編成して互いを管理させた。これらは全て民衆を正確に把握し労役や貢納の負担をさせる上で人の動きを正しく掌握する為であった。
また、太宗は国力の向上を目的として身分の上下に拘わらず16歳以上60歳以下のすべての良民に軍役を科したが、農作業への影響を考慮して正兵と奉足に分け正兵には本来の軍事的役割を、奉足には正兵の経済的支援を科した。
この時代までの長い間、僧侶たちは寺院田と呼ばれる私田を保有して農民に対する高利貸を行い、製紙や醸造にまで行って多くの利益を得ていたが太宗はこの寺院田を1406年に国有地として帰属させた。太宗は即位直後から寺院田の改革を考えていたが熱心な仏教信者である太祖の反対で実行に移せずにいたが、即位6年目の年に実行したものだった。更に科田法を改正して官吏たちに支給していた京畿道内の私田を縮小して公田に戻した。
王になる為に兄弟たちと命懸けの争いをした太宗であったが国の基盤作りの為に多くの業績を残した。また、世子(セジャ=太子)である譲寧大君(ヤングニョングテグン)が政治に関心を示さず放蕩生活を続けるとこれを廃位して、聡明な三男の忠寧大君(チュングニョングテグン)を世子にして自らの後を継がせることとした。

24.歴史上最も偉大な王ー世宗大王

世宗の即位

朝鮮の第4代王・世宗(セジョング=在位期間1418~1450年)大王は太宗(テジョング)・李芳遠(イバングウォン)の3番目の息子として生まれ、1408年に忠寧君(チュングニョングン)に封じられ、その5年後には大君に進奉された。1418年に世子(セジャ=太子)であった兄の譲寧大君(ヤングニョングテグン)が廃位されると世子となり太宗の譲位を受けて王位を継承した。
太宗が忠寧大君を世子となった理由は世子であった長男の譲寧大君が政治に関心を見せず放蕩生活に明け暮れた為だった。しかし、一説には譲寧大君が早い時期から弟である世宗大王の人柄や勤勉さを知って意図的に放蕩生活を送ったとも言われている。譲寧大君が廃位されると2番目の考寧大君(ヒョニョングテグン)は更に熱心に学問に励むが譲寧大君が世宗大王の人となりを改めて話して納得させたと言う。この3人の兄弟はとても仲が良かったが、譲寧大君は世宗に悪い影響を与えることのない様に全国各地を遊浪して風流を楽しみながら一生を過ごしたと言う。また、考寧大君も弟である世宗大王の邪魔にならない様に仏門に入り圓覚寺の創建を監督して圓覚経を刊行した。この様に兄達から直接的に支援を受けた世宗大王はその期待を裏切らず聖君となった。

庶民を思って・・・

世宗大王が32年の長きにわたり王位に就くなかで最も偉大で代表的な業績は我が国の固有の文字である訓民正音(フンミンジョングウム=ハングル)の制定と言える。
それまでの韓国で文字と言えば中国から伝えられた漢字を使ってきたが、漢字は意味と音が違うだけでなく非常に難しく、一般庶民にとっては学ぶ機会も意欲もなかなか持ち得なかった。従って漢字は両班(ヤングバン)たちだけが学ぶ文字とならざるを得なかった。幼い時から書物を好んだ世宗大王は庶民達が文字に親しめずにいる実情を非常に残念に思っていた。歳月が流れ世子(後の文宗=ムンジョング)が政事に参与する様になると世宗大王はそれまでの自身の考えを実践に移すべく、全ての庶民が容易に学べる文字を作るべく朝廷に正音庁(ジョングウンチョング)を設置し、集賢殿(チップヒョンジョン)を拡大して優秀な人材を養成した。
身分に関係なく人材を登用して学問が如何にあるべきかを議論させ、活字を改良して学問を奨励し書籍編纂にも力を注いだ。その結果として多くの分野の文献が編纂され、例えば朴(パクヨン)は雅楽を整理させた。更に、この時期は大・小簡儀、渾儀、渾象や仰釜日、自撃漏などが多く作られ、世界最初の測雨器も発明された。
また、軍事訓練、兵書刊行、武器製造、城鎮修築などにも力を注ぎ、日本に対しては歳遺船という交易船の往来を認めるなど懐柔策を取るが、1419年に倭寇が侵入するとその拠点である対馬島を征伐させた。しかし、天性の平和主義者であった世宗大王は対馬の人々の為に三つの港・三浦(釜山浦、熊川の斎浦、蔚山浦=いずれも慶尚道)を交易港として解放した。世宗大王は明との外交にも成果を上げ、金・銀細工を馬と布で代えられる様にした。

一生を庶民の為にささげた世宗大王は晩年、大部分の政事を世子に任せて自身は庶民の為にとハングルの研究に没頭した。庶民達の目を開かせる目的のハングル研究であったが、これにより世宗大王は眼病を患い苦労することとなった。
当時は治療法も薬も多くなく景観が良くきれいな所の水を使う程度では世宗大王の苦痛は到底言葉に表すことが出来なかった。次第に病は世宗大王の身体の他の個所にも表れるようになり1450年2月この世を去ることとなるが、この時世宗大王は53歳であった。

28.奴婢から高官へ
 
科学者 ・英實

早くから庶民のくらしを思う心が格別であった世宗大王は庶民たちが、もっと安らかに暮らせるように1423(世宗5)年、全国に令を下して能力ある人材を求めた。そんな折、釜山の東来(トングネ)県には英實(チャングヨングシル)という官奴(官庁で使われた奴僕)がいた。英實は幼い時から手先が器用で物を作ることを得意としたが、彼の母親が官伎であった為に成長すると慣例によって東来県の官奴となった。幾らも過ぎないうちに英實の器用さは東来県に無くては成らないものとなった。どんなに壊れたものでも彼の手にかかれば新しい物に生まれ変わるのだった。
日頃から英實に目を掛けていた東来県監は王の命が下るとすぐに英實を推薦した。世宗大王は英實の人柄を知って彼に官職を与えようとしたが何人かの大臣の反対に会うこととなる。英實の身分が常人(サングイン)であった為だ。当時の朝鮮社会は徹底した身分社会で常人が官位に就くことなど誰も夢にも思わなかった。
しかし、世宗大王の熱意はそうした者たちの誰にも曲げさせることは出来ず結局、英實は官職を努めることとなった。王の天の様に高く広い心に感動した英實は誠心誠意、任務に努めた。数年後には行司直(ヘンサジック)となり、1432年(世宗14)には護軍(ホグン=正四位)となり簡儀台を製作して各種天文儀の制作を直接監督し、1433年には渾天儀を製作した。古くから人々は、王とは天に代わって庶民を治める人と考えられた為に、王が天について良く知っていなければならないとの観点から様々な天文機器の研究が勧められた時代であった。

自撃漏と測雨器の発明

新たな物事を学ぶ為に中国にも出かけた英實は太宗時代に作られた活字印刷器である癸未字(ゲミジャ)をより精巧にした甲寅字(カッビンジャ)の鋳造を指揮する一方で水時計の自撃漏を作った。
自撃漏は朝鮮で作られた最初の自動時計で一切、人の手を必要としない画期的な発明であった。自撃漏の構造は4つの水甕(みずがめ)と2つの円筒形の青銅の水受け、時報装置からなっており、水受けと時報装置の間には金属玉を利用した動力装置が接続されていた。自撃漏は日の出から日の入りを12等分して毎時ごとに時報で知らせ、夜の間は5更(初更は午後8時~10時、二更は10時~12時という様に)に分けて時報を出した。昼の時間は毎時定刻に時報装置の一番上の木製の人形が鐘を一つ突いて知らせたが時間ごとに十二支を表わす動物の人形を用いて区別した。夜の5更は別の装置を使って人形が毎更ごとに更の数だけの太鼓を打ち、更と更の間にはその数だけの銅鑼を打つという精巧なものだった。
世宗大王はこの発明に大変喜び慶福宮の南に報漏閣を建て設置させた。しかし、自撃漏は宮殿の中にあり庶民たちはその時報の音を聞くことが出来なかったので、英實は太陽を利用した時計である仰釜日を作るが、世宗大王は多くの人々が容易に時間を知ることが出来る様に宗廟の前にこれを設置した。

その後、英實は引き続き研究を重ねた末に天体の姿と一年の四季をひと目で見ることの出来る玉漏を作り、更に天体を観測する事が出来る大簡儀と小簡儀を、そして持ち運べる日時計である天平日、昼と夜の気象を測定する日星定時儀、太陽の高度を測定する圭表を製作、監督した。この様に情熱を持って誠心誠意科学の発展に貢献した英實は1441年に世界最初の測雨器を発明したのだった。その他にも水標橋を作り降水量を測定するなど多くの科学機器を作った英實は上護軍の位に就いた。しかしその翌年、英實は王の乗る輿(こし)を製作したが、世宗大王がその輿に乗っている時に輿が壊れて王が怪我をする事件が起きた。これにより英實は不敬罪に問われてムチ打ちの刑に合い罷免される。ずば抜けた手先の器用さと頭脳、そして努力の末に奴婢から高官にまで上り詰めながらたった一度の失敗で退場する事になった。

25.民族固有の文字“ハングル“

訓民正音の創製(1443年)

「我が国の言葉は中国とは違い漢字だけを持って意志の伝達が難しい。よって庶民たちは伝えたいことを充分に伝えられずにいる。私はこのことをとても残念に思い、新たに28の文字を作ったので人々はこれを学んで日常生活の助けにしてほしい」
これは、1443年(世宗25)に世宗(セジョング)大王が訓民正音(フンミンジョングウム)、即ちハングルを作った際にハングル創製の動機を明かした《御成文》の初めの部分である。
早くから読書を好んだ世宗大王は多くの庶民たちが文字を読むことが出来ないことに胸を痛め、また文字を読めないことから濡れ衣を着せられ、犯罪裁判で不公平な待遇を受けることなどのあることを知って、そうしたことを解消する手段としても文字を作らなければならないと考えた。世宗大王はこうして訓民正音をこの世に発表すると自身の意志も一緒に明らかにしたのだった。

今日、多くの人たちはハングルを世宗大王の命令によって集賢殿の学者たちが作ったものと理解しているが、歴史資料を調べてみると世宗大王が自らも創製の作業に深く関わっていた作ったことが分かる。訓民正音がこの世に初めて登場するのは1443年(世宗25)12月のことだった。世宗大王が作業に直接関わったという事実は世宗実録と訓民正音解例本における創製者の一人の鄭趾(チョングインジ)の序文を通して知ることが出来るが内容は次のとおりである。
「この月、王様に於かれては諺文28字を自ら作られた。この文字は初・中・終の3つに分け、これらを合わせることで文字が成立する。この文字は漢字と我が国の固有語の全てを表現する事が出来て簡要であらゆる転換が可能である。これを訓民正音という。-世宗実録 巻102、世宗25年12月」
「癸亥の年の冬、わが殿下におかれては正音28字を創製された。例儀が簡略で分かり易く訓民正音と名付けられた-鄭趾 序文」
癸亥の年とは世宗25年で、世宗実録と鄭趾の序文の内容が一致していることがわかる。また、世宗大王が自らハングルを作ったことが確認される事にハングルの頒布に反対した崔萬理(チェマンリ)
等の上疏文に対する世宗大王の回答を上げることが出来る。
崔萬理は世宗大王がハングルの創製を全国に告げると、その2ヶ月後の1444年2月に6つの理由を挙げハングルの頒布に反対した。

「・・・我が国は昔から大国である中国の制度を模範として実行してきたが、それとは何ら関係のない文字を作ることは政治の面でも学問の面でも一つの助けにならないと考えます。①特に文字の創製とは多くの時間を掛けて意見を集めて施行しなければならないのに余りにも性急に発表されました。②それゆえ中国との関係が悪くならないかと心配しています。③中国の周辺国が文字を持っているとは言っても彼らは全て匈奴です。そこで我々が文字を持ったところで匈奴と何処に違いがありましょうか? ④特に我が国には新羅時代から伝わっている吏讀(イドゥ=又は吏頭=漢字の音と訓を借りて韓国語を記すのに使った表記法)があります。吏讀は漢字を学ばなければ使えない為に学問の助けになりますが、諺文(オンムン=ハングル)は漢字を知らなくても良いので学問をする上で大きな不便が生じます。⑤万一、官吏たちの全てが諺文だけを学べば漢字を知らずに刑政を担えなくなります。⑥また、学業に精進して精神を磨くべき幼い王子たちが学問を学ぶことを怠るならば、この国は今後一体どう成りましょうか?諺文は主に多くの庶民たちに有益だと言うが、却って国家的には大きな損失を招くだけです。従いまして何卒、諺文を頒布しないで・・・」
これに世宗大王は崔萬理などに直接会って彼らの気持ちを変えさせようとしたが、彼らは引き続き自身らの主張だけを繰り返したため、項目ごとに王の意見を披歴した。
「私が訓民正音を作るのは難しい漢字を学ぶことが出来ないまま一生を無知に生きて行く庶民たちに、より易しく学ばせるためである。新羅時代の吏讀は庶民たちに容易に理解させようと作られた文字であり、諺文もまた同じである。それを、どうしてあなた達は吏讀を作った薛聰(ソルチョング)は正しいと言って、あなた達の王がすることを正しくないと言うのか? あなた達が上訴文で、私が何故そんなに諺文にこだわるのか不思議だと言っているが、私が歳をとって国家の庶務は世子が執ってくれるので本を友としているだけのことだ。」と諭した。
また、成俔(ソングヒョン)が書いた慵齋叢話(ヨングジェチョンファ)では次の様に記されている。
「世宗が諺文庁を設置して申高霊(シンゴヨング)、成三問(ソングサムムン)などに命じて諺文を作られた。・・・学のない婦女子でも易しく学ぶことが出来た。聖人の物を作る知恵は人の力では計り知れないものだ。-慵齋叢話 巻7」
ここで言う“聖人”とは世宗大王を指しており、ここでもハングルの創製作業に王が直接関わっていたことを示している。

 
学問の勧め

世宗大王はハングルの創成後は集賢殿を拡大して文臣達を選んで学問を研究する様にさせ、書籍の編纂などにもあたらせて数多くの人材が集賢殿から排出された。世宗大王は10名で構成されていた集賢殿を20名(時には30名)に増やして人材の登用を積極的に行った。彼ら集賢殿の学者達のすることと言えば一日中研究に当たることだが、10名には経筵(経書と王道に関する研究して王に講義を行う)を行わせ残りの10名には書筵(書経に関する研究を行い王に講義を行う)を命じた。世宗大王は集賢殿の学者をとても大切にし、彼らが研究に没頭できる様に様々な配慮をした。集賢殿の学者たちに対する世宗大王の愛情の表れとして次の様な逸話が残されている。
ある年の寒い冬の夜、世宗大王はいつもの習慣の様に集賢殿に足を運んだ。集賢殿の学者たちは毎日交代で宿直をする事となっており、その事に気を掛けた王が集賢殿を訪れたのだった。
時間は夜中の12時をはるかに過ぎていたが集賢殿の灯りはともされたままであった。誰がこの様な遅い時間まで何をしているのか気になった世宗大王は内官に命じた。
「今日の宿直者は誰か見て来なさい。そして何をしているのかも見て来なさい。」
「はっ!すぐに確認してまいります。」
内官は集賢殿の中に行き動静を見極めると世宗大王のところへ戻り報告した。
「今、集賢殿では申叔舟(シンシュクジュ)学者殿が本を読んでいらっしゃいます。」
「そうか。では、何時まで本を読んでいるか良く見て報告しなさい。」
世宗大王がこの様に命じたのは、集賢殿の学者達が日頃からどれだけ熱心に研究するのかを知っておく為だった。王の気持ちを知ってか集賢殿の灯りは少しの間も消えることはなかった。
いつの間にか深い冬の夜が更け、新しい朝の到来を告げる鶏の声が遠くから聞こえる頃になってようやく集賢殿の灯りが消えた。この報告を聞いた世宗大王はたいそう喜び自身が使っていた獣の皮で出来た外套を褒美として与えた。次の日、申叔舟と集賢殿の学者たちは王の深い思いを感じて更に熱心に研究を重ねたと言う。
また、王宮の中に諺文庁を置いて本格的にハングルを研究する様にさせ、ハングルによる多くの本を編纂させた。世宗大王自ら仏教歌集である月印千江之曲(ウォリンチョンジコク)を編纂し、王の次男の首陽大君(スヤングデグン=世祖王)には釈迦の一代記である釋譜詳節(ソッポサングジョル)をハングルに翻訳させた。
訓民正音を完成させて3年の周知期間を経た1446年9月、世宗大王は訓民正音を頒布した。この日を太陽暦に直すと10月9日となることから、現在韓国では10月9日を“ハングルの日”としている。

26.死六臣-忠義を貫いて死す

癸酉靖難(1453年)

自らの生涯を庶民達の為に尽くして様々な業績を残した世宗(セジョング)大王も一つ悩みがあった。それは他でもなく後継者である世子の事であった。世子、即ち文宗(ムンジョング=在位期間1450~1452年)は幼い時から学問に優れて性格も穏健であったがとても体が弱かった。世宗大王には18人もの息子がいたが、その内の世子のすぐ下の弟である首陽大君(スヤングテグン=世祖)は密かな野望を持った人だった。
晩年の世宗大王は自身の亡き後に兄弟の間で王位継承の為に争いが起こる事をとても心配し、生前に皇甫仁(ファングボ・イン)、金宗瑞(キムジョングソ)等の大臣に世子とまだ幼い世孫(世子の子=端宗)を守る事を遺言して亡くなる。

世宗大王の後を継いだ文宗は民意を把握して文武の均衡を保った登用をした。しかし、体が弱く王になって2年で床に着くことが多くなってしまう。自らの天命を悟った文宗はその時わずか12歳の世子(端宗=タンジョング=在位期間1452~1455年)のことが何よりも気がかりで、金宗端を始め成三問(ソングサムムン)、申叔舟(シンスクジュ)、朴彭年(パクペングニョン)等に世子の行く末の後見を託すのだった。
文宗が亡くなり、端宗が即位すると首陽大君は鄭趾(チョングインジ)、韓明(ハンミョングフェ)、權(クォンナム)等と結託して王位を奪う謀議を始める。特に韓明は生殺簿(殺そうとする大臣の名を記した名簿)を作って癸酉靖難(ケユチョングナン)の筋書きを描いた。首陽大君の動きを察知して金宗端等はこれに備えるが、首陽大君はそれ以上に機敏で、先ず金宗端を殺した後に王名を使って生殺簿に名を連ねた大臣達を王宮に呼び出した。大臣達は王宮の第2門まで来たところで鐡如意(チョリョイ)という砲丸の様な鉄のかたまりで殴り殺されてしまう。

反対勢力を完全に取り除いた首陽大君は端宗に対しては、金宗端等と安平大君(アンピョングテグン=世宗大王の3男)が謀反を企てたので鎮圧したと報告した。安平大君は江華島(カンファド)に流された後、喬桐(キョドング)に移配されて賜死された。これにより首陽大君は全ての反対勢力の除去に成功し王位に就く基盤を整えた。この事件を癸酉の年である1453年に起こったことから癸酉靖難(ケユチョングナン)という。
乱を成功させた首陽大君は領議政府事・吏曹兵曹判書・内外兵馬都統使などを兼務しながら朝鮮のあらゆる実権を掌握してしまった。
叔父である首陽大君の威勢に圧倒された端宗は恐れ震えていた。すると首陽大君の側近たちは更に巧妙に端宗を追い詰め、ついに1455年、端宗は自ら王位を退き首陽大君が朝鮮第7代の王・世祖(セジョ=在位期間1455~1468年)となった。

端宗復位運動(1455年)

例え世祖が王位禅譲の形式を取ったとは言え、これは明確に計略によって引き起こした王位簒奪であった。これにより多くの人達が朝廷を去ったり反発したりした。特に集賢殿の学者で世宗大王の信任が厚かった成三問(ソングサムムン)・朴彭年(パクペングニョン)・李(イゲ)・河緯地(ハウィジ)・柳誠源(ユソングウォン)・兪應孚(ユウングブ)等は成三問の父である成勝(ソングスング)と共に上王となり寿康宮(スガングン)で日々を過ごしていた端宗を復位させようとした。ところが共に行動するはずであった金(キムジル)の密告をきっかけで成三問達は囚われてしまう。
世祖も直接出て成三問たち6人を尋問するなど、取り調べは昼夜の区別なく行われ過酷な拷問と烙刑(焼きごてをあてる拷問)が6人を待っていた。しかし耐えがたい酷い拷問にも拘わらず6人は最後まで屈服しなかった。
世祖は6人の中の成三問の才能を認めて自分の言う通りにすれば助けてやると告げた。しかし、成三問は世祖を“ナウリ()”と呼び忠臣は二君に仕えないものだと主張する。“ナウリ”と言う称号は臣下が世子以外の王子たちを呼ぶ際に使用するもので、成三問は世祖を王としては認めず単に王子としての礼を取ったものだった。
このことで世祖は更に酷い拷問を指示し成三問は足と腕を切り落とされてしまう。それでも成三問は少しも変わることなく最後まで世祖を王として認めなかった。しばらく後、成三問は拷問によりこの世を去り朴彭年たちも漢江に引き出され処刑される。
朴彭年もまた成三問と同じ様に世祖を王と認めず、逮捕の前に忠清監事の役職を務めていた時でさえ、朝廷への報告書に一度も“臣”と言う字を使わなかった。また、この時の忠臣の一人で端宗が世子だった時から学問を教えた柳誠源は事件が明るみになると成均館(国立の学問所)で自決した。

人々は彼らを、その意志の強さと忠誠心を讃えて死六臣と呼んだ。世祖は彼らの家族達は勿論のこと、自分に少しでも異を唱える者は直ちに処罰した。また、自らの甥でもある端宗をも疑って魯山君(ノサングン)に降等させた後に寧越に配流し、弟である錦城大君(クムソングテグン)も配流とした。思わぬ配流の身となった錦城大君は府使(長官)の李甫欽(イボフム)と手を結んで端宗を復位させようとするが、これも密告により失敗に終わる。世祖は錦城大君が自身の実の弟であることから殺さずに配流に留めたが李甫欽らは誅殺させた。これに鄭趾(チョングインジ)、申叔舟(シンスクジュ)などはいつ又、謀反の巻き添えを受けるか分らないとして、その火種である錦城大君への治罪(罪を調べ裁く)を繰り返し主張し、ついに世祖は錦城大君と魯山君を賜死させる。この時、魯山君(即ち端宗)はわずかに17歳であった。

この端宗廃位事件は後に起こる事件や文人・学者間の対立と反目の原因の一つとなった。一方、世祖は庶民たちを恭順させる為に惨めに殺害された死六臣の死骸をそのまま放置させていたが、ある時、サッカ(笠=竹や葦などで編んだ深みのある笠)をかぶった男が来て死骸を回収して行くのだった。
命を掛けた死六臣の無惨にさらされていた死骸を回収したのは、幼い時に神童と言われ、後に生六臣の一人に上げられる金時習(キムシスプ)であった。

27.朝鮮第7代王・世祖

黄標を変えろ

1417年、世宗(セジョング)大王の2番目の息子として生まれた世祖(セジョ=在位期間1455~1468年)は12歳で首陽大君(スヤングテグン)に封じられた。
幼い時から聡明で勇猛な首陽大君は世宗大王の命を受け釈迦の一代記をハングルで記した全24巻から成る釋譜詳節(ソクポサングジョル)を著した。仏教信者であった世宗大王は釋譜詳節を読んで大いに感動を受け、自らも釈迦の功徳を称賛した月印千江之曲(うぉリンチョンガングジコク)という歌集を執筆した。
しかし世宗大王は晩年になると幾つかの心配事が出来るが、その内の一つが首陽大君の事であった。平素から世宗大王は、王権は長男が継ぐべきと考えていたが長男である文宗(ムンジョング)が非常に病弱で、それに反して首陽大君は性格が闊達であるだけでなく勇猛で行動力があり、自身と文宗がこの世を去った時には残された幼い甥との間で後継争い起こすのではと思われた為だ。世宗大王は安心できないまま臨終を迎えるが、その際に集賢殿の学者たちに文宗とその幼い世子(後の端宗=タンジョング)を守れと遺言する。

世宗大王の後を継いだ文宗は王位について僅か2年でこの世を去り、端宗が12歳で王位に就く事となって世宗大王の心配は現実のものとなった。文宗は亡くなる前に、領議政(ヨングイジョング)の皇甫仁(ファングボ・イン)、左議政(ジャイジョング)の金宗瑞(キムジョングソ)、右議政(ウイジョング)の鄭(チョングブン)等に端宗を行く末を託した。その結果として政事は3人が掌握する事となり、これに不満を持つものが出る様になる。3人は端宗に上げる書類に前もって黄色く印を付けて提出すると端宗はそのまま決裁をした。この事を黄標政事(ファウングピョジョングサ)と言う。

韓明との出会い

この様に国の大事・小事が3人の高官の意志で左右されるようになると王の宗親(一族)が不満を持ち始め、特に主陽大君の不満は非常に強かった。これに対し3高官は宗臣達の力が増大しない様に堂上官(殿上人)以上の者と大君の家を出入りして奔競(謀議)する者は法により取り締まるとの命を出した。すると首陽大君は皇甫仁ら高官3人を訪ね“奔競”について細かく正して為に奔競禁止法は有名無実となり、却ってこの事で首陽大君の威勢は高まる事になる。

一方、首陽大君の弟である安平大君(アンピョングテグン)は3高官と非常に親しく隠れた実力者となりつつあった。そんな折り、首陽大君の家では三場壯元(サムジャングチャングウォン=科挙の試験を3度受けて3度合格した者)を果たした集賢殿の学者の權(クォンナム)が頻繁に出入りしていた。權には古くからの友人が一人いたが名を韓明(ハンミョングへ)といった。韓明は知識が豊富な策士で王権に対して野心を抱いていた首陽大君は彼らの持ち味を良く理解し関係を深める様になった。特に韓明は暫くすると首陽大君の側近として安平大君と皇甫仁などの3高官を始めとする自分たちに敵対する武吏たちを排除する殺生簿を作り、洪達孫(ホングダルソン)・楊丁(ヤングジョング)・柳洙(ユス)などの武人を配下において実行の時に備えた。

準備された乱

癸酉の年(1453年)、穏やかな秋の日々を送っていた端宗ではあったが、しかし穏やかに思われたのも束の間で端宗には一歩一歩と死の影が近付いていた。首陽大君と韓明等は弓撃ちの試合を口実にして50~60名の将兵を首陽大君の私邸に集めると、事を確実に成功させる為にまず敵側の最有力者の一人である金宗瑞を殺し、その後に宮殿へ向かった。首陽大君の急な入宮に驚いた端宗が龍床(王の座るべき席=玉座)に座ると首陽大君はもう既に王と成った様な口調で話し始めた。
「王様、金宗瑞や皇甫仁らは以前から国の政事を自分勝手に操っていましたが、地方の役人どもを味方に付け謀反を起こしました。大変急な事態で、まず金宗瑞を討ち取ってきましたが先斬後啓(先に斬って後から報告する)となりました。」
「そんな筈が!伯父上、金宗瑞は謀反を起こす様な者ではありません。そんな筈がありません。」
「金宗瑞らは王様がまだ幼い事にかこつけて安平大君を立てて王位を簒奪しようとしたのです。」端宗は驚いて顔を青くしたまま、それ以上一言も発する事が出来なかった。
「殿下、余り驚かれないで下さい。殿下のお側にはこの首陽がおります。首陽が殿下をお守り致します。ですから、逆族を誅殺する様に命令をお出し下さい。」
「私は伯父上だけを信じます。お任せ致します。」
首陽大君は御命を受けて大臣たちを宮に引き入れると、先に用意した殺生簿に従って一人ずつ取り除いて行くのであった。この事件が癸酉靖難(ケユチョングナン)である。

癸酉靖難により首陽大君は政権と宮権の両方を掌中に収めた事と成り事実上、この時点で朝鮮の第一人者となった。幼い端宗は不安だけを抱きながら一日一日を過ごすだけだった。この間、韓明と權は首陽大君を王の座へ就けるべく徐々に陰謀を実行に移すのだった。まず、首陽大君の兄弟である大君たちの力を弱める為に些細なことでも大ごとに仕立て配流した。
そうして端宗が広い宮廷の中で孤立した生活を始めて2年が過ぎる頃には、端宗はいよいよ王位に居たたまれなくなり首陽大君に譲位する決心をする。1455年閏6月11日、慶會樓(キョングフェル)において端宗は王位を首陽大君に譲位して首陽大君は世祖(セジョ=在位期間1455~1468年)となった。
世祖が譲位を受けると端宗への礼節から官位を捨てて隠居する者や成三問の様に端宗の復位を企む者が出て来る。これに対し世祖は王権の強化を目的に多くの人材を殺し、挙げ句の果てには自らの弟や甥たちまでも死に追いやるのであった。

李施愛の乱(1467年)

世祖の即位する過程で様々な理由で多くの功臣達が朝廷から抜けてしまうと税収は益々不足し、世祖は対策を迫られ1466年(世祖12年)それまでの科田法を廃止して職田法を実施した。職田法は科田法で認めていた世襲を認めず、現職官吏にのみ支給を認めたのだがその量も以前よりも削減した。これにより父母より科田を受けていた人々の不満は増大することとなった。それまで北道地方(京畿道以北の地方)にはその地域の特性を良く知る北道出身の守令を選出していたが、世祖は中央集権を強化しようと北道の守令に南道の出身者を任命した為に北道の人々は更に不満を持つ事となった。そうした中、朝廷では戸牌(ホペ=16歳以上の男子に常時携帯を義務付けた戸籍牌)制度を強化した戸牌法を施行して、地方民が自由に移住する事が出来ない様にした為に北道の豪族たちの不満は益々大きなものとなって行った。
その様な世祖の政策に不満を持つ北道の豪族の一人である李施愛(イシエ)は、丁度この時期に両親を失った事もあって弟の李施合(イセハプ)と義理の弟である李明考(イミョングヒョ)と共に反乱を起こした。これを李施愛の乱と言い1467年の事であった。李施愛の乱は多くの庶民たちの支援もあり3ヶ月の間続いたが、結局は官軍に討伐されて幕を閉じる。
奪い取る様にして手にした王位であったが、世祖は自らの行いを深く反省して14年の在位期間の間、国事に励み朝鮮初期の王権の確立に大きく貢献して多くの業績を残した。しかし因果応報とも言うべきか世祖は晩年になるとハンセン病に苦しみ寂しく過ごした。

28.成文法“経国大典”

経国大典の完成(1485年)

世祖(セジョ)が残した業績の中で最も高い評価を得るものとして経国大典(キョングックテジョン)が上げられる。経国大典は朝鮮初期から施行されてきた全ての法を整理し客観的で且つ体系的な方法で作られた朝鮮の法典である。それ以前の高麗時代の法律などは高麗自らが作ったものとは言えず、唐の法律の中から71の条項を引用したもので刑法に関する部分を高麗の実情に合わせて手直ししたものであった。
高麗末に実権を握った李成桂は固有の法を作ろうと趙浚(チョジュン)と河(ハユン)に高麗の王(ウワング)の時代からの条例を総て整理させ経済六典(キョングジェユックチョン)を編纂させたが、これが朝鮮最初の法典となる。しかしその内容は、やはり中国の法典を模範としていて独自性があるとは言えなかった。それでも経済六典は完成までに長い時間を要し、第3代王・太祖の時代になってようやく完成した。その後、太祖は経済六典を補完する元六典と續六典を編纂して、より実情に合った法律とするべく努力した。これは代々の王が政治と社会が急変するなかで独自の法律の必要性を痛感した為であり、経国大典は国の実情に合わせて作られ朝鮮時代が終わるまで使用された。
経国大典は6か条の行政法をその基礎に置き、国を治める指針を明らかにするだけでなく庶民の家庭と社会生活の義務と権利の規範までも詳しく記された。経国大典により新たに規定された法律には次の様なものがみられる。

- 息子と孫、妻と妾または奴婢が父母やその家の家長を告発することは、国に対する反逆、陰謀の場合を除いては絞首刑に処する。(綱常罪)
- 土地と家屋の売買ではその後15日以内は内容の変更が出来ず、100日以内に官庁へ報告し確認書を受けること。
- 奴婢の売買も同様とし、馬と牛の場合は5日以内は変更が出来ないこととする。
- 男子は15歳、女子は14歳にならないと結婚できず、結婚と同時に女子は男子の家へ入らなければならない。(それ以前は男子が女子の家に入り一定期間、暮さなければならないとしていた)
- 父母の死後、その財産は男女均分相続をする代わりに、祖先の祭祀(チェサ)を受け持つ子孫に3分の1を更に与え、奴婢は本妻と子が均等に分けることとし、家系を継承する息子には更に5分の1を与え、妾の子へは本妻の子の7分の1を、賤民の妾の子へは10分の1を与える。
- 官庁と個人に債務を負う者が死亡しても、妻や子等に財産がある場合は返さなければならない。個人への債務の場合は事実を確認する証書がなければならない。但し、1年が過ぎても官庁へ届けがない場合は訴訟を認めない。
- 士大夫は妻が死亡した場合は3年経たなければ再婚を認めない。但し、父母が命じる時又は年齢が40を過ぎたものは1年経てば再婚できる。
- 本妻に息子がいない場合は妾の息子である庶子へは科挙を受ける資格を与えない。
- 寡婦は再婚する事が出来ず、やむなく再婚する場合はその子孫は官職に就く事が出来ない。
- 七去之悪(儒教で妻を離縁できる七つの理由)と三不去(七去之悪に該当しても離縁出来ない3つの理由)に従い男は離婚する事が出来る。
この様に庶民が暮らす上で必要となるあらゆる事の規範として経国大典は、その後も何度か修正や補完が行われ成宗(ソングジョング)の時代の1485年になってようやく完成した。

儒教の発展

経国大典は朝鮮の建国理念の一つである抑仏崇儒に立脚していて
基本骨子は儒学(儒教)に従ったものと言える。儒教は中国の孔子の教えに基づく学問で、中国の固有の思想を総合整理したものであり孝悌忠信の精神を主とし日常生活の実践道徳を貫くことに努力し、“仁”をしてすべての道徳の最高の理念として「修身斎家治国平天下」を成し遂げる者の養成を目的とした。
儒教が韓国に入って来た年代は明確ではないが三国時代に中国
の唐へ留学生を送り儒学を学ぶことの出来る機関が創設された事を見ると、三国時代には既に儒教が一般化していたと思われる。韓国
や日本の歴史書に、285年に百済から王仁(ワングイン)博士が日本に論語と千字文を伝えたとの記録が残されており、372年には高句麗で太学を建て貴族の子弟たちを学ばせ、新羅でも682年に国学を建てて儒教を教えたと記録されている。その後も儒教は勧告に根付き継承され発展していく。三国時代の代表的な儒教学者としては薛聰(ソルチォング)や崔致遠(チェチウォン)があげられる。

高麗時代となると中国の宋で儒教の一学派である性理学が伝来し
て儒教が更に発展することとなる。しかし、儒教が高麗の国教とならなかったのは仏教の為とも言える。372年に初めて伝わった仏教はまたたく間に定着して高句麗百済新羅三国の文化と思想に大きな影響を与えた。仏教は高麗時代になると発展し国教として庶民たちの精神的な支えとなった。国に大小の変乱が起きるたびに、国は挙国的な仏教行事を開いて庶民の心をつなぎ止める事に努め、この時代に“八萬大蔵経“が作られ仏教は護国信仰の役割まで果たす様になる。しかし、仏教行事をする為には多くの費用と人力が必要であった為に、時として庶民の生活を圧迫したり、貴族達の浪費を引き起こしたりの弊害を招く事もあった。
こうした時代に中国の宋から性理学が伝わるが、性理学は宋の朱子によって集大成された学問で性理の概念を中心とした事から、性理学・理学・義理学・性命学などと呼ばれ、道学・程朱学・朱子学などとも呼ばれた。

性理学とは何か?

中国では自然や天地などあらゆる物が物質とその形成から成り立っているものと考えられていたが、宋の時代になって儒教学者たちが新たな解釈を加えた性理学が台頭する様になった。性理学では万物の原理を理と気で説明し、理は万物に性を与え、気は万物に形を与えるものとした。
具体的な内容としては儒教の基本倫理である三綱五倫を上げることが出来るが、三綱五倫に通じる思想は孝である。子供が父母に仕えることだけが考ではなく、臣が王に従う忠も孝であり、妻が夫に仕える事もまた孝である。孝が正にすべての社会関係の基準となったと言える。これは、当時の社会が家父長的な身分社会であった為に可能であったと思われる。
高麗時代に安(アンヒャング)によって我が国に紹介された性理学は李穡(イセク)に引き継がれ、更にその門下生である鄭夢周(チョングモングジュ)・鄭導傳(チョングドチョン)・権近(クォングン)などに継承され、それまで文献により学ぶだけの儒学を新しく変貌させた。また、高麗が倒され朝鮮が建国されると国家の建国理念にまで明示される様になったのだ。
儒教を土台にした経国大典が完成された後《三綱行實圖》《家禮》《小學》などの書籍が作られ、新しい社会倫理の普及に寄与した。しかし、朝鮮初期において儒教は一般庶民たちが手軽に接する事が出来るものではなく、僅かに士大夫達の間でのみ学ばれるに過ぎなかった。一般庶民の生活に儒教の根が下すこととなるのは壬辰倭乱(イムジンウェラン=文禄慶長の役)の後となる。

29.事件の連続

戊午士禍(1498年)から乙巳士禍(1545年)まで

朝鮮第7代王・世祖(セジョ)が王の権力を強化しようと中央集権政策を進めると、王が行わなければならない仕事は王一人では処理出来ない程に増えた。すると世祖は、それらの仕事を韓明(ハンミョンフェ)・申叔舟(シンスックジュ)・具致寬(クチグァン)等に任せ、自らは承政院(スンジョングウォン)に常勤してその承認処理に行う様になった。元々朝鮮では大臣たちが王に代わって吏曹・戸曹・禮曹・兵曹・刑曹・工曹の6つに分けて業務及び国政全般を担当する院相制を執っており、その各々の長官を院相と呼んだ。

ところが、こうして世祖の側近・功臣と呼ばれる者達が国政を担当する様になると、多くの権力が韓明たち勲旧派(フングパ)が掌握することとなり、それに相対して院相と呼ばれた大臣の力は弱まる。勲旧派たちは世祖を助け多くの業績を残すが、その為に受ける反発も小さくなかった。
世祖の後を継いだ世祖の孫の成宗(ソングジョング=在位期間1469~1494年)が即位すると朝鮮初期の文化が大きく花を咲かせることになる。成宗は学問を好み四芸書画(琴・碁・書・画)に精通し文武両道の賢明な王であった。また外交政策においても辺境の安全を図るなどの功績を残すが、ある事から自身の王妃である尹氏を廃位させ賜死させてしまう。やがてこの事が後に燕山君(ヨンサングン)による士禍の原因となるのであった。
成宗の子の燕山君(在位期間1494~1506年)は朝鮮10代王に即位すると国防に力を注ぐなど国を治める為に努力を怠らなかった。しかし、王となって幾らも経たない内に政事に関心を示さなくなり放り出してしまう。
そうした中、勲旧派と新たに登場した士林派(サリムパ)が対立する事件が起きる。士林派は成宗時代の官吏である金宗直(キムジョングジク)が代表的中心人物であるが、金宗直は成宗の信任を受けて自身の弟子たちを三司(司諫院・司憲府・弘文館)に登用させて勢力を拡大した。勢力が大きくなると士林派は勲旧派を「欲深い小輩」と称して無視し、勲旧派は士林派を「野生貴族」と言って互いに罵り合う様になった。

1498年、成宗時代の歴史書である《成宗実録》の編纂がはじまるが、実録の史草(史記の初稿)を金宗直の弟子である金孫(キムイルソン)が書くこととなった。金孫が史草に金宗直の《弔義帝文=チュングウィチェムン=首陽大君(世祖)の王位簒奪を非難する内容》を載せると、堂上官である李克(イグックトン)は平素から金孫を快く思っておらず《弔義帝文》の内容に因縁を付けて柳子光(ユジャグァング)と共に燕山君をそそのかして戊午士禍(ムオサファ)を引き起こす。
燕山君は直接、金孫等を尋問し全ての罪が既に死んでいる金宗直にあると結論付け剖棺斬屍(罪人の棺を暴き死体の首を掻く極刑)命じる。金孫は徒党を組んで王を誣告(ぶこく)して陥れたとして死罪となり、その他にも多くの士林派の人々が濡れ衣により流罪を受けたり官職を罷免されたりした。士禍の発端となった李克も問題となった史草を知りながらそのまま放置していたとされ罷免される。その結果、朝廷では大部分の士林派が排除され柳子光は更に高い権勢を誇ることとなった。この事件が朝鮮の四大士禍の中で最初に起きた士禍であり、史草の問題が発端となったことから史禍とも呼ばれている。

甲子士禍(1504年)

戊午士禍で多くの役人たちが死ぬと燕山君の横暴は益々増長し、周囲には奸臣だけが残る様になっていった。1504年、任士洪(イムサホング)が燕山君の義理の兄弟である慎守勤(シンスグン)と手を組んで忠臣たちを排除して、王に取り入ろうと燕山君の生母である尹(ユン)氏の廃位問題で燕山君をけし掛けた。父・成宗の妃であった燕山君の母の尹氏は嫉妬深く王妃の名を汚すような行動が多いとの理由で1479年(成宗10)廃妃され1480年賜死された。この事件は尹氏自身の至らなさもあったが、成宗の寵愛を受けた厳叔儀(ウムスギ)・鄭叔儀(チョングスギ)の妃たちと成宗の母である仁粹大妃(インステビ)が手を結んで尹氏の排斥をしようとしたことも原因の一つとなっていた。
自身の母が宮廷を追われ悲惨な死を遂げたことを知った燕山君は母を死に至らしめた成宗の妃である厳叔儀、鄭叔儀とその子である安陽君(アニャングン)、鳳安君(ポングアングン)を殺してしまう。更に燕山君の蛮行はこれで留まることはなく、祖母である仁粹大妃に対しても実母の廃位と賜死を理由に再三にわたり責め続けた。挙げ句に仁粹大妃は燕山君から受けた暴力が原因となり、その後暫らくしてこの世を去ることとなった。燕山君の横暴は祖母の死によっても終わることはなく、母の死に賛成したとの理由で韓明(ハンミョングフェ)など既に死んでいる者たちの墓を掘り起こさせた上で、改めて死体の首を刎ねさせる(剖棺斬死)ことを命じた。この一連の事件を甲子士禍という。こうした燕山君の蛮行を誹謗し社会に知らせようとハングルで書かれた立て札が至る所に立つ様になった。すると燕山君は諺文虐待にまで及び、庶民たちにハングルを学ばせまいと諺文口訣(ハングルの教書)を焼き払わせた。

中宗反正(1506年)

その後も燕山君の行いは留まるところを知らず、高麗時代からの国定の教育機関である成均館を遊侠場と決めつけて、成均館の司諌院(王に対して諫言する機関)の機能を取り上げ、同様に高麗時代からの古刹である圓覚寺で伎女を養成させるなどの蛮行を繰り返した。また、採紅使や採青使を全国に派遣して美女たちを集めさせ、更には自身の従兄弟となる、叔父・斎安大君(チェアンデグン=成宗の従弟)の娘を妃として後宮に入れるなど、蛮行は留まるところがなかった。この妃が張禄水(チャングノクス)であるが彼女は燕山君より年上であり、最初に二人が会った時は既に夫のある身であったが、その美貌が燕山君の目に止まり後宮に迎えられたのである。張禄水は国事にも口を出し、国の財政窮乏を招くなど燕山君の失政の一因を作った。こうした繰り返しの蛮行に民心は燕山君から離れていく。引き続く蛮行に成希顔(ソングヒアン)・朴元宗(パクウォンジョング)等が謀議の後1506年、燕山君を廃位し燕山君の義弟にあたる晉城大君(ジンソングデグン)を王に推戴し、中宗(チュングジョング=在位期間1506~1544年)となる。これを中宗反正と言う。

己卯士禍(1519年)

燕山君の廃位後に即位した中宗は政治改革の為に新しい気風を創造しようと1515年に士林派(サリムパ)の趙光祖(チョグァングジョ)を起用し彼が主張する道学政治を採用した。趙光祖は儒学に依拠した従来の制度を改めようと、それまで高官の4分の3を占めていた勲旧派(フングパ)高官を次々と罷免した。これに対抗して勲旧派は趙光祖一派に対し着々と謀略を練っていく。
次第に中宗も趙光祖の行き過ぎた言動に嫌気を感じるようになるが、この機に乗じようと勲旧派は洪景舟(ホングキョンジュ)の娘の熙嬪(ヒビン)が中宗に仕えていることを利用して趙光祖を落し入れ無き者にしようと計画を立てる。熙嬪は趙光祖が功臣達を罷免させ王に成ろうとしているとの噂を撒き散らし、勲旧派は木の葉に〈走肖為王〉(=趙光祖が王に成ろうとしている)の文字を書いて虫に付けて撒き散らした後に、何者かの仕業であるかの様にこれを王に見せたのだった。中宗をこの衝撃から立ち直らせまいと洪景舟、沈貞(シムジョング)、南袞(ナムゴン)等は続けざまに趙光祖を陥れる為の様々な謀略を実行していった。こうした企てをすべて事実と受け取った中宗はついに趙光祖一派を獄につないでしまう。洪景舟や南袞などは趙光祖一派が生かしておくと、後々に都合の悪いことが起きるとの思いから直ちに処刑してしまおうとした。
こうした状況を見守っていた領議政の鄭光弼(チョンググァングピル)と兵曹判書の李長坤(イジャングゴン)などが涙を流して、過度の罰を与えないように懇願するが、かえって同様に獄につながれることとなる。その後、趙光祖は配流となった上で死薬を賜り、他の者たちも配流となったり罷免されたりした。この一連の出来事を己卯士禍(キミョサファ=1519年)と言い、後の世の人々はこの時死んだ者達を己卯明賢(キミョミョングヒョン)と呼んだ。趙光祖一派は勿論、領議政まで追い出した勲旧派が全ての勢力を掌握して国は安定を取り戻したかに思えたが、間もなく再び混迷を始める。
卑賤な家の出身である宋祀連(ソングサリョン)が勲旧派の沈貞に取り入って官職に就くと自身の出世の為に1521年(中宗16)、自分の妻の甥と共謀して安処謙(アンチョギョム)、權(クォンジョン)等が勲旧派の大物である南袞らの大臣を失脚させようと企てていると誣告する辛巳誣獄(シンサムオク)を起こしたりもした。

灼鼠の変(1527年)

一方、己卯士禍の際に流罪となった後に再起用された金安老(キムアンノ)は、自身の息子が中宗の長女の孝恵公主(ヒョヘコンジュ)と結婚すると権力を乱用する様になるが、南袞、李沆(イハング)等の弾劾で1524年に罷免され再び流配生活をすることとなる。
流配生活をしながらも金安老は沈貞、柳子光等を排除する機会を狙って陰謀を謀り灼鼠(チャクソ)の変を起こす。灼鼠の変とは金安老の指示を受けた彼の息子で中宗の婿の金嬉(キムヒ)が起こしたもので1527年(中宗22)2月25日、東宮(皇太子)を呪詛しようと誕生日にネズミの足と尻尾を切り、目・耳と口を火で焼きつぶして東宮殿の庭の銀杏の木に吊るした事件を言う。この事件の犯人として中宗の寵愛を受けていた敬嬪朴氏(キョウングビンパクシ)に疑いがかかる。王の寵愛を良い事に自分の生んだ福城君(ボクソンググン)を皇太子にしようと東宮を呪詛したとするものだった。結局、敬嬪朴氏と福城君は平民に落とされて流罪となった後に賜死する。またこの時、右議政の職に在った沈貞も敬嬪朴氏と内通した罪で賜死する。これに伴い金安老は1531年に罪が許され復職して再び暴政を始めることとなる。
金安老は1534年に右議政となりその翌年には左議政となるが、これは王族や公卿を問わず、自らの政敵と見るや無条件に排斥・殺害するという専横的暴政に因ってもたらされたものであった。
更に、金安老は文定王后(ムンジョングワンフ)の廃位を画策するが中宗の密命を受けた尹安仁(ユンアンイン)と梁淵(ヤングヨン)によって逮捕され配流の後に賜死する。
こうして引き続いて起きた国内の混乱の合い間にも、1510年には三浦倭乱(サムポウェラン)、1522年には東来鹽場(トングネヨンジャング)の倭変、1524年には野人が侵入し、更にその翌年には再び倭寇が侵入するなど慶尚道海岸部一帯を中心に大きな被害を受ける事件も起きた。
中宗は初期には庶民が昔から信じていた迷信を打破する為に昭格署(ソギョクソ)を廃止し、庶民たちが儒教的生活に馴染ませることに努めた。また、鋳字都監を設置して大量の活字を作り印刷技術の発展にも尽くし、多方面にわたる多くの書籍を刊行し、歴代の実録を謄写して史庫に保管させるなどの功績を残した。

乙巳士禍(1545年)

中宗は3人の王妃を迎えたが、最初の王妃の端敬王妃(タンギョングワングビ)は父である慎守勤(シンスグン)の失脚の際に廃位され、2番目の王妃となった章敬王妃は孝恵公主(ヒョヘコングジュ)と仁宗(インジョング=在位期間1544~1545年)を生むが、産後に病を得て亡くなり、3番目の王妃は明宗(ミョングジョング=在位期間1545~1567年)を生んだ文定王妃である。
中宗の後を仁宗が継ぐと亡き母の章敬王妃の兄である尹任(ユンイム)を中心に朝廷は士林派が占めることとなった。しかし、仁宗が即位して8カ月目に病によりこの世を去ってしまうと、幼い12歳の明宗が即位して実母の文定王后が御簾政治を行うこととなり、文定王后の弟である尹元衡(ユンウォンヒョング)が力を得ることとなる。二つの勢力の登場で朝廷内に争いの無い日はなく、尹任派を大尹(デェユン)、尹元衡派を小尹(ソユン)と言って区別した。結局両者の争いは小尹が尹任を始めとする大尹派を反逆罪に落とし入れて流罪とした後に殺してしまう。また、成宗の3男で桂城君の養子の桂林君が大尹派に通じていたとの無実の罪で殺される。この事件が乙巳士禍(ウルササファ)であり、このことで尹元衡は政権を手中に収める事となった。外戚たちが朝廷を思いのままにしようとすると、明宗はこうした動きをけん制しようと李(イヤング)を登用する。しかし、その李もまた作党に走り政治は益々混乱し党争が収まる事はなかった。

30.朝鮮の義族たち

洪吉童

朝鮮第10代王・燕山君(ヨンサングン=1494年即位、成宗の長男)以降の朝鮮の社会は、大臣達は常に終わりの見えない党争に明け暮れ庶民の生活は苦痛を極めた。金で官位を買った役人達は不正腐敗を続け、自身の富を増やす為には庶民の生活を犠牲にすることは何とも思わなかった。こうした苦痛を強いられた庶民たちの中からは食べて行く為にやむなく山賊や盗賊になる者が出たりもした。こうした者たちの中から洪吉童(ホングギルドング)、林巨正(イムゴジョング)、張吉山(チャングキルサン)等の盗賊が現れるが、多くの庶民たちは彼らの行い(活躍)を胸のすく思いで見ていた。彼らに共通する点は不正腐敗を繰り返す両班たちの財産を奪っては貧しい庶民たちに分け与えたという点である。朝廷では彼らを「極悪非道の盗賊」として取り締まるが、庶民たちにとっては「義族」であった。
洪吉童は燕山君の時代に活動した義族だが、その後約100年が過ぎた第15代王・光海君(クァングヘグン=1608年即位)の時代の文臣であった許(ホギュン)にハングルで書かれた小説《洪吉童伝》によって今の世にも伝えられている。改革思想家であり理想主義者であった許は、燕山君時代の実在の人物である洪吉童をモデルにして当時の社会の矛盾を指摘しつつ、自身の理想主義を小説によって具現化しようとしたものである。また、実際の洪吉童の行いと小説の内容がどれほど一致しているかは疑問である。

小説では、「洪吉童は父と父の家の奴婢であった母との間に生まれた庶子であったが、人柄、学識、才能にあふれた人物であった。しかし、父を父と呼べず、兄を兄と呼べない自分の立場に悲観して家を出ると仲間を集めて活貧党(ファルビンダング)と名乗った。彼は正3品の武官の服装をして官庁に出入りし、不正腐敗を繰り返す役人を探してはその役人の家に押し入り財産を奪っては貧しい者たちに分け与えたり、自分たちを捕まえに来た役人を反対に懲らしめたりした。どうにも洪吉童を捕まえることの出来ないと悟った朝廷では彼を懐柔しようと兵曹判書(ピョンジョパンソ)の官職を与える。洪吉童は兵曹判書となり、その後は朝鮮を離れ島国に渡り理想国家を建設した。」と書かれている。
実際の洪吉童の出生となぜ盗賊になったのかについては明らかではないが《朝鮮王朝実録》を見ると、洪吉童が燕山君時代の盗賊で1500年(燕山君5)に逮捕されている事がわかるが、その後どうなったかは記録に残っていない。その際に洪吉童の審判を受け持った領議政の韓致亨(ハンジヒョング)が燕山君に報告した内容を見ると、洪吉童が忠清道地方を中心に京畿道や漢城(現在のソウル)の都の中までも自在に動き廻って盗賊を働いていた事と、正3位の武官の服装をしていたとの記録だけが残されている。

林巨正の蜂起(1559~1562年)

洪吉童の逮捕から59年後のある日、また一人の義族が誕生する。林巨正(イムコジョング)は楊州(ヤングジュ=京畿道)の白丁(ペクチョング=家畜の屠殺を生業とした賤民)の子として生まれる。若い時の正確な記録は残されていないが、伝えられている所に依れば、10歳の時から漢城で文字を学び、剣術にも熟達して全国を遊覧した後に故郷に戻り平凡な生活を送ったという。そうした日々を送る内に次第に力だけではなく人望も得るようになり林巨正の周辺には社会に不満を持つ者たちが集まって来た。すると彼らは洪吉童と同様に不正役人達の財産を奪っては貧しい人々に分け与え、庶民たちから義族と呼ばれる様になった。林巨正は1559年から3年余のあいだ盛んに活動したとされ、主な活動地域は黄海道開城周辺であった。彼らの勢力は急速に膨張して1560年には首都の漢城にまで及ぶところとなり朝廷では彼らを漢城に入れまいと首都に通じる道を閉鎖して厳重な警備をおこなったが、ついには林巨正一党の勢力は平安道や江原道にまで拡大した。彼らは所々に拠点を置いて略奪した物を他の場所で売ったり、また官軍の動きも良く把握するなど常に先手を打って対応した為に容易に捕まらなかった。
彼らは白昼に官庁を襲撃しては囚人を解き放しや略奪を続け、朝廷では黄海道と江原道に討捕使(凶悪な盗賊を逮捕を専門に担当する官職)を派遣して懸命に捕らえようとした。また林巨正に賞金を掛けて庶民へも逮捕の協力を呼び掛けるが、既に庶民感情は朝廷から離れて久しく逮捕協力どころか官軍の動きはその度に林巨正側に伝えられ討伐軍は徒労を繰り返した。しかし、引き続く討伐強化により林巨正の一党は徐々に官軍に追いつめられるようになり、彼の参謀である徐林(ソリム)が漢城で捕らえられる。
朝廷の懐柔と脅迫に耐えきれず変節した徐林は林巨正の計画を漏らして、朝廷では500人を超える討伐隊を編成して林巨正一党の逮捕に向かった。それにも拘らず1561年11月の官軍との戦闘でも林巨正一党が勝利を収めたのだった。この結果、朝廷では林巨正の逮捕を更に強化する事となる。

1561年(明宗6)朝廷では黄海道討捕使に南致勤(ナムチグン)を任命すると、南致勤は翌年の正月に徐林を尋問して林巨正の根拠地と思われる所をすべて封鎖する。これにより行き場を失った一党を討伐軍が山の隅々まで駆け廻り包囲網を狭めて行くと、相当数の者たちが投降するが林巨正はひとり民家に隠れた。林巨正はこの家の老婆を使って「賊は逃げた」と言い触れ廻させた後で、討伐軍を装い兵士に紛れて逃げようとした。しかし、逃げる途中に徐林により見破られて兵士たちの追撃を受けて全身に矢を受けて倒れた。
官吏たちからは「凶悪な盗賊団の親玉」と、そして庶民からは「義族」と呼ばれた林巨正の話は、庶民達の口から口へと伝え継がれて伝説となり英雄を作り上げる事となる。やがて数百年が過ぎた日帝時代に洪命憙(ホングミョングヒ)によって林巨正は小説となって復活する。

伝説の人物・張吉山
張吉山(チャングキルサン)は1692年(粛宗18)《粛宗実録》に初めて登場するが、彼の身分は最下層の広大(クァンデ=大道芸人)であった。広大は綱渡りやパンソリ、仮面劇などを見せる芸人で、集団で旅をしながら公演をすることを生業とした。《粛宗実録》では“盗賊・張吉山は僧侶である雲浮(ウンブ)を中心とする僧侶勢力と手を結んで地方の有力者をだました”とある。
後に、1700年代に入り学者であった李(イイク)の書いた《星湖説(ソングホサソル)》では張吉山の行動、そして追われる身となってからどの様に逃亡したのかが書かれているが、張吉山は前述の二人の盗賊とは違い最後まで捕まる事がなく行方を眩ませた為に、彼の一生は伝説となり人々の口伝によって生き続け20世紀になって小説にもなった。

誰が彼らを盗賊にしたのか?
国からは極悪非道の盗賊として追跡を受けた洪吉童、林巨正、張吉山がなぜ義族と呼ばれたのか?どの時代にも盗賊はいただろうが誰もが義族と呼ばれた訳ではない。彼らがいた時代を振り返ると共通して見られるのは役人の不正と腐敗した社会の存在であり、その下で抑圧された生活を余儀なくされた庶民達は希望を感じ取ることがなかった。この時代の朝鮮の官吏たちは互いに権力を握る為に国の安定をかえりみず党争を繰り返し、地方役人達は自らの私腹を肥やす為に庶民たちを無慈悲に搾取した。
この様な社会状況の中で洪吉童、林巨正、張吉山等は腐敗した官吏と両班たちを懲らしめ、彼らが搾取した財産を貧しい人々に分け与えたことで、庶民たちは彼らに希望と爽快さを感じたものであり、彼らが役人に追われると彼らの逃亡に協力したのは庶民たちの社会に対する抵抗の表れと言えた。

31.李珥の奮闘-壬辰倭乱-李舜臣

壬辰の倭乱の前夜-李珥の奮闘もむなしく

1592年(宣祖25)4月14日の朝、釜山は突然の悲劇に襲われる。この悲劇は一瞬のうちに釜山だけでなく朝鮮全土を巻き込むこととなる。日本の豊臣秀吉軍が小西行長を先兵隊長として朝鮮を攻撃して来たのだった。壬辰倭乱(イムジンウェラン=日本では文禄の役)の勃発である。豊臣秀吉は1590年に日本の戦国時代を終結させ統一した後の政権の勢力拡大と、自らに従う大名たちへ与えねばならぬ恩顧の対象を求めての朝鮮へ侵攻したのであった。これ以前に何度か行われた交渉で豊臣は先ず対馬を介して朝鮮に修交を求め、明を征伐する際に朝鮮を通過する事を求めて来たものだった。
これに対し朝鮮では黄允吉(ファングユンギル)、金誠一(キムソングイル)、許筬(ホソング)等を日本へ送り真意を探らせた。この時、日本から持ち帰った豊臣からの書信である「征明仮道」では侵略の意志が明確であったのだが黄允吉と金誠一はそれぞれが全く異なった解釈をした。この時代の朝鮮は士林派(サリムパ)が分党(1575年)して東人・西人と呼ばれる党派で対立するのだが西人(ソイン)であった黄允吉は必ず日本が侵略して来ると主張し、東人(トングイン)の金誠一はそれとは反対の主張をしたのだった。二人の主張は他の大臣達にも影響を与え党派間の対立に拡大した。そうした中、勢力が若干優勢であった東人たちによって朝廷では金誠一の意見を取り入れたことで結果的に日本の侵略に対する準備を怠ることとなる。

それとは反対に日本では朝鮮侵略の為に万全の準備を行っていた。海運術や築城術は勿論のこと、侵攻する時期までが詳細に議論され準備されていた。朝鮮も後になって事態の深刻さを認識して武器の整備や城壁や堀の修繕を指示し海岸の巡視を務めたのではあったが、この時の朝鮮の準備は結果的に余りにも不十分であり、豊臣軍が釜山に上陸して僅か20日で漢城(ハンソング=現在のソウル)が陥落してしまう。
朝廷では事がここまで及んで初めて過ぎし日の賢人の進言を受け入れなかったことへの後悔の声が高まるのだった。それは壬辰倭乱の起こる数年前に既に亡くなっている李珥(イイ)のことであった。彼が外敵の攻撃に対抗しようと主張した十万大軍養成案を今更ながらに支持する声の高まるのであった。李珥は東人と西人の間に入って双方の仲裁をしていたが、東人が激しく西人を攻撃すると次第に西人を支持する様になった。1583年に女真族が2万余の大軍を持って侵入して来ると、当時の兵曹判事であった李珥は漢城で1万の射手と馬を募集していち早く外敵に対抗した。これにより女真族は退却していったが国防の将来を心配した李珥は時務六条(シムユックジョ)を書いて王に建議し、その中で真っ先に十万大軍の養成を主張したのであった。しかし朝廷はこの将来を見越した李珥の建議を採用しないばかりか、それまで以上に党争を激化させ、結局は東人の弾劾により李珥は辞職を余儀なくされる。その後しばらくして再登用され東西党間の調整の為に力を注ぐが、1584年に49歳でこの世を去る最後の瞬間まで国事に心を配り続けた。

豊臣軍の攻撃を受けると李珥の忠告に従わなかったことへ後悔をする間もなく、朝廷では宣宗(ソンジョ=在位期間1567~1608年)が平壌に避難し、二人の王子の臨海君(イメグン)と順和君(スナグン)は咸鏡道と江原道に送り勤王兵を募集する一方で、李徳馨(イドキャング)を明に送り救援を要請した。しかし、こうした間にも豊臣軍は北進を続け、漢城陥落から40日後に平壌まで進撃すると宣宗は更に北上して義州(ウィジュ)へと再び避難した。
一方、当時の民心は甚だしく乱れ宣祖が平壌へ避難しようとすると、王の行く道をふさいだり、離れた所から罵ったりする者が出たり、奴婢たちは文書・書籍を保管する掌隷院と刑曹に火をつける様な事までした。二人の王子の警護の為に勤王兵を募ったが誰一人として進んで兵士に成ろうとする者はなく、王子たちは苦戦の末に豊臣軍に捕らえられてしまう。朝廷が永い間、庶民や国を顧みることなく党争に明け暮れていた為に庶民たちがそっぽを向いてしまっていたのだった。

李舜臣-海は俺に任せろ!

だが、海上では壬辰倭乱の1年前に柳成龍(ユソングヨング)の推薦で全羅佐水使となった李舜臣(イスンシン)が海を守っていた。李舜臣は亀の甲羅の形をした鉄甲船である亀甲船(=コブクソン)を用意して万全の準備を怠らず、豊臣軍が侵入すると全羅右水使の李億祺(イオッキ)、慶尚右水使の元均(ウォンギュン)等と共に戦った。先ず5月7日に玉浦(オッポ)で最初の勝利を上げるると、泗川(サチョン)、唐項浦(タングハングポ)、閑山島(ハンサンド)、釜山浦(プサンポ)などの沿岸地域で敵船を次々と打ち破り大きな勝利を治め制海権を掌握した。特に閑山島(ハンサンド)の大捷では敵の60余船を打ち破り壬辰の乱の3大捷の一つと記録される大勝利をもたらし、これにより李舜臣は三道(全羅、慶尚、忠清)水軍統制使に任じられた。

しかし、陸戦においては時間が過ぎるほどに朝鮮軍の戦況は厳しく、これを見かねて全国各所で国を助けようと義兵が起こり集結する様になった。儒学生や地方の名士などだけでなく殺生を禁じられている僧たちまでもが国を救おうと立ち上がったのだった。
趙憲(チョホン)は忠清道沃川で義兵を起こして敵を倒し錦山の敵を攻めるが戦死してしまう。郭再祐(クァクチェウ)は慶尚道・宜寧(ウィニョング)で義兵を立ち上げ敵を倒し、晋州では金時敏(キムシミン)と共に豊臣軍を打ち破った。金時敏が率いた晋州での戦いでは豊臣軍3万余名を戦死させる大勝を上げる、この戦いも壬辰の乱の3大捷の一つと伝えられている。
全羅道の長興では高敬命(コギョングミョング)、湖南では金千鎰(キムチョンイル)、咸鏡道では鄭文孚(チョングムンブ)などが立ち上がって豊臣軍に対抗し国土の防衛の為に活躍した。妙香山の老僧である休静(ヒュジョング=西山大師)は73歳の高齢であったが王の求めに応じて、全国八道の僧侶たちへ檄文を送り弟子である惟政(ユジョング)と共に1700余名の僧兵を率いて戦い平壌の奪還戦で功を建てた。これ以外にも数多くの義兵たちが各地で兵を挙げ豊臣軍に対抗すると、これに呼応するかの様に中国・明からの援軍も加わった。明は先ず平壌の奪還に力を注ぎ、その後は豊臣軍との休戦を目指す一方で四万三千の援兵を動員して朝鮮軍を加勢した。明軍と朝鮮軍は共に平壌を奪還すると、その後すぐに開城も奪還し南下を続けたが碧蹄館(京畿道・高霊)の戦いで大敗して再び開城に後退する。碧蹄館での戦いに勝利した豊臣軍は咸鏡道を撤退して来た軍と漢城で終結した。

全羅監使の権慄(クォンユル)は水原で倭軍に大勝した後に明軍が漢城を奪還しようと臨津江を越えたとの情報を聞くと、これに呼応して共に漢城を奪還しようと幸州山城(ヘンジュサンソング)に陣を構えて兵を訓練して待っていたが、当の明軍は再び臨津江を越え引き戻ってしまう。これにより豊臣軍は権慄の軍に集中することとなり権慄は当初は落胆したが、城の再整備を行い倭軍の攻撃に備え万全の準備をして待ち構えた。やがて豊臣軍の大軍は幸州山城を包囲し攻撃を始めるが、山城に上がる道がとても狭く険しくて攻略は容易でなかった。豊臣軍は鉄砲で攻撃し権慄の軍は弓と投石で応じたが戦況は権慄軍が優勢であった。豊臣軍は幾度となく権慄軍を攻撃したが山城を落とす事は出来ず、却って被害は大きくなるばかりで将軍までもが戦死する状況となり士気は落ちて行った。そんな折り、権慄を助けようと京畿水使と忠清水使の軍が救援物資を積んで幸州に向かって来るのを知った豊臣軍は撤退するのだった。僅か4千の粗末な軍で10万の豊臣軍を破ったこの戦いも壬辰の乱の3大捷の一つとされている。この結果は不安のどん底にあった宣祖を慰労しただけでなく全国の義兵たちに勇気を与え、平壌にいた明の李如松将軍はこれを聞いて戦功を上げ損ねたことを悔しがって、改めて漢城奪還計画を建てるとの軍用米の確保などの準備に入り、権慄は京畿道北部の波州に移って軍の再整備に努めた。

一方、咸鏡道に進撃した豊臣軍はその後の周辺の状況から身動きの取れない状態となり、士気は落ち、挙げ句には兵糧の確保にも苦労する事態となった。こうした状況で明の李如松が平壌を奪還して更なる勢いを見せながら、明軍は豊臣軍に対して和親を提案するのだった。これに対し倭軍の将・加藤清正は何とか優勢を維持している漢城まで戻ろうとこの提案を受け入れる。都体察使(朝鮮軍の統括官)の柳成龍(ユソングヨング)は漢城を取り戻す為の計画を建て、倭軍の食糧倉である龍山倉に大量の食糧が保管されていることを知って龍山倉の焼き打ちを計画し成功させる。当てにしていた食糧が灰になってしまうと豊臣軍は漢城からの撤退を決める。撤退の際に漢江に掛けた船をつないで造った橋まで撤収したことで朝鮮軍はそれ以上の追撃が出来なかった。1年数カ月ぶりにようやく取り戻した漢城であったが、王宮は焼かれ街は死体であふれ異臭に覆われていてまさに生き地獄の状態であった。

丁酉再乱(1597年)

豊臣軍が撤退を始め明軍も自国へ戻っていくと宣祖は急ぎ漢城へ戻り、李舜臣を三道水軍統制使に任命し豊臣軍の再来に備えた。一方、使者として明へ行っていた沈惟敬(シムユギョング)は、今度は日本への使者となり豊臣秀吉と会って和平交渉を行うが成果は上がらず決裂してしまう。その理由は到底受け入れることの出来ない豊臣側の要求にあった。その内容は
1. 明の皇女を日本へ后妃としてだすこと
2. 勘合貿易を復活させること
3. 朝鮮8道の内の4道を差し出すこと
4. 朝鮮の王子と大臣12名を人質としてだすこと
などであった。沈惟敬はこれを偽って、“豊臣は倭王に冊封される”ことを望んでいると報告した。明王はこれを受け入れ使者を送り冊書と倭王の金印を持たせた。明の使者に会った豊臣秀吉は怒りに震え朝鮮への再出兵を命じるのが1597年(宣祖30)の丁酉再乱(チョングユチェラン=日本では慶長の役)である。

豊臣軍は釜山の東来城・蔚山城を陥落させると、またたく間に慶南一帯を掌握するがこの時、李舜臣は元均(ウォンギュン)の陰謀によって獄に入れられて死刑の執行を待っている身であった。代わって三道水軍統制使となった元均は全力を上げて対抗したが、敵の計略に陥り大損害を被り自身も戦死してしまう。制海権を掌握した豊臣軍の士気は極めて旺盛で陸戦でも破竹の勢いを見せた。こうした情勢を知った明でも再び救援軍を送ることを決める。
また、朝廷では李舜臣の必要性を感じて右議政・鄭琢(チョングタク)が彼の弁護に廻り、権慄のもとで白衣従軍(ベギジュングン=鎧を付けない=一兵卒)に就けた。人一倍に愛国心の強い李舜臣は白衣従軍の立場もいとわず戦闘に加わるが、その頭抜けた先頭指導力を請われて暫らくするとして再び三道水軍統制使となるのであった。

1597年7月李舜臣は鳴梁(ミョンニャング)で僅か12隻の艦船を持って133隻の豊臣軍と対抗して敵の艦船30余隻を沈没させ大勝利を導き制海権を取り戻した。李舜臣が制海権を取り戻す間に陸上戦でも朝鮮と明の連合軍が攻勢に転じるが、この時豊臣軍が急に撤退を始めるのだが、豊臣秀吉の急死の知らせの為であった。
豊臣軍の退却を見た朝鮮軍は明の水軍と連合して豊臣軍を追いか
けて大勝利するが、この時の戦闘中に数々の海戦に於いて輝かしい戦功を残した李舜臣が流れ矢に当たって戦死してしまうであった。結局この戦闘を最後に7年の長きに渡った豊臣軍との戦いは終わ李を告げることとなった。
ようやくにして豊臣軍の追い出しには成功したものの、朝鮮の被害は言葉に表せないほど惨憺たるものであった。国土の大部分が侵略者の略奪と虐殺を受け、残された民も飢えと疫病に耐えるより道はなかった。朝廷の財政難も深刻で売官売職が横行し身分制度までが揺らぐ事態となった。しかし朝鮮の不幸は国中がこの様な危機的状態になっても、党派間の争いは収まりを見せないことにあった。

32.光海君は暴君だったか?

廃母事件(1618年)

1392年に太祖の李成桂が朝鮮を建国して朝鮮は518年に及ぶ長い歴史を誇ることとなった。この長い歴史の中で27代の王が誕生し、その時代ごとに多くの政治家達がその権力を手中に納めようと党争を繰り返した。権力を握ろうと多くの事件が起こり、王であっても時には自らの意志に反して王位を委譲せざるを得ない事態が起きたりもした。
朝鮮27代の王の中で燕山君(ヨンサングン)と光海君(クァングヘグン)の二人は暴政を理由に自らの意思に反して退位した王だとされている。果たして二人は本当に暴君だったのだろうか?
光海君(在位期間1608~1623年)は宣祖(ソンジョ)の2番目の息子として生まれ1592年、壬辰倭乱(イムジンウェラン)の最中に世子(皇太子)となる。本来は中宮の生んだ王子が世子となるのだが、中宮(正室)である懿仁王后(ウィインワングフ)は子に恵まれず、後宮(側室)である恭嬪(コングビン)金氏が生んだ臨海君(イメグン)と光海君が世子の候補となった。ところが臨海君の性格が粗暴であると多くの大臣達が反対した為に光海君が世子となった。

1600年に懿仁王后が亡くなり、1602年に仁穆王后(インモクワングフ)が宣祖の継妃となると1606年(宣祖39)には永昌大君(ヨングチャングテグン)が生まれた。すると朝廷では光海君に従う武吏(=大北派)と永昌大君に従う武吏(=小北派)に分かれ後継争いが始まる。大北派と小北派は、元々は同じ北人であったが権力党争の中で分裂した党派である。この二派の争いは大変に熾烈で親・兄弟の仲でも党派の違いから敵同士となる場合もあった。
この時の朝鮮は壬辰倭乱によって国中の山河が被害を受け庶民の生活は困窮を極めていた。それにも拘らず朝廷では党争が繰り返された結果、1608年に光海君が後継ぎと決まる。当時の朝鮮では嫡子と庶子、長男と次男の違いが厳格でその待遇は天と地ほどの差があった。ところが光海君は庶子であり且つ次男であった為に、いつ誰が長男である臨海君や嫡子である永昌大君を担ぎ出して王位に就けようとするかもしれないとの不安に駆られた大北派の大臣達は妨げとなりうる存在を消す準備を始めるのだった。

最初の犠牲者は光海君の実の兄である臨海君であった。大北派の中心人物であった李爾瞻(イイチョム)と鄭仁弘(チョングインホング)等は「臨海君が謀反を企んでいると偽って」死薬を与える計画を建てた。この計画を聞いた光海君は断固として拒絶するのだが大北派の大臣達が繰り返し強力に要求を続けると、結局は自身の意志を貫徹する事が出来なかった。しかし、如何に王であるとは言ってもさすがに実の兄に死を与える訳にはいかず流配とするのであった。こうした事態が起きるのは党派争いが原因と考えた光海君は朝廷内の党争を無くす為に元老である李元翼(イウォンイク)を領議政に任命するのだが党争を止めることは出来なかった。 
壬辰倭乱(イムジンウェラン)の際に直接全国を回り戦争の状況を目の当たりにした光海君は、国を正しく建て直そうと京畿道一円に大同法を施行した。それまで農民達は代貢収米法といって家ごとに一定の貢納物と進上物を治めなければならず、その負担は口では言い表せない程に厳しかった。これに対し大同法では保有する土地(耕作地)の広さに応じて課税し、且つ農民に対してだけでなく土地の所有者にも同様の基準で徴収したので農民達の負担が軽減した。また、戦争の余波により曖昧になっていた身分制度を改めて確立する為の役所を各地に設置するなどして身分秩序の回復に努めた。
その後、ようやく社会秩序が以前の様に戻ると焼失してしまった代々の王たちの宗廟や昌徳宮などを再建にも力を注ぎ、関係が断絶していた日本とも講和条約を結ぶなど戦後処理に尽くした。

しかし光海君にとっての平和な時期も永くは続かず大北派たちは自らの勢力を更に広げようとする混乱が相次いで起こることとなる。その始まりは1612年、仁穆大妃(インモクデビ=先代王・宣祖の継妃)の殺害計画であった。これは、朴承宗(パクスンジョング)が自ら死を覚悟してこれを制止したことで失敗に終わる。しかしその翌年、鳥嶺地方(忠清北道)で庶子である朴応犀(パクングソ)・徐羊甲(ソヤングカブ)という者などが自身らの処遇を悲観して酒で紛らわせる日々を送った果てに、小遣い銭欲しさに銀商人を襲って殺し銀数百両を強奪する事件を起こした。この事件を知った大北派は彼らを買収して“自分達は仁穆大妃の父である金悌南(キムジェナム)の指示を受け永昌大君を王に推戴しようとした”と言わせたのだった。この結果、金悌南は死を賜ることとなり、永昌大君は江華島に送られ圍籬安置(ウィリアンチ=屋敷より外に出られない措置)となった。更に大北派たちは仁穆大妃まで廃位させようと廃母論(ペモロン)を主張したが、これは光海君の反対で実現しなかった。

1614年(光海君6)には江華府使(カングファブサ)の鄭沆(チョングハング)が李爾瞻に取り入ろうと、圍籬安置となり寂しく日々を過ごしていた永昌大君の屋敷に火を掛けて殺してしまう。この時、永昌大君は僅か8歳であった。一方、先に全羅道・珍島(チンド)に配流されていた臨海君も1609年何者かに殺害されてしまう。 その後も大北派はことある毎に仁穆大妃を廃位させようと王へ訴え続け、市中に王権転覆の流言飛語を流すなどを繰り返すと、1610年(光海君10)1月に光海君はついに、仁穆大妃を廃位させて西宮(ソグング)に配流してしまう。

実利外交を広げて見たが・・・

この頃、中国では新しい勢力である後金(フグム=清)が1616年に建国され壬辰倭乱の戦闘で国力を弱めていた明への攻撃を繰り返した。明からは救援の要請を重ねて受けたが、光海君は容易に援軍を送ることが出来なかった。それは後金の実力を良く分からないまま中国内の争いに立ち入ることを避けたいとの理由からだった。数日の熟慮の後、光海君は姜弘立(カングホングニプ)を都元帥(トウォンス)、金景瑞(キムギョングソ)を副元帥として一万三千の軍を明に送った。姜弘立は後金との戦いに敗れて降伏して捕虜となると後金の状況を朝鮮に知らせる役割を果たすこととなったが、これらの全てのことが事前に光海君から与えられた指示によるものであった。
これにより朝鮮は明との関係を断つこともなく、また後金から怨みを買うこともないまま後金の情報を得ることが出来た。この後、朝鮮と後金は互いに国書を交わすこととなり姜弘立や金景瑞など10数名を除くすべての捕虜は釈放された。この後も光海君は、引き続き明と後金の双方との外交関係を維持し実利を優先する外交政策を展開した。
ところがこうした光海君の外交政策を批判する者が出て来る。その声の主は西人たちであり、西人たちは1618年の仁穆大妃の流配事件を機に大北派への反撃の準備を始めていたのだった。1622年(光海君14)に李貴(イギィ)・金自點(キムジャチョム)・李(イガル)等は、まず西宮(慶運宮)に幽閉されている仁穆大妃を訪ねて自分たちの考えを明かして賛同を求めた。他方、李貴等が頻繁に西宮を行き来するのを怪しく思った柳天機(ユチョンギ)は1622年12月“平山府使の李貴が西宮に入って恐ろしいことを計画している”と光海君に告げたが、光海君は具体的な物証がないとしてこれを無視した。

しかし司諌院によって1623年初め、李貴・金自點等は謀反の嫌疑で結局は告発される。この時、光海君は相次ぐ告発事件を好もしく思わず李貴を罷免することでこの事件を収拾させた。こうした中でも西人たちは政権転覆計画を着々と進めていて、決行の日を3月13日と決める。決行の前日である3月12日には、この行動に疑問を感じた西人の一人が計画を告発した。しかし宴会に席にいた光海君は、この告発に対して何ら対応策を取らず、更に義禁府の堂上官たちが事態の危急性を知らせて軍人動員命令を下す様に要請しても、これも聞き入れようとはしなかった。
一方、自分たちの計画が露見するかもしれないと知った西人たちは計画を前倒しして行動を開始して無防備状態の昌徳宮を支配下に置いた。ようやく事態の深刻性を理解した光海君は宮廷の塀を越えて医官の安国臣(アングックシン)の家に身を寄せた。西人たちは光海君が塀を越えようとした時に落とした玉璽(王の持つ印)を拾って綾陽君(ヌングヤンクン=宣祖の孫=仁祖)に献上し、綾陽君は事が成功したことを仁穆大妃に告げた。光海君によって息子と父を失った仁穆大妃は光海君に対して深い恨みを抱いており、大臣たちが光海君を廃して綾陽君が即位することを要求すると“まず、光海君親子の首を持って来なさい。そうでなければ即位式は認めない”と強硬に要求を拒否した。これに対して大臣たちが国王を殺害するという事は臣下の道にはずれると説得し、ようやく慶運宮で仁祖(インジョ=在位期間1623~1649年)の即位式が挙行された。これを仁祖反正という。

一方、安国臣の家に身を寄せていた光海君は3月14日に逮捕され仁穆大妃の前に引き出され、36項目に達する自らの罪名を読まされるのだった。36項目の罪の中は自らの兄弟を殺して母である仁穆大妃を廃位させた罪、過度な土木工事を進めて民に塗炭の苦しみを与えた罪、この他にも不忠の罪、天を欺いた罪、背恩忘徳の罪など幾つかの罪に言葉だけを変えて罪目が重ねられた。この後、光海君は江華島への流罪となり、その後に済州島へ移配され67歳で波乱の人生に幕を閉じることとなった。

 
光海君は暴君だったのか?

永い間、暴君との認識をされて来た光海君に対する評価は現代になってから少し変わってきている。朝鮮の歴代王の実録はどれも後代になって書かれたものであり、光海君の場合も同じである。光海君が在位した時代を一言で言えば党争の時代であった。士林が東人と西人に分かれた年に生まれ、大北派と小北派の権力闘争の中で王に即位するが、また北人と西人の争いの中で王の座を追われたのである。庶子であり次男であった光海君が王となったのは彼が賢明な人であったからだ。彼が18歳の時に壬辰倭乱となるが、直接戦場を行き来し、戦後処理にもあたり、国と庶民を愛する気持ちが強かった。そして王位に就くと大同法を実施して国民の負担を軽減し、戦争で崩壊した王宮を修築して王室の権威の回復に努めた。また、自身と意見の異なる大臣も能力によっては留任させ政事が正しく行おうと努力した。更に、日本(徳川幕府)との国交回復の道を開き、後金とも友好関係を追求して平和外交に努めた。しかし、光海君の周辺には常に権力を我が物にしようとする大北派の存在があり、その無言の圧力と様々な干渉により光海君の意に沿わない決定も度々行われた。結局は暴君の汚名を着せられ50歳を前に王位を追われたのだった。

33.中国・清からの干渉と屈辱

李の乱(1624年)

仁祖が仁祖反正(インジョパンジョング)によって王位に上がった後も様々な事件が起こる。国内では“李の乱”が起こり、外交にあっては“丁卯胡乱”と呼ばれる侵略を受ける。李(イグァル)は仁祖反正の際には臨時の大将を命じられ反抗成功の立役者の一人であった。しかし、反正計画への参加が遅かったとの理由からその後の論功行賞で2等功臣とされ漢城府尹に任命されるに留まったことに不満を持ち露骨に不満を表す様になる。
李の朝廷に対する不満は次第に大きくなると世間では李が反逆を企てているとの噂が広まる様になる。すると、この噂を聞いて朝廷では先ず李の息子を捕らえた上で、禁符都事を送って李を捕らえようとした。一方、自分の息子が捕らえられたと聞いた李は奇益獻(キイクホン)・韓明璉(ハンミョングリョン)等との謀議の後に1万余の軍勢を集めて次の様に演説した。
「今、朝廷では私の息子を捕らえた上で私に反逆の罪を着せ捕らえようとしている。そこで私は死を覚悟して立ち上がることを決めたが、それには皆さんの力が必要だ。男として生まれた以上、一度は大きな事をしてみようではないか!」
「そうです。大きな事をして見ようじゃありませんか。先ず、禁符都事を襲って一緒に立ち上がりましょう」
あちこちから李の言葉に賛同する声が響き渡った。

1624年(仁祖2)1月、李は自軍を率いて漢城へと向かった。ところが、これを阻止すべき官軍は容易に止められず至る所で敗退を繰り返した。更にその不安から漢城(=ソウル)の民心は極度に乱れ、李の反乱軍が碧蹄館(現在の京畿道高陽市)にまで迫って来ると仁祖は公州へと避難する始末だった。この時、仁祖と共に公州へ向かった先々代王・宣祖(ソンジョ)の10番目の息子の興安君(フングアンクン)が避難の隊列から逃れて李の陣中へと身を寄せると、李はが漢城に入城し興安君を王に推戴する。
これにより李の乱は成功するかに思われた。しかし李の漢城入城から間もなく、彼らを倒そうとする計画を建てて張晩(チャングマン)・鄭忠信(チョングチュングシン)等が官軍を率いて漢城に近くの仁王山に陣を張って攻撃の機会をうかがった。永く続いた国の混乱の中で民心は朝廷から離れ、官軍・反乱軍のどちらが勝とうが負けようが庶民にとってはどちらでも良い問題となっていた。そうした中での戦いとなった。

当初は反乱軍に有利に戦いが進められた。ところが官軍の劣勢が続く中、反乱軍の一人の将校が官軍の放った矢に当たって倒れると、張晩の旗下にあった南以興(ナムイフング)が「李が矢に当たったぞ、今だ!突撃しろ!」と大声で叫ぶと元々が烏合の衆であった反乱軍は後退を始めるようになり、反対に官軍の指揮が上がって反乱軍は大敗を喫するところとなった。
これに、李は戦況の不利を悟ると三田渡(漢江上流の渡し場=サムチョンド)を渡って逃亡するが、自分だけは助かろうとする部下の奇益獻・李守白(イスベク)等に殺されてしまう。これによって李の三日天下は幕を下ろすことになるが、この乱はその後の丁卯胡乱(チョングミョホラン)の原因の一つとなるのである。

丁卯胡乱(1627年)

仁祖が漢城に戻ると、仁祖反正を成功させた西人(ソイン)たちは朝廷から大北派を完全に追い出し、南人(ナミン)たちと連合し新しい朝廷を形成した。こうした折、中国では後金(後の清)では初代の皇帝・ヌルハチが死んで彼の息子のホンタイジが即位すると更に勢力を拡大させ明を脅かす存在となってていった。ホンタイジ(太宗)は元々、朝鮮との和親には反対していたが朝鮮が親明背金政策を見直し始めたことで和親を考える様になっていた。そこに朝鮮の内乱で官軍に敗れた李の残党が後金に逃げ込み、自らの立場を正当化しようと光海君の廃位と仁祖反正の不当性を訴えて朝鮮への攻撃を要請したのだった。当時、明と熾烈に対立していた後金は明と連帯関係にある朝鮮を明から引き離す必要を感じていた。そうした矢先に李の残党が後金に逃げ込んで来て泣き付くかの様に煽り、ついに太宗は1627年(仁祖5)の正月に阿敏と貝勒の二人の将に
3万の軍を与えて朝鮮への攻撃を命じたのであった。これにより丁卯胡乱と呼ばれる後金(清)による朝鮮への侵攻が始まる。
この時、朝鮮ではこうした後金の情勢に全く気付かず、朝鮮建国以来引き続いた明との友好関係を重んじる余り後金を“オランケ”と呼んで蔑視していた。後金軍は鴨緑江を渡ると先ず義州を攻撃するのだが、義州城では大した抵抗もせず陥落してしまう。この時の義州府尹・李莞(イハン)は李舜臣の甥で壬辰倭乱の終盤に李舜臣が戦死すると、李舜臣に代わって指揮をとり軍功を残した将軍である。

ところが後金が攻撃して来た時に、彼は女色に溺れていて城が陥落したことも知らずにいた。ようやく陥落後に反抗を始めるのだが時すでに遅く戦いに敗れると武器庫に火を放って憤死する。義州が力なく陥落して後金が破竹の勢いで進軍を始めると、戦火を避ける為に昭顯世子(ソヒョンセジャ=皇太子)は全州に、仁祖は江華島に逃れた。朝鮮軍がその後も後金軍に敗れ続けると、平安道と黄海道の守令たちは戦いもせずに逃げだしてしまう。また、漢城を守る筈の留都大将・金尚容(キムサングヨング)も漢城を守ることが難しい情勢になると、備蓄米を敵に渡すまいと国家の御庫を始めとするあらゆる備蓄庫に火を掛けると江華島に逃げてしまった。朝鮮の大臣がこうした有様であった為、後金は益々勢い付いていった。江華島に避難した大臣たちは和戦両論に分かれて激論を交わしたが、後金は副将の劉海を送って何箇条かの条件を提示して和議の意志を表した。

しかし、こうした事態となっても朝鮮の大臣たちは結論の出ない議論を繰り返すだけであった。
結局は後金の差し迫る勢いの前に和議を受け入れる以外なかったのだが、その和親の条件は①朝鮮と後金は兄弟の盟約を結ぶこと、②和親が成立した後には後金軍は撤退すること、③両国軍隊は鴨緑江を越えないこと、④朝鮮は後金との盟約後も明とは引き続き友好関係を維持することなどであった。和親は結ばれたが後金は戦勝国の優越性から和親の条件の一つである「江北(鴨緑江)撤兵」を守らず義州に軍を駐屯させて明軍の警戒に当たる一方で民家を頻繁に襲って略奪を繰り返した。後には明と戦う為の軍備品や兵船を求るなど次第に要求はエスカレートし、朝鮮との関係においても兄弟関係から君臣の関係への変更を求める様になる。後金が繰返し無理な要求をして来ると朝廷百官たちは勿論、庶民たちも後金を怨む様になる。ついに仁祖は1633年1月、後金との和親の全面的な撤回を発表し、これにより起こるかもしれない後金との戦争に備えることと、戦争が起こった場合には皆が敢然と立ち向かう事を求めた。

丙子胡乱(1636~1637年)

朝鮮のこうした決断の間も後金の太宗は着実に勢力の拡大を続け、自身を満州・蒙古・漢の3民族を代表する君主であると自称して1636年国号を清と改めた。その後、清はその年の2月になると前年に亡くなった仁祖の王妃・仁烈王后の弔いと称して龍骨大と馬夫大の二人を朝鮮に送って来た。弔問を終えた二人は仁祖に対し、清が皇帝の国となったことと共に君臣の関係を結ぶことを通知する国書を渡すのだった。
清から来た二人の使者の仁祖に対する傲慢無礼な態度に朝鮮の大臣たちは、誰彼なく二人の使者を殺して後金に対抗しようと声高に主張するのだった。しかし、そうするにはこの時の朝鮮は余りにも力不足であった。一方、朝鮮の大臣たちの尋常でない態度を感じ取った清からの二人の使者は弔問も程々に切り上げさっさと立ち戻ってしまった。彼等は清へ戻る途中で偶然に朝廷が平安道の監察使に送った斥和文書(和親を解消する文書)を手に入れると、清の太宗に差し出すのであった。そこには清の不当な行動を非難し、「庶民を含めた全ての朝鮮の臣民は立ち上がるべし」と書き記されていた。龍骨大等が清への帰路につくと朝廷では斥和論が大勢を占め、仁祖は清の国書を送り返すと戦争の準備に入った。そうした中で唯一人、崔鳴吉(チェミョングギル)だけは和親を維持しながら国力をつけることを主張するのだが聞き入れる者は誰もいなかった。一方、清では既に朝鮮の動きを察知した上で侵略する準備が着々と進められ、ついに1636年12月に清の太宗は直接10万の大軍を自ら率いて鴨緑江を渡った。
この時、国境を守る義州府尹・林慶業(イムギョングオブ)は白馬山城に籠って清軍の来るのを待ち構えていたが、事前に林慶業の情報を掴んでいた清軍は白馬山城を避けて漢城へ向かった。清軍は破竹の勢いで押し進み10日あまりで漢城に肉薄する。清軍が漢城近くにまで迫ると、ようやく大臣たちと仁祖は崔鳴吉を敵陣に送って時間を稼ぐ一方で鳳林大君(ボングイムデグン)、麟坪大君(インピョングデグン)の2王子と、王族・貴族達を江華島に避難させた。更に自身たちも江華島に向かう準備をするが、既に清軍が江華島へ向かう街道を閉鎖していた為にやむを得ず南漢山城(京畿道・広州)に避難した。

しかし、仁祖が避難した南漢山城は程なく清軍に包囲されてしまう。包囲された状態で40余日が過ぎると城内では食糧と燃料が底をつき、人々は寒さと飢えの二重苦に苦しむこととなり仁祖は決断を迫られる。この間も崔鳴吉は敵陣と南漢山城を行き来して和議の調整に努めるが、清の太宗は朝鮮の王が自分の前で降伏を願い出ることと、斥和論を主張した大臣達2~3名の引き渡しを要求した。
これを聞いた仁祖は、最初こそ固辞したものの城門を開いて王世子と共に三田渡(サムジョンド=現在のソウル市松波区)に設置された受降壇に赴き、朝鮮の歴史上最大の恥辱となる降伏の礼を取らされた。仁祖は袞龍袍(コンヨングポ=王の正服)から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座った清の太宗に向かって受降壇の最下段から膝まずいて礼を3回した後に頭を床に9回叩き付けるという臣下の礼を執り行ったのだった。時に1637年1月30日のことであった。

これ以外にも清は、①朝鮮は清に臣下の礼を執ること②朝鮮は明との関係を持たないこと③朝鮮は王の第1子と第2子、そして大臣の子女を人質として清に差し出すこと④清が明を征伐する時には援軍を送ること⑤黄金100両、銀1000両を始め20余種の物品を奉げること⑥聖節(王の誕生日)、正朔(正月)、冬至、慶弔の使臣は明の旧例に従い清に送ること、等を要求した。その後、清の太宗は1639年(仁祖17)に三田渡に自身の遠征の証として頌徳碑という遠征碑を建てさせる。そこには満州語・蒙古語・漢語(漢文)の三つの言語によって大清皇帝の朝鮮への遠征記録が記された。これ以降、名実共に朝鮮は清に従属することとなる。

34.粛宗の二人の王后(仁顕王后と張禧嬪)

仁顕王后と張禧嬪

朝鮮第10代王・燕山君の時代頃から朝鮮末期までの約360年の間、引き続いて繰り返された党争(大臣達の派閥争い)は、常に内外に不安を及ぼす最も大きな原因にもなった。多くの人たちが党争の犠牲者となり死んでいったが、党争の犠牲者となったのはその当事者である大臣達だけでなく、時として王や王后たちまでにもその影響は及んだ。特に党争が激しかったのは朝鮮第19代王の粛宗(スクチョング=在位期間1674~1720年)の時代であった。
粛宗は1671年に結婚し何人かの王子たちが生まれたが皆が早くに亡くなり妻である仁敬王后までもが亡くなってしまう。その後1681年(粛宗7)に仁顕王后(イニョンワングフ)を再び后に迎えることとなる。ところが仁顕王后になかなか世継ぎが生まれない中、1688年(粛宗14)宮女の張昭儀(チャングソウィ)が王子・(キュン=後の景宗)を産むと、粛宗は大変に喜び張昭儀を禧嬪(ヒビン)に封じ、更に王子・を世子としようとする。
するとこの時、朝廷内の権力を握っていた宋時烈(ソングシヨル)等の西人(ソイン)たちは、仁顕王后がまだ若く王子の誕生を待たなければならないと主張して王子・を世子とすることに反対する。しかし永い間、王子の誕生を待ちわびていた粛宗は1689年正月に王子・を正式に世子に封じることを決める。更に、これに強く反対していた宋時烈は済州島に配流となった後に賜死した。また朝廷に残った西人等も根こそぎ解職や配流となり、朝廷は一夜にして南人(ナミン)の支配するところとなった。この一連の事件を己巳士禍(キミサファ)或いは己巳換局(キミファングク)という。
権力を握った南人たちは自分たちの勢力を確固たるものとする為に、仁顕王后を廃位させ張禧嬪を王妃に就けようと粛宗に執拗に迫り説得に成功する。これを聞いた朴泰輔(パクテポ)・李世華(イセファ)など80余名の西人たちは仁顕王后の廃位に反対し上訴するが、上訴文を見た粛宗は激しく怒って彼らを問責することを命じた。結局、朴泰輔は厳しい拷問を受けて配流地に向かう途中でこの世を去り李世華なども流刑地へ送られた。
しかし、この事件から暫らく過ぎると粛宗は仁顕王后に対して申し訳なく考える様になる。そうした折に金春澤(キムチュンテク)・韓重赫(ハンジュングヒョク)等の西人たちが王妃の復位運動を画策するが、これが南人たちに発覚し告発されると言う事件が起きる。この時の南人の大物である閔黯(ミンアム)は、これを機に西人たちを一挙に取り除いてしまおうと考える。しかし廃位事件を後悔していた粛宗は閔黯を解任した後に賜死させ、金徳遠(キムドグォン)・権大運(クォンデウン)等の南人たちを流配して西人を再登用した。更に己巳換局で王妃となっていた張氏を元の禧嬪に戻すと、仁顕王后を改めて復帰させることを決定する。このことを甲戊換局(カブスルファングク)と言う。

少論と老論の葛藤

ところが甲戊換局により再登用され南人たちとの党争に勝利した西人たちであったが、今度は西人内部が少論派と老論派に分かれて再び新たな党争の構図を作り始める。その一方、王后から再び禧嬪となった張氏は実兄である張希載(チャングヒジェ)と共に仁顕王后を無き者にしようとの陰謀を企てるが、張希載が張禧嬪に送った手紙が発覚して朝廷の知るところとなった。朝廷では王后殺害を企てた張希載を死罪にすべきとしたが、南九萬(ナムグマン)・尹趾完(ユンジワン)等の少論派たちが世子・に影響を及ぼすことがあってはならないと主張して張希載は死罪を免れる。
しかし張禧嬪はこの事件の後も仁顕王后を追い落とそうと呪詛を繰り返すようになる。この呪詛によるものなのか仁顕王后の容体が悪化すると、これを好機と見た張禧嬪は再び王后に就こうという自分勝手な夢を見て、更に激しく呪詛を続けるのだった。就善堂の西側に神堂を建て巫女を呼び入れて祈らせ、王后の人形と肖像を置いて矢を射らせるなどあらゆる方法を用いた。張禧嬪のこうした行動は1701年(粛宗27)8月に仁顕王后が亡くなった後になって、ようやく明らかになるのであった。この事実を知った粛宗は張禧嬪と張希載を賜死させ、この企てに加わった宮人は勿論のこと巫女とその族党にまでも罰を与えた。また、先の事件で張希載に対して寛大な処罰を下さした南九萬・尹趾完等の少論一派も全て粛清され政権は老論派が握ることとなった。この事件を巫蠱(ムゴ)の獄という。

粛宗の行き過ぎた愛憎の露出が朝鮮時代でも最も激烈な党争を引き起こすこととなったとも言えたが、粛宗時代は周辺国との戦争などもなく長期泰平の時代であったとも言えた。しかし、1720年に病患が重篤となった粛宗は李頤命(イイミョング)だけを呼ぶと、こうした場合の決まり事であった史官の立ち会いなしに延仍君(ヨンイングクン=景帝の異母弟=後の英祖)を景帝(キョングジョング=在位期間1720~1724年)の後継者にすると遺言する。この遺言が後の辛壬士禍(シンイムサファ)の原因となった。
元々が病弱であった景宗は後継ぎの出来ない身であった。これに領議政の金昌集(キムチャングジブ)等の老論派の4大臣たちは景宗が即位するとすぐに延仍君を王世弟(ワングセジェ=後継ぎとなる王弟)とするべきとの主張を始める。すると少論派たちはこの主張を不当として上訴するが受け入れられず、却って金昌集等の建議によって延仍君が政務を景宗に代わって執ることが決められる。
この決定に少論派の金一鏡(キムイルギョング)は老論派から少論派に加わった睦虎龍(モクホヨング)に命じて金昌集等の4大臣とその一党らが景宗を殺そうとし、自身も最初はこれに加担したと告発させた。これにより延仍君の代理聴政は取り消され金昌集たち老論派は粛清された。これが辛壬士禍(シンイムサファ)であり壬寅獄(イムインオク)とも言う。その後1724年に延仍君が王位に就き英祖となった後に辛壬士禍が事実無根であったことが明らかにされ睦虎龍と金一鏡が処断され少論派たちが追放されるが、これがまた後日の“李麟佐(イインジャ)の乱”の原因になる。

英祖の即位(1724年)

1724年、即位した英祖(1724~1776年)は粛宗の4番目の息子で母は淑嬪(スクピン)崔氏である。淑嬪崔氏は元は宮女たちに手洗い用の水を配り届ける雑仕女であった。こうした理由などから英祖は早くから両班たちに批判的な視覚を持ち、それまでの王たち以上に一般庶民を思う気持ちが強かった。即位して庶民が両班たちの為に大きな負担を強いられて暮らしていることを知った英祖は、庶民の苦痛を和らげようと過酷な刑罰を廃止し、自らの生活も質素倹約に努めた。元々すべての国民は税金を収めることが原則であったが、当時の朝鮮社会では殆どの場合が両班たちは税金を収め無いことが慣例となっていた。また、国家の警備も一般良民たちの担当となっていた為に庶民の生活は苦痛を極め、この様に不公平な現実の為に庶民たちの中には両班社会に対する不満を感じる者が増えていった。英祖は庶民の負担を少しでも減らそうと均役庁を設置してそれまでの課税規定を緩和して大幅な税の減免を行った。
英祖は善政を施そうとの思いが強く政治から党争を取り除こうと努力し、歴代に作られた多方面の書籍を再刊行することにも努め、特に学問に親しんだ英祖は《楽学軌範》《御製警世問答》などの書籍を直接制作した。また国家の防備を堅固にしようと鳥銃訓練を奨励して1729年には火車(機関銃)を制作し、その翌年には守禦庁に銃砲の制作を命じるなど国防にも力を注いだ。こうした英祖の努力により混乱した政治は安定を取り戻し、社会・産業・文化・芸術などが大きく発展して世宗時代を彷彿させる泰平聖代となる。

思悼世子の惨死

しかし幸福の後には常に不幸がついて来るもので、英祖にも暗い影が差し始めていた。英祖には二人の王妃がいたが共に王子が無く、王妃ではない瑛嬪(ヨングビン)李氏との間に孝章世子(ヒョジャングセジャ=夭折する)と荘獻世子(ジャンホンセジャ)がいた。
1749年(英祖25)に老論派の建議によって荘獻世子が代理聴政(デリチョングジョング=王に代わって政治を行うこと)を行うこととなった。この時わずか14歳の世子は代理聴政にすぐに飽きてしまうと、学問にも身が入らず乱行を重ねて英祖を激怒させる。英祖の性格は穏やかであったが大変に厳格な面があり一度決めたことについては必ず成し遂げなければ気が済まなかった。世子が年齢を重ねると、彼の周辺には彼に媚びへつらう武臣たちが集まるようになって世子の行動は日を重ねる程にすさんで行き、勝手気ままに宮殿を抜け出して女色に溺れることも頻繁に起きた。甚だしくは尼僧を愚弄する行為にまで及ぶなど英祖が到底許さないであろう蛮行ばかりを選んで行うのであった。そうした中、1761年(英祖37)世子は隠れて関西地方(現在の平安道)に遊びに行った。
日頃から世子の行動を良く思っていなかった英祖の継妃・貞純王后(ジョングスンワンフ)は世子が関西地方から戻ると、このことをそれまでにも増して厳しく非難したのだった。この時、英祖の寵愛を受けていた淑儀(スクウィ)文氏と老論派の中心人物である権臣(クォンシン)までもが世子を非難したので、そうでなくても世子を好もしく思っていなかった英祖は厳しく咎めはしたものの明確な行動に移す事はなかった。
こうした英祖の煮え切らない態度に失望した貞純王后と意を共にする刑曹判書の尹汲(ユンクッブ)が羅景彦(ナギョングオン)をそそのかして10余項目に渡る世子の非行を上げて上訴させた。上訴文を見た英祖は非常に腹を立て羅景彦に賜死を命じると世子を廃止した上で自決を命じたが、世子がこれに応じずにいると家族と共に呼び付けた。1762年(英祖38)閏5月、世子と幼い王世孫(後の正祖)そして世子嬪である恵慶宮洪氏は英祖の前にひれ伏して涙を流しながら英祖に最後の懇願をする。
「おじい様!どうかお父様をお許し下さい。どうかお命だけはお救い下さい」
僅か10歳の王世孫が涙を流しながらの懇願をしても英祖の気持ちを変えることは出来ず、英祖は世子を小さな木製の米びつに閉じ込めることを指示する。この英祖の決定に世子は身を起こすことも出来ず水一口飲めないまま、この日から8日目に力なくこの世を去った。数日後、英祖は自らが自身の息子を殺してしまったことを後悔して亡くなった世子に思悼という諡号を贈った。この時、母である恵慶宮洪氏と共に涙ながらに父・思悼世子の最後を見取った王世孫は、後に自身が王位に就き朝鮮22代王・正祖(チョングジョ)となると父の為にその墓を水原に移し水原城を整備して頻繁に墓参して孝道に励んだ。

35.学問と共に進む正祖の治世

正祖の即位(1777年)

朝鮮21代王・英祖(ヨングジョ)は後継に決めていた思悼世子(サドセジャ)が死ぬと思悼世子の息子である蒜(サン)を世孫として後継と決める。また、自身が老齢で病弱であることを理由に1775年(英祖51)に世孫に代理聴政を命じる。するとその翌年、英祖がこの世を去り正式に王位に就いた世孫・蒜は22代王・正祖(ジョングジョ=在位期間1777~1800年)となった。正祖は亡き父である思悼世子に壮獻世子(ジャングホンセジャ)の称号を追尊(追贈)した上で、父の問責に同調した者たちを流刑に処した後に賜死(毒薬)を与えて父の恨みを晴らした。一方で思悼世子を死に追い込むのに主導的な役割を果たした僻派(ピョクパ=当時の党派党争に批判した勢力)は、正祖を王の座から追い落とそうと何度か陰謀を企てたが、側近の洪国栄(ホンググギョング)がこれを防ぐと王の信任を得るところとなった。正祖は父の怨念を晴らすと更に洪国栄を重用する様になる。王の信任を得て国政を全てを一人で担うこととなった洪国栄は自身の地位を乱用して横暴と専横を繰り返し、王妃に子が出来ないと自分の妹を王の嬪として宮廷に入れて自身の地位を更に固めた。しかし1779年(正祖3)に妹が病死するとその死の原因が王妃にあると疑って毒殺を企て、これが発覚して財産を没収され故郷からも追い出され江原道・江陵で寂しく死を迎えることとなった。
洪国栄を朝廷から追い出した正祖は、祖父・英祖の意志を継いで蕩平策(党争をなくそうとする政策)を展開させ、粛宗(スクチョング)以降は失脚したままであった南人たちを登用し、西北人は勿論のこと庶民に至るまで満遍なく登用した。王室の研究機関である奎章閣(ギュジャングガク)を昌徳宮(チャンドックング)の仁政殿の後院に置いて王族の親筆文書や書籍を分類し整理保管させた。正祖が奎章閣を拡大させたのには、王権を危うくする原因となっている宦官などの陰謀と横暴を押さえ、学識が高い臣下たちを集めて経史を討論させ、政策の良し悪し・庶民の苦難など調査させることや学問振興と堕落した風習を改めさせることに狙いがあった。
正祖は活字にも関心が高く、新しい活字を作って印刷術の発達にも大きく寄与し《增補文献備考(ジュングホムンノンビゴ)》《国朝寶鑑(クッチョボグァン)》《大典通編》《武芸図譜通志》《全韻玉篇》《五倫行実》など多くの書籍を刊行し、自身の文集である《弘斎全書(ホングジェチョンソ)》も完成させた。

実学の隆盛

正祖は24年に渡る在位の間、好んで学問を楽しんだ。特に南人の学者たちを優待して実事求是(シルサクシ)と利用厚生(イヨングフセング)などの実学を育成した。実学とは儒学の“空理空論”即ち虚学に対立して実践を旨とする学問として広く親しまれた。朝鮮の実学は大きく創世期・発展期・隆盛期・結実期の4段階に分けられるが創世期は宣祖期から光海君期まで、発展期は仁宗期から景宗期まで、隆盛期は英祖と正祖を指し、正祖以降の時期を実学の結実期という。正祖時代に活躍した実学者としては洪大容(ホングデェヨング)、朴趾源(パクチウォン)、朴斎家(パクジェカ)、丁若鏞(ジョングヤギョング)等が上げられ、彼ら北学派とも呼ばれ当時の西洋科学文明を受け入れた清の事物を朝鮮社会に合うように改良して取り入れることを主張した。洪大容は北学派の先駆者で社会・経済・政治の分野で多くの功績を上げ、全ての人々に公的な発言権を与えて言論の平衡化を主張し封建的な身分制度からの脱皮を唱えた。しかし、天主教(キリスト教)に対しては否定的で一方的に排斥する立場をとった。朴趾源は1780年(正祖4)に清から戻ると、実学の解釈のもとに新しい事物を受け入れることを主張して清の事物を紹介する熱河日記と言う漢文小説を書いた。その他にも何冊かの漢文小説を書いて当時の為政者を風刺した。朴趾源の門下で実学を研究した朴斎家は民生問題の改善に尽くし、丁若鏞は科学技術を研究し発展させて多くの著書を残すが、これらは後に後進たちの大きな指標となった。若くして経史を学んだ丁若鏞は李(イイク)の遺稿を読んで以来、民の生活に趣を置いた経世の学問に関心を持つに至り西学(天主学)を学ぶようになる。

1791年(正祖15)全羅道珍山郡に住んでいた両班で天主学を学んだ尹持忠(ユンジチュング)は母親が亡くなると葬送の礼を取らず弔問も受けず、彼の従弟である権尚然(クォンサングヨン)が位牌を焼き捨て天主教式の祭礼で送った。このことはこの時代としては大変大きな問題と受け止められた。当時の朝鮮では儒教の教えに従い家内で葬式をとり行い、位牌はとても大切に扱われていた。その様な時代に両班である尹持忠と権尚然のこの様な行動は、不孝・不忠の何物でもなく社会道徳に反することであった。この結果、尹持忠と権尚然は死刑となり天主教の指導者であった権日身(クォンイルシン)は配流された。この事件で、朝廷では蔡済恭(チェジェゴング)を中心とした信西派(シンソパ)とこれに反対する攻西派(コングソパ)が登場することとなった。攻西派は信西派を公然と非難・攻撃する中、丁若鏞が勢いに乗って官職を得ると、攻西派は彼の一族に天主教を信じる者が多いことを突き止め盛んに攻撃して結局、丁若鏞は忠清道の海美に配流となってしまう。ところが流配生活から10日も経たない内に罪を許され再び官職に就いた。攻西派を中心とした周囲の厳しい弾劾にも拘らず丁若鏞は坦々と官職をこなす事が出来たが、それは学問を愛する正祖が彼の学者としての能力を特別のものと考えた為であった。

正祖は制度改革にも力を注いで悪刑(残酷な刑)を禁止して庶民の負担を軽減しようと、宮差徴税法を廃止する一方で貢銭布によって米に代わる納税を認め、貧民を救済しようと字恤典則(ジャヒュルジョンチク)を頒布した。正祖時代の太平聖代を誇った在位期間24年の歳月は何の努力も無しに実現したものではなかった。王が率先垂範して絶え間ない努力を続けた結果として成し遂げたものだった。こうしたことから後世の人々は英祖・正祖時代を朝鮮の黄金期と表現している。

天主教の伝来(18世紀末)

17世紀の朝鮮は壬申倭乱や丙子胡乱などの外国からの侵略に苦しんだ上に、国内においては大臣たちによって絶えることなく引き起こされた党争で国の行く末を見通すことが出来ない状況であった。そうした中で、西洋の宣教師たちが清から朝鮮へも入って来るようになった。彼等は進んだ西洋文化と共に天主教と言う宗教を伝えたが、天主教(西学)はそれまで人々が知識を得る為に学び研究したものとは違い現実生活に関係して実質的な学問であった。清を行き来していた朝鮮の使臣たちは発達した西洋文化に接して様々な西洋の学問を持ち帰る様になり、その結果としてそれまで知識の宝庫と崇められていた朱子学(儒学)を捨て、より現実的な実学を学ぼうとする運動が起きる様になった。
実学の先駆者は李光(イスグァング)で、1614年(光海君6)に芝峰類説(チボングユソル)という一種の百科事典を執筆したが、そこにはイタリア人のマデオ・リッチという神父が書いた万国輿図
(世界地図)と天主真理などの内容が紹介されている。その後、実学は100余年の間に多くの学者たちによって学問として光を放ち、李(イイク)の弟子である安鼎福(アンジョングボク)の弟子たちによって発展する。その中心的人物には権哲身(クォンチョルシン)の兄弟や丁若詮(チョングヤクチョン)の3兄弟などが上げられる。
しかし彼らよりも先に天主学に関心を持った者がいた。それは16代王・仁祖(インジョ)の長男である昭顕世子(ソヒョンセジャ)であった。昭顕世子は丙子胡乱で仁祖が屈辱的な降伏をすると人質として清に送られるが、その時に清で天主教の宣教師であるアダム・シャルに出会って天文学や科学など西洋の発展した学問と一緒に天主教とも出会った。後に昭顕世子は帰国する際に、何冊かの翻訳された西洋書籍と地球儀、そして天主像を朝鮮に持ち帰った。ところがその様な昭顕世子の変化を仁祖は快く思わず、二人は反目し合う様になり結局は世子の持ち帰った書籍などは焼き捨てられた。

1783年(正祖7)には李東郁(イドングウク)が使臣となり清に渡るが、これに同行した彼の息子の李承薫(イスングフン)は北京の天主教に入教して朝鮮人として初めて洗礼を受けた。翌年、李承薫が朝鮮に戻る際に聖書や聖像を持ち帰ったことで朝鮮において天主教が体系的な伝わることとなり、中人(両班と常人の中間)出身の金範禹(キムボム)の家で最初の教会が創設されて信者も増えていった。
正祖は天主教に対してはなるべく弾圧などはしない様にと考えていたが、朝廷の大臣たちは天主教が忠孝の思想に反し君臣の関係を危うくさせて社会倫理を乱すと主張して弾圧が始まる。

迫害が始まって

最初の弾圧は正祖9年の1785年に始まり、金範禹らが遠島となり多くの天主教の書籍が焼き捨てられた。また、2度目は1791年で尹持忠(ユンジチュング)と従弟の権尚然(クォンサングヨン)が父母の死に際し葬式を儒教式に行わず天主教式に行ったとして二人が処刑されるなどした。また、これを契機に西学弾圧への施策が出されることとなった。
1800年に正祖が急死すると11歳の幼い純宗(スンジョング=在位期間1800~1834年)が即位するが、まだ幼いことから祖母である貞純大妃(ジョングスンデビ=英祖の后)が垂簾聴政をすることとなる。ところが貞純大妃が僻派の家の出身であったことから、純宗の2年である1801年に僻派の巻き返しが始まり辛酉邪獄(シンユサオク)が起こる。
辛酉邪獄とは天主教徒への迫害事件で、天主教が朝鮮の伝統文化と情緒に合わないとの理由で始まるのだが、内実は時派の中に天主教の信者や研究者が多くいたことが大きな要因となっていた。辛酉邪獄によって1年に300人を超える天主教教徒が犠牲となり、丁若詮の兄弟は各々全羅道に流配となった。波紋はそれだけに留まらず王室の宗親にまで及んで恩彦君(ウノングン)の妻の宋氏と嫁の申氏が賜死を受け、江華島で流配生活を送っていた恩彦君も賜死した。こうした大規模な迫害が起こると信徒の黄嗣永(ファングサヨング)と言う者が北京にある主教に朝鮮の状況と対処案を請う密書を送ろうとするが、果たせないまま逮捕され処刑される。この密書事件により迫害は更に厳しさを増すこととなった。その後も1815年には慶尚道で1827年には全羅道で数百名の信徒が迫害を受けた。しかし迫害が進むのとは反対に天主教の信徒は益々増えていき1931年には、朝鮮の天主教は北京教区から独立し朝鮮教区となり、1845年(憲宗11)には、金大建(キムデゴン)が朝鮮で最初の神父となった。

天主教弾圧の理由

1882年(高宗19)にアメリカとの修好条約が結ばれるまでの100余年の間、引き続いた弾圧にも拘わらず天主教が朝鮮の地から消えることはなかった。元々朝鮮では太祖(李成桂)以来、儒教を高く崇めて一番の学問とし、その教えを全ての生活の規範としていた。しかしその反面、儒教社会では人々の身分を厳格に区別して両班は遊んで暮らしたが、平民たちは血と汗を流しながら働いてもその代価を満足出来る程に受けることがなかった。こうした朝鮮の社会的特性が天主教の平等精神を容易に受入れさせたとも言えた。平民だけでなく両班階級の中にも社会の矛盾を感じて新しい社会の到来を願う若い知識人たちが天主教に同調する様になる。
宣教師たちは自らの名前を東洋式に変え、先ずは西洋の進んだ文化を紹介し、天主教と東洋の伝統思想を調和させることに努めて人々の拒否感を取り除くことに心掛けた。その結果、天主教の信者は益々増えることとなる。これに不安を感じた両班たちは、彼らが父母や先祖の祭祀を迷信だとして執り行わないことを理由に迫害を加えるのだが、その本当の理由は自身たちの特権を守ろうとする為であったと言えた。

36.平安道を無視するな!

洪景来の乱(1811年)

この頃の朝鮮は小さな騒乱の連続であった。これは政事を担った大臣たちが国を正しい方向へ導こうとするより、強い権力を求めての党争に明け暮れた為であった。1800年に父・正祖の死により僅か11歳で朝鮮第23代王に即位した純祖(スンジョ)の時代もまたその党争の繰り返しが変わることはなかった。
幼い純祖が即位した時の宮中では、純祖の曽祖母である貞純大妃(ジョングスンデビ=21代王・英祖の后)金氏、祖母の恵慶宮(ヘギョングング=正祖の母)洪氏、母の孝懿王后(ヒョウィワングフ)金氏と純祖の生母である顯穆綏嬪(ヒュンモクスビン)朴氏など王の主だった近親者は女性ばかりとなり、朝廷は貞純大妃が垂簾聴政を始めることでその出身である慶州金氏が権勢を振るう様になった。しかしその2年後に純祖が金祖淳(キムジョスン)の娘を王妃に迎えたことで権力が移ることになる。王妃の実家である安東金氏(アンドングキムシ)と純祖の生母の実家である潘南朴氏(バンナムパクシ)が互いに協力することで新たな政治勢力を登場させた為であった。純祖が王妃を迎えてしばらくして、貞純大妃の死をきっかけにこの両家による世道政治が始まることとなり朝廷はこの両家の親戚と同族で独占された。どんなに有能でも科挙に合格することが無く、特に西北人(西北部・平安道出身者)には門戸を閉ざされることとなった。その結果、西北人たちの中からは不満を持つ者が続出することとなる。そもそも朝鮮時代初めの頃から朝廷は西北人たちを登用しない習わしがあり、この事から西北人は心の中で常に朝廷に対する不満を抱いていた。

そうした時、平安道の洪景来(ホングギョングレ)は何度か科挙に挑戦するがその度に合格を果たせず、続けての失敗に失望して流浪生活を始める。流浪生活を続けながら生活の為に土地の有力者に墓地にふさわしい場所を決めてやったり、子供たちを集めて学問を教えたりした。そうした日々を送っていたある日、同じく科挙を受けて合格した者たちと偶然にも実力を争う事となる。ところが彼等は自分よりはるかに知識に乏しい者たちであった。そこでようやく科挙に落ちた理由が自分の出身地が平安道である為であったことを知り、全国各地を廻りながら自分と思いを同じくする同志を捜し求めるようになった。そこで庶子の境遇であった禹君則(ウグンチク)と知り合い、元は常人であったが金を稼いで地位を買い両班となった李禧著(イヒジョ)、金昌始(キムチャングシ)等を参謀に迎えて反乱を起こす準備を始める。蜂起の機会をうかがっていた1811年(純祖11)は大凶作となり民心は乱れ平安道の村々で騒ぎが続出するに様になった。すると洪景来は各地に檄文を張り出すと、ついに12月18日に反乱を起こす。その檄文は次の様な内容であった。

“関西(平安道)地方は檀君朝鮮の中心地で昔から産業が盛んで有能な人物も多く輩出してきた。壬辰倭乱では再造、丁卯胡乱では襄武公・鄭鳳寿(ヤングムゴング・チョングボングス)の様な忠臣が出た。また、遯庵・鮮于浹(トゥンナム・ソヌヒョップ)、月浦・洪禹(ウォルポ・ホングギョングウ)の様な才士を出したが朝廷では彼等を正しく登用せず、甚だしくは権勢を持った者に仕える下人たちまでもが我々西北(平安道)人を蔑視する現状は不快でならない。
国に緊迫した事態が生じれば我々西北人の力を頼りにしながら当地を賤視するのは何とも口惜しくてならない。今、朝廷では国王が幼いとの理由で姻戚勢力の武吏たちが暗躍して政治を危うくさせており、庶民は塗炭の苦しみから抜け出せずにいる。しかし幸いにもここに救世主が現れて不正腐敗を一掃しようと立ち上がった。各地の守令たちは城門を大きく開いて我軍を迎えろ・・・“

洪景来は軍隊を二つに分けた後に自らを平西大元帥と称し禹軍則を参謀に置いて南進し、もう一つの部隊は金士用を副元帥に、金昌始を参謀にして北進させた。その結果、平安道の嘉山、定州、博川など南進軍と北進軍合わせて7城余りを10日ほどで占領してしまった。初めは洪景来軍を侮っていた官軍もこうした状況になってようやく反撃に転じるのだった。官軍が本格的に乗り出したことで戦の動向は官軍に有利になり定州城を除く他の城々を官軍が取り戻すと洪景来軍は定州城へと逃げ込んだ。ところが官軍が反乱軍を平定するとの名目のもとに何の関係の無いものまで攻撃して殺す蛮行を重ねた為に、洪景来に反感を抱いていた者たちまでが洪景来軍に味方する様になる。そうした者たちは官軍の動静を知らせたり食糧を差し入れたり、洪景来軍の居る定州城に入ったりした。
洪景来の乱は当初は社会の不条理に反抗する単純な反乱であったが次第に農民たちが加わっていったことで農民抗争となった。反乱軍の攻勢の後に慌てて事態の収拾に乗り出した朝廷では関西慰撫使を派遣して情勢の把握をさせ初めてことの重大さがわかり、両西巡撫営を設置して挙国的討伐作戦を始めたのだった。

この様な状況が4ヶ月ほど続くと城内では食糧が不足し始めるが、誰一人として不満を言ったり盗みを働いたりする者はなく、却って互いに励まし合って抗争を続けたのだった。反乱軍と農民が飢えに苦しみながらも抗争を続けるほど朝廷に対する不満が大きかったと言える。抗戦が長期化する中で官軍は極秘にトンネルを掘る作戦に出るが、洪景来軍に気付かれないままトンネルは16日後に定州城の城壁まで到達する。
 1812年4月19日深夜、トンネルから大量の火薬を爆発させ城壁を打ち破ることに成功すると、城壁が破れるのと同時に官軍は一斉に攻撃を開始し空腹と疲労の限界にあった洪景来軍を制圧した。この時、洪景来は戦闘中に官軍の銃撃に合って戦死し参謀の禹君則は惨殺される。これにより洪景来の乱は挙兵以来5ヶ月にして幕を下ろした。戦闘終結時に定州城には2,983名が生き残っていたが、官軍はこの内の女842名と、10歳以下の子供224名だけは解き放すが残りの1,917名は罪を許さず処刑する。

また、洪景来の乱に呼応するかの様に同じ時期に漢城でも乱を準備する者たちがいた。首謀者は朴鍾一(パクジョングイル)と言い民心を扇動し江華島に配流となっていた恩彦君(ウノングン)の息子を推戴して洪景来と連合しようとしたが逮捕され失敗する。
洪景来が乱を起こした理由は先にも述べた様に平安道出身者に対する不当な差別にあり、他の地方とは何の連携も結んでいた訳ではないが、洪景来の抗戦が人々の口伝により伝えられ次第に英雄視される様になった。その後も朝廷では相変わらず勢道政治が続き自らの勢力の利益を優先させ、これに不満を持った者たちが全国各地で大小の反乱を次々と起こした。こうした反乱の首謀者たちの中には自らを洪景来だと名乗り“洪景来は生きている”と称して民衆の支持を得ようとする者もいた。

37.農民から国王へ

哲宗の即位(1849年)

いつの時代でも民乱は起こっていたが朝鮮第23代王・純祖時代は特に民乱の激しい時期であった。全国各地で大小の民乱が絶えることが無く起こる一方で朝廷ではその外戚同士による権力闘争に明け暮れた。純祖(スンジョ)は自身に徳が無いことを嘆いて純祖27年である1827年に世子に対し代理聴政をさせることとした。代理聴政を任された孝明世子(ヒョミョングセジャ=翼宗)は多くの賢才を登用し、刑獄を慎重に行うなど善政を施したが僅か4年でこの世を去ってしまう。更に、その後しばらくして父で王の純祖もこの世を去ってしまい宮殿に残った男子は8歳になる世孫ただ一人となってしまった。
幼い世孫が朝鮮第24代・憲宗(ホンジョング=在位期間1835~1849年)に即位すると祖母である純祖の王妃である純元王后(スノンワングフ)金氏が垂簾聴政を行うこととなる。しかしこれは表面的なことであり、実際はその実家である安東(アンドング)金氏が政権を支配する様になる。ところが憲宗の外戚である豊壌趙氏(プングヤング・チョシ)の何人かが登用されると朝廷ではまた新たな権力闘争が始まることとなる。豊穣趙氏が余りにも過度な政権欲を露骨に現したことで、結局は朝廷を追われることとなり、同時にそれまで勢道政治の一端を担った慶州(キョングジュ)金氏も没落して行くのであった。これにより朝廷は安東金氏の独壇場となる。
この時代は社会全般で早婚の習慣があり、特に王たちは10歳前後で結婚しており憲宗も10歳になった1837年に王妃を迎えた。ところが王妃は、その数年後の1843年(憲宗9)に世継ぎも無いままこの世を去ってしまう。その翌年に憲宗は改めて王妃を迎えたが世継ぎは生まれず、王妃以外の側室からも王子を生む者がいなかった。その上、元々身体が丈夫でなかった憲宗は1849年(憲宗15)23歳の若さでこの世を去ってしまう。

憲宗が崩御すると朝廷では誰を後継王とすべきかが大きな問題となった。永く続いた党派間の争いと安東金氏の勢道政治により多くの王族が逆族とされ既にこの世に居なかったからである。安東金氏は王室の族譜である源譜略(ソノンボリャク)を引っ張り出して自身らの勢力を持続させるのに都合の良い3人の人物を候補に絞った。
最初に注目された人物は南延君(ナミョングン:12代王・仁宗の3番目の息子である麟坪大君の6大孫)の息子である興宣君(フングソンクン)の李応(イハウング)であったが、李応は兄弟が4人もいるという理由で脱落する。2番目の人物は徳興大院君(ドグンテェワングン)の宗孫である李夏銓(イハジョン)だった。李夏銓は家勢も弱く、兄弟も無い上に歳も若かった為に安東金氏の都合の良い王の候補としては的確であったが、余りにも聡明であったことが問題となり結局脱落する。最後に候補に挙がった人物は江華島で田を耕して暮らす李元範(イウォンボム)であった。李元範は思悼世子(サドセジャ)の子の恩彦君の孫にあたる全渓君の3番目の息子であった。全渓君は恩彦君が党争によって江華島への流刑を受けると共に江華島へ渡り田を耕して暮らしていた。
ところが1844年に閔晋鏞(ミンジニョング)、朴醇寿(パクスンス)などが元範の兄である元慶(ウォンギョング)を押し立てて反乱を謀議したことが発覚し、元慶は処刑され元範も江華島で隠れる様に暮らすことを余儀なくされた。兄たちが早くに亡くなって天涯孤独となった元範は、貧しい生活を余儀なくされ学問をすることなどは夢にも叶わなかった。元範が文字も知らず兄弟も無いことが、安東金氏にとってはむしろ好都合であった。純元王后(スノンワングフ)によって元範を徳完君に封じられると、ついには1849年に朝鮮・第25代王に即位し哲宗(チョルジョング=在位期間1849~1863年)となる。

血税を返してくれ

一夜にして農民から国王となった哲宗は名前だけの王であり、王としての役割は一つも果たす事が出来なかった。純元王后(純祖の后)は哲宗が幼いとの理由から再び垂廉聴政を始め、自身の近親である金根(キムムングン)の娘を哲宗の王妃とした。そうでなくても勢力を手中にしていた安東金氏の気勢は更に堅固なものとなった。権力を更に広げた安東金氏の周辺には官職を得ようとするものが絶えず集まり、金を貰って官職を与えたりした。特に金根はその程度が甚だしかった上に、肥満体であったことから包物府院君(ボムルブウォングン)と揶揄されたりした。安東金氏たちの横暴に朝廷の機構は大いに乱れ、金で官職を得たものはそれ以上の対価を求め、至る所で不正役人があふれて庶民は塗炭の苦しみに陥ることとなった。

役人の横暴の最も代表的なものは過大な税金の取り立てであった。
税金を納める義務が無い子供と老人の歳を上げ下げし、甚だしくは死んだ者にまでにも税金を賦課したり、法に無い税金まで勝手に作って負担させたりした。こうした行為が全国で行われると、かえってそれが当たり前であるかの様にまでなってしまった。特に春に庶民の食糧が減少すると貸し与え、秋に収穫から返させる還穀(フアンゴク)は不正を極めた。還穀に砂やもみ殻を混ぜることは当たり前で、凶作の年に国が棒引きした分まで徴収したりした。また、帳簿は形式的に記載し帳簿上は数千数万石が残っていなければならないのに実際の官庁の倉庫には埃しか残っていないところが大部分であった。ここに庶民の怒りは極限に達してあちこちで民乱が起こる機運が見られる様になった。1861年(哲宗12)、哲宗は乱行が甚だしい地方官吏たちを厳重に問責する様に命じるが、実権を握っていた領議政の鄭元容の反対で実現しなかった。
 同じ年、慶尚道晋州では晋州兵使(チンジュビョンサ)に赴任した白楽(ペクナクシン)が赴任当初よりあらゆる口実を作っては庶民の財産を絞り取り、一般庶民だけでなく両班までもが彼を怨むようになった。白楽が横領・略奪・恐喝を繰り返し、横暴をほしいままにしていると両班の李啓烈(イゲヨル)、李継春(イゲチュン)は農民は勿論のこと木こりや牧童までにまでも檄文と宣伝文を配って全てのものが力を合わせて立ち上がることを求めた。すると、1862年(哲宗13)2月14日の市場の立つ日に合わせて木こりなどを集めて立ち上がった。晋州で大々的な民乱が起こると、三南地方(忠清道、全羅道、慶尚道を指す)の全域で次々に多くの民乱が起こり、その後は済州や咸鏡、咸興地方にも広がって行った。
一度湧き上がった農民の怒りは容易に鎮まることはなく、国王や朝廷をこれ以上信じることが出来なくなり、新たに信頼できる対象を求める様になる。その結果、子女子と庶民たちの間には平等と来世の幸福を約束する天主教が急速に伝わっていった。また、天主教(西学)に対抗して東学(天道教)が生まれ同様に人々に伝わって行く。

一方、王になったものの一度も王権を行使したことが無い哲宗が出来ることと言えば宮女たちと遊ぶことだけであった。始め、宮中に入った時は健壮な彼であったが宮殿に籠る様な生活をするうちに次第に体力が落ち、特に宮女たちと荒淫を重ねたことで身体は更に衰弱していった。宮女たちとの間に多くの子を成したが、皆幼くして亡くなり健康に育つものが無く、後継者のいない哲宗は自分の従弟の子を養子として後継者にしたいと金根にその意志を伝えた。哲宗を理解しようとしないどころか理解する必要もないと考える金根は安東金氏の実力者たちと相談して、今後の王の候補となりうる王族から自分たちに都合の悪いと思われる者たちを排除する方針を決めると、そうした一人である李夏銓を謀略に落とし入れ殺してしまう。これを見た王族たちは隠れ潜むようになり興宣君・李応は安東金氏との関係が良くない憲宗の母である神貞王后と後日の約束をした後、安東金氏の視線を避ける様に意図的に不良の輩と共に遊びふけることによって自らの身の保全を図った。この事により李応は「商家の犬」との悪口まで聞くことになった。生まれてから引き続いて党争の犠牲となった悲劇の王・哲宗は唯の一度も自分の言いたいことを言う機会もないまま、後継者も無く30歳を越えたばかりで夭折して歴史の舞台から消えていく。

38.民衆の為の新しい宗教・東学

崔済愚-東学創始(1860年)

勢道政治に起因する両班階級の不正腐敗と過酷な搾取から全国各地で反乱が起こり外国勢力の干渉が始まると社会は不安と緊張が続くことになる。信じる心のより所を失った庶民たちは宗教に救いを求めるのは世の常であるが、従来の宗教は腐敗の温床とされ衰退して人々に安息の場を提供する立場とはならなかった。万人が平等であるとする天主教(キリスト教)に多くの人々が集まる様になるが、朝鮮人に深く根を下ろす儒教思想と儒教倫理を生活化した民衆の心を完全に開かせることは容易ではなかった。
この時、崔済愚(チェチェウ)が済世救民(世の中を救う事で民を救う)を唱えて1860年(哲宗11)天主教(西学)に対して東学を創始した。崔済愚は慶州出身の没落両班の末裔で幼いころから漢学を学んだが、父母を早くに無くしてひと所に留まることの出来ない生活を続け、結婚してようやく妻の故郷の蔚山で木綿の行商を始めると次第に全国各地へ売り歩く様になった。

そうした生活を永く続けた後に故郷に戻った崔済愚は山奥で隠居生活を続ける中、1855年金剛山の楡岾寺(ユジョムサ)の僧から授かった乙卯天書(ウルミョチョンソ)から悟りを開き、その2年後には天聖山の寂滅窟(チョクメルクル)で49日間の祈祷の後に道術を身につけて奇人として人々に知られる様になった。1859年、慶州に戻った崔済愚は龍潭亭(ヨングダムジョング)で輔国安民(ボグックアンミン=国を助けて民を平安にする)を主張して修道を始め、翌年には西洋のキリスト教と東洋の儒教・仏教・仙術そして様々な土着の信仰を一つに融合した様な東学を創始した。
東学の基本教義は侍天主(シチョンジュ=我が身に神を迎えたとの意味)の思想を核心にした人乃天(シネェチョン)と後天開闢により全ての人の体内には神が潜んで居て、人に接する時は神に接することと思うべしと諭した。そして、天と人を大道の根源に、誠・敬・信を道の本質として、守心正気を修道の奥義として布教を始め天道教と名乗った。崔済愚は布教に際しては天道教の経典である東経大全を用いたが次の様な内容である。
“・・・庚申年になって伝え聞いたことだが、西洋人たちは天主の意であるとして富貴(社会的地位や名誉)を求めないと言いながら天下を奪って教団を建てその教えを実行しようとした。だが、私はそれで良いのか?正しいことなのか?疑問に思った。(中略)
我が国にあっては悪質どもがこの世の中を埋め尽くし、庶民はいつも平安を感じることが無く苦しみ傷ついている。西洋は戦えば勝ち、打って出れば奪い取り、思い通りにならないことが無い。天下が全て滅亡する様なことになれば必ず報いが下るだろう。輔国安民の計策がこの先何処からか起こるのだろうか。待ち遠しいことだ。 

今、世の人々は時運をわからずにいる。私の話を聞けば心から同調するのに、外に出ては集まってひそひそ話をして道徳に従順でなくなる、甚だ嘆かわしいことだ。簡略ではあるが書き置いて見たので恭しくこの書を持って教訓としてほしい。“
天主教が西洋という巨大な後ろ盾を持って東洋に接近いると考える崔済愚は、これを防がないと何時か朝鮮が西洋の支配を受けるかもしれないと主張し修道して得度する。
東学は人即ち天であるとする“人乃天”(インネェチョン)を実践する宗教であり、そこには嫡子と庶子の差別も両班と常人の差別もなかった。崔済愚は何処の誰でも東学に入って「至気今至 願為大降 侍天主 造化定 永世不忘 萬事知」の21文字を、心をこめて唱えれば道を悟り、神仙となり地上の天国を実現できると説諭すると、悲しみと抑圧を受けた多くの人々が東学に集まり、布教を始めて僅か3年余りで三南地方(忠清道・全羅道・慶尚道)の全域に広まっていった。東学の教勢が次第に広まると崔済愚は各地に布教の為の接所を置き接主を派遣して統率した。東学が西学に劣らないくらい勢いを増すと、これに危機感を感じた朝廷では惑世誣民(人々を惑わし世の中を危うくする)の邪教であるして1863年(哲宗14) 崔済愚と23人の弟子を逮捕した。

民衆の中に根を下ろす

そうした中で哲宗がこの世を去るが後を継ぐ王子がいなかったことから高宗(コジョング=在位期間1863~1907年)が朝鮮第26代王に即位するが、高宗はこの時12歳であった為に神貞王后(シンジョングワングフ)が垂簾聴政をすることとなった。しかし、神貞王后は政策決定権を高宗の父である興宣大院君・李應(イハウング)に与えたことで事実上は大院君が政治を行う様になった。興宣大院君は不正腐敗の根源となっている備邊司(ピビョンサ)を撤廃して果敢に人材を登用するなど改革政策を推進した。大院君とは即位した王の父親が王でなかった場合などに与えられた称号である。
 一方で興宣大院君は崔済愚を死刑にさせ東学への弾圧を始めた。東学と西学がいう天主は非常に相反する意味で使用されたが、朝廷では東学の天主と西学の天主とは同じものと主張し無条件に弾圧したのだった。崔済愚は死刑になる前に自分の後を崔時亨(チェシヒョング)に任せることを言い残していた。崔時亨は農民の子で早くに両親を亡くし造紙所で仕事をしながら1861年に東学教徒となった人である。非常に誠実で勤勉な性格であった崔時亨は東学の教理の通りに実践した。

崔時亨は漢文を知らずハングルをかろうじて読み書きする程度であったが、漢文である東経大全と崔済愚の遺文である龍潭遺詞を全て暗記し布教活動をしながら口述で本を著した。後に東経大全が発見された時に崔時亨が口述したものと比較されるのだが、一字一句も違っていなかったという。朝廷からは東学は不法と看做されたが崔時亨は全国を廻って布教活動に努め、その間の生計はと言えば草鞋作りと農作業で賄った。彼が行く先々では彼が直接布教をしなくても彼の人柄に感嘆した人々は自ら進んで東学に加わり、信徒数は日に日に増え次第に体系が作られていった。
初代教主であった崔済愚が布教した当時の東学信徒は大部分が男たちであったが、崔時亨が教主となると男達だけでなく女たちも増えていった。崔時亨は自ら内修道文(ネスドムン)を著して女たちが家内でしなければならない仕事、舅姑、配偶者、子、下人などとの人間関係に必要なことを説き、内則(ネチク)を著して妊産婦が守らなければならないことを説教した。崔時亨は特に父母が子供たちを殴ったり泣かせたりすることを辞める様に諭した。

崔時亨の努力で民衆の中に根を下ろし始めた東学であったが1871年(高宗8)大きな危機を迎えることとなる。1862年に起こった晋州民乱の首謀者の一人であった李弼済(イピルチェ)が再び蜂起を謀議して逮捕されたことだった。李弼済は崔済愚の7周忌に合わせ朝廷に崔済愚の赦免を要求する蜂起をすると騙して東学教徒を動員したのだった。これをきっかけに朝廷では東学に対して大々的な弾圧を始め、崔時亨も身を隠さなければならない状況となり、彼の妻子は捕らえられ酷い拷問によって長男は殺され妻と次男は病を得てやはり死んでしまう。妻子の無惨な死を目のあたりにした崔時亨はこれまで以上に東学に没頭し教理を確立して教団組織を強化するなど東学の完成を成し遂げる。徹底して民衆の中に根を下ろした東学は後に腐敗した官吏に対抗し、更には日本にも対抗して農民抗争を引き起こした。こうして1905年に天道教と改称すると、1907年には朝廷の公認を受け邪教から正教となった。

39.文無しゴロツキから興宣大院君に

高宗の即位(1863年)

在位の期間中に何の権力も行使することが出来なかった哲宗(チョルジョング)が後継ぎも無くこの世を去ると再び朝廷では王位をめぐって悩むこととなった。安東(アンドング)金氏が勢力を維持する為に自分たちにとって少しでも都合が悪いと思われる王孫たちに逆族の濡れ衣を着せてその多くを殺してしまった為に哲宗の後継者捜しは難航した。朝廷の大臣たちが後継者選びに奔走している間に宮殿の最高位となり王位決定にも大きな影響を持つこととなった憲宗の母である神貞王后(シンジョングワングフ)は、興宣君(フングソンクン)・李應(イハウング)の次男である命福(ミョングボク=高宗=コジョング)を朝鮮第26代王とすると公表する。
興宣君・李應はこの数年前、憲宗(ホンジョング=24代王)の後継選びの際に候補に挙がった王孫であったが、安東金氏が権力を維持する為に王孫たちを強引に排除するのを見て身の危険を感じ自ら街のゴロツキになった人物である。その時は安東金氏の権力維持に都合が良いとの理由で哲宗の即位が決まるが、その時から興宣君・李應は安東金氏との関係が良くなかった神貞王后(シンジョングワングフ)・趙氏に近づいて信頼を築くと、自身の次男を次の国王にすることの同意を取り付けた。その上で安東金氏からの危険から逃れる為の芝居を始めるのであった。多くの時間を妓生宿で過ごし酒に浸り、洛中の無頼漢たちと交わり、時には安東金氏の屋敷を廻って物乞い行脚をしたりした。興宣君のこうした行動は安東金氏たちに殺す価値も無い者と思わせて生き残る道を切り開いたと言える。万全の準備のもとで神貞王后が興宣君の次男である命福を王に推して興宣君を大院君に封じると、さすがの安東金氏も何ら口を挟むことが出来ず受け入れるしかなかった。神貞王后は高宗の歳が12歳であることを理由に自らが垂簾聴政を行うとしたが、実際は全ての政策決定権を興宣大院君に与えたのだった。

朝鮮では国王が王子や兄弟が無いままこの世を去ることとなった場合は王族たちの中から継承者を捜したが、王になった者の父は大院君と呼ばれた。高宗以前にも宣祖の徳興大院君と仁宗の定遠大院君、更に哲宗の全渓大院君の3人の大院君がいた。しかしこれら3人の大院君は息子が王となった時には既にこの世の人ではなく、自らの子が王になった事での死後に王繰られた称号に過ぎなかった。大臣たちの間では若くて意欲的な興宣大院君をどの様に処遇するべきかで激論が繰り広げられることとなった。すると神貞王后は次の5項目の指針を下してこの論議を収拾した。

1. 王の前では臣下の礼を取る必要はない。
2. 大臣たちは私邸の前を通る際は馬から降りること。
3. 外出時は軍使が警護すること。
4. 地位は国王の下で、三政丞(宰相)の上とする。
5. 私邸の警護は王の警護隊が担当する。

興宣大院君は不正腐敗を永く続けて来た安東金氏を朝廷から粛清し、彼等の根源と言える備邊司(ビビョンサ)を廃止し、47の書院を除く腐敗書院を撤廃した。更に果敢に人材の登用を行って南人、北人、中人など党派の区別なく必要な人材を任命して安東金氏であっても自身の路線に合う者であれば登用した。また、興宣大院君は地方の悪徳官吏を徹底して取締まり処罰し改革政策を展開した。

興宣大院君の改革政治

興宣大院君は積極的に不正を行った官吏に対する調査を実施したが、忠清道では100俵以上の国の備蓄米を使い込んだ者が76名にものぼり、その中には1000俵を超える使い込みを行った者もいた。この結果に朝廷では1000票以上を横領した者を死刑とし、200俵以上を横領した者を流刑に、それ以下の者は所属する官庁で処罰させた。国の備蓄米を使い込む不正官吏は忠清道だけでなく全国各地で発見され厳重な処罰を受けることとなった。更に朝廷に議政府と三軍府を置いて朝廷内の行政権と軍事権を分け、税制改革を行って両班と常人の区別なく均等に税金を徴収し、租税の運搬過程で地方官吏たちの不正を防止する為に社倉を建て国庫の充実を図った。その上で興宣大院君は王室の権威を回復し国家の容貌を一新させようとする目的で壬辰倭乱の際に焼失した景福宮の再建を推進した。景福宮の工事には3万5千人を越える庶民たちが強制的に動員されただけでなく、不足した建設費を補充する為に願納銭(ウォンナプチョン)という寄付金を強制徴収したことで庶民の生活は更に厳しくなり、あちこちで不満の声が上がることとなった。ところが1866年3月、景福宮の工事現場で大規模な火災が起こり、ほぼ完成していた景福宮が再び焼失してしまう。

鎖国だけが生きる道?

その一方で、朝鮮の沿岸には外国船が再三に渡り現われては略奪を行うなど民心に不安を与えていた。すると以前から大院君と親交のあった南鍾三(ナムジョングサム)がフランスの力を借りてロシアの勢力を牽制することを建議した。これを受けて大院君はフランスの宣教師を通して正式に提議しようとしたが、当の宣教師の反対で実現しなかった。このことが影響したのか大院君は天主教への対応を見直して天主教弾圧を採用し、当時国内にいた12人のフランス人宣教師の内の9人を処刑してしまう。するとこの事実を聞いたフランス艦隊のローズ提督は1866年11月、江華島を攻撃する(丙寅洋擾)。フランス艦隊の武力侵攻は朝鮮官軍の反撃により敗退するのだが、フランス艦隊は江華島にあった外奎章閣(ウェチャンガク)を襲撃して3百巻を越える書籍と銀塊19箱を略奪していく。また、フランス艦隊に朝鮮の天主教信者が同乗して江華島周辺の地理を案内していた事がわかると、朝廷では国内の天主教信者へ徹底した弾圧が行うところとなり、楊花津(ヤングファジン=現在のソウル麻浦の漢江にかかる渡り場)では数千人の天主教徒が処刑され漢江に捨てられる事態となった。これ以来、人々はこの地を切頭山と呼ぶようになった。

1866年の火災以後も大院君の景福宮再建意欲は少しも衰えることなく、国の不足した財政を埋める為に様々な税金を掛け、希望する者には金で官職を売ることなども公然と行われた。1872年(高宗9)、ついに朝鮮末期の建築・工芸・美術の粋を集めた景福宮が完成する。しかし景福宮完成までの強引な手法により興宣大院君は一般庶民は勿論のこと両班たちからも大いに恨みを買う事となる。また、大院君の採った強硬な鎖国政治は国際関係を悪化させ外来文明の吸収をさらに遅らせる結果を招いた。
一方、高宗が王の地位に就くと誰よりも勢道政治の幣害を知る大院君は高宗の妃候補には兄弟親戚の無い者を望み、府大夫人(興宣大院君の夫人)閔氏の推薦で府大夫人の遠縁の娘を妃と決める。王妃となった明成皇后(ミョングソングファングフ)・閔妃(ミンビ)は賢明で礼儀正しく朝廷内では多くの称賛を受けるが、高宗は側室の李氏を愛しており高宗の愛を受けることは出来なかった。高宗の愛を受けていた側室の李氏が完和宮に封じされると嫉妬を感じた閔妃は、自分の縁者を盛んに登用させて興宣大院君の長男や兄、神貞王后の甥の趙寧夏(チョヨングハ)など自身の勢力を作り上げ、大物両班の一人である崔益鉉(チェイクキョング)と手を組むことで勢力の基盤を完成させた。閔妃は崔益鉉と謀議して“庶民の苦痛を考えず無理な工事を強行する一方で、緊迫した国際情勢に目をそむけた”と大院君の失政を弾劾し、高宗は1873年11月3日親政を宣布して以後の大院君の政治への関与を禁じた。その翌年の1874年に閔妃は子を産むが5日目に死んでしまうと、大院君から贈られた山参(山で採れる高麗人参)を食べたことが原因であると信じて大院君を更に憎悪する様になる。

自分の意志に反して朝廷から退ぞかざるを得なかった大院君は楊州(ヤングジュ)で日々を送りながら政界復帰の機会を覗った。数年後の1882年(高宗19)壬午軍乱(イムオグンナン)によって再び政権を担当する機会を得るが、閔妃が清国の軍隊を動員すると状況は一転し、大院君は清の天津で4年間の幽閉生活を余儀なくされる事となる。その後も幾度となく政権に意欲を見せたが、次第に後ろ盾を失い政治から引退を余儀なくされた大院君は、最後は実の息子の高宗とも不仲となり1898年にこの世を去ると高宗は彼の葬式にも参席しなかった。執権初期において、それまで繰り返されていた不正腐敗を取り除き革新的政治を繰り広げた興宣大院君であったが、鎖国政策により朝鮮の近代化の機会を逃し東学と天主教への弾圧で多くの犠牲を出した。しかしまた自身も最後は寂しく人生を終えることとなった。

40.鎖国か!開国か!

押し寄せる列強たち

1840年(憲宗6)には清とイギリスとの間でアヘン戦争が起き、清が敗れて西洋に門戸を開放することになると朝鮮の沿岸にも多くの外国船が出没する様になった。しかし朝廷では彼らがなぜ現れるのか、彼らの目的が何なのか、その船は何処の国の船なのかなど何らの関心も持たなかった。この時、朝鮮沿岸にやって来た船の大部分はイギリス、フランス、アメリカ、ロシアのもので、彼等は先ず東洋の大国である清を攻撃して門戸を開放させた後、日本にも門戸の開放を迫り、そして3番目の目標が朝鮮であった。それでも朝廷には何の対策もなく、急変する国際情勢にも耳を傾けることもないまま大臣たちは従来通りの権力闘争に明け暮れるのであった。そうした1860年(哲宗11)、清の首都である北京をイギリスとフランスが占領したとの事実を聞いて初めて朝鮮は西洋の強大さを感じることとなった。

この時代の朝鮮は純祖・憲宗・哲宗の3代に渡る勢道政治の余波で庶民生活は困窮し、その不満から全国各地で大小の蜂起が起こり、王と朝廷から心の離れた庶民の間では天主(キリスト)教が急速に根を下ろして行くのだった。激しい朝廷の弾圧にも拘らず西洋の宣教師たちが朝廷の目を避けて続々と朝鮮に入国して布教につとめ教勢は拡大した。1863年、哲宗(チョルジョング)が後継者の無いまま亡くなると、高宗(コジョング)が後を継いで朝鮮第26代王となり高宗の実父である興宣大院君による摂政が始まった。興宣大院君(フングソンテェウォングン)の強力な指導力によって朝鮮の国内は一時の安定をとり戻したかのように思われたが、それもまた永くは続かなかった。1864年(高宗1)にロシアが通商を要求して来ると、何の対策の準備も無い朝廷に対し何人かの天主教徒たちが、朝鮮はイギリス・フランスと三国同盟を結ぶべきとの提案をした。これは、朝鮮が三国同盟を結ぶことでロシアの南下政策を阻止しようとする事を意味した。平素、天主教に格別な感情を持っていなかった大院君はこの建議を受け入れてフランス人宣教師と会う意思を示したが、結局は様々な理由から実現しなかった。その後、大院君は1866年に天主教弾圧令を下すと、これにより9人のフランス人宣教師が処刑され8千余の天主教徒が虐殺を受ける事件が起こるが、これを丙寅邪獄(ビョングインサオク)という。

ジェネラルシャーマン号事件(1866年)

1866年7月、大同江に一隻の見知らぬ船が現れ通商を要求する。その船はアメリカの商船のジェネラルシャーマン号であった。この船にはイギリス人のプロテスタント牧師のトーマスを含む24人が乗っていたが彼らは全員が武装していた。平壌監使・朴珪寿(パクキュス)は中軍・李鉉益(イヒョンイク)に指示して水と食料を与えて送り返そうとしたが、シャーマン号は大同江を上がって来て平壌を探索するなど朝鮮側の要求を黙殺した。これに中軍・李鉉益が抗議すると反対に李鉉益を捕らえて自分たちの船に監禁してしまった。これを見て平壌の人々が怒ってシャーマン号に向かって石を投げて抗議すると銃と大砲を放って脅した。
それをきっかけにシャーマン号と朝鮮の官民たちが互いに火砲を使って攻防戦を繰り広げたが、雨による増水で上がっていた大同江の水位が下がり始めたことでシャーマン号は座礁してしまう。シャーマン号が座礁すると官軍は火をつけた小舟を使ってシャーマン号を焼き落としてしまうが、この事件は後に起きる辛未洋擾(シンミヤングヨ)の原因となる。

丙寅洋擾(1866年)

興宣大院君による天主教弾圧から身を隠して生き残ったフランス人のリーデル神父が中国の天津に滞在していたフランス海軍司令官ローズ提督に丙寅邪獄について報告すると、ローズ提督はリーデル神父と朝鮮人天主教徒3人を道案内人にしてその年の9月に3隻の艦隊を率いて仁川港を経由して漢江に入り、楊花津(ヤングファジン)・西江(ソガング)の王宮の目前にまで迫った。都の庶民たちは勿論のこと朝廷内でも混乱し恐怖に怯え、朝廷は御営中軍・李容熙(イヨングヒ)に命じて漢江を守らせた。3隻の艦隊では攻撃できないことをわかったローズ提督は朝鮮の地形だけを調査して戻ると11月に改めて江華島に武力侵攻する。彼等は丙寅邪獄で処刑された9人のフランス人神父に対する補償金と関係者の処罰、フランスとの通商条約の締結など数項目の条件提示を行った。
この提示を朝鮮が応じないとわかると、当時の朝鮮にはなかった強力な兵器を使って江華島を占領してしまう。そして、公然と「宣教師9人を殺した代償に朝鮮人9千人を殺す」と脅迫するのだった。大院君が義勇軍を募集すると全国各地から若者たちが集まり、江華島をとり戻す為に命を掛けて戦った。その結果、朝鮮軍はフランス軍の占領から1カ月で江華島を奪い返した。しかしこの時、フランス軍は撤退しながら江華島にあった外奎章閣(ウェギュジャングガク)を襲撃して三百余巻の書籍と銀塊を略奪していく。この後、朝廷はフランス軍の背後に天主教徒がいると断定し、天主教徒に対する更なる過酷な弾圧を実行する。大院君が鎖国政策を執ると、ドイツ人商人のオッペルト、アメリカ領事館の通訳のジェンキンス、フランスのペロン神父などが共謀して、大院君の鎖国政策に報復するとの名目で大院君の父・南延君(ナミョングン)の墓の盗掘を試みたが村人たちが聞き集まって来るとそのまま逃げ去った。これを聞いた大院君は西洋諸国に対する敵対心を更に強くして行くのだった。

 
辛未洋擾(1871年)

一方、アメリカでは東洋で消えてしまったジェネラルシャーマン号の行方を追跡する内に、朝鮮で消えたことが分かり1871年(高宗8)に北京駐在のアメリカ公使・ローに真相確認を命じた。フランス軍との戦闘に勝利して自信を深めた朝廷ではアメリカ側の質問に何も答えることなく一蹴してしまう。するとローはアジア艦隊司令官であるロジャースに5隻の艦隊と1200余の軍使を与えて江華島を攻撃させたが、この時もフランス人のリーデル神父と何人かの朝鮮人天主教徒が道案内をした。この戦闘は辛未年に起きたことから後に辛未洋擾(シンミヤングヨ)と呼ばれることとなる。

西洋の野蛮人は出ていけ!

アメリカ艦船がいきなり江華島の広城鎮(クァンソングジン)に侵入すると、大院君は再び義勇軍を募集してアメリカ軍に対抗させて広城鎮を陥落を防いだ。しかし、アメリカ軍は広城鎮を除く江華島一帯を占領してあらゆる略奪や蛮行を尽くした。これに江華島の住民・義勇軍・官軍は一つになって強力にアメリカ軍に対抗し、大院君は斥和の意志を込めた教書を全国に頒布して斥和碑を建てることを命じその意思を明確に表明した。結果、アメリカ軍は退却するが、大院君が高宗の名で下した斥和碑には次の様に書かれた。
“洋夷侵犯 非戦則和 主和売国 戒我萬年子孫 丙寅作 辛未立
:西洋の野蛮人が侵犯して来るのに戦わずに和議を結ぼうとするのは国を売ることだ。我等の子孫が萬年の戒めとする為に丙寅年に作って辛未年に建てる“
 大院君が強力に鎖国政策を進めると、日本では朝鮮が将来の日本の大陸進出の妨害になるとして征韓論が台頭する様になる。しかし1873年、それまで何かと大院君と対立していた高宗の妃である閔妃(ミンビ)が崔益鉉(チェイキョン)等と謀って大院君を弾劾して摂政の座から降ろすことに成功する。これにより高宗による親政が行われる事となるが実権は閔妃が握るところとなった。特に李裕元(イユウォン)・朴珪寿(パクキュス)・李最応(イチェウング)・趙寧夏(チョヨングハ)・金丙国(キムビョングック)・閔升鎬(ミンスングホ)・閔謙鎬(ミンギョムホ)などの閔妃の一族近親者などが政権の中枢に入り、さながら閔妃一派による勢道政治を思わせた。閔妃は大院君とは違い西洋諸国には好感を持っており、鎖国よりも開国を模索する様になる。

朝鮮の門が開く

大院君に代わって閔妃等が政権を握ると朝鮮社会は急変し、閔妃の開放論に対して儒学者や朝廷内から外国との通商への慎重論が台頭してくる。大院君の命令で外国船との戦闘を繰り広げた彼等は通商の必要性は認めていたが開国には慎重であったが、大院君と対立していた閔妃は開国の決心をするのだった。そうした中、日本の船が朝鮮の沿岸に頻繁に現れ通商を要求して来ると朝廷では正式な通商には応じなかったものの、それらの船が往来することは黙認し朝鮮と日本に修好関係が出来上がる。しかし、この時まだ朝鮮の社会は日本との修好を快く受け入れることは出来なかった。丙寅・辛未の洋擾の苦い経験がまだ癒えていない上に、大院君が再び帰還して対日外交に批判的姿勢を見せた為であった。
日本としては大院君が再び勢いづく前に何らかの手を打つ必要があった。そこで日本は1875年(高宗12)9月、雲揚号など艦隊3隻を朝鮮沿海に派遣した上で食糧を求めて蘭芝島に停泊し、水兵数十人に沿岸を探索させて島に設置した草芝鎮砲台にまで接近した。これに朝鮮の水兵たちは警告の為の砲撃を加えるが、朝鮮のこうした行動を待っていたかの様に、日本の艦隊は総攻撃を掛け草芝鎮砲台は完全に破壊されるが雲揚号もまた損害を受けた。雲揚号は後退しながら永宗鎮を攻撃する一方で兵を上陸させて殺人・放火・略奪を敢行した。当時の朝鮮の武器は旧式銃と射程距離が700mにも届かない大碗口砲などでその命中率も高くなかった。他方、日本は1854年に門戸を開放したことで西洋の新式の武器が揃えられておりその戦力の差は歴然であった。その上で日本は、雲揚号が汲水の目的で芝草鎮に接近したのに朝鮮側が事情を確かめないまま先に攻撃した為に仕方なく攻撃して来たとして艦隊3隻を釜山に送り雲揚号事件の平和的解決と通商を要求するのだった。

日本は黒田清隆を全権大使に井上馨を副使として朝鮮に派遣するが、黒田は交渉が日本側の要求通りに進まない場合は戦闘も辞さないと陸軍派遣の要請をした上で江華島に向かった。その一方で森山茂を朝鮮に送って事前交渉をさせるが“日本の大臣が江華島に行って貴国の大臣と会談を行うが、万一交渉がうまくいかなければそのまま京城に直進する”と脅迫に近い通告をするのだった。日本の強硬な態度に驚いた朝廷では御営隊長・申(シンホン)を接見者として江華島に送って交渉させたが、大臣たちは意見百出するものの解決策を容易にまとめることは出来なかった。大院君派と全国の儒教者たちの徹底した反対はあったものの朴珪寿(パクキュス)・呉慶錫(オギョングソク)など閔氏派が幾つかの理由をつけて開国を主張していた。そうする間も申ら朝鮮の代表と日本の黒田等との会談が進められ、日本は会談中に2月11日の紀元節を祝うとして艦船から祝砲を打つなど朝鮮の代表団に対し無言の脅迫をするのだった。会談は3回にかけて進められ日本は事前に作成して来た13項目の条約案をもって早期の締結を要求した。これを朝鮮側がなかなか結論を出せずにいると清から一通の国書が送られて来た。それには“朝鮮が日本と条約を結べば戦争を避けることが出来るが、万一この勧告を受け入れない場合はどの様なことが発生しても清は責任を持てない”とあったのだが、これは日本の駐清公使が前もって清国の李鴻章と協議して送らせたものだった。清国までも開国を勧めて来る状況に朝鮮はついに固く閉ざしていた門を開けることを決定する。朝鮮では日本が提示した13項目の条項の内の幾つかの修正案を提示したが日本は日本側が不利にならない範囲でこれを受け容れた。1872年(高宗13)2月26日、こうして江華島条約が結ばれた。江華島条約は韓日修好条約、或いは丙子修護条約ともいわれる。主な条約の内容は次の通りであった。

1. 朝鮮は自主国家として日本と同等の権利を持つ。(第1条)
2. 20か月以内に朝鮮は釜山以外の3港を開港し日本の商人の居住と貿易の便宜を提供する。(第4・5条)
3. 日本は朝鮮の沿海、周辺の島々を自由に測量して海図を作ることが出来る。(第7条)
4. 日本は朝鮮が指定する港に領事を派遣し、朝鮮に居住する日本人の犯罪は日本の権限で審判する。(第8・10条)

41.大院君と閔妃の対立・混乱

押し寄せる日本

江華島条約締結から5ヶ月後に朝鮮と日本は修好条約の付録11条と貿易規則11条を締結する。そこでは取引方法、朝鮮に居留日本人への特権供与、日本の船舶への無関税などの朝鮮にとって不平等な内容が多く含まれていた。条約が結ばれると朝廷では金綺秀(キムギス)を修信使に任命して日本へ送った。後日、日本で西洋の新しい文化を直接見聞きし感じたことなどが修信使日記に著された日東記遊が王に奉じられた。また、朝廷では1880年(高宗17)にも金弘集(キムホングジブ)を修信使として日本へ送るが、金弘集は日本の眩しいばかりの発展と急変する国際情勢を再認識してその様子を修信使日記で紹介した。
朝鮮第26代王・高宗(コジョング)はこれらの報告を大臣たちに検討させると共に、全国の儒学者たちにも配布して識見を広めるように指示した。しかし儒学者たちはこれを素直に受け入れることなく黙殺する。儒学者たちは大院君を支持して鎖国を続けるべきと信じ込み洋夷(外国)との修好などはとても受け容れることが出来ないとする立場に立った。その後も朝廷では修信使の報告などを基に日本に対する認識を変えようとする動きが見られるようになり、1881年には紳士遊覧団が結成され4ヶ月に渡って日本に渡り日本の新制度などの視察を行った。

壬午軍乱(1882年)

開化の荒々しい風は、固く閉ざされた扉も物ともせず押し寄せ大院君は10年に及んだ執権の座を降りるしかなかった。新たに政権を握った閔妃は大院君の鎖国主義を完全に覆して開国・開化政策を推進し、1876年に日本との間に江華島条約を結んで永年の鎖国を開放したが全ての人々が開化に賛成した訳ではなかった。その結果、朝廷では開化派と守旧派とに分かれて対立する様になる。大院君は強力な鎖国政策を進める上で国防を重視して軍人に対する待遇も充分に取り計らったが、閔妃政権に代わるとその優遇は無くなり軍人たちの間で不満が起こり始める。更に1881年、朝廷では日本の後押しで別技軍という新式軍隊を作り既存の6営と訓練都監を軍制改革して武衛営と壮禦営の2営に改編した。ところがこの時、朝鮮の国庫は逼迫しており旧式軍には13か月間も俸給米が渡されていなかった。江華島条約で朝鮮が日本との貿易に無関税の特恵を与えたことで大量の朝鮮の米が日本に輸出され、朝鮮では米が不足し価格だけが跳ね上がった。旧式軍隊が1年以上も俸給を受けられない状況が続いたのとは反対に新式軍隊である別技軍には厚い待遇が施され旧式軍隊の軍官たちの不満に更に拍車をかけることとなり新たな緊張を生むこととなった。

1882年(高宗19)6月、湖南(全羅道)から税として集められた米が送られて来ると最も不満が高い武衛営の訓練都監の兵卒たちに俸給米が支給される事となった。ところがその分配が公平に行われなかった上に宣恵庁の官吏たちの策略で俸給米の半分が石や砂にすり変えられていた。これを知った兵卒が激昂して俸給米支給者に怪我を負わせる事件が起きる。すると今度は宣恵庁の堂上・閔謙鎬(ミンギョングホ)は怪我を負わせた兵卒を逮捕して拘禁した。朝廷で彼等を裁判にもかけないまま獄につないだことで、たまりにたまった軍卒たちの不満はこれをきっかけに爆発する。軍卒たちは示威行動を続けながら武衛隊長である李景夏(イギョングハ)を訪ねて行き拘禁されている者たちの無念を訴えた。李景夏は閔謙鎬に書信を送り善処を要請したが何の効果も無いと知ると軍卒たちに閔謙鎬を直接訪ねて頼むように指示した。軍卒たちが閔謙鎬を訪ねて行くがその途中で偶然にも問題の俸給米の支給者に出会う。軍卒たちの怒りに驚いた支給者は閔謙鎬の家に逃げ込むと、軍卒たちはこれを追いかけて閔謙鎬の家に押し寄せるが主人の留守を理由に応対を拒まれる。軍卒たちはこの対応に怒りを抑えきれず閔謙鎬の屋敷を壊して立ち去る。

俺たちはどうすれば良いのか?

軍卒たちは“このまま捕まって獄につながれ殺されるなら、庶民を苦しめる勢道両班でも襲って死のう”と覚悟を決めると、大院君を訪ねて自分たちの苦悩を訴え同調を求めた。再度の執権を夢見て機会を伺っていた大院君は軍卒たちを慰めながらも秘密裏に軍卒たちの首領格である柳春萬(ユチュンマン)・金長孫(キムチャングソン)に会い密計を与える。また、その一方では自身の腹心である許煜(ホ・ウク)に軍卒たちを扇動する様に指示したことで軍卒たちの不満は大院君の思惑と結びつき事態は閔氏勢力と日本勢力の排斥運動へと発展して行く。
軍卒たちは獄に繋がれている同僚たちを救うのに先立ち武器を準備しようと東別営の武器庫を襲撃して武器を奪取した。その後、義禁府と捕盗庁を襲撃して同僚を助け出すと再び監営を襲撃して兵器を奪った。またこの間、朝廷と日本に反感を持った民衆も軍卒たちに加担する様になり本格的な乱の様相を呈して行く。軍卒たちは二つの部隊に分かれ第一部隊は江華府留守・閔台鎬(ミンテホ)を始めとする閔妃の戚臣たちの屋敷を襲撃し、第二部隊は別技軍の兵営に行って日本人の教練官で陸軍少尉の堀本禮造を殺害した。更に夜になると日本の公使館に火を付け日本人を襲う。公使館が混乱する中、ようやく混乱を逃れた公使・花房義質は閔妃政権に保護を求めて宮殿へと向かうが、宮殿に繋がる4大門が全て閉められているとわかると諦めて仁川から日本へ逃げ戻ってしまう。

軍卒たちはその二日後には閔妃派で親日派の李最應(イチェウング)を殺して高宗のいる昌徳宮(チャングドクグング)に向かうが、これに民衆たちも加わって事態は更に深刻化する。高宗は事態を鎮静化しようと兵を呼ぶが、その時すでに群衆は昌徳宮の門前にまで迫っていた。激憤した軍卒と民衆は昌徳宮に入ると閔謙鎬と京畿監使・金輔鉉(キムポヒョン)を殺して閔妃までも襲おうとした。しかし閔妃は宮殿に居なかった。事態の深刻さを感じ取った閔妃は宮女の衣服に変装して宮殿を脱出し忠州牧使・閔応植(ミンウングシク)の屋敷に潜んだのであった。この一連の事態を壬午軍乱と言う。
 王命により再び執権となった大院君は別技軍と二営をなくし既存の軍に戻した。また、統理機務衛門を廃止して三軍体制に戻して軍卒たちに俸給の問題の解決を約束した。更に自身の子に訓練隊長・戸曹判事・宣恵庁堂上を兼務させて兵権と財政権を全て掌握した。これにより閔妃は大打撃を被ることとなるのだが、いち早く事態の対応をしたことで再び政権を握ることになる。 

政権を取り戻す閔妃

こうした中、清国は朝鮮における日本の勢力が大きくなることを警戒しながらも何の名分もなく牽制することが出来なかった。ところが忠州に隠れていた閔妃が清国に行っていた金允植(キムユンシク)に連絡して清に援助を要請すると、清は丁汝昌・馬建忠・呉長慶などに軍隊を与えて朝鮮を監視する様になる。今更の様に清が朝鮮の宗主国であり朝鮮を保護する立場であるとして、京城に兵を駐屯させ朝鮮の政治にも干渉する様になった。更に大院君を壬午軍乱の扇動者であるとして拉致すると清に連れ去ると大院君はその後4年の間、清での幽閉生活を余儀なくされる。
 大院君が清軍によって排除されると宮殿に戻った閔妃は再び政権を手中に収め、清は朝中商民水陸貿易章程を結んで朝鮮における確固たる立場を確保する。一方、日本公使・花房義質は日本に戻り朝鮮の状況を日本政府に報告すると日本は軍艦4隻と歩兵1個大隊を派遣して強硬な態度で協商を要求した。
この時の日本の要求は次の様であった。

1. 朝鮮政府の正式の謝罪
2. 損害賠償
3. 犯人の逮捕と処刑とその背後にいる者の処刑
4. 被害者に対する弔慰金の支給
5. 場合により巨済島または鬱陵島を割譲する
6. 朝鮮が誠意を見せない場合は武力で仁川を占領する

こうした日本の要求を朝廷は到底受け容れることが出来ず、事態の悪化を憂慮した清の馬建忠の仲介で日本と朝鮮が済物浦(チェムルポ=現在の仁川)で会談を持つことになるが、この時の朝鮮の代表団は李裕元(イユウォン)と金弘集(キムホングジプ)であった。

朴泳孝-太極旗を作る

1882年7月17日、朝鮮は日本が提示した本条約6箇条と修好条規續約2箇条に若干の修正をした後に済物浦条約を結んだ。これにより朝鮮は日本に賠償金50万円を支払い、日本公使館に日本兵を駐屯させることを認め、朴泳孝(パクヨングヒョ)・金晩植(キムマンシク)・徐光範(ソグァングボム)等を修信使として日本へ送り謝罪させることとした。この時、朴泳孝は日本に向かう船の中で朝鮮を表す国旗が無いことに思いが及ぶと中国の太極図説と易経に解説される太極思想を土台にして太極旗を考案し使用した。その翌年の1883年に太極旗は正式に採択され全国に公布された。開国後、外国勢力と腐敗した政権への不満から最初に起こった壬午軍乱は対外的には、韓・日・清の微妙な国際関係を引き起こし、国内的には開化勢力と保守勢力の対立を露出させ甲申事変のきっかけとなった。この事件により閔氏政権は更に外勢に依存することとなり、日本は朝鮮の植民地化に一歩歩みを進めることとなった。

42.金玉均の三日天下

開国だけが生きる道だ

1882年に起きた壬午軍乱をきっかけに朝鮮への影響力を巡って清と日本が対立を深め、朝鮮の政界内も親清派と親日派に分かれて対立する様になる。大院君の鎖国政策に反対した閔妃は、ここでは清を頼りとする保守勢力となり閔升鎬(ミンスングホ)・金弘集(キムホングジブ)・金允植(キムユンシク)・魚允中(オユンジュング)などの人物が集まり、彼等は事大党、或いは守旧党などと呼ばれた。これに対して日本の明治維新を手本にして改革を断行しようとする金玉均(キムオッキュン)・朴泳孝(パクヨングヒョ)・徐載弼(ソジェピル)・洪英植(ホングヨングシク)等は少壮派、或いは開化党、独立党と呼ばれた。
事大党と開化党の若者たちの中には最初は同じ思いから共に学んだ者も多く、彼等は開化思想だけが朝鮮を正しい道へ導くことが出来ると信じて疑わなかった。彼等がそうした改革思想を持つ様になったのは呉慶錫(オギョングソク)・劉大致(ユデチ)・朴珪寿(パクキュス)といった人々の影響を受けてのことだった。呉慶錫は、身分は中人であったが翻訳官として清に赴任して西洋の発達した文明を目のあたりにして列強の近代化された軍事力に危機感を感じた人あり、劉大致も元々は中人の漢方医であった。彼らは学識が優れ人格が高邁であったことから多くの若者が慕って集まる様になった。呉慶錫らは朝鮮を革新する為には両班の子弟たちを開化させなければならないと考え、その門下には金玉均(キムオッキュン)・徐光範(ソグァングボム)・朴泳孝(パクヨングヒョ)・洪英植(ホングヨングシク)・金允植(キムユンシク)等が集まっていった。門下生たちは師の意を理解して多くのものが日本や清を訪ねて学び開化政策の中心勢力として成長していった。

甲申政変(1884年)

しかし壬午軍乱が彼等を穏健派と急進派に分けるきっかけとなり、
洪英植・金允植などは穏健派に、金玉均・朴泳孝・徐光範などが急進派となった。穏健派は事大党と名乗り急進派は開化党と名乗ったが、開化党は1884年(高宗21)、日本公使・竹添進一郎と密儀して朝鮮で政変を起こし新しい国を興そうと計画した。折しも1884年10月、朝鮮で最初の郵便局である郵政局が落成され午後7時から内外の高官を招待して宴会が行われることになった。この日は英米清日の公使や総領事などの高官たちを始め各国の外交官と朝鮮の大臣たちが参席することとなっていた。開化派は宴会の途中に郵政局の隣の建物に放火して混乱させ、これに乗じて事大党の要人を殺害する計画を建てた。宴会時間となり郵政局には多くの人たちが集まり宴会が始まると、暫らくして何人かが無言のまま何かを確かめ合う様に互いにうなずきあった。多くの人々が興に乗じる頃合いに、急に外が騒がしくなり“火事だ”と言う声がした。これを聞いて閔泳翊(ミンヨングイク)は外に飛び出すが、少しすると血を流しながら宴会場に戻りながら力尽きて倒れる。瞬く間に宴会場は修羅場と化して人々は四方に逃げ散った、これが甲申政変の始まりであった。しかし事は開化派の計画通りには進まず、首謀者である金玉均と朴泳孝は昌徳宮に行き高宗と閔妃に謁見すると朝鮮に駐留している清国軍が反乱を起こしたと偽りの奏上をした。

平素より開化党を快く思っていなかった閔妃は金玉均等の話を容易には信用しなかった。しかし、次第に宮殿にまで聞こえて来る耳を切り裂く様な爆音に金玉均の言葉を信じる他無かった。ところが、この爆音もまた金玉均の用意したものだった。高宗と閔妃は驚き震えながら全てを金玉均に任せ、金玉均は高宗に日本軍を呼び入れる勅書を書かせる。直ぐに日本軍が入って高宗を護衛して安全を確保すると理由を付け景祐宮に移したが、その実際は監禁同然と言えた。その後、事大党派に対して昌徳宮に来る様に王命を下すと、入宮して来た閔泳穆(ミンヨングモク)・趙寧夏(チョウヨングハ)・閔台鎬(ミンテホ)・柳載賢(ユジェヒョン)等の事大党に属する者たちを次々と殺してしまう。翌日、開化派は各国の公使館に新政府の樹立を伝えると共に新内閣の名簿を発表し、領議政に李載先(イジェソン)、右議政に洪英植(ホングヨングシク)、戸曹参判に金玉均、漢城判尹に朴泳孝、外務督判に徐光範を任命した。彼等は改革政治の為の政綱を次の様に発表した。

1. 門閥を廃して四民平等を確立する。
2. 清に大院君の送還を要求する。
3. 内侍府・奎章閣など不必要な機関を廃止し税法を改正する。
4. 4営を1営に統合して巡査を設置する。
5. 行商人の団体である恵商公局を廃止する。

他方、郵政局での事件で刺客に襲われ重体となっていた閔泳翊は自宅で療養しながら京畿監査の沈相薫を伝達役として清の袁世凱と高宗への密書を送った。沈相薫が密書を伝達した後に高宗に会う為に景祐宮に向かうと、これを先に聞き付けた朴泳孝は面会を認めなかった。ところが、金玉均が後から出て来て高宗との面会を認めた。結果としてこの面会を認めた事が甲申政変を失敗させる大きな要因となった。閔泳翊の密書から真実を知ることとなった高宗は大変に怒り新内閣の方針とは反対に清に援助を求めた。閔泳翊の密書を受け取ると機会を伺っていた袁世凱は高宗の救援の求めに答えて2000人の軍隊を引き連れ昌徳宮と昌慶宮に向かい、それまで宮殿を護衛していた日本軍と戦闘に入ると日本軍を撤退させ、高宗を閔妃の居る北関宗廟まで護衛して行った。清の凄まじい勢いに日本公使の竹添進一郎は事態が日本に不利であることを悟り後退を決めると、日本軍頼りの開化派政権は音を立てて崩れてしまう。
たった一度の失敗で掴み掛けた政権を放り出すこととなっただけ
でなく、追われる身となった金玉均・朴泳孝・徐光範等は日本公使館に身を隠すとそのまま日本に亡命する。これにより金玉均の政権は僅か3日で幕を下ろすこととなった。一方、開化派が身を隠した日本公使館は朝鮮の官軍の襲撃を受け、数人の日本人が殺され公使館が破壊された。甲申政変が3日で幕を下ろすと朝鮮の政界は再び守旧派が支配することとなり、清と日本による朝鮮の支配権を巡る争いは益々激しくなる。

両国の軍隊は立ち去ったが

この政変後、日本政府は日本人被害者の賠償金と日本公使館の新
築にかかる費用及び関係者の処罰を求めて来た。これに対し朝鮮政府は金弘集が代表となって交渉にあたったが、朝鮮の主張は殆ど受け入れられず日本の主張する通りに漢城条約が結ばれた。こうした事から朝鮮内に、清との衝突に期待し排日感情を抱く者が出て来ると、日本は全権大使・伊藤博文を清に派遣して李鴻章と交渉の上に天津条約(1885年)を締結する。その主な内容は

1. 清・日両国は朝鮮から撤退する。
2. 朝鮮国王に建議して朝鮮の自衛軍を養成することとし、訓練教官は清・日を除く他国から招請する。
3. 朝鮮に派兵する場合は両国は互いに通告する事とし、事態が
終結した際には撤兵する。

天津条約により清国と日本の軍隊は全て朝鮮から撤退した。朝鮮 から清の勢力を一掃した日本は、この時から本格的に朝鮮を奪う 為の陰謀を繰り広げることとなる。
他方、1884年ウエベル公使を朝鮮に送って韓露修好通商条約を結んだロシアは、天津条約で清と日本の軍隊が撤兵すると朝鮮への関心を明確にして韓露条約を批准し正式に国交を樹立した。頼みにはしていたものの、度を越した清の内政干渉に嫌気をさした高宗と閔妃は次第に親露路線に傾き始め、朝鮮におけるロシアの影響力は次第に大きくなって行く。これに不安を感じた清はロシアの南下政策を警戒するイギリスと共謀を図ると、イギリスは清と連絡を取り合いつつ1885年に全羅道の巨文島を占領する。イギリス軍は巨文島に2年間駐留しながら兵営を設置して砲台を築くなど軍事基地として整備してロシアの朝鮮侵略を牽制した。これに対しロシアはイギリスに抗議すると共に清を脅し、清が仲介する形で収拾作業が始められた。その結果、ロシアとイギリスは“いかなる国も朝鮮の領土を占領しない”との合意をして1887年にイギリスは撤収する。しかし、その翌年の1888年(高宗25)ロシアは韓露陸路修好条約を結ぶとロシアに隣接する咸鏡道慶興府はロシア人に開放され陸路での貿易が自由に行われる様になった。各国が朝鮮に対する利権を求めて関心を高めると共に朝鮮を取り巻く国際関係は更に複雑化していく。一方、日本に亡命した金玉均は日本の冷遇と朝鮮からの刺客が何時何処から来るかも知れないという恐怖に震えながら日々を過ごしていたが、1894年に清へ身を寄せたところを守旧派の洪種宇(ホングジョングウ)によって暗殺されてしまう。

43.東学と共に立ち上がれ!

東学革命(1894年)

開国して間もない朝鮮は日本・清・ロシア・イギリス・アメリカ・フランス・ドイツなど世界列強の草刈り場となり国の内外が非常に揺らいだ時代であった。それでも朝廷の大臣たちは国と国民を守るどころかこの事態となっても自分たちの地位と権力の維持の為だけに汲汲としていた。対外的には日本による略奪行為さながらの不平等貿易により朝鮮の経済状態は更に悪化し、国内では様々な税金が国民に付加され地方官吏たちは血税を集めることに没頭する。これに追い打ちをかけるかの様に三南(慶尚・忠清・全羅)地方で凶作、京畿道では大洪水が起こり庶民の生活は極度の困窮状態に陥る。
庶民の中には朝廷に不満を持つものが続出し、これ以上は朝廷を頼りにすることが出来ないと感じる者たちの間では新なた心の拠り所を求めるようになる。西洋から入った天主(キリスト)教と1860年に崔済愚が起こした東学が急速に広まって行った。これに対し朝廷はこれ等の宗教が庶民を惑わせ国を混乱させるとして弾圧政策を執るのであった。この政策により多くの人々が刑場の露となり消えて行ったが、弾圧が進むのとは反対に庶民は宗教心を更に強くするのだった。力の無い庶民たちにとっては宗教だけが心を癒し力になってくれる存在であった。特に東学は外国から伝わったものではなく朝鮮で生まれたものであった為に庶民の心を更に引き付け、布教を始めて僅か2~3年で発祥した三南地方だけでなく全国に広まって行くのだった。

東学は主に両班階級に対する反発心と外国勢力に対する抵抗心の強い人々に多く信じられたが、地方の至る所に包・帳などの教徒たちの組織網をおいて布教の拠点とすることで全国的に広がって行った。教勢が拡大すると東学教徒の間では教祖伸寃運動をしようとの声が高まり、1893年忠清道に2万余の東学教徒が集まり亡き教祖の伸寃運動(罪人として処刑された創始者・崔済愚の名誉回復運動)と共に斥倭洋(日本と西洋列強を排除する)と倡義(国難に際して義兵を挙げる)の旗を掲げて唱え廻った。東学教徒は“日本と西洋列強が朝鮮に入って国を危うくさせるので、これを排撃すると共に不正役人の横暴から庶民生活を守ろう”とするものだった。一度は朝廷の和解策を受け入れて集会を運動を中断したが、また翌年の1894年に全羅道で不正役人の横暴に我慢が限界に達した東学教徒と農民たちが立ち上がった。1892年全羅道古阜の郡守に趙秉甲(チョビョングガプ)が赴任したが、趙秉甲もこれまでの不正役人たちと同様にあらゆることに理由をつけては庶民に不当な課税を繰り返した。更に泰仁郡守であった自分の父親の碑石を建てようと金品を強制的に徴収しては私的な目的に流用した。また、財産のある者には偽りの罪を着せて財産を奪おうと様々な手を使っては私腹を肥やした。こうした彼に対しに庶民は何度となく抗議をするが改めるどころか更に庶民を苦しめる行為を繰り返した。洪水対策だと農民たちを動員して萬石(マンソクポ)と言われる堤防の増築工事をさせたが、完成すると農民たちに治水税を徴収し二重の負担を強いた。農民たちは郡守と全羅道監察使を訪ねて治水税の撤廃を懇請したが聞き入れられず却って弾圧を受けた。いよいよ我慢の限界に達した古阜地方の東学の長であった全準は1894年1月10日、1千余名の農民たちと共に蜂起した。彼等は先ず役所を襲撃して武器を手に入れると、農民たちが不当な課税により奪われた穀物を改めて農民たちに分け与えた。

これに朝廷では按覈使(アンヘクサ)として李容泰(イヨングテ)を派遣して実態を調査させたが李容泰は事件の前後関係を調べず、役所を襲撃した事実だけを理由に東学に対し民乱の責任を転嫁し弾圧を始める。それだけに留まらず駅卒の乱暴者たちを集めて村々を襲わせ、村の多くの女たちを強姦し、男たちを殴り付けて手向かう者は投獄して強奪を繰り返すという事件が起こした。これに憤慨した全準・金開男(キムゲナム)・孫化中(ソンファジュング)等の東学教徒たちは『輔国安民・徐暴救民』の旗を掲げて農民たちに決起を呼びかけると、これに泰仁・井邑・扶安などの全羅道内各地の農民たちが呼応した。彼等は白山を占領すると隊伍を整備して官軍と戦う態勢を整えると、東学の呼びかけに集まった者たちは千人に達し“座れば竹山、立てば白山”という言葉が生まれた。これは当時の農民たちが白い衣服を好んで着ていたことから人々が立ち上がると山の様に一帯が白くなったことから白山、また彼等の大部分の武器が竹槍であったので座れば竹山との言葉が出来上がったのだった。

東学軍の持つ武器は粗末な竹槍であったが士気は高く全州から出動した官軍を破ると更に進撃していった。朝廷では両湖招討使に洪啓薫(ホングゲフン)を任命して東学軍の討伐に当たらせた。しかし洪啓薫が率いる官軍は東学軍との戦闘に大敗し東学軍は難なく全州まで占領する。このままでは勝てないと悟った洪啓薫は朝廷には外国軍の支援を受けることを建議し、同時に東学軍には民心を安定させる為として和平を提議すると、東学軍もこれを受け入れて両者の間に講和が成立する。東学軍は38項目の内政改革に関する要求をするが大部分は農民たちの生活に直結する内容であった。東学軍が出した願請書の主要骨子は三政(田政・軍政・還穀)の混乱から来る過大な課税の是正と地方官吏の不正腐敗の根絶策、そして外国人商人(特に日本人商人)による商権侵害を禁じるなどであった。東学軍が提示した願請書の内容を朝廷が受け入れて“全州和約”が成立すると東学軍は自ら軍を解散する。

朝廷では全羅道の53箇村に執綱所(幣政改革を達成する為に設置された朝廷の出先機関)を置いて東学教徒たちに参加させた。執綱所を通して行政に参加する様になった東学教徒たちは次の12箇条からなる改革要綱を発表した。

① 東学教徒と政府の間にわだかまりを無くし改革に協力する。
② 不正官吏はその罪状を子細に調査して罰する。
③ 横暴な振る舞いをする富豪は厳罰に処す。
④ 不良行為をする儒学生と両班を懲罰する。
⑤ 奴婢文書を焼却(奴婢を開放)する。
⑥ 賤人の待遇を改善し、白丁(牛馬の屠殺を生業とした賤民)の象徴である平涼笠を廃止する。
⑦ 若くして未亡人となったものの再婚を認める。
⑧ 規定外の雑税を一切廃止する。
⑨ 官吏の採用は門閥を打破して人材本位で登用する。
⑩ 日本人と密通するものは厳罰に処す。
⑪ 公・私債を問わず既存のものは全て免除する。
⑫ 土地を平均に分作する。

革命から戦争に

これより少し前の1894年5月31日、東学軍が簡単に全州を占領してしまうと朝廷では真剣に外国の武力支援を受けるための議論が進められ、清に援兵を要請することを決め2千8百の清軍が忠清道牙山に出動する。すると朝鮮の動向に日頃より目を光らせていた日本では天津条約を根拠に一方的に朝鮮への出兵を決めてしまう。これに対し朝鮮が抗議し撤兵を要求すると、日本は済物浦条約で認められている警備を目的とするものだと主張し抗議を黙殺する。そうした最中に官軍と東学軍の全州和約が成立したことで日本軍が駐屯する必要が無くなる。改めて朝鮮は日本軍の撤兵を要求するが、日本は東学革命が完全に平定されていないと主張して要求を拒否し朝鮮国内で清と日本の軍隊が互いに対峙することとなる。

こうして清軍と日本軍の対峙が始まると朝鮮の状況は急変する。日本軍は軍事力を後ろ盾にして朝鮮の政権運営にまで介入し閔氏を政権から外して大院君を再び擁立して新たな政府の樹立を図った。これに対し東学軍は斥倭洋夷(朝鮮から日本と西洋外国を排除する)の旗を挙げて北進を始める。これまでの抗争は全羅道地域の東学教徒と農民たちによるものであったが、これを機に他の地方の東学教徒たちの中からも共に行動しなければならないとする者が出て来る。当初は蜂起に反対していた教主の崔時亨(チェシヒョング)も状況の変化に全準と力を合わせ武力抗争の敢行を全国の教徒に指示した。崔時亨は安城の鄭璟洙(チョングギョングス)を先鋒長に、李鍾勲(イジョングフン)を左翼、李容九(イヨング)を右翼に付けて孫秉熙(ソンビョングヒ)を中軍統領に任命して総指揮を執らせた。そして1894年、全準が古阜から農民たちと共に蜂起したことで東学軍の勢力は最高潮に達する。士気が天を衝く勢いの東学軍は行く先々で勝利を挙げたが、新式の装備をした日本軍と一緒になった官軍が出て来るとこれを倒すことは出来なかった。次第に東学軍が敗退することが多くなり、東学軍は忠清道公州の牛金峙での日本軍との戦闘に大敗すると全羅南道の南端まで後退を余儀なくされる。これを機に官軍は東学軍に対し大々的な討伐作戦を繰り広げるが、東学軍とは何の関係の無い者までも捕らえ拷問にかけるなどした。全準は逃げながらも再起を夢見ていたが賞金に目の眩んだ仲間の裏切りにより捕まってしまう。東学軍の多くの将校が逮捕され被殺されると東学軍の士気は落ち萎み農民たちも解散を余儀なくされる。こうして1年に渡って続いた東学革命は幕を下ろすこととなった。

全準は5回に渡り尋問を受けた後、1895年3月29日に処刑されるが次の様な詩を残して自身の無念を明かしている。
 時来天地 皆同力   運去英雄 不自謀
 (時を得て天が味方しても 運が去れば英雄も 更なる策がない)
 愛民正義 我無失   愛国丹心 誰有知
 (民を愛し正義の為の 道に迷いはない 愛国一途の心を 誰が知ろうか)

東学革命は結局失敗には終わったが、永い間続いた両班中心の封建体制と外国の資本主義を相手に戦った大規模な農民戦争であると記録されている。しかし東学には農民たちの力を近代的に導く指導者がいなかった。また、東学の教主である崔時亨は全準が蜂起した当初は“蜂起することは国家の逆族、師門の乱族”と言って武装蜂起には反対していた。こうした東学内部の意見の相違は東学軍の士気に影響を与え戦闘力を弱体化させ、また東学軍に加担した一部没落両班層は自身の利益の為に加わったのであって心底から東学を支持していたとは言い難かった。そんな東学革命が成功しなかったのはある意味では当然の結果であったと言える。封建体制と外国勢力を取り除き、暮らし易い国を作ろうとした農民たちの夢は壊れ東学革命は甲午改革と日清戦争の直接的な原因となって行くことになる。だが、その精神は人々の心に深く刻まれこの後の3・1独立運動を始めとする多くの民衆運動の礎となって行くのだった。

44.甲午更張と乙未事変

甲午更張(1894年)

東学革命の鎮圧を口実に朝鮮に武力侵入した日本は朝鮮の政治へ露骨に介入を始め、清を後ろ盾にする閔氏の勢力を除去して再び大院君を擁立した。日本が天津条約を無視して勝手な行動を進めると清は日本に条約の順守を要求し日本と清が共に撤兵することを主張した。しかし日本は清の主張を黙殺し、逆に清に対し日本と清で共に朝鮮の内政改革を断行しようと主張し、清がこれに応じない場合は日本が単独でも断行するとした。日本公使の大鳥圭介は高宗(コジョング)に対し5項目の改革案を提示した。

1.中央と地方制度の改正及び人材登用
2.財政整理と財源開発
3.法律の整頓及び裁判法の改正
4.安寧秩序の保護及び兵備施設の拡充
5.教育制度の確立

日本の強硬な姿勢を目のあたりにした清の袁世凱は情勢の不利を悟ると本国に戻ってしまい、朝鮮の朝廷は日本側の後押しを受けた開化党が担うこととなり日本の影響は更に強まることとなる。この時、日本の目指すところは朝鮮の植民地化であり更なる大陸進出への基盤とすることにあった。

一方、清では朝鮮に駐在していた袁世凱が本国に戻ると朝鮮対策が協議され、朝鮮に対する宗主国としての立場と影響力の維持が改めて確認され、この実行を図る為にその年の7月に改めて朝鮮に軍隊が送られた。こうした対立が日清戦争へと進んでいくこととなる。日本の野望を知らない朝鮮の大臣たちは日本から指示されるままに日本軍の後ろ盾を得て東学軍を討伐した。また、日本軍投入に合わせて設置された軍国機務処では官制の改革、清との条約の廃止、門閥と身分制度の打破、奴婢制度の廃止、早婚の禁止、養子法の改正など23項目の改革案を発表した。これを甲午更張(カボキョングジャング=甲午改革)という。しかし、この改革案は余りにも強制的に行なおうとした為に民衆の理解と支持を得られず実現せずに終わる。

最初の憲法 洪範14条

日本は甲午改革が失敗に終わると今度は大院君に対し清と内通したとの嫌疑を掛け政権から追い出してしまう。その上で甲申政変で日本に亡命していた朴泳孝(パクヨングヒョ)と徐光範(ソグァングボム)を呼び戻させると、内閣は更に親日的色合いを強くすることとなった。そうした中で新しい内閣は次の改革に着手するが、その手始めとして近代における最初の憲法と言われている洪範(ホングボム)14条が発表される。主な内容は次のとおりである。

1. 清国に依存しない自主独立の基盤を確立する。
2. 王室と国政事務の分離
3. 予算編成による財政確立
4. 地方の行政区域を13道に改編
5. 司法権の独立
6. 警察権の一元化
7. 連座制と拷問の禁止
8. 科挙制度の廃止
9. 小学校の設立
10.役所の職務の権限の区分
11.徴兵法の再訂と実施
12.官制改革と公正な人材登用
13.民法と刑法の制定
14.税法による税金徴収

日本がこの時期に洪範14条を発表したことは清と大院君の干渉を牽制する意味があったが、結局これも民衆からの支持を受けることは出来なかった。更に、これを主導した朴泳孝が閔氏の勢力の巻き返しによって政権から追い出されると改革は有耶無耶になってしまう。こうした日本の朝鮮に対する露骨な干渉を嫌った高宗は日本の勢力を排除しようとロシアへ急接近を始める。

乙未事変-王妃暗殺事件(1895年)

日本は朝鮮の民心が排日感情を露骨に現わすだけでなく高宗と閔妃までが日本を遠ざけるかの様に親露派を活発に登用するのを見て、またもや大院君を推戴して閔妃等と親露派を排除する計画を建てる。この計画は日本公使として朝鮮に赴任した三浦悟樓に拠るもので、朝鮮政府に対しロシアへの警戒心を植え付けつつ、親露派を排除するために閔妃の暗殺を画策した乙未事変(ウルミサビョン)へとつながるものである。1895年(高宗32)三浦一党と日本浪人たちは“キツネ狩り”と称して閔妃を殺害する目的で景福宮に侵入する。日本浪人たちの突然の侵入に身の危険を感じた閔妃は宮女と衣服を取り換えて逃れようとしたが、逃げ切れずに浪人によって斬り殺される。その後、閔妃を殺害した浪人たちはその証拠を隠すかのようにその場で直ちに遺体を焼いてしまうのだった。閔妃を殺害しただけで満足しない日本は死後の閔妃を庶民に降格させた上で閔妃の罪を内外に発表した。しかし地方の各地で義兵が立ち上がり国際的世論も日本に批判的であることを知ると、日本は閔妃を復位させ明成皇后(ミョングソングファングフ)と諡号した。日頃から日本を快く思っていなかった高宗は乙未事変の以降は排日感情を一層強くしてロシアの軍隊を自らの親衛隊に任命するなどしたが、完全に日本を朝鮮から排除することは出来なかった。日本を完全に排除するには高宗の力が余りにも弱かった為である。日本は朝鮮を自在に操る為に再び金弘集(キムホングジブ)を総理大臣に任命させ第4次金弘集内閣が設立される。しかし暫らくすると乙未事変での日本の蛮行が列国の非難の的となり、あわてて三浦を日本に召喚して裁判を受けさせた。(結局、裁判では証拠不充分を理由に三浦は釈放される)

日本からの様々な圧迫を受けた朝鮮政府は日本の操り人形と化すが、親日派による“改革”は引き続き断行され、断髪令と陽暦令が施行される。高宗が進んで断髪して模範を示したが朝鮮社会は儒教思想が深く根付いていた為に反発は想像した非常に強かった。父母から授かった身体を自ら切り刻んで傷つけることは不孝だと教えられていた為だった。髪の毛も身体の一部だと考えられて、これを疎かにすることは父母を疎かにすることと考えられた。乙未事変で悪化した朝鮮の庶民感情が断髪令の施行により更に広がり特に儒学者たちの反発は非常に強かった。全国各地で断髪令に対する蜂起が発生すると朝廷は親衛隊を派遣して鎮圧にあたった。しかし朝鮮の庶民感情を無視して日本の主導で実施された断髪令は人々の排日感情を更に強くさせ、金弘集は暗殺され親日内閣は崩壊する。

45.俄館播遷と大韓帝国の宣布

俄館播遷(1896年)

日本の露骨な内政干渉に嫌気を感じた高宗と閔妃が親日派を除外してロシアに近付こうとする気配を感じた日本公使の三浦梧楼は極めて強硬な手段を取る。日本から食い扶持を求めて来ていた浪人たちを引き連れ宮殿に乱入して閔妃を殺害してしまうのだった。僅か一夜にして国母(王妃)を失った朝鮮の人々の落胆は大きく、排日感情は頂点に達し全国各地で日本と戦おうとする義兵が立ち上がった。朝鮮社会に混乱の気配を感じたロシア公使のウェーベルは公使館を保護する目的で百人の水兵を率いてソウルに入ると、高宗はこの機に乗じてロシア軍隊を自身の親衛隊に任命する。高宗がロシアと親密になるとすかさず朝廷では、李完用(イワニョング)・李範晋(イボムジン)などの親露派が台頭を始める。李完用等は高宗を親ロシア派にする絶好の機会を得たと考え、ロシア公使ウェーベルと示し合せて陰謀を企て高宗が寵愛していた厳尚宮(ウムサンググン)に接近していく。高宗の厳尚宮への寵愛は閔妃の生前からであったが閔妃が暗殺された後は殆んど皇后と変わらない様な威勢を放っていた。そこで李範晋は厳尚宮に4万両の金を贈って高宗をロシア公館に迎える手助けを依頼する。

一方の高宗は閔妃の悲惨な最後を目にして不安を感じていた所に、親ロシア派の側近たちから厳尚宮を通してロシア公館入りを進められると、容易にこれを受け容れ皇太子と共にロシア公館に入った。高宗がロシア公館に入ると、ロシア側は高宗と皇太子の二人のみを受け容れ他のものたちは景福宮に送り返し、高宗と皇太子はロシアに監禁された状態となる。誰も高宗に思い通りに会う事が出来ず、高宗に会いたい時はロシア公使の承認が必要となった。唯一、通訳官であった金鴻陸(キムホングユク)だけが自由に面会を許されたのだった。この事態を俄館播遷(アグァンパンチョン)という。この事態により僅か一日で政権は親日派から親露派へと移った。金鴻陸とウェーベルが朝廷を動かし、財政顧問であったアレキセーエフは実質的な朝鮮の財政長官と変わりなかった。この結果、朝廷には親日派がいなくなり親露派が大臣となった。この事態に親日派たちの中では或る者は自身の身を守る為に日本に亡命し、また或る者は郎徒等に襲われ殺されてしまうこととなった。

ロシアは着実に朝鮮に対する内政干渉の準備を進め、その手始めに朝廷内の各部門の顧問にロシア人を任命していく。朝鮮にロシアの銀行とロシア語学校が設立されロシア製の武器が輸入された。するとアレキセーエフは財政顧問の立場を乱用して、朝鮮の様々な利権を各国に紹介料を取って仲介する様になる。例えば、京仁(京城~仁川)鉄道の敷設権はアメリカ人のモアーズに与えられ、京義(京城~義州)線はフランス人のグリルに、咸鏡道の鉱業権はロシア人のニシチェンスキに、鴨緑江流域の伐採権はロシア人のフリーネルに与えられるなどした。しかしこうした彼の振る舞いを朝鮮の人々はただ黙って見過ごす訳ではなかった。

大韓帝国宣布(1897年)

この様な状況の中で甲申政変(カプシンジョングビョン)の主導者の一人であった徐載弼(ソジェピル)がアメリカから12年ぶりに帰国する。徐載弼は12歳で科挙に合格した秀才で、合格後は日本に派遣され東京陸軍幼年学校に留学卒業して調練局師官長となった人材であった。甲申政変が失敗すると日本を経由してアメリカに渡りワシントン大学で医学を学んだ。アメリカで医師をしながらも常に朝鮮に強い関心を持ち続けた徐載弼は、閔妃派の没落とその後の朝鮮の混乱を耳にすると1896年に帰国して“独立新聞”を発刊する。同時に李承晩(イスングマン)・李商在(イサングジェ)・尹致昊(ユンチホ)等と独立協会を結成したが、当初はこれに李完用・安駒寿(アンギョングス)などの当時の政府要人たちも参加していた。しかし、“独立新聞”が民主・民権思想を喚起したことで民衆の政府に対する批判と避難が高まると李完用を始めとする政府の要人たちは脱会して行ったのだった。独立協会は、李商在・李承晩・などの近代思想と主体的改革思想をもった知識人たちが指導部を形成し、列強の侵奪と朝廷の守旧派に不満を持った都市の市民層が主要な構成員となり、学生、労働者、子女に至るまで広範囲な人々の支持を受けた。

独立協会が最初に行った事業としては迎恩門の取り壊しを上げることが出来る。迎恩門とは朝鮮が中国からの使臣を出迎え歓迎する意味で建てられた門であった。朝鮮にとって非常に屈辱的な意味を持つ迎恩門を取り壊して、その跡地に独立門を建てることとし費用は広く国民から資金を募った。また、独立協会はロシア公館で監禁状態となっている高宗と皇太子を宮殿に戻す為に国王還宮要求と利権譲渡反対運動を繰り広げ多くの人々から支持を受ける。独立協会が人々の後押しを受けて還宮運動を続けると、ロシア公使は仕方なく高宗を慶運宮(徳寿宮)に送り高宗は一年ぶりとなる1897年2月20日に還宮を果たした。この年の10月、高宗は独立協会らの進言を受け自主国家を標榜して国号を大韓帝国とし、年号を光武、王を皇帝と称すこととした。これにより大韓帝国は独立国家として進むかに思われたが、やはり外勢はこれをそのまま放っては置かなかった。

毒茶事件

日清戦争が終わると朝鮮から清の勢力は消えることなったが、これと入れ替わる様にロシアの勢力が入り込んで来る。朝鮮は今度は日本とロシアの間での利権争いの草刈り場と化して行く。俄館播遷により朝鮮への影響力が弱まった日本は何としても挽回をしなければならない立場であった。一方、事実上の朝鮮の覇権を確保した判断したロシアはその関心を中国へと向けていくのだった。こうした状況の中で独茶事件が起こるが、この事件を機にロシアは朝鮮での勢力を次第に失うこととなる。
1898年(光武2)8月18日、高宗の誕生日である萬寿節の宴会が慶運宮で開かれる。宴会の席上でコーヒーが出されると高宗はその匂いが常と違う事に気付いて飲まなかったが、気付かずに飲んだ皇太子(後の純宗)は突然倒れ込んでしまう。この原因がコーヒーに含まれたアヘンの毒素に因るものと分かると、この時の料理人たちと宴会を指揮した金鴻陸が逮捕される。その日の内に料理人たちは誰にも知られないまま殺され、金鴻陸は陵遲處斬(大罪人に科した処刑方法で頭、胴体、手足を切断する極刑)となった。しかし事件の真相は明らかにされないまま迷宮入りする。一方、日本は日清戦争後にロシアが主導した三国干渉に不満が募る中で朝鮮でも親露政策が優勢となったことでロシアへの対抗意識を更に強くすることとなる。この後、ロシアと日本は朝鮮に関する妥協を模索しようと1896年に2回、1898年に1回の全3回の協議を行うと両国は朝鮮の内政に直接関与しないこと、ロシアは韓・日両国間の商工業関係の発展を妨害しないことなどで合意する。しかし両国関係は、ロシアの中国への関心が強まることで日露戦争へと進んで行くこととなる。

46.平等な発言権を求めた独立協会

萬民共同会運動(1898年)

1898年10月29日、京城の中心地である鐘路は1万人以上の人々で埋め尽くされた。天幕を引いた檀上が作られ、無学の白丁(朝鮮時代の最下級身分の一つで牛や豚の屠殺を生業とした)から朝鮮政府の官僚まで各界各層からの人々が集まっていた。彼等は大韓帝国が初めて開いた公開討論会に参加する為に集まった人々であった。集会の名称は官民共同会、即ち萬民共同会であり独立協会が主管したものであった。この日の官民共同会は高宗皇帝の命を受けて参席した議政府の参政・朴定陽(パクチョングヤング)の挨拶で始まり、最初に発言権を得たのは白丁出身の朴成春(パクソングチュン)であった。そこで朴成春は

“私はこの大韓で最も身分が低く無知無学の者です。しかし私は忠君愛国の意味は知っています。私たちが利国便民を成し遂げる為には官と民とが共に力を合わせなければならないと考えます。あの天幕を見て下さい。一つの紐では天幕を支えることはできませんが、何本かの紐を使う事で天幕をしっかり支えているではありませんか? これと同じ様に官民が力を合わせて私たちの皇帝の成徳にお答えし、国運が千年萬年続く様にしなければなりません。”これに続いて各界各層の人々が壇上に上がり訴えた。話をする人の顔もそれを聞く人の顔も熱気で紅潮していた。発言権を得た者は身分の如何を問わず自らの意見を明確に披歴し、聞く者も話をする者の身分に関係なく誠実に耳を傾け意見に異論を唱える者は誰もいなかった。

彼等はロシア・日本などの外国の侵略政策を糾弾し6箇条の建議案を高宗皇帝に奉じた。これを献議六組と言う。

1. 外国人(日本・ロシア)に依附しないこと。
2. 外国との利権契約を大臣が単独で行わないこと。
3. 財政を公正に執り行い予算を公表すること。
4. 重大犯人の公判実施と言論・集会の自由を保障すること。
5. 勅任官(大臣の要請で王が任命する官職)の任命に複数の意見を取り入れる。
6. 別項の規則(甲午改革の際に制定された)を実践すること。

献議六組を受けた高宗はその正当性を認めその通り実施することを確約した。数日後、新しい中枢院の選抜方法が発表されたが、新しい中枢院では、半数を政府が国に功労があった者などを推薦により選び、残りの半数は独立協会で政治や法律など学識に通達したものを投票によって選ぶこととされた。この決定に従い独立協会では昼夜の区別なく公正な投票準備に余念がなかった。ところが投票日に決められていた1898年11月5日の夜明け、独立協会が官憲の急襲を受ける。会長である尹致昊(ユンジホ)は逮捕の直前に身を隠したが17人の幹部が逮捕される。更にその直後に高宗は独立協会などの民間団体の解散を命じるが、これらの事は全て皇国協会の策略によって下された決定であった。

独立協会と皇国協会の対立

結成して2年足らずの独立協会が活発な活動を展開して民衆からの支持を得て高宗もその活動に好意を示す様になると、これに不安を感じた政府内の守旧派が主導して行商人などを主要会員とした皇国協会を結成する。その上で独立協会を排除する為に法務協の職にあって皇国協会会長の李基東(イギドング)、賛政の趙秉式(チョビョングシク)等が匿名で公示文を書き光化門と独立門に貼り出すと、これを独立協会が書いたかの様に見せかけた。その上で、高宗には「独立協会が王制を廃して共和政治を実施する目的で民心を扇動しようと貼り出した」と告げたのだった。これを聞いた高宗が独立協会の幹部等を逮捕し民間団体を解散させる指示をしたものだった。この結果、大韓帝国の内閣は守旧派が主導することとなり朴定陽など萬民共同会に参席した大臣たちは全て解任された。ところが高宗の解散命令にも拘らず独立協会の会員たちと学生たちは自発的に警務庁の前に集まり投獄された独立協会幹部たちの釈放を要求して抗議活動を行い、独立新聞、帝国新聞、皇国新聞なども一斉に反発した。これに慌てた政府は逮捕した幹部たちを釈放し独立協会が合法団体であると改めて認めるのだった。

その後、独立協会は再び警務庁の前で萬民共同会を開いて公示文が皇国協会側の謀略であることを認めることと、公示文を作成した李基東と趙秉式の処罰を要求して抗争を続けた。漸くしてこの事実を知ることとなった高宗は李基東・趙秉式の逮捕を命じ、趙秉式は拘禁されたが李基東は逮捕を免れた。逮捕を免れた李基東は京城近郊の果川郡守の吉永洙(キルヨングス)を通して行商人などの人を集め武力で独立協会と争う構えを見せる。行商人たちは吉永洙・洪鍾宇(ホングジョングウ)などの指示を受け独立協会を襲うが、結局は民衆の後押しを得た独立協会に押し戻されて後退する。この日を契機に皇国協会と独立協会は毎日の様に武力衝突を繰り広げることとなる。両者の抗争が長期化の様相を見せると、高宗は独立協会と皇国協会の代表者を呼んで両者の要求を聞き入れることを約束した上で協会の解散を命じた。これにより協会は解散するが、その後も独立協会は萬民共同会の名前で活動を継続する。しかし守旧派は再び謀略を企て、高宗をそそのかして萬民共同会の指導者である崔廷植(チェジョングシク)を逮捕して死刑とし、李承晩を終身刑とした。独立協会に対して政府が強硬姿勢に出て来ると独立協会は1899年その活動を停止する。

独立協会の活動

1896年に作られた独立協会が創られたきっかけは大韓帝国の建国を記念して集まった社交団体であった。討論会・弁論・演説などで民衆啓蒙運動に力を注ぎ、初代の独立協会会長で親日派の安駒寿、親露派でありながら委員長となった李完用など多くの政府要人たちも参加した。しかし、独立協会の性格が次第に政治色を強めて政府に対する批判などもする様になると、2代目の会長となった李完用が政府監察使に任命されて転勤となったことをきっかけに政府要人たちは一斉に脱退してしまい、李商在(イサングジェ)・徐載弼(ソジェピル)・南宮億(ナムグングオク)・李承晩などの若者達だけが残ることとなった。独立協会は萬民共同会という公開討論会を開き身分階級の区別なく全ての者たちに発言権を与えて民主思想と民権思想を人々に知らしめた。その結果、独立協会は多くの民間団体の中でも指導的な立場に立つこととなり、多くの人々、特に若者たちから高い支持を受けた。

独立協会の約3年の活動を要約すると、それは自主国権思想、自由民権思想、自強改革を民衆の心に植え付けることであったと言える。独立協会は他の開化勢力とは違い民衆を開化させた上で開化運動に積極的に参加させた。民衆の支持を背に政府に圧力を加え、列強の内政干渉と利権要求を退け朝鮮にふさわしい自主国権運動を展開し、民衆に対し民権意識を知らしめて自由民権の理念を伝えた。
更に、政治・経済・社会・文化など国政のあらゆる分野に渡って変革を施すことによって国力を培養しようとした。独立協会は結果的に解散したが、後に金九(キムグ)、李東寧(イドングヨング)・李始栄(イシヨング)などによって成される中国上海での大韓民国臨時政府(1919~1945年)樹立の基礎となった。また、独立協会を結成してハングルだけで書かれた独立新聞を発行した徐載弼は守旧派と外国勢力の陰謀で出国を余儀なくされるが、アメリカに渡ると当地で朝鮮の独立運動を繰り広げた。

47.日露戦争から乙巳保護条約まで

日露戦争(1904年)

日清戦争以降、日本が着々と朝鮮での地位を確固たるものとする一方でロシアは清との間に露清秘密条約を締結し満州の利権を掌握した。するとロシアはそれを足場にでもする様に再び朝鮮にも目を向ける様になり日本の大陸進出の脅威となった。これに対し日本はイギリスとアメリカの協力を得てロシアとの間に満州撤兵条約を結ぶが、ロシアはこれをその後も履行しないどころか鴨緑江の下流に極東総督府を設置して極東侵略の意志を明らかにした。1903年、日本はロシアに清における均等な機会を与えることと朝鮮での日本の立場を認めることを要求するが、これもやはり拒絶される。すると日本は1904年2月6日、最後通牒を送り8日には仁川沖に停泊したロシア艦隊を撃侵すると、遼東半島の旅順港を攻撃して日露戦争が勃発する。

日露戦争は既に何年か前から予測されたものだった。日清戦争で勝利した日本は朝鮮から清を追い出し清の領土である遼東半島まで占領した。日本の勢力が急成長することに不安を感じたロシアはフランスとドイツの助けを受け遼東半島を返還させると、遼東半島をロシアの租借地としてしまった。日本と清の争いの間で犠牲となった朝鮮では、日本がロシアの勢いに押されると見るや閔妃を始めとする親露派が台頭し政権を担うこととなる。すると日本は乙未事変を起こして朝鮮での日本の位置を確固たるものとしようとしたが、反対にこれをきっかけに朝鮮の各地で義兵が起こって排日感情が高まり俄館播遷、大韓帝国宣布などにより朝鮮における日本の位置は徐々に不安定化して行く。ロシアの勢力が次第に大きくなるとアメリカやイギリスなどはロシアを牽制する為に日本への後押しを始め、列強の後援を受けた日本はロシアと交渉を重ねる一方で決戦の準備を進めたのだった。

馬脚を現した日本

日本はロシアに対し最後通牒を送ると直ちに仁川沖に停泊中のロシア艦隊を襲って機先を制した。その後2月23日に日本は朝鮮政府を脅して韓日議定書の合意を強要する。この時の大韓帝国の議政(首相)・李根命(イグンミョング)は、朝鮮を植民地にしようとする日本の危険な胸の内を感じ取り調印を免れようとしたが結局は日本の脅迫と圧力に勝てず、大韓帝国側は外部大臣臨時署理陸軍参政・李址鎔(イジヨング)が日本側は特命全権公使・林権助が署名し調印された。この時に決定した内容は大韓帝国に非常に不利な内容が多く、李根命の予見した通り朝鮮を植民地化しようとする第1段階の作戦であったと言える。韓日議定書は全6条からなる条約で内容は“大韓帝国政府は日本政府を固く信用し、施設の改善などに際しては日本の勧告を受け入れ、日本軍に積極的に協力し軍略上必要とするものはいつでも提供する”などが定められた。この議定書によりそれ以前に大韓帝国とロシアの間で結ばれていた条約は全て無効となった。更に日本は同年8月23日には第一韓日協約を結ぶと本格的に大韓帝国への内政干渉を始めることとなる。第一韓日協約により大韓帝国は日本の外務省から打ち出された対韓施政綱領七箇条の受け入れを余儀なくされた。

1. 日本以外の浸透に対する防備の保全
2. 外政監督
3. 財政監督
4. 交通機関の完備
5. 通信機関の統一
6. 拓殖事業の計画
7. 警察権の拡張

一方、この間の日露戦争の戦況は明確にどちら優位であると言い表すことの出来ない小康状態が続いていた。そうした中でロシアでは革命の兆候が見え始め、日本では戦費の調達に頭を痛める様になっていた。そこで日本はアメリカに戦争終結に向けた仲介を要請する。日本に戦費面など様々な協力をして来たアメリカのルーズベルトは先ず日本との間に秘密協約を結ぶが、そこでは大韓帝国は日本が保護することなどが記されていた。その上でアメリカがロシアと日本を仲介してポーツマスにおいて講和会談が持たれた。これまで極東の状況を注視していたイギリスは日本との間に第2次日英同盟を結び、この中で“大韓帝国では様々な特殊利益を日本が持ち、イギリスは日本が利益を増進する為に必要な政策を執ることを認める”とした。しかし、こうした米英の行為は日本を直接的に支持するというよりは、欧州でのロシアの勢力拡大を牽制する意味で敵国となった日本を支持したと言える。支援者であるアメリカの仲介のもとで日本は日露戦争の戦勝国として講和会談に臨み1905年9月5日に15箇条からなるポーツマス条約が締結された。この15箇条の中で大韓帝国の政治・軍事・経済上の特別権利が日本にあると明記され、これにより日本は大韓帝国の保護権に関して国際的に承認を受けたこととなった。

乙巳保護条約(1905年)

ロシア・アメリカ・イギリスなど世界の強国の承認を受けた日本は大韓帝国を事実上の保護国とした。そうした折に大韓帝国には一進会という親日政党が台頭することとなるが、一進会は閔氏政権で迫害を受け10余年間に渡り日本に亡命していた宋秉畯(ソングビョングジュン)が1904年に韓国に帰国して独立協会の残党である尹始炳(ユンシビョング)等と維新会を結成して後に改称したものだった。彼等は日本の支援を受けて積極的に親日活動を行い、特に乙巳保護条約(第2次韓日協約)の必要性を世論形成させることで、日本の韓国侵略の手先となる行動した。
 日本側の代表である伊藤博文は高宗の居る宮殿を軍隊で包囲させた上で、高宗と大臣たちに会って乙巳保護条約の締結を強要した。この時、参政大臣の韓圭(ハンギュソル)・度支(財政)部大臣の閔永綺(ミンヨングギ)などが締結に強く反対したが、内部大臣の李址鎔(イジヨング)・軍部大臣の李根澤(イグンテク)・外部大臣の朴斎純(パクジェスン)・学部大臣の李完用(イワニョング)・農商工大臣の権重顕(クォンジュングヒョン)の5人が賛成して条約が締結されることとなった。1905年(光武9)11月17日のことであり内容は次の通りである。

1. 日本の外相が大韓帝国の外国に対する関係及び事務を統括的に管理指示する。
2. 今後、大韓帝国政府は日本政府を通さなければ、いかなる国際的条約や約束を結ぶことは出来ない。
3. 大韓帝国皇帝のもとに1名の統監を置いて大韓帝国の外交に関する事務を管理する。

この乙巳保護条約により大韓帝国は日本の保護国となり、条約の締結を支持した5人の大臣は後に乙巳五賊と呼ばれ多くの人々の非難の対象となった。この事実が知らされると全国各地から条約の取り消しを求める上訴文が寄せられ、国の将来を憂いた何人かは自決により条約の取り消しを懇請するのだった。

48.国の為に散って行った人々

韓日義兵戦争(1907~1909年)

これまでも朝鮮では戦争が起き、国が危うくなると全国各地から義兵が立ち上がり国を守る為に身を投げ打って戦ったが、大韓帝国の末期も同様であった。この時の義兵運動は3期に分けることが出来るが、その1期目は1895年の乙未事変と短髪令の実施された時だった。義兵の代表的な人物は柳麟錫(ユインソク)・李麟栄(イインヨング)・許(ホウィ)等が上げられる。2期目は乙巳保護条約の締結に反対して立ち上がったもので代表的な人物は崔益鉉(チェイッキョン)・申錫(シントルソク)・閔宗植(ミンジョングシク)等であった。そして3期目が高宗皇帝の譲位と軍隊の解散の時であるが、3度の中では最も組織化され大規模な抗戦となった。

1905年に乙巳保護条約が締結されると皇城新聞の主筆の張志淵(チャングジヨン)は《五件条約締結顛末》と銘打って、条約締結までの状況と結果を詳しく説明し、是日也放聲大哭(今日を迎えたことを嘆かずにはいられない)と社説で訴えると無料で各家庭に配布して世論を喚起した。大韓毎日申報も高宗の親書を掲載して世論を喚起すると全国各地で義兵が立ち上がり条約の不当性を糾弾したのだった。この事が理由で皇城新聞は廃刊とされ、乙巳条約に最後まで反対した閔永煥(ミンヨングファン)は“同胞に別れを告げよう”と遺書を残して自決してしまい、趙秉世(チョビョングセ)・洪萬植(ホングマンシク)等の多くの人々も国を憂いながら自ら命を絶って逝って抗議した。この様な国民たちの抗挙にも拘わらず韓国に駐屯した外国の使臣たちと公使館は、自分には関係の無いことだと次々と本国に戻ってしまい韓国は国際的に完全に孤立してしまう。こうした状況で高宗は側近を通じて韓国駐在の外国の領事以下全ての外国人を仲介者としてその国の有力者と交渉し、最小限の国際関係の維持を図った。

ハーグ密使事件(1907年)

1907年6月、オランダの首都ハーグで第2次万国平和会議が開催されることとなると、高宗は“乙巳保護条約は日本の脅迫によって締結されたもので大韓帝国皇帝の承諾によるものではなく、無効とされなくてはいけない”との趣旨の密命を李儁(イジュン)・李相(イサングソル)・李鍾(イウィジョング)に与えて参席させることにした。李儁は抗日国民運動を繰り広げた中心人物であった。また、李相は乙巳保護条約が締結されると街頭に立って大衆に向けて条約の不当性を説き廻った人であった。李鍾はロシアのペテルスブルグ駐在の韓国公使館の参事官であったが公使館が撤収した後も引き続きロシアに留まっていた。彼等はシベリアを経由してハーグに入り万国平和会議への参席を目指した。彼等は会議の議長に会って高宗の親書と信任上を渡して「乙巳条約は日本の脅迫によって成立したもので無効となるべきものだ」と主張しようとした。
 こうした動きを察知した日本はオランダ政府と平和会議の議長であるベリトフ(ロシア代表)に対して妨害工作を行い李儁・李相・李鍾等は平和会議への参席すら認められなかった。それでも彼等は世界の世論を喚起させる為にイギリス・アメリカ・フランスなどの代表を個別に訪問して訴えると、各新聞は日本の侵略行為を暴露した。その結果、朝鮮は若干の好感と同情を受けたが具体的な成果を上げることは出来なかった。血のにじむ苦労の末にハーグまで赴いたにも拘わらず成果を得られないと、この鬱憤に我慢できない李儁はハーグで憤死してしまう。これらをハーグ密使事件と言う。

最後の皇帝 純宗

一方、ハーグ密使事件の背後には高宗の存在があると考えた日本は伊藤博文を通じて高宗を問責し、皇太子を摂政にして政治を任せる様に圧力を加え始めた。日本の命じることに従順に従う形だけの皇帝である事を要求したものだった。高宗はこの要求を拒否したが伊藤等の日本側は高宗を徳寿宮に監禁して脅迫すると、ついに1907年7月19日、高宗は詔書を下して皇太子に摂政を命じた。ところが日本はこれを譲位と歪曲して発表すると、祝電まで送り付けて摂政を譲位に作り上げてしまった。その結果、これまで日本の勢力を取り払う事に自分なりに努力をして来た高宗であったが、後世の人々からは“無能な王”の烙印を押されることになっていまう。しかし、この原因は高宗一人にあったというよりは永く続いた党争とその後の勢道政治、その後の大院君と閔妃の政争などにも大きな責任があったと言える。即位した当初は高宗の歳が若いとの理由で大院君が摂政となったが、大院君の政治的野心の強さから執られた強硬な政策は高宗の思いをまったく受け入れず、大院君が摂政から離れた後には閔妃がその外戚たちと共に政事にも深く入り込み大院君と対立した為であった。朝鮮侵略を強行する日本が当初は清とその利権を争って日清戦争を、その後は同様にロシアと争う中で日露戦争を起こすと、高宗は日本の要求を拒むことができない立場に追いやられてしまった。
日本によって譲位を余儀なくされた高宗は太皇帝となり、大韓帝国の最後の皇帝である純宗(スンジョング=在位期間1907~1910年)が即位する。日本は純宗の異母弟である英親王・垠(ウン)を皇太子とすると、人質にでもするかのように日本で生活する事を強要するのだった。皇帝だけでなく皇太子までも思い通りに即位させる日本は、韓日新協約を締結して統監部を設置して大韓帝国の軍隊を解散させた。翌年には東洋拓殖会社を設立して司法権までも奪い取り、大韓帝国から軍部と法部(法務省)が無くなることとなった。

国を取り戻せ

1907年、義兵運動が始まるが義兵を率いた人物は李麟栄と許だった。李麟栄は総大将、許は軍師長となり全軍を24陣に組織して1万余の義兵たちを京畿道楊州に集結させソウルに進撃する一方で、国権を回復させる為に国際公法に依拠した交戦団体であることを認めて支援してほしいと各国の領事館に通知した。しかし、義兵たちのソウル進撃は日本軍の武力の前に挫折してしまう。義兵の敗因は彼等の計画が外部に漏れて事前に潜んでいた日本軍に不意打ちを受けたことであり、日本軍との武器の性能の違いにあった。また、総大将の李麟栄の父親がソウル進撃の直前に亡くなり李麟栄が義兵軍からの離脱を余儀なくされたことも敗因となった。ソウル進撃には失敗したものの義兵たちは全国各地にて散発的に抗争を続けた。日本によって解散させられた軍隊が加わると義兵たちはより優れた武器を手にすることとなり1907年から1911年まで抗争を続けた。この時に立ち上がった義兵団体数は約600余りにものぼったが、一団体の兵力は小さいところでは数十人から多いところでは数千人であった。
 国の危機に際して両班と常民の区別なく多くの人々が義兵に参加したが、両班たちの胸の内には根深い儒教思想が占めていた為に内部衝突が無かった訳ではなかった。特に乙未事変と短髪令に実施によって発生した第1期の義兵運動の時にはそうした衝突が目立った。当時、義兵を率いた柳麟錫が平民出身の先鋒長である金百先(キムべックソン)を処刑させると義兵軍の士気は極端に落ちた。金百先は柳麟錫が義兵を立ち上げた時から部下500人を率いて指揮下に入り先鋒長の役割を忠実に努めた人物であった。ところが柳麟錫がソウルに進撃しないことを責めて刀を抜くと、柳麟錫は“両班であり大将である自分に反抗した”との理由で処刑させたのだった。これにより柳麟錫の率いた義兵軍は自滅し解散してしまう。また、両班義兵長たちは重要な局面に接すると戦闘に消極的になって“国王の軍隊に立ち向かうことは出来ない”との理由で戦いを放棄してしまうなど、戦果を上げるどころか義兵軍の士気さえ落としてしまうことが度々起きた。ところが、第3期の義兵運動は平民出身の義兵長たちが大挙して登場し、日本によって解散させられた軍人たちまでが加勢したことで、それまでのどの義兵運動よりも積極的に展開された。義兵に参加できない人の中からは軍使金を供出するなど、多くの人々が自発的に義兵運動に参加した。この時に名を馳せた平民義兵長たちの中で最も有名なのは申錫であった。別名を「太白山の虎」と呼ばれた申錫は江原道で義兵を起すと多くの日本軍を撃退したことで日本軍では彼を捕まえる為に懸賞金まで賭けた程だった。ところが金に目がくらんだ従弟の金子聖(キムジャソング)兄弟が申錫に酒を飲ませた後に斧で切り殺してしまった。

義兵軍たちの反外国勢力と反封建を掲げた抗争の主な攻撃の対象となったのは、日本人の穀物商と彼等の取引相手となる韓国商人、日本人に米を輸出しようとする地主や富農、日本の侵略に密接に関係を持っていた郵便取扱書、金融組合、日本の手先である日進会、憲兵補助院などであった。これ以外にも、田明雲(ジョンミョングウン)と張仁煥(チャングイナン)が大韓帝国の外交顧問を務めながら日本の言いなりとなったスティーブンスを、また安重根(アンジュンググン)が伊藤博文を断罪した。スティーブンスは大韓帝国の外交権が日本に渡るとアメリカに戻ったが、サンフランシスコに到着すると“日本が大韓帝国の政治に干渉した後に大韓帝国の国民の生活は安定して韓国民は日本の保護政策を歓迎した”と日本の植民地化政策を称賛する発言をしていた。これに激憤したアメリカに居住する韓人たちがスティーブンスに抗議すると、1908年3月23日、田明雲はスティーブンスが汽車に乗ろうとする瞬間を狙って射殺しようとしたが失敗してしまう。ところが丁度その同じ場所に居合わせていた張仁煥が放った銃弾が命中し射殺した。こうした義兵たちの活発な活動に驚いた日本は“義兵大討伐作戦”を繰り広げる様になる。義兵の主要活動地域を完全に焦土化させ、義兵でない者までも見境なしに殺害し弾圧した。その4か月間の間に日本軍に殺害された義兵は17,600余人に上り、負傷者は36,000余人を数えた。この結果、大韓帝国の全国土は焼け野原となり特に全羅道では殺人、放火、略奪、暴行により廃墟の様になってしまった。
国が危機に接する度に、国を救おうとの一念から命を奉げた名も無い多くの若者たちの魂と精神は、残された大韓帝国の若者たちにそのまま受け継がれ国内だけでなく満州、沿海州、アメリカなどの各地でも抗日武装闘争と独立運動が展開し、海外では臨時政府が生まれ国を取り戻す為に様々な努力が続けられた。

49.安重根の義挙と大韓帝国の滅亡

安重根の義挙(1909年)

1908年のアメリカで起こったスティーブンス狙撃事件は朝鮮の人々が心の内に常に抱いていた抗日精神を更に鼓舞することとなり、憂国之士がこの後も続々と現れることとなる。乙巳条約を無理やりに締結させ初代統監となった伊藤博文は韓日合邦の基礎を作った後の1909年に日本へ戻っていった。この時期、日本はロシアと満州に鉄道を敷く協議を続けていたが交渉が難航していた。これを打開すべく日本政府は伊藤博文を満州に派遣しロシアの財務大臣であるココプチェフとの交渉することを決める。この情報を聞いた安重根(アンジュンググン)は、現地満州に住んでいた禹徳淳(ウドクスン)・趙道先(チョウドソン)・劉東夏(ユドングハ)と共に伊藤博文を処断しようと準備に入った。まず伊藤殺害の為に六穴砲と呼ばれた最新の六連発の拳銃を入手して伊藤が到着するとされるハルピンに向かうが、身形りを日本人に扮装するなど綿密な計画を立てたのだった。

そしてついに決行の日である1909年10月26日を迎えることとなる。安重根は計画通りハルピン駅に向かい、禹徳淳等は万一にも伊藤が他の駅に降りる場合に備えて隣り駅に向かった。早朝、安重根が向かったハルピン駅には既に大勢の人々が集まり黒山の人だかりとなっていた。集まった人々の大部分はロシア人と日本人で伊藤の来訪を歓迎する為の人々であり、伊藤を査閲するロシア軍と日本の憲兵達であった。しかし、安重根は日本人を装ったことで特に疑われることも無くハルピン駅舎内に入ることに成功する。いよいよ伊藤を乗せた汽車が到着する時間が近付くと安重根の胸は熱い血で湧きあがっていた。そして午前9時30分、伊藤を乗せた汽車が警笛を鳴らしながら駅構内に入って来た。汽車がハルピン駅に到着して暫らくすると山高帽に洋服姿の伊藤が降りて来る。伊藤はプラットホーム上でロシアの高官たちとロシア軍の出迎えを受け挨拶を交わし始めるが、やがて伊藤は安重根のいる方向に向かって歩いて来ていた。安重根の鋭い目は獲物を狙って逃すまいとする鷹の目の様であり、伊藤の動きを追いかけ拳銃の引き金を引く機会を待っていた。そして伊藤がプラットホームから駅舎へと歩みを進めると、安重根は用意した六穴銃の引き金を続けざまに引いた。“バン!バン!バーン!”何発かの銃声が轟いた次の瞬間に伊藤は血を流しながら胸を押さえて倒れ、後に続いていた秘書官と領事、満州鉄道の総裁が続いて倒れた。ハルピン駅は瞬く間に阿修羅場と化して人々は難を逃れようと逃げ廻った。その中でただ一人、毅然とした姿勢で真直ぐに立ち、はっきりとして口調で声高に叫んだ。“私は朝鮮人だ。我が民族の仇である伊藤博文を私が殺した。私を逮捕しろ!”そして、胸元から太極旗を取り出すと“大韓独立萬歳!”と続けた。それを待っていたかの様にロシア軍隊と憲兵達が駆け寄って来て安重根を逮捕した。裁判で安重根は、自らを大韓義兵軍の中将であると名乗り、伊藤への襲撃は軍人として行動であったと主張したが、既に死を覚悟していたその態度は終始泰然としていた。死刑宣告を受け投獄されると、安重根の人となりを知った看守はもとより刑務所の日本人関係者たちは安重根の書をこぞって求め安重根もこれに快く応じた。1910年3月26日、安重根が伊藤博文を狙撃して5ヶ月目となる日が死刑執行の日となった。獄中で執筆していた《東洋平和論》を完成することが出来なかったことだけが安重根の心残りであった。逮捕当初より変らない安重根の毅然とした態度に、執行を見守る日本人たちのがむしろ戸惑う程であった。

この後も憂国之士たちの義挙は引き続いて起きたが、日本に国を売った乙巳5賊(李完用・李址鎔・李根澤・朴斎純・権重顕)を始めとする売国奴たちも憤怒の標的となった。李址鎔の家は放火され、李完用は1909年12月22日、李在明(イジェミョング)の襲撃を受け重傷を負った。ロシアのウラジオストクで独立運動をしていた李在明は明洞天主教会で行われるベルギー皇帝・レオポルト2世の追悼式に李完用が参席するとの話を聞いて、焼き栗売りに偽装して待ち構えると李完用の背中を刺して逮捕され死刑となった。一方の李完用はこの時に一命は取り留めたものの1926年にこの世を去るまで絶えず襲撃の恐怖と共に過ごす事となった。

韓国併合(1910年)

1909年の安重根の伊藤博文暗殺の義挙においても、李在明による売国奴・李完用の襲撃の際も実際にはまだ大韓帝国は存在していた。しかし、その実態は日本により軍隊と外交権を奪われ、皇帝や皇太子の地位さえもが日本の意のままとされ、もはやこの時点で既に大韓帝国の主権は実質的に日本に奪われていたといっても過言でなかった。その点においては、安重根や李在明の行動は間違いなく独立運動であったと言える。1910年5月、3代目の統監として就任した寺内正毅は李完用と同年7月23日に韓国併合に関する協議を始め8月16日に併合条約案を提示した。既に完全に日本政府の手の内に落ちていた李完用は、併合条約案を純宗に見せ受諾を強要した。純宗は何の力も無い皇帝ではあったが、併合が日本に国を奪われることであることは明らかで容易に受け入れる事ではなかった。しかし、宮殿を取り巻く様に陣を張った日本の軍隊は純宗にとって無言の脅威となっていたことは間違いなかった。そして8月22日、ついに純宗は総理大臣である李完用に韓日合邦に署名することを命じた。日本はこの事実を全国に知らせれば暴動が起こると予想して朝鮮国内向けの発表は延期したが、外国には大韓帝国が日本に併合されたことを知らせた。そして一週間後の8月29日、日本は軍隊を要所という要所に配置した後に韓国併合を全国に知らせるのだった。

自決でも果たせない国を失った鬱憤

次の文は韓日合邦調印書である。
日本国皇帝陛下と韓国皇帝陛下は両国間の特殊で緊密な関係を考慮して相互幸福を増進させ東洋平和を永久に確保しようとする目的を達成する為に韓国を日本帝国に併合することが最善策であると確信する。ここに両国は併合条約を締結することを決め、日本国皇帝陛下は統監であり子爵・寺内正毅を、韓国皇帝陛下は内閣総理大臣・李完用を各々全権委員と任命し、全権委員は合同協議をして次の通り条約に合意する。
第1条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関わる一切の統治権を完全永久に日本国皇帝へ譲与する。
第2条 日本国皇帝陛下は1条に記載された譲与を受諾し、完全に韓国を日本帝国に併合することを承諾する。
第3条 日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下、太皇帝陛下、皇太子殿下及びその后妃とその後裔家の各々の地位に相当する尊称、威厳及び名誉を享有することとし、これを維持するのに充分な歳費を供給することを約束する。
第4条 日本国皇帝陛下は3条以外の韓国皇族及びその後裔についても各々が使用する名誉及び待遇を享有することとし、またこれを維持するのに必要な資金の供給を約束する。
第5条 日本国皇帝陛下は勲功のある韓国人として特に表彰するに適当だと認められた者に対して栄光ある爵位を授与し恩賞金を支給することとする。
第6条 日本国政府は併合の結果として全般的に韓国の施政を担当し、韓国で施行する法規を遵守する韓人の身体及び財産について充分な保護を与え、またこれら福利全体の増進を図ることとする。
第7条 日本国政府は誠意を持って忠実に新制度を尊重し韓国人として相当な資格を持った者を事情が許す限り韓国で日本帝国の官吏に登用する。
第8条 本条約は日本国皇帝陛下と韓国皇帝陛下の裁可を経て公布日から施行する。
上記の証拠として両国全権委員は本条に記名調印する。
明治43年8月22日、統監・子爵 寺内正毅
隆熙 4年8月22日、内閣総理大臣 李完用

これにより大韓帝国は幕を下ろし日本の植民地となった。1392年に太祖・李成桂(イソングゲ)が朝鮮を興して519年目の年であった。全国各地ではこの事実を知って殉国するものが相次ぎ、併合を聞いた錦山郡守の洪範植(ホングボムシク)は首を吊って自決し、前ロシア公使の李範晋(イボムジン)も純宗皇帝宛の書信と2千5百ルーブルを残してやはり自決する。朝鮮の最後の学識顧問であった(ファングヒョン)は服毒自殺し、乙未事変と短髪令に反対して義兵を起こした李根周(イグンジュ)、安東の柳道発(ユドバル)などが断食や服毒などにより自決した。

50.こうして土地は奪われた

武力を盾に土地を奪う(1910~1918年)

韓日合邦条約の成立で大韓帝国が日本の植民地となると、日本は大韓帝国を朝鮮と純宗(スンジョング)皇帝を李王と呼ばせると、朝鮮総督府を設置し初代総督には寺内正毅を任命した。寺内は総督に就任すると直ちに土地調査に着手する。乙巳条約締結の頃から朝鮮の土地略奪に高い関心を示していた日本は、1908年には東洋拓殖株式会社を創設すると現物出資の名目のもと1万1千町歩(1町歩は3千坪)の朝鮮政府の土地を略奪した。時間の経過と共に日本人が朝鮮に所有する土地は急激に増加した。日本は韓日合邦が締結するとその年の内に土地調査局を設置し、1912年には土地調査例を下して本格的な土地調査を始めるが、その当時の朝鮮の大半の人々は土地調査の本質的な意味合いをこの時には全く理解していなかった。日本はこうした点も利用して多くの土地を奪ったのだった。日本は表面的な土地調査の実施に際して調査の目的を、「①地税の負担を公平にする、②所有権を保護して売買と譲渡を円滑にする、③土地の改良と利用を自由に行い、生産力を上げる」とした。

土地調査実施

日本の行った土地の調査方法は土地調査例の第4条に依拠したものだが、土地所有者が住所・姓名または名称・所有地・地目・字番号・等級・地積などを申告すると地券を発行するというものだった。
民有地は所有者が、国有地は官庁が申告することとされたが誰にでも適応された者ではなかった。土地申告制は多くの土地を所有していた両班たちには有利に働いたが、実際に耕作をしていた農民にとっては不利なものでしかなかった。代々守って来た筈の土地を国有地だと言われて奪い取られたり、一族や村の共有の土地を有力者が自身の土地だと申告したり、申告はしたものの手続きと様式が厄介で“証拠不明”や“手続未備”で土地の所有権を失う場合など多く見られた。その結果、朝鮮総督府は約90万町歩の土地を所有することとなった。総督府がこの様に多くの土地を奪うことが出来たのは、申告をしなかった民有地・駅屯田・宮院田・牧場田・門中田・宗中山林などの全てを国有地として処理した為だった。

総督府はこうして得たすべての土地を東洋拓殖株式会社や日本人が経営する不二興業などに廉価で払い下げた。この結果、東洋拓殖株式会社は1920年に約10万町歩の所有することとなり、他の日本人の土地所有会社は合せて約20万町歩の土地を所有した。それだけでなく、個人的に土地を所有した日本人も多く約7千人が土地を所有してその面積は17万町歩余りにのぼった。もともと耕作権だけを持っていた農民たちは、その耕作権さえも奪われて新しい契約のもとで小作人に転落し、地主となった者が際限のない多くの小作料を要求した土地では小作農民たちの生活は更に苦しいものとなった。その結果、多くの人々が開拓田を求めて山に入ったり、都市の日雇いに出たりした。また更に多くの人々が故郷と家族から離れて、満州・シベリア・沿海州・中国・日本・アメリカなどの遠く離れた地へと旅立っていった。この当時、人々が最も手易く行けた所は満州を始めとする中国であったが、その最大の理由は歩いても行けることであった。

山までも奪う

1918年土地調査を終えた日本は次に目を山に向け林野調査令を下す。当時の山は人の生活に無くてはならない重要な存在であり、木材としては勿論のこと、燃料や肥料として、更には様々な食料を山から採取していた。ところが、山の大部分は村の共同所有地などであった為に土地調査の際と同様で、林野調査を終えた時には全国で全1万6千余町歩の林野の1万3千余町歩が国有林とされ総督府の掌中へと移った。こうして日本が野や山を思い通りに出来たのは日本の行政力と警察力によるものだったと言えた。武装した憲兵達に警察の任務までを付与して朝鮮各地に送り日常生活を監視させた。更に監視だけでなく統制も憚らず、絶望した多くの者たちが国外へ夜逃げ同然で移って行った。この後、1945年に解放されるまでの36年間、こうして土地の凌辱も続けられるのだった。朝鮮総督府は全国各地に憲兵を配置して政治結社や集会を厳しく取り締まり、大韓毎日新報などの言論機関も閉鎖して京城日報に統合させるなど統制も強化した。また、憲兵は義兵たちを“不逞の徒”、独立運動家たちを“頑迷之徒”と呼んで裁判を経ることなく投獄・鞭打ち刑・科料など勝手に処分したりした。また、学校では日本人教員たちにも制服を着せ、刀を持たせ軍隊的威圧を加えて民衆を抑圧するなど思いのままを尽くした。

51.大韓独立萬歳!三一独立運動

湧き上がる独立運動

韓日併合が発表されて間もなくすると事の真相が明らかになり、全国各地で義兵や列士が立ち上がり独立運動を繰り広げるようになるが、日本はこれを武力により厳しく弾圧した。この弾圧は非常に厳しく、独立運動を志す人々はやむなく地下に潜んだり外国での活動に活路を求めたりする様にもなった。一方でこの時期の世界情勢はと言えば、1914年に起こった第一次世界大戦が1917年に終わり、アメリカのウィルソン大統領は1918年1月に14箇条から成る平和原則を発表して世界に民族自決の権利を主張した時期であった。また、他方では1917年にロシアで世界最初の社会主義革命が起こりソ連が誕生した。革命の指導者であったレーニンはロシア内の100余に上る少数民族に対し民族自決を宣言し世界の弱小民族の解放運動を支援すると述べた。こうした世界の情勢に勇気づけられるかの様に、朝鮮でも組織的な独立運動が始まり外国に出ていた同胞たちも加わり独立運動に拍車がかかって行く。

安昌浩(アンチャングホ)・李承晩(イスングマン)・閔鎬(ミンチャンホ)・鄭翰景(チョングハンギョング)・などはアメリカで、金奎植(キムギュシク)・金澈(キムチョル)・呂運亨(ヨウニョング)・張徳秀(チャングドクス)等は上海で、李東輝(イドングヒ)等は沿海州で活動していた。加えて日本に留学していた学生たちの間でも政治団体が誕生していた。上海の独立運動家たちは新韓青年党を組織して1919年1月に開かれたパリ講和会議に金奎植を送り朝鮮の独立を訴えた。また、アメリカで活動していた大韓民国会ではパリ講和会議への代表団の参加を計画するのだが、これにアメリカ政府が大韓民国会の出国を認めず会議参加の思いは果たされなかった。結局はウィルソンの説いた民族自決主義の原則は第一次大戦の敗戦国にのみ適用されるもので、日本の植民地となった朝鮮にまでは及ぶものではなかった。こうした状況下で、朝鮮では太皇帝となっていた高宗が不信の死を遂げる。晩年を徳寿宮で過ごしていた高宗の死因については様々な噂が広がったが最も有力と思われたのが日本によって毒殺されたというものだった。こうした噂が広がると民衆はもとより多くの宗教人や知識人までが怒りを露わにし、この事がその後の独立運動をより具体的、計画的に、且つ全国民的に展開させる契機となる。日本へ渡っていた留学生たちは朝鮮青年独立団という団体を作り崔八鏞(チェパルリョング)・金度演(キムドヨン)・徐椿(ソチュン)・李琮根(イジョンググン)・朴寛洙(パククァンス)・尹昌錫(ユンチャングソク)・金尚徳(キムサングドク)・崔謹愚(チェグヌ)・金寿喆(キムスチョル)を委員に選出して活動を始めていた。そして1919年2月8日、李光洙(イグァングス)が書いた独立宣言書を崔元淳(チェウォンスン)・鄭光好(チョンググァングホ)等がこれを印刷して東京の朝鮮YMCAで朗読し「独立宣言」を行った。

これに因り彼等は日本警察に逮捕されるのだが、この「独立宣言」は朝鮮の活動家たちに大きな衝撃を与えることとなる。先ず天道教が動き始めた。呉世昌(オセチャング)・崔麟(チェリン)・権東鎮(クォンドングジン)等の天道教人たちは天道教の第3代教主である孫秉熙(ソンビョングヒ)に日本での出来事を報告すると、崔麟は崔南善(チェナムソン)・玄相允(ヒョンサングイン)・宋鎮禹(ソングジヌ)等と朝鮮での独立宣言の実行方法などの協議が始めた。天道教とキリスト教人たちに韓龍雲(ハンヨングウン)・白龍城(ペクヨングソング)等の仏教人も加わり、天道教人15人、キリスト教人16人、仏教人2人の33人が「独立宣言書」に署名することとなった。この「独立宣言文」は崔南善によって作成され、総代表は天主教教主の孫秉熙が担った。折しも高宗の葬式が3月3日と決まったことを知り、彼等はそれより前の3月1日にパゴダ公園で「独立宣言文」を朗読することを決めると全国各地の同志にこれを通知した。独立宣言書と太極旗を印刷して全国に配布されたが、これらは学生たちによって準備され、一部の学生は故郷に戻ってその後の独立運動の繰り備えようとする者もいた。こうして「独立宣言」の準備が極秘裏に着々と進められる中で33人の民族代表は2月28日に最後の集会を持ったが、其処で当日のパゴダ公園の混乱と、その後に予想される日本の弾圧を考慮して「独立宣言」を行なう場所をパゴダ公園近くの泰和館に変更することを決める。

3・1独立運動

1919年3月1日。いよいよ待望の日がやって来た。人々はパゴダ公園のあるソウルの鐘路十字路へと集まり、正午前には足の踏みいれる場所が無い程に人で溢れた。ところが民族代表が場所を変更したことを知らない学生たちは民族代表が現れないのを見て焦燥感に駆られ、集まった学生の一人の鄭在鎔(チョングジェヨング)が壇上に上がり正午を知らせる午砲の音が鳴ると同時に「独立宣言文」を朗読するのだった。
“我等は此処に我が朝鮮が独立国であることと、朝鮮人が自由民であることを宣言する。此れを持って世界萬邦に告げ、人類平等の大義を克明にし、此れを持って子孫萬代に告げて民族自在の政権を領有するものとし・・・・”
鄭在鎔が独立宣言書の朗読を終えるとあちこちから萬歳の声が聞こえて来た。“大韓独立萬歳!大韓独立萬歳!”人々の歓声は天を突き、人々の振る太極旗は周辺をうめ尽くした。学生たちが隊列の前に立って光復歌を歌って行進が始まり、集まった人垣が彼等の後を追って萬歳を叫びながら行進に続いた。彼等は先ず高宗が安置されている徳寿宮に向かい門前で三礼を行うと、隊列は二つに分かれて一隊はアメリカ領事館に、もう一つは朝鮮総督府に向かった。 一方、民族代表の33人は泰和館に集まり韓龍雲が朗読して萬歳を唱えた後に自ら警察に電話して逮捕される。

この“大韓独立萬歳”を唱える人波はソウルだけに留まらず、開城・平壌・鎮南浦・宣川・安州・義州・元山・咸鏡・大邱・黄州・遂安・谷山などの各地で萬歳運動が広がって行く。こうした人々の波は更に翌日には全国的に広がり、萬歳運動には学生や知識人だけに留まらず農民、労働者、商人、主婦にまで及び老若男女を問わず加わる様になった。学生たちは登校せず農民たちは鋤鍬を手にせず、商売人たちは店を開かなかった。萬歳運動に参加した人々の大部分は武装することも暴力に訴えることも無く、ひたすらに“大韓独立万歳”だけを叫び続けた。この後、3月から5月までの間に繰り広げられた萬歳運動の集会回数は1500回、参加者は200万人を越えて全国218郡の内の211郡で集会が持たれた。こうした広がりに対して日本は武力をもって強力に弾圧を行った。主導者を逮捕し参加者たちには無差別に銃撃を加え殺戮を繰り返した。この時の日本の記録によれば、3月と4月の2か月間で死亡者7500人、負傷者は15,961人に達し、逮捕者は46,948人であるとされている。また、47の教会と2つの学校、715戸の民家が消失したという。しかし、実際の各々の数はこの意図的に縮小された日本の発表を遥かに越えたものだったと理解されている。

堤岩里虐殺事件

萬歳運動を何としても鎮圧したい日本軍は老若男女を問わない無差別な弾圧をくりかえし、全国で数多くの人々が無慈悲に虐殺された。その内の最も悲惨な弾圧が“堤岩里の虐殺“であった。日本軍は京畿道水原郡の堤岩里に住む村人たち1000人余りを、銃撃を持って教会に押しこめると火を放って虐殺してしまう。この虐殺劇によりこの日たまたま村を離れていた人を除いた村の全ての人が殺されてしまった。これ以外にも、花樹里・全州・江西・孟山・大邱・密陽などでも同様の集団虐殺が行われた。日本の過酷な弾圧により3・1運動はこの時に本来の目的を果たすことは出来なかったが、独立への民族の思いをその後の様々な独立闘争へと結びつけ一層高めて行く大きな契機となった。

52.三一運動から-柳寛順そして大韓臨時政府

一緒に独立萬歳を叫びましょう!

1919年陰暦3月1日、忠清道天安のアオネ市場は普段の市の日よりも多くに人々が集まって来ていた。市場が人で埋め尽くされると、一人の少女が人々の間を行き交いつつ太極旗を手渡し始めた。しばらくして正午を知らせるサイレンを合図にその少女は事前に用意された壇上に登り訴え始めた。
“皆さん!私たちは5千年の歴史を持つ独立国民でした。ところが日本人たちに強制的に国を奪われ従属を余儀なくされています。この事がどれだけ口惜しく恨めしい事でしょうか?”

少女の言葉を聞いた観衆たちの間では“そうだ!その通り!”などとの掛け声と共に拍手が鳴り響いた。少女の話は更に続けた。
“今世界ではアメリカの大統領が唱えた「全ての民族は自らが自らのことを決める」とする「民族自決主義」の原則に従って多くの弱小国が先を争う様に独立を求めて叫んでいます。そして、私たちも私たちの願いが何であるかを世界萬邦に知らせる為に、去る陽暦3月1日に独立宣言書を朗読して萬歳運動を行いました。皆さん!私たちはこのまま知らん振りしていて良いのでしょうか?皆で一緒に萬歳を叫びましょう!”と続けた。

少女が太極旗を高々に掲げ“大韓独立萬歳!”を唱えると集まった人々も一斉に太極旗を掲げて萬歳を叫んだ。この少女の名前は柳寛順(ユグァンスン)といい、この年ようやく15歳であった。柳寛順は独立志士である柳重権(ユジュンググォン)の娘で梨花学堂の学生であり、ソウルで3・1運動が起こってソウルの全ての学校に休校令が出されたことで故郷に戻っていた。ところが故郷では萬歳運動が行われていないことを知ると、父や兄等と共に天安の全ての村々の礼拝堂などを廻ってソウルの萬歳運動について詳しく説明し萬歳運動を起こす準備を始めたのだった。昼は人々に萬歳運動への参加を呼び掛け、夜は人々に配る為の太極旗作りに励んだ。そして決行日をソウルでの萬歳運動に同調するかの様に同年の陰暦3月1日としたのだった。2月28日、いよいよ決起の日を明日に控え柳寛順は全ての準備が終わったことを知らせる為に狼煙(のろし)を上げた。また、これに答える様に天安の村々では同様に狼煙が上げられた。

アオネ市場に集まった多くの人々は柳寛順の演説が終わると揃って萬歳を叫びながら街中を練り歩き始めた。瞬く間に街は太極旗を振りながら萬歳を叫ぶ人々でいっぱいになった。これを見た日本の憲兵は人々の隊列に先廻りをして潜んでいると、隊列が近付いて来るといきなり銃を放った。これに柳寛順は“ここは日本人たちの銃を避けて解散して、次の機会にまた集まりましょう”と人々を説得し解散することとなったが、憲兵たちの放った銃によって参加者の一人が倒れた。血を見た人々の本能は火山の様に張り裂け、人々はひと固まりとなって憲兵たちへと向かった。これに驚いた憲兵たちは隊へ逃げ戻ろうとしたが群衆に取り押さえられてしまう。だがその瞬間、何処からともなく銃を放たれた。騒ぎを聞きつけて憲兵の応援部隊が駆け付けたのだった。彼等は何の武器も持たない人々に向かって銃を打ち放ち、柳寛順の両親もこの時に打たれてこの世を去る。柳寛順の父・柳重権は早くから国の将来を憂いて家財を投げ出し、1911年天安に興湖学校を建てて人材の養成に努め、教会を建てて周辺の人々の啓蒙に努めた独立志士であった。こうした父母のもとで育った柳寛順兄妹の愛国心は際立っていた。

この日、日本憲兵によって死んだ人は30人を超え負傷した者は数えきれなかった。それだけでなく村に戻った男は無条件で逮捕し、婦女子までも捕らえてあらゆる悪刑を加えた。柳寛順も例外に漏れず捕らえられ厳しい拷問まで受けた。その為、柳寛順の服はボロボロに破れ、唇は裂け、全身は傷と痣でいっぱいとなった。憲兵は柳寛順に脅迫と懐柔を繰り返して主導者を探し出そうとした。しかし柳寛順はこれに屈することなく、その都度に主導者は自分であると答えた。一方、柳寛順の兄は公州で同志を集めて同じ陰暦3月1日に萬歳を叫んで逮捕されたが、彼もまた自身が主導者であると最後まで主張しあらゆる拷問に耐えるのだった。天安の実家に残された幼い弟たち二人は一度に父母を失い、兄と姉までも監獄に押し込まれ孤児の様な境遇となってしまったのだが日本の憲兵は家に火を掛け二人は家までも失うこととなった。人々は憲兵の目を恐れて二人を助けることが出来ず、中には村が焼け野原になったのは全て柳寛順一家せいであると思い違いをする者もいた。幼い二人は岩かげや軒下で雨露をしのぎ、食べ物を求めて他家の扉を叩かなければならなかった。

大韓のジャンヌダルク

柳寛順はその後、天安警察署から公州刑務所に移送され裁判を受けたが、裁判を受ける時には光州市内を通らなければならなかった。柳寛順が裁判を受けることを知った多くの人々は彼女をひと目見ようと、通りの至る所で待ち構えていた。人々が集まっているのを見た柳寛順は“皆さーん!一緒に萬歳を叫びましょう!大韓独立萬歳!”と萬歳をしながら声高く訴えるのだった。すると人々はこれに答える様に一斉に萬歳を唱え始めた。柳寛順を連行する日本軍将校は急な成り行きに驚き刀を抜いて柳寛順に向かって振り降ろした。しかし、幸いにも刀は柳寛順の肩をかすめただけで大怪我には至らなかった。これを見た他の人々は大いに驚いたが柳寛順は一つも怯むことなく泰然としていた。

その後、公州裁判所で3年刑の宣告を受けた柳寛順はソウル覆審法院に上告してソウルに移送された。ソウルに行く途中も多くの人々が集まっている所を通り過ぎる時には必ず萬歳を唱えるのだった。いよいよソウルで裁判が始まると検事も判事も全て日本人であった。これに柳寛順は“私が私の国を愛して独立萬歳を叫んだことが何の罪で、私がどうして仇である者たちから裁判を受けなければならないのか?”とし日本人官吏の裁判を受けないと堂々とした態度で伝えるのだった。これに日本人判事は怒り心頭で立ち上がると“この小娘が!天皇陛下の御意を受けた法を収める法官の前で何たる態度か?”と机を叩いて怒鳴った。これにより柳寛順への判決は3年刑に法廷侮辱罪が加わり7年刑が下された。柳寛順は西大門刑務所に送られると一日も欠かすことなく萬歳を叫ぶと、その都度鞭打たれるという日々を送った。しかしこうした事が原因となったのかある日、柳寛順は獄中で倒れてしまう。日頃から大韓のジャンヌダルクになると言っていた柳寛順はジャンヌダルクと同い年の16歳でこの世を去ってしまう。1920年10月のことであった。日本は柳寛順の死を公表しないまま処理しようとしたが、死の翌日には母校の梨花学堂の知るところとなりフライ校長などの努力により遺骸は母校の梨花学堂に移された。母校に戻った柳寛順の遺骸は体中が傷だらけで見る者の目を熱くさせたが、柳寛順の顔は微かに笑っているように見えたという。

上海臨時政府(1919~1945年)出帆

アメリカのウィルソン大統領が提唱した民族自決主義に力を得た独立運動家たちは1919年3月1日、独立宣言をして萬歳運動を繰り広げた。すべての国民が一つになって独立を叫んだが日本の銃剣の前に大きな弾圧を受けることとなった。これをきっかけに愛国志士たちの中には、上海、アメリカ、日本、ロシアなどに活動を移すものが多く現れた。3・1運動以降、ソウルと上海、ウラジオストクでは臨時政府樹立運動が展開される様になった。その中で最も早く臨時政府運動が始められたのはウラジオストクであった。ウラジオストクで活動した愛国志士たちは3・1運動が始まると、3月17日には独立宣言を行い21日には孫秉熙(ソンビョングヒ)を大統領、李承晩(イスングマン)を国務総理とする政府組織を発表した。

これに続いて4月11日、上海で1千余の志士たちが参席して臨時議政院を構成し臨時憲章10箇条を頒布して臨時政府を宣布した。更に4月23日にはソウルで13道の代表による国民大会が開かれ臨時政府が樹立したが李承晩を執政官に、李東輝(イドングフィ)を国務総理とすることを発表した。3か所の臨時政府はどれも共和制を選択していたので協議の後に同じ年の9月11日、上海臨時政府は臨時憲法を前文と8章・56条を公布して内閣を発表した。大統領・李承晩、国務総理・李東輝、内務総長・李東寧、財務総長・李始栄(イシヨング)、軍務総長・蘆伯麟(ノベクニン)、法務総長・申奎植(シンギュシク)、学務総長・金奎植(キムギュシク)、外務総長・朴容萬(パクヨングマン)、交通総長・文昌範(ムンチャングボム)、参謀総長・柳東(ユドングヨル)、労働局総辨・安昌浩(アンチャングホ)、秘書長・金立(キムリプ)等が任命され正式名称を大韓民国臨時政府とした。

また、ロシア革命の直後であり各国に社会主義の風が吹き荒れている時期でもあった。その結果、各国で共産党が結成され朝鮮でも日本でも同様に結成される。臨時政府の国務総理となっていた李東輝が主宰する団体の韓人社会党もそうした社会主義団体の一つであった。臨時政府は民主主義と社会主義を主張する者に分けられ彼等の理念の対立は新たな問題を引き起こし、臨時政府に代わる新しい組織を作ろうとする創造派と臨時政府の問題点を補完して行こうとする改造派が登場する。

臨時政府は何をしたのか?

臨時政府は内部の葛藤で揺れながらも1919年から解放を勝ち取った1945年まで続いた。その間に臨時政府が行った主な活動には次の様なものが上げられる。
-交通路:内外の全ての同胞を管轄する為に全国に交通局と交通所を置き上海臨時政府と国内を結ぶ機構を作った。
-連通制:全国に地方組織を形成した。
-財政:財政を整備する為に救急義捐金・人頭税・国内公債・国外公債を採用したが、収入の大部分は在米同胞からの献金によるものだった。安昌浩が提案した公債の発行はアイルランドで発行された500万ドルのみが成功したと言えた。
-軍使:1920年、陸軍武官学校を設置したが大きな成果を上げることはなく中国の各軍官学校に派遣して養成し満州の独立軍の支援にあたった。
-史料編纂部設置:外国に派遣された特使たちに韓国独立の理論的根拠と韓国の歴史の優秀性を説明して日本の侵略の事実を知らせる為に設置され1921年に全4巻が完成した。

-言論機関:独立新聞、新大韓報、新韓青年報を刊行した。
-外交活動:1919年4月に金奎植を全権大使に任命してパリ講和会議へ派遣、7月には趙素昴(チョソアング)をスイスで開かれた万国社会党大会に派遣、1920年に中国で孫文が建てた護法政府に申奎植を派遣、駐米外交委員長の徐載弼(ソジェピル)はアメリカ議会に対して4度に渡って韓国独立案を上程し、1921年には直接アメリカ大統領にあって独立を訴えた。
-対日独宣戦布告:1941年臨時政府は日本とドイツに宣戦を布告し、ビルマ・サイパン・フィリピンなどで勇名を轟かせた。
-施政方針:当初は、臨時政府は国務院領によって施政方法を決定し活動したが、1926年以降は大統領制を廃止して国務領制を選択し金九を国務委員会の主席に、金奎植を副主席に任命した。

53.抗日戦闘の英雄・洪範図と金佐鎮

北路軍政署の発足

3・1独立宣言の以後、独立の為に立ち上がった多くの若者たちの中にはその活路を求めて朝鮮を離れて独立運動を繰り広げる者も出たが、特に満州地方(現在の中国東北部)を中心に活動する者が多かった。そうした経緯から1920年代の満州では多くの愛国団体が作られ、彼等の旺盛な活動に日本も常に監視の目を光らせていた。1911年、徐一(ソイル)は満州に集まった義兵たちと共に重光団という団体を組織し活動していた。3・1独立宣言を契機に更に多くの同志が集まると正義団を組織し精神教育と独立思想の鼓舞に力を注いだが、武力行使を行う事はなかった。そうした中で1919年8月、正義団は金佐鎮(キムジャジン)の入団で画期的な変身を遂げることとなった。名称を北路軍政署と変え徐一が総裁となり、金佐鎮を総司令官に、李章寧(イジャングニョング)を参謀長、李範爽(イボムソク)を錬成隊長に任命した。彼等はチェコスロバキアから武器を購入し武力の整備を行い、士官錬成所を建てて軍事訓練をさせた。また、地方行政の為の機関を設立し小学校と夜学を建て多くの愛国青年に教育を促した。

満州で活動した韓国独立軍たちが始めの頃の小部隊から次第に大部隊となって行くことに不安を感じた日本は中国政府に“中国が韓国独立軍を育成している”と抗議した。これを受け中国が韓国独立軍に日本の目が届かない山奥に移ることを勧めると北路軍政署は1920年9月20日、長白山(白頭山)への退却を決める。北路軍政署の動きを注視していた日本はこの退却移動中に北路軍政署への急襲を準備していた。第21師団を咸鏡北道羅南から北上させ、更にシベリアに出ていた第19師団を南下させ長白山の南北両面からの攻撃作戦を建てたのだった。しかし、この情報を得た北路軍政署は長白山への移動を変更して戦闘の準備に入るが、こうした折に間島・鳳悟洞で日本に大打撃を与えた洪範図(ハングボムド)が部下600人を従えて駆け付け北路軍政署に合流する。洪範図は1895年頃から義兵部隊に飛び込むと様々な活躍を見せ、1907年には甲山(現在の中朝国境=咸鏡道)に義兵を起こして以来、日本軍と戦って独立軍を連戦連勝に導いた人物である。その後、戦場を満州に移すと砲手団を組織し主に間島地方で活躍し、3・1運動以後は柳麟錫(ユインソク)・車道善(チャドソン)等と国民会を組織して満州東南部と中露国境部を根拠地として起兵していた。

鳳悟洞の戦闘(1920年)

1920年5月、各地で活躍していた幾つかの独立軍が中国満州(現在=吉林省)汪清県鳳悟洞に集まると、彼等を注視していた日本軍は第19師団1個部隊と南陽軍守備隊1連隊を鳳悟洞に送り独立軍の討伐を命じた。鳳悟洞は山を間に挟んで両側に延びた渓谷沿いに村々が散在していたが住民の多くが朝鮮人であった。日本軍は第19師団1個部隊と南陽軍守備隊1連隊とを各々の渓谷に分け鳳悟洞に向かって進軍を始めた。ところが丁度その時に激しい夕立が降り出し鳳悟洞に向かうどころか一歩前も良く見えない程であった。すると鳳悟洞の地勢を知り、永い間の山中での戦闘経験を持った洪範図はこの隙を突いて渓谷の間にある山を登り始めた。日本軍の一部隊が立ち込めた霧の中をようやく鳳悟洞に到着するが、その後に到着した他の部隊は深い霧のために彼等を独立軍であると誤認し射撃を始めると日本軍同士の戦闘が始まる。これを山上から見守っていた独立軍は、霧が晴れるに合わせと洪範図の射撃を相図に激しい攻撃を仕掛けた。洪範図は猟師をして暮した時期があり、その射撃の腕前は頭抜けており最初の一発で日本軍の大将を仕留めた。大将を失い士気も落ちた日本軍は右往左往しながら退却を始めた。この時、僅か700人余りの独立軍はその何倍もの兵力の日本軍と戦って勝利を勝ち取ったもので、日本軍は600人以上の死傷者を出したのだった。これを鳳悟洞の戦闘と言い、抗日武力闘争史上2番目の大勝利として伝えられている。

青山里の戦闘(1920年)

北路軍政署に洪範図が参加すると北路軍政署は独立軍最高の軍事力を誇ることとなった。これにより部隊は新たに改編され第1連隊長は洪範図が、第2連隊長は金佐鎮が、第3連隊長には崔振東(チェジンドング)が就いた。そして1920年10月26日、北路軍政署と日本軍との間で6日間に渡る戦闘が始まる。これを青山里大捷(戦闘)と言う。この戦闘は日本軍が仕掛けた戦闘であり、独立軍にとっては受けて立った戦闘であった。日本軍が中国にいる韓国独立軍の動きに圧力を加えると、中国は独立軍に解散するか日本の目の届かないところに移るかを求め、独立軍はこれを受けて長白山に向かう途中の青山里渓谷で起きたものであった。長白山に向かった独立軍が青山里に通過すると見た日本軍は大軍勢を持って独立軍を迎撃する作戦を立てるのだった。この青山里の戦闘は6日間に渡って断続的に続いたが独立軍はこれに悉く勝利する。この時の日本軍の被害は甚大で戦死者が1257人、負傷者は200人を越えたが、これに対し独立軍の被害は戦死者130人、負傷者は220人であった。兵力や武器装備など様々な点で日本軍に劣る独立軍ではあったが、国を救おうとする理念だけで日本軍を大破した独立闘争の象徴的な戦闘となった。青山里の戦闘は金佐鎮が率いる北路軍政署と洪範図の部隊が協力して勝ち取った勝利であった。

金佐鎮と洪範図

一方、大敗を喫した日本軍はこれに対する報復をするかの様に満州に居住する朝鮮人に迫害をさらに強めた。何の罪も無い人達を一方的に捕らえ様々な迫害を加え多くの人を死に追いやり、甚だしくは村全部に火を掛けるなどした。1922年末までにこうした日本軍の蛮行により被害を受けた朝鮮人は死亡者3600人余り、家屋焼失3500戸余り、そして穀物の消失は6千石にのぼった。これを“間島虐殺事件”という。その後、青山里の戦闘を勝利に導いた金佐鎮と洪範図を始めとする満州の10個部隊の独立軍は大韓独立軍団に統合され引き続き日本軍に対抗した。
鳳悟洞の戦闘並びに青山里の戦闘を率いた洪範図は、その後はソ連の沿海州に移り余生を送ったが、1937年にソ連の韓人への強制移住政策によりカザフスタンに移住した後に病死した。

また、もう一人の青山里の戦闘の英雄である金佐鎮は1925年に親民府を組織し城東士官学校を建て精鋭軍の養成に貢献した。金佐鎮は臨時政府から軍務総長・国務委員などに任命されたが、それらを全てを辞退し精鋭軍の養成にのみ注力した。1929年には韓族連合会を組織し抗日闘争と同胞の団結に力を注いだ金佐鎮であったが、部下であった高麗共産青年会の金一星(キムイルソング)・朴相實(パクサングシル)に暗殺されてしまう。

54.関東大震災の朝鮮人への迫害

関東大震災

1923年9月1日11時58分、日本の関東地方を中心に大地震が起こる。昼食の準備の為に火を使っていた家庭が多く、地震により家々が倒れながら火災を起こし東京や横浜を始め関東全域が火炎に包まれた。大部分が木造であった東京では市街地の80%が破壊され、神奈川、千葉、埼玉、茨城、静岡までにも大きな被害が及んだ。その翌日まで断続的に続いた余震も更に被害を大きくした。後の〈東京地震録全集〉によれば死亡者91344人、行方不明者13275人、負傷者52074人と記され、被災民は340万人としている。家屋の被害も甚だしく38万余家屋が完全に消失し17万余世帯が破壊した。

日本を取り巻く周辺状況

話は少し前にさかのぼるが関東大震災前夜の国際情勢は次の様なものであった。第1次大戦が始まると日本は中国大陸での影響力の拡大の次の手として、それまでドイツが利権を持っていた中国山東省に関心を見せる。そして日本は第1次大戦の参戦の前にイギリス・フランス・ロシア・イタリアから“ドイツが山東省に所有する全ての権益を日本が継承する”との密約をするなど自国の利益の為に緻密な準備をしていた。1918年戦争が終わると1919年1月にパリで講和会議が開かれた。ここでウィルソン大統領は14箇条の平和原則を提唱するが、その一つに民族自決が含まれていた。
これによりドイツに占領されていた幾つかの国々が独立を勝ち取ることとなる。こうした過程で強大国の仲間入りをした日本はイギリスなどとの密約を根拠に山東省の権益を主張した。これに中国とアメリカが反対したものの、結局は日本が山東省の権益を掌握することとなる。この事をきっかけに中国では五四運動が起こり、アメリカと日本の関係も悪化することとなった。それまでは親日的であったアメリカは日本が急成長すると警戒する様になり、アメリカでは日本人移民排斥運動が起こり1921年から24年間まで厳格な制限法により日本人の移民入国が禁止された。イギリスもアメリカと同様に警戒心を強め、1921年に日本からの日英同盟の期間延長の要請を拒絶した。アメリカとイギリスは日本の勢力をこれ以上に拡張させまいと軍備縮小会議の開催を提案した。イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中国・日本・ベルギー・オランダ・ポルトガルなどが参加した軍備縮小会議で日本は山東省の権益を中国に戻さざるを得ないこととなり、また日本が保有する主力艦船の比率も縮小されアメリカ(5):イギリス(5):日本(3)と決められた。

震災が何故朝鮮人の弾圧へ向かったのか?

この様に国際的に危機を感じていた日本であったが、植民地である朝鮮では日本の意に従わない朝鮮人たちによって3・1運動が起き、上海で臨時政府が樹立するなどの状況となっていた。これに日本では力で朝鮮人を従わせる為の弾圧の機会を伺っていたのだった。こうした時に関東大震災が起こり大混乱に陥ると日本政府はこの事態に乗じて、日本政府にとって日頃から危険勢力であった朝鮮人や社会主義勢力を取り除いて民心を一つにまとめようとする行動に出たのだった。
地震の起きた翌日から日本人の口から“朝鮮人が集団で襲ってくる”“警察署、劇場、新聞社、百貨店を朝鮮人が爆破した”“この火事は朝鮮人と社会主義者が放火したものだ”“朝鮮人が放火して井戸に毒を投げ込んだ”などの流言飛語が飛び交う様になった。警察ではこうした流言飛語の事実確認もせずに軍へ出兵を要求し、多くの軍隊が駆り出されて朝鮮人に対する不当な弾圧が始まった。日本人の中でも特に朝鮮人の為に職を失ったと信じる失業者たちは流言飛語をそのまま信じ込んで自警団を組織した。彼等は“殺しても構わない”との警察の言葉を受けて竹槍、斧、日本刀などで武装して朝鮮人を追い掛けた。彼等は朝鮮人を見つけると男は有無を言わさず虐殺し、女は強姦した後に殺すなど無惨な蛮行を繰り返した。丁度猟師が獣を追う様な目で朝鮮人を追い掛けた。

この朝鮮人大虐殺の火付け役となった流言飛語の出所は他でもない日本政府であった。内務大臣の水野錬太郎(前朝鮮総督府政府総監)と警視総監の赤池濃(前朝鮮総督府警務局長)は、東京と神奈川の各警察署と警備隊に“朝鮮人が暴動を起こす”との噂を流すと全国の地方官に電報を送り朝鮮人を厳密に取り締まることを指示したのは9月2日のことであった。この日の午後、東京には戒厳令が引かれ軍人、自警団、警察などは各隊で朝鮮人を追いかけて殺し始める。大人でも子供でも老人でも妊産婦でも彼らとっては、朝鮮人であれば誰でも良かった。外見からは日本人と区別がつかない場合は、日本語で仮名の〈たちつてと〉を言わせて少しでも言葉が怪しければ朝鮮人だと決め付けた。こうして関東大震災という天災に乗じる様に朝鮮人に対して無慈悲な虐殺を行われたのであった。更に日本政府は徹底した情報と報道の統制を行ない決して国外に漏らすまいとした。この結果、朝鮮人虐殺に関する記事はこの時どの新聞にも掲載される事が無く、この騒動が一段落ついた10月20日を過ぎて統制が緩んだことでようやく報道される様になった。こうしたことも原因となり、関東大震災の際に朝鮮人がどれだけ被害を受けたかは正確に把握することが出来ない。韓国の独立新聞は各地に特派員を送り被害状況を調査したが、彼等の報告によれば東京で752人、神奈川で1052人、埼玉239人、千葉293人など関東一円で6661人の被害者の中で死体が確認できたのは1510体だけであった。

55.命をかけた抗日運動

6・10萬歳運動(1926年)

1920年代、朝鮮人たち特に年若い学生たちは国内外において祖国の独立の為に命を惜しむことなく活動した。3・1運動を始めとして大小の独立を求めた萬歳運動では常に多くの学生たちが参加して人々の先頭に立った。日本によって皇帝となり、結局は国を奪われた朝鮮最後の王・純宗(スンジョング)は自身の無力を悟ると外部との接触を断って暮らす様になり、晩年は病魔に苦しみつつ1926年4月26日にこの世を去る。これに日本は英親王(ヨングチンワング)を名目上だけの王位に就け李王と呼び、純宗の葬式は6月10日に行うことと決める。純宗の葬式の日取りが決まると全国各地で多くの人々が純宗の最後を見送ろうと集まって来た。高宗の葬式が3・1運動の一つのきっかけとなったことを忘れていない日本は要所に警察を配置し万全を期した。そして6月10日なると昌徳宮の門前には多くの人々が集まり純宗の死を悼んだ。日本の万全の準備にも拘わらず葬式の行列が乙支路を過ぎた時、行列の中間辺りから学生たちの萬歳の声が鳴り響き始めた。呼応する様に歴代の王を祀った宗廟の方角からも萬歳が聞こえて来た。これが6・10萬歳運動である。6・10萬歳運動はソウルの学生たちが繰り広げた抗日運動であり、多くの市民が学生たちに同調したが3・1運動の様な大々的な運動には発展せず全国で散発した程度であった。

韓人愛国団結成(1931年)

世界大恐慌の波が日本にも押し寄せて来ると国内の不満勢力の視線を国外へ向けようとする日本は1931年9月18日、奉天(現在の瀋陽)の柳条湖で満州鉄道爆破事件を造作して満州占領に向けた満州事変を起こす。翌年、日本は清の最後の王であった溥儀を皇帝に擁立して日本の傀儡国家である満州国を建てる。同時に日本は大陸進出を確固たるものとする為に朝鮮人に対して民族性抹殺政治を始める。こうした時、臨時政府の国務領であった金九(キム・グ)は1931年11月に韓人愛国団を結成する。韓人愛国団結成の目的は日本人首脳などの要人攻撃であり、且つ臨時政府の活動の活性化であった。金九が韓人愛国団を結成すると自らの命かけて祖国の独立を勝ち取ろうとする多くの熱血男児が集まって行動隊員となった。

李奉昌殉国(1932年)

行動隊員たちは国の為に命を奉げる覚悟をして韓人愛国団に入団したのだが、その中には日本から来た者もいた。李奉昌(イボングチャング)は生家が非情に貧しく、早くから家族の為に仕事をしなければならない若者であった。ソウルで中学校を卒業すると日本人が経営する菓子店で店員をした後にソウル龍山にある満鉄の見習所の見習員となった。1924年に見習所を辞めた李奉昌は日本に渡って鉄工所の工員となり、日本人の差別と侮辱に耐えながらも数年間を日本で過ごしたが次第に独立運動に参加するべきと感じる様になる。意を決して上海に渡った李奉昌は先ず韓国人居留民団を訪ね自分が独立運動に加われる様に橋渡しを頼んだ。民団の幹部たちは李奉昌が日本から来たと聞いて日本政府が送ったスパイではないかと疑い、すぐには受け入れず身辺調査を行なうのだった。数日後、民団を訪ねた李奉昌は再び熱心に独立運動への参加を懇願するが、この誠実な態度を見た金九は彼を韓人愛国団の一員に受け容れる。

日本の(昭和)天皇が満州国の王である溥儀と1932年1月8日に東京郊外での観兵式を行うとの情報を聞きつけた李奉昌は、この事実を金九に報告すると、自分が天皇を狙撃するので支援してほしいと要請した。実行のための費用と手榴弾2個が用意されると1931年12月13日、李奉昌は太極旗を前に“私は赤誠として祖国の独立と自由を回復する為に韓人愛国団の一員となり敵国の首魁を殺すことを誓う”と宣誓し、自らが書いた宣誓文を胸に収めると手榴弾を両手に握って最後の写真を撮った。日本に渡った李奉昌は1月8日、天皇の観兵式からの帰り道である桜田門付近に待ち伏せ天皇の馬車を目掛けて爆弾を投げ込んだ。しかし近衛兵数人が怪我をしただけで未遂に終わる。李奉昌は充分に逃げる機会があったにも拘わらず逃げもせず、胸に仕舞っていた太極旗を取り出し“大韓独立萬歳“を三唱した後に泰然と逮捕される。裁判官が彼を尋問すると“私はお前たちの王を相手にした者だ、何故お前たちは私に無礼な態度をとるのか”と一言言うと一切答えず、裁判そのものも拒否した。これに日本の裁判所は予備審も行わず傍聴席も無い非公開裁判によって裁かれこととなり、この年の10月10日、李奉昌は23歳で殉国した。この後も韓人愛国団は活発に活動を展開して朝鮮総督・宇垣一成と関東軍司令官・本庄繁の狙撃計画などを建てるが多くは事件が発覚して未遂に終わる。

尹奉吉の義挙(1932年)

4月29日は日本の(昭和)天皇の誕生日で天長節と言われ日本では記念式典が行われたが、この年は上海事変の直後と重なり上海でも記念式や戦勝の祝賀行事が開かれることとなった。上海事変は満州事変に勝利した日本が中国人を買収した上で日本人僧侶を殺させ、これを口実に上海に武力侵攻した事件である。日本のこうした行為を目のあたりにした韓人愛国団では再び義挙を準備するが、この時に義挙を起こすのが尹奉吉(ユンボングギル)である。尹奉吉は植民地下の奴隷教育は受けないとそれまで通っていた普通学校を中退し漢学を独学した人であった。1926年に中国へ渡った尹奉吉は工員や野菜商、洗濯屋の店員など転々としながら金九の韓人愛国団に加入した。この年の天長節の祝賀式典は上海の虹口公園で盛大に行われることとなり、多くの日本人要人も参加することとなっていた。日本の官憲は李奉昌の義挙の教訓から爆薬などの持ち込みを警戒して会場へは日章旗と弁当以外の持って入ってはいけないと通知していた。すると尹奉吉は弁当箱と水筒を模った爆弾を作って出掛ける計画を建てた。そして4月29日の朝、尹奉吉は李奉昌と同様に太極旗を前に悲壮な覚悟で宣誓を行い、写真を撮った後で自身の時計といくらか残っていた金を全て金九に渡し最後の挨拶を交わした。行事の始まる時間が近付くと虹口公園では憲兵による厳重な警備の中多くの人たちが詰めかけて行った。尹奉吉は片手に弁当箱と水筒の形をした爆弾を持ち、もう一方には日章旗を持って公園の中へと入って行った。日本人たちは晴れやかな気分で行事に参加していたが、重大な任務を負ってその場に立つ尹奉吉は弁当箱を撫でながらその時を待っていた。11時40分頃、式が始まり日本国歌の演奏が始まると尹奉吉は立ち上がって檀上の前へと歩み寄っていった。次の瞬間、“バーン!”と言う爆音と共に壇上に居た人々がいっせいに倒れた。会場が一瞬のうちに修羅場と化すと、直後に尹奉吉は“大韓独立萬歳”を唱えるが直後に日本の警察に逮捕される。 

この事件により中国駐屯の日本軍司令官・白川義則は重傷を負いその後に死亡、日本公使・重光葵は左足を失い、第3艦隊司令官・野村吉三郎は右目を失明するなどの重傷を負った。それ以外にも10数人が重軽傷を負った。その後、尹奉吉は日本に移送され軍法会議にかけられ死刑が宣告され同じ年の12月19日に殉国する。この時25歳であった。この事が世の中に知らされると、朝鮮人だけでなく多くの人々に衝撃を与え中国国民党の蒋介石は“中国百万の軍隊でも出来ないことを朝鮮の若者が一人で成し遂げた”と称賛の言葉を送った。後に、第2次大戦が終わると金九によって国の為に命を奉げた李奉昌・尹奉吉・白貞基(ペクジョングギ)の3人の遺骸は日本から持ち帰えられ孝昌公園(国立墓地)に移葬された。

56.孫基禎と崔承喜

孫基禎-マラソン優勝(1936年)

1936年8月、第2次世界大戦直前の状況下のドイツのベルリンではオリンピックが行われた。この時のマラソン競技の優勝者の顔からは喜びよりも悲しみがにじみ出ている様に見て取れた。オリンピックという晴れの舞台で世界を制覇しても悲しい顔で肩を落としていたその人こそが孫基禎(ソンギジョング)である。世界最高記録を樹立しマラソン競技で優勝した彼が晴れやかな心持ちになれなかったのは、国を奪われ祖国とは違う国の旗を背負って走らなければならなかったという屈辱感によるものであった。

1930年代、民族性抹消政治によって朝鮮民族に対する抑圧は日増しに強くなっていった。特に1936年に赴任した南次郎総督は満州事変時の陸軍大臣であり、大陸進出を主導して満州国を実質的に支配した者だった。南次郎は就任時に“東洋の平和を守る為に内鮮一如、鮮萬相依を掲げて資源を開発し民心を啓導して強大国民として不足の無い生活水準を成し遂げる”と自身の考えを明らかにしたが、この言葉を言い換えれば、日本帝国の大陸進出に朝鮮を積極的に活用するという意思表示であった。日本が朝鮮で民族性抹殺政治を展開したことであらゆる独立運動は地下に潜むようになり、朝鮮人たちは息することも出来な様な苦痛に陥った。そんな時、孫基禎が日の丸を背負ってのことだとは言え、世界を制覇したことは抑圧された朝鮮の同胞たちに大きな喜びを与えない筈がなかった。

平安北道新義州で生まれた孫基禎は貧しい家庭状況から、早くから商店の店員や印刷職工などして家庭を助けた。こうした厳しい生活を耐えることが出来たのは彼の趣味のお蔭であった。何も持ち合わせていない彼が出来ることと言えば走ること以外なかった。走ることにある程度自信を持った孫基禎はマラソンを志すようになり、20歳の時にマラソンの名門である養正高普に進学した。本格的にマラソンの練習をするようになった孫基禎は血のにじむ努力の後の1935年に日本で開かれたベルリンオリンピックの最終予選兼全日本選手権大会に出場して優勝し日本のオリンピック代表選手に選考された。
ベルリンオリンピックでの孫基禎の記録は2時間29分19秒2で、それまでの記録より2分16秒8早い世界最高記録であった。この時一緒に朝鮮から出場した南昇龍(ナムスングヨング)も3位なった。
孫基禎の金メダル獲得の事実は8月13日になって一般市民にも知らされたが、これを伝えた《東亜日報》と《朝鮮中央日報》は孫基禎の胸に付けられた日の丸を消した上で新聞に掲載したが、この掲載は人々の胸の内のつかえを晴らすこととなった。これを“日章旗抹消事件”という。これにより《東亜日報》は無期停刊を受け、社会部長、写真部長と写真を修正した画家は40日間の勾留を受け、社長、編集局長、体育部記者などが離職を強要された。一方の《朝鮮中央日報》は《東亜日報》とは違い総督府の検閲当局に自首したのだが、夕刊の後に結局廃刊となった。

崔承喜-欧州公演(1938年)

それから2年後、もう一人の韓国人が世界を驚かせることとなる。
これを見た西洋の評論家たちは“百年に一人でるか出ないかの芸術だ”“世界的東洋の舞姫”などの賛辞を惜しまなかった。その人の名は崔承喜(チェスングヒ)と言い、韓国人最初の新式舞踊家である。ソウルで生まれ淑明女中・高を卒業した崔承喜は、1926年に日本の現代舞踊家である石井漠の朝鮮公演を見ると日本に渡り石井に師事した。舞踊家にふさわしい体型を持っていた崔承喜は渡日3年目に師に認められ帰国すると、1930年に第1回舞踊発表会を開いた。当時の大衆は、それまでに新式舞踊に接したことが殆どない時だったが崔承喜の舞踊は観客たちに衝撃を与えるのだった。1931年、崔承喜はプロレタリア芸術同盟をしていた安弼承(アンピルスング)と結婚をするが、程なく日本がプロレタリア芸術同盟の活動を取り締まるようになり安弼承も逮捕され収監されてしまう。夫が監獄されると崔承喜は夫を思い〈狂乱〉〈解放を願う人たち〉〈苦難の道〉〈故郷を懐かしむ群れ〉など反日的内容の舞踊を創作して地方巡回公演を行った。

安弼承が出獄すると再び日本へ渡った崔承喜は師匠である石井漠のもとで韓国舞踊に目覚める様になる。1934年、日本で舞踊発表した崔承喜は夫と共にアメリカへ渡った。ロサンジェルスとニューヨークで公演をした後にはヨーロッパに渡りフランスで公演した。彼女は自信を紹介するプログラムで“コリアンダンサー“と明かし、彼女を見た多くの人々は称賛を贈った。この公演は引き続いてベルギー・イタリア・オランダ・スイスなどでも行われ、行く先々の会場を熱気で包んだ。第2次世界大戦が勃発するともう一度アメリカへ行きニューヨーク公演をしたが、アメリカの評論家たちは“世界10大舞踊家の一人“と最大限の賛辞を送った。
4年に渡る海外公演を終えて日本に戻った崔承喜は、1945年に戦争が終わって祖国が解放されると夫・安弼承を追って入北する。北朝鮮当局は世界的な知名度を持つ崔承喜を歓待し、1948年に金九が北を訪れると歓迎公演で〈解放の歌〉〈春香伝〉などを発表し、その後は最高人民会議の中央委員となった。1951年のベルリン世界青年学生祝典の舞踊部門で大賞を受けた崔承喜は、1955年に《人民俳優》という最高の栄誉を手にするのだが1967年に粛清される。これにより崔承喜は南と北の両方の歴史から消えることとなるが、韓国舞踊史を語る際には決して欠かせることの出来ない重要な人物となった。

57.臨時政府と光復軍

光復軍創設(1940年)

1937年7月、日中戦争が勃発すると中国各地に散在していた朝鮮の独立軍は上海臨時政府を中心に一つに結束しようとする動きが始める。しかしまた、決して一つに成ることはなかった。既に思想の上での対立が修復できない程に大きくなってしまっていた為だ。この結果、臨時政府内では光復団体連合会と朝鮮民族前線連盟が互いに対立する様になった。光復団体連合会は同じ年の8月に結成され、金九(キムグ)が率いる朝鮮革命団とハワイにある6団体などが加わった。執行委員長には金九が選任され、主要幹部には李始栄(イシヨング)、趙九(チョワング)、嚴恒燮(オムハングソブ)など共に参加した各党の幹部等が選任された。朝鮮民族前線同盟は金元鳳(キムウォンボング)が率いる民族革命団、金星淑(キムソングスク)が率いる朝鮮民族解放運動者同盟、柳子明(ユジャミョング)が率いる朝鮮革命者連盟などが集まった団体で“朝鮮義勇隊”という武装組織を作り、隊長には金元鳳が就いて独立運動を繰り広げた。

日中戦争で中国国民党軍は敗退を繰り返すと重慶を臨時の首都と定めて反抗の機会をうかがい、中国共産党軍は沿岸地域に根拠地を置いて闘争を展開した。この時、上海で活動していた臨時政府も中国国民党に協調して拠点を重慶に移して活動した。光復団体連合会は朝鮮義勇隊が目覚ましい活躍をすると、これに呼応する様に韓国光復軍を創設したが総員は30人程度の小規模部隊であった。1940年9月17日、部隊創設に合わせ次の宣言文が朗読された。

大韓民国臨時政府は中華民国総統である蒋介石元首の許諾を受けて中華民国の領土内に光復軍を組織し、1940年9月17日に韓国光復軍総司令部を設置する。韓国光復軍は中華民国国民と協力して両国の独立を回復する為に、共通の敵である日本帝国主義者を罰する為に互いに友軍として抗戦を続ける”

これに先立って金九は日本軍との戦闘に共に協力しようと蒋介石に光復軍訓練計画を提示したが、光復軍の指揮系統をどちらが持つのかで具体的進展を見出せなかった。そうした中、臨時政府が金九を中心に戦費の後援金募集活動を展開するなど様々な努力を重ねる中、蒋介石が指揮権を臨時政府が持つことを認め中国内に韓国光復軍総司令部が誕生した。光復軍の総指揮は李青天(イチョングチョン)が、参謀長には李範爽(イボムソク)が就いた。一方、朝鮮民族前線同盟の内部では中国共産党がいる沿岸に拠点を移そうとする意が出て、金元鳳と本部人員約40人が重慶に留まり、残りの320人が移る決意をした。金元鳳が重慶に留まることにした理由は、彼がこの時すでに実権を失っていた為であった。その後、山西省に移った朝鮮義勇隊は1941年7月に朝鮮義勇軍に改編し、8月15日には朝鮮独立同盟という政党を組織した。重慶に残った金元鳳と40人は改めて臨時政府への参加を希望したが金九の反対で容易には受け入れられずにいた。しかし、結局は蒋介石の仲介により合流することとなった。蒋介石が積極的に金元鳳を臨時政府に引き入れたのは、中国の国共合作の調整に亀裂が見え始めてことから国民党側にいる朝鮮人勢力が共産党側へ流出することを引きとめたい気持からであった。これにより1942年5月、残留朝鮮義勇隊40人が光復軍第1支隊に編入され、その年の10月に朝鮮民族革命団は正式に臨時政府に加わった。朝鮮義兵隊が光復軍に参加すると蒋介石は一方的に光復軍行動準縄という規則を作り通告したが、その内容は光復軍の行動範囲を制限して指揮権を中国軍事委員会が持つというものだった。そして光復軍総司令部と2個支隊には中国国民党軍将校が多数加わることとなった。彼等は中国の三民主義を教育し、軍服に中国の青天白日軍の徽章を掛けさせたが作戦や人事権まで支
配した。彼等から完全に完全に独立したのは1945年に入ってのこととなった。

光復軍の活動

光復軍は1941年12月8日〈大韓民国臨時政府対日宣戦布告〉を発表し大戦に参戦した。1943年5月、金元鳳はインドに出向きインド駐在の英国軍代表のマッキンシーに会うと朝鮮民族革命党インド連絡団組織計画に関する協定を締結する。イギリス軍は朝鮮民族革命党を支援し、朝鮮民族革命党はイギリスの対日作戦を支援するというものだったが、この情報を聞いた臨時政府と中国国民党は共にこれに難色を示すのだった。臨時政府は臨時政府を通さなで、一つの政党が外国と協定を結ぶことは不当であるとし、中国国民党は中国軍事委員会所属者で、光復軍所属者でなければ承認出来ないとするものだった。結局インド派遣団の任務は光復軍司令部に移管されることととなり、3個月後に8人の光復軍が派遣された。
その後、光復軍は1945年まで活動を続けビルマ戦線での輝かしい情報収集と善戦に対しイギリス女王から勲章が贈られたりした。

国軍の土台であったが

この間、金九はアメリカ軍の特殊部隊であるOSS(アメリカ軍戦略情報処)との結びつきを強め、1945年5月からは光復軍第2支隊に対し秘密裏に特殊訓練をさせた。彼等が将来担当する任務は朝鮮国内に潜入して情報収集・主要施設破壊・後方撹乱などであった。
約3ヶ月間の訓練を受けた光復軍は8月9日、アメリカの提供した無電機と武器を受けて出発命令を待っていた。しかし彼等の国内侵攻作戦は実行され事はなく、日本は8月15日に無条件降伏をする。
これに金九は連合国に対し臨時政府の存在を改めて知らせ、承認を受ける為に様々な努力をしたのだが受け容れられることはなかった。
朝鮮半島を信託統治しようと考えるアメリカは臨時政府の訴えを黙殺し、金九等が祖国に戻ることも認めなかった。アメリカは進歩的な性格が強い臨時政府が期待する程はアメリカの助けに成らないと感じ、臨時政府の帰国すら認めなかったのだった。その結果、金九を始めとする臨時政府の要人たちは“個人の資格で入国する”との覚書を提示することで、ようやく祖国の土を踏むことが出来たのだった。主席である金九と副主席の金奎植(キムギュシク)、国務委員の李始栄(イシヨング)、文化部長の金尚徳(キムサングドク)、宣伝部長の厳恒燮(オムハングソブ)と彼等の随行員が帰国の第1陣となり先ず祖国の土を踏むこととなった。ところが、これもまたアメリカの緻密な計算の上でのことであった。臨時政府内部にも進歩的な性格が強い金元鳳と朝鮮民族革命団などよりはアメリカ寄りである金九等を国民に披露させようとしたものだった。これによりアメ
リカの狙い通りに“臨時政府=金九勢力”という考えが国民に注入されたのであった。
 一方、朝鮮義勇軍と韓国光復軍は祖国が解放されると一刻も早い帰国を望むのだが、彼等も臨時政府の要人たちと同様に個人の資格によってのみ祖国の地を踏むことが許され、武装解除は絶対条件であった。朝鮮義勇軍は1945年8月11日に対日参戦を表明したソ連軍と共に進撃したが新義州まで来ると武装解除を迫られ、ここでも個人の資格でのみ入国が許された。これに反感を持った一部の朝鮮義勇軍兵士の中には再び中国に戻って中国の国共内戦に参加する者も現れるのだった。

58.新たな悲劇の始まり

8・15解放(1945年)

1945年8月15日の正午、ラジオでは日本の天皇による国民に向けた第2次大戦無条件降伏を知らせる放送が流れた。これにより朝鮮は日本の植民地支配から解放された。この8・15解放は35年間に及ぶ韓国民衆の犠牲と闘争の産物とも言えた。しかしそれは朝鮮民衆の力で勝ち取った者ではなく、第2次大戦の連合国勝利の結果に拠るものであった。主要連合国は既に、この年の2月のヤルタ会談やドイツの降伏後の7月のポツダム会談で戦争の終結と戦後処理について事前に協議を重ねていた。
日本の無条件降伏を知った人々は路上になだれ込み自ら描いた太極旗を力強く振って喜びの萬歳を叫んで国全体が祭りの様な雰囲気に包まれた。ハワイで祖国の解放の知らせを聞いた独立運動家たちは互いに手を固く握り合って喜びの涙を流した。こうして多くに人々が歓喜と興奮のるつぼに溺れている時に一角では国づくりの為の動きが始まっていた。それだけでなくまた他方では半島を統治しようとする動きも進められていた。

呂運亨-建国準備委員会組織

一部の知識人の中には解放のかなり以前から日本の敗戦を予見した人々がいた。その代表的な人物が呂運亨(ヨウニュング)であった。呂運亨は1944年8月10日、趙東(チョドングホ)・玄又玄(ヒョンウヒョン)・黄雲(ファングウン)・李錫玖(イソック)・金振宇(キムジヌ)などと建国同盟という秘密決死隊を組織し委員長となった。翌年8月に日本は建国同盟の存在を知って幹部数人を逮捕したが、日本の敗戦が濃厚となると秘密裏に呂運亨に会ってある提案をした。日本の提案は総督府の権力を利用して韓国の独立を支援する代わりに韓国にいる日本人の生命と財産を保護してほしいという内容だった。朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作は呂運亨と会う前に先ず宋鎮禹(ソングジヌ)に会ったが、宋鎮禹は遠藤の提案は即座に拒絶した。しかし建国同盟を組織して開放の日を待っていた呂運亨は遠藤の提案を受け入れ、出した条件は次の内容であった。
① 政治・経済犯は釈放する。
② 3か月間の食糧の保証を確約する。
③ 治安維持と独立の為の活動に干渉しないこと。
④ 学生訓練と青年組織に干渉しないこと。
⑤ 各事業の作業場の労務者を建設作業に協力させること。

解放になると呂運亨は建国準備委員会を組織して総督府から行政権の委譲を受けると真っ先に監獄に繋がれていた独立志士たちの釈放をした。その翌日、ソウルで正式に建国準備委員会を発足させた呂運亨は各界各層の指導者たちを委員に招くと、委員会の名で“自重と安定を要請し軽挙妄動を慎み指導層の布告に従おう”という布告文を発表して遠藤との交渉内容を説明したのだった。多くの人たちが呂運亨の委員会に賛成して安在鴻(アンジェホング=副委員長)・鄭栢(チョングベク=組織部長)・崔謹愚(チェグヌ=総務部長)・許憲(ホホン)・李康国(リガンググック)など、非妥協民族主義系と社会主義系の人物たちが集まっていた。しかし、宋振宇・金性洙(キムソングス)・張徳秀(チャングドクス)などは建国準備委員会に反対して参加しなかった。釈放された独立闘士の大部分が活動に加わったことで委員会は建国を主導する陣容が整い、8月末になると全国に145の支部が出来るまでになった。国家の再建の為に活発に活動した委員会は8月25日に次の様な綱領を発表した。

1. 我々は完全な独立国家の建設を期する。
2. 我々は全民族の政治的・社会的基本要求を実践できる民主主義政権の樹立を期する。
3. 我々は臨時的な過渡期にあって国内秩序を自主的に維持し大衆生活の確保を期する。

建国準備委員会が組織的に拡大していくと委員会内部は左右の思想的な葛藤が目立つようになる。初期の頃は左右の勢力が均衡していたのだが組織が拡大するにつれ社会主義的考えのものが増えると、安在鴻のなどのこれに相反する勢力は委員会を脱会して行く様になる。9月8日にアメリカ軍が上陸して来るという情報を聞いた呂運亨は9月6日、全国人民代表者大会を開いて建国準備委員会を解体して朝鮮人民共和国を樹立し内閣を発表したが、その理由は既に朝鮮には正式な政府が成り立っていることを見せ付け認められようとの意図からであった。しかし、朝鮮人民共和国は右翼陣営の反対とアメリカの承認を得られなかったことで失敗する。建国準備委員会を結成して空白期に会った半島の治安維持を担当した呂運亨は委員会が失敗に終わると人民党を組織し、29の左翼団体を糾合して民主主義民族戦線を結成した。ところが、この組織があまりにも左翼的色合いが強かったことから、これを脱退すると再び勤労人民党を組織して党首となり活動を続けるが1947年に暗殺されてこの世を去った。

二つに割られた半島

一方、ソ連軍は半島全体を占領する勢いであったが、38度線まで来るとその歩みをぱったりと止めてしまう。アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが事前に結んでいたヤルタ協定の為であった。ヤルタ協定は秘密裏に結ばれたもので正確な内容は明らかでないが、これによりソ連とアメリカによる朝鮮半島の分割が取り決められたものと推測される。第2次大戦に参戦して以来、極東地域に深い関心を持ったアメリカは朝鮮半島全体がソ連の影響を受け共産化する可能性が大きいと見て、一部だけでも反共親米の政権を建てようと考えたのであった。この様に朝鮮半島について確固たる政策を持っていたアメリカはソ連に次の様な提案をしたのだった。“日本本土とそれに付属する島々、北緯38度以南の朝鮮及びフィリピンなどは太平洋方面アメリカ陸軍最高司令官に、華北地方、北緯38度以北の朝鮮はソ連に任せること”このアメリカの提案を世界大戦の余波で国内の復旧事業を迫られるソ連が受け入れたものだった。

日本の無条件降伏直後からアメリカ軍は朝鮮半島に駐屯する為に先発隊を総督府に送り、アメリカが実際に進駐するまでの統治機構を変えることのない様に指示した上で9月8日に上陸した。これにより朝鮮半島は38度線を境界に北側はソ連軍が、南側はアメリカ軍が進駐して半島は二つに割られてしまうのだった。半島に上陸する前、“活動内容が軍事占領の目標及び要求に一致する団体は奨励し、そうでない団体は解散させる”という方針を建てたアメリカ軍は上陸すると直ちにアメリカ軍政を宣布する。その上で開放直後の結成以来、担い手のいなくなった半島の治安維持に努めて来た建国準備委会を認めないことを明らかにした。連合軍総司令官のマッカーサー将軍は“朝鮮人民に告げる”という布告令を発表して“38度線以南の領土と住民は自身の管轄下にある”ことを明確に伝え“政府及び官公庁はその機能と義務を引き続き実行すること”と続けたが、このことはこれまでの朝鮮総督府がアメリカ軍政に代わることを意味した。また、アメリカ軍政は自らの方針に従うことを求め、従わない場合は厳重処罰すると告げるのだった。最初から一貫して威圧的な態度をとったアメリカ軍政に彼等のソウル入りを歓迎した市民たちも戸惑いを感じざるを得なかった。アメリカ軍政が親日派たちの再登用を決めると市民の中からは軍政が何の準備も無しに半島に入って来たと非難したがこれは事実とは違っていた。アメリカ軍はこの何年も前から半島に関する研究をしており、アメリカ軍・第24軍団では上陸以前に〈韓国の陸海軍合同情報研究〉という資料集を集中研究して統治方法に至るまで検討が進められ親日派の登用はその結果であった。職務の空白を無くすとの理由で親日派を再登用したアメリカの本当の目的はアメリカの国益に反する勢力を把握して除去し38度線以南の統治をより容易に行う事であった。この結果、南の親日派はアメリカの操り人形となりアメリカは強力な影響力を行使する様になった。
この時、38度線以北でも同様にソ連が軍政を宣布したが南とはずいぶん違っていた。ソ連は行政権を金日成(キムイルソング)が率いる人民委員会に与え、民生府を設置した上で金日成を通してソ連の影響力を行使したのだった。こうしてアメリカとソ連による南北の統治が実質的に始まることとなる。

59.信託統治に対する賛否

モスクワ3相会議(1945年)

1945年12月27日、すべての国民が解放による新しい国家建設の喜びに期待している時、ある新聞報道で国民は驚愕する。当時、〈東亜日報〉に掲載された記事の一面に「ソ連は信託統治、即時独立主張。ソ連の口実は38度線分割占領」と記され、“モスクワで3国(米・英・ソ)外相会談が行われているが、アメリカはカイロ宣言を根拠に朝鮮は国民投票によって政府の形態を決めることを主張し、ソ連は南北両地域を一つにした一国信託統治を主張して38度線での分割が継続される限り国民投票は不可能だとしている”と報じるものだった。モスクワ3相会議は12月16日から27日まで行われたのだが、東亜日報の記事は会談中にアメリカの通信社が報じたものを受けて報じられたのだが事実とは少し違っていた。半島の信託統治案は先にアメリカが提案したものだった。第2次世界大戦に参戦したアメリカは1943年になると朝鮮半島に対する具体的な構想を打ち出すが、その第一段階はアメリカによる朝鮮半島の全部または一部の占領と、朝鮮駐留日本軍の武装解除と本国送還であった。更に第2段階は軍政による単一統治であり、第3段階は信託統治国の監督下での親米的政府を作ることであった。この過程で38度線を境界とする分割占領が台頭したのだった。戦争中にも拘わらずこうした構想を作ったアメリカのルーズベルト大統領は同盟国であるイギリスにもこれを伝え、後にソ連のスターリンにも伝えられた。これにスターリンが“期間は短い程良い”答えたことで12月1日に発表されたカイロ会談で、韓国の独立は“適当な時期”に成されるであろうと書き入れられた。朝鮮半島の信託統治案はその後のヤルタ会談、ポツダム会談を経ながら既成の事実となるのであった。

東亜日報が28日から30日まで続けて信託統治に関する記事を掲げながら反信託闘争を本格化させ先鋒長の役割を担ったことで国民も大きく呼応し大々的な反信託運動が広まることとなった。特に金九と臨時政府の参加者たちは信託統治問題を知らされると即刻、反託運動を強力に繰り広げる様になった。臨時政府勢力は28日に反託決議文を採択して信託統治反対国民総動員委員会を結成して賛託したものを反逆者だと糾弾するなど、臨時政府の威勢を高めようと様々な努力をするのだった。これに右翼政党と多くの社会団体が同調を表明するとソウル市内の警察署長たちも反託を決議し、朝鮮の共産主義者までもが反託運動に参加する様になる。反託運動で半島全体が騒々しい12月30日、新聞報道でモスクワ3相会議の条約文が明らかにされた。その内の朝鮮半島に関する内容は次のとおりである。
① 朝鮮の産業、交通、農業、民族文化の発展に必要な処置を執る臨時政府を樹立
② 朝鮮臨時政府の構成の為、米ソ両軍司令部代表で構成する共同委員会を設置
③米ソ共同委員会は朝鮮の政治、経済、社会的進歩と民主的自治政府の発展及び朝鮮の民主的独立達成の為に協力と援助(信託統治)を行うこととし、共同委員会の提案は朝鮮臨時政府との協議を経た後に4カ国(米英ソと朝鮮)の共同審議に差し戻す
④米ソ行動委員会を2週間以内に召集する
などであった。こうして3相会議の結果は発表されたが、既に朝鮮国民の心の中では“3相会議の決定=信託統治=ソ連の赤化野望”といった公式が出来上がっていて、反託の熱気は冷めることを知らなかった。一方、朝鮮共産党は金九に統一戦線を展開することを提案した。しかし、金九と臨時政府勢力はこれを拒絶したために独自の反託運動を繰り広げることとなった。ところが朝鮮共産党は反託を唱えたそれまでの態度を変え1946年1月2日にモスクワ3相会議の決定を“全体的に支持”するとの声明を発表して積極的に賛託運動を展開する様になった。その結果、共産党は民衆から疎まれる存在となり彼らにあらゆる非難が浴びせられることとなった。そして1月15日、朝鮮共産党党首の朴憲永(パクホンヨング)とニューヨークタイムス新聞記者との会見内容を発表されたが、そこで朴憲永は「一国による信託統治に賛成し10年~20年以内に朝鮮がソ連に合併されるべきだ」と述べたとされた。しかしこれはアメリカ軍政に因って歪曲された報道であり、すぐに記者会見に臨んだ記者たちが共同声明を出して真実を明らかにしたのだが、その時には既に反託運動=反共・反ソにすり替わっていた。このことで朝鮮内の左右の対立は一層深まることとなり、南には親米派が北には親ソ派がその主要勢力を担うこととなって行く。

北にも親米派が

しかし、北にも親米派が存在し反託を唱える人たちもいた。その代表的な人物が曹晩植(チョマンシク)であった。曹晩植は解放になるとすぐに平安南道建国準備委員会義と平安南道政治委員会の委員長となり平南地域の秩序維持の先頭にたった。その後、ソ連軍政が38度線以北に入って来ると共産化政策に反抗して朝鮮民主党を創団して統一民主国家樹立の為に活発な活動を展開した。モスクワ3相会議が朝鮮を信託統治するとの決定を下すと、ソ連軍政司令官・ロマネンコ少将は朝鮮民主党に圧力を加えて信託統治に賛成することを強要した。これに曹晩植は幹部会議を招集して信託統治には賛成することが出来ないとの決議を表明してソ連軍の要請を固く拒絶した。ソ連軍政は改めて曹晩植に彼が委員長である平南政治委員会の名で信託に賛成する事を強要したが再び拒絶すると、曹晩植を強制的に連行し拘禁した上であらゆる手段を使って脅迫と懐柔を繰り返すが、曹晩植は最後まで意を曲げる事はなかった。
左右が一つにまとまっても出来るかどうかの時に南側では右寄りの者たちの間に目に見えない壁が形成され二つの派に分かれる様になる。アメリカ側に立って反信託を反共・反ソ連運動に発展させようとする李承晩と韓民党、反信託を通して民主国家の形成を目指そうとする金九と臨時政府系に分かれたのだった。
この様な間にもアメリカとソ連は着実に信託統治への施策を行なっていく。1946年2月20日にはソウルの徳寿宮で第1次米ソ共同委員会を開催した。しかし、連日会談が進められたものの容易に合意を得ることはなかった。ソ連は信託統治に反対する政党と団体を将来樹立することとなる臨時政府から排除する事を主張し、アメリカは賛否に関わらず全ての団体を参加させる事を主張し、双方の合意が得られる事はなかった。その結果5月6日、共同委員会は無期限の流会となる。これに両国の高位幹部達は会談を重ねた末に1947年5月21日に共同委員会の再開に漕ぎ付けたものの、結局ここでも合意を得るには至らず、アメリカは一方的に朝鮮半島問題を国際連合に上程したことで共同委員会は決裂してしまう。
国際連合は11月14日に総会を開き韓国問題を解決する為の臨時韓国委員団を設置して、韓国に委員たちを派遣する事を決める。そして翌年の1948年1月8日国連臨時韓国委員団がソウルに到着するのだが、ソ連は北緯38度線への委員団の立ち入りを拒否した。更に同年2月に国連が韓国の総選挙の実施を決定するのだがソ連はこれもまた拒否する。その結果、38度線以南に於いてのみ総選挙が実施される事が決められ南北の分断が決定的となっていく。

60.民族解放の為に生きた男たち

呂運享暗殺事件(1947年)

解放(第2次大戦終了)直後、朝鮮半島の政治、経済、社会は不安に陥り治安も乱れた。この時、治安維持に尽力したのが呂運享(ノウニョング)であった。呂運享は建国準備委員会を作って活動し独立国家の基盤を準備する為に多くの努力を傾け、米ソが半島に進駐すると朝鮮人民共和国を宣布して独立国家としての体裁を整えようとした。多くの群集が彼に従い、彼を指導者として奉じたが現実の情勢は違っていた。38度線以南のアメリカ軍政は朝鮮人民共和国を認めなかったのだった。呂運享の根本は祖国の解放と独立国家の建設の為には左派も右派も、キリスト教も仏教も、富む者も貧しい者も共に力を合わるべきという鷹揚の人であった。22歳の時に父を亡くすと、貸金の証文と家の奴婢の証文を燃やし捨て、奴婢の先行きの面倒を見てやり周囲の人たちを驚かせた。
高宗の22年(1885年)京畿道の楊平で生まれた呂運享は培材学堂・平壌神学校などで修学し郵務学堂を卒業して1909年に光東学校を建てて後進を養成した。その数年後中国に渡った呂運享は金陵大学で英文学を専攻した後、僑民団長となり本格的に独立運動の道を歩み始める。在中国の同胞を率いることとなった呂運享は1918年には新韓青年党を組織して世界に正しい状況を伝える為にパリ万国会議に金奎植(キムギュシク)を派遣し、1919年には上海臨時政府にも参与した。祖国独立の前には宗教や思想にこだわらない呂運享は1920年には高麗共産党にも加入しモスクワで開かれた参加したかと思うと、中国では孫文の辛亥革命にも協力した。また、1929年にはイギリスで植民地政策を批判してイギリス警察に逮捕され、日本警察に引き渡された後に3年間を服役を余儀なくされたりもした。その後も呂運享の独立運動は新聞社などの役員を歴任しながら留まる事がなかった。日本の独立運動への弾圧が強まると地下活動も主導し建国同盟を結成するなど更に活発なものとなっていった。

1946年8月になると韓国は信託か反託かの岐路に立ち、南では国民与論調査が実施された。その要旨は国民がどの様な体制を望み、どの様な人物を支持するのかを問うものであったが次の様な結果となった。回答総数8453人の内で「資本主義を望む」と答えたものは1189人(14%)、「社会主義」が6037人(70%)、「わからない」が653人(8%)であり、最高の指導者と尊敬する人物は呂運享であるという意見が最も多かったが大統領には李承晩(イスングマン)がふさわしいとの結果であった。
呂運享は朝鮮人民共和国がアメリカ軍政から認められないと判ると人民党を組織して29の左翼系団体を糾合して民主主義民族戦線(民戦)を結成すると議長団の一人に名を連ねた。しかし、民戦が極端に左傾化した行動を取ると脱退し再び勤労人民党(人民党)を結成して党首となった。こうして活発に活動する1947年7月19日、呂運享は独立新報の主筆である高景欽(コギョングフム)と車に乗り移動中に何者かによって放たれた3発の銃撃により絶命する。こうして生涯を祖国の独立と民族国家の建設を夢見た呂運享はこの世を去っていった。

済州4・3抗争(1948年)

米ソ共同委員会が妥協点を探れずにいると、アメリカ軍政は朝鮮半島問題を国連に上程したことで国連での議論に移って行く。国連はソ連と多くの韓国国民の反対にも拘らず、アメリカの思い通りに1948年5月10日に総選挙を実施する事を決定する。その結果、
韓国の各地でこれに反対する示威運動が起こることとなるが、特に済州島では大変は激しいものとなった。
国連で5月10日に総選挙の実施が決められると、済州島では4月3日午前1時を期して一斉に民衆抗争が始まる。済州4・3抗争である。
「米軍は即時撤退せよ!単独選挙・単独政府は決死反対!国連調査委員団は即刻帰れ!朝鮮統一、独立万歳!」
済州島民の3千人余りは武装した人民自衛隊と共に島内各地の警察署などを襲撃した。植民地時代から強い抗日独立運動の伝統を備えた済州島民の行動はアメリカ軍政には親日派と同様に理解し難い存在でしかなかった。これは日本の植民地からの解放直後の空白状態に置かれた済州島を建国準備委員会と人民委員会は他の地と同様に扱ったのに対し、アメリカ軍政は済州島における政治的主導権を親日勢力に任せてしまった為であった。そうした状況下でのアメリカ軍政の単独政府樹立計画は済州島民を憤怒させるのに充分なものであった。

4・3抗争が起こるとアメリカ軍政は各道から募った警察討伐隊1700人を構成し、済州島最高指揮官であるブラウン大佐は蜂起の原因よりも鎮圧に比重を置き大規模な鎮圧行動を取った。当時、済州島に駐屯していた国防警備隊の中佐が記した遺稿《4・3の真実》には当時の状況が次の様に記されている。
「・・当初、我々の部隊は鎮圧に動いていなかった。ところがソウルから下されてきた米軍CICの諜報将校が私を訪ねてきて済州島暴動を早く鎮圧しなければアメリカの立場が困る事になり、韓国の独立にも影響するだろうと言って来た。そしてこれを解決する事は〈焦土化作戦〉しかないといいながら私の意見を聞いてきた。」すぐにでも軍隊が出動するのかとも思われたが戦闘行為は回避され、その間に帰順するものも増えていった。ところが5月1日、正体不明の一軍が一村を襲撃して村全体に放火し、その二日後には臨時収容所に護送中の帰順者が襲われた。

この二つの事件を警察とアメリカ軍政は「武装集団の仕業と断定」と発表したが、実際は警察が西北青年団と大同青年団の右翼団体に指示して起こしたものであった。これを契機にアメリカ軍政と警察は本格的に暴動の鎮圧を始める。警察が介入した事で民心は刺激され暴動は帰って激化し、総選挙の反対を強く訴えて投票を拒否する為に山中にこもる者も多く出た。この結果、後に行なわれた総選挙において済州島の3つ選挙区の内で南済州を除く2つの選挙区では投票率未達によって選挙そのものが無効になった。
選挙が終わると討伐隊は大々的な鎮圧に乗り出すが暴動に何の関係の無い島民までを、暴動家族、共産主義の内通者だとして無差別に連行した。それだけに止まらず村に火を掛け集団虐殺まで行なわれ、済州島の169ある村の中の130村が焼かれた。何も知らない多くの子供までが命を落とす事となった。暴動を完全に鎮圧した後、アメリカ軍政は自らを正当化するために4・3抗争に参加した済州島民の数を1万6千人とし、その内の暴徒7895人を射殺したと発表した。しかしこの中に集団虐殺者は含まれていない。
この時に済州島で起きた事件は暴動と記録され歪曲されたまま長い間に渡り真相究明が成される事もなかったが、現在は抗争と改められて正確な真相究明の為の調査が様々な形で進められ、不当な弾圧により犠牲となった人の遺族などへの補償も行なわれている。しかし、依然として4・3抗争は未解決のままであり韓国近代史の悲劇として残っている。

南北統一政府を目指す金九

朝鮮半島を北緯38度線で《信託統治》していたアメリカとソ連の関係は次第に非情に悪化し始める。1947年3月、アメリカがトルーマンドクトリンを発表して冷戦が表面化する。こうした状況で米ソ共同委員会も当然の様に決裂していく。アメリカは朝鮮半島問題を優位に運ぼうと国連に移管させ、国連もアメリカの意思どおりに動いた。11月5日には国連総会で韓国臨時委員団が組織され彼らの監視のもとで人口比例による南北総選挙を行なう事を決議する。するとソ連は“米ソ両軍が撤退した後の臨時政府樹立”を提示して臨時委員団の入国を拒否した。するとアメリカは「南だけでも実施しよう」と国連に提起し、1948年2月26日に国連がこれを受け容れて選挙は1948年5月10日行なわれる事となった。南だけでの単独選挙が知らされると各階各層の人々が単独選挙・単独政府樹立の反対を訴え全国各地で立ち上がった。単独選挙は即ち祖国の永久分断を意味するものだと理解してのことだった。
生涯を祖国の独立の為に活動した金九(キムグ)はこの決定を聞くと“三千万同胞に泣告する”という文を発表して金奎植(キムギュシク)等と南北協議をしようと北の金日成(キムイルソング)に書簡を送り提議した。これに“南朝鮮単独選挙に反対する南北朝鮮の全ての社会団体代表たちと連席会議を平壌で開催する事を提議する”とした回答が届く。この連絡に接した南の各政党と社会団体は一斉に支持声明を発表し、知識人たちも大挙して賛成の意思を明らかにした。しかしこれに反対する人たちも居た、アメリカの支持を取り付けていた李承晩(イスングマン)と韓国民主党の勢力であった。彼らは露骨に南北連席会議の開催に反対し協議に賛成する者たちを“容共主義者”と呼び、甚だしくは“共産主義者”だと誹謗したりもした。そうした李承晩勢力の誹謗にも拘らず金九・金奎植らは38度線を越えて平壌へと向かった。この時に南からは41の政党と社会団体の代表たち396人が連席会議に参加したのだった。
南から自らの命を担保してまで多くの人々が38度線を越えた理由は南だけの単独選挙と単独政府の樹立に反対する為のものであったが、北はこれに同調する様に見せながら実際は他の目的があった。北側もまた彼らを政治的に利用しようとしていたのだった。会議は4月19日から26日間続いたが、南の代表たちが参席する前にすでに会議が始められていた。遅れて参加した南側の参加者が4月21日に南の情勢報告をし、22日には金九が祝辞を述べた。
しかし、連席会議が北側の脚本によって一方的に進められることが判ると金九らは非情に憤慨して会議そのものへの参席すらしなくなり、北側の少数の右翼団体も参席を取り止め形だけの会議となってしまうのだった。

南だけの総選挙

結局、何らの成果も得ぬまま5月5日に戻った金九は金奎植と共に平壌での南北会議の経緯と協議事項を説明する共同声明を発表した後、南朝鮮単選反対全国委員会を作って単選を拒否した。しかしこうした動きもまた、社会に何の影響力も与えることは出来成った。その結果、選挙は5月10日に予定通り行なわれ、北側の100議席を除外した198人の議員が選出された。これにより南には制憲国会が構成された。一方、北では南だけの単独選挙が何の問題も無く行なわれると金九らに第2次南北連席会議を提議したが、金九らは北が連席会議を北の政府樹立に利用しようとしている事を察知して参加を拒絶する。
多くに人々は強く望んだ統一政府の樹立が、最後の最後で南だけの単独政府の樹立という結果となると、金九は一切の政治活動を閉じて自宅に篭もるようになる。1949年6月26日、やはり自宅の書斎に居た所をかねてよりの知人の安斗熙(アンドゥヒ)の銃撃によって殺害されてしまう。祖国の独立と南北統一の為に生涯をささげた金九はこうして呆気なくこの世を去ることとなる。

61.一国2政府と6・25戦争

大韓民国政府樹立(1948年)

統一国家の建設を夢見た国民の願いも虚しく1948年5月10日に北緯38度線以南の地域でのみ総選挙が実施された。948人の候補が乱立する中で198人の国会議員の国会議員が誕生したがこれらの大部分は韓国民主党と独立促成国民会議の所属議員たちであった。当時南側には425の政党と社会団体が登録されていたが実際に選挙に候補者を出すなどした団体は43団体であった。左翼と中道勢力、そして一部の右翼勢力が選挙を拒否したが力が弱く国連の決定を覆すことは出来なかった。こうして5月31日には制憲国会が開かれ国号を大韓民国とし、7月17日には憲法が公布された。初代国会議長には李承晩(イスングマン)が選ばれたが、国会は20日に李承晩を大統領に任命し副大統領には李始栄(イシヨング)を選出した。これにより3年間に及んだアメリカによる信託統治は幕を下ろした。
李承晩は韓国が日本から開放された日である8月15日の記念式典で大韓民国の建国を国内外に宣布した。同じ年の12月9日、国連総会において46対6で大韓民国が承認されると、アメリカ・イギリス・フランスなどの友邦陣営国が大韓民国を承認し外交使節の交換が行なわれた。

李承晩-アメリカの後押しを受けて

解放前の上海臨時政府でも弾劾されたことがあり、国内においても決して強い基盤を持っていたわけでない李承晩が如何して初代大統領となったのだろうか?それはアメリカの支持を取り付けたためであった。開放直前の上海で臨時政府の金九(キムグ)とアメリカは共同で作戦を実施する準備までしていたが突然の日本の降伏により戦争が終結すると自国の利益を優先するアメリカはある方針を変更する。金九の入国を拒み李承晩を先に入国させたのだった。アメリカ軍政は臨時政府を承認せず臨時政府の主席である金九さえも認めていなかった。そうする理由は何よりも民族の独立を優先しようとする金九の急進的な考え方の為であった。アメリカはアメリカの意思に従って行動してくれる人物を必要としたのだった。その結果、親米的な考えを持つ李承晩がアメリカの支持を得ることとなった。
この様な事実は支持基盤を見るとすぐにわかる。解放直後、アメリカ軍政は業務の効率を考慮し親日派を再起用するのだが、後の彼らが李承晩支持の中心的な役割を果たす事となる。特に韓国民主党に所属した者たちは大部分が親日経歴を持つ者たちであった。解放後に多くの人たちが親日派の処罰を唱えたがアメリカ軍政と新たに出帆した政府の要職に就いた者たちの大部分が親日派であった為に容易に行なわれる事はなかった。

朝鮮民主主義人民共和国の誕生

一方の北側でも、もう一つの政府が誕生する事となる。1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が正式に宣布され金日成(キムイルソング)が初代首相に就任した。振り返ってみると、金日成が公式の席上に始めて登場したのは1945年10月10日の事であった。解放直後の朝鮮半島は建設準備委員会によるいち早い活動により全国各地に人民委員会が設置された。ところが米ソが北緯38度を境界に各々を占領すると社会主義者達は自身の考えを有利に進めようと、活動の根拠地を北に移して活動を展開するものも出たりした。そして10月10日に行なわれたのが朝鮮共産党の連合大会であった。南側の共産主義者たちも参加した大会で金日成は存在感を示すようになり、その後は北側において政治的主導権を持つようになる。1946年2月8日、北側全域の人民委員会と各団体の代表たちが集まり臨時人民委員会を結成すると、金日成が委員長に選出されその政治的地位を確固たるものとする。
38度線以北を信託統治したソ連が全ての行政権を人民委員会に移管した事で金日成は事実上の北における第一人者となった。臨時人民委員会が先ず着手した事は民主改革であった。無償没収・無償分配の原則で実施された土地改革は多くに人たちから歓迎と支持を得た。これにより臨時人民委員会は北の主体勢力となった。南で国連の決定に従い単独選挙が行なわれ政府が出来ると、北でも彼らだけの政府を樹立しようとする動きが現われる。1948年9月2日から平壌で最高人民会議が開催されると金日成が首相に任命され、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を宣布する。これにより朝鮮半島に2つの国家、2つの政府が誕生した事となった。

 
6・25勃発(1950年)

1950年6月25日、日曜日の明け方であった。北朝鮮軍が150台のソ連製戦車を先頭に38度線を越え南進を始めた。北朝鮮は1948年2月に人民軍を創設し、翌年の3月にはソ連と秘密裏に軍事協定を結んで政治的・経済的な基盤作り、万全の準備をしていた。そうした準備の下で1950年6月を最適の時期と判断しての南進であった。韓国ではこの直前の5月30日に2度目となる国会議員の総選挙が行なわれたが、この総選挙で無所属議員が当選議席の半分を占めたのに対し与党側は議席を伸ばす事ができずにおり国会運営上の混乱が予想されていた。北朝鮮ではこの選挙の結果を4月に実施された土地改革法などに対する国民の不満の表れであると判断し、こうした時期の南進が韓国民にも支持を得られる筈との考えからであった。更に、中国では共産党が国民党を台湾へ追いやり共産政権が樹立したことで朝鮮半島全体を共産化する環境が整ったと判断していた。また、北朝鮮はこれ以前に韓国に南進を事前に悟られまいと数度に渡り平和協議を提案した。最初の提案は南進の18日前である6月7日行なわれ、「解放5周年記念日に『南北統一立法会議』をソウルで開催しよう」であり、2度目は6月16日で南北双方の政治犯の交換の提案であった。また、3度目は南進の6日前である6月19日に「ソウル又は平壌で南北国会による統一政府樹立」を提案して来ていた。表向きはこうした提案をしながら北朝鮮は6月23日になると10個歩兵師団と1個戦車師団、3警備旅団など北朝鮮の全軍を38度線に配備して南進の準備を完璧に終えたのであった。

一方、この時の韓国軍は北朝鮮とは比較にならない程に劣っていた。軍人数が少ないだけでなく装備も充分とは言えなかった。この結果、南進から3日目で北朝鮮軍はソウルを占領した。韓国から北朝鮮軍の南進の知らせを受けたアメリカは直ぐに国連安全保障理事会を開き、北朝鮮軍の即刻撤退を求める決議をした。更に28日、アメリカのトルーマン大統領は戦闘司令部を韓国に設置する事を決め、海軍と空軍の先ず派遣した。アメリカに続いてイギリスなどが29日に海軍を派遣し、30日までに32カ国が韓国を支援することを決議した。安保理は韓国派兵、国連の総司令部設置及び国連旗の使用を決議し、その管轄権をアメリカに委任した。国連の決議により7月7日には東京に国連軍総司令部が設置され、マッカーサー将軍が総司令官に任命された。7月14日には国連旗がマッカーサー将軍に引き渡され、これを期に韓国軍も国連軍に組み入れられた。
国連の決議に従い、先ず韓国に到着したアメリカ軍・第24師団21連隊の第1大隊は京畿道・烏山で北朝鮮軍との最初の戦闘にはいるが大部隊に包囲され辛うじて撤退する。この様に初期の戦闘においては国連軍は敗退を繰り返し、北朝鮮軍は7月20日には忠清道・大田を占領する。ここで北朝鮮軍は軍を3つに分けて3方向から更に南進を続けて行けると、7月末には慶尚道を除く韓国全域を占領してしまう。これに対し立て直しを図る国連軍は作戦の指揮系統を統一し洛東江(慶尚道を流れる河)戦線を最後の防衛線にして反撃に転じる体制を整えた。これを機に8月7日になり本格的に国連軍の反撃が始める。8月16日にはB29爆撃機が99機が動員され、1日で950トンもの爆弾が投下された。その後も国連空軍の北朝鮮軍への爆撃が続くと北朝鮮軍の指揮は次第に落ち、国連軍陸軍は北進を始める態勢に移っていく。

仁川上陸作戦

開戦以来、制海権は国連軍が掌握したが格別な活躍は無かった。そうした中、洛東江戦線での国連軍の反撃が始まると、マッカーサー総司令官はこれに呼応して本格的な北上を展開する為に海軍に重大な任務を与える。9月13日に実行された仁川上陸作戦である。海軍は13日から2日間に渡り艦砲射撃を加えた後、15日になると仁川に上陸しソウルへと向った。これに北朝鮮軍も2万人の軍隊でソウルを守ろうとしたが、緻密な計画下に進撃して来る国連軍を退ける事が出来なかった。
この結果、ソウルが奪還される。マッカーサー総司令官は30日には38度線近くまで出向いて北朝鮮軍の退路をふさぐ指示をすると共に金日成に対し降伏勧告文を送った。しかし、金日成はこれを拒否したものの南側に残った北朝鮮軍には全面撤退を命じた。金日成が降伏勧告を拒否するとマッカーサーは国連軍全将兵に北進を命じ、これに応じて国連軍は10月1日から38度線を越えて北進を始める。結局、韓国軍と国連軍は11月25日までに朝鮮半島の大部分を掌握する。

1・4後退から休戦へ

国連軍が朝鮮半島のほぼ全域を掌握した事で祖国の統一は目前まで来たと思われた。しかし、事態はここで再び急展開する。中国共産党軍が参戦し北朝鮮軍は勢いを取り戻すのだった。マッカーサー将軍が陣頭指揮に立って中共軍に対抗したが、人海戦術での反撃の前に戦況は変化を見せていった。中国共産党軍の参戦で国連軍は後退を余儀なくされ、1月4日には再びソウルを奪われる。これを1・4後退と呼ぶ。しかし、後退を繰り返しながらも国連軍は兵力を再整備し進撃を始める。この時点で北朝鮮側は多くの死傷者を多く出しており、食料も不足する事態となり更なる対抗は事実上不可能な状態と言えた。北朝鮮軍はついに2月7日を期して前面退却を始めるのだが、各所に強固な塹壕が築かれており韓国軍と国連軍の進撃は容易ではなく、3月14日に漸くソウルを再び奪還した。
一方、アメリカでは中国共産党軍が参戦した時から原子爆弾を投下する事が検討されていた。これにマッカーサー総司令官は北朝鮮への補給基地となっている満州に原子爆弾を投下する事での戦争の終結と韓国の統一を主張した。しかし、アメリカのトルーマン大統領は原爆の使用には同意せずマッカーサーを解任する。
国連軍総司令官の交代のすきを衝く様に北朝鮮軍は大々的な反撃を試みたが期待した程の戦果を得ることなく終わると、1951年6月24日にソ連の国連大使を通じて休戦を提議した。これをアメリカが受け入れ7月8日に開城で予備会談が持たれた後の10月25日、板門店で停戦会談が行なわれ国連軍と北朝鮮軍の間で停戦が合意される。

62.李承晩の独裁政治と国民の反発

長期政権を目論む李承晩

6・25(朝鮮戦争)が勃発すると瞬く間にソウルが陥落し北朝鮮の手中に入ると李承晩政府は後退を余儀なくされ釜山を臨時の首都と定めた。同じ年の1951年11月、こうした国難の事態にも関わらず李承晩大統領は自らの政権の長期化を目指して大統領直選制と二院制を主要骨子とした改憲案を国会に提出する。しかし結果は賛成19、反対143、棄権1という圧倒的な票差で否決された。するとその翌年には再び改憲案を提出し、加えて7月4日には非常戒厳令を発令して議員たちを強制的に連れ出して国会を開くと、警察と軍隊を動員して起立表決を行い無理やりにこれを可決させる。この一連の事態を釜山への首都移転後に進められた事から“釜山政治波動”と呼び、このこと以来、大統領の再選の制限事項の削除を画策するなど李承晩の露骨な権力集中の策謀が続く事となる。6・25戦争が終わった後の1954年5月20日、第3代の民議院(二院制の下院)選挙が実施されたのだが、李承晩と自由党は改憲可能な3分の2の議席を確保しようとあらゆる手段を取る。政財界の大物たちに巨額の選挙資金を供与し、やくざ者を金で雇い有権者たちを買収した。のみならず警察を動員して野党の選挙運動員たちを何の理由もなしに逮捕した。その結果、当然のように選挙は自由党の勝利に終わるのだが当初の目標とした改憲の為の議席数に満たないとわかると議員たちに対して抱き込み工作を行い、総数207議席の内の137議席の確保に漕ぎ付ける。
11月27日に国会が始まると改憲案の採決を前に賛成票の取りまとめに更に買収を繰り広げた李承晩と自由党であった。ところが結果は賛成票が可決に必要な136票に僅かに1票足りない135票であり、誰もが否決されたと理解した。ところが、その翌日に自由党は次の様な声明を出し人々を驚かせる。
「昨日の否決は算出解釈の理解に誤りがあったもので、在籍議員203名の3分の2の正確な数値は153.333・・・であり、小数点は四捨五入により切り捨てられるべきで改憲案は可決された。」
この自由党の主張に続いて政府からも広報処長の談話と通して改憲案の通過が表明され、29日には国会副議長からも“前回の議会での否決は計算の錯誤に拠るものであり取消して可決とする。”と改められた。この事態を四捨五入改憲という。

独裁を望まない学生と市民

釜山政治波動と四捨五入改憲などを強行するなど政権への執着を捨てられない李承晩は更に自身の地位を確固たるものとしようと、国家保安法改正案を国会に提出する。改正案の主要骨子は①地方自治法を改正して全国の首長選挙を中止し大統領の任命制とする②国家保安法を改正して死刑と終身刑に該当する犯罪の範囲を広げる、などであった。これは李承晩に反対する者は地方の首長にもしないし重罰に処す事もできるという意味であった。
この改正案が発表されると野党は勿論のこと多くの国民や李承晩の支持者の間からも反対者が続出し、激しい反対運動が起こるようになった。これに警察が共産主義者の陰謀を摘発するとの名分の下に非常警戒体制を持って取り締まると、警察内部からも政府の対応に反対するものが出たりもした。こうした世論の反対にも拘わらず1958年12月24日、李承晩政権は野党議員を地下室へ監禁して会議に出席させないまま国家保安法を通過を強行採決する。これをきっかけに国民の不満は頂点に達し、全国で反対運動が繰り広げられ、報道機関からも李承晩政権を批判する記事が出るようになった。すると野党寄りの記事を掲載したとして京郷新聞が1959年4月30日強制廃刊される。

不正選挙と4・19学生運動(1960)

1960年3月15日に予定される第4代大統領選挙を前に国民と李承晩政権の対立は極限に達していた。李承晩は引き続き政権を維持しようと露骨に金品をばら撒き有権者を買収し、ならず者を雇い野党の選挙運動を妨害したり支持者を脅したりした。また、野党の講演会に学生を参加させまいと講演会が日曜日に予定されると学校に強制的に登校させた。2月28日の大邱(テグ)での野党・民主党の講演会も例外ではなく学生が排除されると、これに憤慨した学生たちは独裁政権を糾弾する大々的な街頭デモを敢行した。この動きは直ぐに全国に広がり3月5日にはソウルで、7日には釜山で、8日には釜山と大田で10日には水原で、12日には再び釜山で学生たちのデモが起こった。選挙投票日の1日前である14日には大部分の高校生までが参加する大規模なデモが起きた。投票日当日になると、投票場には李承晩政権に買収された暴力団が配置され野党の選挙監視団は投票場の中にすら入ることが出来なかった。投票に際しても隠れてどころか公然と野党候補へ投じられた票はその場で取り除かれ、投票した者が殴られたりした。この様な目に余る不正選挙の横行を見かねる多くの国民の中から、先ずは慶尚南道・馬山の市民と学生が選挙の無効を訴えデモを始めた。警察はデモ隊に向けて発砲し、多くの市民たちが検挙された。この市民と警察との衝突で15人以上が死亡し、数百人が負傷し、行方不明者も出たりした。李承晩政権はこれを共産主義者のそそのかしであると決め付け、そのための止む得ぬ警察の出動であったと言い訳をした。
 それから20日余り過ぎた4月11日、馬山沖で片方の目をアメリカ製の催涙弾で射抜かれた学生の死体が浮かんだ。青年は3月14日のデモに参加した後に行方不明となっていた馬山商高の高校生で、デモ隊との衝突の後に死体を海に投げ込んだものだった。この事件が明るみに出ると馬山は大騒ぎとなった。死体を見た高校生は犯人を探し出そうと派出所と警察署に突き進み、デモは一晩中続き参加した市民は15万に昇った。これに対し李承晩は“デモに参加する事は即ち共産主義者に機会を与える事になるので参加すべきでない”と声明を出すが、デモの広がりは止まる事がなかった。4月18日になると高麗大学で学生3千人余りが“警察の学校への介入の中止”“馬山事件の責任者の処罰”“逮捕学生の釈放”などと再選挙を要求して国会議事堂の前で座り込みを行なった。続いて翌19日にはソウル大学を始めとする各大学と中高校生たち学生、10万人を越える市民たちが大規模なデモを行なった。武装した警察が動員されデモ隊を排除しようとした李承晩は戒厳令を宣布して遂には軍隊までも動員した。しかしデモは拡大するばかりで、間も無く全国規模に広がって行った。これを食い止めようと武装した軍隊や警察は容赦の無い攻撃を続けたことで、この一日で多くの死傷者が続出した。警察によれば死者183人、負傷者6259人と発表されたが、実際はこれより遥かに多かったと推測される。

一方、アメリカは3月15日に馬山でデモが起きた時点でいち早く首都圏の軍指揮権を韓国側に委ねていた。これはデモ隊を軍が制圧する場合に寄せられるであろう批判や責任を回避しようとする為であった。ところが4月11日、馬山で再びデモが起こるとそれまでの李承晩支持の立場を撤回するようになった。アメリカからも背を向けられた窮地に陥った事を悟るが、大統領の辞任ではなく内閣総辞職で収拾を図ろうとした。すると、4月25日になり全国27大学の教授258人が“学生たちが流した血に報いよう”と記したスローガンを手にソウル大学教授会館で13か条の時局宣言文を採択するが次の様な内容であった。

①全国各地での学生デモは主権を奪われた国民の鬱憤を代弁しており、学生たちの純真な正義感の現われであり不正不義に反抗する民族心の表現である。
②このデモを共産党や野党の謀りごととするのは学生たちの正義感を冒涜するものである。
③平和的で合法的な学生たちのデモに銃弾を浴びせ流血惨劇を起こした警察は、大韓民国の警察とは言えず一部政治集団の私兵である。
④この様な大惨劇を引き起こした大統領を始めとする与野党国会議員はその責任を取って辞任しろ。
⑤3・15選挙は不正選挙であり再選挙をしなければならない。

宣言文を発表した教授たちが市内行進を始めると市民たちも共に従った。事態が鎮静化せず更なる高まりを見せると、ようやく李承晩は大統領の辞任声明を出し12年間に渡る政権に幕を下ろすこととなり、李承晩はアメリカへ亡命する。この一連の事件を指して4・19と言い、4月革命、4月義挙、学生革命などとも呼ばれている。
その後、6月15日に国会で内閣責任制に改憲した上で7月29日に総選挙を実施し選挙結果、尹譜善(ユンボソン)を大統領に選出された。

63.軍事統治の始まり

5・16クーデター(1961年)

前年の4・19以後、国民の意識は民主主義を望む声が高まり、工場だけでなく、金融機関、報道機関などでも労働組合が組織され、労働運動を通して政治にも関わりを強く持とうとする時代であった。その行き落ち着く先は“民主的な統一”であり、こうした形で国民の多くが民主統一を唱えるようになると、反共を訴えていた団体は自らの存在に危機感を感じるようになっていた。1961年に入り各界の多くの国民がこうした訴えを益々強めると、軍人たちは以前とは違う動きを始める。新政権の大々的な軍縮政策に不満を持つ朴正煕(パクチョングヒ)や金鐘泌(キムジョングピル)などの陸軍士官学校第8期生たちを中心とした将校たちが起こしたこのクーデターであった。1961年5月16日、彼らは真っ先に放送局を占領すると次の6項目を発表した。
1.反共を国是の第一義としてこれまで形式的に過ぎなかった反共体制を再装備強化する。
2.国連憲章を遵守し国際協約を忠実に履行し、アメリカを始めとする自由友邦国との連携をさらに強固なものにする。
3.この国の社会のあらゆる腐敗と旧悪を一掃し退廃した国民道義と民族心を取り戻す為に清新な気風を定着させる。
4.絶望と飢餓にあえぐ民生苦を急ぎ解決して国家自主経済の再建に総力を傾ける。
5.民族の宿願である国土統一の為に共産主義者と対決する事ができる実力培養に全力を集中する。
6.こうした我々の課業が成就すれば斬新且つ良心的な政治家に何時でも政権を移譲して我々は本来の任務に復帰する。
朴正煕、金鐘泌等が数千人の武装軍人を動員して起こした軍事革
命であった。ソウルを掌握した革命軍は軍事革命委員会を構成し、陸軍参謀総長であった張都暎(チャングドヨング)を議長に、副議長には革命の実質的な指導者である朴正煕が選任された。革命委員会は国会を解散して三権(立法・司法・行政)を掌握し、韓国全体に非常戒厳令を宣布して集会の禁止、海外渡航の禁止、マスコミに対する事前検閲の実施、夜間通行の禁止時間の延長などを決める。6月6日軍事革命委員会は名称を国家再建最高会議と改め、朴正煕を議長に推戴して本格的な軍地統治への道が準備される。

民主共和党の誕生

翌年の1962年に国家再建最高会議は、慈善・学術・宗教を除いた全ての社会団体と政党を解体させ、言論に対する検閲を強化し千以上の新聞や雑誌を廃刊させた。また、最高会議は政治活動浄化法を作り4374人に対し6年間の政治活動を禁止し、政党法を作って公務員・教職者・軍人・学生などの政党への加入を禁止した。こうして社会の政治への規制介入する政策を推し進めた最高会議は最後は大統領の権限を大幅に強化した新憲法を作った。また、軍に対してもこうした政策に反対や批判的な者たちを予備役に再編させ排除すると共に、中央情報部を創設した。中央情報部は国内外の情報の収集は勿論、国内の犯罪捜査と政府各部所内の情報捜査活動などを目的に3千人余りの特務要員で構成された組織であった。こうして革命軍の“軍が掲げた課業が成就されれば直ちに本来の任務に戻る”との言葉が偽りであった事を国民は知る事となった。そればかりか、これを機に多くの軍人たちが軍服を脱ぎ政治への関与に意欲を示し、こうした軍人たちも多く参加して1963年2月に民主共和党が発足する。この間、中央情報部は民主共和党の活動に必要な資金を準備する為に所謂4大疑惑事件と呼ばれる、証券波動・ウォーカーヒル事件・新時代自動車事件・回転ビリヤード事件を引き起こした。これらは、中央情報部の捜査で多くの逮捕者を出したにも拘らず、後に全員を無罪放免としたことから疑惑が叫ばれた。

第3共和国

こうして出来た民主共和党は朴正煕を党の総裁に選出すると、同年10月15日には第5代大統領選挙へと臨んで行った。民心は決して朴正煕に向いていた訳ではなかったが、野党側は候補の一本化どころか、前大統領の尹譜善(ユンボソン)を始め4人が乱立する事となった。選挙期間中も買収工作と野党の候補一本化の阻止に奔走した結果、朴正煕が42.61%の票を得て辛うじて当選した。あらゆる手段を講じた結果として掴んだ当選であったが、その得票は過半数に達せず、次点となった前職の大統領であった尹譜善との得票差は僅か15万票でしかなかった。その1ヵ月後である11月には国会議員の選挙が実施されたが、この時もまた様相に変化は無かった。共和党は豊富な資金と時には暴力まで使って票固めをしたのに対し、野党側は相変わらず勢力を結集できなかった。共和党は総投票数の32.4%しか得票出来なかったが、175議席中の110議席を占める結果となった。これにより表向きは軍政が終わり第3共和国が出帆したのだが、その政権の中枢は多くの軍出身者が担う事となった。これより朴正煕は自立経済と祖国の近代化を目指して政権を担当するが、独裁を繰り広げて多くの国民から反発を受けながら、結果的に16年間に及ぶ長期政権を続けることとなる。しかしその最期は1979年に自身の右腕とも言える中央情報部部長の金載圭(キムジェギュ)に依る暗殺という意外な形で呆気なく向えるのだった。

64.永久政権の布石-10月維新

10月維新(1972年)

1970年代に入ると韓国では民主化を望む動きが活発になり、凄まじい民主化闘争の熱い風が政府に向けて吹く荒れることとなる。すると朴正煕(パクチョングヒ)政権はこれらを抑え込もうと容赦なく武力を投入する。それに加えて、1971年12月6日には国家非常事態を宣布し、12月27日には「国家保安に関する特別措置法」を通過させる。これにより政府と民主化を要求する人々との間の緊張は否が応にも高まる事となる。その内容は次の通りである。

 ① 大統領は経済規制を命令する事が出来る。
 ② 大統領は国家動員令を宣布することが出来る。
 ③ 大統領は屋外集会とデモを規制する事が出来る。
 ④ 大統領は言論・出版に対して特別措置をとることが出来る。
 ⑤ 大統領は労働者たちの団体行動権を規制する事が出来る。
 ⑥ 大統領は軍事上の目的の為に歳出額を調整する事が出来る。

こうして民主化の要求が「特別措置法」によって大統領に格別な非常大権を与えるという皮肉な結果を招く事となってしまうのであった。しかし事態はこれだけで収まらず、更にその翌年の10月17日、朴正煕大統領は〈10・17大統領特別宣言〉を発表する。これが“10月維新”である。

10月維新は祖国の平和的統一の志向と韓国的民主主義の定着を目指し、統一に向けた民族主体勢力の形成して自主的総力体制を構築する為の一大改革を断行する事を基本理念とした。朴正煕は特別宣言を通して、国会を解散して政党及び政治活動を禁止し混乱を防ぐ為に非常戒厳を宣布した。ところがこの時の宣布内容は11年前に起きた5・16クーデターの時の布告と非常に似ていた。朴正煕大統領にとっては、国の「軍事力」「経済力」「政権の堅固」のどの点においても北と対峙しうる韓国政権を維持しなければならないことが絶対の使命であり、これを担う者は自分の他にはいないという強い信念がさせた結果であったと言えた。そうした判断が国民から更なる反発を得ることを承知した上でも、そうせざるを得ないと言う立場であった。この時の内容の次の通りである。

 ① 全ての政治活動目的の室内外の集会及びデモは一切禁止する。
 ② 言論・出版・報道及び放送は事前検閲を受けること。
 ③ 各大学は当分の間、休校措置をとること。
 ④ 正当な理由の無い職場離脱と怠業行為を禁じる。
 ⑤ 流言飛語の捏造及び流布を禁じる。
 ⑥ 夜間通行禁止は従来どおり施行する。

この布告に違反した者は「令状なしに捜索並びに拘束する」とした。
国会を解散した朴正煕政権は、自信に協力的な者だけを集めた〈非常国務会議〉を構成して国会の権限を代行させた。直ちに非常国務会議は平和統一を志向する新しい憲法と言う名で“維新憲法”を作った。ところが実際、この維新憲法は朴正煕政権の永続化の為に作られたものといっても過言ではなかった。

維新憲法によって大統領は立法・司法・行政の3権全てを掌握したも同じと言えた。選挙においては朴正煕に不利な国民の直接投票を無くし、統一主体国民会議という機構が先ず構成されて大統領を選出する事とした。統一主体会議の構成員は国民の選ぶ代議員で構成されたが彼らが何ら役割を果たすことは無かった。新憲法により1972年12月15日に統一主体国民会議代議員選挙が実施され2359人の代議員が当選する。その上で、第8代大統領選挙が行なわれたが朴正煕の単独出馬であった為に何の意味も持たなかった。代議員全員が参加して行なわれた大統領選挙は総2359人中の2357人が朴正煕に票を投じ、残り2票は無効票とされた。こうして6年任期の第4共和国が誕生した。この6年後である1978年の第9代大統領選挙も同じ様な演出が成されるが、その翌年である1979年10月26日に朴正煕は自らの側近で中央情報部長であった金載圭の放った銃弾により殺害され維新体制派終焉を迎えた。

何故維新か?

アメリカの支援を受けあらゆる特別法を作り独裁政治を合法化した朴正煕が進めた“10月維新”とは何だったのだろうか?この時代の韓国の最重要課題は何と言っても経済発展であった。1960年代後半からの韓国は低賃金労働を最大の武器に輸出政策を展開し成功するが70年代に入るとそれも頭打ちとなり始める。その上、1969年のアメリカのニクソン大統領による中国との和解政策への転換による冷戦体制にも変化の兆しに、朴正煕は国の内と外に難題を抱える事となる。政権当初よりアメリカの支援を受けてきた朴正煕はその間一貫して自身を“反共産主義の守護者”であることを自認し、韓国を自由主義の防波堤と唱えてきたのだが、アメリカの方針変更には同調するより方法が無かった。先ずは1972年5月初めから6月初めまで平壌とソウルで高官による会談を秘密裏に行い、その結果として7月4日にソウルと平壌で「7・4南北共同声明」が発表された。

 ① 南北は自主的・平和的・民族的統一原則を合意。
 ② 思想と理念、制度の違いを離れ一民族の大団結を図る。
 ③ 中傷・誹謗をせず武力挑発を排除。
 ④ 多方面的な様々な交流を実施。
 ⑤ 南北赤十字会談に積極的に協力。
 ⑥ ソウル・平壌間の常設直通電話の開設。
 ⑦ 南北調整委員会の設置など。

南北共同声明により発足した南北調整委員会は共同声明内容の推進と南北間の様々な問題を解決する為に会談を行なおうと、南の李厚洛(イフラク)中央情報委員長と北の金英柱(キムヨングジュ)労働党組織指導部長を共同委員長とすることを決める。この中で、南北の代表は板門店(パンムンジョム)・平壌・ソウルを行き来しながら①自主的な平和統一協議②広範な政治的交流③経済・文化・社会的交流④軍事的対峙状態の解消⑤対外活動の共同歩調など5項目に渡って協議した。

この様に南北調整委員会において活発に会談を進めながらも、朴正煕は政権の永続化の為に“10月維新”を発表し、北の金日成(キムイルソング)もこれに答えるかの様に“社会主義憲法”を制定した。しかし、こうした行動そのものが朴正煕と金日成が国民に向けて統一を示唆しながらも、実際は互いにこれを逆利用して自身の政権安定の欲望の道具とした物に他ならなかった。これにより、表面的には活発に進められるかのように見えた南北調整委員会の活動は次第に有耶無耶なものとなっていく。南北調整委員会が会談を進めるのと平行して南北赤十字会談も活発に進められたが、こちらも回数を重ねる内に次第に実質的な成果を見出さないものと変わっていく。しかしながら、予備会談と本会談を通して連絡事務所と直通電話が設置され南北分断から26年間閉ざされていた対話の壁が貫かれたのだった。

65.朴正煕永久政権への反発と崩壊

金大中拉致事件(1973年)

南北会談に多くの離散家族や知識人たちが大きな期待を寄せると、南北対立ムードの高まりが自身の政権基盤を危うくすると警戒した朴正煕(パクチョングヒ)大統領は南北会談が結実しようとする矢先に維新を発表して永久集権に向けた野心をさらけ出した。これに対し多くの国民が不満の声を挙げると“緊急措置”を次々と出して抑圧と弾圧を重ねる。この時、不満を掲げた国民の受け皿となっていた新民党の大統領候補・金大中(キムデジュング)は、韓国を離れ各国で朴正煕の維新独裁政権への批判を続けていた。そうした1973年8月、金大中は滞在していた東京のパレスホテルから突如消えてしまい、捜査に当たった日本の当局は何者かに連れ去られたと発表した。それから5日後にソウル市内の自宅近くに放置されている所を発見されるのだが、これを「金大中拉致事件」いう。

後に明らかにされた所に依れば、この事件は朴政権の指示で韓国中央情報部によって引き起こされたもので、彼らは金大中を玄界灘の海に捨ててしまう計画であったと言う。しかし何故、殺害を免れたのかを含めて充分な捜査が行われないままとなり、未だに謎に包まれた部分の多い事件となった。しかし、この事件が韓国国内で明らかにされると各界各層からの政府に対する批判が相次ぐ事となった。特に学生を中心とする若い世代の反発は非常に強く現われる。1973年10月2日、ソウル大学の学生たちは校内の4・19記念塔前で非常総会を開いて自由民主主義体制の確立を要求するデモへと展開させた。これをきっかけに全国の多くの大学で追随する動きを見せるようになる。幾らも日が過ぎないうちに闘争は学生たちだけの物ではなくなり在野識者、言論記者を始め高校生までもが加わる様になっていった。こうした人達が互いに合流するようになると、次第に大学生たちの闘争はより組織的に変貌していく事となる。

翌年の1974年の春になると動きは更に活発になり全国各地でデモが引き続いて行なわれる。3月21日に慶北大、28日には西江大、4月1日には延世大でデモが行なわれ4月3日の梨花女子大では“全国民主青年学生総連盟”名義で「民衆・民族・民主宣言」を発表した。内容は次の通りである。

 ①腐敗、特権、族閥の財を成す為の経済政策を是正し、不正腐敗、特権の元凶を処断する。
 ②庶民の税金を減免して勤労大衆の最低生活を保障する。
 ③労働悪法を撤廃して労働運動の自由を保障する。
 ④維新体制を廃して拘束された愛国の士を釈放して正しい民主主義を確立する。
 ⑤中央情報部を解体する。
 ⑥反民族的な対外依存経済を清算して自立経済体制の確立をする。

などであった。そして、学生たちは行動綱領に《ソウル市内の全て
の大学生と市民は午後2時にソウル市庁前広場に集結すること》と
掲示したが、この情報が流出したことで当局の弾圧に合いデモは行
なわれないまま挫折する事となる。

独裁下で繰り広げられる民主化闘争

しかしこの後も大小の市民たちのデモが繰り返されると、朴政権は“全国民主青年学生連盟事件”と名付けて学生や知識人たちを強制的に連行し多くの者の身柄を拘束する。連行者は1224名、拘束者は253年にのぼった。彼らは非常軍法会議に掛けられ詩人の金芝河(キムジハ)など7名に死刑が、また別の7名には無期懲役が宣告された。また、朴政権は緊急措置4号を発動して民主青年学生連盟に加わった学生に対して授業や試験を受ける事を禁止し、これを破るものは懲役刑に処するとして学生の行動にまで制限を加えた。しかし、結局は独裁の批判を鎮めようと更に独裁を強める事になったのであり、これにより更なる批判を受けると言う悪循環に陥っていくのであった。その後も、学生や知識人或いは労働者たちが政権の厳しい弾圧に会いながらも民主化を要求する事件が引き続き起きていった。

その結果、1978年12月に実施された第10回国会議員選挙では遂に野党が勝利する事となる。様々な金権選挙を前面に打ち出した与党・共和党は31.7%を得票したが、野党・民主党はそれより1.1%多い32.8%を得票したのであった。誰の目にも既に朴政権から民心が離れていた事を確認できる事態となっていた。それでも次々と起こる様々な民主化要求に対して朴政権は「北との対峙」と「韓国を共産化させることは出来ない」を理由に国政の安定を訴える事と弾圧を持って対応する以外に選択の余地は無いとの考えを強調するのみであった。しかし既に国民にとっては「北との対峙」は民主化要求の旗を降ろす理由として受け容れる事の出来る理由となりえるものではなかった。結局、民主化要求とそれに対する政権による弾圧は1979年10月26日に朴正煕大統領が現職中央情報部長である金載圭(キムジェギュ)によって暗殺されるまで繰り返されたのであった。しかし、皮肉にもこの暗殺事件によって維新体制も崩壊する結果となった。

66.再び起きた軍事クーデター

5・17クーデター(1980年)

朴正煕(パクチョングヒ)が1961年5月16日のクーデターにより政権を奪って以来、何と18年もの長きに渡り独裁を行った。しかしその終焉は突然に訪れた。1979年10月26日の夜、自身の右腕とされた金載圭(キムジェギュ)中央情報部長に依って暗殺されたのだった。突然の事件に翌日の午前4時には全国に非常戒厳令が宣布され崔圭夏(チェギュハ)国務総理が大統領代行となり、暫く後に統一主催国民会議の補欠選挙で第10代の大統領に選出された。政権維持の為にあらゆる緊急措置を乱発し国民の民主化要求を排除し続けた維新体制は思わぬ形で呆気なく幕を閉じ、改めて国民は祖国の民主化を夢見る様になるのであった。新政府もこうした国民の期待に答えるかの様に収監されていた多くの民主化運動家を釈放させた。また、この暗殺事件の真相解明に関する捜査も行われたが最終的に金載圭の単独犯行として結論付けられた。維新政府の孤立化を憂慮したアメリカの関連説など様々な説が流れたりもしたが謎が残されたままとなっている。

全斗煥のクーデター

朴大統領の暗殺を金載圭の単独犯行であると明らかにした保安司令官の全斗煥(チョンドゥファン)が更なる衝撃をも取らす。12月12日夕刻、大統領の裁可も受けないまま戒厳司令官の鄭昇和(チョングスングファ)陸軍参謀総長を強制的に連行したのだった。鄭昇和連行の理由は朴大統領暗殺事件に関与したと疑いとされ、連行の過程では双方の軍人間で銃撃戦まで起こった。これは全斗煥を中心とした陸軍内部のグループが陸軍参謀長官を武力で追いやった下克上的軍事反乱と言えた。その後も不法に軍隊を動員して中央官庁と国防部など主要機関を掌握した全斗煥とそのグループは陸軍内部の自身等に反対する勢力を次々と排除した。このグループの主要メンバーには、保安司令官の全斗煥少将、第1軍団長の黄永時(ファングヨングシ)中将、首都軍団長の車圭憲(チャギュホン)中将、国防部軍需次官補の兪学聖(ユハクセング)、陸軍第9支団長の盧泰愚(ノテウ)など多くの陸軍軍人が含まれていた。こうして起こった「12・12クーデター」は翌日の午前4時には終結したのだが、これは未だ序章に過ぎなかった。単なる軍内部の主導権争いにとどめずに政治にまで介入し光州事件のような悲劇を引き起こし、最後は大統領を目指す事になるのだった。

非常戒厳の宣布

維新体制の崩壊で本当の民主化を夢見た多くの国民たちは全斗煥が軍事独裁の路線に立とうとすると、再び民主化を唱えつつデモを始める。1980年5月14日早朝、ソウルの27大学の総学生会の代表たちは街頭デモを行なう事を決め、14日と15日ソウル市内に集まり“非常戒厳撤廃”“ 全斗煥の退陣”“言論の自由の保障”などを求めてデモを行なった。こうした中、新軍部勢力は国民の支持が期待したとおりに得られず平和的な政権掌握が難しい時に備えて各部隊に訓練強化を指示して緻密に計画を進めた。翌日の5月17日午前10時、国防部では軍事クーデターに向け最後の会議が開かれる。会議の中で盧泰愚首都参謀司令官はクーデターを正当化する目的を込め「・・・国民は政治不信を続き、学校では不正不主義者がはびこり企業では窮状を訴えている。我々が政府を助けなければならない時が来た。祖国の難局にあたり軍が貢献する事を建議する。」こうしてクーデターに向けて決議が成されると、先ず最初に非常戒厳拡大措置を決めると、その日の内に全国に宣布された。

更に、金大中(キムデジュング)・文益煥(ムンイックァン)などは社会騒乱助成者として、金鐘泌(キムジョングピル)、李厚洛(イフラク)などを権力型不正蓄財者として連行し、金永三は自宅に軟禁された。また、全国の学生の反発に備えてソウルを始めとし釜山、光州、大邱、全州、大田などに軍隊を投入した。非常戒厳の拡大と共に戒厳布告令10号を発表し①全てのすべての政治活動の中止、②大学の休学、③各種集会及びデモの禁止、④前・現職国家元首への誹謗の禁止、⑤企業におけるストライキの禁止、⑥事前検閲などを命じたが、こうした布告そのものが朴政権時代のものと非常に類似していた。そして、この布告により新軍部は光州事件などの民主化運動を流血によって強行に弾圧したりした。

一方、朴正煕を暗殺した金載圭(キムジェギュ)は、事件翌年の1980年5月20日に死刑判決を受けると再審請求を行なった。にも拘らず新軍部は金載圭を5月24日にいきなり処刑してしまう。
これにより、朴正煕暗殺事件は永遠に真相が明らかにされないまま闇の中に葬られる事となった。

立法・行政・司法の三権を掌握した新軍部は全斗煥大統領を誕生させようとする作業に入ると、まず三権が集中する国家保衛非常対策委員会を設けると全斗煥を常任委員長に選出し、彼の周辺の人物たちも委員となった。その一方で全斗煥に崔圭夏大統領に辞任を求めた。実質的な権力をすでに失っていた崔圭夏大統領は8月16日に声明を発表して辞職した。全ての準備を終えた全斗煥は8月27日に維新独裁の遺物である統一主体国民会議の開催を通して大統領となり、国民の投票を得ぬままに9月1日に第11代大統領に就任する。

67.果かなく消えた民主化の夢

光州民衆抗争(1980年)

朴正煕(パクチョングヒ)の暗殺後、今度こそはと国民が夢見た民主化は12・12事態と5.17クーデターで再び挫折する事となる。不法に軍隊を動員し中央庁と国防部など掌握した全斗煥(チョンドゥファン)等は、非常戒厳の拡大を宣布すると間髪をいれず釜山・大邱・光州・全州・大田など全国の主要都市にまで軍隊を投入した。これにより真っ先に犠牲となったのは全羅南道・光州であった。光州もやはり他の都市と同様に民主化運動が活発に進められた地域の一つであった。光州はもともと市民間の結束で強く、また金大中(キムデジュング)の政治拠点であった為に従来の政権に対する反発心が非常に強かった。こうした特徴の為に新軍部は光州地域に彼らの核心部隊である第7空挺旅団の第33大隊と第35大隊を配置した。5月17日の深夜の内に全南大学に到着した33大隊は大学内に残っていた50余名の学生を有無を言わさず逮捕し、殴打した後に衣服を脱がせて一晩中、廊下に座らせた。彼らの殆どが図書館で国家試験の準備をしていた学生たちでデモとは全く無関係の法学部の学生たちであった。次の日の朝になると、前日に出た休校令を知らずに登校してきた学生は校門を守っていた軍人たちに理由も無く、無差別に殴り倒される事となった。一方、光州地区の各大学の総学生会では休校令が出た場合は午前10時に学校の正門前に集結して闘争を展開する事を確認していた。これに従い10時になると全南大学の正門の前には200名余りの学生たちが集まった。学生たちは“非常戒厳の解除”“空挺部隊の撤退”などを唱えてデモを始めた。学生たちの行動を待っていた空挺部隊は学生たちのデモが始まると、素早く駆け寄り無防備な学生を棍棒と銃剣で攻撃し無慈悲に鎮圧を始め、学生たちは次々と路上に倒れていくのであった。これと時を同じくして、朝鮮大学、全南医大、光州教育大でも同様の状況が繰り広げられた。

無法地帯となった光州

午後3時30分、銃剣で武装した空挺部隊が厳粛な姿で全羅南道道庁に向っていた。道庁の前の横断歩道にまで迫った空挺部隊は丁度観閲にでも望むかのようにそのまま留まっていた。軍事介入の事実を知らない市民たちは何事かと軍人たちを眺めていた。午後4時になり軍人たちの後に続いていた車両のスピーカーから、「路上にいる市民の皆さん、速く家に戻りなさい。速く戻りなさい。」との声が響き渡った。しかし本当に驚いたのはその1分後であった。同じスピーカーから今度は「路上にいる者を全て逮捕しろ!」との命令であった。この一言で、6・25(朝鮮戦争)以降の韓国現代史で最も痛ましい結果となった光州民衆抗争が始まるのだった。

命令を受けた軍人たちは直ちに路上にいる市民の逮捕を始めた。青年たちはデモをしようとした者も、見物をしていた者も関係なく逮捕され、衣服を剥ぎ取られひざまずかされた。反抗するものには更に慈悲の無い暴力が見舞われた。空挺部隊の無差別鎮圧に反感を感じて興奮した光州市民たちは次第にデモ隊に加担する様になった。
すると軍人たちの銃剣は市民に向かって振り回され、想像もできないようなあらゆる蛮行が繰り広げられることとなった。路傍で女性を小突き回したかと思えば、デモと何の関係の無い人を軍靴で踏み付け、棍棒で叩きのめして血だらけにさせ、人を犬や豚の様に扱った。この様な空挺部隊の行動はデモを鎮圧するというより虐殺劇を繰り広げている様であった。光州がこうしている時、ソウルの空挺部隊では光州地域に向けて4個大隊が更に増派されることが決められた。この様な決定が成された事は、デモが他の地域にまで広がることを防ぎながら、自身らの集権計画の妨げとなる勢力を無条件で排除しようとするという二つの意味があった。こうして一瞬の内に光州は血生臭い戦場と変わり、軍人たちは血に飢えた狼の群れの様にデモに加わるものは勿論、それを見物するものたちまでも容赦なく攻撃した。更には彼らを避けて逃げる者たちを追撃し最後は犬を引きずる様に無理やり軍用トラックに積み込んだ。こうした軍人たちの鎮圧に光州民衆抗争は自発的な大衆闘争から武装抗争へとその姿を変えていくのだった。戒厳本部では5月20日に空挺旅団5大隊が光州へ到着するが22日にも更に増派が決定された。

5月20日、運送労働者が200台余りの車で光州市内で車両デモを行なうと市民たちは更に熱狂的にデモ隊を支持する様になる。すると今度は、軍隊が市民に向けて発砲する様になるのだった。発砲もまた無差別に行なわれ、甚だしくは妊産婦までが銃弾に倒れる事態となった。この様な中で光州市民たちは自分たちも武装する必要性を感じ、光州近隣地域で武器を揃え5月21日“市民軍”を組織した。中・高生から老人まで男女を問わずデモに参加していった。青年たちは車の上に上がり戒厳軍に対抗しながら道庁に向かい、女性たちは食事を提供するなどの支援をした。数万人に達した市民たちが道庁を取り囲むと軍人たちの鎮圧行為はたじぎ、夜になると暗闇にまぎれて道庁を抜け出して行った。翌日の光州は久しぶりに静かな朝を迎えることとなった。市民たちは収拾委員会を作って事態の収拾にあたった。収拾委員会では武装解除についての意見が分かれ数度に渡り市民決起大会を持ったが、結局は闘争を続ける意見が採用され武装組織が再編成された。

これに対し新軍部ではデモに対する対応が消極的であったとの判断から指揮官を交代させ再び光州の鎮圧に乗り出すことを決め、5月26日には改めて2万の戒厳軍が派遣され戦車を先頭に立て鎮圧に動いた。翌、5月27日午前3時に戒厳軍は大々的な攻撃を始め多くの若者たちが祖国民主化を願ったまま消えていった。10日間に及び光州民衆抗争はこうして幕を下ろした。鎮圧までの過程で多くの光州市民が死亡・負傷し、その正確な数字は現在までも不明のままであるが、1985年の政府発表に依れば、死亡者191名、重傷者122名、軽症者730名となっている。

金大中内乱陰謀(1980年)

一方、5・17クーデターの起きた前日にあたる1980年5月16日に進軍部により強制連行された金大中は軍法会議にかけられる。彼の罪名は国家保安法違反、反共法違反、内乱予備陰謀、戒厳布国令違反などであったが、こうした事実は7月4日に戒厳本部に依って次の様に国民に知らされた。
「金大中は10・26事態(朴正煕暗殺事件)の発生が自身の政治的立場を浮揚させる絶好の機会到来と確信し、新民党(当時の野党)への復党を通して大衆扇動により政権を奪取しようとする非合法的闘争を推進した。しかし、新民党内の勢力において自身の劣勢が分かると、思い通りの政権作りが難しいことを悟った。そこで金大中は新民党と決別し、私的な組織の勢力拡大と扇動操縦の為に暴力的極限状況を誘発する事で現政府を転覆させることだけが思い通りの政権作りの道であると確信するに至った。金大中は以上の様な動機のもとで、学生扇動、大衆糾合、民衆蜂起、政権転覆を闘争目標にして手段と方法を選ばず非合法的闘争を追及し、遂には内乱扇動にまで至ったものである。」

しかし、戒厳本部が明らかにした内乱陰謀は前後の辻褄が合っておらず、特に光州民主化運動を背後から操縦したという部分は事実と大きく違った。光州民主化運動は事前に計画されたものではなく、全斗煥が5・17クーデターの反発を懸念して光州に空挺部隊を投入した事で発生したものであった。しかしこれにより1980年9月17日、陸軍普通軍法会議は金大中に死刑判決を下した。金大中はこれに不服を表明し、11月3日に高等軍法会議に抗訴したが棄却され、その後再び大法院(最高裁)に上告したが1981年12月23日に大法院でも棄却された。これにより死刑が確定することとなったが、全斗煥はこの時になって金大中の刑を無期に減刑することを決める。また、その後も1982年3月3日に20年に減刑、同年12月には刑の執行停止を決めて釈放する。その後、金大中は病気療養を理由にアメリカに渡り、2年3ヶ月間の実質的な政治亡命を続けるが1985年2月に帰国する。

68.全斗煥大統領の第5共和国

第5共和国

崔圭夏(チェギュハ)大統領の辞任を迫った全斗煥(チョンドゥファン)は自ら描いた筋書きの通り統一主体国民会議で第11代大統領に選出されたが、全斗煥の目指した政権は朴正煕(パクチョングヒ)時代の維新体制をそのまま継承しようとするものであった。全斗煥政権は社会浄化の名の下に自身等に協力しない企業などは不良企業と決め付け整理の対象(融資を止めてしまうなど)とし、言論界に対しては弾圧を目的とした言論統廃合を断行した。また、前科のある者などを三清教育隊に集めて浄化訓練をさせるなどした。こうした全斗煥政権の強権に企業家たちは勿論のこと一般市民たちも自らはその犠牲になるまいと声を潜めつつ、もどかしい日々を送るのだった。この内の三清教育とは一般人を対象としたものであったが非常に些細な過ち(路上につばを吐いたり、ごみを捨てるなどの行為)をした者までもが対象となり三清教育隊に送られ過酷で悲惨な待遇を受けることとなった。

1980年9月29日、第5共和国の基礎となる改正憲法が公告され10月27日に公布されたが、改正憲法は朴正煕政権の維新憲法をそのまま引き継いだものだった。新しい憲法が維新憲法と違ったのは“大統領は大統領選挙人団によって選出され、その任期は7年で重任することは出来ない”という点であった。全斗煥は憲法の付則第4条に“この憲法施行当時の大統領の任期はこの憲法により最初の大統領が選出された事と同時に重要である”との条項を加えて自身の単任の意思を強調した。同じ年の11月、ある程度の政権基盤を整えた全斗煥は政治革新法で政治活動を規制していた政治家301名の内の15名に対し政治活動の再開を認めた。これ機に1981年1月15日、全斗煥を中心とした民主正義党(民正党)が創党され、17日は民主韓国党(民韓党)、20日には民主社会党(民社党)が23日には韓国国民党(国民党)がなど多くの政党が創党された。これらの政党の創党に合わせて1月24日に戒厳令が全面解除され、3月3日には全斗煥が第12代大統領に正式に就任して第5共和国政権がスタートしたのだった。

更にその数日後の25日は第11回国会議員選挙が実施され、各政党は民正党60議席、民韓党57議席、国民党18議席、その他無所属など16議席の議席を獲得した。表向きは民正党を除く野党が多数を占めたように見えたが、民韓党が全斗煥大統領への協力姿勢をとったことで大統領の政治運営には何ら支障が無かった。
この結果、国会運営上では全斗煥大統領による安定政権が始まったのだが、民主化を望む学生たちの叫びはこれまで以上に熱いものとなり大学周辺ではデモが続いた。1984年2月25日いなると、全斗煥は202名の政治家を解禁したが金大中(キムデジュング)、金永三(キムヨングサム)、金鐘泌(キムジョングピル)などは引き続き許されないままであった。この政治家の解禁を契機に政界は、また予想しなかった別の動きを見せ始める。

新民党創党(1985年)

1984年5月18日、野党と在野勢力が中心となり民主化推進協議会(民推協)が発足する。民推協その自体は政党ではなく全斗煥政権に対抗する民主化運動を展開することを目的に作られた政治団体であった。民推協は金大中と金永三を共同議長に選出したが(金永三は議長に就任、金大中はアメリカ滞在を続けた為に帰国後に正式就任)、すぐには大きな活動は出来ないままであった。しかし、第12代国会議員選挙が翌年の1985年2月12日に確定すると民推協は新たな野党勢力の結集を目指すようになり、選挙直前の1月18日に新韓民主党(新民党)を創党する。選挙投票日の25日前に作られた新民党であったが結果は予想外のものとなった。選挙の結果は民正党87議席、新民党50議席、民韓党26議席、その他無所属など21議席で新民党が第1野党となったのだった。予想外に新民党が躍進すると民韓党の議員たちが一人二人と新民党に入党することを希望する様になり、結局は民韓党そのものが新民党に合党する事となった。これを見てその他の党からも新民党に入党する者も出て、新民党は78議席を占める事となった。

国会が始まると大きな勢力となった新民党は憲法改正を主張し、金大中、金永三などの赦免復権と政治犯の釈放を唱え始めた。これに全斗煥政権はやむを得ず3月6日に金大中など14名に対し解禁措置を行なった。本格的に与党との対立を始めた野党は更に、現行憲法が維新体制時と同様に間接選挙であることを挙げ、直接選挙に改めるべきであると改憲論を主張するようになった。これに民正党は現行憲法が平和的政権交代の為の最善の憲法であるとし、現憲法守護論を主張して与野党が正面から対立をするようになる。1986年に入ると民推協と新民党の間で1千万改憲署名運動の推進が合意され2月からは本格的な署名運動が繰り広げられた。全斗煥政権はこの運動を成功させまいとあらゆる手段を以って嫌がらせを行なう。例えば新民党の党本部を強制的に捜索したり、民推協の幹事長と総務局長を集会法違反で在宅起訴するなどしたが署名運動は順調に展開されていった。新民党と民推協が在野勢力へも活動の呼びかけを行い改憲論に拍車を加えると、民正党はその機先を制するかの様に3月8日に党中央委員会の定期総会を開き89年改憲を決定すると憲法改正は政府が主導しなければならないと主張した。5月29日、盧泰愚(ノテウ)民正党代表は野党に呼びかけ6月に臨時国会を開き憲法改正に関する議論をすることを提案した。8月8日には新民党などの野党が大統領直選制を主要骨子とした憲法改正案を国会に提出したが、民正党は内閣責任制論を主張して大統領中心制の憲法を“亡国憲法”とまで決め付けた。民正党の本心としては何としてもこの議論をうやむやのまま結論を出すまいとするものであった。その後も与野党の双方が改憲に関して自らの主張を繰り返すのだが、1987年4月13日になると全斗煥大統領は4・13護憲措置を発表して改憲論争に水を浴びせる。自身の任期中には改憲は行なわないと宣言したのだった。

69.全斗煥から盧泰愚への政権移行

6・29宣言(1987年)=大統領直接選挙へ

全斗煥(チョンドゥファン)大統領がその任期を僅かに残して発表した4・13護憲措置は大統領直接選挙を望む全ての国民を驚かせるものと言えた。多くの社会団体や知識人たちが時局という面からも、国民の声を聞くべき政治家の良心という面からも護憲措置の撤廃と改憲議論の再開を唱えていた。これに学生たちは“護憲措置撤廃”“独裁打倒”を訴えデモを始めた。更に呼応するかの様に5月27日には、キリスト教会、仏教界などの宗教団体、在野民主勢力、労働界、学生運動の代表、そして新たに創党された民主党などが協力して民主憲法争取国民運動本部を結成した。国民運動本部は第5共和国(全斗煥政権)が引き起こした様々な事件の正しい真相究明と自由言論の争取などの為の全国民的運動の展開を宣言した。こうした最中の6月9日、延世大学では校内デモが行なわれた。学生たちと、これを排除しようとする戦闘警察の間では投石と火炎瓶そして催涙弾が飛び交った。しかしこの時、突然一人の学生が頭から血を流しながら倒れ込んだ。戦闘警察の放った催涙弾が直接頭に当たってのことだった。この事件をきっかけにして学生たちのデモは更に激しさを増し、国民運動本部も改憲を求めて本格的に活動に入っていった。これに対して検察は国民運動本部の捜査に着手し多くの幹部たちを集示法(集会とデモを取締る法律)に違反するとして次々に逮捕する対抗手段をとった。国民運動本部はそれでも萎縮することなく、26日には午後6時を期して全国の37都市で国民平和大行進を行なうことを発表する。こうした動きを何とか鎮静化したい全斗煥大統領は23日から26日にかけて、尹譜善(ユンボソン)・崔圭夏(チェギュハ)の大統領経験者を始め野党党首や宗教界首脳など次々に会談し事態の収拾を模索したが結論を見出せないまま大行進の時を迎えることとなる。結局、大行進は予定通り実施された。参加者たちは国民の熱い支持を受け、ソウルで25万名、光州で20万名、釜山で5万名など全国で100万名が参加した6月民主化抗争中の最大規模の示威行動となった。

これに慌てた与党であったが、それ以上は何の手を打つことも出来ずに6月29日になって与党・民正党の次期大統領候補に決まっていた盧泰愚から要求を受け容れる旨の6・29宣言が発表され、大統領直選制の受容と大統領選挙法の改正、金大中の赦免復権、地方自治制の実施などを約束した。7月9日になると、6・29宣言の発表どおり金大中を含めた2,335名の政治犯の赦免復権が成され、その翌日に6・29宣言を大統領として反対しないという意思表示の意味で全斗煥大統領は民正党総裁職を辞職した。これにより韓国憲政史上初めて与野党合意による大統領直選制にへの改憲案を準備し国会を通過させた上で、国民投票を行なって第13代大統領選挙は1987年12月16日と確定した。この時の選挙結果は、民正党の盧泰愚が1位、民主党の金永三が2位、平民党の金大中が3位だった。しかし、大統領選挙の翌年4月26日に実施された第13代国会議員選挙の結果は当初の予想とは違い野党が勝利し、盧泰愚新大統領は就任後の間も無くして少数与党を余儀なくされることとなった。こうして国会での発言権を強めた野党は、ソウルオリンピックの終了を期して国政監査権を行使して全斗煥前大統領時代の不正を調査し始める。国会における聴聞会などによってその不正が少しづつ明らかにされていくと、学生を始め多くの国民が改めて全斗煥前大統領と与党を激しく批判するようになった。11月23日、全斗煥大統領は退任後9ヶ月ぶりに姿を現し国民に向って謝罪を行なった。しかし、この謝罪には国民が最も関心を持っていた光州民主化運動と大統領時代の多くの不正事実については触れられなかった。その上で、自身の財産を23億ウォンと評価し、政治資金139億ウォンは緊要時のための資金として与党総裁として使用したものだと明かし、残資金は国家が管理してほしいと要請した。この謝罪の後、全斗煥前大統領は李順子夫人を伴って江原道の寺へ向って隠遁生活を始める。そこで1年余り過ごした1989年12月30日、全斗煥は国会での証言を求められて証言台に立ったのだが、ここでもやはり多くを否認する。更にその1年後の1990年10月、李順子夫人が回顧文を発表するが“全ては自らの過ち”としながらも、“人に情を掛けると悪意で返し、獣に情を掛けると恩で返す”との意味深な言葉を残すのだった。

3党合同(1990年)

盧泰愚大統領は大統領就任後の国会議員選挙の結果から少数与党となったことで打開策を講じることを余儀なくされた。先ず1988年9月、ソウルオリンピック開催を目前にしてオリンピック公園に与野4党の代表を招待したことで始まった。表面的にはオリンピックの開催に当たって競技施設の完成を祝う為としたが、大統領の本当の目的は野党との協調策を探る為であった。そして盧泰愚大統領は統一民主党の金永三総裁に“共に大業を成そう、その為に深く話をしたい”と誘うと、金永三総裁は“考えさせてほしい”と答え、盧泰愚大統領は金永三総裁のこの言葉に可能性を感じるのだった。盧泰愚大統領は改めて金永三総裁、平民党の金大中総裁、共和党の金鐘泌総裁へ使者を送り政党連合を提案した。この結果、金永三総裁と金鐘泌総裁は提案を受け入れる姿勢を見せ、金大中総裁は“今は難しい”と拒絶する意を表した。そして1990年1月22日に3党は合同する。合同後の政党名を民主自由党(民自党)とし、統合の理由を“4・26選挙の国民の意思に従うもの”とした。民自党の代表最高議員となった金永三は3党合意を“救国的次元”であると発言したが、この事が国政での更なる地域感情の対立という副産物を生むことともなった。

70.成功したクーデターの終末

文民政府の出帆(1993年)

第13代・盧泰愚(ノテウ)大統領は5年の任期を数ヶ月ほど残した1992年9月18日、次の第14代大統領選挙において自身が中立を守るとの立場を明確にするとして民自党の名誉総裁職を辞し党籍も離れると表明した。その後、10月2日に金永三(キムヨングサム)民自党総裁、5日には金大中(キムデジュング)民主党代表、6日には鄭周永(チョングジュヨング)国民党代表と個別会談を持った。その後、自らの姿勢を更に明確にしようと中立内閣と銘打った内閣改造を行なった。中立内閣によって官権による選挙への介入を認めない環境整備を促したと国民にアピールし多くの国民から好感を得ようとするものだった。第14代の大統領候補者としては金永三、金大中、鄭周永と外に4名の合計7名が立候補したが先に挙げた3名から当選者が決まることは誰の目からも明らかであった。こうして行われた12月18日の選挙の投票結果は民自党の金永三が勝利となった。総投票率は81.9%で国民の関心の高さを物語る高投票率となったが、その内の42%が金永三を選び、次点の金大中は33.8%、鄭周永は16.3%という得票率となった。選挙の結果が出ると金大中は政界引退を宣言した。

翌年の1993年2月25日、大統領に就任した金永三は自身の就任によって1961年以来、朴正煕、全斗煥、盧泰愚(3人とも陸軍士官学校出の軍人出身)と32年間続いた軍部政府に終止符を打ち、軍隊出身ではない自身の政府は文民政府であり新しい政治が始まると宣言するのだった。この時の選挙は国外でも大きな関心を呼び、アメリカのウォールストリートジャーナル紙は金永三の大統領就任直後の記事で、“この選挙で韓国は民主的で平和的な政権交代が成し遂げたが、この様な成功がアメリカが困難な状況にも拘らず国際問題に介入する理由であり・・・・、韓国こそが共産主義侵略の防波堤となり繁栄に導くことでアメリカの介入が輝かしく結実した事例となる”との社説を出すなど、対外的にも良好な評価を得てのスタートとなった。金永三大統領は就任した最初の日、それまで一般市民が立ち入りが禁止されていた青瓦台前の道路を開放したが、これには開かれた政治姿勢を主張しようとする狙いがあった。また、軍事政権下で歪曲された歴史の再評価を行い4・19義挙は4・19革命に格上げ評価し、金永三政府は光州民主化運動と6月抗争の延長線上で誕生したものとした。政権初期の金永三大統領は新韓国建設をキャッチフレーズに掲げ清潔な国家、正義の社会の建設を目指すことを表明した。この様な金永三大統領の意志が国会議員の「個人財産公開」へとつながって行くのだが、思わぬ形で国を揺るがす事態の始まりとなっていく。大統領の意に反して財産公開によって多くの政治家たちが恥部をさらけ出すこととなり、内閣の長官に任命された者の中には就任後僅か1ヶ月で更迭される者も出るなど様々な理由で1年も経たない内に更迭された長官は12名に達した。

失敗した改革・金融実名制

金永三大統領が就任して5ヶ月が過ぎた8月12日、ひときわ人々を驚かせる発表がなされれた。預金や株式・不動産など個人の財産名義を架空名義や第三者名義で所有することを禁じる金融実名制の実施を発表したのだった。就任当初より秘密裏に作業チームが組織され準備された金融実名制は金永三大統領の最終指令を受け最終調整がなされ、大統領は“改革中の改革”と言って自画自賛した。しかし、金融実名制の実施により後に自身の次男が逮捕される契機ともなったりもした。韓国で金融実名制が論じられるようになったのは1982年に起こった巨額手形詐欺事件からであった。この事件では架空名義や全く関係の無い第三者名義の口座が犯罪に利用されたことが明らかになり金融実名制の実施が提起されたが、この時は様々な意見が出る中で結局は実施が保留となっていた。1989年にも再び提起され実施直前まで論議されたが1990年に実施が見送られていた。こうして金融実名制が論じられては2度までも実施が見送られたのは、富裕層を中心に実施に反対する者達の多さを物語るものであった。こうしたことから金永三大統領は政府内でも、ごく一部の者たちだけによって秘密裏に準備し奇襲的に発表したのだった。金融地下経済を根絶しようとの意欲を持って発表した政府の金融実名制だったが、現実には然程の成果をもたらすことが無かった。租税の公平性も経済的正義の実現も成すことができないまま、却って経済の停滞を招く一因ともなり、韓国経済をIMFからの金融支援を受けざるを得ない程の状態に陥らせてしまうのだった。

前職大統領たちの秘密資金疑獄

1995年10月19日、国会質疑の中である事件が表面化することとなる。政界における秘密資金問題である。これまでも政治家たちの秘密資金問題は取り沙汰されて来たことではあったが、明確な証拠が出ずに曖昧なまま消えていく事が多かった。しかし、この時の国会質疑では決して逃れることの出来ない具体的な証拠を持っての問題提起となった。質疑が行われた3日前の10月16日、ある者が出身校が同じとの縁を頼って野党議員を訊ねて自身の窮状を訴えた。その内容は新韓銀行西小門支店(ソウル市中区)の前支店長の求めで名前を貸したのだが7億ウォンもの高額の税金が掛けられたという相談であった。この野党議員はこの相談者の金庫照会表を調べ、その名前を根拠にこの口座が盧泰愚(ノテウ)前大統領の秘密資金であることを暴露した。また、この課税の根拠となった“新韓銀行西小門支店の300億ウォンの預金口座は盧泰愚前大統領が使って残った統治資金(国費)の一部”という前大統領警護室長の発言とも相容れる内容であり、盧泰愚秘密資金事件の決定的な証拠となった。その後、続々と明らかにされた盧泰愚前大統領の秘密資金の総額が数千億台にまでなるや、盧泰愚は事実を認めて国民に対して謝罪し、11月16日に検察は盧泰愚を逮捕収監した。また、これとは別に金永三大統領は11月24日に過去の5・18特別法の制定を指示して12・12と5・18(全斗煥らのクーデター)に関する特別捜査本部を発足させ、クーデターの違法性を法律によって裁く意思を表明した。これを受け12月2日、全斗煥元大統領は国民に対して謝罪し自身の逮捕を避けるかの様に故郷に身を潜めるが検察によって逮捕される。

1996年8月26日、過去のクーデターに関する一連の捜査を終えたソウル地裁法廷で全斗煥、盧泰愚を始めとする16名の被告たちに対して判決文が詠み上がられた。“被告人全斗煥は死刑”から始まった判決文の朗読は何と2時間にも及んだ。こうして成功したはずのクーデターも裁判にかけられることを国民に知らしめ、金永三大統領は“歴史を正す”と言って、全斗煥、盧泰愚の二人の前大統領を断罪に処したのだった。しかし、その後二人は1998年の大統領選挙を前に恩赦によって赦免される。

71.初めての政権交代

金大中大統領の国民の政府(1998年)

1997年12月19日、第15代大統領選挙が行われ金大中(キムデジュング)候補がハンナラ党の李会昌(イフェチャング)候補などを破り当選を決める。この時の選挙は政権交代の可能性が高い事で国際的にも注目を集めるものであったが国民は変革を選択する結果となった。これにより大韓民国の建国以来50年を経て、初めて与野党の政権交代が実現することとなった。当選が決まった金大中は“南北間交流と協力の為に南北基本合意書に明示された特使の交換を再開し、必要に応じて南北首脳会談を行うことを正式に提議する”と表明した。また、IMF協約については“私たちはIFMと積極的に協力し、IFMと現政府(前政権)が合意した事項は忠実に守る”と語った。これ以外にも“大統領としてあらゆる差別を一掃し二度と差別による地域間の対立と葛藤が起こる事の無いようにする”と表明した。また、金大中候補の当選の要因に“昨日の敵”たちを包容したことが挙げられる。野党の立場だけを通してきた金大中はこれまで自身とは立場を異としてきた、朴正煕(パクチョングヒ)大統領時代に国務総理などを務めた金鐘泌(キムジョングピル)や、全斗煥(チョンドゥファン)大統領の右腕と言われた朴泰俊(パクテジュン)から支持を得るなど従来の保守層への支持の浸透に努力した。こうして長い間の政治的弾圧と逆境に打ち勝ち、政権交代を遂げ第15代・金大中大統領が誕生した。

IFM金融危機の克服

金大中大統領が就任後、最優先で取り組まなければならなかった課題は金永三政権末期に起こった金融危機の克服であった。国際金融政策の失敗からIMFから資金支援を受けた韓国にとっては、この克服が国家としての威信の回復に直結していた。先ず、政府は外国人投資家への規制緩和、IT育成策、整理解雇制の導入など断行した。また、政府のこうした危機意識に多くの国民も理解と協力の意思を示して、金など貴金属の供出運動が起こった。これは、IMFからの支援金の返済に国民一人一人が協力して国難を克服しようとする運動であり、各家庭でに埋もれている、金の指輪などを集めて国に供出してIMFへの返済の一部に充てようとするものであった。この時に集められた金は227トンにのぼり、全国民の1割近い350万名の国民が協力し国と国民が協力しての危機打開の努力が続けられた。この結果、支援を受けた2年後には経済指標上で成長・物価・経済指数などで金融危機以前の水準を回復した。こうして2000年12月4日、金大中大統領はIMF危機からの克服を公式に発表した。当初の予定を1年以上前倒ししての克服宣言であった。

6・15南北首脳会談とノーベル平和賞

就任当初より南北間の交流を唱えていた金大中大統領は2000年6月13日から15日までの3日間、自ら平壌を訪問し金正日(キムジョングイル)国防委員長との首脳会談を行うことを決める。1948年の大韓民国建国以来、常に対立関係を続けてきた南北の首脳会談は国際的にも大きな注目を受ける所となった。6月13日、金大中大統領を乗せてソウルを飛び立った専用機は平壌に向かい、これを平壌空港で金正日国防委員長が出迎えることとなった。南北分断55年にして初めて会った南北の首脳は、この会談の成果を6月15日に5項目の六一五南北共同宣言として公式発表する。

 1.南北の統一問題はその当事者である我々民族間で力を合わせて自主的に解決することとする。
 2.南北統一に関する南側の連合提案と北側の連邦制案は共通点があると認め、今後はこの方向で統一を志向することとする。
 3.南北は8月15日に離散家族の相互訪問団を交換し、非転向長期囚の問題を解決するなど人道的問題に迅速に対応する。
 4.南北は経済協力を通して民族経済を均衡的に発展させ、社会・文化・体育・保険・環境などの分野の協力と交流を活性化し相互信頼を増進する。
 5.南北は以上の合意事項を迅速に実践に移す為に早期に当局間の対話を開催する。

これ以外にも実際に実現することは無かったが、金正日国防委員長のソウル訪問などに関しても協議された。
平壌で歴史的な南北首脳会談が行われた年のおよそ半年後、また一つ韓国の多くの国民を喜ばせる発表がなされた。金大中大統領へのノーベル平和賞の授与が決まったのである。2000年12月10日、金大中大統領は韓国人として最初のノーベル賞の受賞者とな
った。民主主義と人権の擁護に傾けられた40余年の長い闘争と6・15南北共同宣言へと導き朝鮮半島の緊張緩和に寄与した功績を国際社会から認められノーベル平和賞部門で81番目の受賞者となった。金大中大統領はノーベル賞の授賞式の演説で国際社会が北
の改革・開放へ協力することを要請した。また、この受賞は朝鮮半島問題に対する国際社会の関心を更に高め南北の平和統一を早めることに貢献すると評価された。

72.女性大統領の就任

民主主義の定着
 
2002年12月に行われた第16代の大統領選挙では、金大中大統領の後継者として立候補した盧武鉉(ノムヒョン)が大統領に当選する。盧武鉉大統領は貧しい家庭に育って苦学の末に弁護士となった経歴から庶民感覚を持った大統領と期待されての大統領就任となった。しかし、特に政権後半においては特に経済対策への対応などで批判を浴び、支持を落としたままの寂しい政権運営を余儀なくされた。その後の2007年の第17代大統領選挙ではハンナラ党の李明博(イミョングバク)候補が当選する。李明博候補は日本の大阪生まれで幼い時に韓国に戻った人であり、韓国の財閥系企業で社長を務めるなどの経営手腕を評価され経済政策面での期待を受けての当選となった。また、李明博候補はソウル市長を勤めた際に朝鮮時代からソウルを象徴する河川であり、韓国独立後は長くコンクリートで塞いで道路として使用されていた清渓川(チョングゲチョン)を47年ぶりに本来の河川の姿に戻したことなどが多くの国民の支持へとつながった。李明博大統領の就任により韓国では金大中・盧武鉉政権の後を受け10年ぶりに再び政権交代が行なわれることとなった。しかし、大統領の任期である5年の合間合間に行われる統一地方選挙や国会議員選挙などの結果では常に与野党の優劣が変化する現象が見られ、韓国の政治はその都度で優劣が変化しうる与野党伯仲の時代に入ったと言える。

1948年の大韓民国建国以来、李承晩(イスングマン)・尹譜善(ユンボソン)・朴正煕(パクチョングヒ)・崔圭夏(チェギュハ)・全斗煥(チョンドゥファン)・盧泰愚(ノテウ)・金永三(キムヨングサム)・金大中(キムデジュング)・盧武鉉(ノムヒョン)・李明博(イミョングバク)の各大統領によって国政が担われた。5千年を誇る民族の歴史において初めて経験した36年に及ぶ日本からの植民地支配から解放され、近代国家の建設に向けた歩みであった。初代の大統領となった李承晩の時代は、米ソ冷戦の矢面に立たされて同じ民族である北朝鮮との対立を余儀なくされた。朴正煕・全斗煥による2度の軍事クーデターは多くの批判を受けながらも新たな国家建設の道を開くきっかけとなった。盧泰愚大統領以降は、再任を認めない現憲法の下で大統領の任期は5年とされ、5年ごとの大統領選挙により国民の意思が反映される民主的な選挙制度が定着した。また、1988年のソウルオリンピックや2002年のサッカーワールドカップなどの世界規模の競技大会の開催などは国威発揚を促し、経済的にはOECD(経済協力開発機構)に加盟するなどで国際的な役割を着実に高めた。

韓国最初の女性大統領の就任

2012年12月19日、2000年代に入って3回目の大統領選挙が行われた。選挙は与党セヌリ党の朴槿恵(パククネ)候補と野党である民主統合党の文在寅(ムンジェイン)候補の一騎打ちとなり接戦が予想され、多くの国民の関心が寄せられる選挙となった。この関心の高さは投票率にも現われ、2000年代に行われた3回の大統領選挙の中で最も高い75.8%を記録した。選挙の結果は朴槿恵候補が僅差ながらも、ほぼ全国的に支持を集めて当選し、第18代大統領に就任することが決まった。この朴槿恵候補の当選は3つの点で韓国で初めてのこととなった。その一つ目は女性大統領になるということであり、二つ目は父・朴正煕(パクチョングヒ)大統領と父子2代での大統領となることである。また、1987年の第13代大統領選挙(当選者は盧泰愚候補)以来続いている現行の大統領選挙制度において得票率が51.6%と過半数を超えたことである。一つ目と二つ目は大韓民国建国以来始めての事であり、得票率が50%を超えての当選は現行制度においては初めてのこととなった。

一方、同じく1948年に建国された北の朝鮮民主主義人民共和国は近代における国家としては他国に例を見ない金日成(キムイルソング)・金正日(キムジョングイル)・金正恩(キムジョングウン)による3代に渡る父子による政権移譲を繰り返された。そうした中で国家の経済は疲弊し産業は成り立たずに、多くの餓死者を出し脱北者と呼ばれる国を逃げ出す者たちが今も続出している。それにも拘らず、為政者は核開発や核実験などの示威行為を繰り返し益々国際社会からの孤立を深めている。
2013年2月25日の大統領就任式において、朴槿恵大統領は実の父である故朴正煕大統領によってなされた「漢江の奇跡」と呼ばれた韓国の経済発展を象徴する言葉になぞらえて「第2の漢江の奇跡」を起こすことを国民に誓うのであった。民主的な政権運営を継続する中で経済的安定を図る中での平和的統一が成されることを願うばかりである。

              - 完-


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