高句麗

高句麗建国

「考古学的考証」

 倭国や古代日本国に多大な影響を与えた高句麗文化だが、2004年7月、北朝鮮の「高句麗古墳群」と中国の「高句麗の首都と古墳群」がユネスコ世界遺産に同時に登録された。その登録概要に次のように記されている。

『登録物件概要』中国遺産登録

 古代高句麗王国の首都群と古墳群は、中国の東北地方、渾江流域の遼寧省桓仁市と鴨緑江流域の吉林省集安市に分布する。高句麗は紀元前三世紀に、騎馬民族の扶余族の一集団が北方から遼寧省桓仁市付近に移住し、高句麗で最初の山城を五女山上に築いて都城としたのが始まりと言われる。

 古代高句麗王国の首都群と古墳群は、高句麗初期の山城である五女山城(桓仁市)、平地城である国内城(集安市)、山城である丸都山城(集安市)の3つの都市遺跡と高句麗中・後期の14基の皇族古墳と26基の貴族古墳からなる40基の陵墓群(集安市)が含まれる。

 高句麗の建国は紀元前三世紀。これが考古学的考証などを通じて導き出された建国時期だとされる。さらに、これに関連する論文を紹介しよう。

高句麗考古学の新しい成果』石光濬(社会科学院考古学研究所)

 高句麗建国は紀元前277年である。

 私達は高句麗の遺跡と遺物に対する調査発掘と研究に力を注ぎ、知られているように東明王陵を発掘し、それが高句麗の始祖王陵であることを考証した。そして、なによりも鴨緑江一帯の初期高句麗墳墓群に対する調査発掘と研究を通して高句麗の建国年代を確定したことが、重要な成果の一つであるということができる。

 鴨緑江中流一帯において、高句麗の早い時期の代表的墳墓である積石塚を大々的に調査発掘する過程で、高句麗の建国年代をさらに確定できる遺物が出現した。

 鴨緑江流域一帯の積石塚からは褐色磨研土器、黒色磨土器、灰色土器などの土器類と環頭大刀、合口、槍、鉄斧などの鉄製武器、銅鐸、透彫り文装飾、小釘打ち薄銅版などの青銅器と装飾品が出土し、褐色磨研土器と黒色磨土器は紀元前3世紀の遺物だと認められている。

 このような遺物資料とともに、高句麗に先行する句麗国の代表的な墳墓である五道嶺溝門墓が紀元前5~4世紀の墳墓であるという資料に照らし、その墳墓形式が類似する高句麗の初期積石塚は、遅くとも紀元前3世紀以前から営まれていたと明言することができる。

 上記の二件から、紀元前5世紀から前4世紀の間に墳墓を建造した部族が存在しており、戦国時代には鴨緑江一帯に部族集落を築いていた。おそらく穢系部族連合の貉族(?)だと推察する。そして、戦国時代末期には高句麗最初の山城を五女山上に築いて都城とした。

 高句麗の初期積石塚が紀元前3世紀以前の遺物と判明したことでも、紀元前3世紀頃には首長を頂点とする高句麗の国邑体制が始まっていたことが読み取れる。

『史記』匈奴列伝

 後百有餘年、趙襄子踰句注、而破並代以臨胡貉(貉□?也。音亡格反)。

 百有余年後(紀元前456年)、趙襄子は句注(山の名前)を越え、而して代国をも破り、胡(東胡)と貉に臨んだ(貉とは?なり。亡の発音で反切は格)。

 上記は紀元前456年の趙襄子の事跡を記したもので、ここに明記された「貉」は穢系部族全体を指している可能性もあり、貉を高句麗とは断定できないが、臨むとは「面する、目の前にする」ことであり、貉の領界に達したことを意味している。

 すなわち穢系部族の貉(?)は国土を有する邑落国家を形成していたと考えられ、五道嶺溝門墓が紀元前5世紀から前4世紀の墳墓であるとの考古学上の考証とも合致する。

高麗秘記の予言」

 新唐書と唐会要の高句麗伝には、「高麗秘記」という予言書(既に散逸)に高句麗の命数が記されていたとあるので、下記に紹介する。

『唐会要』高句麗

 乾元三年。李勣攻拔扶餘城。遂與諸軍相會。時侍御史賈言忠充支度遼東軍糧使。還。上問以軍事。(中略) 且臣聞高麗秘記云。不及千年。當有八十老將來滅之。自前漢高麗氏、即有國土。及今九百年矣。李勣年登八十。亦與其記符同。

 乾封三年(668年)、李勣が扶余城を攻略した。諸軍が合流した。侍御史の賈言忠は遼東軍の兵糧を補充し、帰還したので軍事を問うた。(中略)

 言忠は「臣は高麗秘記(の予言)を聞くに、(国の命脈は)千年に及ばず。当年八十歳になる老将軍が来て、これを滅ぼす。前漢高句麗氏の時代より国土を有しており、今、九百年に及びます。(宰相の)李勣は八十歳に登り、高麗秘記の記載に符号します」と言った。

高麗秘記』には、高句麗は建国後九百年で滅亡することが予言されており、侍御史の賈言忠は「今は九百年に及ぶ」と述べている。これを単純に計算すれば(668-900=-232)、すなわち紀元前232年の建国となる。科学とは異質な次元の資料ではあるが、前掲の高句麗建国を紀元前三世紀とする考古学的見地とも合致する。

 ただし、三国史記は新羅王の言葉として「高句麗は始祖の中牟王から八百年」、日本書紀は「高句麗の滅ぶのは七百年の末」としている。

『三国史記』高句麗本紀

 国を高句麗と号したので、高を氏とした。時に朱蒙、年二十二歳。

 孝元帝の建昭二年(前37年)、新羅の始祖の赫居世の二十一年「甲申の歳」なり。

高句麗の建国」

 上記のように三国史記は、朱蒙の建国年を記しているが、なぜか新羅の始祖が併記されている。歴史上に新羅が登場するのは4世紀以降であり、辰韓ならまだしも理解できるが、あまりにも新羅の歴史を古代にもって行こうとする意図が明白すぎると感じる。

 三国史記の著者である金富軾は新羅高麗人で、悠久の歴史を有する高句麗に対抗して、新羅の建国時期を意図的に古代にずらしたことが疑われているが、どうやら辻褄を合わせるために、高句麗の古代史を新しい時代に置き換えたようだ。

 この点について、前掲の?朝鮮奨学会創立百周年記念『古代史シンポジウム』(2000年11月)での発表論文を再度紹介する。

高句麗考古学の新しい成果』石光濬(社会科学院考古学研究所)

「三国史記」や「三国遺事」には高句麗の建国年代が紀元前37年だと記録されているが、これは「三国史記」の筆者である金富軾を始めとする新羅正統派が高句麗の建国年代を意識的にけずり下げてしまったからである。

 高句麗の建国年代を紀元前三世紀初葉とみる根拠はまた、広開土王陵碑に広開土王が鄒牟王(東明王)の十七世孫として記録されていることからもわかる。

「三国史記」高句麗本紀には広開土王が東明王の十二世孫となっているが、広開土王陵碑の記録とは五世代の差が生じている。すわわち「三国史記」高句麗本紀高句麗初期の五世代の王たちが欠落しているのである。高句麗の建国年代は紀元前37年ではなく、秦の始皇帝が中国を統一した紀元前221年より、かなり先んじており、高句麗が建国した「甲申年」は外でもなく紀元前277年であることがわかる。

目覚めよ!日本人。

とあるオッサンの戯言。テキトーに思った事を呟きます。政治・国際状況が多め。 日本は日本人の物である。先人より受け継いだ我が国をより良い形で後世に受け渡すのが我々の責務である。 売国政党・政治家・官僚、また、売国奴に乗っ取られたマスコミや企業を許してはならない。 自分自身ではネット右翼とは思っていません。 保守中道。護国共栄。 マスコミの反日・侮日に踊らされてはいけません。 我が国日本は世界有数の素晴らしい国です。我々臣民は胸を張れ。 日本万歳。 TwitterID Tomoya_Jinguuji


高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。

〔フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕

見ての通り、高句麗と韓国人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、韓国人=朝鮮人ではないのです。 韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは韓国語で「野蛮人」の意味です。韓国人は、「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。

ところが最近の韓国人は、時と場所によって「満州族と韓国人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、韓国人と違う民族だ」と、 言ったりしています。まさに『ご都合主義』です。自分たちの都合により、歴史を捏造し歪曲しているのです。

日本人は倭人の子孫である。
一方、朝鮮人はユウロウ族の子孫である。
この2つの民族は最初から別種なのだ。

高句麗は、夫餘から出た別種である。(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」)高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」)という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる扶余と同じ民族と見られることが多い。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余高句麗との差は歴然としている。但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・?・百済(王族)など朝鮮半島に広く分布していた。

wiki より

上記からも、高句麗はツングース系と確定している。
当然、朝鮮民族ではない。

百済→王族は扶余族、倭人と混血 、
民衆は長江文明の遺臣の弥生人(百越人ともいう)

新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに倭人出自説あり、民衆は弥生人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)

高句麗→ツングース系女真人
高麗→ツングース系女真人
渤海→ツングース系女真人

渤海高句麗の民族的人種的なつながりは
はっきりとはわからないが、
新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国した国ではないか、
とは言われている。
何度も日本に朝貢している。
渤海が滅んだのち、
今度はその遺民が高麗を建国した、
というのがだいたいの流れ。
中国東北部にいた人々が
一時期朝鮮半島に国を作ったとも言えるし、
それが朝鮮人であるとも言える。
朝鮮半島は漢族、倭人、中国東北部族、
モンゴル人等々、種々雑多な人種が入り乱れている。
日本と違って、半島というのはどこでもそういうもの。
いわば人種民族の通り道的な存在。

朝鮮人(高麗族、コリョ族)は中国東北部起源の北の蛮族
「楽浪半島、もしくは東シナ半島」の歴史(中国と日本の歴史)

前1000年頃 殷の廷臣、箕氏(中国人)が周の武王から
      楽浪(半島北部)に封じられる?(周の属国)
      その後、周の凋落で王を称す?

戦国期   編纂されはじめていた地理書「山海経」に
    「楽浪の南に、燕に朝貢する倭がある」旨、記される。
     辰国(半島南部、百越人の国)は倭そのものか?
     百越人(弥生人)とは、失われた長江文明の担い手。
     現在そのDNAは半島、日本、ベトナム以南にしか残されていない。

前195年 秦に滅ぼされた燕からの亡命武将、衛満(中国人)が箕氏楽浪を乗っ取る。
     このころから辰国三韓に分かれはじめる。
     馬韓(後の百済)は百越人の国。秦韓(辰韓、後の新羅)は
     始皇帝から逃れてきた秦民の国。弁韓(後の任那)も秦韓に似る。

前108年 中国皇帝の武帝が衛氏を滅ぼし楽浪郡を設置、植民地とする。

前37年 東胡を祖とするコリョ族(高麗族)が
     中国東北部に高句麗(前高麗)を建国。

2世紀  遼東太守、公孫度が扶余族(穢族からコリョ族と分岐)の王、
     尉仇台に嫁を与え馬韓(後の百済) の王とする。
     先から三韓の王族は全て扶余族となっていた? 倭王も同族?
     新羅三王家のふたつに倭出自伝説が残されている。

3世紀初 公孫康 、曹操の許可を得て楽浪郡南部を帯方郡(後の百済)として設置。

4世紀  晋の八王の乱の混乱に乗じて、高句麗楽浪郡を不当占拠。
     百済新羅が建国。日本を大国と崇め、人質を送る。
     任那も併せ三韓は日本の勢力下にあった。

7世紀  任那百済と順に滅亡、遣隋使と合わせて日本は半島から手を引く。
     新羅高句麗を征伐。統一新羅は中国の属国となり、
     独自の名前と年号を捨て、中国式の名前と年号を使い出す。

918年  新羅滅亡、高麗(後高麗)建国。
     新羅内に雌伏していたコリョ族が国を乗っ取った。

ここまでは、朝鮮人の歴史ではない。

前12世紀~前2世紀の箕子朝鮮
中国人の箕子が建国した中国人国家。
箕子朝鮮を滅ぼして前2世紀~前1世紀の衛氏朝鮮
中国人の衛満が建国した中国人国家。
前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして
朝鮮半島北部に前1世紀~後3世紀に設置した
漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)は中国植民地。
百済高句麗
ツングース系民族の夫余族の国家。
渤海は夫余族と靺鞨の国家。
夫余族と靺鞨は中国・満州族の母体。
秦からの亡命中国人が
前2世紀~4世紀に朝鮮半島南部に
建国したのが辰韓(秦韓)で、
後に12カ国に分裂して、その一つの斯蘆国が新羅
百済高句麗を滅ぼしたのは新羅ではなく唐。
唐は百済高句麗の滅亡後に旧高句麗領を安東都護府、
百済領を熊津都督府、新羅鶏林大都督府として
半島全域を藩属国から
羈縻州(中国国内扱いにした事を指す)にした。
このため一時的に朝鮮に「国」はなくなった。

朝鮮の歴史は半万年ではなく千百年弱

「朝鮮、属国史」の始まり
918年 高麗建国
10世紀 宋に朝貢、契丹(東胡の末)に朝貢。
12世紀 金(女真族、東胡の末)に朝貢。
13世紀 高麗はモンゴルの属国となる。
    劣等感から、一然という僧が檀君神話を捏造し、
    忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す。
14世紀 高麗滅亡、李朝建国。
    李朝は最初から明の冊封国で、国名も中国に決めてもらった。
17世紀 清(女真満州族)に服属、三跪九叩頭の礼に甘んじる。
19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、
    属国の李朝は独立させてもらう。(日本の保護国)
1910年 李完用の要請により日本に併合してもらう。
    李氏朝鮮大韓帝国)滅亡。
1948年 戦後アメリカ軍政庁の統治下にあったが、
    アメリカの後押しで大韓民国が成立。
1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となる。
1991年 ようやく国連加盟、史上初めて世界から独立国家として認められる。 
1993年 韓国、軍事独裁制を脱し、史上初めて独立民主政体となる。

現在 いまだ言論、学問の自由もなく
民主主義とは程遠い国である。北は論外。

======== 偉大な韓国の歴史 ==========
10世紀 長白山が過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こす(リセット)

1010年 「契丹」に侵略される。首都開城が陥落。(キタン人化)
1013年から1019年まで継続して侵略される。   (キタン人化)
12世紀 「女真」の侵入。侵略。「金」に朝貢。   (満洲人化)
1231年 「蒙古」に侵略される。首都開城が陥落。国王江華島に逃亡
     長い間、無抵抗の半島はモンゴル軍に蹂躙される。(モンゴル人化)
1247年 「蒙古」に再侵略される。しばらく蹂躙が続く。 (モンゴル人化)
1258年 雙城総管府を置かれる。翌年、王子を人質に降伏。(モンゴル人化)
     国内には多くの蒙古軍人が駐留。        (モンゴル人化)
1270年 東寧府を置かれる。              (モンゴル人化)
     反対派が済州島に移って徹底抗戦。1273年に鎮圧 (モンゴル人化)
1274年と1281年「元寇」
    (半島人主力で日本侵略。が、全滅(モンゴル人化)
1356年から1362年までの紅巾賊侵入により首都開京が陥落 (シナ人化)
1419年 「応永の外寇」 17000人で対馬を襲撃。船、家を焼き、住民を虐殺する。
     しかし、少数の対馬軍に撃退される。
1592年と1598年 秀吉の「唐入り」 首都漢城が陥落(短期でヤマト化は無理)
1627年 「後金」に侵略される。
    平壌を超え、侵略されるが漢城までは来なかった。
     しかし、国王は江華島に逃亡(満洲人化)
1636年 「清」に侵略される。首都漢城が陥落。
     清軍が、す早く江華島への道を遮断。
     泥濘の中、朝鮮王仁祖は清の太宗に降伏、大清国属国となる。(満洲人化)

「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定
http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/610163/
韓国マイナー観光
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1239/w-18.htm

統一新羅
http://www.memomsg.com/dictionary/D1096/390.html

統一新羅は、676年の朝鮮半島の統一から935年に滅亡するまでの新羅の事を差す。この統一新羅、いわゆる新羅は、現在の韓国、朝鮮両国の共通の先祖の国家の初代といえる。それ以前の国家は民族・言語・文化的につながりが薄い。当然、統一新羅の前身である新羅と統一新羅は連続している。統一の過程で滅んだ、高句麗百済は現在の韓国及び朝鮮とは連続性があまりない。

高句麗は実質的に後継国家として渤海があり、現在の中国東北部に小さく民族移動して国家を再建設している。

東北工程:百済新羅の歴史も「中国史の一部」=中国社科院 『朝鮮日報2007年6月4日』
http://www.chosunonline.com/article/20070604000018

公式研究書に百済新羅の歴史も「中国史の一部」と記述していたことが3日、分かった。

百済に対しては「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」とし、新羅については「唐は(百済が滅亡した)660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」と記述した。

また、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とした。

東北工程・高麗も中国が建てた国『朝鮮日報2007年6月6日』
http://www.chosunonline.com/article/20070606000006  

高麗について、「箕子朝鮮高句麗に続き、中国が朝鮮半島に打ち建てた3番目の政権」と主張したところの、吉林省社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』の2007年第3号に掲載された「後唐の明宗が、高麗を建国した太祖・王建の族籍を明らかにした」と題する論文の存在が確認された。

この論文は、「王建は決して朝鮮半島新羅人の子孫ではなく、中国・淮河流域から来た漢人の末裔」と主張し、933年に後唐の2代目の明宗が太祖・王建に送った冊封詔書などをその根拠として提示した。冊封詔書には太祖・王建を「長淮の茂族」と呼んでいる部分があり、この論文は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国

「アイゴー!シンガポールヤフーが
韓国を中国領と表記してるニダ!」

シンガポール ヤフー
http://sg.travel.yahoo.com
とカナダのブリティッシュコロンビア(BC)州政府サイト
http://www.protocol.gov.bc.ca
が韓国関連の誤りを訂正した。
サイバー外交使節団「バンク」は「1週間前までシンガポールヤフーはアジア地図で韓国を中国の領土と表記していたが、5日現在、『韓国領』に是正された」と明らかにした。(略)

http://www.worldtimes.co.jp/kansok/kan/shakai/090106-3.html

韓国紙・中央日報が
韓国人のプライドを
めちゃめちゃにする事実を報道していた

『有名教科書と地図「韓国は中国領土」』

英国オックスフォード大の出版社が制作している教科書をはじめ、世界の教育機関、博物館、テレビ局、新聞社、ポータルサイト、百科事典など総34個の世界有名機関の世界地図53個が、韓国の領土全体または一部を中国領土に表記していることが分かった。

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=65416

『スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」』

スペインの有力紙「エル・ムンド」のウェブ版
http://www.elmundo.es
が「韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった」と紹介した。「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していた(略)

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56213

アメリカ大使館「朝鮮に歴史無し。昔から中国、日本、偏狭蛮族の属国」
http://s04.megalodon.jp/2008-0104-0331-22/www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&page=9&nid=3182743
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2&diff=8434966&oldid=8280871

各国教科書に見る朝鮮半島
http://bansensyukai.blog23.fc2.com/blog-entry-7.html

◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」

◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」

◎ オーストラリアの教科書
「朝鮮は近代に到るまで、その国内での抵抗に関わらず、中国と日本の属国だった」

◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」

◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」

◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」

◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」

◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」

◎ インドの教科書
「朝鮮は永らく中国の属国だった」

◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」

韓国と北朝鮮の国内でどれだけ洗脳教育をしても勝手ですが
外の世界に出れば
朝鮮半島は古代から下関条約まで常に属国。
これが世界の一般的な認識ということです。



【拡散】韓国人・朝鮮人が必死で隠す歴史的事実まとめ【歴史捏造】 2ch「朝鮮半島朝鮮民族だけのものではありません。多民族共生国家となるべきです」

「世代」

 上記に広開土王の碑文とは五世代の差があるとの指摘があるが、確かに下記に示した一覧表のように、『三国史記』高句麗本紀では、広開土王は十二世孫となっている。世代交代が20年平均とすれば、少なくとも100年前後の空白期間があると思われる。

  国王名

  諱

  継承関係

世代

 東明聖王

 朱蒙 

 

 

 瑠璃明王

 類利 

朱蒙の長男

 1

 大武神王

 無恤

類利の第三子

 2

 閔中王

 色朱

無恤の弟

 

 慕本王

 解憂

無恤の子

 3

 太祖大王

 宮

類利の孫

 

 次大王

 遂成

宮の同母弟

 

 新大王

 伯固

宮の季弟

 

 故國川王

伊夷謨

伯固の第二子

 4

10

 山上王

 位宮

伊夷謨の弟

 

11

 東川王

憂位居

 位宮の子

 5

12

 中川王

 然弗

憂位居の子

 6

13

 西川王

 薬盧

然弗の第二子

 7

14

 烽上王

 相夫

 薬盧の太子

 8

15

 美川王

 乙弗

 薬盧の孫

 9

16

故国原王

 釗

 乙弗の子

 10

17

小獸林王

 丘夫

 釗の子

 11

18

故国壌王

 伊連

 丘夫の弟

 

19

広開土王

 談徳

 伊連の子

 12

 

「甲申年」

 三国史記にある「甲申年」の記述は、紀元前「277年、217年、157年、97年、37年」の年に当り、三国史記は前37年を採っている。

 石光氏は発掘調査から東明王陵の造営が紀元前三世紀であったことから、前277年の建国説を主張している。確かに日本の記紀には干支の該当年を120年ずらしている部分があるとする説もあり、同様に三国史記にも120年、新羅本紀百済本紀では240年のずれがあるとの説もある。だから240年ずらして277年と単純に断定した訳ではないだろうが、前217年ではない根拠が記されていない。

 筆者は、隣接する燕国が滅ぼされ、秦の始皇帝が中華を統一した以後だと推理する。

 燕が箕子朝鮮の遼東地域の領土を奪って遼東長城を築いたことで、箕子朝鮮は政権維持のため、三韓地方や穢系部族連合の領域に支配権を及ぼしたと考える。その対応策として穢系部族連合も国家体制の構築に着手した。そして、秦が遼東長城を強化したことで、箕子朝鮮の遼東地域奪還の夢が完全に途絶えた。高句麗は、この前後(前221-前206年)に小規模な封建制君主国を立ち上げた、すなわち前217年が東明の甲申年だと考える。

『梁書』高句麗

 言語諸事、多與夫餘同;其性氣、衣服有異。本有五族、有消奴部、絶奴部、順奴部、?奴部、桂婁部。本消奴部為王、微弱、桂婁部代之。

 言語、諸事ともに多くが扶余と同じだか、気質や衣服に違いがある。昔は涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部の五族があった。本来は涓奴部が王統だったが、徐々に微弱となり、今は桂婁部がこれに代わっている。

 上記の組織体制から、始祖神話や三国史記に記された東明(朱蒙)の事績とは異なる展開が想像される。

高句麗の名称」

 では、いつから高句麗の国名は中華王朝や中原諸国に知られるようになったのだろう。

『漢書』武帝紀

 元朔元年秋(前128年),東夷?君南閭等①口二十八萬人降,為蒼海郡。

 注記① 服虔曰:「穢貊在辰韓之北,高句麗沃沮之南,東窮于大海。」

 晉灼曰:「?,古穢字。」 師古曰:「南閭者,?君之名。」

 元朔元年秋,東夷の?君南閭らが二十八万人を率いて降伏した。その地を蒼海郡となす。

注記① 服虔が言うには「穢貊は辰韓の北、高句麗沃沮の南に在り、東は大海に尽きる」

晉灼が言うには「?は昔の穢の字である」。師古が言うには「南閭とは?君の名」。

 上記から前128年には「南閭」という?君(?貊の君主)がいたことになるが、穢系部族の?貊だけに君主がいたとは考えにくい。扶余が?王の印璽を保持していることから、扶余に穢系部族連合の君主がいて、その連合の一族である?貊にも部族の首領たる君主がいたと考えるのが妥当ではないだろうか。だとすれば高句麗にも君主がいたはずである。

『通典』邊防

 武帝元封三年、遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海、兵五萬、左將軍荀?出遼東、討之。朝鮮人相與殺 王右渠來降。遂以朝鮮為真蕃、臨屯、樂浪、玄菟四郡。今悉為東夷之地。

 昭帝時罷臨屯、真蕃以并樂浪、玄菟。

 元封三年(前108年)、楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡る。兵五万。左将軍の荀?は遼東から出撃して右渠を討つ。朝鮮人は右渠を殺して降伏してきた。遂に朝鮮の地を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。今はすべて東夷の地である。

『北史』高句麗

 漢武帝元封四年、滅朝鮮、置玄菟郡、以高句麗為縣以屬之。

 漢の武帝の元封四年(前107年)、朝鮮を滅ぼして、玄菟郡を置き、高句麗を県となしてこれに属させた。

三国志魏書』東沃沮

 後為夷貊所侵、徙郡句麗西北、今所謂玄菟故府是也。沃沮還屬樂浪。

 後に(前75年)夷貊に侵略され、郡を句麗の西北に遷した。今言うところの玄菟故府がこれなり。沃沮は楽浪の管轄に還った。

 前75年、昭帝は?貊の暴発を恐れ、?貊人の居住領域に置いた玄菟郡を高句驪の西北に遷し、郡治を高句麗県に置いた(北史の記述は誤解と思われる)。すなわち朝鮮四郡の設置された時期には高句麗の名称と、その支配領域が明確に存在していたことになる。

 そして、朝鮮四郡は異民族国家を郡県制に組み入れて植民地支配をしたことからも高句麗県とは高句麗国であったと推定できる。

 文頭に掲げた高句麗遺跡の考証から、紀元前三世紀頃に穢系部族連合から貉族が分立し、高夷氏や發なども吸収して独自の世界を発展させ、都城の築造を期に「高句麗」と号した。その国号が中原社会に知られるのは朝鮮が滅亡し、朝鮮の故地に四郡を設置した時点だったということだろう。

高句麗の歴史年表

高句麗:B.C 37 ~ A.D 668年まで705年間28代の王。

在位(期間)参考
1東明聖王B.C 37 ~ B.C 19(18)姓名は高朱蒙。元々の姓は解。朱蒙は扶餘出身だが南下し、B.C37年に卒本地域句麗国に国を建てて高句麗とし、自分の姓を高とした。
2榴璃明王B.C 19 ~ A.D 18(37)姓名は解榴璃。東明聖王の長男。※卒本地域有力家門出身の召西奴は東明聖王の2番目の婦人になる前にすでに二人の息子(沸流と温祚)がいて、扶餘から榴璃が逃げて来て太子になったあと南下し、温祚は百済を建国した。※?鳥歌。
3大武神王18~44(26)姓名は解無恤。榴璃明王の3男。
4閔中王44~48(4)姓名は解色朱。大武神王の弟。
5慕本王48~53(5)姓名は解憂または解愛婁。大武神王の息子。
6国祖王53~146(93)姓名は高於漱。 榴璃明王の孫。太祖王ともいう。
7次大王146~165(19)姓名は高遂成。国祖王の弟。
8新大王165~179(14)姓名は高伯固。次大王の弟。
9故國川王179~197(18)姓名は高南武。新大王の次男。國壤王とも言う。
10山上王179~227(48)姓名は高延優。新大王の息子で故國川王の弟。
11東川王227~248(21)姓名は高憂位居。山上王の息子。東襄王とも言う。
12中川王248~270(22)姓名は高然弗。東川王の息子。中壤王とも言う。
13西川王270~292(22)姓名は高藥盧又は高若友。中川王の次男。西壤王とも言う。
14烽上王292~300(8)姓名は高相夫又は高歃矢婁。西川王の長男。雉葛王とも言う。
15美川王300~331(31)姓名は高乙弗又は高憂弗など。西川王の孫。好壤王とも言う。
16故國原王331~371(40)姓名は高斯由又は高釗。美川王の息子。國?上王とも言う。371年百済の近肖古王と平壌での戦いで戦死した。
17小獸林王371~384(13)姓名は高丘夫。故國原王の長男。372年中国(前秦)から僧侶順道によって仏像とお経が伝来した。
18故國壤王384~391(7)姓名は高伊連又は高於只支。故國原王の次男。
19廣開土大王391~412(21)姓名は高談德又は高安。故國壤王の息子。中国と日本では好太王として知られている。
20長壽王413~497(84)姓名は高巨連。廣開土大王の長男。平壌遷都(427年)。
21文咨明王491~519(28)姓名は高羅雲。長壽王の孫。夫餘を滅亡させた(494年)。
22安臧王519~531(12)姓名は高興安。文咨明王の長男。
23安原王531~545(14)姓名は高寶延。安臧王の弟。鵠香岡上王、香岡上王、安岡上王とも呼ばれた。
24陽原王545~559(14)姓名は高平成。安原王の長男。陽崗上好王、陽崗王とも言う。
25平原王559~590(31)姓名は高陽成。陽原王の長男。平崗上好王とも言う。
26嬰陽王590~618(28)姓名は高元または高大元。平原王の長男。平陽王とも言う。隋文帝・隋煬帝の侵攻を乙支文德(※與隋將于仲文詩)が破った。
27榮留王618~642(24)姓名は高建武。平原王の次男で嬰陽王の腹違いの弟。淵蓋蘇文(603~665年)によって殺された。
28寶臧王642~668(26)姓名は高寶臧。淵蓋蘇文によって即位。新羅と唐の連合軍によって高句麗滅亡(668年)。

高句麗
3~7世紀、ツングース系の民族が満州から北朝鮮にかけて建国した国家。隋の煬帝の遠征軍を撃退し、唐の攻勢にも激しく抵抗したが、668年に滅亡した。

 中国東北部(満州)から朝鮮半島北部にかけて活動していたツングース系の半農半狩猟の貊人(はくじん)が鴨緑江流域に建国した。朝鮮最古の歴史書『三国史記』によると、同じく貊人の国で北方いた扶余の王族が、前37年に建国したとされている。これは史実としては疑わしいが、前1世紀の中ごろ、漢の置いた四郡の一つ玄菟郡が衰えたことによって、東北地方の遊牧系民族の一つであった高句麗もこの頃自立したと考えられる。
高句麗の建国

 部族連合国家であった高句麗は、後漢末に遼東の太守公孫氏に追われて、209年、鴨緑江流域に移り、その北岸に丸都城を築いた。これが実質的な建国である。中国が三国時代の分裂期にはいると勢力を強め、313年に楽浪郡を滅ぼし、427年には都を平壌に移し、現在の中国東北地方から北朝鮮に及ぶ大国となって繁栄した。特に広開土王の時は領土を南方に広げ、朝鮮半島に進出した倭人(倭国)とも戦った。
隋の煬帝の遠征軍を撃退

その勢力は中国の遼東半島にも及び、北西の突厥とともに中国の王朝にとって脅威となったので、隋の煬帝は数度にわたって高句麗遠征を行ったが、いずれも失敗し、その滅亡の一因となった。
唐の攻勢を受け滅亡

 次いで唐の太宗も高句麗遠征の軍を起こし、百済と結んで高句麗を挟撃したが、この時も高句麗によって撃退された。しかし、国力を充実させた唐は、高宗の時、再び高句麗遠征を企て、660年に名将蘇定方、劉仁軌らを派遣した。朝鮮半島では新羅が唐と結び、まず百済をほろぼし、663年に唐・新羅連合軍は百済の復興を支援する日本を白村江の戦いで破り、日本の朝鮮半島での足場も失われた。その後、高句麗に内紛が起こったこともあって、唐は将軍李勣(りせき)を派遣、唐軍は668年に平壌を占領して高句麗を滅ぼした。唐は平城に安東都護府を置いて羈縻政策で統治した。
高句麗文化の影響

 4~5世紀に高句麗が強大になったことは、東アジアの中での日本国家の形勢に大きな影響を与えた。高句麗時代の古墳に見られる壁画と日本の高松塚古墳(7~8世紀初頭)との類似性が注目されている。なお、貊族と同じツングース系の靺鞨は、「高句麗の遺民」と称して698年にほぼ高句麗と同じ領域に渤海国を建国した。
Episode 高句麗は中国?朝鮮?

 2004年8月6日の『朝日新聞』記事によると、「高句麗」をめぐって韓国政府が中国に抗議したという。最近中国が「高句麗は中国の一地方政権だった」という宣伝を強めたためという。高句麗は5世紀の最盛期には現在の中国東北部から韓国の北部までを治め、韓国としては「かつての広大な領土に誇りを感じさせる」存在である。現在も中国東北部には多数の朝鮮系民族が居住している。中国が高句麗は中国の一部という歴史解釈を強調するのは、中国に住む朝鮮族が半島との一体感を強め、独立運動に発展することを恐れているのではないか、という見方も出ている。韓国の盧武鉉政権は「歴史の再評価」に踏み出し、日本の植民地統治下の親日派を糾弾する法律を制定しようとしており、その手前もあって中国にも強気で抗議しなければならなくなっているという。アジアのナショナリズムが変な方に行かなければいいがと心配される動きである。

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BC37年ころ 高句麗の建国

 漢の武帝が設置した朝鮮の4郡のうち「玄菟(げんと)郡」は、高句麗の封じ込めをねらって設置されたものと考えられているが、この玄菟郡がBC75年に遼東郡に吸収され玄菟城(現在の中国遼寧省方面)に名目を残すだけとなったということは、逆に在地勢力の拡大を暗示している。
 現存最古の朝鮮の歴史書「三国史記」では、高句麗の建国をBC37年としている。
 高句麗は、もと扶余種族に属する一小部族であったとみられ、強力な中央集権体制を取り入れ軍事力によって近隣の諸部族を征服して拡大していった。はじめ、朝鮮半島の北側大陸部を中心に成長した。
(注:扶余高句麗ともに、トゥングース系の民族とみられる。トゥングースは、東部シベリア・満州北部に分布する民族で、モンゴロイド・アルタイ語族。粛慎・?婁・勿吉・靺鞨・女慎・満州族と呼ばれた民族が、トゥングースに属する。
 また、扶余は、高句麗の北側、現在の中国黒龍江省あたりが本拠地とみられる。)

高句麗の建国伝説
 東扶余(ひがしふよ)の金蛙王(きんあおう)が太白山(たいはくざん・現在の白頭山)の南の河べりで女に逢った。名を柳花といい、河伯の娘だと名乗った。王がその女を東扶余へつれてかえると、間もなく大きな卵を生んだ。王は気味わるがって、割ろうとしたが割れない、野原に棄てると鳥たちがかわるがわるに温めた。不思議に思ってひろってこさせ、母親に返した。一人の男の子が生まれ、弓の名人となり、朱蒙(しゅもう)と名乗った。他の王子たちがねたんで殺そうとしたので、気配を知った母は朱蒙を逃がした。
 朱蒙は3人の伴を連れて逃げ、鴨緑江を渡ってさらに行ったところでまた3人が伴に加わった。卒本川(そつほんせん)に着いて、ここを都に定め、国名を高句麗として王位についた。家来を集め、周囲の小国を討従えて領土を広げていった。

中国が新の時代
 「漢書」王莽伝では、AD8年、王莽が新国を建て四方に使節を出したとき、高句麗扶余とともに外臣の印綬を与えられその独立が承認されている。
 AD12年、王莽は匈奴を攻撃するため高句麗に出兵を要求したが、高句麗王?(すう)はこれを拒否、王莽は高句麗を討ち?を切った。

中国が後漢の時代
 後漢時代になると、在地勢力を認めて懐柔政策がとられ、郡県支配の中心は遼東郡に移ったものとみられる。
 遼東太守の祭?は、鮮卑族を招いて財宝を与え、朝貢するよう説得し、これに応じて朝貢すると朝貢品を上回る賜物を与えた。これを聞いた高句麗は、敵対行為をやめて朝貢したという。

 高句麗扶余を中心に、遼東郡との対立が再び起ってくると、激しい攻防が続いた。
 AD105年に高句麗は遼東郡の6県を一時奪ったが撃退され、AD111年には扶余楽浪郡を攻めた。AD118年には高句麗が玄菟郡・楽浪郡を攻め、AD121~122年には高句麗馬韓・?貊諸種族とともに遼東郡の玄菟城を攻撃している。このとき扶余は遼東郡について戦った。
 AD132年には高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡へ移動していたとみられる。
 AD167年に扶余は2万の大軍で玄菟郡を襲ったが失敗。翌AD168年に鮮卑族・?貊族が幽州・并州(現在の中国河北・山西両省北部・内蒙古南部)に侵入したが、翌年には後漢軍が中心勢力であった高句麗を破り、高句麗は再び遼東郡に従属した。しかし、高句麗は3年後に独立し、これを攻撃した遼東郡の軍隊は大敗した。
 後漢がAD184年の黄布の乱などで危機に瀕すると、玄菟郡の太守であった公孫氏は事実上独立し、遼東郡をも支配すると、高句麗や烏丸(うがん)を撃って勢力を拡大した。
 AD197年、高句麗の王位継承問題で、発岐と延優が兄弟で争った。兄の発岐は遼東郡に支援を求め一応王位についたが、弟の延優は都を現在の通溝から輯安(鴨緑江中流)に移して新しく国を建て高句麗を名乗るようになった。
 公孫氏は、AD204年(注:AD205年としている文献もある。)には楽浪郡を分割して帯方郡をつくった。郡県制を復興して、東方や南方の民族への影響力を強めようとしたものである。

中国が魏の時代
 公孫氏や高句麗が中国の呉と結ぼうとすると、AD238年に中国の魏は司馬宣王を派遣して公孫氏を滅ぼした。このとき高句麗は魏に援軍を送っている。楽浪郡帯方郡は、魏に受け継がれた。魏がこの2郡の経営にのりだすと、朝鮮半島南部の韓族や日本の邪馬台国からの使節が朝貢しはじめた。
 魏は、AD244年に、鮮卑族や烏丸族を討って勇名をはせた幽州刺史(長官)毋丘倹(かんきゅうけん)を派遣し、高句麗の王都の丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)を占領した。翌年、毋丘倹は再び高句麗を攻め。沃沮(よくそ)からさらに粛慎(しゅくしん・現在のロシア沿海州)の南部にいたった。高句麗王の東川王はほとんど単身で南沃沮(現在の朝鮮咸鏡南道)までのがれた。

中国が晋の時代
 AD265年に魏に代わって晋が建った。
 AD274年に晋が幽州の5郡を分割して平州の5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を置くと、馬韓辰韓地方の諸国が晋に朝貢した。
 AD285年、遼西まで進出した鮮卑族が扶余国を攻めて占領し、王を自殺させて、1万余人を捕虜にして遼西へ引き上げた。扶余国は東夷校尉らの援助を得て再建することができた。
 鮮卑族が遼東郡に勢力を伸ばしたが、高句麗はしきりに遼東郡に出兵し、AD311年に西安平県(現在の遼寧省丹東市付近・鴨緑江河口付近)を陥れると遼東郡と楽浪郡帯方郡の連絡がたち切られた。しかし、このときの晋は匈奴に攻められて都の洛陽を落とされて遼東郡への支援をできる状況ではなく、遼東郡を実質的に支配しているのは鮮卑族であった。高句麗は、さらに、AD313年に楽浪郡にを侵略し、翌AD314年に帯方郡をも占領するにいたった。
 これにより、BC108年から続いた中国による朝鮮半島の直接支配には終止符が打たれた。こののち朝鮮半島では、半島南部の馬韓弁韓辰韓の小国の集まりは新羅百済に統合していき、高句麗新羅百済三国時代へ向かっていく。

中国が五胡十六国の時代
 中国が混乱の時期となると、高句麗は亡命者を迎え入れて、国政を整え、軍備を拡張した。
 遼西郡に基盤をおいた鮮卑族はAD337年に自立して燕国を建て、AD339年には高句麗に侵入した。高句麗は講和を申し入れ、燕に朝貢することになったが、しばしば対立し、AD342年にも燕の侵略を受けて王母・王后・先王の屍まで虜として持ち帰った。高句麗は、度重なる謝罪を行ってAD350年に許され、また、燕から征東大将軍営州刺史楽浪公に冊封された。朝鮮の諸王国が中国王朝から冊封を受ける初めての例となった。
 AD369年、高句麗は国力をつけた百済の雉壌(ちじょう)に侵入したが、百済が撃退した。AD371年に、高句麗は再び百済を攻めたが百済の伏兵に敗れ、勢いに乗った百済軍は逆に高句麗の平壌城を攻めて、高句麗王を戦死させ大勝した。
 次の高句麗王は、国力の充実に努めた。AD372年、秦から、はじめて仏教が公伝した。同年、大学を建てはじめて儒教の教育も行った。翌AD373年には、律令を頒布している。
 この間に、百済(AD346年建国)と新羅(AD356年建国)も力をつけていく。

広開土王以降の概略
 高句麗は、広開土王(在位AD391~AD412・日本では好太王とも呼ぶ)の代になると、再び領土拡大をはかり、高句麗の最盛期を作りだした。広開土王の事跡を記した碑が残っている。
 中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり、隋による統一国家が成立すると、隋は高句麗に対する3度の遠征を行うが失敗し、4度目の計画中に内乱が起こって自滅した。唐は3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結んで先に百済を滅亡させたのち、高句麗の国内事情をみて新羅との連合軍で4度めの攻撃を成功させ、ついに高句麗は滅亡した。
 広開土王以降の詳細については、【参考ページ】を参照のこと。

【参考ページ】
391年 高句麗広開土王(好太王)即位
668年 高句麗の滅亡

参考文献
古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
三韓昔がたり」金素雲著、小堀桂一郎校訂・解説、講談社学術文庫、1985年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「クロニック世界全史」講談社、1994年

更新 2004/3/4
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cover 「古代朝鮮 NHKブックス 172 」
「朝鮮 地域からの世界史」
三韓昔がたり」

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668年 高句麗の滅亡

 BC37年の建国とされる高句麗は、強力な中央集権体制を取り入れ軍事力によって遼東郡・鮮卑・扶余新羅百済など近隣の諸部族と戦いながら勢力を拡大していった。
 391年に即位した広開土王は、その事跡などを刻んだ碑文で有名であり、高句麗の最盛期を作り出した。
 427年には王都を丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)から大同江流域の平壌城へ遷して朝鮮半島への南下策を取り、新羅百済および倭との勢力争いを優位に進めた。
 しかし、中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり、隋による統一国家が成立すると、高句麗に対する攻撃が行われた。隋は3度の遠征に失敗し4度目の出兵を計画するが、内乱が起こって自滅した。次の唐は3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結んで先に百済を滅亡させたのち、高句麗の国内事情をみて新羅との連合軍で4度めの攻撃を成功させ、ついに高句麗は滅亡した。

広開土王以降・中国が五胡十六国の時代
 427年、王都を丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)から平壌城(大同江流域)へ遷す。
 551年、百済新羅・加羅諸国の連合軍が、高句麗から、百済の旧王都の漢城地方を取り戻した。
 552年、新羅は一転して高句麗と連合し、百済から漢城地方を奪った。百済・加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。

中国が隋の時代
 581年に隋が成立すると、高句麗百済はすぐに朝貢した。
 586年、都を平壌城の隣の長安城に遷した。
 589年に隋が陳を滅ぼして中国を統一すると、高句麗は警戒心を強めて隋の侵入に備えた。これに対して、隋の高祖は国書を送って詰問している。高句麗もしばらくは自重していた。
 598年、高句麗は遼西へ侵入した。隋は高句麗を討とうとするが流行病が広がり、高句麗も謝罪使を送ったので、それまでとなった。

 612年、隋の煬帝は、200万人の大軍を送って高句麗の遼東城(現在の中国遼寧省遼陽付近)を包囲したがなかなか落とせず、一方、隋の水軍は山東半島から黄海をよこぎって平壌へ向かい、いったん高句麗軍を破るが、平壌城下で壊滅的な打撃を受けた。また、30万5千人の別働隊が鴨緑江河口に集結したが、巧みな戦術により徹底的に討たれてしまい、ついに隋軍は撤退した。
 翌613年、激怒した隋の煬帝は再度出兵し、機械兵器を動員して平壌城を攻撃したが、国内で反乱が起こり兵を引いた。
 翌614年、隋では度重なる出兵で民心が離れつつあり、各地で盗賊が横行し、徴募兵も十分集まらない状況にもかかわらず、3度目の出兵が決行された。高句麗は連年の戦いで疲労困憊しており、隋の要求を受け入れて講和したが、王みずからの朝貢などその約束を履行しなかった。
 617年、隋は4度目の出兵を計画するが、中国全土に農民反乱が起こって隋は崩壊した。

中国が唐の時代
 618年に即位した唐の高祖は、国内対策に追われた。
 624年、百済高句麗新羅があいついで唐に朝貢した。
 641年、新羅の七重城(しちじゅうじょう・現在の京畿道坡州郡)などを攻めた。
 642年、新羅から唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗百済が襲った。
 百済に攻められた新羅は、金春秋(のちの太宗武烈王)みずから高句麗を訪ねて救援を求めたが、高句麗百済とともに新羅の領土を侵略しようとしており、彼を捕らえてしまうが同情する高句麗の家臣に助けられて脱出する。

 642年、泉蓋蘇文(せんがいそぶん)のクーデターが起こった。泉蓋蘇文の父が死んだとき、当然、彼が後を継ぐはずであるが、彼の残忍で横暴な性格のため貴族たちはその職につかせなかった。彼は貴族たちに哀訴して父の地位を得たが、案の定その凶暴さを発揮すると王は彼を左遷した。彼をかばっていた王の弟が死ぬと、彼を誅殺する密議がおこなわれた。これをもれ聞いた泉蓋蘇文は、そしらぬふりで大臣たちを招集し、配下の兵を総動員して有力者百余名を殺したうえ、王宮に乱入して王を殺し遺骸を切断して溝の中に捨てた。王の子を即位させ、自分は莫離支(ばくりし)という官職について後見人として全権を掌握した。

 645年、唐と新羅高句麗に出兵したが、失敗に終わり、その間に百済新羅の西部と加羅地方を侵略した。
 655年、高句麗百済の連合軍が新羅北部の33城を奪うと、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。
 658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。

 660年、唐は水陸13万人、新羅軍5万人の大軍を動員して百済を攻めた。百済王はいったん王都の泗?城(しひじょう)から旧都の熊津城にのがれたが、降伏して百済は滅亡した。
 百済の滅亡後も、664年まで、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けた勢力が執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。

 661年、百済を滅ぼした唐・新羅連合軍は、一時、高句麗の王都の平壌城を包囲したが、高句麗軍の善戦にはばまれ、新羅の大宗が死去し、百済の復興軍が勢力を増し、唐の国内でも連年の出兵で人心が動揺しはじめたので、撤兵することとなった。唐・新羅連合軍は、百済の復興軍との戦いに専念した。
 666年、高句麗の泉蓋蘇文が死去すると、唐・新羅連合軍は、再び高句麗を攻撃し、高句麗も善戦したが、668年に降伏して高句麗は滅びた。

【参考ページ】
BC37年 高句麗の建国
391年 高句麗広開土王(好太王)即位

参考文献
古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
三韓昔がたり」金素雲著、小堀桂一郎校訂・解説、講談社学術文庫、1985年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「クロニック世界全史」講談社、1994年

更新 2004/2/10
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高句麗(読み)こうくり(英語表記)Koguryǒ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
高句麗
こうくり
Koguryǒ
朝鮮の古代三国の一つ。7世紀まで中国東北部(旧満州)から朝鮮北部を支配した。高句麗の名称は『漢書』にもみられ,紀元前後には中国の脅威となる勢力であった。初めは佟佳江(とうかこう)流域付近を拠点とし,しだいに南下してリヤオトン(遼東)半島方面に台頭した公孫氏と衝突を繰り返した。3世紀前半,公孫氏に代わった魏の将軍毌丘倹により首都丸都城が陥落し,高句麗の発展は一時頓挫した。4世紀初め,遼東方面への進出は前燕に阻止されたが,313年には晋による朝鮮支配の根拠地楽浪郡を併合,この結果,朝鮮半島南西部を支配した古代三国の一つ百済と,百済を支持する倭と対立することとなった。一時は百済との戦いで国王の故国原王が戦死するなど大きな打撃を受けたが,4世紀末に広開土王が即位して強勢となり,北西では後燕の遼東城を攻略,また南下して百済や倭軍を破り,朝鮮半島南東部を支配した古代三国の一つ新羅に朝貢させるなど,半島の過半を制圧した。次代の長寿王は丸都城から平壌に遷都してさらに積極策を進め,北西ではリヤオ(遼)河を挟んで北魏との国境とした。広開土王,長寿王,そして次の文咨明王(ぶんしめいおう)の 3代約 130年が高句麗の最盛期であり,中央集権体制も整備された。しかし台頭した新羅百済と結んで領土の拡大をはかり,6世紀後半以降,新羅との関係は急速に悪化した。一方 581年に中国を統一した隋に侵攻されたが,突厥と結びこれを防いだ。隋は高句麗遠征の失敗から内乱が起こって滅亡し,隋に代わった唐も 7世紀前半の太宗の時代に遠征を行なったが,これも退けた。太宗を継いだ高宗は新羅と同盟し,高句麗と結んだ百済を 663年に滅ぼした。次いで内紛に乗じて唐と新羅の連合軍は高句麗を攻撃,668年に平壌は陥落,唐によりこの地に安東都護府が設けられ,直接支配下に置かれた。なお,高句麗の官職制度などは独自のものが多く,百済新羅のように中国化されることが少なかった。高句麗族は最初は半農半猟の貊人(はくじん)系で,その始祖を朱蒙(→東明王)ということから扶余とも深い関係があったと推察される。また中国と日本の文献にしばしば「高麗」とも記された。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説
高句麗
紀元前1世紀から668年まで現在の中国東北地方や朝鮮半島にまたがる地域に存在した古代国家。現在の中国遼寧省や吉林省、北朝鮮の平壌に王都があったとされる。唐と新羅の連合軍によって滅ぼされた。ここ数年、中国が高句麗遺跡を世界遺産に登録申請したことや、中朝国境にある白頭山を中国側が長白山という自らの呼び名でのブランド化を進めていることなどが韓国で報道され、この地域をめぐる歴史認識が中韓政府間で焦点となっていた。

(2007-04-03 朝日新聞 朝刊 1外報)

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デジタル大辞泉の解説
こうくり〔カウクリ〕【高句麗/高勾麗】
古代朝鮮の三国の一。紀元前後にツングース系の扶余(ふよ)族の朱蒙(しゅもう)が建国。朝鮮半島北部を中心に領土を広げ、4世紀末、広開土王のとき最も栄えた。427年以後平壌に都し、百済(くだら)・新羅(しらぎ)と抗争。668年、唐・新羅の連合軍に滅ぼされた。高麗(こま)。
こくり【高句麗
「こうくり(高句麗)」の音変化。
恐ろしいもののたとえ。元寇(げんこう)のとき、高句麗の兵士が侵害をしたことから出た語で、多くは「むくり」「もくり」などとともに用いる。→蒙古高句麗(むくりこくり)

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百科事典マイペディアの解説
高句麗【こうくり】
古代満州(中国東北)東部〜朝鮮北部に建国した満州系の王朝。別名に高麗,貉,狛などがあり,〈こうらい〉〈こま〉とも呼ぶ。紀元前後,満州東部に興り,朝鮮北部に発展。3世紀初め鴨緑江中流域に拠を移し,輯安(集安)を都とする。魏の遠征を受けたが,313年楽浪郡を滅ぼして朝鮮北部を領有。広開土王の時代に急速に領土を拡大し,長寿王のとき,427年都を平壌に移す。かくて最盛期を迎え,半島は三国時代となるが,朝鮮南部の百済(くだら)や新羅(しらぎ)を圧した。7世紀初め隋の遠征を撃退,次いで唐の遠征にも抵抗したが,668年唐と新羅の連合軍に滅ぼされた。その遺民は渤海(ぼっかい)をつくる。唐に滅ぼされるまでの建築,古墳などの遺跡は平安南・北道,黄海道に多く,特に古墳は天井の構成と石室内部の壁画(壁画古墳)に特色がある。2004年,北朝鮮と中国東北地方に分布する高句麗遺跡群はそれぞれ世界文化遺産に登録された。
→関連項目飛鳥寺式伽藍配置|安岳3号墳|冠位十二階|壺【う】塚|高麗|越|高麗三国遺事|三国史記|大祚栄|朝鮮|朝鮮人|渡来人|白村江の戦|仏国寺|夫余|平壌|靺鞨|満州|満州族|大和政権|煬帝

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世界大百科事典 第2版の解説
こうくり【高句麗 Koguryŏ】
朝鮮古代の国名。前1世紀後半~668年。別名は句麗,高麗,貉,穢貉,貊,狛などと書き,〈こうらい〉〈こま〉ともよぶ。高句麗の建国年次は,《三国史記》によれば前37年のこととし,このころから鴨緑江の支流佟佳江の流域を中心に,小国の連合ないしは統合が行われた。204年に鴨緑江中流の輯(集)安に都を移し,五族など有力な小国を基盤とした領主的貴族の連合政体の国家を形成した。427年に都を平壌に移し,宮廷貴族の連合政体である五部時代を迎えた。

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大辞林 第三版の解説
こくり【高句麗
「こうくり(高句麗)」の転。
[句項目] 高句麗もくり遁げる

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
高句麗
こうくり
朝鮮古代の国名(前37ころ~668)。高麗、貊、狛などと書き、「こうらい」「こま」ともよぶ。高句麗地方は古くから北方・西方諸文化受容の窓口であった。紀元前7世紀以降、タガール、スキタイ、オルドスなどの諸文化を受容し、特色ある青銅器文化をつくった。前3世紀の衛氏朝鮮の成立、前108年の漢四郡(朝鮮四郡)の設置により、中国鉄器文化が直接この地域に導入された。前37年ごろから鴨緑江(おうりょくこう)の支流佳江(とうかこう)(渾江(こんこう))の流域を中心に、小国が連合して高句麗を建国した。[井上秀雄]
小国統合時代(前37ころ~204)目次を見る
前37年ごろの高句麗は、玄莵(げんと)郡の主県になるほど文化的、社会的に発展しており、小国統合の国家段階に達していた。後12年に高句麗王(すう)(東明王にあてる説もある)は王莽(おうもう)の出兵要求を拒否したため、王莽に殺されたが、これを契機に諸民族が反乱を起こし、王莽の新国は滅亡した。高句麗は49年に長駆中国の山西省太原まで進出し、118年以降では貊(わいばく)、馬韓(ばかん)などを糾合して、玄莵郡、遼東(りょうとう)郡、夫余(ふよ)と戦い、東方諸族の盟主的存在になった。132年には西安平県(中国遼寧(りょうねい)省丹東市)を攻撃し、赴任途上の帯方令を殺し、楽浪(らくろう)太守の妻子を捕らえた。1~2世紀の高句麗は強大で、後漢(ごかん)の遼東、玄莵2郡にしばしば進出した。190年ごろ、遼東太守公孫度(こうそんたく)が後漢王朝の混乱に乗じて自立し、高句麗や烏丸(うがん)を服属させた。[井上秀雄]
五族時代(204~426)目次を見る
204年に王都が国内城(中国吉林(きつりん)省集安市)に移った。この時代の高句麗は、貴族が旧小国など地方を支配していた。王権が弱く、貴族連合が政権を握っていたが、そのうち有力な5氏族が実権をもっていたので、この時代を五族時代という。中国の三国時代になると、高句麗は遼東の公孫氏に倣って、魏(ぎ)と呉(ご)に両属していたが、魏がこれを嫌い、238年に楽浪、帯方(たいほう)両郡を復興した。244、245両年に高句麗は魏に攻撃され、王都丸都(がんと)城を落とされた。晋(しん)(西晋)の永嘉(えいか)の乱(307~312)に乗じ、311年高句麗は西安平県を奪い、313年に楽浪郡を、翌年帯方郡を滅ぼし、平壌方面に勢力を伸ばした。五胡(ごこ)十六国の戦乱に敗れた中国の知識人が多数高句麗に亡命し、新しい文化をもたらした。339年、342年再度にわたって慕容(ぼようこう)の前燕(ぜんえん)が侵略したが、355年、前燕は政策を改めて、故国原王を営州諸軍事征東大将軍営州刺史(しし)楽浪公高句麗王に冊封した。この冊封は、中国王朝が異民族の外臣に内臣の称号を与えた最初である。371年百済(くだら)軍に平壌城を攻められ、故国原王は戦死した。この後を受けた小獣林王は新文物の導入を図り、372年に順道が、374年に阿道(あどう)が前秦(ぜんしん)から仏教を伝え、372年に大学を建て儒教教育を始め、翌年には法令を公布した。国力を充実した高句麗は、広開土王(好太王)、長寿王(ちょうじゅおう)両代の飛躍的な領土拡大期を迎えた。かくして旧小国の勢力を背景にした貴族連合の五族時代から、中央集権化した貴族連合の五部時代へと発展した。[井上秀雄]
五部時代(427~597)目次を見る
427年の平壌遷都は高句麗の貴族連合体制を変質させ、地方を基盤とした貴族が宮廷貴族となり、そのなかで強力な貴族が大対盧(だいたいろ)(第一等官職名。貴族会議の議長にあたり、政務の総轄者)になって政権を握った。この時代には王都を5区画に分け、その5部に貴族を分住させたので五部時代という。5世紀の高句麗は、比較的順調に領土を拡大した。475年には百済の王都漢城を攻め落として漢江流域を制圧した。6世紀中葉になると、新羅(しらぎ)が急速に領土を拡大し、漢江流域や日本海岸の高句麗の支配地を奪った。高句麗は初め中国の南北両朝と国交を結んでいたが、480年以後、北魏が南朝との国交を禁じた。高句麗独特の栲(こうろう)峰形式の山城や、居城と山城との組合せは、その後朝鮮全土の村落構造にまで取り入れられた。高句麗寺院の伽藍(がらん)配置や、北魏系といわれる高句麗の仏像形式は、百済や日本に影響を与えた。日本では5世紀前半から高句麗の新文物をかなり受容しているが、正式な国交は570年より始まる。この時期の日本との関係は文化交流が中心で、僧侶(そうりょ)の活躍がとくに注目される。[井上秀雄]
隋・唐との対戦時代(598~668)目次を見る
581年に隋(ずい)が建国すると、平原王はただちに朝貢したが、一方では隋の侵略に備えた。612年隋が出兵すると、高句麗軍は遼東城(遼寧省遼陽市)の籠城(ろうじょう)戦や乙支文徳(いつしぶんとく)の薩水(さっすい)(清川江)の戦いなどで隋軍を撃退した。その後も高句麗は再三隋軍の侵略を退けた。その後、朝鮮三国の対立がいっそう激化したので、642年に泉蓋蘇文(せんがいそぶん)(淵蓋蘇文(えんがいそぶん))が栄留王たちを殺し、宝臧(蔵)王を擁立して臨戦態勢を整えた。645年以後、高句麗は唐軍の遼東侵略を三度撃退した。661年には新羅・唐連合軍が南方から攻撃し、王都平壌城に迫ったが、これを撃退した。665年に泉蓋蘇文が死去すると、彼の子供たちが対立し、長子男生は翌年唐に降服した。その動揺に乗じて、新羅・唐連合軍は、668年9月王都平壌城を攻略して、宝蔵王を捕らえ、高句麗を滅ぼした。滅亡後も高句麗遺民の復興運動が各地に起こり、698年には大柞栄(だいそえい)が震国(後の渤海(ぼっかい)国)を建国した。高句麗はこの時期にも道教など中国の新文物を受容していた。一方、固有信仰も戦闘の激化に伴い高句麗全土に広まり、民族精神を形成することになった。[井上秀雄]
『李丙著、金思訳『韓国古代史』上下(1979・六興出版) ▽井上秀雄著『古代朝鮮』(NHKブックス) ▽井上秀雄著『変動期の東アジアと日本』(1983・日本書籍) ▽金富軾著、井上秀雄訳注『三国史記2』(平凡社・東洋文庫)』
[参照項目] | 渤海(国)

高句麗/略系図

高句麗の領土(5世紀後半)

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精選版 日本国語大辞典の解説
こくり【高句麗
[1] 「こうくり(高句麗)」の変化した語。〔書言字考節用集(1717)〕
[2] 〘名〙 恐ろしいもの、無情・非道なこと、などのたとえ。元寇(げんこう)の役のときに、蒙古とともに襲来した高句麗の兵士が、北九州地方を侵害したところからいう。多く「むくり」「もくり」などとともに用いられる。
※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)下「これは中々天人の子ではないぞ。むくりこくりが卵よ。〈略〉ただ射殺せよ」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
世界大百科事典内の高句麗の言及
【騎馬民族】より

…この対外活動は遊牧騎馬民族間のものもあったが,また南方の農耕地帯にも多く行われ,この地帯に対する略奪および征服活動は,その後ながい間にわたって世界の歴史を激動させ,展開させることに重要な役割を果たした。 ところで江上波夫は,以上の遊牧騎馬民族のほかに,北東アジアの農主牧副民系または半農半猟民系の騎馬民族として,夫余,高句麗靺鞨(まつかつ),渤海(ぼつかい),女真,満州などをあげている。そして夫余や高句麗と関係ある北東アジア系の騎馬民族が,まず南朝鮮を支配し,やがてそれが弁韓(任那)を基地として北九州に侵入し,さらには畿内に進出して大和朝廷を樹立し,日本における最初の統一国家を実現した。…
【呉】より

…《漢書》地理志によると呉は〈句呉(くご)〉と呼ばれており,〈くれ〉はその転語であろうか。なお,高句麗(こうくり)を〈句驪(くり)〉と記すこともあるので,呉(くれ)を高句麗とみる見方もある。しかし,《日本書紀》には呉(くれ)に渡るのに高句麗に道案内を頼んだり,高句麗と呉(くれ)の使者が同時に日本にきた記事があるので,呉(くれ)=高句麗説には問題が残る。…
三国時代】より

古代朝鮮で,313‐676年にわたり高句麗百済新羅の3国が鼎立・抗争した時代。この時代には三国が貴族連合体制の国家となったが,中国の植民地支配を脱したものの,なお強力な軍事介入のあった時代である。…
【朱蒙】より

…朝鮮,高句麗の始祖王の諱(いみな)。在位,前37‐前19年(生没,在位とも《三国史記》による)。…
【隋】より

…とくに中国北辺にあって,北朝諸政権を圧倒しつづけたトルコ系の突厥(とつくつ)(東突厥)は,隋の成立とともに立場が逆転し,隋の王室の女の降嫁(和蕃公主)をめぐって進められる分断策,その一方で強まる軍事的圧力の両面作戦によって,ついに啓民(けいみん)可汗(?‐609)のもとで恭順の意を示すに至った。ここに隋は,東アジアから北アジアにまたがる盟主としての地位を確立するが,ただ朝鮮半島に拠る高句麗だけはその勢力下に入るのを拒みつづけ,その解決がつぎの煬帝の課題として残されることになった。
[煬帝の時代]
 さて2代目煬帝は,父文帝の名君ぶりとは対照をなす暴君として広く知られている。…
【朝鮮神話】より

…後者には現在シャーマンが口誦している巫歌神話と神話的昔話が含まれる。朝鮮神話全体の特徴は,(1)原初的形態を保持している,(2)巫俗や農耕儀礼など宗教儀礼との関係が密接である,(3)始祖神話の類が多く族譜意識が強い,(4)宇宙起源神話は神話記録者である儒学者の合理主義によって記録されなかったため,口伝のものが多い,(5)歴史的に高句麗百済新羅の三国鼎立が長く続いたため,神話が統一整序されず多様な伝承形態をとっている,などである。
[文献神話]
 文献神話のおもなものは次のとおりである。…

※「高句麗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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