K国の-第1章 韓国の歴史

第1章 韓国の歴史

 韓国について知るには、まずその歴史を知らなければならない。韓国は常に歴史を背景に発言し、思考する。そのバックボーンと思想を知ることが、両国関係改善の第一歩につながると信じる。以下、半島の歴史について述べる。

古代朝鮮半島
 古代の朝鮮半島に関しての文書記録はほとんどない。実質、残っているのは日本と中国に残る文献だけであり、韓国の主張する古代半島の歴史は何ら証拠がない。韓国では檀君を始祖とする檀君神話から朝鮮の歴史が始まるとされ、古朝鮮の存在を主張するが、韓国はもちろん、周辺国にもその記述は見あたらない。よって、韓国人の主張する「半万年の歴史」は歴史的に根拠がない。
 朝鮮半島の国家が文献に登場するのは衛氏朝鮮からであり、紀元前150年頃からである。「史記」に登場するこの国家は、中国からの亡命者が作った国家であった。漢の武帝の意に沿わなかったことから紀元前108年頃に漢から軍が派遣され、滅びた。その後楽浪郡などが置かれたが、実質中国の一地方・植民地で、朝鮮半島の出身者による国家ではない。朝鮮半島の独立国家としては高句麗百済新羅による「三国時代」まで待たねばならない(4世紀中葉~670年頃)。

三国時代
 高句麗扶余系民族による国家、百済はやはり扶余系の民族による国家、つまり韓国人の祖先による国家ではない。それに対し、新羅百済人の王による国家(隋書東夷伝)である。現在の韓国人は、新羅の系統の民族である。
 この時代、日本も朝鮮半島に進出しており、中国の文献、古事記・日本書紀や広開土王碑の記述によれば百済新羅も日本の属国であった(韓国はそれを意図的に認めない)。
 この当時、日本は任那(加羅)に日本府を持ち、朝鮮半島南部に日本固有の前方後円墳が発見されるなど、半島に相当の影響力を持っていたことが伺える。中国の『隋書』にも、新羅百済は「みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す」という記述があり、これは朝貢関係があったことと見られており、これは日本が実質の支配に関わっていたことの証拠である。任那日本府に関しては、このたびの日韓歴史公証で無いと言うことにされたが、実際に史書に残っているのであり、少なくとも大使館に当たる施設があったのは事実だ。
 百済の崩壊時に日本は半島から手を引き、新羅が半島を統一(676~935)。唐と柵封関係を持って統治した。しかし、それでも日本の属国であることは変わらず、それは中国の記述でも記されている。百済からはその支配層(扶余系)が大量に日本に亡命し、日本で要職にも就いた。
 新羅が半島を統一した後、国家が混乱した際に一時的に百済高句麗が復活し、後三国時代が成立(892-936)、そして後高句麗の中で王建が反乱を起こし、高麗を建国。高麗に飲み込まれる形で新羅は滅亡、高麗(後高句麗)が朝鮮半島を統一する(918~1392)。

高麗
 高麗は元とのつながりが深く、元の皇帝の娘を王妃に迎えるなど、元と一体化していた。
 高麗の中の反政府勢力を抑えるためにもモンゴルとの結びつきが不可欠だった高麗王(忠烈王)は、日本に対する侵略を元の皇帝に盛んに進めた。それが元寇である。元は高麗に船を造らせ、高麗の兵隊を中心にした軍を日本に送り、結果的に敗走する。
 この元寇の際に高麗軍に虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島の住民が中心になり、復讐の意味合いが強く構成されたのが倭寇である。そのため、高麗軍船が焼き討ちされることも多かった。これに対し高麗李氏朝鮮は倭寇討伐を名目に、幾度となく対馬等に軍を派遣している。感情的な対立が重なり、度々の衝突が見られるが、高麗側は中国軍(元、明)が半島に駐留し秩序を乱されるのを嫌ったため自分達だけで行動を起こしていたとも言われる。
 しかし初期の倭寇は日本人だが、それ以降は中国、高麗人が中心である(朝鮮王朝実録の『世宗実録』二十八(1446年)十月壬戌条、及び『明史』による)。例えば李氏朝鮮を建国した李成桂が倭寇討伐で殲滅したという倭寇の首領の名は「阿其抜都(あきばつ)」で、女真族である(朝鮮王朝実録:太祖実録より)。
 しかし、このたびの日韓歴史公証では再びこの倭寇が全て日本人によるものと認定された。これは史書を完全に無視するものであり、歴史を改竄する行為に等しい。極めて納得できないことである。
 1145年には現存最古の朝鮮史書「三国史記」が完成した。韓国における文書はこれが最古のもので、それ以前の歴史は全て日本と中国の文書による。

李氏朝鮮(1392-1897)
 高麗の武将、李成桂のクーデターにより建国、明と清の朝貢国で冊封関係となる。名前は明に「和寧」「朝鮮」から選んでもらったもので、自国の命名権すらなかった。元号に明のものと採用するなど、事大主義を前面に押し出していたが、李成桂は明の冊封した高麗王を殺害したことなどで明から承認を得られず、朝鮮王としては冊封されなかった。彼は崇儒廃仏政策を推し進め、儒教を推し進めると共に仏教を弾圧した。そのため、仏教文化や文化財はことごとく破壊もしくは海外に売却され荒廃する。世宗によりハングルが作られたのもこの時代である。
 この時代は儒教に基づく政治が特徴である。その特色から明、清、末期の3時代に分けられる。
 この時代は、日本との文化的な交流で目立つものはない。大きな出来事は豊臣秀吉による朝鮮出兵である。朝鮮出兵では、日本軍に対し大きな抵抗運動が行われたと報じられているが、最初の出兵ではたった半月で首都まで陥落しており、日本に対する大きな抵抗運動と言うには疑問が残る。そして進軍しすぎて補給線が伸びきった日本軍は頓挫するに至った。しかも腐敗が続いていた朝鮮王朝に反旗を翻した国民などの暴動などにより、国内はかなり荒廃した。この2回の文禄の役と慶長の役のことを韓国では倭乱と呼んでいるが、この「倭」という言葉は日本の蔑視単語として今でも頻繁に使われている。この戦争で明も疲弊し、朝鮮も立て続き起きた胡乱により、完全に荒廃する。
 朝鮮王は明・清に任命され、自分達で決めることは許されなかった。冊封を受けなければ王として認められず、完全に中国の一地方政権に過ぎない扱いである。
 中国における明と清との争いの時、朝鮮は明側に着いたため、清が政権を取ると完全に属国化し、三跪九叩頭を強いられるなど、屈辱の時代を送ることになった。この属国関係は、日本が日清戦争で朝鮮を独立させる1895年まで続いた。
 この頃は経済が破綻していたため、日本から貨幣材料の銅を輸入して依存していた。国民に貨幣経済は普及しておらず(そもそも貨幣鋳造を清に認められていなかった)、物々交換が主流であった。末期、閔妃が実権を持っていた時代は特にその贅沢から財政が圧迫されており、大院君を始めとした勢力や改革派は閔妃を敵視し、国民からも国家の敵とされていた。そのため「閔后(みんふ)のような女」という言葉は、韓国において女性の最大の別称だったとされる。(親日派のための弁明2 金完燮)
 大院君が政治の実権を握ると、開国を巡る様々な事件が起きた。この開国を巡り、大院君と閔妃の対立が激しくなり、甲午農民戦争の勃発で日清戦争が起き、日本の勝利で清から独立、属国時代を終える。

大韓帝国(1897-1910)
 日清戦争の結果日本が李朝を独立させて出来た国家で、実質李氏朝鮮と同じである。
 1905年に日本の保護国となり、1910年に日本に併合された。改革に失敗し、李完用を中心とした一進会日韓併合派が勝ち、併合へと進む。伊藤博文は朝鮮統監府のトップであったが、併合には反対であった。その伊藤を安重根が殺害したため併合することになった。元総理大臣を殺害されたのだから、本来なら軍を進軍させて武力で併合してもおかしくないのだが、ただの文書上の併合で済ませるなど、日本側の極めて「優しい」対応がよく見える。

 日本統治時代と独立後の大韓民国についてはたくさんの書物も出ているので省略する。
 この時代に起こった国家間の出来事は日韓基本条約で全て片付いていることであるので、言及しても本論においてはあまり意味がないためである。仮に記述するとなると、スペースが到底足りない。この時期の出来事を韓国人が主張するときは政治的意図があり、主導権を取ろうとしているだけで、まともに相手をしても意味がない。言われたら「日韓基本条約で解決済み」として突っぱねれば良いだけのことだ。

 李氏朝鮮時代の身分制度には、貴族を代表する「両班」、奴隷身分を代表する「白丁」などがあり、両班は自らのために仕事をするなどの労働は認められなかった。さらにはその両班を取り巻く人々は、取り入ろうとして行く先々で様々な狼藉を働くが、それが当然のこととされていた。そのため、奴隷身分(農民含む)は一切の贅沢が出来なかった。少しでも裕福と見なされると、両班や親族、その他様々な人が押し寄せて徹底的にむしり取るからである。奴隷身分の人々は、それ故に、いかに貧乏に見せるか、と言うことに腐心し、これがもとで文化が国民階層からは生まれなかった。この両班の「取り巻きの狼藉」は、朝鮮通信使が日本に来日した際、民家から鶏を強奪して民衆と喧嘩になる絵図などからも窺うことが出来る(朝鮮人来聘記:京都大学蔵)。この身分制度は日本統治時代に完全に禁止された。しかし差別は根強く残り、差別された民衆は日本統治時代に日本へ渡り、現在も在日として留まっている。
 さらには、ハングルを世宗が作った目的は「愚民にも使える文字」ということであった。作られてから三代で廃止となり、以降政権では使用されなかった。国民の間でもほとんど使われず、日本統治期に日本が教育をするまで、一般化されなかった。日本が官報に漢字とハングルを交ぜて使うようになり、初めて国民に理解されるようになった。つまりハングルの国民への普及は日本統治時代である。

(1)歴史に基づく韓国発言の真偽
 前述の朝鮮半島の歴史から、韓国が主張するいくつかの事柄について真偽を見てみよう。いずれも、韓国では真実として伝えられ、韓国民一般に信じ報道されている事柄である。

・韓国半万年の歴史(中央日報日本語電子版2007.2.23他)
 古朝鮮は、中国文献による衛氏朝鮮以降からしか記録が無く、檀君神話を元に半万年の歴史と主張する韓国の言い分には一切の根拠がない。そもそも、檀君神話は神話であり、それを歴史とするにはあまりにも無理がありすぎる。在日韓国大使館HPのDynamic Koreaでもそれを掲載し、軍隊や学校でもそれを事実として教えているが、まさに政府を上げて捏造している証拠でもある。

・日本は百済が作った
 百済からの亡命者がいたのは事実だが、決して日本を作ったのではない。そもそも百済は日本の属国だったのだから、それが日本を作るなどあり得ず、そのような意見はあまりにも荒唐無稽である。そもそも、百済は今の韓国人とは関係がない。

百済、古代韓国が日本を統治していた(中央日報日本語電子版2004.09.16他)
 広開土王碑や文献を見ても、逆に日本が支配側であって、百済が日本を統治していた事実はない。

・天皇は百済の末裔(朝鮮日報日本語電子版2001.12.24他)
 皇室に渡来系の血が入っていることは事実であるが、その一族の中で一人二人の血が混じっている程度で天皇を半島系というのは無茶である。それどころか、そのほかの日本の天皇まで韓国生まれとしているが(ブレーキニュース2007.12.31)、当然そのようなことはあり得ない。

・韓国は他国侵略をしたことがない(朝鮮日報日本語電子版2007.03.01他)
 元の時代、高麗が頻繁に元に日本侵略を打診していることから、無いというのは事実に反する。また、倭寇討伐と称し、李氏朝鮮は度々対馬や五島列島に軍を派遣している。

・李舜臣は秀吉軍を破り、世界4大提督の一人として数えられている(daum 2007.04.24他)
 李舜臣はほとんどをゲリラ戦で闘ったに過ぎず、戦局に大きな影響はなかった上、最後は明と講和を結び撤退する日本軍を背後から襲い、返り討ちにあっている。世界の提督に数えられる器ではなく、事実、世界で認識されていない。東郷平八郎が彼を尊敬しているとした話はきちんとした記録はなく、あくまでも小説の一節に使われている程度に過ぎない。仮に本人が言ったとしてもリップサービスレベルで、李舜臣を英雄に祭り上げたのは半島統治時代の日本であり、朝鮮民族に自信を持たせるために行った政策である。

・秀吉軍が韓国の文化財を破壊し尽くした
 半島では前政権の遺物をことごとく破壊する伝統があり、日本が行くまでもなく破壊が進んでいた。さらには李氏朝鮮では仏教が弾圧されており、寺院など仏教文化財は出兵前にかなり破壊されている。秀吉軍だけのせいと決めつけるには疑問がある。李恒福の「白沙集」では、秀吉が入る前には既に廃墟と化していたとの記述もある。(「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社)

・朝鮮通信使は日本に文化を伝えてあげ、日本は頭を下げてそれをありがたがった
 日本は出島などの貿易でさらに進んだ西洋の文化を取り入れており、朝鮮の文化は儒教以外、取り入れられたものはほとんどない。朝鮮通信使は将軍の代替わりの際の祝賀として派遣されてきており、日本の方が先進国であったことは朝鮮通信使であった金仁謙の「日東壮遊歌」にも詳しく、日本の先進国ぶりに驚愕する著者が赤裸々に描かれている。日本側も幕府の権威高揚に利用したに過ぎない。交流があったのは儒学者など一部の人間だけであった。この朝鮮通信使一行の見学は、江戸庶民の娯楽でさえ有り、むしろ見せ物であった。彼らの乱暴狼藉が目立ち、庶民からは煙たがられていたのが事実だ。

・閔妃暗殺は日本の浪人である(朝鮮日報日本語電子版2009.04.19他)
 この争いは大院君と閔妃の政権争いであり、大院君及びその一派の起こした行動である。閔妃は自らの利益のため朝鮮の利権を海外に売り渡すなど売国を推し進めていたので、国民及び朝鮮改革派からは敵視されていた。この当時、朝鮮にいたイザベラ・バードは著書「朝鮮紀行」で日本の起こした可能性を言いつつも「その後のできごとについてはこれまで明確な記述が一度としてなされたことがない(p.354)」としている。デ・ゲ・チャガイの朝鮮旅行記でも伝聞でしか書かれておらず、日本人の仕業という証拠は何もない。さらには今の韓国人が言うような「閔妃を死姦した」等と言うような記録はない。異常な反日から、歴史を改竄し明らかに悪意をもって日本を悪として伝えているのがわかる。

日韓併合は日本の軍事力による侵略である
 日本が半島を侵略するつもりであれば、日清戦争の時点で独立させずに割譲させていたはずである。朝鮮半島は非常に貧しい地域であり、日本領土とするとその負担が大きく、日本としては日本の領土化を望んでいなかった。その後、李完用首相の下、公称党員100万人と言う政治結社一進会により、大韓帝国皇帝の認可の上で日本に併合を願い出ている。武力を背景にした圧力があったとしても、併合派の首相が望んで決定したことであり、日本は軍事占領して併合したのではなく、国家のトップがそうした誓願をしている以上、侵略ではなく平和に行われた併合である。何度と無く日本公館を焼き討ちされたり日本人を殺害され、しまいには初代総理大臣でもあり朝鮮統監府統監であった伊藤博文を暗殺までされているのであり、日本側からすれば軍事侵攻による制裁をしても何ら不思議ではないが、それを行っていない。米英なども併合を合法としており、世界的に見ても韓国の言う違法ではない。そもそも、日本と大韓帝国が戦争をした事は一度も無いし記録もない。

・韓国は太平洋戦争の被害者であり戦勝国である(忠青トゥデイ2008.09.19他)
 当時、朝鮮半島は日本であり、韓国が被害者であるというのは間違いである。戦後、半島出身者は朝鮮進駐軍や戦勝国と名乗り、日本国内でかなり暴れていたが、当然戦勝国ではない。日本と同じ「敗戦国」である。韓国の主張する「大韓民国臨時政府」による日本への宣戦布告というものも、一切「大韓民国軍」なるものが動いた形跡もなく、そもそも臨時政府と言う存在自体、世界が認めていない以上、戦勝国というのはあり得ない。連合軍の配慮から、戦犯国と言わずに第三国と言ったが、現在はこれすら差別用語だとして韓国は否定している。

 前述したが、日本統治時代、独立後については、ここでは割愛する。ただし、小生は韓国の主張には否定的である。これについては論じていくと本が数冊出来てしまうレベルになるので、ここでは日韓基本条約で解決済みとだけ申し上げる。
 否定ばかりになってしまうのだが、韓国人が外国人に接すると必ず自慢もしくは日本批判として繰り返されるこれらの事柄は、ほとんどが韓国側が都合良く作りあげたもので、事実とは違っている。このことを知らないと、感情にまかせ熱弁する韓国人のペースに乗せられ、正しい歴史事実の認識が出来なくなる。
 否定が多いことで、韓国人にとっては厳しい意見となってしまうが、これはあくまでも記録や書物に基づく判断である。


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