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朝鮮半島の歴史
お隣の国、韓国、北朝鮮(朝鮮半島)の歴史について簡単に学んでみましょう。海を隔ててすぐ隣にある朝鮮半島。そこに住む人々はどんな歴史をたどってきたのでしょうか?時代の流れがわかるようになるべく順を追って読んでいってね。
日本と韓国の間には過去の不幸な歴史がある。たとえ観光旅行であっても訪問地に関する最小限の知識は身に付けておきたいものである。
-700000先史時代
-700000旧石器文化 [数十万年前](旧石器文化-東アジア-朝鮮)--古朝鮮時代
-700000旧石器文化[約70万年前](旧石器文化-東アジア-朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-700000旧石器文化 約70万年前
旧石器人の登場
韓半島とその周辺には、約70万年前前から人類が定住し始めたとされています。
旧石器時代の人々は、初めは石をそのまま使用したが、徐々に用途に応じ様々な打製石器をつくった。
獣や魚を捕まえ、植物の実や根を採集し、季節により移動生活をしながら、洞窟や海岸に仮小屋を建てて暮らした。
民族はモンゴル人種に属し、アルタイ語族に属すると考えられる。(先史時代-東アジア-朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
打製石器
人類が石を材料に「加工、製造」した「道具」。打製石器は旧石器時代の指標となる。おおよそ礫石器→握斧→剥片石器→石刃へと段階的に進歩し、細石器を経て磨製石器(新石器時代)に移行する。
礫石器 → 握斧 → 剥片石器 → 石刃技法
-500000旧石器文化時代(約50~10万年前)
約50万年前 洞窟や岩陰、川端に集団で居住。狩猟と植物採取で生活。(旧石器文化-東アジア-朝鮮)--古朝鮮時代
皆さんは、世界最古の土器がどこで発見されたか、知っていますか。
答えは、青森県の大平山元(おおだいらやまもと)遺跡から出土したもので、約1万6500年前の土器になります。
世界の他の地域を見ると、発見された一番古い土器が、およそ9千年前。
しかも、日本で発見される縄文時代の土器は、古さも、種類も、量も、他の地域とは群を抜いています。
日本の縄文時代が、世界最先端の高度な「土器文明」だったことは明らかです。
あるいは、日本で稲作が始まったのは?
答えは6000年前。
それでは、水田方式の稲作が始まったのは、答えは3000年前。
上記はプラントオパール分析法や放射性炭素年代測定法により、近年、「確定」した事実です。
ところが、我が国では、「日本の縄文時代は文化も文明もない野蛮な時代だった。
稲作は2300年前位に日本に来た渡来人が教えてくれた。
日本は中国や朝鮮半島の人々から文化を教わったのだ」といった「嘘」が国民に流布したままです。
理由は、歴史学者が「科学的に判明した事実」をスルーし続けているためです。
ついでに書いておくと、弥生時代に100万人の渡来人が日本にやってきた、という話自体が「嘘」です。
これも、科学的に証明されています。
弥生時代に日本に来た渡来人は、精々が年に「数家族」でした。
それにも関わらず、「日本の文化・文明は2300年前(紀元前300年頃]に中国や朝鮮半島から訪れた渡来人によりもたらされた」という「嘘」が常識化してしまっている。
上記の「嘘」が、「天皇は朝鮮半島からやってきた」なる奇天烈な説に繋がってしまい、皇室の価値を貶めるプロパガンダとして使われているのです。
経済(特に財政)に加え、歴史(特に古代史と近現代史)の言論に蔓延る「嘘」もまた、日本弱体化の一因なのでございます。
【三橋貴明】歴史に蔓延る嘘https://38news.jp/economy/13094
-8000新石器時代の始まり
新石器時代
この頃から新石器時代が始まり、磨製石器と釣り針、針などの骨器、そして櫛目文土器が広く使われた。  新石器時代の人々は竪穴式住居に住み、同じ血筋の氏族が集まり付属をつくり、定住、農耕生活を始めた。(新石器時代-東アジア-朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-8000-6000頃 新石器文化
新石器時代
この頃から新石器時代が始まり、磨製石器と釣り針、針などの骨器、そして櫛目文土器が広く使われた。 新石器時代の人々は竪穴式住居に住み、同じ血筋の氏族が集まり付属をつくり、定住、農耕生活を始めた。(新石器時代-東アジア-朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
日本の稲は中国から朝鮮半島を経由しないで伝わったことが判明
概要
まとめ
●稲の遺伝子の解析から、日本の稲は朝鮮半島を経由していないことが判明している。
●発掘の結果から、日本の稲作は陸稲で6700年前、水稲で3200年前までたどれるが、朝鮮半島の水稲は1500年前と考古学でも半島を経由していることはありえない。朝鮮の陸稲は不明。
●そもそも朝鮮半島は稲作に適していないし、主食にしたこともない。
経緯
長いこと日本の稲作は朝鮮半島を経由した、とされているが、これが稲の遺伝子解析から間違っていることがハッキリしています。
水稲(温帯ジャポニカ)の遺伝子を解析するとRM1にAからHの八種類の遺伝子がある。中国にはこの八種がすべてある。八種のうちBが最も多く、Aが次いで多い。朝鮮半島にはこのうち七種があり、そのうちBが無い。日本には八種のうちAとBとCがあり、そのうちBが一番多い。そしてAが次いで多い。つまり日本の稲が朝鮮半島を経由して伝わった可能性はゼロということになる。
https://nihonsinwa.com/page/655.html
-5000新石器時代早期-5000-4000
櫛目文土器が広がる-5000年頃
2010.09/26 [Sun]
優れた『日本文明』 新たなる発見が続々 【歴史問題】
 従来、日本の歴史学は歴史研究家・放送局・出版社を始めとする反日・左翼勢力によって、日本が中国や韓国の文化で栄えたなどの歴史捏造を行なってきた。ところが、近年の様々な発掘調査により、次々と異なる実態が明らかになりつつあります。

稲作は日本から朝鮮半島へ伝播した事が判明
稲作文化は弥生時代に大陸から朝鮮半島を経由して日本にもたらされたとの説が覆された。近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきたのだ。日本の稲作開始は縄文時代、陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。

これに対し朝鮮半島では水稲栽培は無去洞玉峴遺跡の2500~2800年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。中国政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。韓国の学界は激しく反発しているが、もはや意地でも朝鮮半島から日本に米が伝わった事にしてしまいたいとの思惑にしか見えない。


韓国で日本式【前方後円墳】を大量に発見
明治時代、朝鮮半島北部で発見された【広開土王碑】。碑文には古代の日本を表す【倭】の文字が刻まれてあり、碑文の内容は『日本書紀』の記述を裏付けるものとなった。この発見以降、日本が朝鮮半島に渡り、南部の7国を平定した後に任那を従えて【任那日本府】を置いたとされ、日本が半島の一部を支配していたという歴史観が明治時代から60年間続いていた。 しかし、近年これら歴史的資料に加え、支那正史の『宋書』や朝鮮の史料である『三国史記』なども左翼学者によって無視され、「伽耶地方は小さな国に分かれていた」という簡素な表記に変わり、現在は日本が朝鮮半島を支配したという事実はない事になっています。

つまり、「朝鮮半島にいた倭人は支配層では無く、伽耶から鉄製品を貰う為の人間(傭兵・奴隷)だった」との珍説をもってすり替えたのだ。どうやらあくまでも倭国の支配が朝鮮半島に及んでいた事実を消してしまいたいらしい。

ところが、朝鮮半島のヨンサンガン下流で日本固有の形式である【前方後円墳】が13個発掘されるという、韓国にとってあってはならないはずの遺跡が出土した。韓国歴史学者は、この古墳群についてさえ百済高句麗を欺く為に倭人に命じて作らせたとの更なる暴論を展開しているが…。

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韓国の光州月桂洞古墳 1号墳

これらは驚くべきことに、日本の実質的国営放送でありながら反日捏造報道を繰り返すNHKが制作した『プロジェクトJAPAN ETV特集シリーズ第1回 古代の人々は海峡を越えた (日本と朝鮮半島2000年]』の放送内容である。反日国家並びに彼らに加担する反日勢力にとっての歴史とは、捏造された歴史に新発見をすり合わせる作業でしか無いようだ。


日本人の起源は大陸起源では無い
反日書籍の多い集英社の、岡村道雄監修、岩井渓漫画の『漫画版 日本の歴史 1』(集英社)巻末の「年表」には、30,000年以上前に、日本に来た最初の人を、「アジア大陸などから、人々がやってくる」と、書いている。

ところが中堀豊・徳島大医学部教授らの研究グループよれば、父系遺伝子であるY染色体の「ハプログループD1b(D2]」は世界で日本人にしか見られず、昔から日本にいた人たち特有のものと考えられている。日本本土で42~56%%見いだされ、アイヌ人88%、沖縄人56%で頻度が高い。中国・韓国人はほぼ0%、つまり他人である。

ハプログループDから突然変異したD1b(D2]は、世界的に見ても変わった遺伝子型である。大陸人や朝鮮人において一般的なY染色体はハプログループOで源流が明らかに異なり、孤立したD系統を持つ日本人の異質さが際立つ。


私の思い

どこかの国のように、何でもかんでも自国起源にしてしまったら、世界の笑いもの、嫌われ者になっていまいますが、これら科学的根拠を考察してみると「宇摩説」も含め、改めて検証してみる必要があるのではなかろうか?左翼・反日歴史研究家は絶対に認めないでしょうが…。

宇摩説では、最初に日本に渡来したのは、アフリカの海で漁労をした「アマ(海人)族」が、魚を追って次第に広がり、先端が日本に到着する。この分派が朝鮮や中国に進出したとの説である。その後、日本に来たのがヨーロッパ・ロシア経由のアイヌである。大勢の渡来は上記の二種で、10,000年以上の時を日本列島で過ごし、経験の集積によって、独自な「和」の日本文化(社会)を醸成したというものだ。これが、宇摩説の神話以前の基本的認識である。 

サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』では、世界をいくつかの文明として区分する。中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、西欧文明、ロシア正教会文明、ラテンアメリカ文明、そして存在すると考えた場合としてアフリカ文明をあげる。日本を古代文明の一つに挙げ、明らかに中国とは別の古代文明だとしています。

bunmei 文明分布地図(サミュエル・ハンチントン : 文明の衝突より)

これら「日本文明」における非常に重要な要素が、反日勢力などに皇室廃止などと揶揄される天皇家の存在である。古代から第125代にわたる世界最古の歴史を誇り、国家と国民の安寧と繁栄を祈りながら世襲により受け継がれ、エリザベス女王ですら上座を譲るその権威と歴史の重み。知らないのは恐らく日本人だけではなかろうか?
 
『日本人』とは、現在を生きる日本人だけを指すものては無い。過去、連綿として命を受け継いで来た先人を含めて指すものであるはず。偏狭なナショナリズムでは無く、日本に生まれた意味を自ら問い直そうとする時、自らの起源、つまり『正しい日本文明』を改めて知ろうとすることは当然であり、必要なのである。http://roboukoishi.blog36.fc2.com/blog-entry-41.html
-4000新石器時代(櫛目文土器時代/侯目文土器)-4000(もしくは-5000]-1000年
新石器時代前期-4000-3000
米はどこから伝わったのか?
2018年5月15日 i-blanc 日本の食 0
歴史の教科書(山川出版)には
「およそ2500年前と想定される縄文時代の終わり頃、朝鮮半島に近い九州北部で水田に夜米作りが開始された」
とある。
しかし、1989年、青森県八戸市の「風張遺跡」の住居跡からから7粒の米が発見され、これが約2800年前の縄文時代の後期から晩期にかけてのものであることが確認され、伝播の定説より500年も遡ることが明らかとなった。
ただ、水田、灌漑施設、農具などは発見されてない。これを遠くからの「贈り物」する考えもあるがこれは「運搬」という労力を知らない者の言い草で全くの誤りである。
この時代には道路も整備されてなく、運搬手段も未発達であった。南方から「米」をこの地に運搬できるはずもない。大変な労力まで使って運搬する可能性は低い。また「籾痕土器」にしても同じである。
また水田痕跡が見当たらないことを問題視する考えもあるが、陸稲栽培だったかもしれない。ところが、この地方から稲のプラントオパ-ル(稲の葉のある種の細胞に溜まったガラス成分〔珪酸体〕が地中から掘り出されたもの)が発見され、水田の畦なようなものが発見された。間違いなく「稲作」が行われていたのである。
1999年、今度は岡山県の「朝寝鼻遺跡」から稲のプラントオパ-ルが発見され、6400年前に「米」が存在したことが判明した。
これまでは朝鮮半島から朝鮮人(弥生人)が農耕技術を持って渡来して、日本に「稲作」を広めたと言われてきた。それが縄文人がすでに農耕技術を持っていたことが確実となった。
ただ、これが「朝鮮半島」経由であることは否定はされてなかった。
しかし、最近では「朝鮮半島渡来説」を唱える研究者は非常に少なくなっており、中国大陸から渡来したというのが<定説>となっている。
以下は「松尾孝嶺」の『栽培稲に関する種生態的研究』をそのまま掲載したい。
『農学、植物学、生態学の分野では米の伝来ルートについては支那南部から直接伝来したという説が定説だったが、考古学、歴史学の分野では朝鮮半島経由という考え方が有力だった。しかし、7,8年前からまず考古学の分野から変化が起き、次第に支那南部から直接伝来した説が有力になって、現在ではほぼすべての学界で定説になっている。また支那の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。
この流れが加速したのは主に2つの理由がある。
① 遺伝子工学の分野からの研究の成果、
② 支那政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査
だ。
この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった。
順を追って説明すると、米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。
このうち古代から現代に至るまで日本で発見された米の遺伝子は2つしかない。日本に存在する遺伝子をNO.1とNO.2とする。
NO.1とNO.2の遺伝子はそれぞれ温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカという品種の特有遺伝子だ。
次に稲作の発祥地である支那はもちろんNO.1からNO.7まですべて揃っている。
朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.1だけは存在しない。これは気温が低いと存在できない遺伝子のため支那北部より北では存在できないためだ。
往来が盛んになればなるほど、多くの種類の遺伝子を持つ米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかないのが確認されていて、これが稲作開始の初期から広く分布していることから、米の伝来はごく限られた回数で特定の地域から伝来したと考えられる。
近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。
これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。
〇 岡山市では、6000年前の稲のプラントオパールが出土し、形状のそろいから、栽培種と判断されている。
〇 滋賀県守山市の下之郷遺跡では、紀元前2世紀のモミ300粒が見つかり、DNA分析の結果、水田用温帯ジャポニカと、焼き畑用熱帯ジャポニカだったそうで、これは稲の適性を知った上で、収穫時期の調整や、冷害、干ばつなどに対応していたのでは?と・・・・
〇 奈良、平安の木簡には、稲の品種が十六種類、記されていた、木簡には、品種名のほか、作付時期と見られる日付や、稲を早稲(ワセ)、中稲(ナカテ)、晩稲(オクテ)に分け、季節に応じて栽培していた
-3000新石器時代中期-3000-2000
-3000このころ朝鮮半島櫛目文土器文化興る(-東アジア-朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
-2333古朝鮮 紀元前?年 - 紀元前108年(-満州地域-古朝鮮)-消滅した政権一覧-
-2333古朝鮮(檀君朝鮮箕子朝鮮衛氏朝鮮)紀元前?年 - 紀元前108年(-朝鮮半島-古朝鮮)-消滅した政権一覧-
-2333古朝鮮(檀君朝鮮)紀元前?年~-1122(-朝鮮半島-檀君朝鮮)-消滅した政権一覧-
-2333古朝鮮(こちょうせん)とは、一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の朝鮮をそう呼ぶことがあります。
まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。檀君という神話上の人物が平壌城で建国したとされ、この檀君が即位した年は、-2333年といわれていますが伝説の人物、国であるというとらえ方が一般的ですね。(-朝鮮半島-檀君朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-2333古朝鮮時代(BC2333-BC108)
古朝鮮(こちょうせん)とは、一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の朝鮮をそう呼ぶことがあります。
檀君朝鮮(BC2333年ごろ~)
伝説によると、神話の中の人物である檀君(タングン)がBC2333に韓国最初の王国である古朝鮮を建国したとされています。
まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。朝鮮民族の始祖とされる檀君という神話上の人物が阿斯達(アサダル、現在の平壌)を都として建国したとされている。
まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。檀君という神話上の人物が平壌城で建国したとされ、この檀君が即位した年は、-2333年といわれていますが伝説の人物、国であるというとらえ方が一般的ですね。
檀君(タングン)が阿斯達(アサダル・・現在の平壌)を首都とする国を興し、国の名称を朝鮮とする。この時代を檀君(タングン)朝鮮と呼び、1500年続く、神話・伝説の王朝である。
その後、檀君が1908歳のとき、国を箕子に譲り、自身は神になって、山に入って行った。(-朝鮮半島-檀君朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-2333'古朝鮮時代[-2333--108]
檀君朝鮮[-2333年ごろ~]
'
-2333檀君、阿斯達に都し、朝鮮王となるを定める(三国遺事)(-東アジア-朝鮮、檀君朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-2333その1、歴史の始まり・・・檀君神話・古朝鮮古朝鮮を建国した檀君に関する記録は高麗(高句麗)時代の高僧・一然(イルヨン)の書いた「三国遺事」に詳しく書かれている。昔々、天の国に住んでいた桓因(ファニン)の息子の桓雄(ファヌン)は、天の下の人間の世を気にしていた、父が息子の気持ちを察して、下界をながめて見ると、人間の世を作っても良さそうな気がしたので、桓雄に天の息子の証”天賦印”を与えて下におりて治めることを許した。父の許可を得た桓雄は3000人の配下を連れて太白山(テベク山)の神壇樹に降りてきた、そこが神市である、と壇君神話は始まります。しかし、古朝鮮の第一代の王は桓雄ではなく壇君です。壇君はまだ生まれていません、どのようにして生まれてくるのでしょうか。桓雄が世を治めているとき、毎日人間になりたいと心からお祈りをしている虎と熊が同じ洞窟に住んでいました。毎日、お祈りをする虎と熊を見て、二匹の動物にひとにぎりのヨモギとにんにく20個を渡して、桓雄は「それを食べて100日間太陽の光を避ければ人間になれる」といいました。しかし、虎は我慢できずに飛び出してしまった。熊は言いつけを守りきれいな女性に変わりました。しかし、熊の祈りはそこで終わりませんでした。女になった熊は、毎日、神壇樹の下で、子どもを生めるようにして下さいと祈り続けました。そこで、桓雄は男に変身してその熊女(ウンニョ)と結婚し、子どもが生まれました。その子が檀君です。檀君は紀元前2333年に平壌(ピョンヤン)を都にして、国名を朝鮮と呼びました。日が昇るところ、という古代の朝鮮語で、アサダルの漢字表現です。古朝鮮という名称は李成桂[イ・ソンゲ、太祖(テジョ)李氏朝鮮(りしちょうせん1392年-1910年]の始祖]が朝鮮王朝を建てたため、後に二つを区別するために檀君の朝鮮を古朝鮮と呼ぶようになりました。古朝鮮の開国が紀元前2333年というのは重要です。それは韓国の年号である檀紀をかぞえるとき用いる年度であり、今年[2006年]は檀紀4338年記なります。韓国の歴史が始まって今年で4338年目になったという意味。しかし、檀君は単に人の名前ではないという事実も注目に値します。個人を指す固有名詞ではなく、普通名詞です。祭政一致社会、シャーマンの王として政治権力と宗教の権力とを同時に持っていた意味をもつ一般名詞です。古朝鮮は政治と宗教が一致していた社会であったことが分かります。檀君はその後、1500年間、朝鮮を治めて、アサダルの山に入り、山の神になったといわれます。そのとき1908歳だったそうです。とここまでが、「三国遺事」の記録です。神話が事実か否かはそれほど重要ではありません。神話が存在する理由は、その民族の象徴であり、意味であるからです。『檀君神話』は、天の神の息子がこの地に降臨してきて、宇宙の木である神壇樹の前でこの世を創り、人々と共に生活する話です。そのハイライトは結婚式です。天があり、地があり、植物を代表する宇宙の木があり、動物を代表する熊がいる。その間に人がいる。全ての宇宙が集まって宴会をするのが、結婚式。この結婚から檀君が生まれる。現代を生きるわれわれがそのような全宇宙の美しい祝福を受けて生まれてきたということを伝えている話です。檀紀(檀君紀元)とは、「三国遺事」で伝えられる檀君(タングン)の朝鮮建国を称える年号のこと。「三国遺事」以下、各種史料では建国年次が一定していなかったが、1485撰述の「東国通鑑」が「唐堯の即位25年・戊辰」と特定して以来、紀元前2333年建国という認識が定着するようになった。檀紀は、日本からの独立を果たした大韓民国で公用紀元として採用された年号で、檀君(タングン)の朝鮮建国と伝えられる前2333年を元年とし、陰暦10月3日を開天節と定めている。1961年まで用いられたが、1962年の憲法改正(第三共和制)の際に、西暦に改められた。(-東アジア-朝鮮、檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-2333『朝鮮』名の由来です。『朝』とは、時の「朝廷」…中国「周」や「秦」「漢」「後漢」などから「清」国までの歴代中国史。『鮮』とは、「物請う、物乞う」つまり、朝廷に物乞う人々の国です。歴代中国側は、日本国側も貢物を差し出せばその地の統治者として認めるような外交をするも、日本があまりにも離れ地(難海を隔てた場所)の為に関与ができなく、属国化できなかった。しかし、朝鮮半島は、まさしく「物乞う」国として属国できたので『朝鮮』名を命名したのです。それが現在も続いている名称です。「朝鮮」の朝は、宗主国に献上する貢物を表します。そして「朝鮮」の鮮は、少ないという意味があります。中国には朝鮮半島の傀儡王朝から、財宝、作物、奴隷が献上されたという記録が残っています。国の名前を中国に決めてもらうとき、朝鮮のほうからも「朝鮮」を含むいくつかの名前を候補にお伺いを立てているわけです。朝鮮側は当然「朝のあざやかな国」、のつもりでその名前を考えたわけですが、中国側はリストにある「朝鮮」の文字を見て「貢物の少ない国」となった様です。(-東アジア-朝鮮、檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-2333壇君王倹,阿斯達に都を開く.古朝鮮建国檀君朝鮮(檀君神話)(三国遺事)
古朝鮮時代
朝鮮半島の歴史は、-2333年の檀君(だんくん・タングン)による建国神話からはじまり、一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の、檀君朝鮮からはじまって、次の箕子(きし・キジャ)朝鮮を経て、衛氏(えいし・ウィシ)朝鮮までの三王朝を、古朝鮮時代と呼び、-108年、漢の武帝に征服される。檀君と箕子は、神であり人間である神話・伝説の世界の歴史である。支配地域は大同江から北西の地域。
檀君朝鮮
まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。朝鮮民族の始祖とされる檀君という神話上の人物が-2333年に阿斯達(アサダル、現在の平壌)を都とし朝鮮最初の王国を建国したとされている。国の名称を朝鮮とし、この時代を檀君朝鮮と呼び、1500年続く、神話・伝説の王朝である。その後、いくつかの部族が満州南部地域から朝鮮半島に移動し、檀君が1908歳のとき、国を箕子に譲り、自身は神になって、山に入って行った。(檀君朝鮮-東アジア-朝鮮、檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-2333前108年、漢の武帝に征服される以前の朝鮮およびその時代。
檀君〔たんぐん〕が紀元前2333年に阿斯達(アサダル、現在の平壌)を都として建国したとされている。
檀君(だんくん)・箕子(きし)・衛氏(えいし)などの王朝の支配下にあった。支配地域は大同江から北西の地域。[-2333--108](-東アジア-朝鮮、檀君朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-2333 朝鮮半島の歴史は、BC2333年の檀君(タングン)による建国神話からはじまる。この、檀君(タングン)朝鮮からはじまって、次の箕子(キジャ)朝鮮を経て、衛氏(ウィシ)朝鮮までの三王朝を、古朝鮮時代と呼ぶ。
檀君(タングン)と箕子(キジャ)は、神であり人間である神話・伝説の世界の歴史である。
*BC2333年 檀君(タングン)(단군)が阿斯達(アサダル・・現在の平壌)を首都とする国を興し、国の名称を朝鮮(조선)とする。この時代を檀君(タングン)(단군)朝鮮と呼び、1500年続く、神話・伝説の王朝である。
その後、檀君が1908歳のとき、国を箕子に譲り、自身は神になって、山に入って行った。(-東アジア-朝鮮、檀君朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
 朝鮮半島の歴史は、BC2333年の檀君(タングン)による建国神話からはじまる。この、檀君(タングン)朝鮮からはじまって、次の箕子(キジャ)朝鮮を経て、衛氏(ウィシ)朝鮮までの三王朝を、古朝鮮時代と呼ぶ。

檀君(タングン)と箕子(キジャ)は、神であり人間である神話・伝説の世界の歴史である。

 その後、いくつかの部族が満州南部地域から韓半島に移動してきました。
-2000新石器時代晩期-2000-1000
-2000朝鮮あわ、きび、ひえなどを栽培。(縄文時代-東アジア-朝鮮)--古朝鮮時代
-2000鉢・皿・土瓶など土器の形が多様化(新石器時代晩期-東アジア-朝鮮、檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-1500-1500年ごろ、中国より農耕伝わる。(-東アジア-朝鮮、檀君朝鮮、殷(商))--古朝鮮時代
-1300-1300年頃 無文土器が作られる。(-東アジア-朝鮮、檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-1122中国の殷(いん)の賢人、箕子が、檀君の王位を継ぎ、箕子朝鮮を建国する。首都は平壌である。
箕子朝鮮は、BC194年まで、40世あまり続くことになるが、檀君朝鮮同様、神話・伝説の時代である。(-東アジア-朝鮮、檀君朝鮮箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-1122古朝鮮(箕子朝鮮)-1122~-194(-朝鮮半島-箕子朝鮮)-消滅した政権一覧-
-1122次に登場するのが箕子(きし)朝鮮。この王朝に関しても、まだ実在の確認はされていませんが「史記」や「漢書」によれば、中国の殷の移民が建国したということになっています。(?~紀元前194年)(衛氏朝鮮-朝鮮半島-箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-1122箕子朝鮮[-1122-194]
中国の殷(いん)の賢人、箕子が、箕子朝鮮を建国する。
箕子朝鮮(?~-194]
中国の殷(いん)の賢人、箕子(キジャ)が、檀君の王位を継ぎ、箕子(キジャ)朝鮮を建国する。首都は平壌である。箕子朝鮮は、-194年まで、40世あまり続くことになるが、檀君朝鮮同様、神話・伝説の時代である。
-4世紀
満州遼寧を中心に、満州と朝鮮半島をつなぐ広い地域を統治する国家に発展した。
 鉄器が普及し始めた。?~-194年に登場するのが箕子(きし)朝鮮。この王朝に関しても、まだ実在の確認はされていませんが「史記」や「漢書」によれば、殷の箕子が建国したということになっています。(-朝鮮半島-箕氏朝鮮檀君朝鮮)--古朝鮮時代
箕子(?~?)
 殷の帝太丁の子。紂王の叔父にあたる。殷の大師となった。箕に封じられた。紂王の勘気を逃れるため、佯狂したが、投獄された。のちに周の武王に仕えて、政務の相談役となった。また朝鮮に封じられたといわれる。
燕(えん)[前11世紀~前222] 始祖は周の武王の弟、召公セキ。今の河北・東北南部・朝鮮北部を領す。都は薊(けい)(現、北京)。前222年43世で秦の始皇帝に滅ぼされた。
-1070箕子朝鮮の誕生(伝説)(箕子朝鮮-東アジア-朝鮮、箕子朝鮮)--古朝鮮時代時代
-1000無文土器時代[-1000年頃-100年]
無文土器時代前期[-1000-700]
-1000-10世紀頃 朝鮮半島ではこの頃、青銅器時代が始まり、支配階級の武器や装飾品として用いられた。
アワ、ムギ、ダイズ、イネが栽培された。
青銅器の武器を使用し他の部族を制服するなど勢力を拡張していった。
一部の地域で稲作。? 竪穴式住居。
青銅器文化の展開・古朝鮮の発展
青銅器文化が始まる。-1000年頃
水稲栽培始まる。-10~8世紀頃(-東アジア-朝鮮、箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-1000-1000頃青銅器文化の展開(青銅器文化-東アジア-朝鮮、箕子朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-1000-1000頃古朝鮮の発展(-東アジア-朝鮮、箕子朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-1000このころ朝鮮半島の無文土器文化始まる(-朝鮮半島-箕子朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
-800-800年頃 古朝鮮の実在節有り(-朝鮮半島-箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-700無文土器時代中期[-700-300]
-700-700年ごろ、青銅器伝わる。
水稲栽培はじまる(-朝鮮半島-箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-400-400年頃 鉄器文化が普及する。(鉄器文化-朝鮮半島-箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-400箕子朝鮮[-4世紀~-194年)(箕子朝鮮-朝鮮半島-箕子朝鮮檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-300無文土器時代後期[-300-100](初期鉄器時代)
-300-300年ごろ、鉄器伝わる。
鉄器文化の普及.農業発達(-朝鮮半島-箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-300-300頃鉄器文化の普及(-朝鮮半島-箕子朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
徐福(?~?)
徐市ともいう、字は君房。斉の人。方士。不死の薬を求める始皇帝の命により、東方海上にあるという蓬莱山を求めて船団を出立させた。莫大な財宝と少年少女数千人を載せた船団の行き着いた先は定かでない。日本の和歌山県新宮市には徐福の墓とされるものが残る。朝鮮半島・米大陸渡来説も存在する。
-230この時点で国民党軍は大陸で共産党軍との内戦のさなかにあった。しかし、経済管理と住民統治の能力を欠き、軍律に薄く、腐敗においてすさまじい国民党政権に対するアメリカの不信は根強いものであった。実際、台湾に敗走した国民党軍を追う共産党軍の「台湾侵攻」を目前に、トルーマン大統領は「台湾海峡不介入宣言」を公にしたのである。この絶体絶命の危機を救ったのが、1950年6月に勃発した朝鮮戦争であった。東アジア共産化の現実的脅威に直面したアメリカは「台湾海峡不介入宣言」をひるがえして「台湾海峡中立化政策」に転じ、第7艦隊を台湾海峡に派遣して国民党政権の台湾支配の起点を守った。(-東アジア-台湾、朝鮮)--
-222衛氏朝鮮
(えいしちょうせん)
 史記によれば、朝鮮は戦国時代に戦国七雄一つ燕が、遼寧に長城を築き、朝鮮に攻め寄せて、「朝鮮」と「真番」が服属したという。燕が秦に滅ぼされ、漢が中国を統一すると漢が朝鮮を支配した。漢の高祖(劉邦)は仲のよかった盧綰(ろわん)を燕王に封じるが、その後対立して盧綰は匈奴に亡命する。(衛氏朝鮮-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
漢(かん)
中国古代の統一王朝、前漢 [前 202~後8] および後漢 [25~220] をいう。高祖1 [前 206] 年に秦が滅亡すると、項羽が西楚覇王と称したが、現在の陝西省南部に漢王として封じられた劉邦 (→高祖) が、高祖5 [前 202] 年項羽を破って帝位につき、都を長安に定めて漢王朝を創始。漢は初め郡国制をしいたが、前漢の武帝 (在位前 141~87] の時代には中央集権制を確立。匈奴を討って西域と通じ、朝鮮、ベトナムに遠征して領土を拡大した。しかし帝の死後外戚など側近が権勢を張り、初始1 [8] 年には外戚王氏出身の王莽が帝位を奪って新を建てた。したがって新以前を前漢と呼ぶ。新は長く続かず、更始3 [25] 年には漢の一族劉秀 (→光武帝 ) が諸賊を破って帝位につき、都を洛陽に定め漢を復興した。以後を後漢と呼ぶ。4代の和帝の頃から再び外戚、宦官が権力を握り帝位を左右したため、一般官僚との間に激しい争いを展開した。中平1 [184] 年農民による黄巾の乱が起こると各地に群雄が割拠、やがて曹操、劉備、孫権がそれぞれ華北、蜀、呉の3地に分立し、延康1 [220] 年献帝は曹操の子曹丕 (そうひ。→文帝) に譲位して、漢は滅亡した。なお都の位置により前漢を西漢、後漢を東漢とも呼ぶ。
-202漢(前漢・西漢)[前202~8]
前漢(西漢)。前202年項羽を倒した劉邦(高祖)は天下を統一、長安に都して官制・法律のほとんどを秦制にならい、いわゆる郡国制を行って地方を治めた。高祖没後、妻の呂后(りょこう)一族の専権をみたが、文帝は内治に努めた。前154年の呉楚七国の乱を経て、7代武帝は財政強化を図り、儒教を国教として思想的統一を行い、北辺の匈奴(きょうど)を討ち、朝鮮には楽浪郡など4郡を設置、また西域に進出するなど内外に意を用いて中央集権的専制支配を完成。15代にして後8年王莽(おうもう)に簒奪(さんだつ)される。
(-中原-漢(前漢・西漢)、朝鮮)-中国史人物事典⇒歴代皇帝-
-195衛氏朝鮮[-195ごろ~-108](衛氏朝鮮-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195古朝鮮(衛氏朝鮮)-195ごろ~-108(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)-消滅した政権一覧-
衛満(えいまん) []
朝鮮王。中国、燕(えん)の人。前190年ごろ箕子(きし)朝鮮の王箕準(きじゅん)を追い払い、衛氏朝鮮を興した。生没年未詳。
中国の燕から亡命してきた衛満によって、箕子子孫から王権を奪い、衛氏朝鮮を建国し、首都を平壌におく。歴史的に検証可能な最初の国家であると、されている。
【古朝鮮】より
…漢の武帝によって楽浪ほか3郡が設立される以前の朝鮮古代の総称。通常は《史記》《漢書》所見の箕子(きし)朝鮮と衛氏朝鮮の2王朝をいうが、《三国遺事》の伝える檀君朝鮮(檀君)を上述の2王朝に先行させて、三つを古朝鮮という場合もある。《三国遺事》の伝えるところによると紀元前約2000年以前に檀君王倹が都を阿斯達に定め、朝鮮を建国したことになっている。…
衛氏朝鮮
えいしちょうせん
紀元前2世紀、西北朝鮮に燕(えん)の亡命者衛満(えいまん)が建国した王朝。
衛氏朝鮮
えいしちょうせん
古朝鮮の王朝の一。紀元前二世紀初め、燕えんの亡命者衛満箕子朝鮮(きし)を滅ぼして建国。都は王険城(現在の平壌)。
衛氏朝鮮
えいしちょうせん
朝鮮古代の王朝名。いわゆる古朝鮮の一つ。。その前の伝承的存在の檀君朝鮮、前12世紀の殷(いん)人箕子に始まるとされる箕子 (きし) 朝鮮 (→箕子東来説 ) と合せ、古朝鮮という名称で一括される。
衛氏朝鮮''
燕人の国
伝説の箕子朝鮮が実在していたかどうかは、はっきりわからない。衛氏朝鮮に関する史料はきわめて少く詳細は不明であるが、中国人を首長とし、その下に在地土着の韓族連盟をなしていたものと解釈されている。
また、中国を統一した「秦」は、BC214年に朝鮮に迫り、「朝鮮」はあらためて秦に服属した。
 秦が滅び、漢が成立するまでの間、激しい動乱により「燕」「斉」「趙」などから多数の中国人が朝鮮の方へ逃げてきた。
司馬遷の「史記」によれば、漢が中国を統一すると、廬綰(ろかん)を燕王とした。BC195年に燕国が漢と対立して滅亡すると、廬綰は匈奴へ亡命した。このとき、満は一千余人を率いて朝鮮に亡命して、朝鮮の実権を奪い、朝鮮半島南部の「真番」や朝鮮半島東岸の「臨屯」も支配下におさめた。これが、衛氏朝鮮である。
『史記』によれば前漢の高祖 12 年前195年に、燕王盧綰(ろわん)が漢に背反したとき、その部将の衛満が部下1000余人をひきいて浿水(ばいすい)現在の鴨緑江または大同江) を渡り、(位置に諸説あり)を渡り北朝鮮の地に亡命した。
そして、その家臣衛満は千人余りを従えて朝鮮に入り、王険城(平壌)を首都として衛氏朝鮮を建国した。 BC195年頃のことである。
前2世紀初め、燕(えん)から亡命した衛満が建国。
前108年、衛満の孫、右渠(うきょ)の代に漢の武帝に攻められて滅亡。
満は当初、箕子朝鮮(きし)最後の王、箕準に仕えていたが、漢の恵帝のとき、準を滅ぼして王となり、王険城(平壌(ピョンヤン))に都した。
やがて漢の外臣となった満は、近隣諸部族を服属させ、その領域は方数千里と伝えられている。
孫の右渠(うきょ)のときには、漢に対しても強硬な姿勢をとったため、前109年、武帝は大軍を遣わして王険城を包囲し、翌年これを滅ぼした。
始祖の衛満をはじめ、支配者層に移住中国人が多いことから、一般に植民地的政権とみなされやすいが、自立的な土着豪族勢力の存在は軽視できず、むしろ両者の妥協のうえに成立した連合的政権と考えられる。また衛満は朝鮮人系の燕在住者であったとする説もある。
前12世紀の殷(いん)人箕子に始まるとされる箕子朝鮮とあわせて古朝鮮と呼称されることがあり、さらにそれ以前の檀君(だんくん)神話の檀君朝鮮を加えることもある。
朝鮮半島北西部は古来から中国との交流がおこなわれ、政治、経済、文化の諸般に深い影響を受けていたようである。
そして、いよいよ実在が確認されている衛氏(えいし)朝鮮が登場します。(紀元前195年ごろ~紀元前108年)
箕子(きし)朝鮮国最後の国王、箕準(淮とも記す)に信頼され官職を授けられ封地も賜ったという。
中国から亡命した衛満が箕子(きし)朝鮮の国を奪い、前190年ころ王倹城(今の平壌付近)を都として建国。約80年間朝鮮北部を支配したが、
衛氏朝鮮は独立国家として振舞うが、BC108年に漢の武帝に滅ぼされ、漢の直轄地となった。
『魏略 (ぎりゃく) 』によると彼はその地の国王で箕子朝鮮国最後の王、箕準の信頼を得て逐次昇進し、やがて箕準を追放して王となり王険城 (現在の平壌といわれる) を首都とし、近隣諸国を討ち真番、臨屯郡方面も服属するにいたった。
-195後漢末期になると、遼東半島で台頭した公孫氏が楽浪郡を支配し、その南に帯方郡を設置した。(衛氏朝鮮-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195-195年ごろ~-108年そして、いよいよ実在が確認されている衛氏(えいし)朝鮮が登場します。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195衛氏朝鮮は、中国の燕から亡命した、衛満(えいまん)によって建国されました。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195そして、その家臣衛満は千人余りを従えて朝鮮に入り、王険城(平壌)を首都として衛氏朝鮮を建国した。-195年頃のことである。衛満古朝鮮の王になる。王都は王険城。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195衛満衛氏朝鮮を建国。(--、朝鮮)--
-194中国の燕から亡命してきた衛満によって、衛氏朝鮮建国。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194衛満、古朝鮮の王となる(-東アジア-衛氏朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-194衛満の執権
 西方地地方で勢力を養った衞満が準王を追い出し古朝鮮の王となった。[-194年)
 この時期鉄器文化が広がり、また、韓半島南部地方の辰の諸国は漢との中継貿易で強国となった。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194中国の燕から亡命してきた衛満によって、箕子子孫から王権を奪い、衛氏朝鮮を建国し、首都を平壌におく。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194歴史的に検証可能な最初の国家であると、されている。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194衛満,王倹城に攻め入り,準王を追放して古朝鮮の王となる
衛満の執権
西方地地方で勢力を養った衞満が準王を追い出し古朝鮮の王となった。[-194年)
この時期鉄器文化が広がり、また、韓半島南部地方の辰の諸国は漢との中継貿易で強国となった。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
劉徹[前159~前87]
字は通。前漢の七代武帝。廟号は世宗。在位前141~前87。景帝(劉啓)の子。母は王夫人。はじめ膠東王に封ぜられた。景帝後元三年[前141]、十六歳で即位した。当初は祖母の竇太皇太后に実権を握られた。自ら信任した儒者を太皇太后の怒りを買ったため退けたりした。祖母が崩ずると、次は王皇太后とその外戚の王氏・田氏が朝政を専断した。王皇太后が崩じると親政を開始した。対外政策では、従来の消極策を捨て、衛青や霍去病を登用して、匈奴を討たせ、北方に追いやった。東に楽浪郡ほか朝鮮四郡を置き、西に張騫を送って西域との交流を開いた。汗血馬を求めて、フェルガナ遠征まで行っている。内政面では、桑弘羊・東方朔らを登用し、諸侯の力を削ぎ、郷挙里選の法を立て、塩や鉄を専売にし、均輸法・平準法を公布して物価を統制しようとした。しかし、相次ぐ外征のため、文帝・景帝時代の莫大な蓄積を食いつぶし、さらに財政を破綻させ、多くの新税を導入して、農民を窮乏化させた。晩年、武帝のもとで辣腕を振るった江充が、皇太子(劉拠)と対立し、武帝死後のことを恐れて、巫蠱事件をでっち上げて皇太子を冤罪に落とそうとした。皇太子は江充を討とうとして謀反の罪を着せられ、長安市街での戦いに敗れ、自殺した(巫蠱の乱)。翌年、無実が判明。武帝は皇太子を悼んで思子宮を造営した。末子の弗陵(昭帝)を後継者に定め、霍光・金日テイ※1・上官桀の三人に後事を託して崩じた。