神武天皇

神武天皇

じんむてんのう
 -711.1.1~-585.3.11

別:
野尊(さぬ)神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこ)彦火火出見(ひこほほでみ)神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)若御毛沼命(わかみけぬのみこと)豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)豊毛沼命(とよけぬのみこと)神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
父:
鵜葺草葺不合神(命)(うがやふきあえず)の第四皇子
母:
海神の女(むすめ)玉依姫命
室:
媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)(父:三輪大物主神(磯城県主?))
子:
手研耳尊、神八井命(かむやいのみこと)神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのすめら)(綏靖天皇)

第1代に数えられる天皇。名は神日本磐余彦尊、武は諡号。「記紀」によればニニギノミコトの曾孫,彦波瀲武盧茲草葺不合尊の子,母は妃玉依姫命。日向を出発して瀬戸内海を東進し,難波に上陸したが,ナガスネヒコの軍に妨げられ,迂回して吉野を経て大和に攻め入り,ついに大和一帯を平定,前 660年大和畝傍橿原宮に都し,元旦に即位し,媛蹈鞴五十鈴媛命を立てて皇后とし,127歳で没したと伝えられる。これは『日本書紀』の紀年法の誤りからきたもので,考古学的にみれば原始社会の段階における大和の一土豪として喧伝されてきた話を,こんな形で描いたものであろうといわれ,その東征説話も大和朝廷の発展期における皇室の淵源を悠遠のかなたにおき,九州と大和との連係の必然性をうたおうとしたものであろうといわれる。また崇神天皇こそ第1代天皇で,神武天皇はその投影であるとする説もある。陵墓は奈良県橿原市の畝傍山東北陵。

神格:軍神神社:橿原神宮、宮崎神宮、狭野神社
皇居・畝傍橿原宮(うねびかしはらのみや) 奈良県橿原市
陵墓・陵名: 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)
古墳: ミサンザイ古墳
形状: 円丘

鵜葺草葺不合神と玉依姫神の第四子。
記紀所伝の初代天皇で建国の祖。
神武という名は8世紀後半の命名による漢風諡号(しごう)
記紀には
(1)若御毛沼命(わかみけぬ)・・・・・・・・・・・・・・穀霊的性格を示す幼名
(2)神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ)・・・・・・神聖な大和の国のいわれ(由緒)を負うている男
(3)始馭天下之天皇(はつくにしらししすめらみこと)・・・初めて天下を治定した天皇の意
ほか多くの名が記されている。

高天原(たかまがはら)より天津神(あまつかみ)の子として九州の日向(ひゅうが)高千穂の峰に降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曾孫とされる。
45歳のとき、船軍を率いて日向国を出発し、瀬戸内海を東へ進み、難波(なにわ)に上陸して大和(やまと)に向かおうとしたが、土地の豪族長髄彦(ながすねひこ)の軍に妨げられ、方向を変え紀伊半島を迂回(うかい)して熊野から吉野を経て大和攻めに入り、土豪たちを征服し、ついに長髄彦を倒して、日向出発以来、6年目(『古事記』では16年以上かかる)で大和平定に成功。
前660年大和畝傍橿原宮を営んで辛酉(かのととり)の年元旦に初代の天皇の位に即位し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と讃(たた)えられた。
そして媛蹈五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)(『記』では比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ))を皇后とし、神武天皇76年3月11日崩御。在位76年、127歳(『記』では137歳)。
奈良県橿原市の畝傍山東北陵に葬られたという。

神さまとしての神武天皇
神武天皇というのは軍神、英雄神といった一側面は一般によく知られているところだが、そもそも曾祖父である邇邇芸命は、高天原から地上に降った稲穂の神(穀物の精霊)である。神武天皇は、「神代」に生まれ「人代」の世界に足を踏み入れた存在という境目に位置するなかなかに特異な神さまである。神武天皇の別名の「穂穂手見」は、稲穂から連想された名前で、さらには「穂穂手見」の名称は、稲の豊穣を祈る古代の農耕祭儀と関係する呪術的な意味合いを持つ。別名の若御毛沼命の「ミケヌ」は「御饌」のことで、神の食物=穀物を意味しており、この神の原初的な性格は稲作儀礼に深く関わる
父神の鵜葺草葺不合神の母は豊玉姫命であり、神武天皇の母は玉依姫命である。この二神の女神は姉妹で、海神の娘であるから、神武天皇には血筋として海の神としての性格も備わっているということができる。
 以上のように、軍神として、長寿や開運といった霊力が注目されている。しかし、その本源的な性格は、農業の神あるいは海の神として、豊穣を約束し生活を守護する機能を持つ神といえよう。 

神武天皇架空説
神武天皇については、古事記にも日本書紀にも詳しい記述があるのだが、第2代・綏靖(すいぜい)天皇から第9代・開化天皇までの記述は非常に簡単である。そして、第10代崇神(すじん)天皇になると、とたんに詳細になる。そのことから第2代から第9代までの天皇は実在しなかったのではないかといわれることがある。
そういう説を取ると、神武天皇の実在性にも疑問が出てくる。ただ、記紀の記述から全くの作り話とも思えない。そこで、神武天皇は始馭天下之天皇という称号が崇神(すじん)天皇と共通するので、崇神天皇こそ第1代天皇で、神武天皇はその投影であるとする説もある。
第15代・応神天皇の分身ではないかと。
考古学的にみれば原始社会の段階における大和の一土豪として喧伝されてきた話を、こんな形で描いたものであろうといわれ、その東征説話も大和朝廷の発展期における皇室の淵源を悠遠のかなたにおき、九州と大和との連係の必然性をうたおうとしたものであろうといわれる。

略歴

-711庚午- 01月01日 神日本磐余彦尊(神武天皇) 、生誕
-697神日本磐余彦尊(神武天皇) 、立太子
-667神日本磐余彦尊(神武天皇) 、筑紫の国の岡水門に到着
-667神日本磐余彦尊(神武天皇) 、安芸国に着き埃宮(えのみや)を訪問
-66710月05日神日本磐余彦尊、諸皇子、舟軍を率いて日向の国を出発し大和国をめざし東征開始
-667甲寅-11月09日 神日本磐余彦尊(神武天皇) 、筑紫の国の岡水門に到着
-667甲寅-12月27日 神日本磐余彦尊(神武天皇) 、安芸国に着き埃宮(えのみや)を訪問
-667甲寅-10月05日 諸皇子、舟軍を率いて日向の国を出発し大和国をめざし東征開始
-667甲寅-11月09日 筑紫の国の岡水門に到着
-667甲寅-12月27日 安芸国に着き埃宮(えのみや)を訪問
-66603月06日神日本磐余彦尊は吉備国に到着。高島宮をつくり移動し、そこで船軍を整える
-663神日本磐余彦尊(神武天皇) の軍が吉備の国を出発し東征再開
-663神日本磐余彦尊(神武天皇) 、難波に到着し川を遡り河内国草香の青雲の白肩津に到着
-663神日本磐余彦尊(神武天皇) 、兵を整え徒歩で竜田に向かい長髄彦(ながすねひこ)と戦い撤退
-663神日本磐余彦尊(神武天皇) 、軍は茅渟の山城水門(やまきのみなと)に到着
-663神日本磐余彦尊(神武天皇) 、軍は名草村(なくさむら)に到着
-663神日本磐余彦尊(神武天皇) 、宇陀の地で兄猾(えうかし)の謀略を破る
-663神日本磐余彦尊(神武天皇) 、宇陀の高倉山に登る
-663神日本磐余彦尊、金色に光り輝く鵄(とび)が弓の先にとまり、長髄彦(ながすねひこ)を討つ
-663戊午-02月11日 神日本磐余彦尊(神武天皇) 、吉備の国を出発し再び東征を開始
-66303月10日 神日本磐余彦尊、難波に到着し川を遡り河内国草香の青雲の白肩津に到着
-66304月09日神日本磐余彦尊 、兵を整え徒歩で竜田に向かい長髄彦(ながすねひこ)と戦い撤退
-66305月08日 神日本磐余彦尊(神武天皇) 、軍は茅渟の山城水門(やまきのみなと)に到着
-66306月23日 神日本磐余彦尊(神武天皇) 、軍は名草村(なくさむら)に到着
-663戊午-08月02日 神日本磐余彦尊(神武天皇) 、宇陀の地で兄猾(えうかし)の謀略を破る
-663戊午-09月05日 神日本磐余彦尊、宇陀の高倉山に登る
-66312月04日 神日本磐余彦尊 、金色に光り輝く鵄(とび)が弓の先にとまり、長髄彦を討つ
-663-戊午-02月11日 吉備の国を出発し再び東征を開始
-663-戊午-03月10日 難波に到着し川を遡り河内国草香の青雲の白肩津に到着
-663-戊午-04月09日 兵を整え徒歩で竜田に向かい長髄彦(ながすねひこ)と戦い撤退
-663-戊午-05月08日 軍は茅渟の山城水門(やまきのみなと)に到着
-663-戊午-06月23日 軍は名草村(なくさむら)に到着
-663-戊午-08月02日 宇陀の地で兄猾(えうかし)の謀略を破る
-663-戊午-09月05日 宇陀の高倉山に登る
-66312月04日 金色に光り輝く鵄(とび)が弓の先にとまり、長髄彦(ながすねひこ)を討つ
-662己未-03月07日 神日本磐余彦尊(神武天皇) 、橿原宮造営の開始
-66101.01 第1代 神武天皇橿原宮で(神武天皇元(前660)正.1~神武天皇76(前585)3.11)
-66109月24日神武天皇は事代主神の娘媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とする
-619壬寅-神武42年01月03日 神武天皇(神日本磐余彦尊) 、神渟名川耳尊を皇太子とする
-585丙子-神武76年3月11日 神武天皇(神日本磐余彦尊) 、崩御127歳
-584神武天皇を畝傍山の東北の陵に葬った
-584丁丑-9月12日 神武天皇(神日本磐余彦尊) 、畝傍山の東北の陵に葬られる.

神武天皇(神日本磐余彦尊)

  生没年:BC711-BC585
  父:彦波瀲武盧茲草葺不合尊
    BC697-BC660 皇太子
    BC660-BC585 神武天皇
  皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(父:三輪大物主神(磯城県主?))
    神八井耳命(阿蘇氏へ)
    BC632-BC549 神渟名川耳尊(綏靖天皇)
  妃:吾平津媛
    手研耳命
    岐須美々命
    研耳命
  妃:茨田連
    彦八井耳命


彦波瀲武盧茲草葺不合尊━┳━彦五瀬命(五瀬命)
            ┣━稲飯命(稲氷命、彦稲氷命)
            ┣━三毛入野命(御毛沼命)
            ┗━神武天皇━┳━神八井耳命(阿蘇氏へ)
                   ┣━手研耳命
                   ┣━神渟名川耳尊(綏靖天皇)
                   ┣━岐須美々命
                   ┣━研耳命
                   ┗━彦八井耳命


神武天皇

じんむてんのう

神武天皇
じんむてんのう
別名
若御毛沼命:わかみけのみこと
豊御毛沼命:とよみけのみこと
神倭伊波礼毘古命:かむやまといわれびこのみこと
神日本磐余彦尊:かむやまといわれひこのみこと
狭野尊:さののみこと
磐余彦尊:いわれひこのみこと
神日本磐余彦火火出見尊:かむやまといわれひこほほでみのみこと
磐余彦火火出見尊:いわれひこほほでみのみこと
彦火火出見尊:ひこほほでみのみこと
……
初代天皇。鵜葺草葺不合命の子。『日本書紀』には実名は、彦火火出見尊となっており、祖父と同じ名を持つ。
『古事記』では、四兄弟の末子。 兄は、五瀬命、稲氷命、御毛沼命。御毛沼命は常世国へ、稲氷命は母の海神の国へ行った。
神武天皇(神倭伊波礼毘古命)は、五瀬命と高千穂の宮で謀って東征を決意。 日向から豊前、筑紫、安芸、吉備、浪速と進むが、登美能那賀須泥毘古と戦いになった。 この時、天皇軍は西から攻めていたが、兄の五瀬命が流れ矢に当って深手を負われた。 そして五瀬命は「我々は日神の子孫でありながら、東より上る太陽に向って攻めたのがいけない。 回り道をしてでも東に出て、太陽を背に戦おう」といわれ、熊野へ迂回して進軍する途中、 五瀬命は戦死した。
紀州熊野から進軍し、高倉下や八咫烏の助けで吉野に入り、 数々の戦いを経て、遂に太陽を背にして、登美能那賀須泥毘古と対峙。 邇芸速日命の帰順などにより、勝利をおさめ、橿原宮で即位して、初代天皇となった。
日向国にいた頃、吾田邑の吾平津媛(阿多の小椅の君の妹、阿比良比売)を妃として、 多芸志美美命(手研耳命)と岐須美美命(『日本書紀』には登場しない)を生んだ。
橿原宮で即位されたあと、媛蹈鞴五十鈴媛命(富登多多良伊須須岐比売命)を皇后とし、 日子八井命(『日本書紀』には登場しない)、神八井耳命、神沼河耳命(のちの第二代天皇・綏靖天皇)を生んだ。
神武天皇は橿原宮で崩御し、畝傍山の東北の陵の葬られた。


***神武天皇
じんむてんのう
 -711.1.1~-585.3.11
別:野尊(さぬ)、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこ)、彦火火出見(ひこほほでみ)神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)、豊毛沼命(とよけぬのみこと)、神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)、神日本磐余彦尊
父:鵜葺草葺不合神(命)(うがやふきあえず)の第四皇子
母:海神の女(むすめ)玉依姫命
室:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)(父:三輪大物主神(磯城県主?))
子:手研耳尊、神八井命(かむやいのみこと)、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのすめら)(綏靖天皇)

第1代に数えられる天皇。名は神日本磐余彦尊、武は諡号。「記紀」によればニニギノミコトの曾孫,彦波瀲武盧茲草葺不合尊の子,母は妃玉依姫命。日向を出発して瀬戸内海を東進し,難波に上陸したが,ナガスネヒコの軍に妨げられ,迂回して吉野を経て大和に攻め入り,ついに大和一帯を平定,前 660年大和畝傍橿原宮に都し,元旦に即位し,媛蹈鞴五十鈴媛命を立てて皇后とし,127歳で没したと伝えられる。これは『日本書紀』の紀年法の誤りからきたもので,考古学的にみれば原始社会の段階における大和の一土豪として喧伝されてきた話を,こんな形で描いたものであろうといわれ,その東征説話も大和朝廷の発展期における皇室の淵源を悠遠のかなたにおき,九州と大和との連係の必然性をうたおうとしたものであろうといわれる。また崇神天皇こそ第1代天皇で,神武天皇はその投影であるとする説もある。陵墓は奈良県橿原市の畝傍山東北陵。

神格:軍神神社:橿原神宮、宮崎神宮、狭野神社
皇居・畝傍橿原宮(うねびかしはらのみや) 奈良県橿原市
陵墓・陵名: 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)
古墳: ミサンザイ古墳
形状: 円丘

鵜葺草葺不合神と玉依姫神の第四子。
記紀所伝の初代天皇で建国の祖。
神武という名は8世紀後半の命名による漢風諡号(しごう)
記紀には
(1)若御毛沼命(わかみけぬ)・・・・・・・・・・・・・・穀霊的性格を示す幼名
(2)神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ)・・・・・・神聖な大和の国のいわれ(由緒)を負うている男
(3)始馭天下之天皇(はつくにしらししすめらみこと)・・・初めて天下を治定した天皇の意
ほか多くの名が記されている。

高天原(たかまがはら)より天津神(あまつかみ)の子として九州の日向(ひゅうが)高千穂の峰に降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曾孫とされる。
45歳のとき、船軍を率いて日向国を出発し、瀬戸内海を東へ進み、難波(なにわ)に上陸して大和(やまと)に向かおうとしたが、土地の豪族長髄彦(ながすねひこ)の軍に妨げられ、方向を変え紀伊半島を迂回(うかい)して熊野から吉野を経て大和攻めに入り、土豪たちを征服し、ついに長髄彦を倒して、日向出発以来、6年目(『古事記』では16年以上かかる)で大和平定に成功。
前660年大和畝傍橿原宮を営んで辛酉(かのととり)の年元旦に初代の天皇の位に即位し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と讃(たた)えられた。
そして媛蹈五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)(『記』では比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ))を皇后とし、神武天皇76年3月11日崩御。在位76年、127歳(『記』では137歳)。
奈良県橿原市の畝傍山東北陵に葬られたという。


神武天皇(読み)じんむてんのう

日本大百科全書(ニッポニカ)「神武天皇」の解説

神武天皇
じんむてんのう

記紀に第1代と伝える天皇。神武という名は8世紀後半に贈られた中国風の諡号(しごう)である。『日本書紀』によれば、国風諡号は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)。高天原(たかまがはら)から南九州の日向(ひゅうが)に降(くだ)った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫(そうそん)で、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第4子、母は海神の女(むすめ)玉依姫(たまよりひめ)。45歳のとき、船軍を率いて日向を出発し、瀬戸内海を東へ進み、難波(なにわ)に上陸して大和(やまと)に向かおうとしたが、土地の豪族長髄彦(ながすねひこ)の軍に妨げられ(東征)、方向を変え、紀伊半島を迂回(うかい)して熊野から大和に入り、土豪たちを征服し、ついに長髄彦を倒して、日向出発以来、6年目(『古事記』では16年以上かかる)で大和平定に成功し、辛酉(かのととり)の年元旦(がんたん)、畝火(うねび)(橿原(かしはら)市の地)の橿原宮で初代の天皇の位につき、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と讃(たた)えられた(大和平定)。そして媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)(『記』では比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ))を皇后とし、在位76年、127歳(『記』では137歳)で没して畝傍(うねび)山東北陵に葬られたという。

 記紀における神武天皇は、神の代から人の代への接点に位置する神話的な人物であり、即位の辛酉の年(紀元前660年)は中国の讖緯(しんい)思想によってつくられ、事績には神話的な色彩が濃く、史実を伝えるものはほとんどないといわれる。しかし、神武天皇の物語の核心をなす東征の部分には、皇室の遠い祖先が西方からきたという記憶が反映しているとみる説もある。

[星野良作]

『植村清二著『神武天皇』(1957・至文堂)』▽『門脇禎二著『神武天皇』(三一新書)』▽『原島礼二著『神武天皇の誕生』(1975・新人物往来社)』▽『星野良作著『研究史 神武天皇』(1980・吉川弘文館)』
[参照項目] | 始馭天下之天皇

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「神武天皇」の解説

神武天皇
じんむてんのう
第1代に数えられる天皇。名はカンヤマトイワレヒコノミコト,神武は諡号。「記紀」によればニニギノミコトの曾孫,ウガヤフキアエズノミコトの子,母は妃タマヨリヒメノミコト。日向を出発して瀬戸内海を東進し,難波に上陸したが,ナガスネヒコの軍に妨げられ,迂回して吉野を経て大和に攻め入り,ついに大和一帯を平定,前 660年大和畝傍橿原宮に都し,元旦に即位し,ヒメタタライスズヒメノミコトを立てて皇后とし,127歳で没したと伝えられる。これは『日本書紀』の紀年法の誤りからきたもので,考古学的にみれば原始社会の段階における大和の一土豪として喧伝されてきた話を,こんな形で描いたものであろうといわれ,その東征説話も大和朝廷の発展期における皇室の淵源を悠遠のかなたにおき,九州と大和との連係の必然性をうたおうとしたものであろうといわれる。また崇神天皇こそ第1代天皇で,神武天皇はその投影であるとする説もある。陵墓は奈良県橿原市の畝傍山東北陵。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus「神武天皇」の解説

神武天皇 じんむてんのう
記・紀系譜による第1代天皇。
父は鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)。母は玉依(たまより)姫。伝説上の人物ともいわれる。「日本書紀」によると,九州の日向(ひゅうが)高千穂の峰に天くだった瓊瓊杵(ににぎの)尊の3代の孫で,45歳のとき東征して大和を平定し,橿原(かしはらの)宮で即位,この年を天皇元年とした。神武天皇76年3月11日死去。127歳。墓所は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)(奈良県橿原市)。諱(いみな)は彦火火出見(ひこほほでみ)。別名に神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)。

精選版 日本国語大辞典「神武天皇」の解説

じんむ‐てんのう ‥テンワウ【神武天皇
第一代と伝えられる天皇。父は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫。名は神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこのみこと)。「古事記」「日本書紀」にみえる事績によれば、日向国(宮崎県)から東征して瀬戸内海を通り、難波に上陸、熊野から吉野を経て大和を平定し、橿原宮で西暦紀元前六六〇年に即位したという。明治以後この年を皇紀元年とした。もとより史実ではなく、その記述の解釈について多くの問題が残されている。陵墓は奈良県の橿原市畝傍山東北陵。

旺文社日本史事典 三訂版「神武天皇」の解説

神武天皇
じんむてんのう
記紀の伝承にみえる初代天皇
和風諡号は神日本磐余彦 (かむやまといわれひこ) 。瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) の曽孫。日向国(宮崎県)から東征。長髄彦 (ながすねひこ) を討って大和(奈良県)を平定し,辛酉の年に大和の橿原宮に即位。この年が西暦紀元前660年で,日本紀元元年とされる(➡ 讖緯 (しんい) 説)。天皇は127歳で死んだというが,実在とは考えられず,史実ではない。10代崇神天皇(始馭天下之天皇 (はつくにしらすすめらみこと) )と同一視する説もある。

百科事典マイペディア「神武天皇」の解説

神武天皇【じんむてんのう】
《日本書紀》での建国の天皇。和風諡号(しごう)は神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇。天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊の曾孫とされ,日向(ひゅうが)から東征して大和(やまと)に入り,橿原(かしはら)宮を営んで即位したというが,もとより史実ではない。〈はつくにしらすすめらみこと〉という称号が崇神(すじん)天皇と共通するので,その投影とみる説もある。
→関連項目磐余|忍坂|橿原宮|紀元節|久米歌|美々津

デジタル大辞泉「神武天皇」の解説

じんむ‐てんのう〔‐テンワウ〕【神武天皇
記紀で、第1代の天皇。名は神日本磐余彦。日向を出て瀬戸内海を東へ進み、大和を平定して前660年橿原宮で即位したと伝えられる。

世界大百科事典 第2版「神武天皇」の解説

じんむてんのう【神武天皇
《古事記》《日本書紀》に伝えられ初代の天皇とされる。高天原(たかまがはら)より天津神(あまつかみ)の子として地上に降臨した瓊瓊杵(ににぎ)尊の曾孫とされる。神武という名は8世紀後半の命名による漢風諡号(しごう)で,記紀には,(1)若御毛沼(わかみけぬ)命,(2)神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)命,(3)始馭天下之天皇(はつくにしらししすめらみこと)ほか多くの名が記されている。(1)は穀霊的性格を示す幼名にあたり,(2)は神聖な大和の国のいわれ(由緒)を負うている男,(3)は初めて天下を治定した天皇の意である。

世界大百科事典内の神武天皇の言及

【海幸・山幸】より

…なおこの後トヨタマヒメがこの国を訪れ,海辺で子を生む。これが鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)で,神武天皇はその子である。一方ウミサチは隼人(はやと)族の祖となった。…
【金鵄勲章】より

…清国との戦争に備えて,鎮台組織から新師団編成への改変,陸海軍における軍備拡張など,いわゆる対内的軍隊から対外的軍隊への具体的移行がすすめられた時期にとられた政策の一つ。神武天皇東征の際,天皇の弓にとまった金色のトビ(鵄)が長髄彦(ながすねひこ)の軍卒を眩惑・圧倒したという故事にちなんで制定され,軍人の名誉心をそそろうとするものであった。功一級から功七級に至る。…
【事代主神】より

…記紀神話においては大国主(おおくにぬし)神の子として国譲りの誓約を行い,その後は大和の宇奈提(うなで)に〈皇孫命(すめみまのみこと)の近き守り神〉として祭られた(《出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)》)。また,この神が八尋(やひろ)ワニとなって三嶋溝樴(みぞくい)姫と結婚し神武天皇の后となる姫を生んだという三輪山(みわやま)型説話(三輪山伝説)も伝えられている(《日本書紀》)。コトシロヌシは本来は祈年祭の祝詞にいう大和六県の一つ,高市県(たけちのあがた)で祭られていた飛鳥地方の土着の国津神(くにつかみ)であった。…
【高倉下】より

…記紀の神武天皇条にあらわれる人物。神武天皇東征の際,熊野において化熊が出現し,天皇の軍を惑乱させてしまう。…
【武甕槌神】より

…その姿は,石や岩,山や水などの自然物に象徴される国津神(くにつかみ)を威嚇するのに十分であり,剣は悪霊ざわめく葦原中国を平定する武力と権威の象徴でありえた。したがってタケミカヅチの剣は熊野で難渋していた東征中の神武天皇に降(くだ)し与えられることにもなる。この剣を〈フツノミタマ〉という。…

※「神武天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。


天皇家