長野「公園廃止問題」を炎上させる感情的な人たち

長野「公園廃止問題」を炎上させる感情的な人たち 「老人クレーマーvs子育て世代」という単純な図式を捨て、まずは公園の歴史を学べ

12/12(月) 17:31配信

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Merkmal
多数の種類が存在する「公園」
青木島遊園地(画像:(C)Google)

 長野県長野市にある青木島遊園地の問題が、全国的なニュースになって注目を集めている。青木島遊園地は、「遊園地」という名称こそ付いているものの、東京ディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンのような遊園地ではない。

【画像】「クレームによって閉鎖される」として大注目の「青木島遊園地」を画像で見る(15枚)

 長野市では一般的には公園と呼ばれるオープンスペースを遊園地と呼ぶケースがあり、長野市のウェブサイトでも

「小規模な公園や緑地のことです。長野市内には現在約520の遊園地があります」

と説明されている。

 誰もが自由に遊べ、気軽に散策できる公園は地域住民の憩いの場にもなり、近隣の保育所・学校などから子どもたちの遊び場にもなる。青木島遊園地もそうした機能を有していた。

 報道では、近隣住民ひとりが「子どもたちの遊ぶ声がうるさい」と苦情を入れたことによって、市が公園の閉鎖を決めたとされる。そのため、SNSでは苦情を入れた住民をクレーマー扱いする論調が目立ち、また影響力のあるインフルエンサーからも「子どもが公園で自由に遊べないことはおかしい」と問題視する発言が相次いだ。

 これらによって犯人探しに問題の焦点が当てられ、青木島遊園地をめぐる問題は

「高齢者vs子育て世代」

という単純な図式で語られるようになってしまった。

 これでは感情だけの議論になって解決策は見いだすことはできない。それは、仮に青木島遊園地の問題は解決できても公園が抱える根本的な問題を解決することはできない。

 後述するが、日本全国でも同種の問題を抱えている。いつ同様の騒動が発生するかはわからない。そのためにも、青木島遊園地の問題はきちんと問題点を整理して解決していかなければならない。

 世間の耳目を集めることになった長野市の青木島遊園地だが、これは公園行政の難しさを端的に表しているといっていい。公共施設において身近な公園が、実は複雑であることが知られていない。そのため、ひとくくりに公園と捉えられてしまう。私たちが普段から公園と呼んで親しんでいるオープンスペースには多数の種類が存在し、それらは設置の根拠となる法令や所管する官庁も異なるのだ。

 長野市のウェブサイトを見ると、長野市が都市公園と規定している公園・緑地は全126か所ある。その内訳は

・街区公園:85
・近隣公園:23
・地区公園:6
・総合公園:3
・運動公園:2
・特殊公園:3
・緑地:4

となっている。

 これは公園を役割から分類したもので、このうち街区公園・近隣公園・地区公園は「住区基幹公園」と呼ばれる。住区基幹公園は一般的に近隣住民のための公共スペースと解釈され、都市生活に不可欠なインフラとして位置付けられている。近所にある公園も、多くは住区基幹公園と考えて差し支えない。総合公園と運動公園は判別しづらいが、少し大きめの公園で、スタジアムや競技場といった運動施設が付帯されている公園と考えればいいだろう。

 こうした公園の分類において、あまり聞いたことがないのが特殊公園だろう。国土交通省は特殊公園を

「風致公園、動植物公園、歴史公園、墓園等特殊な公園」

と定義している。東京で例えるなら、上野恩賜公園や青山霊園などが特殊公園にあたる。青木島遊園地のように、公園という名称でなくても公園として扱われるオープンスペースは多々あるのだ。

公園行政が複雑な理由
新宿中央公園(画像:写真AC)

 こうした役割上の分類が複雑な上、所管する部署が異なることも公園問題を複雑にしている要因だ。公園には主に国・都道府県・市区町村が管轄するものがあり、それらがどのように決まっているのかも判然としない。

 東京都庁舎の麓に広がる新宿中央公園は1968(昭和43)年に都立公園として開園したが、1975年に新宿区に移管された。これにより公園の維持管理主体が都から区に変わったわけだが、そこに外見上の違いはなく、機能が変化したわけでもない。

 また、前述した葛西臨海公園は水族園などが立ち並ぶレジャースポットとして知られる都立公園だが、海に近い砂浜一帯は葛西海浜公園と区別される。葛西海浜公園は江戸川区が管轄する区立公園とで、葛西臨海公園と葛西海浜公園には特に境界線などが引かれているわけではない。一般の公園利用者が気づくことはないだろう。

 ここまで公園の複雑な部分を簡単に解説したが、どうして公園行政はこんなに複雑なのか。それは、オープンスペースという考え方が一般的に広まってきたのが明治以降で、そこから多種多様の機能を集約してしまったからだ。

環状道路を計画した後藤新平
後藤新平(画像:国立国会図書館)

 1873(明治6)年、明治新政府は太政官(だじょうかん)布達により東京の上野・浅草・芝・深川・飛鳥山の五つを公園に指定した。これらは現在も住民たちに親しまれる公園となっているが、上野・浅草・芝・深川は寺社地を公園に転用している。

 つまり、公園を開設するにあたり、政府が費用を捻出したわけではない。寺社地を転換して公園にした背景は、政府に公園を開設する資金的な余裕がなかったことも理由のひとつだが、当時はそれほど土地に対する権利や意識が強くなかったこともあるだろう。

 その後、時代がくだるにつれてオープンスペースの重要性は高まっていく。例えば、1923(大正12)年に発生した関東大震災では、地震による家屋の倒壊で多くの死傷者を出したが、震災後に起きた火事ではそれを大きく上回る死傷者を出している。

 震災による火の手は、旧江戸城の濠や日比谷公園によって延焼を免れた。震災後の復興計画では、減災・防火を目的にして道路の幅員を広げることや公園を各地に配置することが盛り込まれた。

 計画を主導した帝都復興院総裁の後藤新平は、東京に隅田公園・浜町公園・錦糸公園の三大公園を開設。同時に環状道路も計画したが、これは復興予算が莫大(ばくだい)になるとの反対意見が噴出して頓挫した。

 このときに後藤が計画した環状道路とは、現在の環状1号線(内掘通りや日比谷通りなど)から環状8号線にあたる。後藤が計画した環状道路は、戦後に再び整備計画が策定されたが、連合国軍総司令部(GHQ)によって阻まれた。その後も環状道路は断続的に整備が進められたが、関東大震災から約100年が経過しても完成していない。

 帝都復興院は国の機関だが、東京市(現・東京都)でもオープンスペースを増やす政策が取り組まれている。東京市の公園課長だった井下清は、震災復興にあたって市内に小公園を多く開設した。これらは井下が開設を主導した小公園は復興公園と呼ばれるようになるが、復興公園は多くの篤志家(とくしか)から土地を寄付してもらって実現している。

 復興公園は地域住民が震災時に避難できるような機能を持たせていたが、その多くは小学校の隣地に開設された。そのため、小学校の運動場機能も兼ねていた。逆説的にいえば、小学校のグラウンドという名目があったことで、井下が主導した復興小公園を多く開設することができたとえいる。

歩行者専用道路と公園を一体化した東久留米市
東京都東久留米市(画像:(C)Google)

 関東大震災後に開設された大公園には大規模災害に備えるという役割が含まれていたから、政府が整備することが妥当だろう。しかし、近隣住民の憩いの場として公園を整備するなら基礎自治体である市区町村が所管することが望ましい。そうした役割の違いから、公園を所管する部署が多岐に分かれていく。

 ちなみに、一般的に国が所管する公園と聞くと、多くの人たちは国土交通省の管轄下にあると考えるだろう。しかし、皇居外苑・新宿御苑(ぎょえん)・京都御苑といったオープンスペースは環境省の管轄下にある。

 ほかにも緑地保全という目的から農林水産省(林野庁)、城などの歴史的施設の跡地を継承する意味合いから文部科学省(文化庁)、国民の健康増進の場として活用する意図から厚生労働省なども公園行政と関与している。

 こうした流れを見ていくだけでも公園行政は複雑であることを理解してもらえるが、戦後はさらに公園行政が複雑化していった。出生数の増加や都市化といった社会現象も後押しして、主に都市部で公園が不足した。

 東京都は戦災で焼け野原と化してこともあり、住宅や道路といったインフラ整備が優先された。公園の復興は後回しにされる。こうした事態から、子どもたちの遊び場は不足した。それは戦災復興が一段落した1960年代に時代が移っても改善しなかった。

 厚労省(現・厚生労働省)は公園整備の財源を補うため、国民年金を活用することを模索する。こうした政府の後押しもあり、1960年代後半に入ってからは公園不足を解消しようと動く自治体も増えてくる。

 1966(昭和41)年、東京都久留米町(現・東久留米市)は歩行者専用道路と公園を一体化する政策に着手。これは公園用地を捻出できないために、道路で代替するという苦肉の策だった。しかし、公園用地を捻出できないのは、どこの自治体でも悩みの種になっており。同年には東京都が遊び場対策本部を設置。都有地を一時的に開放し、遊び場の確保に努めた。

 翌年には、兵庫県神戸市も公有地を一時的に子どもの遊び場へと開放。さらに1970年には政府交通対策本部が「子どもの遊び場確保のための当面の措置についての申し合わせ」を各自治体に通達した。これが、道路を遊び場として活用することを加速させた。

 同年、北海道旭川市は道路を開放して遊び場として活用する「ちびっこ道路」を創設。翌年には東京都大田区がこどもの遊び場道路設置促進要綱を制定して、区内の道路に87か所の遊び場を開設した。大田区の道路に遊び場を設ける試みは、約10年間で237か所にまで増設された。1974年には札幌市が「子供天国」と命名した道路の遊び場を開設していく。

 公園用地を捻出できないから道路を遊び場として活用した背景には、マイカーが少なかったという社会環境もあるだろう。

コミュニティー道路の意義
ハンプや狭さくを設置したコミュニティー道路(画像:国土交通省)

 こうして一時的に活発化していた道路に遊び場機能を持たせる動きは、1976(昭和51)年に東京都が遊び場対策本部を廃止したことで下火に向かっていった。これは、高度経済成長によってマイカー所有者が増え、交通事故や渋滞を防止する目的があったからだろう。

 こうして道路から遊び場が消え、子どもたちは排除されていく。他方で、住宅街にコミュニティー道路を整備する機運も芽生えていた。コミュニティー道路とは歩行者を優先するために歩道を広くし、車道部分を意図的に曲がりくねらせた道路のことを指す。1980年には、大阪府大阪市で日本初となるコミュニティー道路が誕生した。

 こうした構造のコミュニティー道路では、自動車がスピードを出して走ることはできない。そのため、道路空間は歩行者目線を意識したものになり、ベンチや花壇などが配されるようになる。これは、コロナ禍後に地方自治体が取り組んでいるウォーカブルシティの思想の原点ともいえる動きだ。

 明治から現在にかけて、行政はオープンスペースの量的確保に取り組んできた。とはいえ、公園を整備するには用地のほか、遊具の整備などで公園をつくることは莫大な資金が必要になる。それ以上に維持・管理の費用はばかにならない。

 そうした事情から、公園整備を急ぐ地方自治体では公園の用地を自前で用意するのではなく、レンタルで応急処置的に調達しようとした。1956年に制定された都市公園法は公園の設置基準を定めているが、同法では借地に公園を開設することも可能だった。しかし、都市公園法で整備された公園は容易に廃止できない。いったん公園になってしまうと、地主は返還を求めることが難しい。これでは公園用地を貸してくれる地主は少ない。

青木島遊園地は「借地公園」
青木島遊園地(画像:(C)Google)

 こうした状況を改善し、借地公園を増やす目的で2004(平成16)年に都市公園法が改正される。同法改正によって、借地公園の賃貸の契約期間が終了したときに公園を廃止できることが明確化された。

 契約期間の長短は自治体によって異なるが、おおむね15年から20年といったところが相場で、長野市では20年と定められていた。問題になった青木島遊園地も

「借地公園」

で、2004年4月に契約を交わしている。そこから20年間が契約期間にあたるから、契約終了は2023年3月末となる。今回、青木島遊園地の廃止は近隣住民のクレームが原因とされたが、「契約が切れて、更新されなかった」が実情といえるだろう。

 先述したように、青木島遊園地のような問題は各地で頻発することが予想される。なぜなら、昨今は空き家問題があちこちで起きており、それは東京・大阪といった大都市でも兆候が出始めているからだ。

 空き家問題はさまざまな要因が複雑に絡み合って発生しているが、もっとも厄介な原因には、接道義務を果たしていないことを理由に建物を新築もしくは建て替えできない点だろう。

 接道義務とは、建築基準法に定める公道に対して2m以上が接していなければならないという規定だ。こうした接道義務を果たしていない家屋は東京都心部でも数多く見られる。新しい建物を建てることができないから、当然ながら資産価値は低い。下手をしたら、固定資産税だけを負担させられる可能性もある。

 そうした接道義務を果たしていない家屋は、これまで取り壊されることなく空き家として放置され続けた。なぜなら、空き家として住宅が存在していれば固定資産税が軽減される住宅特例があるからだ。

文京区の取り組み
文京区の住宅街にこつぜんと現れた公園機能を持たせた広場(画像:小川裕夫)

 しかし、空き家が社会問題になったことで国土交通省や総務省は2016年に改善策として特定空き家制度を制定した。同制度により、家屋が存在していても居住実態が認められない場合は特定空き家と認定され、固定資産税の住宅特例は受けられなくなった。

 特定空き家制度と同じくして地方自治体も空き家の解体費用の一部補助をする制度を創設する動きが相次ぐ。東京都文京区では、特定空き家の解体を促すために解体費用の一部を助成する制度を創設。同制度では、解体費用を助成する代わりに、解体後の土地を文京区が10年間無償で使用できる。同制度によって、取り壊された空き家の跡地にはオープンスペースが開設されることになった。

 文京区が10年間という期限付きで開設したオープンスペースは、公園ではなく広場(ひろば)という呼称を使っている。呼称こそ異なるが、誰もが自由に利用できるので、これは公園とほぼ同じ機能を有し、子どもたちの遊び場になることは間違いない。

 10年という期限付きのために遊具などは設置されていないが、ベンチやテーブルなどの簡素な工作物は設置されている。ここで子どもを遊ばせたり、中高生のたまり場になったりして雑談に花が咲くことは十分に考えられる。

 文京区は東京都心部に位置しながらも、閑静な住宅街として人気が高い。住宅街に誕生した広場が子どもたちの遊び場になれば、そこに「うるさい」というクレームが入ることは十分に想定できる。

勧善懲悪で語れない長野県の問題
広場の片隅には、文京区が空き家対策として整備したことが明記された看板がある(画像:小川裕夫)

 日本が人口減少局面に突入している昨今、空き家問題は今後も深刻化することは間違いない。空き家が増えれば、行政は対策を講じざるを得ない。実際、「空き家解体費用補助する替わりに、敷地を〇年間無償で使用する」という政策を掲げる自治体は増えている。

 同政策により、自治体が無償で借り受けた土地は広場などに転換されるケースが多いようだ。つまり、住宅街にこつぜんと子どもの遊び場が出現することが今後は増えるのだ。

 当然ながら、地域住民とのハレーション(副作用)が起きる。また、期限が過ぎた広場は廃止される可能性があるから、そのたびに「周辺からクレームが出て廃止された」といった言説が飛び交うだろう。

 明治以降の公園整備史をたどってみると、官民を問わずオープンスペースを確保するために試行錯誤してきたことがうかがえる。それだけに、長野市の1件は

「クレーマーによって公園が廃止された!」

という勧善懲悪で語れないし、仮にクレームで廃止されたことが真実であっても、それを原因にして簡単に片付けてはならない問題でもある。

小川裕夫(フリーランスライター)


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