WORK2

-7000肥沃な三日月地帯に農耕広がる。メソポタミア文明が興る。(--)--
-7000北イラク、ジャルモ期(メソポタミア)農耕開始、定住村落の成立(ジャルモ文化)(-中東-イラク)-中東史(年表)-
農耕牧畜の発生から潅漑農業へ
前7000年紀 前7000年紀とは前6000年代のこと。その前半(つまり約9000年前~8500年前)、肥沃な三日月地帯にジャルモ遺跡などに見られる初期の農耕文明が生まれた。これは新石器革命と言われている人類にとっての大きな変革であった。これらの遺跡から、土器の使用、ムギの栽培と日干し煉瓦による住居を持ち、定住生活を開始したことがわかっている。この段階の初期農耕は灌漑ではなく降水に依存する天水農業であり、また周辺での羊などの牧畜も行われるようになった。この時期のシュメール以前の人種の系統は不明である。
裴李崗文化人(はいりこうぶんかじん)&aname(): Invalid ID string: ほ; [前7000?~前5000?]
代表遺跡は河南省新鄭県裴李崗。円形・方形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業に生活基盤を置いていた。艶出しした紅褐色の陶器や磨製石器などを特色とする。
彭頭山文化人(ほうとうざんぶんかじん) [(前7000?~前6000?) ]
1980年代に湖南省澧県彭頭山で発見された。稲の散播農法に生活基盤を置いていた。
縄文早期
-7000縄文草創期/縄文早期
-7000夏島貝塚(神奈川県)[-4000](縄文時代-日本-日本)--
●早期(そうき) 縄文文化の成立期(約7,000~1万年前)
 次が縄文文化の成立期としての「早期」である。約7,000~1万年前までの時代と推定される。この時期、一部の地域から順次、住様式としての竪穴住居が確立、初期的な縄文集落が形成された。
 土器型式であるが、まず関東地方に撚糸文土器様式が、続いて近畿・中部地方に押型文(おしがたもん)土器様式が、さらに九州地方南部と北海道東部でもそれぞれの地域的特色を持つ土器様式が成立した。
 東北地方はこれにやや遅れるが、早期中葉段階になると日計式(ひばかりしき)押型文土器様式が成立、まもなく次の貝殻沈線文(かいがらちんせんもん)土器様式に至って極めて密度の高い縄文社会が確立した。
-7000気候が暖かく安定し、海面が現在よりも2~3メートル高くなる。[7000~5000年前)(-日本-日本)--
-6800対馬の歴史
-6800越高遺跡(上県町)(-日本-日本、対馬)-対馬-
-6750北イラクで最初の村落文化(ジャルモ文化)(-中東-イラク)-西・南アジア史(年表)-
-6700稲作(陸稲-りくとう)が中国(南部)から伝わる(縄文時代-日本-日本、中国)--
日本の稲は中国から朝鮮半島を経由しないで伝わったことが判明
概要
まとめ
●稲の遺伝子の解析から、日本の稲は朝鮮半島を経由していないことが判明している。
●発掘の結果から、日本の稲作は陸稲で6700年前、水稲で3200年前までたどれるが、朝鮮半島の水稲は1500年前と考古学でも半島を経由していることはありえない。朝鮮の陸稲は不明。
●そもそも朝鮮半島は稲作に適していないし、主食にしたこともない。
経緯
長いこと日本の稲作は朝鮮半島を経由した、とされているが、これが稲の遺伝子解析から間違っていることがハッキリしています。
水稲(温帯ジャポニカ)の遺伝子を解析するとRM1にAからHの八種類の遺伝子がある。中国にはこの八種がすべてある。八種のうちBが最も多く、Aが次いで多い。朝鮮半島にはこのうち七種があり、そのうちBが無い。日本には八種のうちAとBとCがあり、そのうちBが一番多い。そしてAが次いで多い。つまり日本の稲が朝鮮半島を経由して伝わった可能性はゼロということになる。
https://nihonsinwa.com/page/655.html
-6500メソポタミアでジャルモ朝が定住と農耕を開始。(-中東-イラク)--
-6500稲作農耕、中国長江流域で稲作(旧石器時代→縄文時代-中原-シナ先史、長江文明(新石器時代))--
-6500中国黄河流域で農耕(-中原-シナ先史、長江文明(新石器時代))--
-6500トルコのチュタル・ヒュユクで農耕(-中東-トルコ)--
-6500ニジェール河流域で農耕(-アフリカ-ニジェール)--
-6000潅漑農業 文明の形成。金属器(青銅器)、都市、文字(--)--
-6000南ロシア・ギリシャへ農耕が伝わる(-西欧-ギリシア、ロシア)--
老官台文化人(ろうかんだいぶんかじん) [前6000?~前5000?]
代表遺跡は陝西省華県老官台。暗紅色の夾砂陶を特色とする。円形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業に生活基盤を置いていた。
北辛文化人(ほくしんぶんかじん) [前6000?~前5000?]
代表遺跡は山東省滕県北辛。黄褐色の陶器を特色とする。紅鉢を死者の顔に被せるという特異な埋葬儀礼がみられる。後李文化を継承して発展した。
磁山文化人[前6000?~前5000?)代表遺跡は河北省武安県磁山。円形・楕円形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業に生活基盤を置いていた。紅褐色の夾砂陶を特色とする。磁山遺跡では多くの粟貯蔵穴が発見されている。
河姆渡文化人[前6000?~前5000?)1973年、浙江省余姚県河姆渡で発見された。多量の稲籾の堆積があったことから、稲作を行っていたことで知られる。木造の高床式住居に暮らしていた。野生・家畜動物の骨や木器・骨角器が多く出土しており、半農半猟の生活をしていたとみられる。
-6000紀元前6000~5000年 新石器時代の遺構が出土。末期には稲の栽培か。 バクソン文化(-東南アジア-ベトナム)-ベトナム史-
-6000貝塚時代[約6000年前-12世紀]
-6000最温暖期になり海進が最盛期となる事で、照葉樹林が誕生する。
貝塚が増加し、漁労が発達する。(-日本-日本)-縄文時代の年表-
-5500青森県青森市にある1500年続いた日本最大の集落跡(三内丸山遺跡)[-4000](縄文時代-日本-日本)--
山内丸山遺跡
三内丸山遺跡は、今から約5500前~4000前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。既に巨大な木造建築が行われていました。
-5000黄河中流域黄土地帯に畑作中心の仰韶文化が成立。彩陶など。=黄河文明(--)--
-5000長江下流に稲作中心の河姆渡遺跡が成立。=長江文明(--)--
-5000ハッスナ・サマッラー期(メソポタミア)潅漑農耕の開始、日干しれんが造の建築(ハッスナ遺跡)。エジプトにファイユームA文化、メリムデ文化、ターサ文化、農耕の開始(-中東-イラク)-中東史(年表)-
農耕牧畜の発生から潅漑農業へ
前6000年紀 前6000年紀の初め頃、まずメソポタミアの北部のジャジーラ(島の意味)と言われる比較的降水量の多い地域でも農耕が開始され、その中頃にさらに両河の下流の沖積平野は定期的な洪水が起こる中で、潅漑農業が始まったと考えられる。その最初はティグリス中流のサマッラ遺跡で、年間最低降水量が200mm以下の地域であるので、灌漑に依存したと思われる。さらに前5500年頃、メソポタミア南部の乾燥地帯にウバイド文化が登場するが、これもサマッラ文化の灌漑技術を継承したと考えられる。このころメソポタミア南部に大規模な定住が進んで都市が形成されていった。
-5000ころナイル川流域で最初の村落文化(ファイユームA、ターサ文化)-5000~4500(-アフリカ-エジプト)-総合年表(アフリカ)-
-5000ナイル川流域のエジプトで農耕始まる。(--エジプト、エジプト)--
後岡文化人[前5000?~前4000?)代表遺跡は河南省安陽市後岡。北辛文化を継承して発展した。
馬家浜文化人[前5000?~前3500?)代表遺跡は浙江省嘉興県馬家浜。河姆渡文化を継承して発展した。紅陶や玉器が多く作られた。
-5000メキシコ・テワカンでトウモロコシ栽培始まる。(-中南米-メキシコ)--
-5000新石器時代早期-5000-4000
櫛目文土器が広がる-5000年頃
-5000縄文時代の最盛期(-日本-日本)--
-5000縄文式文化-5000年頃(-日本-日本)--
-4800黄河流域で彩陶文化(黄河文明、仰韶文化(ヤンシャオ)[前4800年ころ~前2300年ころ])(-中原-シナ先史、黄河文明(新石器時代))-ブリタニカ、世界四大文明-
-4800黄河文明の繁栄(殷-中原-シナ先史、黄河文明(新石器時代))--
-4800黄河文明、黄河周辺に黄河文明が興る。(-中原-シナ先史、黄河文明(新石器時代))--
仰韶文化人[前4800?~前2500?)1921年、アンダーソンらによって河南省澠池県仰韶村で発見された彩陶(赤地に彩色した土器)を特色とする文化をもつ人々。老官台文化を継承して発展した。前期[前4800年ころ]は紅陶が主流で、代表遺跡は陝西省西安市半坡、仰韶半坡類型文化と称される。母系制で、農村の階層化がみられる。前4000年ころにろくろの使用が見られる仰韶廟底溝類型文化が現れた。後期[前3500年以降)には、半坡後期類型・西王村類型・大司空類型・秦王塞類型の四種の文化に大別される。このころには貧富の差がみられ、社会の分業・階層化が進んだ。
-4800このころ黄河中流域に彩陶文化(仰韶文化)興る(-中原-シナ先史、黄河文明(新石器時代))-総合年表(北・東・東南アジア)-
2010.09/26 [Sun]
優れた『日本文明』 新たなる発見が続々 【歴史問題】
 従来、日本の歴史学は歴史研究家・放送局・出版社を始めとする反日・左翼勢力によって、日本が中国や韓国の文化で栄えたなどの歴史捏造を行なってきた。ところが、近年の様々な発掘調査により、次々と異なる実態が明らかになりつつあります。

稲作は日本から朝鮮半島へ伝播した事が判明
稲作文化は弥生時代に大陸から朝鮮半島を経由して日本にもたらされたとの説が覆された。近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきたのだ。日本の稲作開始は縄文時代、陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。

これに対し朝鮮半島では水稲栽培は無去洞玉峴遺跡の2500~2800年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。中国政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。韓国の学界は激しく反発しているが、もはや意地でも朝鮮半島から日本に米が伝わった事にしてしまいたいとの思惑にしか見えない。


韓国で日本式【前方後円墳】を大量に発見
明治時代、朝鮮半島北部で発見された【広開土王碑】。碑文には古代の日本を表す【倭】の文字が刻まれてあり、碑文の内容は『日本書紀』の記述を裏付けるものとなった。この発見以降、日本が朝鮮半島に渡り、南部の7国を平定した後に任那を従えて【任那日本府】を置いたとされ、日本が半島の一部を支配していたという歴史観が明治時代から60年間続いていた。 しかし、近年これら歴史的資料に加え、支那正史の『宋書』や朝鮮の史料である『三国史記』なども左翼学者によって無視され、「伽耶地方は小さな国に分かれていた」という簡素な表記に変わり、現在は日本が朝鮮半島を支配したという事実はない事になっています。

つまり、「朝鮮半島にいた倭人は支配層では無く、伽耶から鉄製品を貰う為の人間(傭兵・奴隷)だった」との珍説をもってすり替えたのだ。どうやらあくまでも倭国の支配が朝鮮半島に及んでいた事実を消してしまいたいらしい。

ところが、朝鮮半島のヨンサンガン下流で日本固有の形式である【前方後円墳】が13個発掘されるという、韓国にとってあってはならないはずの遺跡が出土した。韓国歴史学者は、この古墳群についてさえ百済が高句麗を欺く為に倭人に命じて作らせたとの更なる暴論を展開しているが…。

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韓国の光州月桂洞古墳 1号墳

これらは驚くべきことに、日本の実質的国営放送でありながら反日捏造報道を繰り返すNHKが制作した『プロジェクトJAPAN ETV特集シリーズ第1回 古代の人々は海峡を越えた (日本と朝鮮半島2000年]』の放送内容である。反日国家並びに彼らに加担する反日勢力にとっての歴史とは、捏造された歴史に新発見をすり合わせる作業でしか無いようだ。


日本人の起源は大陸起源では無い
反日書籍の多い集英社の、岡村道雄監修、岩井渓漫画の『漫画版 日本の歴史 1』(集英社)巻末の「年表」には、30,000年以上前に、日本に来た最初の人を、「アジア大陸などから、人々がやってくる」と、書いている。

ところが中堀豊・徳島大医学部教授らの研究グループよれば、父系遺伝子であるY染色体の「ハプログループD1b(D2]」は世界で日本人にしか見られず、昔から日本にいた人たち特有のものと考えられている。日本本土で42~56%%見いだされ、アイヌ人88%、沖縄人56%で頻度が高い。中国・韓国人はほぼ0%、つまり他人である。

ハプログループDから突然変異したD1b(D2]は、世界的に見ても変わった遺伝子型である。大陸人や朝鮮人において一般的なY染色体はハプログループOで源流が明らかに異なり、孤立したD系統を持つ日本人の異質さが際立つ。


私の思い

どこかの国のように、何でもかんでも自国起源にしてしまったら、世界の笑いもの、嫌われ者になっていまいますが、これら科学的根拠を考察してみると「宇摩説」も含め、改めて検証してみる必要があるのではなかろうか?左翼・反日歴史研究家は絶対に認めないでしょうが…。

宇摩説では、最初に日本に渡来したのは、アフリカの海で漁労をした「アマ(海人)族」が、魚を追って次第に広がり、先端が日本に到着する。この分派が朝鮮や中国に進出したとの説である。その後、日本に来たのがヨーロッパ・ロシア経由のアイヌである。大勢の渡来は上記の二種で、10,000年以上の時を日本列島で過ごし、経験の集積によって、独自な「和」の日本文化(社会)を醸成したというものだ。これが、宇摩説の神話以前の基本的認識である。 

サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』では、世界をいくつかの文明として区分する。中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、西欧文明、ロシア正教会文明、ラテンアメリカ文明、そして存在すると考えた場合としてアフリカ文明をあげる。日本を古代文明の一つに挙げ、明らかに中国とは別の古代文明だとしています。

bunmei 文明分布地図(サミュエル・ハンチントン : 文明の衝突より)

これら「日本文明」における非常に重要な要素が、反日勢力などに皇室廃止などと揶揄される天皇家の存在である。古代から第125代にわたる世界最古の歴史を誇り、国家と国民の安寧と繁栄を祈りながら世襲により受け継がれ、エリザベス女王ですら上座を譲るその権威と歴史の重み。知らないのは恐らく日本人だけではなかろうか?
 
『日本人』とは、現在を生きる日本人だけを指すものては無い。過去、連綿として命を受け継いで来た先人を含めて指すものであるはず。偏狭なナショナリズムでは無く、日本に生まれた意味を自ら問い直そうとする時、自らの起源、つまり『正しい日本文明』を改めて知ろうとすることは当然であり、必要なのである。http://roboukoishi.blog36.fc2.com/blog-entry-41.html
-4500メソポタミアで灌漑農業の開始。(-中東-イラク)--
-4500ハラフ期(メソポタミア)神殿の出現(テル・ハラフ)(-中東-イラク)-中東史(年表)-
-4500エジプトでも農耕が開始。(-アフリカ-エジプト)--
-4500エジプトへ農耕が伝わる(-アフリカ-エジプト)--
-4500東欧へ農耕が伝わる(-東欧-東欧)--
大渓文化人[前4400?~前3300?)1958年、四川省巫山県大渓で発見された。彭頭山文化を継承して発展した。紅陶を特色とする。稲作の灌漑農法が確立し、大規模に展開した。
大汶口文化人[前4300?~前2400?)1959年、山東省寧陽県堡頭村で発見された。のちに山東省泰安県大汶口でも発見されて、代表遺跡となる。前期は紅陶が主流だったが、後期には黒陶・灰陶が主流となった。後期の卵殻黒陶の高柄杯は、精巧で美しく、山東龍山文化に受け継がれた。
-4000ティグリス・ユーフラテス川流域に都市文明が成立。(--)--
-4000ウバイド期(メソポタミア)大神殿の発達(-中東-イラク)-中東史(年表)-
-4000上エジプトにバダリ文化、アムラー文化、ゲルゼー文化(-アフリカ-エジプト)-中東史(年表)-
-4000台湾、初期の定住者[4000年頃前)(-東アジア-台湾)--
-4000現代の台湾の先住民の先祖は4000年頃前に台湾に定住している。これらの先住民は遺伝的にはマレー人と関連し、母系ではポリネシア人と関連し、言語学者は彼らの言語をオーストロネシア語としている。台湾中でポリネシア人の先祖をたどることが可能であると思われている。
もともと、台湾にはアミ族やパイワン族などという先住民族が住んでいました。日本では高砂族といわれている人たちです。(-東アジア-台湾)--
-4000新石器時代(櫛目文土器時代/侯目文土器)-4000(もしくは-5000]-1000年
新石器時代前期-4000-3000
縄文前期
-4000縄文早期/縄文前期
-4000佐賀貝塚・吉田貝塚下層(峰町)・加藤遺跡(豊玉町)
気候が温暖化。船が登場
平底土器一般化
三内丸山遺跡(青森県)、大規模集落-2000(-日本-日本、対馬)-対馬-