アフガニスタン
アフガニスタン・イスラム共和国
英語による名称 | Islamic Republic of Afghanistan |
漢字表記 | 阿富汗、亜富汗斯坦、阿富汗斯 |
漢字略 | 単 |
首都 | カブール |
独立年月 | - |
主要言語 | パシュトゥー語、ダリー語 |
面積(1,000平方キロ) | 652 |
人口(100万人)※ | 13 |
通貨 | アフガニー |
-500 | アケメネス朝の支配下に入る。アフガニスタンは古代よりその地理的条件のため、東西文化交流の中継地として発展したが、他民族の支配を受けることが多かった。(-中東-アフガニスタン)-アフガニスタン史- | |||
-328 | アレクサンドロス3世 (大王) 遠征後、ギリシア人によるバクトリア王国が成立、ギリシア文化が伝播した。(-中欧-アフガニスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)-アフガニスタン史- | |||
-248 | バクトリア王国独立(-中東-アフガニスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)-- | |||
-139 | バクトリア王国滅亡(-中東-アフガニスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)-- | |||
45 | クシャーナ朝成立(-中東-アフガニスタン、インド、トルクメニスタン、パキスタン)-- | |||
90 | 班超がクシャーナ朝を討つ(-中東-アフガニスタン、インド、トルクメニスタン、パキスタン)-- | |||
100 | 土着イラン系のクシャーナ朝が成立し、仏教の影響を受けたガンダーラ美術が発展した。その後ササン朝に従属し、またエフタルの侵入があった。(-中東-アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、パキスタン、ウズベキスタン、イラク、イラン、ジョージア、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコ、インド、エフタル)-アフガニスタン史- | |||
140 | クシャーナ朝の全盛(-中東-アフガニスタン、インド、トルクメニスタン、パキスタン)-- | |||
226 | ササン朝ペルシャの成立(-651)(-中東-アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、パキスタン、ウズベキスタン、イラク、イラン、ジョージア、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコ)-- | |||
ササン朝ペルシア ローマとの抗争で国力を消耗したパルティアは内乱が多発し、226年にペルシア王アルダシール1世(Ardeshir)によって滅ぼされた。アルダシールは、諸王の王(シャーハンシャー:シャーは王のこと)を号してササン朝ペルシアを建国した。その後、アルダシールはメソポタミア全域を占領し、ローマを破ってアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝との戦いでも勝利を納め、旧パルティア領の大半を支配した。 | ||||
パルティア王国を征服したササン朝ペルシア帝国は、パルティアの手になる「エクシラルク制度」をユダヤ人の自治的な亡命政府として認める。 ササン朝ペルシア帝国のユダヤ人学者は「アモライーム」と呼ばれ、「ゲマラ」の基礎をつくる。 | ||||
230 | ゾロアスター教がササン朝の国教となる(-中東-アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、パキスタン、ウズベキスタン、イラク、イラン、ジョージア、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコ)-- | |||
231 | ササン朝ペルシアとの戦争~232(-西欧-イタリア、ローマ、アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、パキスタン、ウズベキスタン、イラク、イラン、ジョージア、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコ)-- | |||
260 | ヴァレリアヌス、ササン朝に捕われる~274ガリア帝国の誕生(-西欧-イタリア、ローマ、アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、パキスタン、ウズベキスタン、イラク、イラン、ジョージア、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコ)-- | |||
500 | 500年前後 ササン朝ペルシア帝国内でユダヤ人の内紛が起きる。 ユダヤ人学者アシが「ミシュナ」と「ゲマラ」を融合して、『タルムード』に編纂する仕事に着手し、マル・ヨセがこの編纂の仕事を5世紀末に完成させる。(-中東-イスラエル、アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、パキスタン、ウズベキスタン、イラク、イラン、ジョージア、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコ)-イスラエルの歴史- | |||
502 | ローマ、ササン朝ペルシアと抗争(-西欧-イタリア、ローマ、アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、パキスタン、ウズベキスタン、イラク、イラン、ジョージア、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコ)-- | |||
ローマとの抗争 イランの支配者となったササン朝は、パルティアと同様に西の国境でローマと激しく戦い、終始優勢を保った。 244年にはローマ皇帝ゴルディアヌス3世が侵攻してきた。アルダシール1世の子シャープール1世(Shapur)はこれを迎え撃ちローマ軍を撃破した。皇帝ゴルディアヌスは戦死し、莫大な賠償金を獲得した。 260年、ローマ皇帝ウァレリアヌスは7万の兵を率いてペルシアに侵攻してきた。シャープール1世はエデッサ(トルコのシャンル・ウルファ)で迎え撃ち、ウァレリアヌス以下7万のローマ軍を捕虜とした(エデッサの戦い)。シャープールはウァレリアヌスやローマ軍捕虜をビシャプールに送り、ローマの技術をペルシアに取り入れた。皇帝ウァレリアヌスは幽閉中にペルシアで死亡した。 | ||||
最盛期 ササン朝の最盛期はホスロー1世(Khosrau 531~579)の時代で、西はシリアから、東はバクトリアに至る地域を支配した。 また文化の保護にも力を入れ、東ローマ帝国では異端とされたギリシア哲学を保護したため多くのギリシア人学者が移住した。 宗教はアケメネス朝ペルシア時代から信仰されていたゾロアスター教を国教とした。一方でキリスト教を弾圧したため、多くのキリスト教徒はローマ帝国へ亡命した。ただローマで異端とされたネストリウス派(景教)は自由な活動を許された。 対外的には東ローマのユスティニアヌスと50年の和平条約を締結して休戦した。この和平は、東ローマが毎年3万枚の金貨を貢納金として支払う条件だった。 また、トルコ系遊牧民突厥と組んで長年抗争してきたエフタルを滅ぼした(558年)。しかし、今度は突厥との抗争が始まり、ホスロー1世の没後は次第に衰えていった。 | ||||
603 | ローマ、ササン朝ペルシアと抗争~628(-西欧-イタリア、ローマ、アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、パキスタン、ウズベキスタン、イラク、イラン、ジョージア、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコ)-- | |||
616 | ビザンティン帝国、ササン朝ペルシアにエジプトを奪わる(-中東-アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、パキスタン、ウズベキスタン、イラク、イラン、ジョージア、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコ、ビザンティン、エジプト)-- | |||
642 | ササン朝が滅亡し、アラブの支配下に入り、イスラム化が進行した。(-中東-アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、パキスタン、ウズベキスタン、イラク、イラン、ジョージア、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコ)-アフガニスタン史- | |||
651 | ササン朝ペルシャ滅亡(-中東-アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、パキスタン、ウズベキスタン、イラク、イラン、ジョージア、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコ)-- | |||
滅亡 ホスロー1世の死後クーデターが発生し国は乱れた。ホスロー1世の孫のホスロー2世が即位すると東ローマ帝国に侵攻し、614年にはダマスカスやエルサレムを占領した。この時エルサレムの聖墳墓教会に保管されていた聖十字架を持ち去った。 続いてエジプトを征服し、アナトリアを占領してコンスタンティノープルを包囲した。ササン朝の攻勢もここまでだった。東ローマ帝国の反撃が始まり今度は首都クテシフォンが包囲された(628年)。東ローマは聖十字架を奪い返しエルサレムに戻した。 ササン朝と東ローマが泥沼の戦いをやっているうちに、イスラム勢力が侵略してきた。衰退したササン朝は、636年のカーディシーヤの戦い、642年のニハーヴァンドの戦いで敗れ、651年に滅亡した。 【聖十字架】 キリストを磔にした十字架。十字軍はこの十字架を前線に押し立てて戦ったが、1187年のハッティンの戦いでイスラム軍に奪われ失われた。 | ||||
イスラム誕生との関連 ササン朝ペルシアと東ローマ帝国の長年にわたる抗争で、シルクロードは通行不能になり、交易路はアラビア半島に迂回された。このことがイスラム教の成立に大きく影響している。つまり、アラビア半島のメッカやメディナは貿易の中継都市として大いに繁栄した。この地にムハンマド(マホメット)が登場し、神の啓示を受けて唯一神アッラーへの絶対帰依(イスラム)を提唱した。 | ||||
900 | 9世紀、サッファール朝、サーマン朝のもとに、イランの政治的復興がこの地において展開されたが、やがてトルコ系のガズニー朝、セルジューク朝、ホラズム・シャー朝の勢力下におかれた。しかし、この時期、土着アフガン系諸部族はゴール朝を樹立、北部インドにまで進出した。(-中東-アフガニスタン)-アフガニスタン史- | |||
962 | アフガニスタンにガズニ朝が成立(アフガニスタン-中東-アフガニスタン、ガズニ朝)-- | |||
1000 | 「アフガン人」の名は、10世紀のペルシア語の地理書に、現在のアフガニスタンとパキスタンの国境付近の山地民としてみられる。(-中東-アフガニスタン)-アフガニスタン史- | |||
1212 | チンギス・ハンの侵入を受け、モンゴルの支配下に入ったが、アフガニスタンは、アフガン系のカルト朝のもとに実質上独立した政権を維持した。(-中東-アフガニスタン、モンゴル)-アフガニスタン史- | |||
1383 | チムール朝、次いでサファビー朝の支配下に入った(-中東-アフガニスタン)-アフガニスタン史- | |||
1400 | 14世紀の史書では、同じ地域をアフガニスタンとよんでいる。(-中東-アフガニスタン)-アフガニスタン史- | |||
1500 | 同族は東に進んで、15~16世紀にインドのデリーを中心としてロディー朝とスール朝を建てた。ムガル朝のアウランゼーブ皇帝の時代に、パシュトー語古典詩人ホシュハール・ハーン・ハタク(1613―1689)が出た。(-中東-アフガニスタン)-アフガニスタン史- | |||
1722 | ギルザイ系のアフガン人がイスファハーンを占領し、サファビー朝を崩壊させた。同朝末期に登場したナーディル・シャー・アフシャールはアフガン人を駆逐し、インドに遠征してデリーを一時的に占領し略奪した。(-中東-アフガニスタン)-アフガニスタン史- | |||
1747 | ナーディル・シャーが暗殺されると、アフマッド・シャー・ドゥラーニーがアフガニスタン全土を平定して王位につき、初めてアフガン人の政治的独立を達成した。アフマッド・シャーのあとその子チムール・シャーが王位を継いだが、死後、王位継承の争いの末、バーラクザーイー朝のドースト・ムハンマドが王位についた。(-中東-アフガニスタン)-アフガニスタン史- | |||
1919 | アフガニスタンがイギリスから独立(-中東-アフガニスタン、イギリス)-- | |||
1979 | 12.24 アフガニスタン紛争にソビエトが軍事介入をする(昭和時代-中東-アフガニスタン、ソビエト)-- | |||
1979 | 12.27 アフガニスタンでクーデター、ソビエト連邦が軍事介入(-中東-アフガニスタン、ソビエト)-- | |||
1980 | 1.4 カーター、ソビエト連邦のアフガニスタン介入に対する報復措置を発表(~20モスクワ五輪ボイコット・開催地変更を提唱)(-北米-アメリカ、ソビエト、アフガニスタン)-- | |||
1988 | ソビエト連邦がアフガニスタンから撤退(ソ連、アフガニスタン-中東-アフガニスタン、ソビエト)-- | |||
1988 | 4.14 ジュネーブでアフガニスタン・パキスタン・アメリカ・ソビエト連邦の4国がアフガニスタン和平合意文書に調印(8-15 ソビエト連邦軍撤兵完了)(-西欧-スイス、アフガニスタン・パキスタン・アメリカ・ソビエト)-- | |||
2001 | 2001-2011年アフガニスタン紛争(2001年)アメリカはアルカイダの引渡しに応じないアフガニスタンのタリバン政権を崩壊させて、アルカイダの指導者であるウサマ・ビン・ラディンを殺害する。(平成-中東-アフガニスタン)-- | |||
2001 | 10.7 ビンラディンの身柄引き渡しを拒否したアフガニスタン(タリバン政権)に対し、報復攻撃を開始(-中東-アフガニスタン)-- | |||
2001 | 10.18 アメリカ軍によるアフガニスタン侵攻開始。 (-中東-アフガニスタン、アメリカ)-- | |||
2001 | 11.3 首都カブール制圧(-中東-アフガニスタン)-- | |||
2001 | 12.7 カンダハール陥落、タリバン政権消滅(-中東-アフガニスタン)-- | |||
2001 | 12.22 アフガニスタン暫定行政機構発足(-中東-アフガニスタン)-- |