インドネシア連邦共和国

(1949~1950) インドネシア連邦共和国

インドネシア連邦共和国

英語による名称Republik Indonesia Serikat
首都ジャカルタ
建国1949
没年1950
主要言語インドネシア
人口3100万
通貨ルピア

国情報

1949年 - 1950年
インドネシア連邦共和国

1949年から1950年と一年間続いた連邦国家。現在の西パプアを除くインドネシアにあった国家。首都はジャカルタ、言語はインドネシア語、通貨はルピアなど現在のインドネシアの基礎が出来た時でもある。

1949年、オランダがハーグ協定でインドネシアの独立を認めた際の国家形態で、インドネシア共和国とその周辺のオランダ傀儡国家の連合国家。1950年にインドネシア共和国に一本化される。
 1949年、オランダ王国とインドネシア共和国との間のインドネシア独立戦争を終結させたハーグ協定によって成立した国家である。
 旧オランダ領東インド地域にオランダから主権を委譲されて成立した国家の連合体であり、その構成国は、スカルノたちが独立を宣言したインドネシア共和国とそれ以外の6国家、および9準国家、合計16カ国からなっていた。ここでいうインドネシア共和国とはジャワ島の一部とスマトラ島の一部だけであるが、人口は3100万を占めていた。それ以外の6国家とは、東インドネシア、パスンダン、東ジャワ、マドゥラ、東スマトラ、南スマトラの各国。準国家はカリマンタンなどの周辺の諸島であった。インドネシア共和国以外の諸国家は人口10万から1100万までふぞろいであるだけでなく、いずれもオランダの傀儡政権として存在するだけであった。つまりインドネシア連邦共和国とは、オランダとの停戦を実現するための暫定的な形態であった。連邦共和国大統領にはスカルノ、副大統領にはハッタが就任した。この連邦は、翌1950年に改めてインドネシア共和国に一本化され、短命であった。

インドネシア連邦の傀儡国家群

 東インドネシア国 南スマトラ国 東スマトラ国 マドゥラ国 パスンダン国 東ジャワ国

 1945年8月17日 インドネシア共和国が独立宣言
 1946年10月22日 西カリマンタン連合が成立
 1946年12月7日 大ダヤク自治地域が成立(48年1月 16日にオランダ政府が公認)
1946年12月24日 大東国(ネガラ・ティモール・ベ サール)が成立
1946年12月27日 大東国が東インドネシア国(ネガ ラ・ティモール・インドネシア)に改称
1947年1月8日 東南カリマンタン自治地域が成立
1947年5月4日 パスンダン共和国が成立するが、オラン ダ政府に公認されず
1947年5月12日 西カリマンタン連合が西カリマンタン 自治地域に改称
1947年7月12日 バンカ、ブリトゥン、リアウで自治地 域が成立
1947年8月27日 大シヤク自治地域が成立
1947年12月25日 東スマトラ国が成立
1948年1月23日 マドゥラ国が成立
1948年2月4日 大シヤク自治地域が東カリマンタン連合 自治地域に改称
1948年2月26日 スンダ共和国が西ジャワ国と改称し、 オランダ政府が公認
1948年4月24日 西ジャワ国がパスンダン国に改称
1948年8月11日 バタビア臨時連邦直轄区が成立
1948年8月30日 南スマトラ国が成立
1948年11月26日 東ジャワ国が成立
1949年3月2日 中ジャワ自治地域が成立
1949年12月27日 インドネシア連邦共和国と、それを 構成するインドネシア共和国と「傀儡6カ国」がオランダから独立
1950年3月9日 東ジャワ国、マドゥラ国と中ジャワ自治 地域インドネシア共和国へ合流して消滅
1950年3月11日 パスンダン国がインドネシア共和国へ 合流して消滅
1950年3月24日 南スマトラ国がンドネシア共和国へ合 流して消滅
1950年4月4日 バンカ、ブリトゥン、リアウ、東南カリ マンタン自治地域インドネシア共和国に合流
1950年4月24日 東カリマンタン連合自治地域インド ネシア共和国に合流
1950年5月19日 インドネシア連邦共和国インドネシ ア共和国への統合交渉を開始
1950年8月17日 インドネシア連邦共和国が消滅。残っ ていた東インドネシア国、東スマトラ国と西カリマンタン自治地域インドネシア共和国となる

1948年末の インドネシア(オランダ領東インド)の地図 赤がインドネシア共和国、青が傀儡6カ国、水色が自治地域、紫はオ ランダ軍占領地域
1940年代後半のインドネシアマレーシア地図 インドネシア連邦は赤 がインドネシア共和国、黄色や緑が傀儡6カ国、青や水色は自治地域

世界年鑑  1950』。インドネシア連邦独立時点での地図
イ ンドネシアの正式国名はインドネシア共和国ですが、1949年にオランダから独立した時はインドネシア連邦共和国でした。じゃあ連邦共和国→共和国へ国名を改称したのかといえば、そう単純なわ けではありません。連邦共和国だった時期にも共和国は存在していていました。一体どういうことでしょう?

インドネシアはかつてオランダ領東インド(略して蘭印)と呼ばれたオランダの植民地。太平洋戦争で日本軍が占領し、日本の敗戦時にスカ ルノやハッタがインドネシア共和国の独立を宣言したが、やがて戻ってきたオランダ(実際にはオランダは戦時中のナチス占領で本国が壊滅状態だったのでイギ リス軍)はインドネシアの独立を認めず、4年に及ぶ独立戦争が始まった。

1946年11月にはオランダを助けてインドネシアを占領していたイギリスの仲介で、リンガルジャティ協定が結ばれた。協定によればイ ンドネシア共和国の領土はジャワ島とスマトラ島に限定され、それ以外の各地域ごとに自治国や自治地域を作り、オランダの宗主権の下で連邦を構成することに なった。これでは独立には程遠いが、スカルノらは「インドネシア共和国が公認されたことになる」とリンガルジャティ協定を受け入れた。こうしてオランダの 後押しで、各地の王侯(スルタン、ラジャなど)や親オランダ知識人たちによって自治国(ネガラ)や自治地域(ダエラ)が次々と樹立された。

しかしオランダは本国が復興すると、47年7月にインドネシアへ15万の兵力を送り込んでジャワ島やスマトラ島の主要都市や農場、油田 などを占領(第一次警察行動)。48年1月にはインドネシア共和国の領土をさらに縮小したレンヴィル協定が結ばれるが、オランダは48年12月にこの協定 も破ってインドネシア共和国の首都・ジョクジャカルタを占領し、スカルノやハッタを拘禁した(第二次警察行動)。インドネシア共和国内部でも、スカルノら の弱腰を批判して48年9月に共産党がジャワ島東部でインドネシア・ソビエト共和国の樹立を 宣言、49年8月には右派イスラム勢力がジャワ島西部でダルル・イスラム(インドネシア回教国)の 樹立を宣言して内戦になった(※)。

 ※ダルル・イスラムの反乱は、スマトラ島やスラウェシ島にも波及してインドネシア 独立後も続き、平定されたのはようやく1965年のこと。しかしその後もア チェ独立運動に引き継がれて続いている。

しかしオランダの露骨な再植民地化は国際的な非難を浴び、特にアメリカはオランダ本国復興のための経済援助(マーシャル・プラン)を停止すると発表したた め、オランダもインドネシアの独立を認めざるを得なくなり、1949年のハーグ円卓会議で「インドネシア連邦共和国」が独立することが決まった(※)。

 ※アメリカインドネシア独立を後押ししたのは、東西冷戦が激しくなってきた当 時、中 国に続いてインドネシアも反植民地戦争を契機に共産主義勢力が政権を握ってしまうことを恐れたためもある。

インドネシア連邦共和国は、スカルノ率いるインドネシア共和国のほかに、東インドネシア国、パスンダン国、東ジャワ国、マドゥラ国、東スマトラ国、南スマ トラ国の6カ国、さらに中部ジャワ、バンカ、ブリトゥン、リアウ、大ダヤク、バンジャル、西カリマンタン、東南カリマンタン、東カリマンタンの9つの自治 地域(※)を合わせて合計16の国・地域で構成され、このほか連邦の首都・ジャカルタ(=バタビア)は連邦直轄区とされた。

   ※自治地域(ダエラ)は将来、隣接する国(ネガラ)に統合されるか、またはいくつ かの地域で国(ネガラ)を樹立することとされた。またニューギニア島の西 イリアン(後のイリアンジャヤ→パプア)は、インドネシア側は連邦に含めるように要求したが、オランダは統治を続けることを主張して、「継続協 議」という形で曖昧となった。

  
日本軍の下で「米英撃滅」を演説するスカ ルノ(右)、傀儡6ヵ国とともにオランダから独立したスカルノ(右)

ようするに、オランダとしては独立戦争を続けてきたインドネシア共和国を、ジャワ島中部のジョクジャカルタ一帯の狭い地域や主要都市や産油地帯を除くスマ トラ島の飛び地に封じ込めてしまい、「その他大勢」の傀儡国や傀儡地域と連邦を組ませ、連邦とオランダとでオ ランダ・インドネシア連合を作る形で、引き続きオランダによる支配を目論んだのだった。

しかし、「傀儡」と見られたこれらの国や地域も考え方はさまざまで、「インドネシアの独立達成のためには、一時的にオランダと 手を組むのもやむを得ない」という東インドネシアのゲデ・アグン首相をはじめ、マドゥラ、パスンダン、東ジャワ、中部ジャワ、東南カリマン タン、東カリマンタン、バンジャルなどのグループと、「インドネシアからの独立のためにオランダと手を組む」という東スマトラのマンソール代表や西カリマンタンのハミッド2世はじ め、南スマトラ、大ダヤク、バンカ、ブリトゥン、リアウなどのグループに分かれていた。

世界年鑑  1951』。傀儡国のほとんどが消えた50年夏時点の地図
第 二次警察行動ではオランダの露骨な共和国潰しに、前者のグループではオランダへの反感が広がっていたが、連邦の独立とともに後者のグループも態度を変え、 連邦の大統領にスカルノ、首相にハッタを選出する。スカルノとハッタはインドネシア共和国の大統領と首相だから、連邦の権限は共和国政府が握るようになっ た。さらにスカルノの「単一共和国建設」の呼びかけに応えて、半年あまりで次々と雪崩を打ってインドネシア共和国へ主権を移譲し解散。最終的にインドネシア連邦共和国インドネシア共和国となってしまい、連邦も消滅した。

結局これらの傀儡国・地域はオランダの軍事力に支えられていた存在に過ぎず、自前の軍隊は持っていなかった。連邦独立でオランダ軍が撤 退する代わりに、各傀儡国・地域には連邦軍と名を変えた共和国軍が進駐した。こうして共和国軍による軍政と傀儡国・地域政府による民政の二重統治状態にな り、傀儡国・地域政府は実質的に権力を失った(※)。

 ※傀儡国に進駐した共和国軍は、本来の権限を超えて各種の許認可をしたり税を徴収 し始め、傀儡国の行政権限を奪ってしまった。当時は住民も傀儡国一掃のために軍の越権を支持したが、傀儡国が消滅した後もインドネシアでは軍が地方で絶大 な権力を握る仕組みが定着してしまった。

そして多くのインドネシア人もオランダがでっち上げた傀儡国がさっさと消滅することを願い、共和国による統一を求める大衆運動が巻き起こった。これでは傀 儡国は存在し続けることは不可能で、自ら共和国への併合を要請するしか道はなかったのだ(※)。

 ※傀儡国にとっては通貨問題も打撃になった。独立前の通貨は共和国ではインドネシ ア・ルピア、傀儡国・地域ではオランダが発行した東インド・ギルダーを使っていたが、連邦独立後は当面両方の通貨を併用することになった。しかしオランダ 撤退後のギルダーは嫌われて価値が下がり、50年3月にギルダー切り下げが実施され、傀儡国の財政は打撃を受けることになった。

このような歴史的経緯があるので、インドネシアでは単一共和国の維持が絶対視され、「連邦制」は新植民地主義の象徴としてタブーになっています。イギリス に統治されていた同じマレー系民族のマラヤとシンガポール、北ボルネオ(サバ)、サラワク、ブルネイが1963年にマレーシア連邦を結成しようとすると、 スカルノは過敏に反応して「マレーシア粉砕」を合言葉にあわや戦争寸前となったことも。

多民族国家のインドネシアはイスラム教徒が9割近くを占めるとはいえ、一貫して宗教の多様性を認め、最近では独立運動が続くアチェやパ プアに特別自治を認めたりと、傍から見れば連邦制が最適な国のように思えるが、連邦制アレルギーは まだまだ根深いようだ。