オーストリア・ハンガリー帝国

(1867~1919) オーストリア・ハンガリー帝国

オーストリア・ハンガリー帝国

建国1867
没年1919

国情報

1867~1919
オーストリアハンガリー帝国

ハンガリー(3) オーストリアによる支配

 1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリー支配権を得たオーストリアがその全域の支配をおこなう。19世紀前半、民族の独立をめざす運動が起こり、1848年独立宣言を行うが、弾圧された。1867年、形式的に独立しオーストリアハンガリー帝国を構成することとなった。

オーストリアの侵出
 1683年、オスマン帝国は第2次ウィーン包囲に乗り出してきた。しかし、ハプスブルク帝国は他のキリスト教国の支援を受け、この危機を脱した。オスマン帝国の敗戦は、その古い体質が明らかになり、ハプスブルク軍は反撃の機会と捉えた。バルカン半島を南下したハプスブルク軍は軍事的天才オイゲン公が活躍してオスマン軍を追い1686年にはブダ、88年にはベオグラードを制圧、一方でプファルツ継承戦争でフランスと闘いながら、1697年のゼンタの戦いでオスマン軍に大勝し、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリー全域を奪回した。

カルロヴィッツ条約
 オスマン帝国は17世紀末にはオーストリアポーランド、ヴェネツィア連合軍と戦って敗れ、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーオーストリアオーストリア・ハプスブルク家の領土とされた。その後ハンガリーオーストリア帝国の一部としてその支配を受けることとなった。

マリア=テレジアの統治
 オーストリアのハプスブルク家は神聖ローマ帝国であると共に、ハンガリー王(およびボヘミア王)としてハンガリーを統治した。1741年にはマリア=テレジアがハンガリー国王となり(皇帝は夫のフランツ1世)、オーストリア継承戦争で危機となった1741年9月11日にはハンガリーの首都プレスブルク(現在のスロヴァキアのブラチスラヴァ)で開会中のハンガリー議会に登場して協力を訴え、支持を受けた。

ハンガリーの民族運動
 19世紀前半のウィーン体制の時代にナショナリズムの運動が強まると、オーストリア支配下のハンガリーでもハンガリー民族運動(マジャール人民族運動)が始まり、それは1848年の諸国民の春の高まりの中で、コシュートに指導されて独立宣言を出したが、この時はオーストリアはマジャール人に対するクロアティア人の反発を利用して、その弾圧にあたった。イエラチッチに率いられたクロアティア人部隊がコシュートの率いるハンガリー軍に撃退されたため、オーストリアは本格的武力制圧に乗りだし、1849年にはブダペストを占領した。コシュートらは革命臨時政府を樹立して、完全独立とハプスブルク家の失権を宣言、ブダペストを奪還した。オーストリアはついにロシアの援軍を要請し、ようやくハンガリー独立運動を鎮圧した。
 ハンガリー独立失敗後は、オーストリアの属領として専制的な直接統治がおこなわれ、公用語はドイツ語にされるなど、民族的自由は完全に奪われた。

オーストリアハンガリー帝国(二重帝国)
 普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)で敗れたオーストリアは、1867年にアウスグライヒといわれる転換をはたした。これはハンガリー王国の形式的な独立を認めたが、国王はハプスブルク家のオーストリア皇帝が兼ねるオーストリアハンガリー帝国とするということで、これによって二重帝国といわれる状態となった。つまりハンガリーは形の上では独立し、独自の議会も設置されたが、オーストリアに支配されている実態には変わりはなかったので、その後も完全な独立を求める運動が続いた。