ソビエト連邦

ソビエト連邦

「ソビエト社会主義共和国連邦」の略。ソ連と略称。
正称はソビエト社会主義共和国連邦。略称SSSR(ロシア文字ではCCCP)。

ユーラシア大陸の北部,ヨーロッパからアジアにまたがる広大な地域を占めた社会主義国家。ソ連。15構成共和国からなる典型的な多民族国家であったが,1991年12月崩壊した。
(読み)ソビエトれんぽう

 1917年の革命によってつくられ、正式には1922年に成立して1991年まで存在した、アジアヨーロッパにまたがる世界最大の多民族国家。100以上の民族が住み、人口は2億9010万(1991)で、中国インドに次いで世界第3位であった。世界最初の社会主義国で、正式名称はソビエト社会主義共和国連邦Союз Советских Социалистических Республик(СССР)/Soyuz Sovetskih Sotsialisticheskih Respublik(SSSR)、英語ではUnion of Soviet Socialist Republics(USSR)、略してSoviet Unionとよばれた。

英語による名称

Union of Soviet Socialist Republics

漢字表記

漢字略

首都

首都モスクワ。

独立年月

1917年

主要言語

面積

2240万2200km2
その面積2240万2200平方キロメートルは地球の全陸地面積の6分の1弱を占め、アメリカ合衆国の約2.4倍、日本の約60倍に相当した。

人口

2億8000万人(1990)。

通貨

略史

〔多民族性と連邦制〕

 ロシア帝国の版図を継承したソ連において最大の民族はスラブ系のロシア人であったが,ウクライナ人,ベラルーシ(白ロシア)人やトルコ系のウズベク人など100万人を超える民族だけでも約20あり,計110以上の民族が住んだ。それぞれの構成共和国の主要民族をなす15民族のほか,タタール人,チュバシ人,モルドバ人,バシキール人が多く,ユダヤ人,ドイツ人,ポーランド人も多かった。ロシア連邦共和国に16,アゼルバイジャンウズベキスタンに各1,ジョージアに2,計20の自治共和国がおかれ,さらに8自治州,10自治管区(1977年以前は民族管区)があって一定の民族自治が行われた。このようにソ連の連邦制は民族原理を基軸としたため,民族問題と連邦制の問題が重なりあっていた。そして社会主義の理念のもとで諸民族の同権が唱えられたが,実質上はロシア中心であった。1922年の連邦発足後も,共産党組織においては〈党の連邦制〉は否定され,一貫して中央集権的原理が採られたし,また1925年以後,他の共和国とは異なってロシアにだけは〈ロシア共産党〉はつくられなかった事実も,逆にこのことを裏書きしている(ロシア共産党はソ連解体直前の1990年に発足)。なお,1924年の最初の憲法以来,各共和国の〈連邦からの自由な離脱権〉が保障されていたが,発動されることがないままに連邦崩壊に至った。言語については,ロシア語が実質的には全連邦国家語の位置を占めて,諸民族の言語生活を圧迫してきたが,1970年代にロシア語を民族間媒介用の〈族際語〉と規定するキャンペーンが行われたりした。

〔歴史〕

 1917年レーニン指導下のボリシェビキを中心とするロシア革命により帝政が崩壊,1918年ロシアソビエト連邦社会主義共和国が成立,1922年これを中心にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)が成立。革命直後本格化した列国の対ソ干渉戦争と国内反革命勢力との対決の危機を,赤軍の組織,戦時共産主義政策の採用で克服。1921年以後,ネップの採用により経済再建に成功,1928年五ヵ年計画,1929年農業集団化が始められ,1930年代半ばには工業国となった。この間スターリンの指導権が確立,1936年ソビエト連邦憲法(スターリン憲法)が制定され,国際政治では孤立していたが国際共産党組織(コミンテルン)を通じて指導権を確立した。一方,その背後には強制収容所の体制や1930年代の大粛清があった。第2次大戦ではドイツに完勝,戦後は東欧諸国を勢力圏としてCOMECON,ワルシャワ条約機構を組織して,その指導者的地位を占め,また米国と並ぶ国際政治上の指導勢力となり,米ソ対立下で冷戦を招来。しかし1956年スターリン批判後,東欧諸国の離反でその影響力は弱まる傾向にあった。1970年代はブレジネフ書記長の指導体制が固まり,西側とのデタント(緊張緩和)政策が進展した。しかし1970年代後半にはソ連のアフガニスタン侵攻などにより,西側とくに米国との関係が悪化。一方,対アフリカ中東アジア外交も1970年代に活発化したが,ソ中対立(中ソ論争)は中越戦争などにより激化。1985年共産党書記長に就任したゴルバチョフは,ペレストロイカ(再建)を標榜して内政,外交の両面で積極的な改革,民主化を推進し,米国,中国との関係も改善された。ゴルバチョフの改革は,一方で各共和国,各民族において民族主義や主権を主張する動きを産み出し,東欧革命をも誘発,他方では保守派の反発を招いた。1990年3月にリトアニアが独立を宣言するや,主権宣言をする共和国が相次ぎ,1991年8月,危機感を覚えた保守派がクーデタを起こしたものの,三日天下に終わった。しかし,このクーデタを契機に情勢は急展開し,同年12月,11の共和国が独立国家共同体(CIS)の設立に合意,ソビエト連邦は69年間の歴史に幕を閉じた。〔政治・経済制度の特質〕 ソ連の政治的基礎はプロレタリアート独裁の権力機関としての〈ソビエト〉(勤労者代表ソビエト)であり,その指導の中核はソビエト連邦共産党であった。経済の基礎をなすのは生産手段の社会主義的所有と社会主義的計画経済であった。中央機関のゴスプランが五ヵ年計画などによって国民経済全体を設計し,行政単位の国営企業に業務指標を課すことによって経済が営まれ,市場での自由競争は排除され,価格は公定とされた。賃金も職種ごとのノルマに対応して国家レベルで決定された。農業ではコルホーズ,ソフホーズによる集団農場経営が中核で,国家管理の枠外の副業経営(自留地などによる)は残余の部分であった。産業部門が全連邦規模の分業として配置されるために,中央アジアにおける綿作モノカルチャーにみられるような産業構造が形成された。ペレストロイカの過程でこのような〈中央集権指令型〉経済の非効率を改革する模索が行われているうちにソ連は崩壊に至った。→ロシア

ユーラシア大陸の北部,ロシアの地に存在した歴史上初めて誕生し,終焉した社会主義体制の国家である。その国土は広大で,北極海をはさんで対峙(たいじ)する資本主義・民主主義の国アメリカ合衆国と対抗し,世界政治に圧倒的な影響力をもった。この国の1917年以前の歴史,文化については〈ロシア〉〈ロシア帝国〉,1991年以後の国家の状況については〈ロシア連邦〉〈独立国家共同体〉などの項を参照されたい。
【名称】
 〈ソビエト〉とはロシア語で〈会議〉の意味であるが,1917年の二月革命で各地に〈労働者・兵士代表ソビエト〉,〈農民ソビエト〉が生まれ,それらを母体に,十月革命後,ロシアウクライナ,白ロシア(ベロルシア)の三つのソビエト社会主義共和国が成立した。

国旗・国章・国歌

国旗は、矩形(くけい)の赤い布地の旗竿(はたざお)寄りの一角に金の鎌(かま)と槌(つち)があり、その上に金糸で縁どりした五光星が描かれている。
 国章は、太陽の光と麦の穂で囲まれた地球を背景に鎌と槌が描かれ、15の共和国のことばで「万国のプロレタリアートよ団結せよ!」との銘が入り、上に五光星が描かれている。
 国歌は、1918年から1943年までは『インターナショナル』であったが、1944年、新しいものにかわった。しかしこれにはスターリンを礼賛する歌詞が入っていたので、スターリン批判以後20年ほどは曲だけが演奏されるといった変則的な状態が続いたが、1977年からは手直しされて、また歌われるようになった。

国名の由来と国家体制

日本ではソビエト社会主義共和国連邦とよんでいたが、本来は「ソビエト体制の社会主義共和国の同盟」の意味である。ここには民族名や地名がないが、それはこの国の成り立ちからきている。「ソビエト」とはロシア語で評議会の意味であり、1905年の革命のときモスクワ北東のイワノボ・ボズネセンスク市で、初めて「ソビエト」という名の全市的な労働者の代表機関が生まれたのにさかのぼる。その後1917年の革命に際しては労働者、兵士、農民が自分たちのソビエトをつくり、これが革命において決定的な役割を果たした。レーニンはソビエトの重要性をいち早く認め、「すべての権力をソビエトへ!」のスローガンを掲げて臨時政府に対抗した。
 ボリシェビキが政権を獲得した直後の1918年1月の第3回ソビエト大会において、ロシアソビエト連邦社会主義共和国が誕生した。その後1922年12月30日に、このロシア連邦共和国にウクライナ、白(はく)ロシアベラルーシ)、ザカフカス・ソビエト連邦社会主義共和国の3か国が加わって、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。
 ソ連はロシア連邦共和国をはじめとして15の社会主義共和国からなる多民族の同盟国家であった。15共和国のうちウクライナと白ロシアはソ連崩壊後も国連に議席をもっているが、これは1945年のヤルタ会談で認められたものである。ソ連の憲法は、これら15の連邦構成共和国にソ連邦から自由に離脱する権利を認めていたが(第72条)、これは有名無実であった。
 これら連邦構成共和国はいずれも人口100万以上の国であったが、それ以下の人口の民族・種族は自治共和国、自治州、自治区をつくり、共和国の下部単位をなしていた(タタール自治共和国のように人口100万以上の例外もあった)。自治共和国も連邦構成共和国と同様、それぞれ独自の憲法、最高会議、閣僚会議をもっていたが、共和国からの分離権はなかった。各共和国の地方行政単位は、地方(クライ)、州、自治州、自治区、地区、市、市内区、町、村で、市には共和国に直属するものと、州や地区に属するものとがあった。
 ソ連の国権の最高機関は、連邦ソビエトと民族ソビエトの二院からなる最高ソビエト(会議)であった。最高会議は両院の合同会議において幹部会を選出し、その議長がソ連の国家元首とみなされた。1989年には新たに連邦人民代議員大会が設置され、また1990年3月には大統領制が導入され、大統領が国家元首となった。
 最高会議はまた両院の合同会議においてソ連閣僚会議を編成した。その議長がソ連首相であった。また各地方行政単位ごとに、それぞれ人民代議員ソビエトがあり、その執行・処理機関として、議員のなかから執行委員会が選ばれた。その委員長は日本の知事や市区町村長と同様の職務と権限を有していた。このようにソ連は、連邦レベルから町村に至るまで各種のソビエトを通じて統治されることになっていて、連邦や構成共和国の国名にソビエトという語が入っているのも、ここからきていた。

共産党の役割

しかし実際にはソ連の国権の最高機関はソ連共産党であった。共産党の役割について憲法(1977)の第6条は、「ソ連共産党はソビエト社会を指導し、方向づける力であり、その政治機構、国家機関および社会団体の中核である」とその指導的役割を明記していた。理論的には共産党の最高の意志決定機関は党大会であったが、しかしこれは5年に1回、それも10日間ほどしか開かれなかったので、党大会で選ばれる中央委員会が、大会と大会の間の全活動を指導し、中央委員会の政治局、書記局および書記長を選出した。したがってこの中央委員会がソ連共産党の最高機関であったといえる。そのためソ連では共産党の書記長のほうが、最高幹部会議長や閣僚会議議長より重視された。しかし1989年ゴルバチョフが党の書記長と最高会議議長(元首)を兼任、さらに1990年大統領制の導入によって、共産党の指導的役割は低減した。このあと1991年のクーデターのとき、共産党の中央委員会はこのクーデターを傍観したところから、ゴルバチョフは書記長を辞任し、連邦最高会議は共産党の活動停止を決めた。

世界の中のソ連
ソ連は世界で最初の社会主義国である。しかし、レーニンの率いるボリシェビキが政権を掌握したあと、白衛軍や外国の干渉軍を破って政権の基礎を固めるためには数か年を要した。アメリカがソ連を承認したのは1933年のことであり、翌1934年ソ連はようやく国際連盟に加入が認められた。ソ連は1928年から五か年計画を実施して、社会主義の建設に乗り出したが、第三次五か年計画はナチス・ドイツとの戦争によって中断されてしまった。また1930年代から1950年代なかばまでスターリン主義が支配し、大規模な粛清と個人崇拝が行われた。
 第二次世界大戦でソ連は参戦国中最大の犠牲者を出したが、戦後は東欧社会主義諸国の指導者として、セフ(経済相互援助会議=コメコン)やワルシャワ条約機構を組織して、アメリカに対抗する一大勢力となった。しかし早くも1948年にはユーゴスラビアが、1960年代初めには中国がソ連圏から離脱し、社会主義陣営にも分裂がみられるようになった。また1956年の第20回党大会におけるスターリン批判は、自由化を求める東欧諸国に大きな衝撃を与え、ハンガリーでは暴動が起こって、ソ連は武力でこれを鎮圧した。ソ連による軍事介入は、1968年のチェコ事件のときにも、1979年のアフガニスタンの政変のときにも、繰り返し行われた。
 一方、ソ連が1957年に世界最初の人工衛星を打ち上げ、1961年に史上初の宇宙飛行を行ったことは、この国の科学技術の進歩を世界に示すところとなった。ソ連は通常兵器の分野でも核兵器の分野でも、アメリカに対抗しうるような軍事力をもつに至ったが、国民の生活レベルの向上は遅々としていた。
 ソ連は1950年代のなかばから第三世界の開発途上国に経済援助と軍事援助を行い、また東欧諸国以外のモンゴルベトナム北朝鮮キューバアフガニスタンエチオピアなどの社会主義諸国にも援助を行った。しかしソ連経済の停滞とともに、このような軍事支出や援助の増加が大きな負担になった。1985年3月、新たに共産党の書記長に選出されたゴルバチョフは、人事の刷新や経済の活性化を図るとともに、それまでのアメリカ偏重の外交から、西欧や日本にも相応の配慮を示した外交へと政策のニュアンスを変え、また中国との関係改善にも積極的な態度を示すようになった。ゴルバチョフはペレストロイカと新指向外交を掲げて改革に乗り出し、ベルリンの壁の崩壊と冷戦の終結のきっかけをつくった。しかし、経済改革は遅々として進まず、新たに民族問題が噴出して、1991年8月には改革に反対する党と政府の幹部がクーデターを試みたが失敗した。この結果ゴルバチョフは党書記長を辞任し、共産党は事実上解体した。このあと連邦構成共和国は次々に独立の宣言をし、ついに12月にはソ連邦は崩壊してバルト三国をのぞく12の共和国で独立国家協同体(CIS)がつくられた。

気候
ソ連はユーラシア大陸の中央部から東部を占め、しかも全体として北に偏して位置する。ユーラシア大陸は地球最大の大陸塊であり、しかもソ連の国土は海洋の影響が大きい大陸西岸部を欠くこと、大陸中部以東で乾燥した内陸部は中緯度に出現することによって、ソ連の広大な国土の大半は、もっとも強い大陸性気候をもつことになる。これはソ連の気候の最大の特色である。気団の動きを主に述べれば、次のようになる。冬には、シベリア中部から東部にかけて現れる優勢な高気圧(シベリア気団、シベリア高気圧)は、バイカル湖付近に中心を置き、気圧は1040ヘクトパスカルに達し、きわめて優勢で安定している。中心域は晴天、無風、激しい放射冷却がおこり、ますます寒冷の度を加える。この高気圧の中心部から、高圧部が東に張り出すか、高圧気団が東に移動すれば、乾燥した強風(日本海を渡る間に水蒸気を含むようになる)が中国日本の冬の天気を厳しくする。また、高圧部が南西から西に張り出すか、移動した場合、ソ連のヨーロッパ部、東ヨーロッパ、中部ヨーロッパが厳しい寒波にみまわれ、地中海地方にもその影響が及ぶ。大西洋上を低気圧が東進すると、前面に温暖前線が発生して南から湿った風が吹き込み、ソ連のヨーロッパ部に暖気と降水をもたらす。この現象は長い冬の間しばしばおこるので、大西洋の影響も加わって同緯度では西部のほうがはるかに温暖多雨となる。また、この現象が急激に発生すると、厳寒期のさなかに雪が融(と)け河水があふれる現象がおこる(「オテペリ」という)。ソ連西部の相対的高温は、次の例でもわかる。レニングラード(サンクト・ペテルブルグ、北緯60度)の1月平均気温-8℃に対し、内陸でははるか南方のアストラハン(北緯約46度20分)で同じ気温となり、さらに大陸東岸のウラジオストクでは北緯43度で-13℃である。1月平均気温の等温線を観察すると、ソ連のほとんど全域で0℃以下、東シベリアに寒極があり、北西部の等温線は緯度にほぼ直交する。ザカフカスの黒海沿岸、クリミア半島の南端そのほか小面積が0℃以上である。
 夏には等温線は緯線にほぼ平行に並ぶ。シベリア高気圧(気団)は春に消失し、大陸中心部は逆に低圧部になる。周辺部(とりわけ大西洋岸)から湿潤な大気を含む気団が奥深く侵入するが、やがて含んでいる水蒸気を失い、高温で乾燥した大気となる。太平洋岸からは湿った夏のモンスーンが吹き込み、沿海地方、シベリア東部東寄りの地方に、湿潤・冷涼で晴天日数の少ない夏をもたらす。南部は中緯度高圧帯にあたるため、高温・乾燥の砂漠かステップ(短草草原)が広大な面積を占めることになる。

自然帯
ソ連の国土をいくつかの自然帯として簡略に概念化することは容易である。気候・土壌・植生・動物などの分布を関連づけて自然帯とよぶ概念をつくったのは、19世紀に活躍したロシアの自然地理学者たちであった。
 自然帯は、ほぼ緯線に平行な帯状の数帯からなる。たとえば標式的なツンドラ(永久凍土帯)と標式的なタイガ(針葉樹林帯)の2帯にするか、その間の漸移帯を独立させて3帯にするかで、帯の数も変わってくる。次に、概念化された8帯からなるものに山地などの要素を加味したものを掲げる。北から南へ、の順である。気温などの数値は「目安」として示す。
(1)永久氷雪地帯
(2)ツンドラ 北極海岸でコケと地衣類のツンドラ。南部ではコケ、シダ、矮性(わいせい)のヤナギなどが混じるようになる。7月平均気温10℃、年降水量300ミリメートル。
(3)ツンドラ・タイガ漸移帯
(4)タイガ 北方の針葉樹林のタイガと、南方の針葉広葉混合樹林からなるものとに分けられる。7月平均気温18℃、1月平均-3℃~-40℃。年降水量700~800ミリメートル。ソ連のヨーロッパ部では、南にカシワ、ナラなど広葉樹林のタイガがみられる。
(5)タイガ・ステップ漸移帯 黒土、暗色栗色(くりいろ)土などの土壌帯は、ほぼこの位置にあたる。7月平均気温23℃。年降水量400ミリメートル。
(6)ステップ
(7)半砂漠 ステップと砂漠の間にある広大な漸移地帯。塩分に耐えるキク科(ヨモギ類)、イネ科などの植生が粗く地を覆う。年降水量300ミリメートル以下。
(8)砂漠
(9)亜熱帯 黒海北東岸、カスピ海西岸・東岸の平野部に、面積は狭いが「亜熱帯」と称する地域がある。前者は湿潤亜熱帯、後者は乾燥した亜熱帯である。北に偏した国土をもつソ連にとって重要な地域である。
(10)山地 標高が高くなるにしたがって現れるステップ、タイガ、いわゆるお花畑、氷河なども、自然帯の構成要素をなしているが、一括して「山地」とする。

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 ソ連には、20の経済地域があったが、ここでは、そのうちのあるものを統合して得た13の地域区分によって解説する。括弧(かっこ)内は、もととなった経済地域の名称(略記したものもある)である。したがって、西シベリア、東シベリアなどの領域は、日本での常識的領域とはかなり異なり、面積も広くない。
(1)モスクワ周辺(中央地域) モスクワ首都圏を含み、その影響の強い地域である。首都の都心から、管理中枢機能の一部、企画設計、試作実験施設などの進出が目だつ。その外周は、各種機械、エネルギー、建設、食品などの工場が立地し、レクリエーション地帯、別荘地帯と、園芸・家禽(かきん)・乳業地帯が展開する。また、モスクワからボルガ川、バルト海、カスピ海、黒海などへ通ずる河川交通システムの一環となる人造湖、運河、河港などのある都市も、北~東部を取り巻く。かつてこの地方は、増大する工業にエネルギー供給が追い付かず、深刻な危機を体験した。泥炭、褐炭が動員されたが、第二次世界大戦後はウラル、ボルガ地方からの供給(パイプライン、送電線)を受け、危機的状況からは脱した。東部にはボルガ‐オカ水系に沿うスズダリ、ウラジーミル、ヤロスラブリなどの古都があって、古代ルーシの民族と文化の形成の中心であった。古都巡礼のルートは「黄金の輪」の名で人気を集める。モスクワ南方にはトゥーラ、オリョールなど、西部にはスモレンスクなど、街道沿いの城砦(じょうさい)起源の都市があり、武具製作から発展した金属・機械工業をもつ。
(2)レニングラード周辺(北西部地域) レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)郊外には、ピョートル1世にちなむ史跡(ペトロドボレツ、プーシキンなど)、十月革命と第二次世界大戦戦跡が多い。三角州上に建設されたレニングラードは孤立した巨大な重工業都市で、資源を欠き、大戦中の包囲下で市民は困難な生活を強いられた。戦後はペチョラ、ボルガ、ウラル、ウクライナからパイプラインや送電線でエネルギー供給を受けた。ネバ川水系の輸送システムの入口にあたり、南東方には古都ノブゴロドがある。この地域の農林業は、近郊農業、乳酪、小麦・ライムギなどの穀作、北方の林業などである。
(3)コラ半島、白海沿岸、北部ウラル(北部地域) コラ半島(鉄‐ニッケル、燐(りん)灰石)、ペチョラ炭田、コミ‐ウフタ油田など、北極圏の南北に沿って地下資源の豊かな地域である。労働力の北への移動と、原燃料の南進が実行されている。たとえば鉄鉱石は水路と鉄道でリビンスク湖北岸のチェレポベツに運ばれて鋳鉄(ちゅうてつ)や鋼材にされ、さらに消費地レニングラードへ運ばれる。農林業は穀作よりも林業、トナカイと牛の飼育などが盛ん。ムルマンスク、アルハンゲリスクは、貿易港、漁業基地、海軍根拠地などの機能をもっている。
(4)ボルガ川流域(ボルガ‐ビヤトカ地域と沿ボルガ地域) ボルガ川の中・下流部は、イワン4世のカザン攻略(1552)以降ロシアに併合された。タタール人の要塞(ようさい)であったカザン、交易の港であったサマラ(クイビシェフ)、ツァリーツィン(のちスターリングラード、現ボルゴグラード)などは1930年代から重工業都市に変貌(へんぼう)した。後者は第二次世界大戦の凄惨(せいさん)な戦場(スターリングラードの戦い)となった。戦車工場があり、戦略要衝であったことがおもな理由であった。ボルガ中流部には1960年代に大きなダムと発電所が次々に構築されたこと、ボルガ・ウラル油田の近接などを理由に、機械工業のほか精油、石油化学などの新興部門が立地し展開した。サラトフ(精油、石油化学)、トリアッチ(小型乗用車)、ブレジネフ(現ナーベレジヌイエ・チェルヌイ。貨物自動車、カマ水力発電所)などのほか、ダム労働者住宅建設から開始されたジグリョーフスクなどがその例である。第一次産業部門は北・中部の穀作のほか、南部では畜産の比重が高くなる。畜産は、かつての遊牧が変化した放牧から集約的な舎飼いまで多様である。ボルガの貯水池から引いた灌漑(かんがい)用水を利用した牧草・飼料作も、乾燥した南部で行われるようになった。しかし都市用水、農業用水の需要急増に伴い、本流からの取水量も多く、ボルガ川下流からカスピ海に流入する水量の減少をもたらしたうえ、環境問題が早くから発生していた。
(5)ウラル(ウラル地域) 経済地域としてはウラル山脈と、その東西に展開する山麓(さんろく)地帯を含めたものである。開発は1928年以降、とくに第二次世界大戦当時「ソ連の兵器廠(しょう)」となったことに始まる。この地方は地下資源に富み、先発のドンバス、ドニエプルと並ぶ冶金(やきん)工業地帯に成長した。北から南の順に述べれば、セロフ(鋼)、ニジニー・タギル(鋼・特殊鋼)、スベルドロフスク(鋼、銅・ニッケル・アルミニウム。アルミはクラスノトゥリンスク)、チェリャビンスク(鋼・鉄道車両などの機械工業)、マグニトゴルスク(鋼)、オルスク(銅、クロム、精油)などに分かれ、大規模な工業地帯を形成する。ウラル西麓はボルガ・ウラル油田東縁にあたり、精油、石油化学が立地し、そのほかボトキンスク(上カマ水力発電所)、オレンブルグ(天然ガス田)などがある。
(6)西シベリア(西シベリア地域) 1890年代、クズネツク(現ノボクズネツク)などで鉄道用炭の採掘が始まり、企業はカルテルを結んで巨利をあげた。しかし、本格的開発は第一次五か年計画で建設されたウラル・クズネツク・コンビナート以降で、ケメロボ(石炭化学)、ノボクズネツク(西シベリア製鉄所)を中心とするシベリア第一の重工業地帯となった。
 はるか北方のオビ川の中流域は産油地帯で、分散して油田があり(スルグート、サモトロルなど)、さらに北には天然ガス田(ウレンゴイ、グープキンスコエ、ザポリャールヌイ、ベレゾボなど)が開発されている。石油と天然ガスはパイプラインで西シベリア南部やウラル以西に送られる。ノボシビルスク西郊には「シベリア科学都市」ともいわれるアカデムゴロドークがある。
 西シベリア低地南西部~南部のステップは冬・春小麦地帯となりつつあり、中北部では粗放な畜産、トナカイ飼育と狩猟・漁労がある。
(7)東シベリア(東シベリア地域) 日本の常識と異なって東シベリアはザバイカル地方で終わり、その東のヤクート(現サハ)地方からは極東地域が始まる。西シベリア同様、最南部を東西に走るシベリア鉄道沿線に人口の大半が集中して主要な経済活動の地帯となる。タイシェト―バイカル湖北岸―レナ川上流を東進するバム(第二シベリア)鉄道の開通(1984)は、アンガラ・イリム鉄鉱床、ウドカン銅山など、沿線の地下資源開発のために役だつとされる。シベリア鉄道に沿うカンスク‐アチンスク炭田、アバカン炭田、アンガラ川の水力発電所群、アンガラ‐バイカル水上輸送系を媒介とする総合的な工業地帯の建設が見込まれているが、ソ連崩壊後は鉄道運賃が10倍にアップ、エネルギー資源も運べないなど、鉄道輸送の麻痺(まひ)状態により地域住民へのエネルギー供給にもこと欠く状態にある。イルクーツク、シェレホフ、アンガルスク、ブラーツクなどが将来の新工業地帯の中心となろう。北極海岸に近いノリリスク周辺は孤立した地下資源型工業地帯で、銅、ニッケル、石炭、天然ガスが採取される。それらの鉱工業従事者に供給する温室主体の生鮮野菜等を供給するソフホーズ(国営農場)が近郊に広がっていた。
 クラスノヤルスク、イルクーツクなどの周辺は乳業、園芸などの地帯、シベリア鉄道沿線に穀作(春小麦)、畜産地帯が開ける。
(8)ソ連の極東部(極東部地域) ヤクート(現サハ)、マガダン、カムチャツカ、沿海地方、樺太(からふと)(サハリン)などを含む。広大だが一般に未開発で、アムール川中流、ウスリー川流域は早くから入植が始まっていた。ヤクートの砂金、ダイヤモンドのほか、各地に小規模な炭田・油田があるが、ヤクート地方の大規模な油田・炭田開発が期待される。いわゆる「寒極」を含む地域である。ハバロフスクを中心とするアムール‐ウスリー流域低地の都市(ウスリースクなど)、日本海岸のウラジオストク(太平洋艦隊根拠地および対日貿易港)、ナホトカ(対日貿易港)、北方沿岸のテチューヘ、ニコラエフスク・ナ・アムーレなども、貿易上重要性を増すであろう。
 主要農業地帯はアムール‐ウスリー地域で、穀物(小麦)、酪農、畜産などの地帯であり、浅い山地は木材・林産加工が行われている。
(9)中央黒土帯(中央黒土地域) モスクワ南方の黒土帯の呼び名である。かつては黒土の豊かさに反し、多数の貧農が離村して社会問題となった。冬小麦、テンサイ、乳酪、食肉などの農業地帯で、モスクワおよびモスクワ以北の地域への食糧供給の任務をもっている。鉱産のうちで特筆されるのはクルスク地磁気異常帯(KMA(カーエムアー))の鉄鉱床が露天掘りで採取され、1960年代に選鉱所も建設されてソ連有数の鉄の生産地帯となったことである。中央黒土帯の主要都市はボロネジ(南方のノボボロネジスキーに原子力発電所がある)、クルスク(1986年西郊にクルスク原子力発電所が完成した)、リペツク、タンボフなどである。
(10)ウクライナとモルダビア(ドネツ‐沿ドニエプル、南部、南西部、モルダビアの各地域) ウクライナ東端はドンバス重工業地帯の西半にあたる。このほか、重工業地帯は、ハリコフ、ドニエプル川中流部沿いに展開する。ユーゾフカ(現ドネツク)に1870年代にロシア最初の溶鉱炉ができてから、南部工業地帯とよばれるようになったが、本格的開発は1928年に開始された第一次五か年計画時代である。ハリコフのトラクター工場も、ソ連最初の大型水力発電所(ドニエプル・ダム)の建設も、同時代の成果であり、その後、キエフ、クレメンチュグなど数座のダム建設によってドニエプル川は階段状の縦断面をもつようになり、重工業地帯の大きな中心となった。クリボイ・ログ(鉄山)、シェベリンカ(ハリコフ南方の天然ガス田)、ニコポリ(マンガン鉱山)も重要な地下資源賦存地点である。キエフはルーシ建国ロシア正教によって知られる古都で、現在は機械、電気機械などの工業の中心となっている。西部へ行くと農業地帯の性格が強くなり、冬小麦、テンサイ、乳酪、食肉などの生産が多い。クリミア半島南岸は国際的保養地、避寒地として知られる。西端のモルダビアは丘陵を主とし、果樹(スモモ、リンゴ、ブドウ)栽培が盛んである。
(11)ベロルシア・バルト三国・カリーニングラード(ベロルシア地域と沿バルト地域) バルト三国は第二次世界大戦直前にソ連に併合された地域、カリーニングラード州はロシア連邦共和国の飛び地である。昔から軍馬やこはくで知られていたものの、後れた農業地帯であったが、沿岸部ではハンザ同盟の都市が活況を呈した。工業化に必要なエネルギー資源を欠き、コフトラヤルベ(エストニア)では油母頁岩(ゆぼけつがん)、泥炭などを動員してきたが、パイプラインなどによりウラル、ウクライナなどから石油などが運ばれるようになった。大都市(とくに各共和国首都)では電気機械、機械、輸送機器製造が進展し、たとえばミンスク(鉄道車両、トラクター)、リガ(電車、バス、船舶)、カリーニングラード(鉄道車両、船舶)などがある。
 農業部門では、大都市周辺の近郊農業から草地での粗放な畜産まで種々あり、沿岸にはバルト海に出漁する漁業船団根拠地もある。カリーニングラードはかつてハンザ同盟の一中心で、18世紀からプロイセン領(旧称ケーニヒスベルク)として知られた。現在は国境の要地で、外港はバルチースク。
(12)中央アジアとカザフスタン(中央アジア地域とカザフスタン地域) この地域は自然的には内陸アジアの乾燥帯のなかばを占め、歴史的にはイスラム世界で、彼ら独自の文化圏を形づくる。しかし大都市や工業地帯にはスラブ系諸族も多い。従来の生業は、乾燥低地での遊牧と河川沿岸のオアシスでの自給農業で、著しい対照をなしていた。後者のなかからいわゆるシルク・ロード諸都市が発達した。現在、経済的に非能率な遊牧は廃され、畜産主体で穀作や飼料作をも行う農業にかわりつつある。ダム構築や灌漑用水確保が可能になったことが大きな原因で、ワタ、羊毛はこの地方の特産である。高峻(こうしゅん)な山地では移牧も行われる。
 カザフスタン北部では小麦の大規模栽培が1960年代から始まり、パブロダール、ツェリノグラード、クスタナイなどがその中心。鉱産資源は、カラガンダ炭田(ソ連有数の生産量)、ジェズカズガンなどの銅山(バルハシ精銅コンビナート)、ブハラ北方のブハラ天然ガス田、グリエフ(現アティラウ)とクラスノボーツク(現トルクメンバシ)付近の石油、食塩、カリ塩などがある。アルタイ前山やテンシャン山系の水力開発が始められている。おもな都市は前記の諸都市のほか、タシケント、アシュハバード(現アシガバート)、アルマ・アタ(現アルマトイ)など南部山麓のオアシスから発展したもの、小都市でもヒバ、ブハラ、サマルカンドなど史跡に富むものがある。
(13)北カフカスとザカフカス(北カフカス地域とザカフカス地域) カフカス山脈を挟んだ北と南の地方は、自然的に大きな相違がある。北カフカスは広大なクバン、スタブロポーリエのステップが広がり、冷涼で乾燥し、冬小麦地帯としてソ連時代の末にはその屈指の穀倉となった。石油(マイコプ、クラスノダールの中規模油田)があり、ピャチゴルスクからエリブルース山麓に至る渓谷中にティルニアウス鉱山(タングステン)がある。ザカフカス地方は温暖で、黒海東岸には北国のソ連としては珍しい温暖多雨気候をもつ海岸平野がある。丘陵で柑橘(かんきつ)類、ブドウ、茶が栽培され、海岸にはイトスギ、シュロなどが植栽される。牧羊が盛んで、山地には移牧もある。カフカス山脈の東端アプシェロン半島はバクー油田を中心として中規模の油田が広がる。
 北カフカス、ザカフカスとも保養・観光地が多く、前者ではとくにミネラーリヌイエ・ボードゥイ(略称ミンボードゥイ)、ソチ、後者ではバトゥーミ、エレバンなどに国内航空路線が集中する。保養地のほか、カフカス山中などに山岳スポーツ・登山基地が設けられるようになった。

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時期区分
ソビエト連邦の歴史は、『ソ連共産党史』(増補第4版、1972)によれば、次の11の時期に分けられている。(1)社会主義革命の発展とソビエト権力の強化期(1917.10~1918)、(2)外国の軍事干渉と内戦期(1918~1920)、(3)国民経済の復興、ソ連邦の創設期(1921~1925)、(4)社会主義的工業化と農業の全面的集団化の準備期(1926~1929)、(5)全線にわたる社会主義の攻勢期(1929~1932)、(6)国民経済の社会主義的改造の完成、社会主義の勝利の時期(1933~1937)、(7)社会主義社会の強化、国防強化期(1937~1941)、(8)大祖国戦争期(1941~1945)、(9)復興と発展、社会主義世界体制の成立期(1945~1952)、(10)社会主義社会の発展期(1952~1958)、(11)社会主義社会の完成と共産主義への漸進的移行期(1959~1970)。また、『ソビエト歴史百科事典』第13巻(1971)の「ソビエト連邦」の項目における時期の区分は、ほぼこれと同じで、(1)1917~1918年、(2)1918~1920年、(3)1921~1925年、(4)1926~1940年、(5)1941~1945年、(6)1946年以降、となっている。1976~1980年に刊行された経済史『ソビエト経済』(全7巻)は、(1)1917~1920年、(2)1921~1925年、(3)1926~1932年、(4)1933~1937年、(5)1938~1945年、(6)1946~1960年、(7)1960~1970年代の各巻に分けられており、(6)は、「国民経済の復興と発達した社会主義経済の創設」、(7)は、「発達した社会主義の段階でのソ連経済」と題されている。ジュゼッペ・ボッファの『ソ連邦史』(1979)では、革命、ネップの時代、工業化と集団化、個人権力、大祖国戦争、冷戦、フルシチョフ下の10年、の七つに区分されている。
 ここでは、(1)革命期、(2)社会主義的改造と工業化期、(3)大祖国戦争期、(4)スターリン批判期、(5)「発達した社会主義」の時期、と五つの時期に区分して概観する(なお、革命前のロシアの歴史については「ロシア史」の項を参照されたい)。

革命期
十月革命
第一次世界大戦のさなか、1917年11月7日(ロシア暦10月25日)に首都ペトログラードでソビエト政権が成立し、世界最初の社会主義革命が成功した。この年の3月(ロシア暦2月)に起こった「二月革命」により、国会の勢力を中心として形成された臨時政府は、労働者・農民の平和と土地の要求にこたえることができず、兵士・労働者をつかんでいたソビエトでは、臨時政府を支持するメンシェビキとSR(エスエル)が多数を占めていた。これに対してレーニンを指導者とするボリシェビキは、「四月テーゼ」によって、ソビエトがただちに政権をとることを主張して勢力を急速に伸ばし、それを実現したのである。
 ソビエト政府は、民族自決の原則に基づく、無併合・無賠償の即時講和を交戦諸国の政府と人民に訴えた「平和についての布告」、地主の土地の無償没収と分配を定めた「土地についての布告」を発し、ついで1918年1月には「勤労被搾取人民の権利の宣言」を採択して、新しい共和国の基本原則を明らかにした。以後1918年3月ごろまでに、広大な旧ロシア帝国領域の各地でソビエト政権が成立し、臨時政府の体制は一挙に崩壊した。1918年3月にはドイツと単独講和を結び、この前後に、銀行・運輸・大工業企業・外国貿易を国有化し、社会主義的改造のための態勢を整えようとした。

国内戦と諸共和国の誕生
しかし息をつく暇はなく、1918年なかばから、イギリス日本をはじめとする帝国主義列強が軍隊を送り、反革命軍を助け、国内戦・干渉戦が始まった。ソビエト政権は、赤軍を創設してこれにあたるとともに、自家消費・種子分を除く穀物を農民から強制的に出させる食糧徴発制を土台とする「戦時共産主義」政策をとり、すべての力を国内戦勝利のために動員した。富農の穀物徴発には貧農委員会があたり、農村の階級闘争は激しくなった。1919年3月の第8回党大会では、「貧農に依拠しながら中農層と強固な同盟を結ぶ」政策が明らかにされ、中農を漸進的かつ計画的に社会主義建設に引き入れる方針がとられた。周辺諸民族地域では、国内戦のなかで、革命と反革命との激しい闘争が行われた。また、フィンランドでも1917年12月6日にセイム(議会)がロシアからの独立を宣言し、31日にソビエト政府がこれを承認した。一方、バルト海沿岸地方では、首都とほぼ同時にソビエト政権が樹立されたが、まもなくドイツ軍に占領され、反革命政権が成立した。しかし、これらを例外として、大部分の地域においてはソビエト政権が諸民族勤労者の支持を得て確立する。
 ベロルシアでは、いったんミンスク市の権力を握ったソビエトを、1918年3月にドイツ軍が倒し、領域の大部分を占領したが、赤軍の反撃によって1919年1月1日にソビエト共和国が成立した。ウクライナでは、1917年12月25日にハリコフでソビエト政府が組織され、1918年1月にキエフの中央ラーダを廃した。まもなくペトリュラ政府が協商国の援助を得て勢力を伸ばしたが、1918年11月にソビエト政権が復活した。ウクライナは、旧ロシア帝国領域内で工業・農業とももっとも発展しており、労働者とともに農民やブルジョアジーの力も強く、闘争は激しく複雑な経過をたどった。ザカフカスでは、石油労働者の集中していたバクーで首都とほぼ同時にソビエト政権が成立したが、その他の地域では、アルメニアでは民族ブルジョアジーのダシナク(連邦党)、アゼルバイジャンではムサバチスト(ムスリム民主党)、ジョージア(グルジア)ではメンシェビキが圧倒的に優勢で、それぞれ政権を樹立し、トルコ、ドイツ、ついでイギリスの軍隊の支持を得る。バクー・ソビエトは1918年7月末に倒された。ソビエト政権は、イギリス軍の撤退後、1920年4月アゼルバイジャンで、同年11月アルメニアで、1921年2月にジョージアでようやく成立する。
 中央アジアでは、1917年11月14日にタシケント・ソビエトが政権を樹立する。間接統治下にあったヒバ、ブハラ両ハン国は、1920年2月、8月の人民ソビエト革命を経て、1923年、1924年にそれぞれ社会主義共和国となった。

ソ連邦の結成とネップ
1922年12月、アゼルバイジャンアルメニア、ジョージアが結合したザカフカス共和国と、ロシアウクライナおよびベロルシアの四つの共和国は、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)を結成した。中央アジアでは、1924年に民族的に境界区分が行われてウズベク、トルクメンの二つの共和国が誕生し、1925年にソ連邦に加わる。この間、1921年3月、第10回党大会で、「戦時共産主義」から新経済政策(ネップ)への経済政策の転換が行われた。ネップの柱は食糧税政策で、これによって農民は余剰穀物の販売を許された。商業や小工業企業での個人経営が復活し、国内戦終了時の1920年に戦前水準の半分となっていた農業生産、7分の1に激減していた工業生産は復興に向かった。

社会主義的改造と工業化期
一国社会主義路線の確立
社会主義革命を指導してきたレーニンは、1922年健康を害し、1924年に没する。このころヨーロッパの革命的高揚期は終わり、資本主義は相対的安定を達成したが、ソ連も革命期を終わり、経済的にもいちおう復興した段階で、以後の建設の方針を決定しなければならない時期を迎えた。
 この社会主義建設の方針をめぐって、1922年に党書記長となったスターリンと、トロツキー、ジノビエフとの間に、1926~1927年、激しい党内闘争が行われる。スターリンら主流派が、農民との同盟を保持しつつ一国で社会主義建設を進めるよう主張したのに対し、反対派は、政治的・経済的・軍事的にそれは不可能であるとして、世界革命論を唱えたのである。この闘争は主流派の勝利に終わり、スターリンの指導権が確立、その下で一国社会主義建設が始められる。

五か年計画による工業化
一国社会主義建設の路線に沿って、1928年10月から重工業優先の第一次五か年計画が開始された。これは、1920年作成の電化に基づく長期発展計画(ゴエルロ計画)、1921年設置のソ連計画委員会(ゴスプラン)によって作成され、1920年代後半に実施された単年度計画等の経験と、大部分の工業企業の国有化を基礎としている。
 第一次五か年計画期には、1500の大工業企業が操業を始めた。突撃隊作業班を先頭とする大衆的社会主義競争によって建設のテンポは速まり、計画課題は1932年末までに完遂された。工業生産とくに機械製作・金属加工は大きく発展し、電力生産は2.7倍となり、ソ連は工業国へ変わった。失業は1930年になくなった。ウラル、シベリアにも大規模建設が行われ、連邦共和国・自治共和国でも連邦政府の援助によって工業化が始められ、非ロシア諸民族の労働者階級が増大した。続く1933~1937年の第二次五か年計画期には、工業生産は機械製作を中心にさらに発展し、粗鋼生産は二つの五か年計画によって4倍以上となった。1935年にはスタハノフ運動という作業能率増進運動が生まれ、全分野に拡大した。

農業の全面的集団化
農業生産はネップの下で、主として個人経営によって復興したが、1928年1月穀物調達の危機が起こった。その直接の原因は、価格が低いことに対する農民の不満と、見返りとなる工業製品不足による穀物の売り惜しみ、富農の投機と扇動と考えられるが、背景には、農民が中小農化したことによる自家消費率の増大があった。予約買付制なども試みられたが、根本的解決は、農民のコルホーズ(協同組合農場)への組織化の推進しかないことが明らかになった。1929年春、スターリンは、より漸進的な政策を主張するブハーリンら右翼反対派を攻撃し、年末の「大転換」によって全面的集団化運動を開始した。
 1932年末には、播種(はしゅ)面積の4分の3以上が集団化され、農業の社会主義的改造は基本的に完了した。まだ少なかったトラクターや農業機械は国営のエム・テー・エス(機械・トラクター・ステーション)に集中され、契約によってコルホーズにサービスを行った。ソフホーズ(国営農場)も大規模に建設され、その農業機械によって周辺のコルホーズ農民を援助したほか、宣伝・教育活動を行い政治的な拠点となった。ロシア正教聖職者は個人農を支持したため、集団化と同時に激しい反宗教運動が行われた。
 集団化運動は、とくに富農との激しい階級闘争を伴ったため生産は激減し、1913年に対する1933年の指数は、耕種101、畜産65となり、飢饉(ききん)と農村の荒廃をもたらし、犠牲は大きかった。1934年12月の党政治局員キーロフ暗殺を契機として、1936年から1938年にかけ三次にわたるモスクワ裁判と軍指導者の秘密裁判によって、ジノビエフ、カーメネフ、ブハーリン、トゥハチェフスキーら党や軍の指導者が次々に処刑された。この大粛清によって、たとえば1934年の第17回党大会で選ばれた党中央委員・同候補の7割が逮捕・銃殺された。この大粛清は、集団化による緊張とスターリン個人崇拝を背景として初めて理解できるであろう。
 第一次、第二次の二つの五か年計画の期間に、都市と農村における資本主義的な要素は最終的になくなり、1936年12月、第8回ソビエト大会はソ連における社会主義の勝利を宣言、新しい憲法を採択した。
 中央アジアでは、1920年代後半の土地・水利改革から集団化へと連続的な農業変革と並んで非識字者解消運動、女性解放運動が行われ、工業化の基礎が置かれたが、この憲法によってカザフ、キルギスは連邦共和国となった。またザカフカス共和国は解体され、アゼルバイジャンアルメニア、ジョージアは独立の連邦共和国となった。

大祖国戦争期
戦争の接近
1930年代、ドイツ、日本などでファシズムが台頭し、ソ連は1934年に国際連盟に加入、1935年コミンテルン第7回大会で人民戦線戦術を決めるなど、反ファシズム勢力の結集を図った。しかし西欧支配層がドイツのオーストリア併合、チェコ侵略に対しても宥和(ゆうわ)的政策をとり続けたため、ソ連は1939年8月孤立を避けるためドイツと不可侵条約を結び、国内の態勢づくりを急いだ。1940年にはエストニアラトビアリトアニア、モルダビアでソビエト政権が樹立されソ連邦は拡大した。1938年「張鼓峰(ちょうこほう)事件」、1939年「ノモンハン事件」と紛争が続いた日ソ間には、1941年4月、中立条約が結ばれた。[木村英亮]
ドイツによる侵略と反攻
第二次世界大戦は1939年に始まっていたが、ドイツ軍は1941年6月突如ソ連に侵攻し、11月にはモスクワ、レニングラード近くまで占領した。しかし12月にはモスクワ近郊でソ連軍の反撃が始まり、ドイツ軍の電撃戦の失敗は明白となった。レニングラードはこの年9月に包囲され、防衛戦は900日も続いたがついに陥落しなかった。ドイツ側枢軸軍33万が包囲殲滅(せんめつ)された1942年9月から1943年2月にかけてのスターリングラードの戦いは、戦争の転機であった。ソ連軍の反攻が始まり、1943年7月クルスクの戦いで枢軸軍は50万以上を失った。アメリカイギリスはソ連と反ファシズム連合を形成し、武器を援助したが、1944年6月に連合軍がフランスに上陸するまで、枢軸軍の大部分は独ソ戦線に投入されていたのである。
 ソ連軍は、ドイツ軍を追撃して東欧をファシズムの支配から解放、1945年4月ベルリンを包囲し、5月8日にドイツは降伏した。ソ連は、8月8日には日本に宣戦し、中国東北地区の日本軍を撃破した。この戦争(ソ連のいわゆる「大祖国戦争」)におけるソ連の勝利は、世界史に大きな意義をもっている。東欧諸国では人民民主主義政権が樹立され、帝国主義の植民地体制の崩壊が始まった。

復興
大祖国戦争によって、ソ連は国富の30%、2700万の人命という歴史に例のない損害を受けた。1942年に工業生産は1940年の66%、農業生産は38%にまで低下したが、開戦後1360以上の大企業、1000万以上の人が東部に疎開し、粗鋼などの重工業、戦車、航空機をはじめ兵器類の生産は急激に増大してドイツをしのぐに至った。戦後1946~1950年の第四次五か年計画によって引き続き復興が進み、1950年の工業生産は戦前水準を超えた。スターリンは、人民委員会議議長(首相)、国家防衛委員会議長、最高司令官などの権限を一身に集め、戦争を勝利に導いたが、その個人的権威は過度に高まった。戦後まもなく始まった「冷戦」という国際的緊張のなかで、個人崇拝はやがて最悪の様相を呈し始める。

スターリン批判期
「雪どけ」時代
1953年3月、1922年以来30年にわたって党書記長であったスターリンが急死した。後を継いで首相兼党第一書記となったマレンコフは、消費物資の生産に力を入れた。まもなく党第一書記となったフルシチョフは、カザフスタンの処女地開墾などによって農業生産の向上を図り、こうして、国民生活はしだいに豊かになってきた。ソ連はすでに原爆を保有していたが、1953年には水爆実験にも成功、1955年にはワルシャワ条約機構を成立させるなど軍事的な力をつけ、朝鮮、インドシナの戦争を休戦に導いた。このころアジアアフリカ諸国の発言権も強まり、周・ネルーの平和五原則が声明されるなど平和共存の気運が盛り上がった。1956年2月、第20回党大会では、フルシチョフが秘密報告でスターリン個人崇拝を厳しく批判し、「雪どけ」を一挙に推し進めた。反対するマレンコフ、モロトフらは、まもなく失脚に追い込まれた。

社会主義世界体制の確立
1950年代、工業生産の伸びは目覚ましく、冶金(やきん)や機械製作などのほか、後半には石油化学など新しい分野も急速なテンポで発展した。中央アジアなど周辺の諸民族共和国も本格的な工業化の時期に入った。
 東欧諸国では、ユーゴスラビア、ポーランドを例外として、1960年前後に農業経営がすべて生産協同組合か国営農場によって行われるようになり、社会主義的改造を完了した。ソ連はこのころ「発達した社会主義」の段階に入ったとされた。
 1957年、人工衛星スプートニク1号打上げによって人気を高めたフルシチョフ党第一書記は、1958年ブルガーニンを解任して首相をも兼任、国連総会で完全全面軍縮を提案、アイゼンハワー、ケネディらアメリカ合衆国大統領と会談、1961年には新しい党綱領作成にイニシアティブをとるなど精力的に活動した。しかし、中国共産党との路線上の対立を国家的対立に至らしめたことや、「キューバ危機」など外交上の失敗、党組織の改革・工業管理組織の改変・農業政策などの内政上の失敗を原因として、1964年に失脚した。

「発達した社会主義」の時期
アメリカに接近する経済力
1964年10月、フルシチョフ失脚後、党第一書記(1966年に書記長と改称)はブレジネフ、首相はコスイギンによって引き継がれた。新政権は、工業管理・計画制度改善の試みを推し進め、最新技術導入、自動化、巨大なコンビナート・大発電所の建設を行った。エレクトロニクス・無線工学等の部門も発展、工業・農業を含めた地域生産総合体がつくられ始めた。穀物生産は1978年には2億3720万トンと1953年の3倍近くに増大、畜産においても、牛・羊・豚の頭数で世界一、二となった。農業の機械化・化学化・電化も格段に進み、欧米諸国に比べ低かった農業労働の生産性の向上、飼料の増産に力が注がれた。

新憲法の採択
ブレジネフは、1976年、元帥、国防会議議長、1977年には最高会議幹部会議長を兼任、1982年11月に没するまで18年間という長期にわたって党と政府を率いた。この間、1974年にソルジェニツィンを国外追放、1980年にはサハロフをゴーリキー市に流刑するなど、反体制知識人に対する締め付けを強めたが、国民生活は全体としてみれば、豊かになってきた。中央アジアやシベリアも発展し、諸民族間の実質的な平等に向けての経済的建設・文化的接近も進み、文字どおりのソ連邦となってきたと考えられた。1977年の新しい憲法は、この段階を文書として確定したものといえよう。
 セフ(経済相互援助会議=コメコン)を通じての東欧社会主義諸国との経済的結合も強化され、1971年には「総合プログラム」を採択し、新段階を画した。1968年のチェコ介入に際しては「制限主権論」を唱え、政治的・軍事的団結を強調した。アメリカとは、1972年以降毎年穀物を輸入し、1972年ニクソン大統領とSALT(ソルト)(戦略兵器制限交渉)‐ 、1979年カーター大統領とSALT‐ に調印するなど共存路線を求めたが、1979年12月のソ連軍アフガニスタン介入以後、関係は悪化した。

ゴルバチョフ政権と第27回党大会
1982年のブレジネフ没後、党書記長は、アンドロポフ、チェルネンコとかわり、1985年、54歳のゴルバチョフが就任した。新政権は、経済改革の推進と徹底的な綱紀粛清・労働規律強化によって、鈍化した経済成長を高めようとし、とくに、数年来不作続きの農業生産を、1982年の「食糧計画」によって向上させようとした。1984年10月の第二シベリア鉄道開通をてことしてシベリア開発も着実に進めていた。
 1986年2~3月の第27回党大会では、党の中核をなす政治局の12人中8人がアンドロポフ以降の新メンバーとなるなど、ブレジネフ期における人事の停滞を打破して、党と政府の指導部が大きく若返った。
 この大会で採択された新しい党綱領では、「社会主義社会を全面的に完成し、その可能性と優越性を共産主義へのいっそうの前進のためにもっと十分に有効に利用する」ことがうたわれた。また同時に決定された、2000年を目ざす「経済社会発展の基本方向」では、科学技術進歩の加速、社会的生産の構造的再編、管理システム・経営方法の改善によって、国民所得・工業生産の2倍化を予定していた。
 グロムイコにかわったシェワルナゼ外相の下で西欧に平和攻勢をかけるなど、国際政治面でも積極的にイニシアティブをとろうとし、中国との関係も改善された。

大統領制とソ連の崩壊
ゴルバチョフはペレストロイカ(改革)路線を進め、1990年には共産党一党制の廃止、大統領制などを断行し、社会主義の枠内での民主化を進めようとした。しかし民族主義の波は東欧からソ連にも及び、1991年12月ソ連は解体、独立国家共同体(CIS)が創設された。

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政治制度
ソビエト連邦は社会主義国家であり、全権力は人民に属し、人民は人民代議員ソビエトを通じて国家権力を行使することになっていた。1977年10月7日に採択された憲法は、ソ連を「発達した社会主義社会」と規定し、国家の性格を「社会主義的全人民国家」としていた。ソ連はロシア連邦、ウクライナベラルーシ、ウズベク、カザフ、ジョージア、アゼルバイジャンリトアニア、モルダビア、ラトビアキルギス、タジク、アルメニア、トルクメン、エストニアの15のソビエト社会主義共和国からなる「単一の連邦的多民族国家」であり、各共和国は連邦からの脱退権をもっていた。
 ソ連の最高国家権力機関はソ連最高会議(国会)であり、連邦会議と民族会議の二院によって構成されていた。両院は同権で、同数の代議員からなり、両院の意見がどうしても一致しない場合には最終的には全人民投票によって決定された。最高会議は通常、1年に2回招集され、1回の会期は2、3日であった。閉会中は、両院合同会議で選出される最高会議幹部会が最高国家権力機関の機能を果たす。なお1990年3月の憲法改正で、大統領制が導入され、最高会議幹部会議長にかわり大統領が国家元首となった。大統領は、軍の統制権、首相・閣僚・最高裁判所長官などの任命権、非常事態宣言の発令、法案の拒否権などが与えられ、初代大統領にはゴルバチョフが選出された。
 国家権力の最高執行機関は、ソ連最高会議両院合同会議で組織されるソ連閣僚会議(政府)であった。閣僚会議は、議長、第一副議長、副議長、大臣、国家委員会議長のほか、閣僚会議議長が推薦し、最高会議が承認したソ連の他の機関や組織の責任者からなり、共和国閣僚会議議長も職務上、ソ連閣僚会議の構成員であった。議長が首相にあたり、議長、第一副議長、副議長、および閣僚会議が決定するその他の政府構成員により幹部会が組織された。省と国家委員会には全連邦的なものと連邦・共和国的なものがあった。前者は、ソ連の全域にわたって直接に、またはその設置する機関を通じて、その管轄下にある行政部門を指導し、あるいは部門間の管理を行うもので、後者は、通常、共和国の同名の省または国家委員会を通じて、その管轄下にある行政部門を指導し、あるいは部門間の管理を行うものであった。
 ソ連における唯一の政党は共産党であった。党は、憲法で、ソビエト社会の「指導的かつ先導的勢力」であり、「政治制度および国家・社会組織の中核」として認められていた。党の最高機関は、5年に1回以上開かれる大会であり、大会は内外政策の基本方針を決定し、中央委員会と中央監査委員会を選出した。中央委員会は、決議権をもつ中央委員と審議権のみをもつ中央委員候補からなり、6か月に1回以上総会を開き、大会間のすべての党活動を指導した。中央委員会は政治局と書記局および書記長を選出し、中央委員会付属党統制委員会を組織した。政治局は政治局員と同候補からなり、通常、週に1回、木曜日に会議を開き、中央委員会の総会間の党活動を指導し、書記局は当面の活動を指導した。党統制委員会は党規律の順守状況を点検し、党からの除名処分などに対する訴えを検討した。中央監査委員会は6か月に1回以上会議を開き、党予算の執行状況などを監査した。しかし1990年3月の憲法改正により、共産党の「指導的役割」が放棄され、建国以来の一党独裁制にかわり、複数政党制の導入が決定された。
 1986年2~3月に開かれた第27回大会では中央委員会の政治路線と実践活動が承認され、綱領新版が採択され、規約が修正され、1986~1990年間および2000年までの期間のソ連経済社会発展の基本方向が確認された。また、中央委員307人、中央委員候補170人、中央監査委員83人、計560人の中央機関構成員が選出された。同年3月6日に行われた第1回中央委員会総会では、ゴルバチョフが書記長に選ばれたのをはじめ、政治局員12人、政治局員候補7人、書記11人(書記長を含む)が選出され、ソロメンツェフが党統制委員会議長として承認された。中央監査委員会議長にはカピトノフが選出された。
 共産党の直接の指導のもとに活動する青年組織として全連邦レーニン共産主義青年同盟(コムソモール)があった。コムソモール員は14歳から28歳まで、共産党員は18歳以上ということになっていて、23歳までの青年はコムソモールを経てしか入党できなかった。
 ソ連における選挙は、ソ連最高会議から共和国最高会議、自治共和国最高会議、地方(クライ)、州、自治州、自治区、地区、市、市内区、町、村の人民代議員ソビエト(会議)に至るまで、秘密投票による普通・平等・直接選挙によって行われていた。選挙権と被選挙権は満18歳以上のソ連公民に与えられたが、ソ連最高会議代議員の被選挙権だけは満21歳以上であった。選挙区はいずれの選挙でも定員1人の小選挙区で、選挙ごとに決定された。立候補者は選挙運動の過程で1人に絞られる。つまり信任投票であった。ソ連、共和国、自治共和国の最高会議代議員の任期は5年、地方以下のソビエト代議員の任期は2年半であった。
 1984年3月4日に実施された第11期ソ連最高会議選挙では、連邦会議750人、民族会議750人(1選挙区では候補者死亡により後日行われた)、計1500人の代議員が選出されたが、その内訳は、労働者35.2%、コルホーズ(協同組合農場)員16.1%、党員・党員候補71.5%、非党員28.5%(うち、コムソモール員15.0%)、男67.2%、女32.8%、30歳以下の代議員22.0%であった。ソ連最高会議の選挙では落選者はほとんどいないのが通例であったが、1959年10月にリコール手続法が施行されて以来、1979年3月の選挙までの20年間に11人の代議員がリコールされた。
 ソ連には、ソ連最高裁判所、共和国最高裁判所、自治共和国最高裁判所、地方・州、自治州・自治区の裁判所、地区(市)の人民裁判所、軍隊内の軍法会議などがあった。ソ連最高裁判所が最高の裁判機関であり、各級裁判所の裁判活動を監督したが、法律の解釈権はソ連最高会議幹部会にあった。ソ連最高裁判所の長官、長官代理、裁判官、人民参審員は5年の任期でソ連最高会議で選出され、共和国最高裁判所長は職務上、ソ連最高裁判所の構成員となると決められていた。軍法会議の裁判官は5年の任期でソ連最高会議幹部会によって選出され、人民参審員は2年半の任期で軍人集会において選出された。
 ソ連検事総長はソ連最高会議によって任命され、共和国、自治共和国、地方、州、自治州の検事を任命した。自治区、地区、市の検事は共和国検事によって任命され、ソ連検事総長の承認を必要とした。検事総長以下すべての検事の任期は5年であり、検事局の諸機関はソ連検事総長にのみ従属し、いかなる地方機関からも独立してその権限を行使した。
 ソ連の政治制度は立法・行政・司法の三権分立ではなく、人民が決定し、実行し、評価するという政治制度を目ざしていた。違憲立法審査権がソ連最高裁判所ではなくソ連最高会議幹部会にあるのはその表れであった。地方行政ではよりいっそうこの理念の実現に努めていた。

地方行政
ソ連の地方行政の単位は、共和国、自治共和国、地方(クライ)、州、自治州、自治区、地区、市、市内区、町、村であった。共和国はそれぞれが主権をもつ国家で、独自の憲法と最高会議および同幹部会、閣僚会議、最高裁判所を有し、外交権をもった。ウクライナベラルーシは国際連合に代表を送っていた。自治共和国も独自の憲法と最高会議および同幹部会、閣僚会議、最高裁判所を有していたが、共和国からの分離権はなかった。ソ連には1985年1月1日当時自治共和国20、地方6、州123、自治州8、自治区10、地区3211、市2152、市内区641、町3968、村4万2176があった。
 地方以下の行政単位の国家権力機関はそれぞれの人民代議員ソビエトであった。各ソビエトは代議員のなかから執行委員会を選出したが、その議長が日本の知事、市長、町村長に相当していた。1985年2月24日に実施された統一地方選挙では、15共和国最高会議で6728人、20自治共和国最高会議で3460人、地方以下の人民代議員ソビエトで230万4703人の代議員が選出された。この選挙では、地区、町、村のソビエトの90の選挙区において候補者が当該選挙区の全有権者の過半数の信任を得られず落選し、34の選挙区において候補者が選挙民から忌避されて選挙運動期間中に立候補を辞退した。また、1970年から1980年までの10年間に約4000人の代議員がリコールされた。
 地方以下のソビエト代議員の内訳は、労働者44.5%、コルホーズ員24.8%、党員・党員候補42.8%、非党員57.2%(うち、コムソモール員22.4%)、男49.7%、女50.3%で、直接生産に従事する労働者と農民が過半数を占めていた。彼らはソビエト総会出席などで職場を離れるときも平均賃金は支給された。
 地区(市)人民裁判所の人民裁判官は5年の任期で普通・平等・直接選挙により秘密投票で地区(市)の公民によって選挙され、人民参審員は2年半の任期で就業地または居住地の市民集会において公開投票によって選挙された。自治区から共和国に至る裁判所または最高裁判所の裁判官と人民参審員は5年の任期で当該ソビエトまたは当該最高会議によって選出された。
 ソ連には、国家計画の遂行を統制し、国家規律の違反や官僚主義と闘い、国家機関の活動を改善するのを助ける人民統制という制度があった。この人民統制の初級組織は、すべての企業、施設、官庁で活動する任期2~3年の人民統制グループで、このグループに属する人民統制員は勤労者集団の総会で選出された。人民統制員は勤務の余暇に無報酬でこの仕事に従事した。人民統制グループは村、町にもつくられ、市区以上には人民統制委員会が置かれた。いずれも当該ソビエトによって組織され、任期は当該ソビエトと同じであった。人民統制の最高指導機関はソ連最高会議両院合同会議で組織されるソ連人民統制委員会であった。人民統制機関の活動は経済、社会、文化、国家管理などの面に限定され、裁判、捜査、調停などの活動には及ばなかった。
 ソ連では各企業、機関、学校ごとに労働組合が組織されており、高等・中等専門教育機関と職業技術学校の学生・生徒も組合員であった。各労組は産業別、地域別に結集し、5年に1回開くソ連労組大会が全ソ連の最高機関であった。また大会間の指導機関として全連邦労組中央評議会が組織されていた。ソ連の労組は各レベルで組合員の賃金と労働条件の決定や社会保障の実施などで大きな影響力を行使していた。ほかに消費生活で重要な役割を果たすソ連消費組合中央連合(ツェントロソユーズ)のような組織もあった。
 ソ連ではあらゆるレベルで党が政策の基本を決定し、国家機関がそれを具体化し、法制化し、実行していくという形をとっていた。しかし、実際には党政治局員がソ連最高会議幹部会議長やソ連閣僚会議議長を担当しており、党機関員と国家機関員は密接な人的関係にあった。党としては、党機関が政治指導機関に徹し、国家機関にとってかわることのないよう努力していたが、党機関と国家機関の機能の癒着の傾向がみられた。党の書記長や第一書記が当該レベルの国家機関の最高指導者よりも上位にあるごとく、ソ連は党主導型国家であった。

外交
ソビエト政権は第一次世界大戦中の1917年11月7日に誕生した。それはロシアの民衆の厭戦(えんせん)と平和への願いを背景とするものであった。ソビエト政権は発足後ただちに「平和の布告」を発し、すべての交戦国の政府と国民に戦争を即時中止し、無併合・無償金の公正で民主的な講和を結ぶよう呼びかけた。しかし、英仏米日などの同盟国はこの呼びかけを無視し、ロシアを戦争に引きとどめておくために反ソビエト政権派を支持し、ロシアに軍隊を送った。ドイツ、オーストリアハンガリーなど交戦相手国と結んだブレスト・リトフスクの講和条約はロシアから広い領土と多額の金を奪うものであった。ソビエト政権は内外の敵と戦うために戦時共産主義体制をとった。
 1920年代に入ってソビエト政権の勝利が確実となり、諸外国の承認が本格化した。1921年3月に英ソ通商協定が調印され、イギリスがソビエト政権を実質的に承認したのをはじめ、1924年にはイタリア中国フランス、1925年には日本がソ連を正式に承認した。しかし、アメリカのソ連承認は1933年11月のことであり、ソ連が国際連盟への加入を認められたのは1934年9月のことであった。しかも、そこにはすでに日本とドイツはいなかった。これら2国は1936年に防共協定を結び、1937年にはイタリアがこの協定に加わった。ソ連は日独伊三国によって東西両面から挟撃される形となった。
 1939年5月にモンゴル人民共和国と「満州国」との国境地域ノモンハンで軍事衝突が起こり、ソ連・モンゴル軍と日本・満州軍が相戦うことになった。他方、ヨーロッパでは、ドイツが1938年にオーストリアを併合し、チェコスロバキアからズデーテン地方を割譲させていた。ドイツはさらに東方へ進出しようとしていた。ソ連はアジアヨーロッパで同時に戦うという危険に直面した。ソ連は1939年8月にドイツと不可侵条約を結び、この危機を回避した。
 1941年6月、ドイツがソ連を攻撃し、ソ連も第二次世界大戦に巻き込まれた。ソ連は米英と組んで日独と戦うことになった。1945年8月にソ連は日本に正式に宣戦布告した。日ソ戦争は短時日で終わり、第二次世界大戦は終結した。ソ連はヨーロッパアジアで領土を拡大した。1975年夏にヘルシンキで開かれたヨーロッパ安全保障協力会議はヨーロッパでの戦後処理を確認した。ソ連はヨーロッパの大国としての地位を完全に確立した。
 1970年代後半以降、中近東、アフリカアジアでのソ連の活動は活発化した。1979年12月のソ連のアフガニスタンへの軍事介入はソ連外交の質の転換を意味した。それまでのソ連外交は受け身であった。1917年から1919年末まではソビエト政権をもちこたえることで精いっぱいであった。1920年代から1930年代なかばまでは国際社会に認めさせることが主要な外交目標であった。やっと認めさせたときにも、日独伊のような強力な反共国家が存在した。その攻撃を跳ね返し、勝利したとき、ソ連はヨーロッパの半分でその地位を確立した。これを全ヨーロッパで認めさせるのにさらに30年の歳月を要した。ハンガリーとチェコスロバキアへの軍事介入は獲得した地位を確保し、認めさせるためのものであった。しかし、アフガニスタンへの軍事介入は新しい土地への進出であり、新たな安全保障圏を獲得するための積極的な行動であった。ソ連外交は受け身から攻勢に転じた。
 ソ連のグローバル・パワーとしての活動の展開は、もう一つのグローバル・パワーであるアメリカとの関係を先鋭化させた。1980年代前半にアメリカの反ソ十字軍態勢とソ連の常時臨戦即応態勢が対峙(たいじ)した。米ソ核戦争の危険が増大した。こうしたなかで1985年11月にレーガン大統領とゴルバチョフ書記長の米ソ最高首脳はジュネーブに会し、米ソ不戦を確認したが、アメリカの戦略防衛構想(SDI)については意見が一致しなかった。1986年1月にソ連は20世紀中に核兵器を全廃するよう提案した。同年2月に開かれた第27回党大会でゴルバチョフ書記長は、核破局を防止し、文明が生き残るために全世界の諸国家と諸国民の協力を訴えた。ソ連は階級や国家の利益よりも人類と文明の生存を重視するようになった。
 ソ連は人類史上最初の社会主義国家であり、武器と戦争のない世界を目ざして出発した。しかし、現実には資本主義諸国の包囲のなかで生き延びることが当面の最大の課題であり、そのためには権謀術数を弄(ろう)することもあった。それでも1922年には全般的軍縮を提案し、1932年と1959年には全面完全軍縮を提案、その後、核兵器の完全廃絶を具体的に提案した。ソ連外交を決定する要因としてイデオロギーと安全保障と経済的利益などがあり、時により、状況によって、いずれかが前面に出ることはあったが、その動向を正しく把握するためには、これらの諸要因を総合的に検討せねばならなかった。

防衛
ソ連の武装勢力は、国防省に属する戦略ロケット軍、地上軍、空軍、防空軍、海軍の5軍種と、後方支援隊、民間防衛隊、国家保安委員会(KGB)に属する国境警備隊、内務省に属する国内隊からなっていた。ソ連領は16の軍管区に分けられ、海軍は北洋、バルト、黒海、太平洋の4艦隊とカスピ小艦隊、レニングラード海軍区を有した。在外部隊はドイツ駐留軍、北方集団軍(ポーランド駐留)、中央集団軍(チェコスロバキア駐留)、南方集団軍(ハンガリー駐留)の4軍で、モンゴルアフガニスタンに駐留するソ連軍は隣接する軍管区に属するとみられていた。
 ソ連軍は完全に党の指導下に置かれ、軍が独自に行動できないようになっていた。軍の最高統帥権は、ソ連最高会議幹部会が組織する国防会議および同じく最高会議幹部会が任命する最高司令部にあったが、国防会議議長も最高司令官も党書記長が兼任した。国防会議と最高司令部の構成は明らかにされていなかったが、党書記長のほかに前者には閣僚会議議長、国防大臣、参謀総長、国家保安委員会議長、国家計画委員会議長およびその他の必要な人、後者には国防大臣、政治総局長、国防第一次官、5軍種総司令官などが入っていたとみられていた。国防大臣以下各級指揮官は党員であったが、ほかに、党中央委員会軍事部の資格をもつソビエト陸海軍政治総局とその下部組織である政治局・政治部が軍隊内に置かれ、政治局長・政治部長が政治担当指揮官代理(ザムポリト)として政治指導を行っていた。国防省には参与会、軍種・軍管区には軍事委員会があり、政治総局長・政治局長はこれらの会の構成員であった。国防大臣以下指揮官は重要問題の決定にあたってはこれらの会の意見を徴さなければならなかった。
 ソ連では1945年の第二次世界大戦の終結後、アメリカの核独占を打破する努力がなされ、1949年には最初の原子爆弾の製造に成功した。1953年には世界最初の水素爆弾を完成し、1957年にはアメリカに先駆けて人工衛星を打ち上げ、大陸間弾道弾(ICBM)の発射実験が行われた。核ミサイル兵器の開発と関連してソ連の軍事戦略に大きな変化が起こった。1959年12月には戦略ロケット軍が創設された。1960年1月のソ連最高会議でフルシチョフ党第一書記兼首相は、核ミサイル兵器の出現によって戦争の形態が一変し、一国の国防力は兵隊の数ではなく、核ミサイル兵器の数によって決まり、この点でソ連がアメリカを上回っているとの考えを明らかにした。しかし、実際にはソ連がアメリカよりも立ち後れていることが1962年10月のキューバ危機の際に明白になった。ソ連は1960年代後半以降、核ミサイル兵器の増産に努め、1969年にICBMの数でアメリカに追い付いた。1972年5月に調印された戦略兵器制限協定(SALT(ソルト)‐ )は、ICBMの保有数をアメリカ1054、ソ連1618に制限した。アメリカの質をソ連の量によってカバーし、均衡を保とうとするものであった。1979年6月に調印されたSALT‐ は、ICBM、潜水艦発射弾道弾(SLBM)、戦略爆撃機、空対地弾道弾の総数を米ソ双方とも2400に制限し、1981年1月1日以降これを2250に削減しようとするものであった。SALT‐ は、アフガニスタンへのソ連の軍事介入に抗議してアメリカが批准しなかったが、SALT‐ とSALT‐ は、米ソ双方が力の均衡を認め、それにより平和を維持しようとする考えを有していたことを示すものである。ソ連はこの均衡をアメリカが破ることを許さないという態度をとった。
 ソ連の兵力は公表されなかったが、公表国防費は1969年から1974年まで年170億ルーブル台で、1985年と1986年は190億ルーブル台に増えた。ソ連では普通義務兵役制が実施されて、満18歳に達した男子は教育水準と軍種に応じて最高3年までの現役軍務についていた。イギリス国際戦略研究所編『ミリタリー・バランス1985~1986』によると、1985年7月1日当時のソ連の総兵力は正規軍530万人、内訳は戦略ロケット軍30万人、地上軍199万5000人、空軍57万人、防空軍63万5000人、海軍48万人、鉄道建設部隊・労働部隊61万5000人、司令部および一般支援要員70万5000人。ほかに国境警備隊25万人、国内隊35万人、計590万人であった。アメリカ国防総省編『ソビエト・ミリタリー・パワー1986』によると、ソ連の核戦力はICBM1396、長射程中距離核戦力(LRINF)553、SLBM983、戦略爆撃機847、戦術航空機は6300、地上軍は201個師団、戦略防衛戦力は迎撃機1210、対衛星攻撃兵器(ASAT)と地対空ミサイル(SAM)が計9000、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)100、海軍は航空母艦3、主要水上艦艇280、その他の戦闘艦艇392、戦闘用舟艇745、補助艦艇300、潜水艦375、海軍航空機1645であった。