タイ

(~) タイ王国

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画像の説明

タイ王国

英語による名称Kingdom of Thailand
漢字表記
漢字略
首都バンコク
主要言語タイ
面積51万4,000平方キロメートル(日本の約1.4倍)
民族大多数がタイ族。その他 華人、マレー族等
人口6,641万人(2018年)(タイ内務省)
通貨バーツ(Baht)

国情報

タイ王国

7 略史

 タイ王国の基礎は13世紀のスコータイ王朝より築かれ、その後アユタヤ王朝(14~18世紀)、トンブリー王朝(1767~1782)を経て、現在のチャックリー王朝(1782~)に至る。1932年立憲革命。

タイ Thailand THA 東南アジア タイ 6月24日 革命記念日

歴史

タイ人の起源は明らかでないが、紀元前、中国江南の地に居住していた哀牢(あいろう)がタイ人ではないかとされ、ついで7世紀から9世紀にかけて雲南の大理(だいり)に成立した南詔(なんしょう)はタイ人の国家とされる。やがてタイ人は中国南部からインドシナ半島各地に、南北方向の山脈の間を縫う河谷に沿って水田耕作を行いながら、長い期間にわたって徐々に移動した。11~12世紀には各地でタイ人の活動が歴史に記されるようになり、13世紀にはタイ人の国家が各地で形成された。チエンセン、チエンマイ、ルアンプラバン、アホム、スコータイなどの諸王国である。なかでも1238年クメールを破って建国されたスコータイ朝は現在のタイ国家の起源とされる。スコータイ朝は3代目のラーマカムヘン王の時代に最盛期を迎え、版図はマレー半島にまで及んだ。クメール文字からタイ文字をつくり、スリランカから上座部仏教(小乗仏教)を招来するなど先進文明を積極的に吸収して国家の内実を整えた。スコータイ朝の活発な海外交易の一端は、日本に伝来した磁器宋胡録(すんころく)(タイ中部の地名スワンカロークに由来する)にも表れている。スコータイ朝と並んでチエンマイではランナータイ王国が興り、メンライ王が威勢を振るい、その統治はメンライ法典によって現在に伝わっている。

 1351年、タイ中部のアユタヤにアユタヤ朝が誕生した。アユタヤ朝は、やがて北のスコータイ朝を支配下に置き、南は遠くマラッカまで勢力を伸ばした。東はアンコールを攻撃してクメールを脅かし、西はビルマ(現ミャンマー)と死闘を繰り返した。先進国クメールから捕虜としてバラモン僧、官僚、技術者を大ぜいアユタヤに移住させ、進んだ文明の摂取に努め、洗練された宮廷儀礼、整備した行政制度をつくりあげた。宗教による王権の正当化も図られ、国王を超越者とし、王族、貴族、一般民衆の社会的地位を水田面積の大きさで表示するサクデイナ制度が成立した。アユタヤ朝は強大な勢力を周辺地域に誇ったが、ビルマとの戦争に敗れ、1569年アユタヤも攻め落とされた。しかし1584年中興の祖ナレースエン大王がビルマ軍を破り、タイの独立を取り戻した。アユタヤ朝時代も海外交易は盛んで、アユタヤにはポルトガル、オランダ、イギリス中国日本などから多くの商人が取引のために集まり、東南アジアの交易中心地となった。ヨーロッパから中国日本に至る交易路でもあった。日本人町も形成され、日本人は外国人傭兵(ようへい)としても働いた。フランスはカトリックの布教活動を始めたが、布教活動はタイ人の反発を招き、1688年フランス勢力は国外に放逐され、アユタヤ朝はヨーロッパ諸国に対して鎖国政策をとることになった。やがてアユタヤ朝の勢力も衰微し、1767年ビルマとの戦いに敗れ滅亡した。現在、宮廷、寺院跡が廃墟(はいきょ)として残っている。

 しかしビルマによる占領は長く続かなかった。中国系将軍タークシン(中国名鄭昭(ていしょう))がすぐに軍隊をまとめてビルマ軍を破り、タイは独立を回復した。1768年、戦火に焼かれたアユタヤを捨てて、チャオプラヤー川下流右岸のトンブリー(バンコクの対岸、大バンコクの一部に含まれる)を都とし、自ら王位についた。タークシン王はビルマの重圧をはねのけ、タイの勢力をラオスカンボジアにまで広げたが、1782年精神に異常をきたしたとされて処刑された。部将チャクリが王位につき、都をチャオプラヤー川対岸のバンコクに移した。これが現在のバンコク朝(ラタナコーシン朝)の始まりで、チャクリがその始祖ラーマ1世である。ラーマ1世はタイの勢力を大いに拡張し、マレー半島のケランタン、ビルマのタボイまで支配下に置いた。国内的にもアユタヤ朝の慣行復活に努め、旧慣を再構成する法典公布や仏教再興にも力を尽くした。

 しかし、19世紀に入るとヨーロッパ列強の進出が激化し、隣国ビルマはイギリスの植民地になった。学問僧から国王に転じたラーマ4世はヨーロッパの学問、技術の導入に積極的であり、鎖国から一転して開国に踏み切って、1855年イギリスと通商友好条約を結んだ。ラーマ5世(チュラロンコーン大王)は、さらに従来の賦役制度、奴隷制度を廃止して新しい行政制度を導入し、司法、教育制度の近代化も進めた。鉄道、通信事業も推進され、社会のあらゆる方面で改革が行われた。これらの改革はヨーロッパ列強による植民地化を防ぐためのものであった。しかし、イギリスにはマレー半島のケダー、ペルリス、トレンガヌ、ケランタンを、フランスにはメコン川左岸のラオスの割譲を余儀なくされた。

 ラーマ6世、ラーマ7世はともにイギリスで教育を受けた君主であった。しかし1929年に始まる世界不況はタイ経済に深刻な打撃を与え、国家財政は破綻(はたん)した。1932年クーデター(立憲革命)が起こり、これまでの専制君主制から立憲君主制に移行し、憲法が制定された。以後、政治権力をめぐって文官派と武官派が繰り返し争ったが、武官派ピブン・ソンクラームが政権の座についた。第二次世界大戦中は、タイ日本と同盟関係を結び、ピブン・ソンクラーム政権が続いた。一方文官派のプリディ・パノムヨンは地下で自由タイ運動を指導した。