トランシルヴァニア公国

(1571~1711) トランシルヴァニア公国

トランシルヴァニア公国

建国1571
没年1711

国情報

トランシルヴァニア公国 1571年 - 1711年
トランシルバニア公国(読み)とらんしるばにあこうこく

トランシルヴァニア

ルーマニアの北西部一帯。1699年のカルロヴィッツ条約でオーストリア・ハプスブル帝国領となる。第一次世界大戦後のトリアノン条約でルーマニアに割譲された。

 トランシルヴァニア地方は、カルパチア山脈の西側、トランシルヴァニア山脈の北側にひろがる広大な地帯で、現在はルーマニアに属しているが、古来領有関係は複雑に推移した。古代にはワラキアやモルダヴィア地域を同じダキア人が居住していたが、ローマ時代には属州としてのダキアの一部とされ、ローマ文明の影響が及んだ。民族移動期の混乱を経て、ハンガリー(マジャール人)の支配を受けながら、トランシルヴァニア侯国が成立した。
 中世のトランシルヴァニアは、ローマ時代以来のダキア人で、広くルーマニア人と言われるようになったラテン系の住民が依然として土着農民として多数を占めており、その点ではワラキアやモルダヴィアとは近い存在であった。この両国とはその後も密接な関係が続き、現在ではルーマニアという一国を形成している。しかし、征服民としてのマジャール人(ハンガリー人)は政治的な支配層を形成しており、その点では西隣のハンガリーとの一体感を常に持っていた。また、東方植民の一環としてこの地域に入ってきたドイツ系住民も多く、トランシルヴァニアは現在も多民族共存の地域となっている。

オスマン帝国に従属
 15世紀には南部から北上したオスマン帝国のバルカン進出によってその勢力が及び、16世紀にはトランシルヴァニアはワラキアやモルダヴィアと同じくオスマン帝国を宗主国として従うようになった。ただし亡ぼされたわけではなく、オスマン帝国に一定の貢納を条件に、かなりの自治権が認められた。
 オスマン帝国は1683年に第2次ウィーン包囲に失敗してから、オーストリア軍に圧迫されて、バルカンでの領土を後退させ、1699年にカルロヴィッツ条約で、トランシルヴァニアはハンガリーと共にオーストリア・ハプスブルク帝国の領土に編入された。

ハンガリーに属す
 その後、1848年のウィーン三月革命のときにハンガリーと合併し、さらにオーストリアが普墺戦争で敗れた後の1867年に出されたアウスグライヒ(妥協)によってハンガリー王国が名目的に独立しオーストリアハンガリー二重帝国となったとき、トランシルヴァニアはハンガリー王国の一部を構成することとなった。

ルーマニアに属す
 第一次世界大戦でオーストリアハンガリー帝国は敗戦を前にして分解、ハンガリー王国は1920年、戦後の講和条約であるトリアノン条約によって、トランシルヴァニアをルーマニアに割譲した。
 現在、トランシルヴァニアはルーマニア領となっている。ルーマニアとは古代ダキア人の子孫であるという共通意識はあるが、長い歴史的な経緯からルーマニア人以外にも多数のハンガリー人(マジャール人)、ドイツ系入植者、さらにジプシーとも近いロマなども含くむ多民族の共存地域となっており、近代でも領有関係が変化したため、複雑な民族問題を抱えている。また、ルーマニアのワラキアとモルダヴィアはキリスト教のギリシア正教会が長く支配的であったが、トランシルヴァニアはハンガリーの影響を受けてローマ=カトリック圏となっており、宗教的なちがいもある。

【トランシルバニア】より

…ここでいうナティオnatioは,民族的区分のほかに身分的区分をも意味するものであったが,この原則は,19世紀までつづいた。
[オスマン帝国とトランシルバニア公国]
 1526年のオスマン帝国に対するモハーチの戦での敗戦により,ハンガリー王国は三分され,トランシルバニアはオスマン帝国スルタンの宗主権を認める独立の公国となった。旧ハンガリー王国の他の地域よりも恵まれた条件にあったトランシルバニアには,独自の発展を遂げる可能性があった。…
ハンガリー】より

…中央部では農業の発展は遅れ,粗放な牧畜が行われつづけた。トランシルバニア公国では,それを旧ハンガリー王国復活の拠点にしようとするハンガリー貴族の運動が繰り広げられ,プロテスタントの楽園となった。17世紀前半のベトレンのときには,三十年戦争を利してハンガリーの独立回復を目ざす運動が高まるとともに,プロテスタントの文化が花を開いた。…