ハンガリー人民共和国

(1949~1989) ハンガリー人民共和国

ハンガリー人民共和国

建国1949
没年1989

国情報

1949~1989
ハンガリー人民共和国ハンガリー第一共和国)

第二次大戦後、1949年から社会主義国となり、国号をハンガリー人民共和国とする。1956年に反ソ暴動が起きたが、ソ連軍の介入で鎮圧された。
 1944年末にハンガリーに侵攻したソ連軍がドイツ軍を排除したことを受け、小地主党・社会民主党・民族農民党・共産党から成る臨時政府が成立した。翌1945年11月に戦後初の総選挙が行われたが、共産党は17%の得票に留まった。1946年2月にはハンガリー共和国が成立し、共産党を含む連立内閣が発足、小地主党のティルディが大統領となった。1947年に連合国とのパリ講和条約が締結され、ハンガリーは国境線をほぼトリアノン条約の線に限定されることを承認した。また巨額の賠償金を主としてソ連に支払うことが義務づけられ、大きな負担となった。

社会主義政権の成立
 ハンガリー解放を実現したソ連軍は軍隊をそのまま駐屯させ、ハンガリーの内政に対しても強い影響力を持っていた。1947年6月にはハンガリー政府にマーシャル=プランの受け入れを断念させ、1949年1月にはコメコンに加盟させた。
 共和国政府の内閣で共産党は内相ポストを獲得し、警察力を握り、反対党を様々な口実を設けて排除していった。1948年に共産党は社会民主党を吸収してハンガリー勤労者党に改称し、党員約150万を要する大政党となり、1949年5月の総選挙で「民主ブロック」選挙といわれる勤労者党が作成した「独立人民戦線」単一候補者名簿にもとずく選挙が行われ、同戦線が96.5%の得票を得て政権を獲得した。8月に新憲法が採択され、ハンガリー人民共和国という国号になった。このような方式は人民民主主義と言われるもので、他の東ヨーロッパ社会主義圏に共通してみられる、共産党が実質的に権力を独占するための方便であった。
 ハンガリー人民共和国政府はソ連に倣い、産業国有化と集団化を推し進め、1950年に第一次五ヶ年計画を開始して工業化をめざした。その間、政権内部では激しい権力闘争が行われ、ソ連亡命経験のあるラーコシ書記長が反対派に対する粛清を行い、「小スターリン」と言われて実権を握った。1953年のソ連のスターリンの死によってラーコシは一時失脚、ナジ=イムレが首相となり、集団化の見直しなどを図ったが、55年は再びソ連の圧力が強まり、集団化が再強化され、ナジ=イムレは失脚した。同年、ワルシャワ条約機構に加盟した。

ハンガリー動乱
 1956年のスターリン批判を機にハンガリー反ソ暴動が勃発、ナジ=イムレが改革派に推されて復帰し、ワルシャワ条約機構から離脱し、独自路線を掲げたが、ソ連軍の直接介入によって鎮圧され、ナジも処刑された。

ハンガリーの自主路線

ハンガリー反ソ暴動鎮圧後、1960年代から市場社会主義路線が採られる。
 1956年のスターリン批判を機に起こったハンガリー反ソ暴動が、ソ連軍の直接介入によって抑えられ、その後はカーダールによる社会主義体制維持の政権が続いた。
 しかし1963年頃から改革派よりの姿勢を強め、1968年には130人の専門家(経済学者)を組織して「新経済メカニズム」を発足させ、経済運営を計画経済よりも経済パラメーター(指標)にゆだねる「市場社会主義」の実験(ユーゴスラヴィアではすでに始まっていた)に着手した。このように東欧諸国の中で1960年代に明らかになった経済停滞(低成長)からの脱却を目指す改革をはじめたのがティトーのユーゴスラヴィアとカーダールのハンガリーであった。
チェコ事件への軍事介入 カーダールは1968年のチェコ事件でもチェコのドプチェクと会談して事態の解決を模索し、最後までソ連軍の軍事介入には批判的だったが、最終的には軍事介入に参加した。カーダール政権の経済改革は政治の民主化に影響を与え、1970年には複数候補者を認める選挙法が改正された(これは後のソ連のゴルバチョフに先行する改革だった)。
 しかし、1973年の石油ショックによって経済改革にストップがかかり、またソ連のブレジネフ政権はハンガリーの改革に対する警戒を強めたため改革は順調には進まなかった。この間、ポーランドルーマニアは過度な工業化を進めようとして混乱を大きくしたが、ハンガリーではニエルシュなどの改革派が慎重な姿勢をとり、それが1989年の穏健な形でのハンガリーの民主化実現の要因となったと思われる。