ハンガリー共和国

(1989~2012) ハンガリー共和国

ハンガリー共和国

建国1989
没年2012
通貨フォリント

国情報

1989~2012
ハンガリー共和国

ハンガリー共和国の現在

1989年初頭、ハンガリーは複数政党の承認など改革を開始し、一党独裁体制打破という民主化の先鞭を付け、同年中に社会主義体制を放棄した。5月にオーストリアとの国境の鉄条網を切断して、東独市民が西独に脱出する動きを作り、これはその年の東欧革命の始まりとなった。
 ハンガリー(Hungary は英語表記。ハンガリー語ではマジャルオルサーグ、マジャール共和国という)は東ヨーロッパの中央部にあり、中欧諸国の一つともされる。おおよそ北はスロヴァキア、南はクロアチア・セルビア、西はオーストリア、東はルーマニアに囲まれた内陸国。面積は約9.3万平方kmで日本の約4分の1。人口は約1千万人。首都はブダペストで、ドナウ川の挟んだブダ地区とペスト地区からなる。
 ハンガリー人はマジャール人の子孫とされているが、現在のハンガリー人はスラヴ系の民族との混合の結果形成されものと考えられる。宗教的には半数以上がカトリックだが、2割ほどのプロテスタントも存在する。

ハンガリーの民主化
 1989年2月に複数政党制の承認、「党の指導性」の規定の削除など、大胆なハンガリー民主化に踏み切りった。6月には労働者党と野党、諸団体が協議の場として「政治協商会議」(国民円卓会議ともいう)を設置、労働者党自身も党則を改編して西欧の社会民主党的な組織に転換を図った。その中で歴史の見直しが進み、1956年のハンガリー反ソ暴動でソ連によって殺害されたナジ=イムレの再葬儀が6月16日に行われた。8月16日には、1968年のチェコ事件での軍事介入を誤りであったと認めた。
 同年10月23日(ハンガリー動乱で大衆デモが行われた記念日)に社会主義体制を放棄しハンガリー共和国の発足が宣言された。ハンガリーの民主化は、一滴の血も流されずに実行された点が特筆される。また、他の東欧諸国と異なり政権党自身が自己変革を遂げることで行われた点も異なっている。

東欧革命のきっかけ
 ハンガリー政府が5月2日にハンガリーオーストリア(中立国)の間の有刺鉄線を切断して国境を開放した。それによって、東独の住民が、ハンガリーからオーストリアに逃れ、西独に向かうという大移動が始まった。1989年8月19日、国境の町ショプロンで600人の東独市民がオーストリアに脱出したのが黙認された。このできごとは鉄のカーテンの一部が破られたことを意味していた。それらをうけて9月2日に、政府は国内に滞留している東ドイツ国民が西側に出国する許可を与え、事実上、東西の移動制限は撤廃された。
 これによって東ドイツは国民の西側への脱出をとどめることができずに崩壊したことから、ハンガリーの改革は一連の東欧革命の先頭に立ったと言うことが出来る。同1989年11月にはベルリンの壁の開放、90年には東西ドイツの統一、そして91年のソ連崩壊へと進んでいく。

Epsode 歴史の転換をもたらした“ピクニック”
 1989年8月19日、ハンガリー西部、オーストリア国境に近いショプロンという町でたくさんの市民がピクニックを楽しんでいた……が、それは西側のオーストリアに脱出する東ドイツの人々を支援する市民団体が開催した集会だった。約600人の東ドイツの人々は平和裏に国境を越え、立ち会っていたハンガリー当局者も発砲することなく黙認した。このできごとは「汎ヨーロッパ・ピクニック」と呼ばれ、この年12月のベルリンの壁の崩壊の契機となり、一連の東欧諸国の民主化、いわゆる東欧革命をもたらしたとして今も語り継がれている。
 2019年の同じ日、ショプロンで記念行事が開かれ、ハンガリーのオルバン首相と共に出席したドイツのメルケル首相は、ドイツ統一にいたったこのできごとを「自由と連帯の象徴」と呼び、発砲を控えて越境を黙認したハンガリー当局者の人道的判断をたたえた。ショプロンにはドイツとハンガリーの若者約50人が招待して若年層の参加を促し、討論会ではピクニックを主催した人々が当時を振り返り、歴史の継承と、移民排斥など後戻りする動きへの危惧が語られた。<『朝日新聞』2019/8/20朝刊>

市場経済と議会制民主主義へ
 翌1990年4月、ハンガリーで40年ぶりに行われた自由な国会議員選挙の結果、民主フォーラムを中心とする非共産党政権が発足し、議会制民主主義国家への転換は平和裏に行われた。その後、社会党(旧社会主義労働者党)が選挙で復活するなどの動きはあるが、市場経済への移行は順調に進み、1999年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、2004年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟した。 → NATOの東方拡大 ・ EUの東方拡大

News 極右政党の勢い
 2010年4月に行われたハンガリーの総選挙で、新興の極右政党が議会への初進出をはたし、注目を浴びた。極右政党ヨッビクは、2003年にわずか14名の学生で設立され、民族主義や愛国精神を訴えて若者や貧困層の支持を得、あっというまに党員は1万名に増加した。党首は31歳のモナ・ガボールで「われわれの支持者は100万人にまで成長した!」と豪語している。
 党の戦略は従来の極右政党のような反ユダヤ主義や外国人排斥を声高に訴えず、市民の差別意識や反感が根強い少数派ロマ人の「犯罪の抑止」を前面に掲げている。07年にはハンガリー防衛隊を設立してロマ人の村に押しかけ排斥の示威行動を繰り返した。彼らはライオンの刺繍をあしらった黒い制服や紅白のスカーフなど、第二次世界大戦当時の親ナチス勢力「矢十字党」を連想させるので、裁判所から解散命令を受けたが、名称や制服を替えて活動を続けている。
 ハンガリー社会ではロマ人が犯罪の温床になっているという見方が強く、また貧困層にはEUに加盟したことで西欧の大企業に利益を奪われ、通貨危機に見舞われたという不満が多い。既成政党の経済政策に不満を持つ層が、ロマ攻撃と反EUを掲げた極右政党を支持する背景となっている。