ハンガリー王国(主権回復)

(1920~1946) ハンガリー王国

ハンガリー王国

建国1920
没年1946

国情報

1920~1946
ハンガリー王国

トリアノン条約
 1919年9月、連合国がオーストリアと締結したサン=ジェルマン条約で、ハンガリーオーストリアからの独立が承認され、1920年6月にはハンガリーは独自で連合軍との講和条約トリアノン条約を締結し、ハンガリー王国として主権を回復するとともに周辺諸国に領土の3分の2を割譲を承認した。このドリアノン条約による領土削減は、ハンガリー人の中に不満の感情を強く残し、後に反ヴェルサイユ体制を唱えるナチスドイツと提携する背景となった。

Episode 「国王なき王国」
 ハンガリーは1918年10月から19年8月まで、わずか10ヶ月強の間に、オーストリアハンガリー帝国→ハンガリー共和国ハンガリー評議会共和国(革命政権)→ハンガリー王国と4つの国家体制を経験したわけだ。ところが最後のハンガリー王国は、王国とは言いながら国王がいなかった。これは国内に、ハプスブルク家の国王カール4世(スイスに亡命中)を復活させようという動きと、それに反発してマジャール人の国王を立てようという動きが対立していたからだ。カール4世は復活を狙って運動していたが、ホルティはそれに反対で、結局カール4世の王位継承権を剥奪したが、マジャール人の王も適当なものが見つからず、結局ホルティが摂政のまま国家元首を務めるという異例の形になってしまった。

ハンガリー王国のホルティ政権
 ハンガリー王国は立憲君主国であるが「国王なき王国」といわれるように、国王をおかないままホルティが摂政がとして実権を握るという異常な状態となった。
 ホルティの摂政としての権限は、軍の最高司令官であるとともに議会の解散権を持ち、首相の任命権と罷免権、さらには議会の決議をへた法案への拒否権も与えられているという絶対的なモノであった。ホルティにはこのように絶対的な権限が集中していたが、共産党以外の政党の存続は認められ、議会政治も機能していたので、ヒトラーやムッソリーニのファシズムの独裁政治とは異なっている。このような体制は権威主義体制と言われることが多い。
第二次世界大戦に枢軸国として参戦  ホルティのハンガリー王国は1930年代、ドイツにナチスが台頭すると、領土回復の好機ととらえてドイツに近づき、1940年11月、日独伊三国同盟に加盟して枢軸国の一員となり、第二次世界大戦に参戦した。ドイツとの提携は、国内のファシズム政党である矢十字党によって進められ、ドイツやポーランドと同じようにユダヤ人の絶滅が図られ、45万にものユダヤ人がアウシュヴィッツなどの強制収容所に送られた。
 ハンガリー軍はドイツ軍の一部として動員され、スターリングラード攻撃などに加わったが、次第に敗北が明らかになってきた。1944年に摂政ホルティの意向を受けた内閣が連合国と単独講和を探ったが、ドイツはそれを阻止するために軍隊を派遣して占領下に置いた。ドイツ占領下のハンガリーに同年末、ソ連軍が侵攻して東部を解放、それに応えてハンガリーの小地主党・社会民主党・民族農民党・共産党から成る臨時政府が成立した。ホルティは亡命して、ハンガリー王国は崩壊した。