前漢

(-202~8) 前漢(西漢)(西汉)

前漢(西漢)(西汉)

首都長安
建国-202
没年8

国情報

 -206~8
漢(前漢・西漢)


(1)前漢(西漢)。前202年項羽を倒した劉邦(高祖)は天下を統一,長安に都して官制・法律のほとんどを秦制にならい,いわゆる郡国制を行って地方を治めた。高祖没後,妻の呂后(りょこう)一族の専権をみたが,文帝は内治に努めた。前154年の呉楚七国の乱を経て,7代武帝は財政強化を図り,儒教を国教として思想的統一を行い,北辺の匈奴(きょうど)を討ち,朝鮮には楽浪郡など4郡を設置,また西域に進出するなど内外に意を用いて中央集権的専制支配を完成。15代にして後8年王莽(おうもう)に簒奪(さんだつ)される。


前漢
秦は始皇帝が死に(前210)、二世皇帝が後を継ぐと、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱をはじめ各地に反乱が起きた。漢の創始者高祖劉邦(りゅうほう)も紀元前209年に手兵2000~3000を率いて沛(はい)(江蘇(こうそ)省沛県)で挙兵した。農民の出身で下級の警吏にすぎなかった劉邦の勢力は初めは弱体であったが、沛の有力者などの支持を得てしだいに強大となり、前202年には楚(そ)の将の末裔(まつえい)項羽(こうう)を垓下(がいか)の戦い(安徽(あんき)省霊璧県東南)に破って皇帝の位につき、翌年都を長安に定めた。即位後の論功行賞で、高祖は一族功臣に封国を与えて諸侯王とし、列侯を侯国に封じて、秦以来の郡県制と併用した。これを一般に郡国制とよぶ。しかし高祖はその在世中に、韓信(かんしん)をはじめ功臣の王を次々と滅ぼした。2代目の恵帝が若死にすると、高祖の糟糠(そうこう)の妻呂太后(りょたいこう)が政務をとり、呂氏一族が実権を握ったが、創業の功臣周勃(しゅうぼつ)らの力で呂氏を倒し、5代文帝の時代になって、政権の基礎がほぼ固まった。6代景帝が諸侯王国の領地削減策を強化すると、呉楚(ごそ)七国が乱を起こしたが(前154)、乱の鎮定後は王国の統治権を奪い、王国とは名のみにすぎなくなった。また高祖は韓信を追って大同(山西省)付近に至り、匈奴(きょうど)に囲まれた。以後、漢は匈奴に対して宥和(ゆうわ)策をとったが、7代武帝の時代になって積極策に転じ、数回の匈奴遠征を行ったほか、東の朝鮮、南のベトナムにも進出した。武帝はまた匈奴を挟み撃ちにするため、張騫(ちょうけん)を西方の大月氏(だいげっし)に遣わした。目的は達せられなかったが、その結果、西方との交通路いわゆる絹の道(シルク・ロード)が開かれた。けれども、たび重なる遠征や土木工事のために財政が逼迫(ひっぱく)すると、増税、貨幣の改鋳のほか、塩・鉄・酒の専売、均輸法、平準法などの施策を行った。
 この武帝から9代宣帝に至る間が前漢の最盛期で、それを象徴するのは法律刑罰を過酷に執行した法家的官僚酷吏の出現である。彼らの弾圧の対象はもっぱら豪族に向けられたが、反面この時期には豪族の地方・中央政界への進出も多くなった。一方、中央政界においては、丞相(じょうしょう)などの政府機関(外朝)に対して、外戚、宦官(かんがん)など皇帝の側近者(内朝)が実権を握るようになった。10代元帝以降はとくにこの傾向が強く、紀元9年には外戚出身の王莽が劉氏にかわって帝位につき、国号を新と改めた。
 王莽は『周礼(しゅらい)』などにみえる周の諸制度を理想とし、現実遊離の改革を行うことが多かったから、たちまち混乱を招き、赤眉(せきび)などの農民反乱や諸豪族が蜂起(ほうき)して、わずか15年で滅んだ。


中国古代の王朝。秦(しん)の滅亡後、前202年、楚の項羽を破った漢王劉邦(りゅうほう)(高祖)が建国。都は長安。中央集権体制が確立された武帝のときに全盛期を迎えた。8年、王莽(おうもう)によって倒された。西漢。


中国、古代の統一王朝。秦の滅亡後、劉邦(高祖)が建国(前202~後8)。都は長安。武帝のとき、最盛期を迎えたが、その死後、外戚・宦官かんがんが実権を握り、王莽おうもうに国を奪われた。西漢。


中国、秦の崩壊後、劉邦(高祖)が建てた統一王朝(前二〇二‐後八)。首都は長安。東の洛陽を都とした後漢(東漢)に対して、西漢とも呼ばれる。秦の制度を継承しつつ独自の支配体制を確立、以後二千余年の中国的な中央集権政治の骨格を形成すると同時に、漢字・漢文によって代表される漢民族の文化の母胎となった。一四代二一〇年で平帝のとき、王莽に簒奪(さんだつ)されて滅亡したが、二五年に後漢として復活。


秦に続く統一王朝で、中国で最初の長期安定した王朝。前202年、劉邦が初代高祖となり、郡県制と郡国制を併用し、呉楚七国の乱を鎮圧して基盤を整え、前1世紀の後半の武帝の時に中央集権的な支配権を確立した。武帝は盛んに征服活動を行い、周辺に帝国支配を及ぼした。しかし次第に宦官と外戚が実権をふるうようになり、8年に外戚王莽に帝位を奪われ滅亡した。25年、劉秀が復興させたのを後漢というのに対し、こちらを前漢という。


   漢 -206年 - 220年
       前漢 -206年 - 8年
       後漢 25年 - 220年