北魏
(386~534) 北魏(後魏、拓跋魏、元魏、代魏)(北朝)
北魏(後魏、拓跋魏、元魏、代魏)(北朝)
英語による名称 | Wèi |
首都 | 平城(山西省大同)、洛陽 |
建国年 | 386 |
没年 | 534 |
民族 | 鮮卑 |
国情報
386~534
北魏(北朝)。南北朝時代の北朝最初の王朝。
386年、鮮卑(せんぴ)族の拓跋珪(たくばつけい)(道武帝)が建国。第3代の太武帝の時、華北を統一。都は初め平城(山西省大同)、のち493年洛陽に遷都。534年に東西に分裂。東魏は550年、西魏は556年に滅亡。北魏。後魏。拓跋魏。
北魏または後魏とも。386年―534年存続。鮮卑の拓跋(たくばつ)氏が前秦の瓦解に乗じて建国,平城(現,山西省大同)を都とした。439年華北を統一,南朝の宋と対立し,南北朝の時代を現出する。5世紀末孝文帝は洛陽に遷都,漢化政策をすすめ,均田法などを施行。また歴代諸王は仏教を尊信し,雲岡,竜門などの石窟を開く。しかし6世紀には内乱が起こって実権は将軍たちの手に移り,東西に分裂。これを東魏(534年―550年),西魏(534年―556年)という。それぞれ高氏と宇文氏が実権をにぎり,やがて帝位を奪って斉(北斉)および周(北周)を建国する。
鮮卑の拓跋珪(たくばつけい)(=道武帝)が三八六年に建国し、四三九年、五胡十六国の北中国を統一した。極端な漢化政策をとり、その矛盾から反乱が起きて五三四年東西に分裂し、東魏は五五〇年、西魏は五五六年に滅んだ。北魏。後魏。拓跋魏。
中国,南北朝時代の北朝の一つで,鮮卑族拓跋部が4世紀末から約1世紀半華北に建設した国家。北魏,後魏,拓跋魏などともいう。拓跋部の故地は興安嶺北部と見られ,西遷して盛楽(内モンゴルのホリンゴール)を根拠に諸部族の盟主となり,部族連合によってなる代王国を建設,魏・晋両王朝とも交渉をもった。西晋の滅亡過程には山西方面から南進を試み,397年代王拓跋珪は後燕の首都中山を攻略して河北一帯を領有,その翌年平城(山西省大同)を首都として魏帝国を建てた(道武帝)。
鮮卑族の拓跋珪たくばつけいが華北に建国(386~534)。都は平城、のち洛陽に遷うつる。積極的な中国同化政策を進めたが、その矛盾から反乱が起こり、534年、東魏(534~550)と西魏(535~557)に分裂した。北魏。後魏。元魏。拓跋魏。
三八六年、四三九年 南北朝時代の北朝の一つ
鮮卑の拓跋珪(たくばつけい)(=道武帝)が三八六年に建国し、四三九年、五胡十六国の北中国を統一した。極端な漢化政策をとり、その矛盾から反乱が起きて五三四年東西に分裂し、東魏は五五〇年、西魏は五五六年に滅んだ。北魏。後魏。拓跋魏。
4世紀末から約1世紀半,南北朝時代の北朝の一つで
鮮卑族拓跋部が4世紀末から約1世紀半華北に建設した国家。北魏,後魏,拓跋魏などともいう。拓跋部の故地は興安嶺北部と見られ,西遷して盛楽(内モンゴルのホリンゴール)を根拠に諸部族の盟主となり,部族連合によってなる代王国を建設,魏・晋両王朝とも交渉をもった。西晋の滅亡過程には山西方面から南進を試み,397年代王拓跋珪は後燕の首都中山を攻略して河北一帯を領有,その翌年平城(山西省大同)を首都として魏帝国を建てた(道武帝)。
386年。534年、南北朝時代の北朝最初の王朝。
386年、鮮卑(せんぴ)族の拓跋珪(たくばつけい)(道武帝)が建国。第3代の太武帝の時、華北を統一。都は初め平城(山西省大同)、のち493年洛陽に遷都。534年に東西に分裂。東魏は550年、西魏は556年に滅亡。北魏。後魏。拓跋魏。
386年―534年存続。 中国,北朝の一つ。
北魏または後魏とも。鮮卑の拓跋(たくばつ)氏が前秦の瓦解に乗じて建国,平城(現,山西省大同)を都とした。439年華北を統一,南朝の宋と対立し,南北朝の時代を現出する。5世紀末孝文帝は洛陽に遷都,漢化政策をすすめ,均田法などを施行。また歴代諸王は仏教を尊信し,雲岡,竜門などの石窟を開く。しかし6世紀には内乱が起こって実権は将軍たちの手に移り,東西に分裂。これを東魏(534年―550年),西魏(534年―556年)という。それぞれ高氏と宇文氏が実権をにぎり,やがて帝位を奪って斉(北斉)および周(北周)を建国する。
386〜534 南北朝時代の北朝の王朝
戦国の七雄の1つ。代々晋 (しん) に仕え,魏(山西)に封ぜられたので魏氏を称したが,韓 ・趙 (ちよう) とともに晋領を3分して独立,襄 (じよう) 王のときには王を称して威をふるったが,前225年秦に滅ぼされた。前362年,都を大梁 (たいりよう) に移してのちは梁とも呼ぶ。
後漢 (ごかん) 末,曹操が献帝を擁して実権を握り,魏王に封ぜられた。その子曹丕 (ひ) は献帝に強要して譲位させ,後漢は滅亡。洛陽に都して魏と号し,蜀漢 (しよくかん) ・呉 (ご) と天下を3分した。屯田制と九品中正を始めたが,権臣司馬氏の勢が強く,司馬炎(武帝)に国を奪われた。
鮮卑 (せんぴ) の拓跋 (たくばつ) 氏が華北に建国。平城(山西省大同),のちに洛陽に都した。北魏・後魏ともいう。534年東魏・西魏に分裂。
386〜534南北朝時代の北朝の王朝
鮮卑 (せんぴ) の拓跋 (たくばつ) 氏が華北に建国。通称「北魏」または「後魏」。534年東魏・西魏に分裂。
386年―534年 北魏
「代魏」とも呼ばれる。五胡十六国時代末期にモンゴル高原(ハルハステップ)にいた鮮卑拓跋部の酋長の拓跋珪が建国した。後に王室は漢風の「元姓」に改めて、最後には東魏・西魏に分裂した。しかし、東魏は北斉に西魏は北周によって滅ぼされた。
隋末に、漢化した武川鎮軍閥に属する八柱国出身の李密が建てた政権。唐の李淵(李渕/李渊)によって滅ぼされた。
脚注
翟(白狄)狐氏(トルコ系)出身で、特例として周王室の昭王より姫姓(あるいは嬛姓)を賜った家祖の武侯寧族(周の成王の兄・唐叔虞=唐の太公の外孫)が、母方の従兄弟の唐侯遂を南方に追い払った国家。
現在の陝西省西安市の西南