台湾

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中国本土の東方にある大きな島で、本土とは別個な文化圏を形成していた。先住民族はオーストロネシア語族で漢民族ではない。明代から漢民族が移り住み、漢文化が浸透していったが現在も内陸に先住民系の部族が暮らし独自の文化を継承している。清代の1683年からその支配下に入り、中華民国に継承され、日清戦争の講和条約下関条約により日本領となり、1895年から第二次世界大戦終結による日本敗北の1945年まで50年に及ぶ植民地支配を受けた。戦後は中国本土から移った中華民国の国民党政府が、1949年から戒厳令を布いて統治した。しかし米中の国交回復により、1971年には国連代表権を失い、79年にはアメリカとの国交も断たれた。蔣介石・蔣経国総統の独裁のもとで経済開発が進み、80年代にはIT産業などの工業化を進めNEIsの一つともなった。その間、国民党一党独裁に対する民主化の運動に対する苛酷な弾圧も続いたが、大衆的な運動も強まり、1987年には戒厳令が解除された。1988年に本省人として初めて総統となった李登輝のもとで民主化が進み、2003年には初めて政権交代して民進党が政権についた。
台湾

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台湾の歴史 概観>
固有の先住民の文化 台湾は古来、中国本土とは別個な文化圏にあった。その先住民は東南アジア島嶼部から南太平洋に拡がるオーストロネシア語族に拡がる民族で、多くの部族に分かれ、独自の狩猟・漁業、焼畑農業に従事していた。彼らは漢民族ではなく、中国の史料にも様々な名前で出てきて、一定しない。南部の台南の外港にタイオワンといわれたところがあり、その地名が後にこの島全体の名称となって台湾の字があてられるようになったらしい。
鄭氏台湾から清朝の支配へ 東アジア交易圏の中継地としても栄え、明代には倭寇が活動し、17世紀以降はヨーロッパ勢力も進出、一時期オランダは台湾南部を領有した。1661年には明の遺臣鄭成功がオランダを追い出し、台湾を支配、鄭氏台湾の時代となった。しかし鄭氏は清朝の康煕帝に倒され、1683年から清朝に服属し、翌84年に福建省に隷属する台湾府を置いて19世紀末まで続いた。1874年、日本の明治政府が台湾に出兵、清朝は領有関係を明確にする必要に迫れたが、ようやく1885年に台湾省設置を決定、しかし正式に福建省から分離したのは1888年だった。
50年に及ぶ日本の植民地支配 1894年の日清戦争の結果として下関条約で日本に割譲され、1895年から日本軍が台湾に侵攻して武力によって平定し、第二次世界大戦で日本が敗北した1945年まで50年に及ぶ台湾総督府の植民地支配を受けた。日本台湾人の抵抗を排除しながら植民地支配を拡張し、産業や教育の普及に力を入れた。1930年には台湾内地の現地人が武装して抵抗した霧社事件が起こった。日中戦争の時期には皇民化政策が強められ、太平洋戦争では日本軍の南進の基地とされた。
世界最長の戒厳令 戦後、国共内戦に敗れた中華民国の国民党政府が中国本土から移り、蔣介石・蔣経国総統による1949年から1987年までの戒厳令(この40年に近い長さは世界最長である)のもと、外省人による本省人に対する統治が続いた。1950~60年代には中華人民共和国中華民国台湾政府)が海峡をはさんでにらみ合う緊張が続き、その間アメリカ台湾との軍事同盟によってアジアの共産化の防止にあたった。
米台の断絶 1971年にアメリカ中華人民共和国と国交を正常化したため、中華民国は国連代表権を失い、79年にはアメリカとの国交も断たれた。そのため、現在の台湾は国際社会では独立した主権国家とは認められていない。ただし、アメリカは米華相互防衛条約に代わり台湾関係法を制定し、事実上、関係を維持した。
経済成長と民主化 台湾経済は、1951年から1965年にアメリカの経済支援を受けて国民生活の回復とインフラの整備を行い、輸出代替型の軽工業化を果たして復興を遂げた。1970年代にはアメリカの公的支援は終わったが、政府主導による高度産業化による国内需要の増進が図られ、1980年代にはIT産業などの成長によりNEIs(新興工業経済地域)の一つともされるようになった。その間、経済成長に伴う民主化要求も強まり、戒厳令のもとでの政治的自由の抑圧に対する反対運動が活発化した。1987年にようやく戒厳令が解除され、翌88年には李登輝が初めて本省人として総統になって民主化を進め、1996年に初めて直接選挙による総統選挙が実施された。2003年には選挙によって民進党政権が成立、初めて政権交代が行われ、国民党が下野した。この間、中国政府との関係では経済的交流も進んだが、台湾独立の動きに対しては中国政府が神経を尖らせる状態が続いている。

・ページ内の見だしリスト

   (1)鄭氏台湾と清の支配
   (2)日本植民地時代
   (3)中華民国政府の統治
   (4)現代の台湾
   (参考)中華民国(台湾=国民政府)

台湾の先住民と中国系住民
 考古学上の調査ではすでに5万年前から人類の居住が認められるが、最初の民族がどのような系統の人々かはわかっていない。現在の台湾の先住民は、漢民族とは異なるオーストロネシア語族(かつてはマライ=ポリネシア語族と言われたが、現在はその分類は使われていない)の人びと(淡褐色の皮膚、大きな目、二重まぶた、低い身長などが特徴)で、現在は高山(こうざん、カオシャン)族と総称されることが多い。日本ではかつて台湾先住民を高砂(たかさご)族と呼んだが現在は使われていない。清朝時代に先住民を、漢民族に同化せず独自の文化を維持していた「生番」(番は日本支配時代に「蕃」と書かれるようになる)と、漢民族に同化した「熟番」と呼んで区別していたのを、日本統治時代に台湾総督府が引き継いだ。日本植民地時代には先住民への苛酷な統治に対する反発から、1930年に霧社事件という大規模な蜂起があり、それ以降には前者を「高砂族」、後者を「平埔(へいほ)族」と改称した。戦前の日本では台湾の先住民というと「高砂族」と呼ぶことが一般化したがそれは正しい名称とは言えない。太平洋戦争中は日本軍に徴兵され、「高砂義勇隊」などといわれた。
台湾の原住民 日本植民地から解放され中国に復帰したときに「高砂族」を「高山(こうざん)族」に改称した。現在は「山胞」とも呼んでいる。また一般的に「先住民」という用語が用いられているが、「先住」という表現は、絶滅していると誤解されることにかれら彼ら自身の抗議があり、現在の台湾では「原住民」という言葉が使われている。なお、厳密には台湾の漢民族系以外の人々は、高山族にはタイヤル、サイシャット、ツオウ、アミなどの9部族、それ以外に平地山胞(平埔族)といわれるケタヤガン、シラやなど10部族に分かれる(統計上、部族数は異なる場合がある)。いずれも台湾人全体から見ると少数民族とされている。<周婉窈/浜島敦俊監訳『図説台湾の歴史増補版』2007 平凡社>
本省人と外省人 現在、台湾人は「本省人」と「外省人」に分けられる。本省人とは先住民少数民族と中国系(多くは漢民族)で1945年8月15日、つまり台湾の祖国復帰(光復)以前から台湾に住んでいる人であり、外省人とは光復後、つまり戦後に国民党政府が国共内戦に敗れて台湾に移動した前後に本土から台湾に移ってきた人びとのことである。そして漢族系本省人には出身地(方言)の違いから閩南系(台湾対岸の福建省などからの移住者、福佬系ともいう)と客家(ハッカ)系(もともと黄河流域に住んでいたが南北朝以来の戦乱で華南などに移住した人びと)に分かれる。<以上、戴國煇『台湾-人間・歴史・心性-』1988 岩波新書>
 国民党が台湾に移って以来、台湾の政治・経済は外省人が握ることになったので、本省人の不満が生じ、1947年には二・二八事件という大規模な衝突事件が起き、その後も両者の関係は緊張した対立が続いた。現在は本省人の政権への参入も多くなっているが、その対立を乗り越えることが「台湾」の課題となっている。

台湾(1) 鄭氏台湾と清の支配

琉球王国と倭寇
 宋・元時代には、東アジアの海上貿易の中心地であった現在の沖縄が大琉球つまり琉球王国といわれ、台湾は小琉球と言われていたらしい。これについては異説もあり、はっきりとはしていない。明代の15世紀後半から16世紀にかけて倭寇(いわゆる後期倭寇であり、日本人だけではなく福建・広東などの沿岸の漢人が多かった)が活躍し、その活動に加わった華南沿岸の漢人が台湾に移住することが多くなった。
 台湾の先住民(現在は高山族とも言われる)は中国本土との関係は少なく、漁民が立ち寄る程度だったが、16世紀後半、東アジア海域に大きな変化が現れる。大航海時代の波が押しよせてきたのだ。中国本土沿岸に姿を現したスペイン船、オランダ船などは、大陸沿岸に拠点を持っていなかったので、台湾中国との貿易の拠点とみなすようになったのである。倭寇の時代が終わり、日本の御朱印船も姿を見せるようになった。

Episode 「美麗(うるわし)の島」

   (引用)誰もが知っている歴史のエピソードであるが、16世紀にポルトガル人が台湾を船で通り過ぎるとき、遠く草木が生い茂っている島を見て、台湾島を “Ilha Formosa” と呼んだ。ポルトガル語では “Ilha” とは「島」、 “Formosa” とは「美しい」という意味であり、すなわち「麗しの島、美麗島」となる。このように美しい名前に、私たちは今もしばしば深い感慨にふけることができる。ただ、もしも今、同じ人たちが船で台湾を通り過ぎ、見わたす限り傷だらけの台湾を見て、果たしてそれでもなお「麗しの島」と呼ぶだろうか?実に疑わしいことである。<周婉窈/浜島敦俊監訳『図説台湾の歴史増補版』2007 平凡社 p.47>

オランダの進出
 17世紀になるとポルトガルのマカオ進出に刺激されたオランダ、スペインがまず台湾に進出を試みた。オランダは1602年にオランダ東インド会社を発足させ、まもなくマカオや澎湖諸島を武力攻撃したが、明とポルトガルの連合軍によって上陸を阻止され、やむをえず矛先を台湾に向けた。明も台湾は化外の地であったので、黙認し、オランダは1624年、台湾南部のタイオワン(現在の台南の外港である安平)にゼーランディア城を建設した。
 その頃、日本でも江戸幕府のもとで朱印船貿易が盛んであったが、長崎の有力な朱印船貿易家であった末次平蔵も台湾進出を目論み、タイオワンに進出して1628年にオランダと衝突、タイオワン事件が起こったが占領に失敗した。さらにオランダは北部台湾のスペイン勢力を圧迫し、1642年に撤退させて、台湾においてはその東インド会社による植民地経営が1661年まで行われた。ただし、オランダの支配は台湾全土に及んだのではなく、その一部にとどまった。 → ゼーランディア城の項を参照

スペインの進出と撤退
 一方、フィリピンを植民地化したスペインは、オランダの台湾進出に対抗して台湾北部に進出し砦を築いた。しかし北部台湾では山地民族中、もっとも勇猛で、先住民族の中で最大勢力を誇るタイヤル族がスペインの植民地支配に抵抗し、カトリック伝道もままならぬ状態が続き、やがて優勢なオランダ艦隊に追われて、1642年には16年間の北部台湾支配を終えて撤退した。

鄭芝竜・鄭成功の進出
 オランダの台湾進出に対して、明朝はその地が正式な領土ではなかったので黙認せざるを得なかったが、オランダ支配が定着することを恐れ、1628年、当時東シナ海一帯の海賊集団であった鄭芝竜を官につけて台湾に進出させた。鄭芝竜は福建の住民を台湾西部に入植させて基盤をつくり、オランダの支配に対抗した。1644年に明が滅亡すると、鄭芝竜・鄭成功の親子は台湾を拠点に反清復明の運動を展開した。鄭成功は1661年、2万5千の大水軍を率いてオランダの台湾支配の拠点、ゼーランディア城を占領、翌年にオランダは台湾から撤退した。これ以後、1683年までの22年間は本土の清王朝から独立した、鄭氏台湾が存続する。

清朝の支配
 1683年、清の康煕帝は、台湾の鄭氏一族の内紛に乗じて遠征軍を送り、制圧した。ここにはじめて台湾中国の領土として本土政権の統治を受けることとなった。翌1684年には台湾を清の版図に組み入れ、台湾府を置き福建省に隷属させた。しかし清朝は台湾を基本的には化外の地と捉え、また反清運動や外国勢力の侵入を警戒して本土からの移住を許可制にするなど、必ずしも台湾統治には積極的ではなかった。その後、清朝の支配は19世紀末まで続き、その間徐々に、対岸の中国本土、福建省と広東省から漢人の移住が続き、台湾西岸の平地には漢人社会が形成されていった。<戴國煇『台湾-人間・歴史・心性-』1988 岩波新書/伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書>

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台湾(2) 日本植民地時代

台湾には1874年に日本が初めて海外に出兵し、さらに日清戦争後の下関条約で日本に割譲され、1895年に軍事侵攻し、以後1945年までの50年間、台湾総督府を置いて植民地支配が続けた。

日本台湾出兵
 1874年、日本の明治政府は、71年に起こった琉球王国の宮古島の漁民が台湾に漂着して、現地民に殺害されたことへの報復を口実に台湾出兵を実行した。これは近代日本の最初の海外派兵であったが、そのねらいは、琉球が日本に帰属する島であることを清朝に認めさせることにあった。清朝はすでに成立していた日清修好条規に反するとして抗議したが、当時はまだ洋務運動の最中で、近代装備の海軍を有していなかったので日本に対抗することが出来ず、イギリスの仲介で日本の出兵を認め、賠償金を支払って決着させた。結果として、清は琉球が日本領であることを認めることとなった。
 一方、台湾が清国領であることも確定したので、清朝は1885年に台湾省を設置、劉銘伝を初代巡撫として直接統治を開始した。清朝は台湾版洋務運動ともいうべき産業近代化を開始し、基隆(キールン)炭坑の開発、大陸との海底電線、鉄道の建設などを計画した。これらは保守派の抵抗で多くは挫折したが、十年後に始まる日本統治時代の開発を基礎づけるものであった。

日清戦争
 日清戦争は朝鮮をめぐる両国の対立から起こった戦争であるが、台湾は沖縄に近く、砂糖などの生産地、地下資源など日本にとって有用であるとして日本の戦争目的の一つに早くから台湾領有の意図が含まれていた。また、イギリスフランスも関心を寄せ、日本台湾進出を警戒していた。清朝は独力で台湾を保持するのは困難と考え、まずイギリスへの売却交渉を行ったが合意に至らなかった。またフランスは海軍を台湾に派遣するなど積極的で、清朝も一時的譲渡など交渉を行ったが、マダガスカルで反仏暴動が起こったため、台湾譲渡は実現しなかった。そのような情勢の中、日清戦争は講和交渉に入ったが、その最中の1895年3月、日本軍は台湾と大陸の間にある澎湖諸島を占領して清を牽制し、下関条約で遼東半島とともに台湾を譲渡することを合意させた。

台湾民主国
 日清戦争の講和条約として、1895年4月17日に下関条約が締結され、台湾割譲を清朝が合意したが、そことは現地の台湾には一切知らされていなかった。台湾の官民は悲嘆にくれながら、台湾を独立国とすれば日本への譲渡はできなくなるとの考えが急速に芽生え、5月23日、「台湾民主国」の独立宣言を行った。
日本台湾軍事占領 台湾の不穏な情勢を恐れた日本はその占領を急ぎ、樺山資紀を台湾総督に任命し、6月2日、清国側代表と台湾受け渡しの手続きを完了(清国代表が台湾に上陸できないため、洋上での手続きとなった)して、台湾への上陸を開始した。日本軍は台湾北部に上陸、平定戦を開始した。
 台湾民主国はその幹部が大陸人であったため、ほとんどいち早く大陸に逃れてしまった。そのなかで、台湾民主国の副総統兼民兵司令官の劉永福(かつて清仏戦争の時、黒旗軍を率いてベトナムフランス軍を破った客家出身の将軍)は、北部が日本軍に平定された後も、南部でゲリラ戦を続けた。日本軍の平定は難航したが、英仏など外国の支援のない中で抵抗は困難となり、10月に劉永福自身も厦門に逃れ、台湾民主国は崩壊し、抵抗が終わった。列強の関心は三国干渉での遼東半島還付問題に移っていた。

参考 1895年 日本統治の始まり
 この台湾における日本軍と台湾民主国の戦争は日本ではほとんど語られることはないが、台湾では乙未(おつび)戦争とも言われ、この年、1895年は日本の植民地支配が始まり、50年も続くことになった忘れられない年となっている。私たちも台湾を訪れるときは、現代の台湾の歴史家の次のような発言を忘れないようにしよう。

   (引用)武力によって台湾を領有しようとした日本は、至るところで台湾人民の頑強な抵抗に出会った。過去の(引用者注1949~1987年)戒厳令下の時代、日本植民地の歴史は、早期の武装抗日運動のみに偏重していたが、近年来の台湾史研究の重厚な発展によって、さまざまな主題を人々がすべて研究するようになり、官製「抗日史観」はもはや流行ではなくなった。現在では私たちも知っているように、領台(台湾占領)当初、進んで日本に協力した人もあれば、さらに「日本の明治の君を御主人とします」という旗を掲げて出迎えた人たちもいた。台湾人が一致団結して日本軍に対抗したわけではないことは、明らかである。しかしながら、台湾内部の民族集団(族群)や宗教の「分類」がどうであれ、あるいは何人かの士紳・商人階級が日本に協力したとはいえ、台湾の各地に、民衆が奮起して日本軍に抵抗したことは事実である。多くの死傷者を出し、流された血は川をなした、このことを否定し、消し去ることは決して出来ない。また今日の私たちが、これに続く日本の植民地統治をどのように評価するとしても、先人たちがこぞって立ち上がり外敵侵入に抵抗した事実をなおざりにすることはできない。<周婉窈/浜島敦俊監訳『図説台湾の歴史増補版』2007 平凡社 p.99>

日本の統治と反植民地運動
 こうして1895年から、日本が第二次世界大戦で敗れる1945までの50年間、植民地支配を受けることとなる。日本台湾総督府(当初、軍人が総督となる軍政が敷かれた)を置いて植民地支配を開始するが、台湾民主国崩壊後も抵抗が続き、総督府はそれらを「土匪(どひ)」として厳しく弾圧した。特に山岳民族は激しい抵抗活動を続けた。初代台湾総督樺山資紀は1895年11月に「今ヤ全島全ク平定ニ帰ス」と日清戦争の大本営に報告し、翌6年4月に戦時体制を終了させたが、実際にはこの間「土匪」の抵抗は続き、2800人の台湾人が殺害され、一時は台北が奪回される恐れが出て本国から援軍が派遣されている。桂太郎、乃木希典と続いた軍人総督によってその後も土匪の反乱鎮圧が続いた。
台湾売却論 日本の帝国議会では、台湾の統治が困難であることから、1億円でフランスに売却するという案が議論されている。また、国際世論のなかには未熟な日本に植民地支配はまだ無理だと嘲笑するむきもあった。乃木希典が1896年に友人に宛てた私信のなかで「台湾施政も誠に苦々しき事ばかり、人民の謀叛も無理からぬ事に御座候」と述べた上で、乞食が馬をもらって飼うことも出来ず、笑いものになっているのと同じだと書いている。しかし、日清戦争に勝ち、資本主義経済の成熟を待たずに帝国主義への転化を強行することを課題とすることとなった日本は、台湾を放棄することはしなかった。<戴國煇『台湾-人間・歴史・心性-』1988 岩波新書 p.67>
台湾民政長官後藤新平 1898年3月、台湾総督児玉源太郎のもとで民政局長(後に民政長官)として台湾に赴任した後藤新平は、徹底した「アメとムチ」の併用によって「土匪」対策を進めた。まず、近代的な建造物や鉄道、水道、電気などのインフラ整備を行い、いわゆる「文装的武備」によって秩序を回復しようとした。抵抗の鎮圧に当たっては非情なまでの手段による「鉄血政策」で臨んだ。その手段として軍隊ではなく警察を利用した。この児玉総督-後藤民政長官のもとでの台湾の統治を「警察政治」といい、後の朝鮮総督府の憲兵による「憲兵政治」と対比されている。後藤新平の退任した1902年までの5年間で処刑された土匪は3万2千人にも達し、当時の台湾の人口の1%を超えている。<伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書 p.84-87>
 後藤新平は台湾でオランダ統治時代から行われているサトウキビ栽培と製糖業をさらに育成し、砂糖と米は日本台湾統治の重要な二つの国内向けの産物となった。なお後藤新平は後に初代満鉄総裁として南満州鉄道の経営にあたり、鉄道院総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣を歴任、東京市長も務めた。特に関東大震災後の内相兼帝都復興院総裁として東京の復興につくした明治~大正期の政治家としてよく知られている。
続く抗日運動 1902年頃までに日本軍の苛酷な軍政によって抵抗運動は抑えつけられ、それ以後は台湾銀行などを通じての日本の帝国主義により植民地収奪が続いた。特に1910年から1914年にかけての「五カ年計画討蕃事業」では莫大な予算をあてて抗日運動の取り締まりを行った。1915年には、漢人が主となった抗日事件の西来庵事件(タパニー事件とも言う)がおこり、全島で警察によって多数が殺害されただけでなく、裁判で866人に死刑が宣告された。これはさすがに日本国内でも批判が起こり、95名の死刑が執行されたところで大正天皇の即位式の恩赦という理由で残りが減刑された。この事件を機に大規模な抗日運動はしばらくの間、なりを潜めた。

第一次世界大戦後の日本統治
 第一次世界大戦では、ロシア革命やウィルソンの民族自決の原則の提案などがあり、また戦後の1919年の朝鮮の三・一独立運動、中国の五・四運動などの民族運動の昂揚があって、台湾統治も軍政から文治統治に切り替えられ、1919年の第八代総督に文官の田健治郎が着任、1936年まで文官が続いた。この頃、日本人技師八田與一が指導した烏山頭水庫ダム建設は1920年に着工、1930年に完成し、嘉南平野を沃野に変えた。
 第一次世界大戦後から太平洋戦争の開始までの間、日本の統治下で鉄道・電話の敷設、銀行制度、法律制度などが整備され、多くの台湾人が日本人の経営する製糖工場・バナナ農園で働いた。これらの社会的インフラは戦後の台湾の1980年代の経済発展の前提となり、その時代に成長した一般の台湾人に日本への親和感を育てた。しかし、それは植民地支配という大枠の中でのことであり、一部には日本統治に対する反発が根強かったことも事実である。
 この間、一方での日本資本主義による収奪は、台湾の内陸の山地に及び、先住民が狩猟と焼き畑農業を行っていた森林に対し、地券のない土地(所有権の明確でない土地)は国有化するという「無地主土地国有化政策」を実施していった。それに対して先住民は抵抗したが、総督府は武力を行使して抵抗を排除して強行した。これは山岳地帯の先住民にとって侵略の強行であり、深い怨念が蓄積されていった。
霧社事件 世界恐慌の起こった翌年である1930年10月27日、台湾中部で現地の山岳民によって日本人が襲撃され殺害されるという霧社事件が起こった。これは日本国内では現地の野蛮な山岳民による突発的な事件と捉えられたが、その背景には長期にわたる日本の植民地支配、特に山岳民の土地を無地主であるという理由で国有化して取り上げていったこと、さらに日常からの日本人官憲の圧政に対する反発という鬱積が爆発したものであった。指導したのは高地の現地人セデック族(かつてはタイヤル族の一部とされたが、現在では独立した部族とされている)の頭目モーナ=ルーダオで、周辺の集落の戦士を集め、霧社(社とは集落のこと。霧社は日本の高地支配の拠点だった)で開かれた運動会に集まった日本人を襲撃し、132名を殺害した。驚愕した日本は軍隊を派遣、飛行機・大砲などを用いて鎮圧した。
 この事件を契機に、日本当局は台湾人に対する「理蕃政策」つまり野蛮な人々を、理を以て導く、といった態度を見直し、「生蕃」(山岳に住みまだ文明化していない台湾人という意味)」を「高砂族」に、「熟蕃」(平地に住み文明化した台湾人の意味)を「平埔族」に改めた。

皇民化政策
 しかし、翌1931年に満州事変が起き、日本は一気に軍国主義体制に転換、日中戦争が事実上始まったことにより、1936年には台湾総督府の武官統治が復活、同時に本格的な皇民化政策が始まった。1937年4月から台湾人の母国語使用が制限され(国語運動)、新聞、学校、はては演劇や芸能まで日本語が強制使用され、1940年からは神社信仰の強制、日本式姓名への改姓名運動が開始された。その他、太平洋戦争が終わるまで、神社参拝・天皇崇拝・宮城遙拝が奨励され、台湾の伝統宗教は抑圧された。軍事面では当初は志願兵制度が採られ、多くの青年が志願して日本軍の兵士として従軍した。特に山岳民であったいわゆる高砂族は、太平洋戦争でのジャングル戦に力を発揮すると期待され、高砂義勇隊として太平洋戦線に送られた。戦争末期の1945年に全面的な徴兵制が布かれたが、まもなく日本の敗北に終わった。
 1974年末にインドネシアのモロタイ島で生存していることが判った日本兵中村輝夫さんは、高砂義勇隊として動員された台湾山岳民アミ族の人で本名をスニオン、中国名は李光輝といった。彼は75年1月、31年ぶりに故郷台湾に帰ったが、多くの台湾人が日本兵としてジャングルで死んでいったことを思い出させる出来事だった。

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台湾(3) 中華民国政府の統治

1945年8月、日本植民地から解放されたが、中華民国政府の統治下に移り、本土から来た外省人と台湾の住民である本省人の対立から、二・二八事件が起こった。中華民国政府は戒厳令を布いて統治した。
 日中戦争から太平洋戦争に至る戦中の台湾日本軍の南進の拠点として重要な位置を占めた。しかし日本軍の敗色が濃くなる中、連合軍は1943年のカイロ宣言で満州、澎湖諸島とともに中国に返還されるべきであることを表明し、さらに1945年のポツダム宣言でそれが確認された。アメリカ軍は太平洋の日本軍を追いつめていったが、フィリピンのルソン島に上陸、さらに沖縄へと北上したので台湾は戦場となることは(一部の爆撃被害を除き)なかった。
 1945年8月15日、日本が無条件降伏したことが知らされ、日本軍および台湾総督府の日本人官吏、製糖業などの多くの日本企業は大きな混乱なく日本に引き揚げ、台湾は下関条約によって日本に割譲された1895年からの50年にわたる植民地支配から解放された。

外省人と本省人の対立
 1945年10月から国民政府(国民党政府)が台湾に入り、その支配下に入った。しかし本土から派遣された国民政府の役人は台湾人を搾取し、官憲の力でその自由を奪うことが多かった。本国出身の警官が、台湾人の老婆をタバコ密売のかどで捕らえ、抗議した民衆に発砲して死者が出たことから抗議行動が始まり、1947年2月28日に全島の蜂起となった。国民政府は本土から軍隊を派遣して暴動を鎮圧、抵抗する民衆を殺害した。この二・二八事件は、犠牲者が1万人以上、数万人に上るというが、国民党政府の台湾統治のもとで歴史上から抹殺され、長くその真相は不明であったが、最近ようやくその全貌が明らかにされるようになった。 → 中華民国台湾政府)

闇の中の二・二八事件
 二・二八事件は本省人(台湾人)と外省人(中国本土出身者)の対立であり、国民政府統治下の現在の台湾では、長く隠蔽されており、その真相は今でも完全には解明されていない。両者にとってふれたくない傷口というところであろう。以下は戴國煇氏の報告。

   (引用)かつて日本人が台湾人を含む中国人に投げかけた「チャンコロ」という罵声を、本省人が同胞たるべき外省人に向けてどなりちらす。日本の軍刀を振り回し、鉢巻きをして日本の軍歌をわめきちらすものさえいた。私はこうした人心の荒廃ぶりを見てぞっとさせられた。本省人と外省人の識別のために「君が代」を歌わせ、いたいけな外省人の子どもに「チャンコロのバカ野郎め」とリンチを加えるに至っては、動乱の中とはいえ、何をかいわんやである。……「麗しき島」(フォルモサ)がやがて血塗られた悲劇の島となった。<戴國煇『台湾』1988 岩波新書 p.102>

国民政府の台湾移動
 中国本土における国共内戦は、当初は兵力数に優りアメリカ軍の支援を受けた国民党軍が優勢であったが、中国共産党の人民解放軍は東北地方でソ連軍の支援を受けて勢力を立て直し、さらに解放区での農地改革を薦めて農民大衆の支持を拡げて行きながら形勢を逆転させ、1948年には主要都市を次々と占領していった。国民党は南京から重慶に移りなおも戦闘が続いたが、1949年にはほぼ勝敗が決し、その年12月には台湾に逃れた。勝利を確定させ、北京に入った中国共産党毛沢東は、1949年10月1日、中華人民共和国の成立を宣言した。
世界最長の戒厳令 台湾に入った国民政府は、1949年5月20日、戒厳令を施行した。この戒厳令はその後、1987年7月15日に解除されるまで、実に40年近く続く、世界最長の戒厳令となった。蔣介石は、1949年12月8日、正式に国民政府の台北遷都を決定した。こうして国民政府と国民党軍50万が台湾に逃げ延び、二・二八事件で事実上出来上がっていた外省人が本省人を抑えつける体制をさらに戒厳令で抑えるという体制を作り上げた。戒厳令は、共産党員の侵入を防止することを理由とし、報道の自由を制限する「報禁」、国民党以外の政党を認めない「党禁」をさだめるなど、台湾人の自由と生活を厳しく統制した。

朝鮮戦争と米華相互防衛条約
 その後も蔣介石の国民党は本土に復帰する意図を表明、毛沢東の共産党は「台湾解放」をめざして侵攻の機会を狙い、中台間の緊張は続いたが、1950年、朝鮮戦争が勃発するとアメリカ台湾海峡の中立を宣言、台湾中国本土は完全に切りはなされた。朝鮮戦争は53年に休戦となったが、東西冷戦の深刻化が進む中、1954年12月にアメリカ台湾中華民国政府との間で米華相互防衛条約を締結、台湾への軍事支援を継続した。日本との間では1952年4月に日華平和条約を締結し講和を成立させた。

冷戦下の台湾海峡危機
 中国共産党政権は朝鮮戦争によって中断された台湾侵攻を再開しようとし、それに対して蔣介石主導の国民党政府はアメリカ軍の支援のもと、逆に中国大陸への反攻しようとした。蔣介石政府は大陸反攻の基地として、厦門の近くの台湾海峡で大陸に近接するの金門島と馬祖島に要塞を築いた。中華人民共和国は、これらの島は福建省に属する中国の領土であるとして反発し、1955年1~2月に金門島などに砲撃を加えた。アメリカは第7艦隊を台湾海峡に派遣、米中間の緊張が高まった。
 この台湾海峡危機は1958年8月23日に中国が大規模な金門・馬祖砲撃を行って最も激しくなった。その後も中国側は砲撃をくりかえし、台湾国民政府側はアメリカ海軍の支援を受けて反撃、中共軍の侵攻を阻止する態勢をとった。この台湾海峡危機は国共内戦を再発させるおそれがあり、それに対してもしアメリカとソ連が介入すれば、米中戦争・米ソ戦争へと転換することが危惧されるの、世界中が中止したが、中国台湾アメリカは全面対決を回避し、どちらも直接侵攻することはなかった。しかし中国はその後も奇数日に金門・馬祖を砲撃するのを何と1978年まで続けた。
現在の金門・馬祖 厦門からわずか60kmしか離れていない金門・馬祖両島は、現在も台湾政府が実効支配しているが、現在は、軍事的緊張は薄くなっており、観光地・中台貿易の拠点となっている。中国本土と金門島の架橋も検討されているという。しかし米中関係がトランプ-習近平関係の悪化に伴って緊張し、中国台湾双方とも時折、大規模な軍事訓練を台湾海峡で行っており、いわゆる「台湾海峡有事」の危機は終わっていない。

台湾経済の復興
 朝鮮戦争が勃発するとアメリカ台湾を東アジア共産化の脅威から防衛するラインの一部と位置づけ、1951年から経済支援を開始した。この1951年から1965年まで続いたアメリカからの大きな経済支援は「美援」(美とはアメリカのこと)といわれ、1年あたり1億ドルに上り、小麦粉などの生活物資とダム建設などのインフラ建設資材が含まれていた。国民党政府はアメリカの経済支援をもとに軽工業の育成を図り、輸入代替型の工業化(輸入品に関税をかけて国内産業を保護し、工業化を進める産業政策)を進めた。1960年代からは中小企業が成長し、徐々に輸出拡大期に転換させることに成功した。<薛化元編/永山英樹訳『詳説台湾の歴史』2020 雄山閣 p.190-195>

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台湾(4) 現代の台湾

1975年、蔣介石死後から民主化を求める民衆運動が始まり、1987年にようやく戒厳令が解除され、翌年からの李登輝政権のもとで民主化が進んだ。同時に国民党支配も動揺が始まり、2000年に初めて政権交代し民進党政権が誕生。その間、中国との関係は緊張と協調の間を揺れ動いている。

アメリカとの国交消滅
 1971年7月のアメリカのニクソン政権はキッシンジャーにひそかに北京を訪問させ、米中の関係改善をはかり、その結果、1971年10月25日、台湾中華民国政府は国際連合の「中国」代表権を失い、国連から追放された。この米中の急接近は、ベトナム戦争の収束を考えるアメリカと、文化大革命の渦中にあったが、中ソ対立を抱える中国の利害が一致したことでなされたが、台湾及び日本など関係地域、国家にとっては冷酷な国際政治の現実を見せつけられる事態だった。さらに翌72年に大統領ニクソンが北京を訪問、中国を一つの国家と認めることとなったため、台湾との関係は冷却した。ここでの米中関係は相互承認だけに終わり、正式の外交関係樹立には至っていなかったので、その後、文化大革命の混乱がようやく終わった中国は国交正常化を急いだ。
米中の国交正常化 1979年1月1日、鄧小平とカーター大統領の間で正式に米中国交正常化が成立した。交渉は台湾問題で難航したが、結局アメリカ台湾から米軍を撤退させる代わりに武器支援は続けることで妥協が成立した。このためアメリカ台湾は断交、翌80年に米華相互防衛条約が失効した。これによって国家間の関係は消滅したが、アメリカは国内法として「台湾関係法」を制定し、事実上の同盟関係を維持した。
日本との断交 日本との間では、1952年、日華平和条約を締結、戦争の終結を確定させるとともにアメリカの対共産圏防衛網に組み込まれていたが、米中国交回復に続いて、1972年に田中角栄首相が訪中、日中国交正常化の交渉が行われ、同年日中共同声明が出されたことで日華平和条約は無効となり、日本台湾は断交した。

白色テロ
 このような危機の中で、蔣介石は1975年4月に死去、78年に息子の蔣経国が総統となり、1949年以来の戒厳令のもとで国民党一党独裁が続いた。「報禁」(自由な報道の禁止)と「党禁」(国民党以外の政党の禁止)という手かせ・足かせを加えられながら、独裁政治に抵抗し、政治的自由や言論、報道の自由を主張すると反政府活動も続いたが、それらはいずれも大陸の共産党とつながっているという口実によって厳しく弾圧される「白色テロ」といわれる事件が相次いだ。<周婉窈『前掲書』p.223> → 中華民国台湾政府)

経済成長
 反面、60~80年代に蔣介石・蔣経国一族は、独裁政治批判をかわす意図もあって、経済の近代化、教育の普及に努め、いわゆる開発独裁による経済成長が見られた。その経済成長は「奇跡」ともいわれたが、要因としては

   肥沃な土地と資源、日本植民地時代のインフラ整備。
   アメリカの援助(美援といわれた1951~65年の公的支援)と日本の借款供与。
   中国が文化大革命期となり台湾への介入が出来なかったこと。

などが考えられる。
 アメリカの公的支援は1965年に終わったが、1970年代から国民党政府は再び輸入代替による工業化に転換、1973年に蔣経国総統が「十大建設」(高速道路、国際空港、鉄道電化、港湾整備など)を提唱し、その基盤となる重化学工業の育成に努めた。それは世界的な石油危機からの脱却をめざす内需拡大策でもあった。次の1980年代には、国民党政府の主導でハイテク産業の育成に力を入れ、工業団地の設置、加工輸出にシフトした産業計画が立てられ、コンピューター、電子部品、ソフトなどの情報処理産業を戦略的な基幹産業として政策的に進められた。それによって高い経済成長を実現し、NIEs(新興工業経済地域)の一つ、「アジア小四龍」(韓国、香港、シンガポールとともに)に数えられるようになった。

参考 台湾工業化を支えたスーパーテクノクラート
 1940年代の戦中・戦後に蔣介石のもとで経済政策の実務を担当し、アメリカとの窓口となって生産計画をまとめた尹仲容、60~70年代に蔣経国のもとで経済政策を推進した李国鼎は師弟関係にあり、ともに経済専門家ではなく技師であり物理学者だった。彼ら以外にも台湾で高い地位を占めた経済政策立案者のうち43名が大学卒業者であり、その52%がアメリカ、9%がヨーロッパで博士号を取得していた。また1949年~1985年まで、経済実務閣僚14名のうち10名は(経済学ではなく)工学の出身者だった。彼らスーパーテクノクラートが台湾の急速な工業化を推進する中枢にいた。

   (引用)政府の官僚は日本の基本的な輸出戦略を熟知していた。尹仲容は明治維新に特別な関心を持ち、1950年に日本で三ヶ月の研究旅行をした。日本の官僚と同じように、台湾の官僚もまた、台湾では天然資源が不足しており、人口も急速に増加していることを認識していた。そして、台湾が生き残っていくためには、これも日本と同じように製品輸出の拡大が不可欠であると信じていた。彼らは、生産性および品質の改善がともに必要であることを理解していた。日本が外国市場への進出に成功したことが台湾の官僚を刺激し、日本の輸出振興の基本的な方式を模倣するようになった。彼らは幼稚産業を外国との競争から保護し、台湾企業に対する外国企業の支配を極力制限した。また彼らは、外国借款を死活的な産業技術とインフラストラクチュア・プロジェクトに限定した。また、日本では賃金が高くなったためにいくつかの部門で競争力が決定的に低下したことを察知して、台湾の官僚は台湾のそうした部門の企業を助力し、世界の市場において日本の地位を奪い取った。<エズラ=ヴォーゲル/渡辺利夫訳『アジア四小龍』1993 中公新書 p.42>

台湾の民主化
 蔣介石・蔣経国の国民党による独裁政治は、戒厳令のもとで反対勢力を暴力で抑えつける手法を続けていたが、それにもかかわらず民主化と自由を求める運動を根絶やしにすることは出来なかった。1960年には雑誌『自由中国』で蔣介石が憲法を改正して総統任期を延長したことを批判した雷震らが逮捕された。そのため廃刊に追いこまれたがそのころから新党結成の動きが秘密裏に始まり、中国民主党が結成された。1979年、雑誌『美麗島』を刊行したグループは、12月に叛乱罪によって逮捕された。その2年後、運動の指導者の一人だった林義雄の家族(祖母と二人の娘)が何者かに殺害され、警察当局の関与がうわさされて台湾中に非難の声が高まった。
民進党の結成 経済の成長は自由で民主的な思想を持つ中間層を確実に増加させた。またアメリカでも議会の中に台湾の民主化を支援する動きが強まった。それらの動きは、1986年9月の民主進歩党(民進党)結成に現れた。戒厳令下で国民党以外の政党の結党は許されていなかったにも関わらず、世論の支持、アメリカの支援が新党結成を可能にした。この台湾史上初めての野党の結成は、台湾民主化の第一歩となった。
戒厳令の解除 1985年5月19日の第一次、翌年同日の第2次の「緑色行動」(緑は民進党のシンボルカラー)は数万規模で開催され、戒厳令解除を要求した。原住民は同じころ、「還我土地運動」(我々の土地を返せ、の意味で民族名、母語の回復などとともに自治を要求した)を展開して権利の回復をかかげた。これらの広範な運動はついに国民党政権を動かし、1987年7月15日に蔣経国総統は38年間も施行し続けた戒厳令を解除した。12月25日には民進党は台北市で約3万の市民を集め、国民大会の全面改選を要求する集会とデモを行った。次いで1988年1月からは新たな日刊新聞の発行を禁止していた「報禁」が解除された。
海峡両岸の緊張緩和 1979年にアメリカ中国大陸の中華人民共和国を承認、台湾との関係を打ち切った。また台湾は国際連合の議席を中国に譲り、公式の外交的身分を喪失した。こうして台湾は国際社会では主権国家として扱われなくなったが、70~80年代には経済力を大きく飛躍させた。台湾ほどの経済力を持っていながら独立国家ではないという世界でこれまでにない「地域」となった。一方、中国では1978年に鄧小平によって改革開放政策が開始され、市場経済の導入へと大きく舵を切った。
 1979年、鄧小平は台湾に対し経済交流を働きかけ、将来の台湾統合については武力統合ではなく「一国二制度」による平和的な統合を提唱してきた。蔣経国はこの外交攻勢には応じず、妥協を拒否した。しかし、戒厳令が解除されたことに伴い、台湾政府は島民の中国大陸への離散家族訪問を解禁し、貿易も一部許可して経済交流が始まった。中国では経済の自由化にもかかわらず政治上の民主化は進まず、その矛盾から1989年の天安門事件(第2次)が起こったが、共産党政権は一党独裁体制の下で社会主義市場経済をすすめ、1990年代には台湾との貿易も拡張し、台湾資本も大陸に投資されるようになった。多くの台湾の人々が大陸を訪問して現地の生活に触れ、自分たちが工業化を通じて生活水準を高めたことに自信を持ち、国民党は実際の戦争では敗れたが経済的戦争では勝利を収めた、と実感するようになった。
 1991年には台湾は国家統一綱領を採択、行政院に大陸委員会を置いて中国との交渉窓口とし、民間窓口としては海峡交流基金会(海基金)が設けられた。同年中国側は海峡両岸関係協会(海協会)を開設、海基金と海協会の当事者による交渉が開始され、世界的にも中台の和解への期待が高まった。

李登輝の総統就任
 事態が急変する中、1988年1月13日、蔣経国総統・国民党主席が急死し、副総統の李登輝が総統に昇格した。彼は台湾での初めての本省人(台湾出身者)として総統となった。
 台湾では、依然として中華人民共和国を認めず、共産党との内戦を継続しているという形を取っていた。つまり内戦状態が続いていると形だったのであり、戒厳令は解除されたものの、1948年に出された「動員戡乱時期臨時条項」がまだ生きていた。これは反乱平定のための軍の出動、交通管制などの緊急措置をとる権限を憲法を超越して総統に付与する、というものであった。
民主化の実現 1990年3月9日、各地から集まった学生約6000人が台北の中正紀念堂(中正とは蔣介石のこと)前で座り込みを行い、上記の臨時条項を廃止と国民大会に代わる民主的な議会の開設を要求した。この盛り上がりは野百合学生運動と言われた。国民大会とは台湾の国会にあたる議会であったが、その議員は中国共産党との内戦状態が続いていることを理由に、本土出身議員の議員資格は終身とされていたので「万年国会」といわれていた。戒厳令が解除されても国民大会が存続していることに対する台湾人の不満には根強いものがあった。
 この運動に応えた李登輝は、1991年4月に「動員戡乱時期臨時条項」を廃止し内戦状態の終結を宣言した。同じく第1期国民大会(国会)を解散し、終身資格を持った議員を引退させ、12月に国民大会議員選挙を実施、その結果、台湾出身者が議会の70%を占めた。これは、本土出身者に対する本省人の優位を確定したことになり、画期的なことであった。さらに1996年3月には、台湾で初めて国民の直接選挙による総統選挙が行われ、李登輝が再任された。
両岸関係の悪化   しかし、両者の関係はそれぞれ指導者がメンツにこだわり、強硬姿勢を崩さなかったので、統一交渉は具体化しなかった。1995年、中国の江沢民主席は「一国二制度」の基本方針で平和的な統一する原則をとる一方、台湾側の武力行使の放棄を約束せよという要求に対しては承諾できないと表明、一方の李登輝総統は双方は互いに隷属し合わない二つの政治実体であるという現実を前提としない限り、国家統一の実行は不可能であると強調した。さらに同年6月、李登輝は統一交渉の実務者会談を中止し、台湾近海でのミサイル発射訓練を行った。その結果、両岸関係(両国と言えないので一般にこのような表現を使う)は悪化の方向に後戻りした。李登輝は訪米して母校コーネル大学での講演でも自己の主張を強調したため、関係は更に悪化した。

初めての政権交代
 李登輝までは国民党政権であったが、2000年3月の李登輝退任後の選挙では民進党の陳水扁が当選し、戦後50年続いた国民党政権からの政権交代が実現した。この間民主化を進めた台湾は、経済的な発展を遂げ、2002年には台湾として世界貿易機関(WTO)加盟を実現させるなど国際社会での承認を得る動きが強まった。しかし、民進党の中国から分離して「台湾」として独立を目指す動きは北京の中華人民共和国政府から強い反発を受けるようになった。

独立か統一か
 2000年の総統選挙で権力の座に就いた民進党陳水扁は、中国本土とは分離独立した中華民国とする(台湾の本土化という)ことをめざしたので独立派と言われるようになり、国民党などの従来からの中国本土との統一を原則とすべきであるという統一派との間で国論が二分される傾向が強まった。
 2004年には陳水扁はかろうじて再選されたが、中国との対立姿勢に危惧を感じた選挙民は、2008年の選挙では中国共産党とも対話を続けようと呼びかけた国民党に支持が動き、国民党馬英九が総統となった。馬英九国民党政権は中華人民共和国との経済交流を進め、政治的統一問題を棚上げして経済面での一体化を実現しようとした。しかし政府間の秘密交渉で進めようとした手法は厳しい批判を招くこととなった。

2014年 ひまわり学生運動
 2014年、国民党政権化の台湾で、大きな混乱が生じた。その要因は馬英九国民党政府が、中国政府との間で中台間の「両岸サービス貿易協定」(運輸、金融、医療、美容などの中台間の自由化)を国民に諮らず締結しようとしたことだった。政府は秘密裏に交渉を進め、前年に調印を済ませ、その批准のために立法院を開催してはじめてその内容が明らかにされた。この協定によって、サービス業分野で中国企業が台湾に進出し、中小企業が打撃を受けるのではないか、という危惧が急速に強まり、野党民進党は審議継続を求めた。それに対して国民党は審議打ち切りを強行しようとし、双方が議場にスピーカーを持ち込んで怒鳴りあい、議会としての機能不全に陥るという状態になった。
 2014年3月18月、この事態に怒った学生が立法院の議場に突入、占拠するという事態となった。学生運動の指導者は「議場を国民に返せ!」と叫びながら議場になだれ込み、それに対して市民も民主主義を守るための抗議行動であるとして容認する意見が多数を占めた。学生は闘争のシンボルとして「ひまわり」を掲げたので、この運動は「ひまわり運動」(太陽花学運)と言われ、議会に乱入して占拠するという暴力行為であったが、市民の多数が支持、警察によるその排除に反対した。
 3月30日には議場外で抗議集会が開かれ、学生・市民が結集した。馬英九総統、中国政府は、中台関係を陳水扁時代のように悪化させる動きとして学生を非難したが、学生は主張を変えなかった。
 学生の議場占拠は4月10日まで続き、馬英九総統が中国との協定批准の延期を表明、議会審議を約束したため学生の多くは退去し、議会選挙は終わった。一部退去に反対する学生は警察によって排除された。このできごとは、それまで政治や中国との関係に無関心であった若者の自覚を促した。さらに、政府が国民を無視して事を進めることは出来ないことを明確にし、議会政治は形式的なものではなく、国民に開かれたプロセスを経なければならないこと台湾の人々に強く自覚させた。国際的には、同年の8月、香港で盛り上がった雨傘運動ともいわれる香港民主化運動に強い影響を与えた。翌2015年、日本では安倍内閣による集団的自衛権容認からいわゆる戦争法(平和安全法)をめぐって大きな反対運動が起こり、学生の中にシールズといわれる動きが生まれた。

2016年の政権交代
 2016年の選挙では馬英九の国民党政権は民進党に敗れることとなった。勝利した民進党の蔡英文は初の女性総統として政権交代を果たしたが、懸念されたとおり、中華人民共和国側は蔡政権成立によって分離独立が加速することを警戒、中台関係が悪化し、台湾経済にも悪影響を及ぼすこととなった。台湾では2016年、2018年と大規模な地震が続き、蔡政権には試練が続いた。
 中国との関係から不安定視された蔡英文政権であったが、2020年に世界を襲った新型コロナウィルスによるパンデミックでは、台湾はいち早くその蔓延を防止し、少数の感染者に抑えることに成功、その手腕は見直されている。その成功の背景には、感染対策を国民にすべてオープンで進めて理解と協力を得ることが出来たことにあると考えられており、そこに2014年のひまわり学生運動の教訓が生かされているとも言われている。


https://www.y-history.net/appendix/wh0801-118.html