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英語による名称
漢字表記
漢字略
首都陽城
独立年月
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面積
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通貨

夏 紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃夏[-2069~-1600]夏[前2070?~1600B.C.?]夏[前21世紀~前17世紀](前2070年頃~前1600年頃)はチベット系
夏の時代のことはよく分からない。
夏の啓という王様(夏王朝の先祖)については異常出生説話がある。
禹が治水につとめて働いているとき、熊の姿となって山下をめぐっているところを、禹の后がそれをみて恐れ、石になってしまった。その女は禹の子をはらんでいたので、禹はその石の前に立ち「わが子を返せ」と叫ぶと、石が割れて啓が生まれたという。
西域の方を夏といい、夏は大きな顔をした男が、足を挙げて踊っている形。顔が大きく、背が高い。
これはだいたい西域の系統で、東洋人ではない。夏系統の民族が中国の西半分を占領していた。後になって西をつけて西夏という。
(注:後の西夏(1038~1227)は、黄河が湾曲するオルドスに興ったチベット系のタングート族が建国した。)

中国の最初の王朝。その実在は疑われていたが、最近は実在説が有力となっている。
 司馬遷の『史記』では三皇五帝に次いで出現し、殷(商)王朝に先立つ王朝とされる。その始祖の禹(う)は、黄河の治水に功績があり、先帝の舜から天子の位を譲られたという。最後の天子の桀は暴君であったため人心が離れ、湯王に倒され殷王朝に交代したという。日本においては、夏王朝の存在は甲骨文字などの文字資料が出土していないので否定的な意見が強く、伝承上の王朝とされている。現在のところ、高校の世界史でもその程度の説明にとどまっているが、中国では戦後のめざましい考古学調査の進展によって、夏王朝の実在は確定したとされ、教科書でもそのように扱われている。その王都は河南省の二里頭遺跡であるというのがほぼ定説となっている(次の記事を参照)。最近では夏王朝よりさかのぼる尭や舜についても、それを実在の皇帝とする見解が強まっている。日本の学界でも「夏王朝」を実在した王朝として取り上げる学者が増えており、近い将来は日本の教科書の記述も変わることが予想されている。

夏王朝実在説

 この夏王朝は、黄河中流域における農耕社会の形成の中で造られた伝説的な王朝であって実在したものではないと考えられていたが、最近黄河中流の竜山文化を夏王朝の時代とする主張も有力になっている。現在注目されているのは、1950年代に発見された、河南省の二里崗遺跡(前1600年頃)と二里頭遺跡(前2000年頃)の青銅器文化である。これらの遺跡で殷墟よりも古い青銅器が見つかっている。二里崗遺跡は殷時代にあたるとされており、それより古い二里頭遺跡を夏王朝のものとする説も有力になっている。二里頭から見つかっている城壁を夏王朝の都とする説がかなり有力となっている。

夏王朝の都発見か

 2004年7月21日付『朝日新聞』朝刊は、「中国の伝説上、最古の夏王朝(紀元前21世紀~同16世紀)の都があったと推定されていた河南省偃師市の「二里頭遺跡」から、大規模宮殿を持った古代都市跡がこのほど発見された。中国科学院考古学研究所などは、今から3600年以上前の中国最古の都ととしており、夏王朝が殷王朝(紀元前16世紀~同11世紀)に先立つ王朝として実際に存在した可能性が一段と強まった。」と新華社通信のニュースを掲載した。遺跡からは面積10万平方メートルに及ぶ整然とした都市であり、宮殿跡は東西300m、南北360~370m、城壁の幅約2m、順序よく配列された建築群や、青銅器の祭祀用品が見つかっているという。

中国の教科書での夏王朝

 中国の中学校歴史教科書では、夏王朝について、原始社会から奴隷制社会に移行に伴って紀元前21世紀に成立した中国史上最初の世襲制王朝である、と定義している。その最初の王都の陽城の位置は不明であるが、最近の発掘によって河南省登封県の城跡が有力とし、夏の後期の宮殿跡が河南省の二里頭遺跡であるとしている。<『世界の教科書シリーズ5中国中学校歴史教科書・中国の歴史入門』小島晋治/並木頼寿監訳 明石書房 p.76 右図も同書より>

二里頭遺跡とは

※二里頭遺跡が夏王朝の都であるとする根拠は次のようなことが挙げられている。

   遺跡の中心の宮殿区は回廊で囲まれた巨大な正殿と広い中庭をもち、後の中国歴代王朝の宮殿と基本的に同じ構造と規模をもっている。王を中心として多数の臣下が執務する宮廷儀礼の場であったことが想定される。
   宮廷儀礼に用いられたと考えられる玉璋、玉斧、玉刀、玉戈など多種多様な大型玉器が出土し、宮廷における「礼制」が整備されたことがわかる。また多種多様な青銅製容器は宮廷における飲酒儀礼で用いられたものである。これらはこの時期に宮廷儀礼、ひいては「礼制」を整えた王朝の成立を意味している。
   二里頭の宮殿建設には、延べ20万人ほどの動員が必要とされたと考えられるので、労働力の国家的な動員があったと想定される。また、二里頭文化期には銅製武器や鏃などが急増しており、国家権力の成立に伴う戦闘が拡大したと考えられる。

これらの事実から、岡村秀典氏は「夏王朝」は実在したと断定している。<岡村秀典『夏王朝 中国文明の原像』2003初版 講談社学術文庫版 2007年 p.266-273>

初期国家論

 夏王朝の実在は肯定的に見られるようになってきたが、その性格についてはまだ議論が定まっていないようだ。夏王朝は実在したとしても、それは本格的な古代国家であったのではなく「初期国家」あるいは「初期王朝」ととらえる見解も出されている。
 宮本一夫氏は、新石器時代終末期に各地に首長権が形成されるようになったが、この首長制社会は初期国家段階とは言えない。次の青銅器時代開始期である二里頭文化期は、文献史料で言う夏王朝期にあたり、文献史料における夏王朝とはこの二里頭文化の政治勢力を指すであろう。二里頭文化期は各地の宗教祭祀を統合して、「礼制」を導入し、身分標識としての酒器を青銅器という貴重な素材で製作し、階層秩序を新たに作ることに成功した。しかしそれはただちに強力な王権の成立という段階にたっしたわけではなく、王権の形成期であり、初期国家形成期または萌芽期と位置づけられる、と述べている。そして本格的な初期国家段階は殷王朝の統治から、としている。<宮本一夫『神話から歴史へ』中国の歴史1 講談社 2003 p.354-358>
 初期国家とは、文化人類学者のエルマン=サーヴィスが提起した概念で、国家が原始的な状態から次第に複雑、巨大化していく過程の最初の段階とされるもので、王と貴族、平民、奴隷などの階層制度、官僚や司祭者の存在、貢納制度、都城や宮殿の存在、などが指標とされている。<参考 宮本同上書 p.369 /竹内康浩『中国王朝の起源を探る』世界史リブレット95 山川出版社 2010 p.42>

中国の伝説上の最初の王朝。姓はじ。『史記』によると禹王より 17代,約 500年ぐらい続いたという。禹は鯀 (こん) の子で,帝舜に仕えて水土を司り,黄河の治水に成功し,天下の土地を測量して貢物を定め,舜の禅譲を受けて夏王朝を建てた。禹から 17代目にあたる桀は暴君で奢侈淫逸にふけり,商 (殷) の成湯に滅ぼされたという。夏の後裔といわれる杞が周代の諸侯国として存したが,夏そのものの実在は現在までのところ確証はなく,偃師二里頭期と考える者もあるが,依然として不明である。

殷(いん)以前にあった中国最古の王朝。始祖は禹(う)。紀元前15世紀ごろの桀(けつ)王が暴政を行ったため、殷の湯(とう)王に滅ぼされたという。

(1)中国の伝説における最古の王朝。禹(う)が王朝を開き,17代の桀(けつ)に至って殷(いん)に滅ぼされたと伝えられる。その実在は確認されていないが,河南省偃師(えんし)県二里頭遺跡の発見により,存在が強く主張される。また,夏とは中国をさす呼称にも用いられる。

中国古代の王朝名。始祖禹は黄帝の子孫といわれ,帝舜のとき,中国を襲った大洪水を,13年かけて治めることに成功し,舜から帝位を譲られ,夏后と称した。その死後,子孫が位を継ぎ,最初の世襲王朝となった。第17代の履癸(桀王)は暴君で,諸侯が背き,殷の成湯大乙に滅ぼされた。殷の卜辞(甲骨文)のごとき文字史料が未発見で,その実在は未確認であるが,最近,河南省偃師県二里頭遺跡が発見され,その文化の性格をめぐり,夏の存在が強く主張されるにいたった。

①伝説的な中国最古の王朝。治水に功績のあった禹うが、舜しゆんの禅譲をうけ王位についた。世襲により一七代続き、暴君桀けつの時、殷いんの湯王に滅ぼされたという。夏殷周三代と並称。

中国の王朝名。
[一] 中国最古の伝説的な王朝。始祖禹(う)が舜の禅譲(ぜんじょう)を受けて位につき、前後四七一年間続き、第一七代桀王の時、殷の湯王に滅ぼされたとされる。しかし現在までそれを実証する遺物、遺跡は現われていない。

①伝説上の中国最古の王朝

中国で殷(いん)王朝より以前に存在したとされている最古の王朝。夏、殷、周の3王朝をあわせて「三代」とよび、旧中国では諸制度の整った理想的な時代とされていた。殷に先だつ王朝として夏が存在した可能性は十分にあるが、現在のところ、その都がどこにあったかは定説がない。近年、河南省の登封(とうほう)市の「王城崗(おうじょうこう)」遺跡が、禹(う)の都した陽城の跡だとする説が出されているが、異論も多い。『史記』の「夏本紀」が伝えるところによると、夏王朝の始祖禹は黄河の洪水を治めるのに献身的に努力し、その功により、舜(しゅん)の死後、諸侯から推されて天子となった。禹は自分も禅譲の原則により民間から賢者を選んで天子の位を譲ろうとしたが、諸侯は禹の子啓(けい)を後嗣(こうし)として推戴(すいたい)し、それ以後子孫が相次いで天子となったという。17代目の履癸(りき)すなわち桀(けつ)に至って、政治が暴虐を極めたため、民心を失い、殷の湯(とう)王によって攻め滅ぼされた。

 これまで夏王朝の存在は呂氏春秋や史記などの文献に書かれているだけで、その存在は確認されていませんでした。しかし、1950年代終り、考古学者の徐旭生が河南省偃師県で二里頭遺跡を発見、殷王朝に匹敵する規模の大建築群の宮殿・住居・墓が見つかりました。
 さらに、1981年~87年、北京大学歴史系考古教研室が豫北の新郷と安陽地方を調査し、修武李固・温県北平皋・淇県宋爻遺址を発掘、1984年からは京大学歴史系考古教研室が魯西南渮澤地方・豫東商丘地方を調査し、渮澤安邱土固堆・夏邑清涼山遺址を発掘しました。
 その後の調査と考証の結果、豫北地方が河型先商文化と二里頭文化の隣接地帯であり、二里頭文化期には、河型先商文化・岳石文化・二里頭文化が黄河中・下流域で鼎立していたことが解明されました。また、二里崗下層期には河型先商文化が南下し、西の二里頭文化に取って代わり、二里崗上層期には東の岳石文化に取って代わったことが判りました。これらの状況は、文献上で商(殷)が夏を滅ぼした記述と符合し、二里頭文化が夏王朝の存在を証明することが明らかになりました。
 二里頭遺跡では、青銅器の本格的使用が認められ、斧・鑿・ナイフ・千枚通し・鏃・釣針・戈・酒宴に使う容器類が出土しました。卜骨も出土し、24種の刻画符号が確認され、その形状は甲骨文字と良く似ています。
 宮殿址の土台は人工的に固められた方形で、周囲に塀、内・外側に回廊が見つかっています。
 また、宮殿の側に大墓があり、この宮殿が死者に対する祭祀を行うためのものであったと考えられています。
 二里頭文化は四期に分かれるとされており、一期から三期までは拡大期で四期は衰退期と考えられています。この一期から二期までが夏王朝、三、四期が商に入るとされています。((『華夏考古』1991-2による)
 第一期には三門峡、関中平原東部、河南省南部に拡大し、二期になると、汾水流域に拡大し、その地域に二里頭文化東下馮類型を形成します。
 三期には沁水以西地区、河南省東・東南部に拡大します。二、三期頃になると、河北の輝衛文化・下七垣文化、山東の岳石文化などとの衝突が始まります。
 この時期の年代特定については、夏商周断代工程(『夏商周の時代区分に関するプロジェクト』)によって、確定されています。
文献上の夏王朝の歴史
 夏族は黄河中流域を支配する部族で、五嶽(中国の聖山:東嶽が泰山(山東省)・西嶽が華山(陝西省)・南嶽が霍山(安徽省)・北嶽が恒山(山西省)・中嶽が嵩山(河南省))の一つ、嵩山のほとりに住んでいました。
 堯、舜の時代はたびたび黄河の大洪水が起こったため、五帝のひとり、堯に使えていた鯀の息子・禹が“居外十三年、過家門不敢入(:13年もの間家の前を通っても入ることはなかった)”という努力の結果、黄河の治水に成功し、王に即位、陽城(現在の河南省登封)に建国したとされています。夏王朝の版図は河南省南・中・北部と山西省南部とされています。
 禹は補佐役の益に禅譲し、益は禹の死後3年間喪に服したあと、禹の子の啓に帝位を譲り、箕山に隠棲しました。
 啓は、釣台(河南省禹県)で多くの部族の首領らを召集して盛大な祭神の儀式を行い、帝位の継承を表明しました。しかし、西方の一部族(陝西省戸県)の有扈氏は、禅譲を主張して反対し、挙兵しました。
 甘水(戸県の西)での開戦直前、啓は上帝の名を借り、「上帝は有扈氏を滅ぼそうとされている。われわれの戦いは上帝の懲罰を行うためである。もし戦闘の最中に、戦車の左側にのる射手が上手に矢を射ず、戦車の右側にのる勇士が上手に敵を殺さず、戦車の御者が上手に馬をやらなかったならば、命令に服従しないものである。命令に服従するものには賞を与える。命令に服従しないものには罪を与えて、あるものは死刑にし、あるものは奴隷にする」という詔を発しました。その結果、有扈氏が負け、多くの部族が服従し、啓に朝貢しました。これ以降帝位は世襲制になりました。
 啓の時代、各部族・氏族の首領は貴族(大奴隷主)となり、捕らえた俘虜を奴隷にする奴隷社会が形成されました。
 5代目の王・中康の頃に、有窮国に攻め込まれて国都から落ち延び、その孫の少康の代でようやく復興します。
 15代目の王・孔甲は淫乱で、好んで鬼神と力比べをするなどし、王朝は衰退へ向かいます。16代目・皋、17代目・発の時代には、夏王朝は急速に滅亡へと向かいます。
 B.C.1600頃、発の子の桀が洛陽で18代目の王となりました。桀の暴虐無道・財物の浪費は、「ひとたび太鼓が鳴ると、3000人のものが一斉に牛のように首を伸ばして酒池の酒を飲んだ」とあります。また、桀は人を馬の変わりにして、その背にまたがって歩き、自分を太陽になぞらえました。
 そのころ、商部族首領の成湯が挙兵し、桀を南巣(安徽省巣県)に追放し、夏王朝は滅亡しました。

夏王朝の系図

初代・禹
 |
2代・益
 │
3代・啓
 ├─── ─┐       
5代・中康 4代・太康 
 │
6代・相
 │
7代・少康
 │
8代・豫
 │
9代・槐
 │
10代・芒
 │
11代・泄
 ├─── ─┐
13代・扃 12代・不降
 │     │
14代・廑 15代・孔甲
 │   
16代・皋  
 │
17代・発
 │
18代・桀

禹―启―太康―仲康―相―少康―杼―槐-芒―泄―不降―扃―廑―孔甲―皋―発―癸―桀


  • 2069 夏王朝 か (-1600)開祖は禹(う)(舜(しゅん)の禅(ゆずり)を受けたと伝えられる)。都は安邑(山西省)ほか。17代桀(けつ)のとき殷(いん)に滅ぼされる。河南省偃師(えんし)県二里頭遺跡の発見により、存在が確認される。

夏(前2070年頃~前1600年頃)はチベット系
夏の時代のことはよく分からない。
夏の啓という王様(夏王朝の先祖)については異常出生説話がある。
禹が治水につとめて働いているとき、熊の姿となって山下をめぐっているところを、禹の后がそれをみて恐れ、石になってしまった。その女は禹の子をはらんでいたので、禹はその石の前に立ち「わが子を返せ」と叫ぶと、石が割れて啓が生まれたという。
西域の方を夏といい、夏は大きな顔をした男が、足を挙げて踊っている形。顔が大きく、背が高い。
これはだいたい西域の系統で、東洋人ではない。夏系統の民族が中国の西半分を占領していた。後になって西をつけて西夏という。
(注:後の西夏(1038~1227)は、黄河が湾曲するオルドスに興ったチベット系のタングート族が建国した。)

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