後漢

(25~220) 後漢(東漢)(東汉)

後漢(東漢)(東汉)

首都洛陽
建国25
没年220

国情報

25~220
後漢(東漢)


(2)後漢(ごかん)(東漢)。後25年劉秀(光武帝)が劉氏の天下を復興,都を洛陽に定め,内政に努めて後漢王朝の基礎を確立。やがて幼帝の即位が続き,外戚・宦官(かんがん)の政争が度重なり,184年黄巾(こうきん)の乱を機に群雄割拠の世となって漢の権威は全く衰え,220年魏に滅ぼされ三国時代に入る。


後漢
この混乱のなかから頭角を現したのが、6代景帝の子孫で、南陽(河南省南西部)の諸豪族を背景にしていた光武帝劉秀(りゅうしゅう)である。光武帝は25年帝位につき、洛陽に都を定めるとともに、劉氏一族の対立者、隗囂(かいごう)、公孫述(こうそんじゅつ)などの諸勢力を倒し、王莽の改制を旧に復して政権の基礎を固めた。光武帝以後、2代明帝、3代章帝の時代約50年間が後漢の最盛期で、洛陽の太学は学生3万人を数え、地方の私学にも弟子2000~3000人をもつものがあった。対外的にも積極的で、竇憲(とうけん)は北匈奴を討ってこれを破り、西域都護班超(はんちょう)はパミール以東の50余国を服属させ、97年には甘英(かんえい)を西方の大秦国に遣わした。しかし、和帝以後は幼弱な皇帝が多く、外戚、宦官がふたたび権力を握るようになった。これに対して、礼教を重んじ、気節の士とよばれた中央・地方の官僚は、外戚、ついで宦官を論難したから、宦官は二度にわたって気節の士を弾圧した(党錮(とうこ)の禁)。中央政治がこのような混乱にあるとき、西北の羌(きょう)族が反乱を起こし、さらに184年には黄巾(こうきん)の大農民反乱が、華北、華中に蜂起した。この乱の鎮圧の過程で、各地に強大な私兵をもつ軍事勢力が現れた。宦官は華北の袁紹(えんしょう)によって討滅されたが、董卓(とうたく)、孫策(そんさく)、曹操(そうそう)らの群雄が割拠して、後漢王朝は完全に分裂した。やがて献帝を擁した曹操が強大となってほぼ華北を統一し、その子の曹丕(そうひ)が献帝に迫って帝位を譲らせ、魏(ぎ)王朝を創建したために後漢は完全に滅び、三国分裂の時代を迎えた。


新と後漢の成立
宦官と外戚が皇帝の政治を左右するようになり、また外征が財政を脅かし、紀元後8年に外戚の王莽に帝位を奪われた。これまでを前漢と言い、王莽の新を倒した劉秀が漢王朝を再建するが、そちらは後漢として区別する。後漢は3世紀に滅亡するが、前漢と合わせて約4世紀にわたって中国を支配し、周辺の諸民族に大きな影響を与えたので、「漢」の名称は現在まで中国を意味する語句として定着している。


   漢 -206年 - 220年
       前漢 -206年 - 8年
       後漢 25年 - 220年