東ハンガリー王国
(1526~1570) 東ハンガリー王国
東ハンガリー王国
建国年 | 1526 |
没年 | 1570 |
国情報
1526~1570
東ハンガリー王国
オスマン帝国の侵入
オスマン帝国の北上の勢いはますます強まり、1526年、スレイマン1世の率いるオスマン帝国軍がハンガリーに侵入してきた。ベーメン王兼ハンガリー王ヤゲウォ朝ラヨシュ2世はモハーチの戦いで迎え撃った。ところが、ラヨシュ2世は戦死し、ハンガリー軍は敗れた。ラヨシュ2世には子がなかったので、その義兄に当たるオーストリア=ハプスブルク家のフェルディナントが王位継承権を主張した。それに反対する勢力が、再度オスマン帝国に出兵を要請したため、1529年、スレイマン1世の第1次ウィーンを包囲が行われた。このときは冬の到来とともにオスマン軍が撤退したが、その後も数度にわたって両軍が戦い、1547年までに休戦協定が結ばれた。
ハンガリーの三分割 その過程で、ハンガリー王国は次の三つの地域に分割されることとなった。
北部・北西部・クロアティアはハプスブルク領(形式的にはハンガリー王国。ハプスブルク=ハンガリーという)。
中・南部(ブダペストを含む)はオスマン帝国領。州―県―郡がおかれ直轄支配された。キリスト教信仰は人頭税と土地税、十分の一税を納めることを条件に認められた。強制的改宗は行われなかった。
東部はオスマン帝国の宗主権を認める東ハンガリー王国(一定の自治を認められた保護国。後のトランシルヴァニア侯国)。
このようなハンガリーの三分割状態は、その後、約130年にわたって続く。