(-1751~-1023) 殷(商)

殷(商)

英語による名称Yin(Shang)
首都偃師
建国-1751
没年-1023
民族山東省の沿海民族

国情報

 -1751~-1023
殷(商)

殷(前1600年頃~前1050年頃)は山東省の沿海民族
殷は山東省から興った国。
竜山文化の一番古い黒陶文化が残っている山東省から、河北、河南に進出して殷王朝を建てた。まず北は河北省の一番北、モンゴルに近い藁城(コウジョウ)、そして西の洛陽のすぐ手前にある偃師(エンシ。夏王朝の都)まで一気に進出し、滅ぼしてから退いて鄭州(テイシュウ)に都する。南は揚子江を超えて寧郷(ネイキョウ)まで来ている。
王朝の版図として、最大の外辺部分に非常に優れた青銅器を配置して、異民族に対して邪霊を祓うことを建国の第一の仕事とした。
寧郷の山の西に、南北に連なる武陵山脈があり、水稲文化を早くからもっていた苗族がいた。古くは南人と呼ばれ、非常に強悍で、殷にとっては恐るべき敵であった。南(右図)は銅鼓の形を示す字。
それで、殷人は西の方の羌(キョウ)族を祭祀の犠牲に用いることが甚だ多く、50羌、百羌、時には300羌を牲殺した。羌は集団で羊を飼い、後頭に辮髪(ベンパツ)の形を加えた字形が多いので(右図)、今のチベット族にあたる。このような大量の人牲はたぶん断首葬に用いられたもので、首祭りの呪的儀礼は、東南アジアから太平洋諸島にわたる未開の社会に残されている。
殷王朝は、日本の古代王権の性格と以下の点で非常によく似ており、東アジア的形態といえる。
1.婚姻制と王位継承
王統の間で近親婚(族内婚)、つまりイトコ婚が行なわれており、姉が嫁入りするとき妹も一緒にひきつれて行った。王位継承は兄弟相続で直系ではなかった。継続上二つのクラスがあり、甲乙のクラス、次に丙丁のクラスが継ぐというように交替の形で行なわれた。
2.神話
天地創成以来の神話をもち、その神々の子孫として王統譜が構成されている。
3.王朝の形成
各地の部族の首長を政治的秩序のもとに組織するために、(「部」的な)職能的部族として王室に奉仕させる形態で進められた。
4.文身・入墨の風習
文身の俗は東アジアを中心とする太平洋沿海諸民族のもので、内陸には存しない。
5.玉や子安貝を霊的なものとして珍重した
これも中国大陸のなかでは殷だけに特徴的に見られる。そして、あらゆるものが霊的な存在であるとの汎神論的な世界観をもつ。
殷は、ゆたかな農耕社会を基礎として成立し、まつりを季節的なリズムとして営み、多くの神々とともに生きてきた。
なお沿海族はえびす、夷という。夷という字は腰を曲げた字(右図)。普通の人なら直立するが、日本人も沿海の人も、みな夷居(イキョ)してお辞儀をする、それで夷という。

殷(読み)いん(英語表記)Yin
殷 Yīn漢字項目
翻訳|yin

中国最古の王朝 (?~前 1122/1027) 。商ともいう。姓は子。『史記』などの伝えによると,帝こくの妃,簡狄が玄鳥の卵を飲んで生んだ契 (せつ) を始祖とする (卵生説話) 。以後 14代目の湯王 (天乙) までの間,河南,山東,河北方面を8回にわたり遷都した。湯王は河南の亳 (はく) に都をおき,夏の桀王を滅ぼして殷王朝を建てた。それから 19人の王が続き,都も5遷したが第 19代の王盤庚 (ばんこう) にいたって再び亳に都を定めた (現在の殷墟) 。盤庚より8代 12王が続いたが,最後に紂王 (ちゅうおう。帝辛) が現れて暴政を行い,周の武王に滅ぼされた。 20世紀に入り,甲骨文字の研究や殷墟の発掘により殷王朝の実体が明らかになった。その結果『史記』に伝えられる殷王朝の系図は,(1) 初期の神話的諸王,(2) 十干の順に並ぶ祖先神,(3) 湯王以後の祖先神,(4) 盤庚以後の殷墟に都をおいた諸王,に区分され,さらに殷墟の時代は5期に時代を分けて考えうることがわかった。祭祀をはじめ社会の状態もかなり明らかになり,暦も復元されている。殷の政治は祭祀権をもつ王によって支配され (神権政治) ,王族,特に王子たちの集団 (多子族) やその妻たちの集団 (多婦族) によって支えられた血縁的な性格が強く,地方にいる異族は「方」と呼ばれ,殷王室を盟主として服属していたらしい。なお王位は血縁的秩序に基づく兄弟相続制により受継がれていたが,末期には父子相続に変る傾向にあった。王族の配下には軍事や祭祀の集団,あるいはその他の職能的集団が服属し,そこには多くの奴隷も付属していた。殷墟の文化は青銅器時代の最盛期とみられるが,これは殷の後期の文化であり,さらにそれ以前の文化が河南の鄭州市二里岡において,また殷代早期と思われる遺跡も河南の偃師県二里頭などで見出されている。

中国古代の王朝名。自称は商。「史記」殷本紀などによれば、成湯王が夏(か)の桀(けつ)王を滅ぼして創始し、第30代の紂(ちゅう)王のとき周によって滅ぼされた。前16世紀ごろから、前11世紀ごろとされる。→殷墟(いんきょ)

3 古代中国の王朝名。「殷墟(いんきょ)」

中国史上,実在の明らかな最古の王朝。前17世紀末もしくは前16世紀初めから前11世紀,今の河南省を中心に黄河下流域に威を振るった。開祖は湯王。自らは首都の名である〈商〉を国号として用い,しばしば都を移した。最後の都(王朝の後半期)が殷墟である。前1050年ごろ紂(ちゅう)王の時,周の武王に滅ぼされた。殷は一種の神権国家で,王は上帝(天)に仕える宗教的最高権威者として,卜占をもって天意をうかがった。巨大な王宮や王墓が造営され,すぐれた青銅器文化が栄えた。また,後期には文字の使用が開始された。→甲骨文

中国古代の王朝名。この王朝の存立した時代および文化の名称としても使用する。ただし当時の王朝の人びとはみずからを商と称していたので,殷とよぶよりも,商とよぶのが正確であるが,日本では一般に殷の名を使用する。後の周の人びとが殷とよぶようになるが,その理由は明らかではない。
[歴史]
 殷王朝は,《史記》によると成湯天乙(いわゆる湯王,甲骨文では唐,大乙とよぶ)が,夏王朝の桀(けつ)王を倒して滅ぼし,創設したといわれる。

中国の古代王朝。史記によると、湯とう王が夏か王朝の桀けつ王を倒して建てたといわれる。紀元前一一世紀頃、第三〇代紂ちゆう王のとき、周の武王に滅ぼされた。黄河中流域を支配する部族国家で、卜占ぼくせんによって神意にもとづく祭政を行なった。商。 → 殷墟いんきよ

中国古代の王朝の名称。ただし、自名としては「商」と称し、これを滅ぼした周が前代の王朝を「殷」と称した。現在の中国では「商」とよぶ場合が多い。年代については諸説あるが、ほぼ紀元前17、16世紀の境より、前11世紀なかばごろまでと考えられる。[松丸道雄]
伝承と甲骨文の発見
『史記』殷本紀その他の古文献によれば、始祖契(せつ)の母簡狄(かんてき)は、有(ゆうじゅう)氏の娘で帝(ていこう)の次妃であったが、玄鳥(ツバメ)の卵を呑(の)んで契を生み、契は禹(う)の治水を助け、舜(しゅん)によって商に封ぜられて、子姓を賜った、とされる。次代の昭明より第12代主癸(しゅき)(甲骨文では示癸)まで父子相続が行われ、その後、天乙(てんいつ)(成湯(せいとう)、甲骨文では大乙)が継いだ。これ以前、都を8回移したが、成湯のとき、亳(はく)(河南(かなん/ホーナン)省曹県近くか)に移ったのち、夏(か)の桀王(けつおう)を滅ぼし、武王と号し、天子の位についた。ここに殷王朝が始まる。それ以後もしばしば遷都が行われ、成湯から数えて第18代の盤庚(ばんこう)のときまでに5回移った、とされる。第30代帝辛(ていしん)(紂(ちゅう))のとき、国は大いに乱れ、西方に興った周によって滅ぼされたという。
 このような史書中の伝承が、はたして史実であったか否かについては、長らく不明であったが、1899年、河南省安陽(あんよう/アンヤン)県近くの小屯(しょうとん)という村のわきを流れる河(えんが)が氾濫(はんらん)して堤防が崩れ、そこから、文字を刻した亀甲(きっこう)や獣骨の断片が多数発見された。偶然のきっかけから、これらを入手した劉鉄雲(りゅうてつうん)が、この文字を解読した結果、これらのうちに、前記の文献中の殷の王名が多数、読みとられた。これによって、これらが殷代の遺物であること、また逆に、史書中の記述が架空のものではなく、殷王朝が実在したことが確実になった。その後、甲骨片は同地域で多数発見され、1928~37年の間に中央研究院歴史語言研究所の手によって大規模な発掘が行われ、大量の甲骨片とともに、巨大な王墓や宮殿跡、その他無数の遺物、遺跡が発見されて、ここが『史記』にいういわゆる殷墟(いんきょ)であり、この地が、盤庚から末王帝辛までの都址(とし)であろうと考えられるに至った。20世紀、中国考古学、古代史研究における最大の発見といわれる。史書では、これに先行する夏王朝が存在したとされるが、その実在を証明する遺物、遺跡が未発見であるため、現在、殷王朝が中国史上、確認される最古の王朝である。[松丸道雄]
政治・社会・文化目次を見る
前述の経緯から、殷代社会、文化の解明のための資料は、甲骨文の解読結果と考古学的知見とにほぼ限られる。甲骨文は、殷王室の卜官(ぼくかん)によって、殷王朝の祭祀(さいし)、農耕、天候、外敵の侵攻と征伐、王の行旅、狩猟、疾病等々、万般にわたって、殷人が人間世界に支配力を有すると考えた天帝に、その神意を問いただすために行われた占いの結果を書き刻んだものである。とりわけ祭祀に関する占卜(せんぼく)が多く、これは、殷王室の先王先妣(せんぴ)のいわば祖先神を対象とした場合と、河、岳など自然神を対象とした場合に分けられる。これらを祀(まつ)ることが政治における秩序形成の中核をなしていたという意味で、祭政一致の政治形態をもったといえよう。王都は、甲骨文中で「大邑(たいゆう)」とよばれているが、これを取り巻く氏族邑が多数存在して支配貴族の住地となり、さらにこれら氏族邑には多数の小邑が隷属していたと考えられる。これらの邑相互の累層的支配隷属関係が国家構造の基本であって、これを邑制国家ないし都市国家とよぶ。王都には、すでにある程度の支配官僚層の形成が認められる。
 経済的には農業が中心であったと考えられ、キビ、アワ、大麦などが栽培されたほか、家畜(ウシ、ウマ、ヒツジ、ブタ、イヌ、ニワトリなど)を飼い、また養蚕も行われた。これらのために生産奴隷が使用されたかどうかには、まだ定説がないが、甲骨文中に羌(きょう)とよばれる異族が多数、祭祀の犠牲として用いられており、また発掘される王墓周辺から実際におびただしい殉葬人骨が出土するところからすれば、異族奴隷の広範な存在は否定できない。
 文化的にもっとも特徴的なのは、この時期が中国青銅器文化の最盛期にあたっている点である。考古学的には、殷代全期を、前期・二里頭(にりとう)期、中期・鄭州(ていしゅう)期、後期・安陽期に区分するのが通例である。中国史上の青銅器の萌芽(ほうが)は二里頭期に認められるが、中期には早くも大型の精巧な青銅祭器類が多数制作されるようになり、後期に至ると質量ともに驚嘆すべき青銅祭器、武器などがつくられた。外范(がいはん)分割法によって鋳造された青銅器として、技術的に最高の完成度をみせている。かつ、複雑な文様を付して、世界的にみて古代青銅器文化の粋とされる。
 こういった殷文明の来源については未解明の部分が多い。いわゆる世界六大文明のうち、メソポタミア・エジプト・インダス諸文明、およびメソアメリカ・アンデス両文明が、それぞれ相互に関係していることは認められている。しかし殷文明のみは、これらとの間にどのような関係があったかについては、今後の解明にゆだねなければならない。[松丸道雄]
『貝塚茂樹編『古代殷帝国』(1957・みすず書房) ▽伊藤道治著『古代殷王朝のなぞ』(1967・角川書店) ▽松丸道雄著「殷周国家の構造」(『岩波講座 世界歴史4 古代4』所収・1970・岩波書店)』

紀元前一〇二七年(諸説あり)まで黄河下流域に栄えた中国最古の実在の王朝。王都の名から商とも。伝説上の夏王朝、次の周王朝とともに三代と総称される。→殷墟(いんきょ)

前1600ごろ〜前1028ごろ
実在した中国最古の王朝。みずからは商と称す
『史記』の伝説によると,殷の湯王が夏を討って王朝を開き,悪政で名高い紂 (ちゆう) 王が周の武王に滅ぼされるまで30代続いた。初め都は数度変遷したらしいが,後半,安陽県の殷墟 (いんきよ) (大邑商)に落ちついた。殷墟の発掘による遺跡・遺物および甲骨 (こうこつ) 文字の解読によって,王位相続の方法,宗教的色彩の強い社会,占いによる国事の決定(祭政一致),氏族制,木器・石器・土器とともに青銅器を使用した農業,牧畜・養蚕の生活などがわかった。また王の系統,王権の強大さと奴隷の存在などもほぼ確認されたが,文化の系統などには未解明の点が多い。

【殷周美術】より
中国の殷・周王朝の時代から秦による統一までを扱う。はじめ夏(か)に天下を治める徳があったとき,遠方の国々は物の図を献じ,鼎(てい)を鋳てその図を彫り込んだ(《左氏伝》)という。…
【帝王陵】より

[王墓と帝王陵]
 帝王陵の名に値する墓として,あるいは大規模な葬送儀礼が行われたことを示す墓として,かつて問題にされた墓を列挙してみよう。応神,仁徳に代表される古代天皇陵,殷の大墓,秦漢帝国以降の帝陵,朝鮮三国時代から新羅統一時代にいたる陵墓,西アジアのウルの王墓とウル第3王朝の陵,ペルシア帝国の王陵,ハリカルナッソスのマウソレウム,エジプトのマスタバやピラミッドなどが著名である。これらの墓は2種類に大別することができる。…