毛野国

	27)毛野氏考(上毛野氏/下毛野氏)附:宇都宮氏 	
	

1)はじめに
 毛野(けの、けぬ)氏は、関東北部の毛野国(現在の群馬県栃木県)を本拠地とした古代豪族である。10崇神天皇の第1皇子である豊城入彦(とよきいるひこ)命を元祖とする皇別氏族とされている。歴史上あまり有名な氏族とは言えないが、古代において日本の一番北に当たる関東北部一帯に大勢力をもった氏族である。これより北は蝦夷地であり、未だ当時の大和王権の勢力圏外であった。毛野国は後に上毛野(かみつけぬ)国(現在の群馬県)と下毛野(しもつけぬ)国(現在の栃木県)に分国された。さらに後年(713年)になって上野国(こうずけのくに)・下野国(しもつけのくに)と呼称が変化した。それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏である。
共に「豊城入彦」の末裔である。この両氏を中心とした毛野氏一族は全国に分布していくが、東国六腹朝臣(上毛野・下毛野・佐味・池田・車持・大野氏)が中心である。684年に揃って朝臣姓を賜った。地方豪族としては破格の待遇であった。
 JR東日本に「両毛線」というのがある。栃木県小山駅から群馬県新前橋駅(実質的には高崎駅まで)までの過っての上毛野国と下毛野国を結ぶ鉄道である。ここにも「毛」の字が残っているのである。
 上毛野氏は「赤城神社」を奉斎し、下毛野氏は「二荒山(ふたあらやま)神社」(現:宇都宮市)を奉斎してきたとされている。共に祭神は、「豊城入彦命」である。ところがこの2社とも出雲神である「大己貴命」をも祀っているのである。これが古来色々議論されてきたことである。
下毛野氏の末裔とされる一族が我が町長岡京市に現存する。「調子氏」である。調子氏古文書として多くの貴重な文書が残されている。系図の一部も確認されている。これは毛野氏を論じる上で非常に興味有る史料である。
また同じく下毛野氏の名跡を継いだ可能性があるとされる、有名な武家である「宇都宮氏」についても参考事項として、避けて通れない事項と考える。
上毛野氏関係は、朝廷で武家としての活躍が僅かに残されているが、それ以外では越後居多神社社家「花ケ前(商長)氏」系図が残されているだけである。
よって人物列伝は非常に不十分なものになる。
過っての蝦夷地に接していた地方豪族としての生き様の一端を述べてみたい。
 
2)毛野氏人物列伝
・10崇神天皇
・荒川戸畔
①父:諸説あり 母:不明
②子供:遠津年魚眼眼妙媛・ 中日女(物部大新河室)   別名:荒河戸弁
③男性か女性かよく分からない。古来女酋説強い。
④紀国造説あり。(紀国造系図にはないが、その他の諸系図には載っている)系図諸説あり。紀国在住の非天神系の勢力者という位置づけ。
・遠津年魚眼眼妙媛
 
2-1)豊城入彦(とよきいりびこ)
①父:10崇神天皇 母:遠津年魚眼眼妙媛<荒川戸畔 (異説あり)
②崇神の第1皇子。豊鍬入姫は同母妹。11垂仁天皇は異母弟。子供:八綱田
別名:豊木入日子、豊城命
③上毛野・下毛野君始祖。
④紀:崇神48年夢占いの記事。崇神天皇は後継者を決めるのに豊城入彦・活目入彦兄弟の夢から判断して活目(後の11垂仁天皇)を皇太子に決めた。
⑤紀:崇神48年、「崇神の命により東国へ派遣され、東国を治めしむ」
⑥東国で没したとの説あり。前橋市総社にある二子山古墳が墓か?
毛野国に出雲の神々を祀ったとされる。赤城神社・二荒山神社。
赤城神社の祭神は、大己貴命・田心姫・味鋤高彦根命・事代主命である。主祭神は大物主神ともいわれている。
 
・豊鍬入姫
①父:10崇神天皇 母:遠津年魚眼眼妙媛
②豊城入彦の同母妹。
③初代斎宮
 
2-2)八綱田(やつなだ)
①父:豊城入彦 母:不明
②子供:彦狭島
③紀(垂仁5):狭穂彦を討つ。その功により「倭日向武日向彦八綱田」の名を賜る。
④東国に行ったかは不明。前橋市総社の愛宕山古墳が墓か。
 
2-3)彦狭島
①父:八綱田 母:不明
②子供:御諸別  夏花命
③紀(景行55年):東山道15カ国の都督に拝する。春日の穴咋邑に到り病に臥して死ぬ。東国の百姓王の屍を上毛野国に葬る。高崎市石原の三島塚古墳が墓か。
④崇神朝初代上毛野国
 
2-4)御諸別
①父:彦狭島 母:不明
②子供:大荒田別  鹿我別(浮田国造:磐城国相馬)巫別(かむなきわけ)
別名:弥母里別
③紀(景行56年):天皇は、汝の父彦狭島王、任する所に向かい得ず、早く葬る。故に汝が東国を領めよ。蝦夷の首師、足振辺、大羽振辺など来たりてその地を献ずる。
 
2-5)大荒田別
①父:御諸別 母:不明
②子供:韓矢田部現古  上毛野竹葉瀬  下毛野田道
③紀(神功49):新羅を討つ。
③紀(応神15):上毛野君祖荒田別・巫別を百済に遣わし、西文氏の始祖「王仁」を徴す。
 
・韓矢田部現古
①父:大荒田別 母:不明
②子供:武額・若多気姫(下毛野奈良別妻)
③神功代の人物。車持朝臣氏祖。
 
・車持射狭
①父:韓矢田部布禰古
②兄弟:迦波
③雄略朝、車持姓を賜る。
④この流れから藤原不比等の母とされる車持国子娘与志古が出たという説あり。
⑤車持君は上毛野国が出自。真壁郡辺りか。 車評(くるまこうり)から群馬郡。
 
<上毛野氏>
2-6-1)上毛野竹葉瀬(たきはせ)
①父:荒田別 母:不明
②子供:島名 別名:多奇波世命
③紀(仁徳53):新羅に派遣された。
④蝦夷征伐。
 
2-6-2)島名
2-6-3)腹赤
子供:努賀(皇別田辺史氏祖)
・新撰姓氏録に皇別田辺史氏発生の云われについて雄略朝の記事あり。
・この流れに田辺史難波が出る。

・田辺史難波
750年上毛野君姓を賜った。従五位上。出羽守。皇別田辺氏。大野東人と蝦夷征伐。
渡来人系であるはずの田辺史氏が何故上毛野氏の姓が与えられたかは謎である。
上毛野腹赤ー努賀ー百尊ー徳尊ー斯羅の流れが皇極朝に田辺姓を名乗った。どこかの
段階で渡来人系の田辺史氏が上毛野氏と婚姻関係により同一視されるようになったものとも言われている。この田辺氏は蕃別氏族ではなく、皇別氏族となっている。
 
2-6-4)宿奈
2-6-5)多遅麻
 
・島守
①父:多遅麻 母:不明
②子供:不明
③この累孫が赤城神社社家「奈良原・真隅田氏」となった。
 
2-6-6)首名
2-6-7)石成
2-6-8)久比麿
2-6-9)商長宗麿
ーーー
 
・盛香
居多神社社務初代。
52嵯峨天皇時代の人

・盛憲ーーー商長・花ケ前氏など
 
・上毛野君小熊
①父:不明 母:不明
②子供:不明
③紀(安閑):535年武藏国造の乱発生。これに上毛野君小熊が登場する。
④安閑朝に上野総社の社殿を改築したとある。
⑤上毛野氏の中で「君」姓最初の人物か。
 
 
・上毛野君形名
①父:不明 母:不明
②別名:方名
③637年蝦夷が叛乱を起こす。朝廷は形名を蝦夷征討軍の将軍に任じる。鎮圧。
 
・上毛野君稚子
①父:不明 母:不明
②子供:不明
③663年白村江の戦いに「前軍の将軍上毛野稚子、中軍の将軍巨勢訳語、後軍の将軍
安倍比羅夫ら3軍の兵27,000を率いて新羅を討つ」の紀記事あり。
 
・上毛野君三千(?-681)
①父:不明 母:不明
②子供:不明
③681年頃歴史編纂の仕事についた。川島皇子らと帝紀及び上古の諸事を記し定めた。
④従四位相当の地位。
 
・上毛野朝臣安麻呂
和銅元年(708年)記事。上総守。陸奥守。正五位下。
 
・上毛野朝臣堅身
713年美作国初代国守。従五位下(続紀)
 
・上毛野君大川
遣唐使
757年より770年頃にかけて国史編纂(続日本紀)に従事。従五位下。
 
・上毛野頴人
815年「新撰姓氏録」編纂者の一人。
 
<下毛野氏>
2-6-1)下毛野田道
①父:荒田別 母:不明
②子供:奈良別
③紀仁徳53・55:天皇の命で新羅征伐をした。帰国後東北反乱平定に行き「伊寺の水門」で戦死。
秋田県鹿角郡猿賀神社に「田道将軍戦没の地」の墓あり。
④蛇穴山古墳。
 
2-6-2)奈良別
①父:下毛野田道 母:不明
②妻:韓矢田部現古娘若多気姫 子供:不明
③仁徳朝初代下毛野国
④仁徳41年下毛野国河内郡荒尾崎に二荒山神社を創建し、始祖「豊城入彦命」を祭神として祀ったとされる。この時には既に豊城入彦によって大物主神が祀られていたとも伝えられている。(社伝)
ーーー
・尼古太
・大野若子(大野朝臣氏祖)
 
・大野君果安
①父:不明 母:不明
②子供:東人
③672年壬申の乱時大友皇子側の将につく。大伴吹負軍を破った。
④飛鳥朝廷の糺職大夫(従五位か)。
 
・大野君東人(?-742)
①父:果安 母:不明
②娘:仲智(藤原永手室)(?-781)別名:仲仟 正三位尚侍兼尚蔵。
③724年多賀城構築。
④729年陸奥鎮守将軍730年従四位上
⑤737年蝦夷地陸奥国から出羽柵への道を開く。
⑥739年参議。
⑦740年藤原広嗣の乱で持節大将軍。17,000の軍動かす。広嗣を討つ。
⑧741年従三位。
 
・下毛野菅子
・和気
・甕依
・久志麻呂
 
・古麿(?-709)
①父:久志麻呂 母:不明
②子供:不明
③701年大宝律令制定の編纂者の一人。
④702年参議。正四位下。兵部卿、式部卿。
⑤本拠地:下野国河内郡。
⑥下野薬師寺(官寺)を天武ー持統朝に創建。
 
・下毛野石代
701年記事。下毛野川内朝臣
715年従五位下、持節征夷副将軍。
 
3)下毛野氏流調子氏人物列伝
本項は長岡京市史・同資料集を参考にした。
3-1)下毛野敦実
 
3-2)敦行(あつゆき)
①父:敦実 母:不明
②子供:重行
③右京に家宅を有し妻子を住居させていた。(今昔物語)
④9世紀後半下毛野氏の近衛官人としての地位を確立した人物。
 
3-3)重行
①父:敦行  母:不明
②子供:公助・公友・公忠
 
・公時
①父:公友 母:不明
②子供:不明
③藤原道長・頼通の隋臣。
④後世源頼光四天王の一人「坂田金時」のモデル。
 
3-4)公忠
①父:重行 母:不明
②子供:公武
③藤原頼通の随臣。
④右京獄所の隣に居住。(小右記治安元年記事)
 
3-5)公武
①父:公忠 母:不明
②子供:敦季
 
3-6)敦季(あつすえ)
①父:公武 母:不明
②子供:近季・武忠・敦利
③11世紀末白河院政期以降下毛野氏は飛躍する。
④敦季・近季父子は白河院の隋臣。院召次・雑色長。
12世紀後半になるとこれらの職は秦氏に独占される。
 
・近季(ちかすえ)
 
・敦利
鳥羽院随臣・召次長
 
・敦方
鳥羽院随臣
 
・敦忠
 
・忠武
鷹飼職相伝。
 
・朝利
鷹飼職相伝。
能武を養子とする。この流れが鷹飼を嗣ぐ(調子家文書)
 
3-7)武忠(たけただ)
①父:敦季 母:不明
②子供:武正 
③この流れは、摂関家の随臣になる者多し。
④藤原帥実・帥通の随臣
 
3-8)武正(たけまさ)
①父:武忠 母:不明
②子供:諸武・武成・武安
③藤原忠実・忠通の随臣。
④藤原頼長の雑色長(護衛の任)
⑤忠通より山崎の地拝領の話。(今昔物語)
「下野武正山崎を領地の事並びに競馬に負けて酒肴を供する事」
下毛野武正は、摂政関白を勤めた藤原忠通の天王寺詣でに供奉し山崎で落馬した。その後
また大山崎を通った時忠通が「ここか武正が所は」と言った。武正は「さん候う」とこたへ、即刻これを領地してしまった。この地には本来の領主がいたが、摂関家の忠通の発言をたてにとった武正の横車に対抗できず、「其所今に武正が子孫に相伝したりとぞ」ということになってしまった。この落馬の場所が調子八角にある馬乗池(馬の池)ということになっている。
 
・武守
近衛基通の随臣(元暦元年記事)。調子荘を寄進。(鎌倉遺文)

・武茂(用)
調子荘領有。1235-1238年頃。

・下毛野武秋
1264年記事:調子荘相伝。近衛家領摂津草刈散所・淀右方散所・近江穴太荘など管理。
 
・武友

・調子武春
別名:才市。
1430年記事。将軍家からの所領安堵。
 
3-9)諸武
①父:武正 母:不明
②子供:久武
3-10)久武
①父:諸武 母:不明
②子供:能武
3-11)能武
①父:久武 母:不明
②子供:祐武
③鷹飼職相伝。朝利の養子。
 
3-12)祐武
①父:能武 母:不明
②子供:武貞
 
3-13)武貞
①父:祐武 母:不明
②子供:武次・武世
③鷹飼職相伝。
 
3-14)下毛野(調子)武次
①父:武貞 母:不明
②子供:武音
③武秋流かもしれない。
④鷹飼職相伝。
 
3-15)調子武音
①父:武次 母:不明
②子供:武遠
③1383-1398活躍記事あり。
④1394年伯耆権守。
⑤近衛家と足利将軍ともに臣従。
⑥武次と武音の間に数代いたとされる。
 
3-16)調子武遠
①父:武音 母:不明
②子供:武俊
③調子家系譜は、下毛野氏系図の大半を引き写し、それに武遠以下の調子氏の系譜を付け加えたものである。とされる。
 
3-17)調子武俊
①父:武遠 母:不明
②子供:武春
③1410年譲り状。
 
3-18)調子武春
①父:武俊 母:不明
②子供:武経
③1473年足利義政に重用された記事。
 
3-19)武経
①父:武春 母:不明
②子供:武吉
③1487年記事。
 
3-20)武吉
①父:武経 母:不明
②子供:武直・武俊
③1533年記事。1554年記事
 
・武俊(1564-?)
 
3-21)調子武直
①父:武吉 母:不明
②子供:続く。
③1585年伯耆守。5位であろう。
④江戸時代以降も朱印状により調子氏は所領安堵され幕末まで続いた。
 
4)(参考)宇都宮氏人物列伝
本項は、HP,「http://ja.wikipedia.org/wiki/宇都宮氏」に詳しい一連の記事が掲載されているのでそれを参考にさせて頂いた。その上にさらに諸情報(太田亮著「姓氏家系大辞典」など)も参考にし、訂正追加して作成したものである。
・藤原兼家(929-990)
一条天皇摂政・関白・太政大臣
 
・道兼(961-995)
995年関白、粟田殿
 
・兼隆(985-1053)
中納言
 
・兼房(1001-1069)
①父:兼隆 母:源扶義女
②子供:兼仲・静範・円範・宗円
③正四位下、讃岐守
 
4-1)宗円(1043-1112)
①父:兼房?兼仲説 母:源高雅女
②子供:宇都宮宗綱
③元々近江国石山寺の座主であった。前九年の役の時源頼義・源義家に与し、宇都宮に下り宇都宮の二荒山神社で賊徒平定を祈った。その功により初めて宇都宮社務となり、既存の神主らの上位についた。下野国守護職・下野国一宮別当職・宇都宮座主。
④宗円は毛野氏・中原氏と藤原摂関家との間での落胤との説あり。
⑤宇都宮城を築城したとも言われている。
 
4-2)宇都宮宗綱(1083-1159)
①父:藤原宗円?藤原兼仲説、藤原顕綱説 母:益子権守紀正隆女
②子供:朝綱、八田知家?、寒河尼(小山政光妻)別名:八田宗綱、中原宗綱
③宇都宮氏2代当主。血縁関係が不明な部分多い。
④宇都宮二荒山神社社務と日光山別当兼務。
 
・寒河尼(1138-1228)
源頼朝の乳母。
小山政光妻:子供:小山朝政・結城朝光(鎌倉幕府の重要人物)
源頼朝には数人の乳母がいた。寒河尼の他に比企尼・三善康信叔母などが知られている。
 
4-3)朝綱(1122-1204)
①父:宗綱 母:常陸大掾平棟幹女
②子供:成綱
③京都で平清盛に仕えた。源頼朝挙兵により、これに従った。
伊賀国壬生郷地頭。3代当主
④頼朝の御家人となり、宇都宮検校と称し、日光二荒山神社の別当も兼帯した。
⑤1189年奥州藤原氏討伐参加。その後公田横領の罪により土佐に流罪。
 
4-4)成綱(1156-1192)
①父:朝綱 母:梶原景時女 醍醐局?
②妻:新院蔵人平長盛女 子供:頼綱・塩谷朝業  別名:業綱 藤原成綱
③4代当主。
 
4-5)頼綱(1172-1259)
①父:成綱 母:新院蔵人平長盛女
②妻:北条時政女 側室:梶原景時女・稲毛重成女
子供:泰綱・女(中院通成室)・女(藤原為家室・三条実房側室)
時綱・頼業・秋本泰業・女(三条実房側室)
③最初小山政光の猶子となる。  5代当主。
④1189年の奥州藤原氏討伐に参加。1194年祖父の公田横領事件に連座土佐へ配流。
⑤1205年畠山重忠の乱では北条側についた。しかし、謀反の疑いがかけられ、実信房蓮生と名乗り出家。
この出家には長岡京市にある西山浄土宗総本山「光明寺」の開祖である鎌倉武士「熊谷次郎直実」(法力房蓮生)が関与しているとされている。証空を紹介したのも直実だとされている。
⑥法然の弟子「証空」(内大臣「久我通親の猶子」)に師事。その経済的パトロンとなった。1214年に罪を許される。園城寺修復。なお証空は「西山国師」とも呼ばれ浄土宗西山派の開祖となり上記光明寺の4代目住職にもなった僧である。
⑦1221年承久の乱では鎌倉側につき、伊予国守護となる。
⑧藤原定家との親交あり。娘を定家の嫡男為家に嫁がせ、公家中院家・三条家にも嫁がせた。別荘を京都小倉山に造り、京都の公家社会との交流も深かった。これ以降宇都宮氏当主は歌人となる人物も多数出る。
 
4-6)泰綱1203-1261)
①父:頼綱 母:北条時政女
②妻:名越朝時女 側室:北条時房女
子供:景綱・経綱・女(小山時長室)・女(北条経時室)
③1238年将軍九条頼経に仕えた。下野守・美濃守護・評定衆歴任。第6代当主。
④京都で死去。
 
4-7)景綱(1235-1298)
①父:泰綱 母:名越朝時女 
②妻:安達義景女 子供:貞綱・武持泰宗・伊予宇都宮宗泰
③1252年宗尊親王の家臣となり、重用される。第7代当主。
④下野守。引付衆・評定衆として幕政に参画。
 
4-8)貞綱(1266-1316)
①父:景綱 母:安達義景女
②妻:北条長時女 子供:公綱
③1281年弘安の役で北条時宗の命で九州に出陣。引付衆になる。
④1305年反乱を起こした北条宗方を貞時の命で誅殺。
⑤下野守・三河守。第8代当主。
 
4-9)公綱(1302-1356)
①父:貞綱 母:北条長時女
②妻:千葉宗胤女 子供:氏綱
③第9代当主
④1333年元弘の乱で北条高時の命で上洛。官軍の楠木正成と戦った。
⑤その後後醍醐天皇・足利尊氏の間を行ったり来たりするが、最終的には関東の南朝側勢力の中心人物となるが、晩年は不遇。
 
4-10)氏綱(1326-1370)
①父:公綱 母:千葉宗胤女
②妻:足利高経女 子供:基綱
③第10代当主
④父が南朝方についたのに反し、足利尊氏についた。1352年越後・上野の守護となった。鎌倉公方足利基氏に仕えた。
⑤1362年基氏の怒りを受け、守護職を解任された。
⑥1368年基氏死後、反乱を起こす。足利氏満に追討され降伏。
 
4-11)基綱(1350-1380)
①父:氏綱 母: 足利高経女
②妻:細川頼元女 子供:満綱
③第11代当主。下野守
④ 1380年下野国守護は小山氏であった。小山義政の時幕府に謀反の疑いで鎌倉公方足利氏満から基綱にこれを討伐せよとの命が下りた。これに敗れ戦死。      
 
4-12)満綱(1377-1407)
①父:基綱 母:細川頼元女
②妻:不明 子供:女(武持持綱室)
③第12代当主。
④1380年の小山義政の乱の後、下野国守護は、結城氏になった。
⑤男子無く、娘婿武持持綱を養子とする。
 
4-13)持綱(1396-1423)
①父:武持綱家 母:
②妻:宇都宮満綱女 子供:等綱・女(芳賀成高室)
③第13代当主。常陸介。
④上杉禅秀の乱により上総国守護・京都扶持衆となる。
⑤鎌倉公方足利利持に警戒され、小栗満重の反乱に加担したとして討伐を受け1423年
塩谷教綱により殺害された。
 
4-14)等綱(1420-1460)
①父:持綱 母:宇都宮満綱女
②妻:小山時政女 子供:明綱
③第14代当主。下野守。
④父の横死により諸国流浪。
⑤鎌倉公方足利成氏との確執が続き、古河公方になった成氏により宇都宮城を追放され出家。

4-15)明綱(1440-1463)
①父:等綱 母:小山時政女
②妻:不明 子供:なし。養子:芳賀成高息子正綱(叔母の子供)
③第15代当主。下野守。
④足利成氏に与した。
 
4-16)正綱(1447-1477)
①父:芳賀成高 母:宇都宮持綱女
②妻:山内房顕女 子供:成綱・興綱・塩谷孝綱・武持兼綱
③最初は武持家を継いでいた。本家に子供がなかったので第16代当主として宇都宮氏を嗣いだ。  下野守。
④古河公方足利成氏と関東管領上杉氏の対立。正綱は成氏方について戦ったが1477年上野で戦死。
 
・成綱(1468-1517)
①父:正綱 母:山内房顕女
②妻:不明 子供:宇都宮忠綱・女(足利高基室)・女(結城政朝室)
③第17代当主。
④下野宇都宮氏中興の人物と言われたが、一族内の争いを起こす。
 
・忠綱(1496-1527)
①父:成綱 母:不明
②妻:不明 子供:不明
③第18代当主。
④叔父芳賀興綱の策謀により宇都宮城を奪取され没落。鹿沼城の壬生綱房を頼ったが、没。
 
4-17)興綱(1475-1436)
①父:正綱 母:山内房顕女
②妻:小田成治女 子供:尚綱
③第19代当主。
④最初は父の実家である芳賀氏を嗣いでいた。芳賀氏をまとめられなかった。
⑤甥であり本家の当主忠綱を追放。自分が第19代当主になった。ところが家臣の芳賀
高経と対立、隠居させられた。その後自害。
 
4-18)尚綱(1512-1549)
①父:興綱 母:小田成治女
②妻:結城政勝女 子供:広綱
③芳賀高経を討って第20代当主になる。
④1549年那須高資に敗れ戦死。
 
4-19)広綱(1543-1580)
①父:尚綱 母:結城政勝女
②妻:佐竹義昭女 子供:国綱・結城朝勝・芳賀高武
③第21代当主。
④父の戦死の時7才。家臣芳賀高定に護られ宇都宮城を落ち延びる。
⑤1551年父の仇である那須高資を殺害。
⑥宇都宮城を占拠していた家臣壬生綱房が急死。1557年宇都宮城は広綱の手に戻った。
⑦佐竹氏らと同盟を結び独立を守った。病死。
 
4-20)国綱(1568-1608)
①父:広綱 母:佐竹義昭女
②妻:太田氏資女 子供:
③第22代当主。
④佐竹氏・結城氏・豊臣秀吉と手を結び後北条氏の侵攻を食い止めた。
⑤1590年秀吉の小田原攻めに参戦。文禄の役にも参加。
⑥1597年秀吉の命で改易。諸国流浪。1608年浅草で病死。
⑦息子義綱は成人後水戸藩家臣となった。
 
5)毛野氏関連系図
・毛野氏元祖関連系図
諸々の公知系図を組み合わせた筆者創作系図である。
・(参考系図)1)天野祝氏系図2)大丹生・丹生氏系図
1)2)系図を参考に荒河戸畔の出自系図を示した。
・下毛野氏系図(調子氏系図)
長岡京市史記載の系図。
・参考系図)宇都宮氏嫡流関連系図
公知系図を組み合わせて筆者創作系図とした。
・宇都宮頼綱周辺系図
公知系図を組み合わせて筆者創作系図とした。

	
	
	
	
	

6)毛野氏(上毛野氏・下毛野氏)系図解説・論考 附:宇都宮氏
 関西に住む者にとって、関東北部、群馬県栃木県は非常に縁の薄い地域である。本稿の中心豪族である毛野(けの・けぬ)氏の本拠地は、過って、現在でいう群馬県栃木県両県全域が一つの国「毛野国」と呼ばれていた大国であって、これを支配していたのである。
「毛野氏」という呼称は余り一般的ではない。「新撰姓氏録」には豊城入彦命を元祖とする氏族が37氏挙げられている。筆者は、この総称を毛野氏と呼ぶことにする。
その代表的な氏族が上毛野氏・下毛野氏であると言える。但し他の多くの古代豪族と異なり首長氏族が例えば上毛野氏であると考えるのは疑義があるらしい。
 
はじめに地理的なものなどを説明しておきたい。
毛野国は、大和王権が誕生した頃(4世紀初頃)の呼称で、王権勢力が及んだ北の端の国である(4世紀に大和王権の勢力がここまで及んだことにも疑義あるとされている)。これより北は、蝦夷地であり未だその支配権は及んでいなかったのである。
隣には越国・科野国・武藏国・常陸国がある海の無い内陸国であった。
「毛」の意味は、大和王権からみて「毛人(えみし・えびす)」(アイヌ人とは必ずしも同義語ではない)が住む土地という意味があったとする説が主流。それ以外にもこの地に最初に来た弥生人(当時としての文化人)が紀の国にいた出雲神を信奉する氏族が中心だったので、「紀」が訛って「け」になった。現在鬼怒川と言われている毛野国の中心的川も元は「毛野川」と呼ばれており、これも「紀ノ川」からとられた呼称である。という説もある。武藏国との境界は利根川である。武藏国は既稿「出雲氏考」で述べたように出雲臣氏の累孫が国造となっている。
先代旧事本紀の「国造本紀」によると、仁徳朝に渡良瀬川を境として、上毛野国(かみつけぬ、現:群馬県)・下毛野国(しもつけぬ、現:栃木県)の二国に分けられた、とある。
これがさらに大化の改新後下毛野国の北隣にあった小国「那須国」が下毛野国那須郡として併合され、713年の「畿内七道諸国郡郷名は二字の好字にせよ」との詔勅により、上野(こうずけ)国(上州じょうしゅう)、下野(しもつけ)国(野州やしゅう)と呼称するようになった。下毛国では意味がよろしくないということで「毛」の字は外されたが呼称はそのまま残ったとされる。
 
さて、この毛野国から始まる大和王権最北端の地に10崇神天皇の長男「豊城入彦命」が天皇の命によってこの地を治めよ(崇神紀48年)とされたことから、この地の記紀の記述が始まっている(毛野氏元祖関連系図参照)。11垂仁天皇との大和御諸山(三輪山)での夢占いにより、異母弟は天皇になり兄は未開の地蝦夷との境界の地への派遣が決まったとされている。これが古代豪族「上毛野氏・下毛野氏」らの元祖である。
さて、この「豊城入彦命」の母親の出自が紀国造「荒川戸畔」と古事記には記されている。
この人物は古来色々物議をかもしている人物である。古代史のプロの学者は余り問題にしないがアマチュア古代史ファンの間では、人気のある謎の人物である(参考系図も参照)。
紀氏関係の古系図に登場するものと全く登場しないものとがある。登場する場合でも嫡流として登場するものと非嫡流としてのものがある。筆者の参考系図は非嫡流の例である。
例えば「紀伊続風土記」では、天道根ー比古麻ー智名曽ー蔭佐奈朝ー荒河戸畔ー大名草比古ー菟道彦ー紀直豊耳ーーーとなっており紀国造氏嫡流である。これ以外にも色々ある。しかも男性なのか女性なのかもはっきりしない。女酋説も強くある。神武東征記事に登場する「名草戸畔」も女酋だとされているらしい。筆者系図は女性として表した。
とにかく、紀国造氏に関係する女腹の子供が「豊城入彦命」なのである。しかもこの紀国造氏は、元来出雲神を奉祭してきたのであるとされている。勿論正式には紀国造氏は、天照大神を祀る氏族とされている天神系の氏族となっている。非常にややこしいのである。元々紀国には出雲神を奉祭する弥生人が住んでいた。そこへ天神系の弥生人が侵攻してきた。そして婚姻関係などで元々の弥生人紀国造氏の名跡が天神系の弥生人に引き継がれた。しかし、一部は昔のままの紀国造氏系の氏族が残っていた。荒川戸畔はその一人であろう。と言う説がある。よってこの血脈を引く毛野氏は出雲神を毛野国で祀った。と考えるのである。(一説では、これが記紀に記されている国譲り神話に関係しているとされている)
伝承上の話であるが、「豊城入彦命」は毛野国で出雲神である「大物主・大己貴神」を祀ったとされている。上毛野国の赤城神社・下毛野国の二荒山神社共に祭神として「大物主・大己貴神」を祀ってあるとされている。勿論この2社は祖先神として「豊城入彦命」を祀っている。両社とも毛野氏の氏神神社である。
 
毛野氏系図は日本書紀に記されている。
2代八綱田は、東国に実際に行ったかどうかは不明である。
3代彦狭島の時、初代上毛野国造となったとされているが、崇神紀に記されているのが解せない。上毛野国・下毛野国に分かれるのは仁徳朝頃とされているからである(国造本紀)。毛野国造なら理解出来る。景行55年紀に屍を上毛野国に葬るとある。
4代上毛野御諸別は、景行56年東国に行ったようである。
5代上毛野荒田別は、応神15年に百済に遣わされ「王仁」などを連れてきたとある。
6代上毛野竹葉瀬は、仁徳53年に新羅に派遣されている。
6代竹葉瀬弟田道は、兄と同じく新羅に派遣され、帰国後仁徳55年に蝦夷征伐に出陣し戦死。
7代下毛野奈良別は、仁徳朝に初代下毛野国造となった。仁徳41年に二荒神社創建、始祖として「豊城入彦命」を祀ったと社伝ではいわれている。この時既に「豊城入彦命」によって大物主が祀られてあったとされている。
以上の「紀」の記述から見れば、明らかに上毛野・下毛野国造が分かれた形で記されたのは仁徳朝からであるが、崇神朝に既に上毛野国造の記事があることから見れば、毛野国がどの時点で上下に分かれたかについては、判然としないのである。
 
以上が史実かどうかは未だ謎である。10崇神天皇の時代とされる四道将軍派遣の記事、12景行天皇の時代とされる「倭武尊」伝承記事などと同様に、未だ大和王権が列島支配不十分な時代の覇権拡大の物語の一部である、という見方が主流。
また穿った見方としては、記紀編纂時、「上毛野君三千」という人物がその編纂の任務についており、この人物が毛野氏の祖先をここにはめ込んだのである。実際は毛野氏が皇別氏族かどうかは甚だ怪しい。実態としては、大和王権には入れなかった出雲神を信奉する弥生人の一部が、関東の地に入り既存の未開人と衝突・融和を繰り返し、ある一定の勢力を持ち、徐々に大和王権に近づき、ある一定の役割・地位も与えられてきた。そして、大和王権の蝦夷地への勢力拡大の動きにも協力姿勢で臨み、一定の成果を挙げた。このことが大和王権サイドの記憶にも残されており、6世紀ー8世紀の帝紀編纂の時、天皇家出身の者の力により毛野国開拓が行われたという物語になったのである。という説もある。
 
毛野氏系図で荒田別の子供として「韓矢田現古」という人物がいる。神功皇后時代の人物とされているが、これの娘「若多気姫」が下毛野奈良別の妻となっている。この辺りになると毛野国に一族の多くがいたことが推定される。韓矢田現古の流れから車持君氏が派生する。群馬の元の名は「車」だったと言われている。「車持射狭」は9世孫であるが雄略朝に車持の姓を与えられたとされている。この末裔だと推定される「車持君国子」という人物の娘が藤原不比等の母とされる「与志古姫」である。

毛野氏は天武朝「八色の姓」制度で「東国6腹朝臣」と言われる特別な扱いを一族揃って受けた。理由は判然としないが毛野一族の内、上毛野氏・下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏が破格とも思われる「朝臣」の姓が与えられたのである。これが前述の上毛野氏が毛野氏の首長であるという考えは疑問で少なくともこの六氏は、同格の扱いであるとされる由縁である。
いずれも毛野国に存在した地名に由来する名前である。毛野一族は、中央の朝廷で活躍する者と地元で上毛野国・下毛野国にいる者と2分されていたように思える。
毛野氏の大多数は、朝廷の蝦夷対策に代々貢献してきたものと考える。その中で中央で活躍してきた者もあれば、毛野国中心に活躍した者がいたのであろう。
中央で活躍した者の記録は記紀などに残されたが、毛野国中心の人物の記録は残されなかったと考えるべきではなかろうか。
また、毛野氏の派生氏族の分布を見ると、東国に本拠を持つ前述の東国6腹朝臣氏以外に和泉・河内・紀国辺りに本拠を有する氏族(例:田辺史・珍県主・我孫公など)に分かれている。
このことが前述の日本書紀の豊城入彦系図の2代ー7代までに記されている東北に行った人物・朝鮮半島で活躍した人物・東北には行かなかったと思われる人物の各後裔と関係しているのであろうか。記紀記事で活躍が記録されている人物は、初期段階を除けば東国に本拠を有する毛野氏が中心と判断した。
 余談であるが、26継体天皇の時527年ー730年頃「近江毛野臣」なる人物が九州・朝鮮半島などで活躍する記事があるが、この人物は毛野氏とは関係なさそうである。
 
上毛野氏・下毛野氏共に最初は「君姓」であった。その記録上の最初の人物が535年に記事がある「上毛野君小熊」である。とされている。
一般的に「君姓」氏族は、9開化天皇以降の皇別氏族が多いとされている。但し大三輪君のような例外もある。元々「別(わけ)姓」から「君姓」になったものも多数ある。684年の「八色の姓」制度で朝臣姓になった氏族も多い。759年以降「君姓」は「公姓」に替わった。
君・公姓について一般的なことを解説する。
①天皇家から分かれた地方有力豪族に付けられた姓。
②9開化天皇以降の天皇家を祖先と称する氏族。
③大和王権に完全に組込められていない地方の大豪族。
④国津神系地方豪族。
⑤八色の姓制度後、真人・朝臣の姓が与えられた。
例:三輪君・賀茂君・筑紫君・上毛野君・犬上公
朝臣姓について
①684年の八色の姓制度で従来の「臣」「連」の上位、「真人」に次ぐ姓として設けられた。皇族以外では事実上最高の姓である。
②当初52氏しかこの姓は授けられなかった。
③朝臣姓の下位に宿禰姓が設けられた。
④朝臣は壬申の乱で功績のあった主に臣姓氏族がなった。
⑤しかし、この姓はその後乱発され、その価値が著しく低下したともいわれている。
 
上述したように、上毛野氏・下毛野氏らは、当初「君」または「公」姓であった。その内6氏が684年に朝臣姓を賜った。最初の朝臣姓52氏の中の6氏が民間としては最高位に付いたのであるから驚きである。天皇家・朝廷に対し余程の貢献がなければ考えられないことである。
ちなみにその時朝臣姓を授かった氏族を挙げれば次のような氏族である。
大三輪君・大春日臣・阿倍臣・膳臣・巨勢臣・紀臣・物部臣・中臣連・胸方君・下道臣など。
下位の宿禰姓を賜ったのは大伴連・佐伯連・忌部連・尾張連・土師連などであった。
この時代は未だ藤原氏は台頭していないことを考慮に入れると、この毛野氏の「東国六腹朝臣」がいかに凄いものであったかが窺える。現在の感覚では想像を遙かに越えた地位を獲得していたのである。古代豪族の蒼々たる氏族が並んでいる。
毛野氏は元祖部分の人物を除けば、系図が不明な人物が多い。記紀及び続日本紀に記事が出てくる人物は、かなりいる。しかも五位の位についた人物も散見される。但し、系図は不明である。筆者の調査で系図まで分かる人物は、「下毛野古麻呂」だけである。この人物は709年に没しているが701年の大宝律令編纂に関与し、正四位下、参議にまでなった人物である。下毛野国河内郡に本拠地を持ち、有名な「道鏡」が流されたとされる、「下野薬師寺」を創建した人物とされている。
さらに、詳しい系図は不明であるが 下毛野氏系の人物として、「大野東人」がいる。
これは教科書にも出てくる人物である。最終的には参議従三位という公卿にもなった。記録上、毛野氏の中での出世頭であろう。蝦夷征伐で活躍し、724年「多賀城」を構築したとされている。父親の時からの軍人一族である。系譜は全く残されていない。
 
大野東人に関連して、「田辺史難波」のことを述べておきたい。東人らと共に蝦夷征伐に活躍し東人の申し出でにより田辺史姓より750年上毛野君姓を賜った。従五位上。出羽守。とされている。一般的には「史姓」を有する氏族は概ね文筆に従事する渡来系といわれる氏族である。田辺史氏は西漢氏系に属する百済系渡来氏族である。これが何故皇別氏族である上毛野君姓を賜ったのか、古来議論されてきた。一般的には上毛野氏の系図に田辺史氏が婚姻か何かの関係で入り込んだのだとされている。
ところが筆者系図に示したように、上毛野竹葉瀬の流れから田辺氏が輩出されている。日本書紀の記事、新撰姓氏録でもこの系図にある「斯羅」が皇極朝(642-645)に田辺史姓を与えられているのである。「史」は文書を解する氏族に与えられた姓なので渡来系だけでなく与えられたものとも思われる。この流れに東人と同時代の田辺史難波がおり、この人物は元々上毛野氏の出なので、上毛野姓に復姓したと考えれば、特に渡来人系とは無関係であり、皇別氏族の姓が与えられても不思議ではない。
一方藤原不比等は田辺史大隈に養育されたとある。この田辺史氏は明らかに百済系渡来人とされている。これと上毛野君姓になった田辺史氏は関係あるのかないのか。筆者には分からない。
太田亮の姓氏大辞典にも色々な出自の田辺史氏があることは記されている。
但し太田氏は一部田辺史氏だけでなく総ての河内田辺史氏が上毛野姓を賜ったと解している。田辺史氏は漢系百済系渡来人とされており、田辺史難波のように上毛野氏との婚姻関係主従関係などがあり、これにより上毛野氏系図に入り込んだとしている。
一説では、前述の6代上毛野竹葉瀬らが仁徳朝に百済に派遣された時、その血族の一部が百済に残り後年日本に渡来(帰国)して河内国辺りに本拠を置き、これが皇極朝に田辺史姓を賜り、この流れが後に上毛野氏に復姓したのであるという。
ところで、山背国乙訓郡にも実は上毛野系田辺史氏が居住していた痕跡が残されている。更の町(ふけのまち)遺跡に田辺郷記載の木簡が見つかった。少なくとも奈良時代には乙訓郡に田辺郷なる地名があった。田辺史氏の寺だったとされる「鞆岡廃寺」が現長岡京市友岡にあった。ここでは「田辺史牟也毛」と記された線刻瓦がみつかっている。この瓦は乙訓地方最古の瓦とされている。素弁蓮華文軒丸瓦で7世紀前半のものとされている。
このことより「鞆岡廃寺」は、白鳳時代の寺院であり、皇極朝に「斯羅」なる人物が田辺史姓を賜り本拠地を大阪府柏原市田辺においた一族の一部がこの長岡京市にいたことの証拠とされている。
この寺は平安時代頃までは存在していたらしいが、詳しいことは分からない。とされている。長岡京市史には以上のように記されているが、この田辺史氏が上毛野氏であるとどうして認定したのかは、不明である。上記太田説に従えば、田辺史氏は総て上毛野氏だが。
 
毛野氏として公的記録に残されている最後の人物としては「上毛野頴人」が挙げられる。この人物は815年「新撰姓氏録」編纂者の一人として活躍が記されている。恐らくこの人物が古代豪族毛野氏のことを「新撰姓氏録」に書き残す役割を演じたのであろう。これ以降平安時代では毛野氏関係の記録はなくなる。中央での地位も著しく低下したとも云われている。他の古代豪族と同様に藤原氏の影に埋没したと考えるべきか。
記紀などに記事が残されている人物は何人かいるが、特記すべき人物はいない。(人物列伝を参照)ここでは省略する。
 
ここで赤城神社および二荒山神社について概説しておこう。
前者は上毛野氏の氏神神社である。現在3神社が論社(一種の本家争い)として元祖「赤城神社」となっている。
群馬県勢多郡富士見村赤城山にある赤城神社  赤城山山頂
・前橋市二宮町にある二宮赤城神社       赤城山麓
・前橋市三夜沢町にある赤城神社        赤城山中腹
である。
いずれも祭神は大己貴命・豊城入彦命である。
本来3社とも上毛野氏が奉祭していたものと考えられる。系図にある上毛野氏末裔「真隅田氏」は現在の前橋市三夜沢町にある赤城神社の社務家となっているようだ。
下毛野氏の氏神である二荒山神社については、宇都宮二荒山神社と日光二荒山神社があり解りにくいが、下毛野国一宮は河内郡にあったとする記録により現在では宇都宮二荒山神社が本来のものであるとされている。祭神は大己貴命・豊城入彦命である。
しかし後述する宇都宮氏は両神社を管理下においた。
さらに新潟県上越市五智にある越後一宮「居多(こた)神社」は、大国主・建御名方・奴奈川姫など出雲系の祭神を祀っている。ここの社務家は花ケ前(商長)氏で、上毛野氏の末裔と伝承され、系図も残されている。(筆者系図参照)
 
<下毛野氏流調子氏>
 さて、毛野氏を語る時忘れてはならない一族がある。若干ローカルな話になるが以下に記しておきたい。現在の京都府長岡京市調子、旧山城国乙訓郡調子村に元々下毛野氏を名乗っていた調子氏が現存している。この調子家より膨大量の古文書が出てきた。これを「調子家文書」と呼んでいる。最も古い記録としては1187年からある。長岡京市史及び同資料集に詳しく掲載されている。本稿はそれを参考にして概略を紹介したい。
貴族でもなく、在地領主でもなく近衛家の随身であった氏族の記録としてこれだけの史料が出てくることは非常に珍しいことだった。実際に調子氏として名乗る初出は1390年からでありそれ以前は下毛野氏である。系図もかなり詳しく残されている。調子家系譜は下毛野氏系図・菊亭本(今出川家・西園寺流に伝来現在京都大学図書館蔵:原型は1224年頃完成、その後書き加えあり、1679年再書写されたものが現存)の大半を引き写し、それに「武遠」以下の調子氏の系図を付け加えたものであると解されている。1847-1850年頃完成したらしい。
筆者の調子氏系図は下毛野奈良別を元祖として付け加えたが、上記下毛野氏系図は「敦実」から始まっている。この「敦実」なる人物は全く事績不明である。筆者人物列伝3-2)「敦行」は今昔物語にも登場する人物で、9世紀後半に京都に住み、下毛野氏の近衛官人としての地位を確立した人物とされている。この敦行の曾孫に下毛野公時という藤原道長・頼通の随身がいた。この人物をモデルとして、源頼光の四天王の一人「坂田金時」話が出来たともされてい
る。
下毛野氏は、10世紀以降馬芸・鷹飼などを専門職とする下級官人・舎人・摂関家随身などを世襲したようである。位は6位くらいと推定。(筆者人物列伝参照)
所領として調子村が関係する記事は今昔物語の「下野武正山崎を領地の事并びに競馬に負けて酒肴を供する事」に登場する3-8)下毛野武正からであるとされている。この話が史実かどうかは疑義があるが、武正の孫である武守が近衛家に調子荘を寄進した記事があるので、上記話も全くの嘘ではなさそうである。その後この調子荘は近衛家の荘園ではあるが、知行しているのは下毛野氏である関係が続く。調子家文書にもこの調子荘の相伝の文書・本領安堵の文書が多数残されている。また調子村以外にも多くの摂関家の知行地を有していた模様で、それの維持管理に苦労していたことが記されている。また下毛野氏の嫡流であることを主張している。即ち、朝廷に仕えた下毛野氏(本流)は、自分のところであるとしていたのである。
少なくとも南北朝時代までは下毛野氏を名乗っていたことは間違いない。
そもそも「調子」という名前の由来が面白い。
下毛野氏が聖徳太子の愛馬甲斐の黒駒(調子丸)の口取りとして太子に近侍していた。
このことから下毛野氏に「調子」という通称が与えられていた。とされている。
この縁で下毛野氏が藤原忠通からこの乙訓郡の土地の領有が認められたときこの土地に調子という名前を付けたのだとされている。その後下毛野氏を改姓して調子氏となったとされている。一般的には土地の名前を名字につけるケースが多いがその逆の珍しい例とされている。
実際に調子氏を最初に名乗ったのは3-14)武次辺りかららしい。この武次・武音・武遠辺りは南北朝時代で家を維持するのに大変だっと思われ、系図も数代抜けている可能性が指摘されている。武遠以降は正しいが、その前数代は養子関係も含め複雑である。
筆者が調子家に詳しい方から聞いた話によると、「現在の調子家は、今から650年程前に日光の北山神社から来た。大分前に調子家では600年の記念行事をした。」
これが正しいとすると、1350年前後に調子村にいた下毛野氏が、親族から養子を迎えたことになる。しかも下毛野国からである。これは多いにありうることである。筆者推定では、「武次」頃である。長岡京市史でも「武次」と「武音」の間には数代入らないと年代が合わないと記されている。武音の活躍記事は1383-1398にある。これより2-3代前に日光北山神社から下毛野氏が家臣(前述の古老はその末裔)を連れてこの乙訓郡にきたのである。勿論下毛野氏の血族である。これが武次の可能性も否定出来ない。何故なら武次から調子氏・下毛野氏両方の名前が使われている。武音からはあきらかに調子氏を名乗っている。
菩提寺は代々下毛野氏だけの寺とされた「瑞泉寺」であり、現在その寺の跡に墓地があり、「下毛野氏」と記した墓がある。
1585年3-21)調子武直の時伯耆守即ち五位の位を賜っている。
太閤検地の時調子氏の所領は、調子村217石の内70石となり、1617年徳川秀忠朱印状により、調子村百姓総てが調子家付きとなった。江戸時代を通じて摂関家随身の身分も保った。所領は幕府直轄領であったようである。本領は安堵されていた。
位は調子筑後守武弘などの記録もあり五位であったらしい。
これに纏わる話として、江戸時代、調子村を通過する(西国街道)大名行列から通行税をとったという話がある。調子家が従五位の位を持ち、大名も五位の位だったので、大名も喧嘩両成敗を恐れて調子筑後守の難題に従わざるをえなかった。とのことである。
以上が下毛野氏ー調子氏に関する概略説明である。
長岡京市史にも多数ページを割いて調子氏について解説している。平安時代から江戸幕末までの一族がこの領地を守り生き抜いてきた生き様が記されている。
 
付録:宇都宮氏考
 毛野氏特に下毛野氏に関連して忘れてならない氏族として、武家「宇都宮氏」がある。古代豪族ではない。ところが色々下毛野氏のことを調査していくと、必ず宇都宮氏にぶつかるのである。宇都宮氏は鎌倉幕府確立に貢献し、江戸時代直前まで下野国宇都宮城を本拠として活躍した、武家である。
ところがその出自に関しては古来より謎が多いとされている。一般的には、藤原摂関家に出自を有するとされる、近江国石山寺の座主をしていた藤原宗円という僧が、前九年の役(1056-1063)の時、その平定の責務をおびていた、源頼義・義家父子に従い、宇都宮の地にやってきて二荒山神社で賊徒平定を祈願した。その功により二荒山神社の座主につき既存の神官らの上位についた。さらにこの地に宇都宮城を築城した。これが宇都宮氏の元祖である。となっている。その子供宇都宮宗綱が宇都宮二荒山神社社務と日光山別当を兼務。3代目朝綱が源頼朝の御家人となり宇都宮検校と称され実質的に下野国を支配した。
問題はここまでの系譜である。
下野国はいつまでかははっきりはしないが、下毛野氏が国造であったことは間違いない。下野国一宮である二荒山神社の社務を司ってきたのが下毛野氏の末裔であったことも間違いなかろう。下野国は平安時代は国司には親王がなり現地には赴かない親王任国であった。現地の実質的な責任者は郡司・大領と言われる土着の豪族であったはずである。この地位に下毛野氏の末裔がなっていたことも容易に推定される。
太田亮は「姓氏家系大辞典」の中で宇都宮氏について以下のように記している。
「宇都宮氏は天下の大族にして、北は奥羽より南は九州に蔓る。ーーーその発祥地は下野国宇都宮にして粟田関白道兼の曾孫宗円が宇都宮座主となりしに創まるという。ーーー
(ところが宗円の出自に関しては色々な系図が存在。中原姓などもある。)
ーーー宇都宮氏が藤原氏というは後世の仮冒にしてその実中原姓など言う方史実ならむかと考へらるべし。(宗円の宇都宮にいたとされる時代も文献で異なる。ーーー出自については猶研究を要する。其の実下毛野氏なりしが或いは中原氏と云い或いは藤原氏と云い、猶藤原氏と縁を結ぶとせしものなるやーーー」
また、宇都宮城について下野国誌には「河内郡宇都宮駅にあり。康平年中宗円座主初めて築く。ーーー」と見ゆれど、早きに失す。鎌倉時代よりか。とも記されている。
宗円の子供宗綱についても諸説あると記されている。要するに宇都宮氏は何らかの形で下毛野氏と関係していたことが否定出来ないのである。
この太田説は古来から色々ある説をまとめたものであろう。
平安時代末期に古代豪族下毛野氏がそのままの形で下野国を支配する実力があったとは思えない。摂関家の支配下、又は源氏・平氏の勢力下に入ったことは間違いないであろう。しかし、下野国の特に二荒山神社周辺に下毛野氏の末裔がいたことも間違いなかろう。
これが婚姻関係なども絡み宇都宮氏という新しい勢力に吸収されていったものと考えるのが妥当と思う。上記調子氏のように下毛野氏という呼称がいつまで続いたかは不明である。二荒神社の社伝にも記録がないらしい。何かの理由により宇都宮氏により消されたものと筆者は考える。これも一族が生き残る知恵だったのであろう。
さて、宇都宮氏歴代の人物列伝は記したが、それらを論考するのは本稿では省略する。
但し宇都宮氏として歴史上有名な5代「宇都宮頼綱」だけは記しておきたい。
この人物は鎌倉幕府確立前後で源頼朝につき活躍した人物である。その関係詳細系図を参考系図として示した。
頼綱の祖父の妹に「寒河尼」という女性がいる。不遇時代の頼朝の乳母としては、有名な「比企尼(比企能員母)」「三善康信叔母」などがいたが、「寒河尼」もその頼朝の乳母の一人である。
宇都宮氏と源頼朝・鎌倉幕府が非常に強い結びつきが出来たのはこの女性の後ろ盾があったからだともされている。頼綱は、当時の地方中堅武士ではあるが、北条時政女らを妻として鎌倉幕府執権北条氏とも手を結びかつ京都の公家である藤原定家・中院通成・三条実房家などにも娘等を嫁がしている。並の武家ではないことが分かる。
彼も若いときは父の関係で土佐に流罪になったり、1205年には鎌倉幕府への謀反を疑われたりもして決して武士として順調であった訳ではない。この頃同じく鎌倉武士であり本拠地も宇都宮の近く(現熊谷市)であった源平合戦でも有名である「熊谷直実」との親交があったとされている。熊谷直実は、1192年以降源頼朝との関係が悪化して、法然上人に師事し、出家して1198年に京都西山山城国乙訓郡粟生野の里に念仏三昧院(後の光明寺)を創建していた。(法号を法力房蓮生) その後故郷関東の熊谷にも何度も帰国もしたが、最終的には1205年に光明寺を「幸阿上人」に託して熊谷に帰ってその地で1207年に没したとされている。(異説もある)
この間に法然上人の弟子であり後に光明寺の住職ともなった「証空」とも交流があった。宇都宮頼綱はこの直実との交流を通じて1205年ー1207年の間に出家して、熊谷直実の法号にちなんで実信房蓮生という号をもらった。
またこの直実との関係から「証空」との交流が始まり、その弟子になったとされている。
1214年頃には「頼綱」の罪も許され、「証空」が属していた園城寺(三井寺)修復を支援したとされる。それ以外にも「証空」の活動のパトロン的役割をしたとされる。「証空」は西山国師と称され浄土宗西山派の開祖であり、前述の幸阿上人の後任で4代目光明寺住職になった法然上人第1の弟子と言われた僧である。
さらに上述したように頼綱の娘は藤原定家の息子為家の嫁になっている。頼綱は歌人としても有名である。宇都宮氏からは、これ以降歌人となる人物が多数輩出(6代・7代・9代当主など)された。武家としては珍しい一族である。
頼綱は京都嵯峨小倉山付近に別荘を構え京都の文化人との接触が多かったともされている。
定家との関係から小倉百人一首の原型を生んだ人物であるとされている。
以上述べた背景には宇都宮氏の財力が非常に大きかったことが窺える。
この頼綱が没したのが1259年である。下毛野氏の片鱗さえ資料的には見えない。しかし、間違いなく下毛野氏の氏神である宇都宮二荒神社の支配者であった。そして詳しくは分からないが、これより約100年後、第9代宇都宮公綱の時代頃に、下野国日光北山神社から、山城国乙訓郡調子郷の下毛野氏に同族の下毛野氏から養子が迎えられているという伝承が現在の京都府長岡京市調子に残されているのである。
即ち下野国には、明らかに下毛野氏の末裔が存在していたということである。
系図的には京都にいた下毛野氏の末裔が下野国の神社の一部の神主を宇都宮宗円以降も継承していたのかも知れないが、むしろ下野国で元々から続いていた下毛野氏の末裔が継承していた神社に跡継ぎに京都の下毛野氏から養子が迎えられ、その神社を継承し、またその神社から長岡京市の調子家に養子が来て、下毛野氏の血脈を繋いだとする方がより現実的であろう。
即ち下野国の神信仰の原点である宇都宮二荒山神社は、藤原氏という毛野氏とは全く血脈的には関係無い氏族により乗っ取られた形に平安時代後期になったように一見見えるが、実際はそうではなかったと考える方が良いのではなかろうか。当時もそれ以後も日本全国の神信仰の世界は、政治支配とは異なった動きを常にしてきた。ここ宇都宮の地だけが土地も民衆の心・信仰・氏神までも何の争いもなくそれまでの国造一族の手から離れたとは思えない。時の支配者もそのことはいつの時代にも常に考慮したやり方をしてきた。これが歴代のその土地の支配の仕方の日本流根本原理である。
とすると、宇都宮氏は下毛野氏と円満にやっていける方策を必ずとった。と考えるのが常識であろう。上記太田氏の見解は正しいと筆者は判断する。だからこの下野国の神社などでは、下毛野氏の末裔がかなり後世まで社家として氏神を祀って来れたのであろう。
 
7)まとめ(筆者主張)
①毛野氏は、4世紀初め10崇神天皇の長男「豊城入彦命」が天皇の命により当時の北の国境の地「毛野国(現:群馬県栃木県)」に派遣されたことに始まる、出雲神を信奉する地方の大豪族である。
②遅くとも16仁徳天皇時には上毛野国・下毛野国に分国されそれぞれの国造に上毛野氏・下毛野氏がなった。
③684年「八色の姓」制度により一族6氏が民間としては最高位の「朝臣姓」を授かった。
④毛野一族として中央で活躍した人物は多数記紀などに記事が出ている。しかし、その系譜は、大多数は残されていない。その理由は不明である。
⑤毛野氏の活躍の主なものは、大和王権の蝦夷地対策に地の利を活かして協力し、兵士の現地調達にも貢献したことにある。古代武力集団を率いた氏族として破格の「朝臣」姓が授けられたものと推定する。しかも大和王権誕生直後から大王家周辺にいて地方にはいるが「貴」なる氏族であるという伝承が引き継がれていたのであろう。
未だ完成されていない古代大和王権において王権サイドに付いた蝦夷勢力対抗氏族の雄が毛野氏で蝦夷対策の専門家集団と云ってよい。これを系譜上天皇家の末裔とするのは、王権側にとっても毛野氏側にとっても都合が良かったのであろう。既稿の「出雲臣氏」と似たような因子を感じる。
⑥平安時代に入り中央での活躍記事は激減し、その存在価値が失われた模様である。
⑦現長岡京市調子において平安時代から摂関家の随身として仕え、摂関家の領地を管理してきた、下毛野氏の嫡流を主張する一族がいた。後の調子氏である。調子家文書として江戸時代末期までの貴重な記録が残されている。
⑧下野国二荒山神社の支配権を平安後期から握った武家「宇都宮氏」は、江戸幕府発足頃までこの地を完全支配していた。宇都宮氏はその出自に謎があり、何かの形で下毛野氏の名跡を継いだものとも考えられている。
⑨毛野氏一族が記紀に記されているように、10崇神天皇の血族の末裔であるとするには疑義がある。吉備氏・出雲氏或いは葛城氏などと同じように本当は大和王権とは血族的には直接関係は無かったが、記紀編纂時または6-8世紀大王家の体制を整える段階で天皇家一族に組み入れられたという説には、証明することは難しいが、それなりの理があると判断する。但し平安時代中期以降になるとこのような古代豪族の多くも実質的には表舞台から消えた。極論すれば天皇家・藤原氏だけが残ったのである。毛野氏らの末裔は日本全国に散らばり、或る氏族は武士となり、源氏・平氏の影響下に、或る者は藤原氏の笠の下に入って、永続したものと思われる。日本全国にいた大小の地方古代豪族の典型的な一つの姿を毛野氏の中に見ることが出来る。