満州国

満州国

1931年に満州事変を起こした日本関東軍が中心となり、翌1932年3月、中国の東北部に建国された。旧清朝の宣統帝であった溥儀を執政とし、五族協和をかかげたが実態は関東軍の傀儡国家であった。国際連盟は満州事変を日本の侵略行為と認定したため、日本は1933年に脱退した。翌1934年に溥儀を皇帝とする「帝国」となった。都は新京(現在の長春)。中国モンゴルの隣接地域を併合し、多くの日本人が満蒙開拓団として移住した。1945年8月、日本の敗北により消滅。現在の中国では偽満州国と言われている。
満州国・華北5州

満州国と華北5州
『図説・日中戦争』p.4地図に加筆

満州事変・上海事変
 1931年9月、日本関東軍は、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破し、それを中国軍の犯行として軍事行動を起こした。この満州事変は、一気に中国との戦争状態に拡大させた。翌32年1月にはハルビンを占領、さらに海軍は上海での日本人僧侶殺害事件(これも戦後に日本軍の謀略であることが判明した)を口実に上海事変(第一次)を起こし、中国に圧力をかけた。

満州国建国
 関東軍の戦争の大義名分は、分裂、混乱している中国政府のもとでは満州地域を統治することはできないということと、その地の民族(満洲民族)を独立させるこという点にあったので、1932年3月1日、清朝(満洲民族の作った王朝)の最後の皇帝宣統帝であった溥儀を天津から連れ出して執政とし、新京(現在の長春)を首都として新しい国家である満州国の独立を宣言させた。石原莞爾ら関東軍の最初の構想では日本が直接統治することであったが、国際的な非難が起こることを恐れて、新国家を建設して傀儡化することに転換したとされている。
 この新国家は、漢人・満州人・朝鮮人・モンゴル人・日本人の「五族協和」と「王道楽土」を掲げ、独立国家であることを謳ったが、実態は日本関東軍が軍事面だけでなく、行政面でも大きな権限をもつ、傀儡国家であった。 → 満州 東三省
五・一五事件 日本国内でも犬養毅政友会内閣は関東軍主導の満州国建国に批判的であったが、1932年5月、右翼の軍人らが五・一五事件で犬養首相を殺害、政党政治は終わりを告げ、軍部主導のファシズム体制へ急傾斜していった。そして、9月、日本政府は満州国政府との間で日満議定書を締結して満州国を承認すると同時に、日本軍の駐屯、日本の特殊権益の承認、日本人官吏の任用などを取り決めたが、国際的な承認はほとんど進まなかった。

日本の国際連盟脱退
 中国政府は国際連盟に対して、日本の侵略行為であることを提訴、それを受けてリットン調査団が派遣され、1932年3月~6月、現地調査も含めて調査が行われた結果、10月に日本の侵略行為であると認定する最終報告書を提出した。1933年2月、国際連盟がリットン報告書を受けて、総会において日本に対する撤兵勧告案が、42対1で可決されると、日本代表松岡洋右は総会を退場した。1933年3月日本は国際連盟脱退を通告した。こうして満州国建国は、国際社会で認められず、日本は自ら国際的な孤立の道を選ぶこととなった。
 翌1934年3月1日、満州国は帝政を採用することとなり、溥儀は初代皇帝として即位した。その配下の満州国官吏、満州国軍には多数の日本人役人、軍人が採用され、五族協和の理想は遠くなった。

熱河作戦と停戦
 満州国は成立したが、軍部および財閥はその権益では満足せず、支配地の拡張を目指し、早くも1933年1月から隣接する熱河省に関東軍を進出させた(熱河作戦)。国際連盟で撤兵勧告の出される前のこの行動は国際世論を強く刺激し、日本の行為が侵略であるという見方が強まった。しかし南京の国民政府の蔣介石は共産党との内戦を優先していたので、日本軍にほとんど抵抗せず、同年5月、塘沽停戦協定が成立した。これは停戦と同時に、国民政府が熱河省を含めて満州国を認めること、日本軍が占領した河北省一帯からの中国軍は撤退することなどを取り決めていた。日本はこれによって満州国の承認と、その周辺への進出の足場を獲得するという所期の目的を達した。
 次の段階として、満州国に隣接する華北5省に、親日政権を樹立して、実質支配を及ぼそうという華北分離工作の推進であった。しかしこれらの動きは飽くことのない日本の領土的野心をあらわにし、国際的孤立を深めることとなった。 → 盧溝橋事件  日中戦争