人名き

蚶貝姫(ききがいひめ) 
薬の神様。佐太大神の母。
菊房快俊(きく) 不詳

北小路家(半家)(きたこうじ) 

北小路(きたこうじ) 

北小路俊祇(きたこうじ ) 1609~1660
生没・慶長14年(1609)~万治3年(1660) 北小路と称す
北小路俊真(きたこうじ ) 1639~1706
26代 生没・寛永16年(1639)~宝永3年(1706)
北小路俊幹(きたこうじ ) 1754~1820
31代 生没・宝暦4年(1754)~文政3年(1820)
北小路俊義(きたこうじ ) 1865~1868
38代 生没・元治2年(1865)~慶応4年(1868)
北小路資武(きたこうじ ) 1878~1942

北小路功光(きたこうじ ) 1901~1989

北小路矗(きたこうじ ) 1924~

北小路俊宣(きたこうじ ) 不詳

北小路俊泰(きたこうじ ) 1463~?

北小路俊永(きたこうじ ) 不詳

北小路俊定(きたこうじ ) 1508~?

北小路俊直(きたこうじ ) 1530~1586

北小路慶忠(きたこうじ ) 不詳

北小路俊任(きたこうじ ) 1755~1811

北小路俊広(きたこうじ ) 1781~?

北小路俊徳(きたこうじ ) 1807~1857

北小路明(きたこうじ ) 1874~1910

北小路三郎(きたこうじ ) 1890~1969

北小路俊元(きたこうじ ) 1920~1993

北小路説光(きたこうじ ことみつ) 1812~1856
7代 生没・文化9年(1812)~安政3年(1856)
北小路祥光(きたこうじ さちみつ) 1763~1819
5代 生没・宝暦13年(1763)~文政2年(1819)
北小路資福(きたこうじ すけとみ) 1721~1727
2代 生没・享保6年(1721)~享保12年(1727) 従五位下 正室・なし 子女・享保12年~享保18年の間は中絶
北小路俊長(きたこうじ としおさ) 1835~1867
37代 生没・天保6年(1766)~慶応3年(1792)
北小路俊方(きたこうじ としかた) 1792~1820
34代 生没・寛政4年(1792)~文政3年(1820)
北小路俊堅(きたこうじ としかた) 1806~1867
35代 生没・文化3年(1806)~慶応3年(1867) 従四位下弾正大弼 正室・不詳 子女・養子俊久(36代)
北小路俊包(きたこうじ としかね) 1673~1753
27代 生没・延宝元年(1673)~宝暦3年(1753)
北小路俊民(きたこうじ としたみ) 1697~1762
28代 生没・元禄10年(1697)~宝暦12年(1762)
北小路俊周(きたこうじ としちか) 1766~1792
32代 生没・明和3年(1766)~寛政4年(1792)
北小路俊親(きたこうじ としちか) 1850~1904
39代 生没・嘉永3年(1850)~明治37年(1904)
北小路俊常(きたこうじ としつね) 1781~1853
33代 生没・天明元年(1781)~嘉永6年(1853) 弘化4年(1847)堂上に加えられる 子女・養子俊方(34代) 俊堅 俊長 俊親
北小路俊名(きたこうじ としな) 1740~1783
30代 生没・元文5年(1740)~天明3年(1783) 従四位下大膳権大夫 正室・不詳 子女・養子俊幹(31代) 俊周
北小路俊久(きたこうじ としひさ) 1823~1863
36代 生没・文政6年(1766)~文久3年(1792)
北小路俊盛(きたこうじ としもり) 1718~1754
29代 生没・享保3年(1718)~宝暦4年(1754)
北小路徳光(きたこうじ のりみつ) 1683~1726
生没・天和3年(1683)~享保11年(1726) 北小路家初代
北小路光香(きたこうじ みつか) 1720~1784
(再興):北小路資福 3代 生没・享保5年(1720)~天明4年(1784) 享保18年(1733)当家を相続
北小路光教(きたこうじ みつのり) 1750~1785
生没・寛延3年(1750)~天明5年(1785)
北小路師光(きたこうじ もろみつ) 1792~1843
6代 生没・寛政4年(1792)~天保14年(1843)
北小路随光(きたこうじ よりみつ) 1832~1916
8代 生没・天保3年(1832)~大正5年(1916) 正二位 正室・猪熊慶歓の娘 子女・資武 養子和麿(柳原光愛の子)
北白川宮智成(きたしらかわ  のみやさとなり) 生没・安政3年(1856)~明治5年(1872)
北白川宮家 (2代) 母は伊丹氏 慶応2年(1866)親王宣下、同年に得度するも明治元年(1868)還俗
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北白川宮家 慶応4年(1863)正月創始 宮号変遷・聖護院宮→照高院宮 嘉言親王は聖護院宮と称していたが、明治元年に弟の照高院宮智成親王を養子にし、明治3年に宮号を北白川宮と改める。 3代能久は維新の際に輪王寺門跡の付弟(当時は公現入道親王と称した)として江戸にあり、彰義隊に擁立されて征東軍と対立。上野から会津、仙台へ脱出し奥羽越列藩同盟の軍事総督となるも降伏。 京都の伏見宮邸にて謹慎していたが、明治5年に智成親王の遺言により当家を相続することになる。 初代・嘉言(よしこと) 光格天皇養子(伏見宮邦家親王の第二王子) 母は上野氏 生没・文政4年(1821)~明治元年(1868) 天保3年(1832)親王宣下、同年に得度するも慶応4年(1868)還俗 一品、聖護院門跡、内国事務総督 正室・不詳 子女・2代智成 2代・智成(さとなり) 孝明天皇養子(伏見宮邦家親王の第13王子) 母は伊丹氏 生没・安政3年(1856)~明治5年(1872) 慶応2年(1866)親王宣下、同年に得度するも明治元年(1868)還俗 三品 正室・不詳 子女・養子能久(3代、伏見宮邦家親王の第九王子、正室は土佐藩山内豊信の娘、継室は島津久光の養女であった宇和島藩伊達宗徳の娘) 大名
北白川宮嘉言(きたしらかわ のみやよしこと) 生没・文政4年(1821)~明治元年(1868)
北白川宮家 (初代) 母は上野氏 天保3年(1832)親王宣下、同年に得度するも慶応4年(1868)還俗
吉川元長(きっかわ もとなが)? 1548-1587
吉川元春の嫡子。父に従い、各地を従軍。豊臣秀吉の九州征伐に参加中、病死。
吉川元春(きっかわ もとはる)? 1530-1586
毛利元就の次男。吉川興経の養子。小早川隆景と並び毛利両川と呼ばれ、山陰地方を制圧した。元就死後、甥の輝元を補佐した。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)? 

吉良親貞(きら さだちか) 1541-1576
土佐各地に出陣し、戦功を上げた。