古事記 下-5

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古事記 下の卷

五、雄略天皇

后妃と皇子女
 オホハツセノワカタケの命(雄略天皇)、大和の長谷の朝倉の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇はオホクサカの王の妹のワカクサカベの王と結婚しました。御子はございません。またツブラオホミの女のカラ姫と結婚してお生みになつた御子は、シラガの命・ワカタラシの命お二方です。そこでシラガの太子の御名の記念として白髮部をお定めになり、また長谷部の舍人、河瀬の舍人をお定めになりました。この御世に大陸から呉人が渡つて參りました。その呉人を置きましたので呉原というのです。

ワカクサカベの王
――以下、多くは歌を中心とした短篇の物語が、この天皇の御事蹟として語り傳えられている。長谷の天皇として、傳説上の英雄となつておいでになつたのである。――
 初め皇后樣が河内の日下においでになつた時に、天皇が日下の直越の道を通つて河内においでになりました。依つて山の上にお登りになつて國内を御覽になりますと、屋根の上に高く飾り木をあげて作つた家があります。天皇が、お尋ねになりますには「あの高く木をあげて作つた家は誰の家か」と仰せられましたから、お伴の人が「シキの村長の家でございます」と申しました。そこで天皇が仰せになるには、「あの奴は自分の家を天皇の宮殿に似せて造つている」と仰せられて、人を遣わしてその家をお燒かせになります時に、村長が畏れ入つて拜禮して申しますには、「奴のことでありますので、分を知らずに過つて作りました。畏れ入りました」と申しました。そこで獻上物を致しました。白い犬に布を※[#「執/糸」、U+7E36、353-17]けて鈴をつけて、一族のコシハキという人に犬の繩を取らせて獻上しました。依つてその火をつけることをおやめなさいました。そこでそのワカクサカベの王の御許においでになつて、その犬をお贈りになつて仰せられますには、「この物は今日道で得ためずらしい物だ。贈物としてあげましよう」と言つて、くださいました。この時にワカクサカベの王が申し上げますには、「日を背中にしておいでになることは畏れ多いことでございます。依つてわたくしが參上してお仕え申しましよう」と申しました。かくして皇居にお還りになる時に、その山の坂の上にお立ちになつて、お歌いになりました御歌、

この日下部の山と
向うの平群の山との
あちこちの山のあいだに
繁つている廣葉のりつぱなカシの樹、
その樹の根もとには繁つた竹が生え、
末の方にはしつかりした竹が生え、
その繁つた竹のように繁くも寢ず
しつかりした竹のようにしかとも寢ず
後にも寢ようと思う心づくしの妻は、ああ。

 この歌をその姫の許に持たせてお遣りになりました。

引田部の赤猪子
――三輪山のほとりで語り傳えられた物語。――
 また或る時、三輪河にお遊びにおいでになりました時に、河のほとりに衣を洗う孃子がおりました。美しい人でしたので、天皇がその孃子に「あなたは誰ですか」とお尋ねになりましたから、「わたくしは引田部の赤猪子と申します」と申しました。そこで仰せられますには、「あなたは嫁に行かないでおれ。お召しになるぞ」と仰せられて、宮にお還りになりました。そこでその赤猪子が天皇の仰せをお待ちして八十年經ました。ここに赤猪子が思いますには、「仰せ言を仰ぎ待つていた間に多くの年月を經て容貌もやせ衰えたから、もはや恃むところがありません。しかし待つておりました心を顯しませんでは心憂くていられない」と思つて、澤山の獻上物を持たせて參り出て獻りました。しかるに天皇は先に仰せになつたことをとくにお忘れになつて、その赤猪子に仰せられますには、「お前は何處のお婆さんか。どういうわけで出て參つたか」とお尋ねになりましたから、赤猪子が申しますには「昔、何年何月に天皇の仰せを被つて、今日まで御命令をお待ちして、八十年を經ました。今、もう衰えて更に恃むところがございません。しかしわたくしの志を顯し申し上げようとして參り出たのでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお驚きになつて、「わたしはとくに先の事を忘れてしまつた。それだのにお前が志を變えずに命令を待つて、むだに盛んな年を過したことは氣の毒だ」と仰せられて、お召しになりたくはお思いになりましたけれども、非常に年寄つているのをおくやみになつて、お召しになり得ずに歌をくださいました。その御歌は、

御諸山の御神木のカシの樹のもと、
そのカシのもとのように憚られるなあ、
カシ原のお孃さん。

 またお歌いになりました御歌は、

引田の若い栗の木の原のように
若いうちに結婚したらよかつた。
年を取つてしまつたなあ。

 かくて赤猪子の泣く涙に、著ておりました赤く染めた袖がすつかり濡れました。そうして天皇の御歌にお答え申し上げた歌、

御諸山に玉垣を築いて、
築き殘して誰に頼みましよう。
お社の神主さん。

 また歌いました歌、

日下江の入江に蓮が生えています。
その蓮の花のような若盛りの方は
うらやましいことでございます。

 そこでその老女に物を澤山に賜わつて、お歸しになりました。この四首の歌は靜歌です。

吉野の宮
――吉野での物語二篇。――
 天皇が吉野の宮においでになりました時に、吉野川のほとりに美しい孃子がおりました。そこでこの孃子を召して宮にお還りになりました。後に更に吉野においでになりました時に、その孃子に遇いました處にお留まりになつて、其處にお椅子を立てて、そのお椅子においでになつて琴をお彈きになり、その孃子に舞わしめられました。その孃子は好く舞いましたので、歌をお詠みになりました。その御歌は、

椅子にいる神樣が御手ずから
彈かれる琴に舞を舞う女は
永久にいてほしいことだな。

 それから吉野のアキヅ野においでになつて獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、虻が御腕を咋いましたのを、蜻蛉が來てその虻を咋つて飛んで行きました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、

吉野のヲムロが嶽に
猪がいると
陛下に申し上げたのは誰か。
天下を知ろしめす天皇
猪を待つと椅子に御座遊ばされ
白い織物のお袖で裝うておられる
御手の肉に虻が取りつき
その虻を蜻蛉がはやく食い、
かようにして名を持とうと、
この大和の國を
蜻蛉島というのだ。

 その時からして、その野をアキヅ野というのです。

葛城山
――葛城山に關する物語二篇。――
 また或る時、天皇が葛城山の上にお登りになりました。ところが大きい猪が出ました。天皇が鏑矢をもつてその猪をお射になります時に、猪が怒つて大きな口をあけて寄つて來ます。天皇は、そのくいつきそうなのを畏れて、ハンの木の上にお登りになりました。そこでお歌いになりました御歌、

天下を知ろしめす天皇
お射になりました猪の
手負い猪のくいつくのを恐れて
わたしの逃げ登つた
岡の上のハンの木の枝よ。

 また或る時、天皇が葛城山に登つておいでになる時に、百官の人々は悉く紅い紐をつけた青摺の衣を給わつて著ておりました。その時に向うの山の尾根づたいに登る人があります。ちようど天皇の御行列のようであり、その裝束の樣もまた人たちもよく似てわけられません。そこで天皇が御覽遊ばされてお尋ねになるには、「この日本の國に、わたしを除いては君主はないのであるが、かような形で行くのは誰であるか」と問わしめられましたから、答え申す状もまた天皇の仰せの通りでありました。そこで天皇が非常にお怒りになつて弓に矢を番え、百官の人々も悉く矢を番えましたから、向うの人たちも皆矢を番えました。そこで天皇がまたお尋ねになるには、「それなら名を名のれ。おのおの名を名のつて矢を放とう」と仰せられました。そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主の大神だ」と仰せられました。そこで天皇が畏まつて仰せられますには、「畏れ多い事です。わが大神よ。かように現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて、御大刀また弓矢を始めて、百官の人どもの著ております衣服を脱がしめて、拜んで獻りました。そこでその一言主の大神も手を打つてその贈物を受けられました。かくて天皇のお還りになる時に、その大神は山の末に集まつて、長谷の山口までお送り申し上げました。この一言主の大神はその時に御出現になつたのです。

春日のヲド姫と三重の采女
――三重の采女の物語を中に插んで前後に春日のヲド姫の物語がある。春日氏については、中卷の蟹の歌の條參照。三重の采女の歌は、別の歌曲である。――
 また天皇、丸邇のサツキの臣の女のヲド姫と結婚をしに春日においでになりました時に、その孃子が道で逢つて、おでましを見て岡邊に逃げ隱れました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、

お孃さんの隱れる岡を
じようぶな※(「金+且」、第3水準1-93-12)が澤山あつたらよいなあ、
鋤き撥つてしまうものを。

 そこでその岡を金※(「金+且」、第3水準1-93-12)の岡と名づけました。
 また天皇が長谷の槻の大樹の下においでになつて御酒宴を遊ばされました時に、伊勢の國の三重から出た采女が酒盃を捧げて獻りました。然るにその槻の大樹の葉が落ちて酒盃に浮びました。采女は落葉が酒盃に浮んだのを知らないで大御酒を獻りましたところ、天皇はその酒盃に浮んでいる葉を御覽になつて、その采女を打ち伏せ御刀をその頸に刺し當ててお斬り遊ばそうとする時に、その采女が天皇に申し上げますには「わたくしをお殺しなさいますな。申すべき事がございます」と言つて、歌いました歌、

纏向の日代の宮は
朝日の照り渡る宮、
夕日の光のさす宮、
竹の根のみちている宮、
木の根の廣がつている宮です。
多くの土を築き堅めた宮で、
りつぱな材木の檜の御殿です。
その新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
一杯に繁つた槻の樹の枝は、
上の枝は天を背おつています。
中の枝は東國を背おつています。
下の枝は田舍を背おつています。
その上の枝の枝先の葉は
中の枝に落ちて觸れ合い、
中の枝の枝先の葉は
下の枝に落ちて觸れ合い、
下の枝の枝先の葉は、
衣服を三重に著る、その三重から來た子の
捧げているりつぱな酒盃に
浮いた脂のように落ち漬つて、
水音もころころと、
これは誠に恐れ多いことでございます。
尊い日の御子樣。
  事の語り傳えはかようでございます。

 この歌を獻りましたから、その罪をお赦しになりました。そこで皇后樣のお歌いになりました御歌は、

大和の國のこの高町で
小高くある市の高臺の、
新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
廣葉の清らかな椿の樹、
その葉のように廣らかにおいで遊ばされ
その花のように輝いておいで遊ばされる
尊い日の御子樣に
御酒をさしあげなさい。
  事の語り傳えはかようでございます。

 天皇のお歌いになりました御歌は、

宮廷に仕える人々は、
鶉のように頭巾を懸けて、
鶺鴒のように尾を振り合つて
雀のように前に進んでいて
今日もまた酒宴をしているもようだ。
りつぱな宮廷の人々。
  事の語り傳えはかようでございます。

 この三首の歌は天語歌です。その御酒宴に三重の采女を譽めて、物を澤山にくださいました。
 この御酒宴の日に、また春日のヲド姫が御酒を獻りました時に、天皇のお歌いになりました歌は、

水のしたたるようなそのお孃さんが、
銚子を持つていらつしやる。
銚子を持つならしつかり持つていらつしやい。
力を入れてしつかりと持つていらつしやい。
銚子を持つていらつしやるお孃さん。

 これは宇岐歌です。ここにヲド姫の獻りました歌は、

天下を知ろしめす天皇
朝戸にはお倚り立ち遊ばされ
夕戸にはお倚り立ち遊ばされる
脇息の下の
板にでもなりたいものです。あなた。

 これは志都歌です。
 天皇は御年百二十四歳、己巳の年の八月九日にお隱れになりました。御陵は河内の多治比の高※(「顫のへん+鳥」、第3水準1-94-72)にあります。