対馬の歴史
対馬の歴史(対馬)(日本-日本、対馬-) | ||||
-6800 | 越高遺跡(上県町)(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
-4000 | 佐賀貝塚・吉田貝塚下層(峰町)・加藤遺跡(豊玉町) 気候が温暖化。船が登場 平底土器一般化 三内丸山遺跡(青森県)、大規模集落-2000(日本-日本、対馬-) | |||
-3200 | 志多留貝塚下層(上県町)(日本-日本、対馬-縄文時代) | |||
-2400 | 吉田貝塚上層(峰町)(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
151 | 2世紀後期塔ノ首遺跡(上対馬町)(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
201 | 3世紀頃中国の三国時代に陳寿(233~297)が著した「魏志倭人伝」に「対馬国」に関する模様が記述される。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
251 | 3世紀後期仁位ハロー遺跡(豊玉町)・木坂遺跡(峰町)(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
408 | 新羅、春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。(対馬)(東アジア-日本、対馬、朝鮮、新羅、倭-) | |||
451 | 5世紀中期根曽1号墳(美津島町)(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
608 | 遣隋使小野妹子一行・隋使裴世清一行が対馬を通る。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
630 | 犬上御田鍬・藥師惠日を第1回遣唐使として唐に派遣される。第6回(669)頃まで壱岐・対馬を経由するコースを利用。(日本-日本、対馬-飛鳥時代) | |||
664 | 対馬国・壱岐・筑紫などに防人を置き筑紫に水城、近衛遷都で防衛を固める、烽台8カ所を設置する。(対馬)(日本-日本、対馬、壱岐、筑紫-飛鳥時代) | |||
667 | 大和・讃岐・対馬に築城(対馬)(日本-日本、対馬-飛鳥時代) | |||
667 | 対馬国に金田城を築く。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
671 | 対馬国与良の地(現在の厳原町国分付近)に国府を置く。対馬島で産出した銀を朝廷に献上する。日本で最初の銀の産出。以後、対馬の調として銀が納められる。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
691 | 7世紀末期矢立山古墳(厳原町)(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
701 | 対馬島で産出したと称した金を朝廷に献上。日本で最初の金の産出を慶祝して「大宝」の年号を建てる。(対馬)(日本-日本(大宝元)、対馬-) | |||
701 | 対馬からの金の献上により朱鳥から大寶(大宝)に改元。この日、官名と位号の制度を改正(対馬)(日本-日本、対馬-飛鳥時代) | |||
736 | 遣新羅使船、対馬の浅茅浦、竹敷浦に泊し、遣新羅大使阿部朝臣継麻呂の詠んだ歌が後に万葉集に収録される。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
737 | 対馬・壱岐に派遣されていた東国の防人約2千人の任を解き、九州の兵士が代わって防衛の任に就く。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
795 | 東国防人の制を廃止。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
805 | 第16次遣唐使に同行した最澄が対馬(阿連)に帰着。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
894 | 新羅の賊船大小100隻、約2,500人来寇、国司文室義友らの活躍により撃退。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
997 | 奄美島人・薩摩国ら大宰府管内の壱岐・対馬を襲撃(対馬)(日本-日本、対馬-平安時代) | |||
1019 | 刀伊の入寇(といのにゅうこう)-女真族(じょしんぞく)の賊船約50隻が来襲し、島民36人を殺害。346人を連れ去る。(日本-日本、対馬-平安時代) | |||
1101 | 12世紀宗氏の祖、惟宗氏の対馬入国。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1195 | 対馬在庁官人の中に惟宗氏の名が初見(八幡宮文書)。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1246 | 大宰府の命により惟宗重尚が阿比留在庁(平太郎国時)を征討したという伝承がある。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1269 | 蒙古使、対馬に来着 幕府、引付を復活(対馬)(日本-日本、対馬-鎌倉時代) | |||
1274 | 文永の役(日本-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元)-鎌倉時代) | |||
1274 | 文永の役・水際撃退1274(対馬)(日本、東アジア-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元)-鎌倉時代) | |||
1274 | モンゴル軍と高麗軍が日本へ侵略 一方モンゴルのグビライは、日本を服従させようとして、2度にわたり、日本侵攻を行ったが失敗した。このとき、高麗は全線基地としての役割を命じられるが、多大な負担を強いられた。(~1281) 高麗と元の第一次日本侵略 | |||
1274 | 元寇(文永の役)、元・高麗軍4万人が小茂田浜に来襲、対馬守護代宗資国以下80余騎戦死。島民被害甚大。(対馬)(日本、東アジア-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元)-) | |||
1274 | 文永の役第一回蒙古襲来。2万人。(-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元)-) | |||
1274 | 元軍が対馬・壱岐に初来襲。(対馬)(日本、東アジア-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル、元-鎌倉時代) | |||
1274 | 元寇-文永の役(ぶんえいのえき)元・高麗軍(約3万人)は対馬・壱岐に続いて博多湾から上陸するが日本軍の奮闘と暴風雨で退却。(対馬)(日本、東アジア-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元)-鎌倉時代) | |||
1281 | 元寇(弘安の役)、元・高麗・漢軍連合の東路軍が日本世界村(峰町佐賀)に来襲とあるが、被害不明。(対馬)(日本-日本、対馬、元-) | |||
1281 | 壱岐・対馬に高麗の兵船が襲来。弘安の役の始り(対馬)(日本-日本、対馬、元-鎌倉時代) | |||
1284 | 北条時宗死去元使、対馬に来着(対馬)(日本-日本、対馬-鎌倉時代) | |||
1284 | 北条時宗死去 元使、対馬に来着(日本-日本、対馬-) | |||
1345 | 筑前より、二子頼次を派遣し、仁位に政所を開く。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1350 | 倭寇が高麗を侵す。この頃、頼次が資国を祭神とする軍神社(小茂田浜神社)を建立。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1366 | 高麗国王より和平と倭寇の取り締まりの要請あり、家臣を高麗へ派遣。以後、高麗国との通交始まる。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1378 | この頃、対馬国守護代から対馬国守護となる。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1389 | 高麗兵、対馬に寇する(対馬)(日本-日本、対馬-室町時代) | |||
1389 | 李成桂一派により,昌王廃位恭譲王即位 倭冦の拠点である対馬征伐(対馬)(東アジア-日本、対馬、朝鮮、高麗-) | |||
1389 | 朴威、対馬 | |||
1396 | 倭寇の本拠地、対馬に軍隊を派遣、政治と軍事を分離した議政府をつくり、中央集権制度の確立(対馬)(東アジア-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮-) | |||
1398 | 筑前より対馬に渡って、館を現在の峰町志多賀に開く。宗氏の対馬定住 の始まり(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1399 | 日朝貿易対馬の宗氏が朝鮮と通交。(-日本、対馬-) | |||
1408 | 倭寇を鎮めて李氏朝鮮と通交、現在の峰町佐賀を府とする。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1419 | 応永の外寇(対馬)(日本-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮-室町時代) | |||
1419 | 応永の外寇(世宗己亥の東征)。李氏朝鮮による対馬侵攻。李従茂に率いられた1万7千人の大軍が倭寇の活躍を封じるため倭冦の本拠地と見なした対馬の浅茅湾に来襲、仁位郡の糠岳付近で合戦。侵略した李氏朝鮮を宗貞盛が撃退。日本の勝利。(対馬)(日本-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮-) | |||
1443 | 対馬の宗貞盛、朝鮮と交易の役を定める(対馬)(日本-日本、対馬-室町時代) | |||
1443 | 対馬の宗氏、李氏朝鮮と通交条約である嘉吉条約(癸亥約条)を結び、歳遣船の定数を定める。歳遣船定数 50 隻。※応仁の乱の最中も無関係に通商。李氏朝鮮、対馬の宗氏に通交貿易の条件を与える(対馬)(東アジア-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮-) | |||
1443 | 嘉吉条約かきつじょうやく嘉吉3 (1443) 年,対馬島守宗貞盛と朝鮮との間に締結された条約。朝鮮では正統癸亥 (きがい) 約条と呼ぶ。朝鮮側が日鮮貿易の統制をはかったもので,内容は来航者の詐称を防止するため,銅印を大名,豪族,商人などに授け,実名を刻んだり,九州地方の大名,土豪の使送船は九州探題,また対馬島内に住む大名や土豪などの使送船は宗氏の書契を持参すべきであると決めたりしたものであった。また室町幕府に対しては,象牙を用いて円形の勘合符を製し,左半を朝鮮にとどめ,右半を幕府に贈った。将軍,管領,有力大名のほかは,毎年渡航する航数をそれぞれ条約により限定した。これにより宗氏の歳遣船 (さいけんせん) は 50隻に制限され,歳賜米や豆も合せて 200石までと決められた。1443年(嘉吉3,朝鮮世宗25)に,朝鮮から対馬の宗貞盛らにあたえられた通交貿易の条件。朝鮮側では,癸亥(きがい)約条という。おもな内容は,(1)宗氏から毎年朝鮮に派遣する歳遣船(さいけんせん)の数を50に限定する,(2)宗氏から朝鮮に対して緊急に報告しなければならないことがおきたときは,歳遣船の定数外に特送船を派遣することができる,(3)朝鮮から毎年宗氏に送る歳賜米・豆はあわせて200石に限定する,の3点である。対馬(つしま)島主宗貞盛(そうさだもり)と李氏(りし)朝鮮との間で1443年(嘉吉3)に定められた日朝通交の条約。朝鮮側では癸亥約条(きがいやくじょう)という。応永(おうえい)の外寇(がいこう)後、対馬と朝鮮の通交は一時とだえたが、世宗(せいそう)の平和通交による交隣政策によって、嘉吉条約をはじめ数多くの通交統制規定が定められた。条約の内容は、(1)島主宗氏は毎年50船を朝鮮に派遣できる、(2)宗氏には世宗10年(1428)以来実施されている歳賜米(さいしまい)・豆あわせて200石が与えられる、などである。この条約は、朝鮮側が日朝貿易の統制を図ったものであったが、これによって、宗氏歳遣船(さいけんせん)が制度的に確立し、朝鮮通交での宗氏の独占的立場が定まったのである。[対馬島宗氏の独占] やがて朝鮮貿易の利益に目をつけ,日本からの渡航者が増大したため,応接する朝鮮側の負担が大きくなったので渡航者の制限がはかられるようになり,朝鮮ではとくに地理的に最も近い対馬島の宗氏の特殊権益を認めることによって,統制化を進めていった。1443年(嘉吉3)宗氏との間で歳遣船隻を定約した嘉吉条約(癸亥(きがい)約条),渡航証としての文引(ぶんいん)(図書・文引)の制度強化などがそれである。これによって,日朝間に占める宗氏の位置は決定的なものとなり,一方,諸大名・豪族等の勢力が後退して,それらの名義を借りた偽使が対馬から派遣される状態になっていった。※「嘉吉条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。(対馬)(東アジア-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮-) | |||
1452 | 成職が封を継ぎ、貞盛死去する。朝鮮国王が1隻は弔礼の、1隻は襲封祝賀の使船2隻を送る。将軍や島主の代 替わり毎の告慶 参判使の始まり(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1456 | 対馬島人源茂崎が漂民救助の功により朝鮮国王より官職図書(司直の職)を授けられる。(初の受職人)。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1471 | 申叔舟の海東諸国紀が著され、対馬8郡82浦を紹介。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1497 | 対馬国を形のうえで分治していた少弐氏が亡び、名実ともに宗氏が対馬の島主となる。(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1509 | 対馬島民、朝鮮を侵す(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1510 | 三浦の乱三浦の居留民と、朝鮮との間の争い勃発。以後、朝鮮貿易は衰退。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1511 | 義盛兵を率いて上京し、足利将軍より北近江8千貫(約4万石)の地を与えられる。(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1512 | 対馬の宗氏、朝鮮と壬申約定を締結す(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1512 | 朝鮮との間に永正条約を締結して、国交を回復する。歳遣船定数 25 隻(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1526 | 盛長仁位の邸にて自刃する。将盛封を継ぎ、中村の館を池の地に移して今屋敷と称す。(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1528 | 宗盛治の乱により池の館が焼け、館を金石に移す。(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1546 | 島主家以外の傍系が宗姓を称することを禁じる。(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1552 | 検地を行う。(石高8,250石)(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1564 | 永正条約による歳遣船25隻の貿易制限を、朝鮮との交渉により30隻に拡大することに成功する。歳遣船定数 30 隻(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1566 | 茂尚封を継ぐが、病弱で永禄12年23歳の若さで死去。(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1571 | この頃、小浦に陶器窯を開いたという。(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1592 | 文禄の役(壬辰の倭乱)(~1595)。義智、小西行長とともに朝鮮へ出兵。諸将の各隊に対馬より通詞を派遣。(対馬)(日本-日本、対馬-戦国時代) | |||
1609 | 李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で己酉約条(慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される(対馬)(東アジア-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮-) | |||
1609 | 己酉約条締結.対馬の宗氏に通交貿易許す.富山(釜山)浦に再び倭館設置(対馬)(東アジア-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮-) | |||
1641 | 鎖国体制(幕府の対外政策)の完成-オランダ商館を出島へ移す。オランダと中国は幕府直轄の出島、朝鮮とは対馬藩、琉球は薩摩藩、アイヌは松前藩で貿易が行われた。(対馬)(日本-日本、対馬-江戸時代) | |||
1689 | 雨森芳洲、対馬の儒学者として仕え朝鮮外交に活躍。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1700 | 郷村帳・分限帳を幕府に提出し、10万石以上の格を公称する。対馬藩の貿易銀制限額が3万両に増額される。陶山訥庵の建議による全島の猪狩りが実施される。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1776 | 朝鮮私貿易断絶のため、対馬藩に手当金給付(対馬)(日本-日本、対馬-江戸時代) | |||
1811 | 最後の朝鮮通信使,対馬に来着(対馬)(東アジア-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮-) | |||
1843 | 幕府、信使聘礼地を大坂に変更する旨を対馬藩に通知。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1848 | 対馬の海を異国船が通過(対馬)(日本-日本、対馬-江戸時代) | |||
1861 | ロシア軍艦対馬占領事件-ロシアが対馬の一部を占領-アメリカ総領事の通訳であるヒュースケンが暗殺される-東禅寺事件-攘夷派がイギリス公使館を襲撃(対馬)(日本-日本、対馬-江戸時代) | |||
1861 | ロシア軍艦「ポサドニック」が対馬に来航し、兵士が芋崎に上陸して占拠。8月には退去する(対馬)(日本-日本、対馬-江戸時代) | |||
1863 | 対馬藩に攘夷の勅書及び御沙汰書下る。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1868 | 王政復古宣言。4. 宗義達(対馬藩主)朝鮮通交事務取扱となる。(日韓併合)(東アジア-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国-) | |||
1869 | 1. 樋口鉄四郎(対馬藩家老)を朝鮮へ派遣、「皇」「勅」書契問題おこる。(日韓併合)(東アジア-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国-) | |||
1884 | 上下部総町村会(のちの対馬総町村組合)結成。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1886 | 厳原支庁を対馬島庁と改称。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1905 | 東郷平八郎が率いる日本海軍聯合艦隊とロシア・バルチック艦隊との日本海海戦(対馬沖海戦)が始る。日本の勝利(日本-日本、対馬、ロシア-明治時代) | |||
1906 | 1. 韓帝、イギリス人ストーリー記者を通じて国書を列国に送り、共同保護を要望。2. 韓国統監府開庁。3. 興業借款1000万円供与。5. 閔宗植、藍浦で挙兵、洪州を占領するも日本軍と交戦して敗退(11月逮捕される)。6. 崔益鉉、泰仁で挙兵、捕えられ1907年1. 対馬で獄死。梅謙次郎、韓国政府法律顧問となる(法典編纂)。8. 関東都督府官制公布。三七忠造、韓国政府学部参与官となる(教科書編纂)。9. 日本人参与官を朝鮮各地方に配置。10. 鴨緑江・豆満江森林経営に関する協同約款調印。内田良平、一進会顧問となる。11. 満州鉄道会社設立。12. ロシア外相、日露協商を示唆。(日韓併合)(東アジア-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国-) | |||
1931 | 対馬島産業の振興、対馬縦貫道について帝国議会に陳情。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1934 | 上下県郡総町村組合を対馬総町村組合と改称。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1944 | 沖縄からの学童疎開船対馬丸がアメリカの潜水艦により撃沈。死者1500人(対馬)(日本-日本、対馬、アメリカ-昭和時代) | |||
1945 | 対馬~博多間の定期船珠丸が壱岐勝本沖で触雷、沈没し、545人遭難。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1946 | 5月、対馬総町村組合議会で福岡県への転県決議がなされる。転県期成会の結成。6月、福岡県で壱岐・対馬転県期成会結成し、国に働きかけた。7月、壱岐に転県期成会結成。9月、長崎県議会で転県の提案否決。対馬支庁上県出張所を設置。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1948 | 県立対馬高等学校と県立対馬女子高等学校が、県立対馬高等学校として統合発足。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1949 | 対馬開発案12億円を対馬町村長協議会が決定し請願、県議会で14億円に増額採択、政府次官会議で対馬開発5ヵ年計画決定される。対馬町村会は、対馬開発計画実現のため、転県運動中止声明を発表。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1951 | 対馬沿岸商船会社を九州郵船会社が吸収合併。対馬総合開発地区指定閣議決定。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1952 | 対馬総合開発案25億円を県対馬支庁と地元で策定し、政府に陳情。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1955 | 町村合併(上対馬・美津島・豊玉・上県)により13町村が9町村となる。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1968 | 対馬縦貫道路開通。厳原~上対馬自動車通行が可能となる。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1975 | 10月10日、対馬空港開港。対馬~福岡間空路開設。対馬縦貫道路が国道に昇格する。前年の豊玉町に続き、峰村に町制が施行され、6町となる。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1976 | 対馬~長崎間空路開設。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1977 | 対馬島・グアム姉妹島結縁。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1983 | 対馬空港にジェット機就航。上対馬町・影島区友好親善協会結縁。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1986 | 対馬島と釜山影島区との姉妹島縁組調印。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1989 | 上対馬町比田勝港と韓国釜山港を結ぶ不定期航路対馬国際ライン「あをしお号」を就航。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1990 | 天皇・皇后両陛下、初の対馬ご訪問。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1991 | 九州郵船のジェットフォイル「ヴィーナス」が対馬~博多航路に就航。平成通信使交流(影島区との友好交流事業)を行う。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1993 | 対馬~馬山国際定期航路就航するも、12月休止。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1994 | 対馬 6 町と韓国釜山広域市影島区との行政交流協定調印。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1995 | 対馬で初めて温泉掘削成功。(美津島町)(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1996 | 対馬~関西直行便就航。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
1998 | 「フェリーあがた」が比田勝~博多航路に就航。対馬~関西直行便が運休。航空機が全便ジェット化。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
2003 | 韓国・釜山市内に「対馬釜山事務所」を開設。「しま交流人口拡大特区」に認定される。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
2004 | 対馬6町が合併し、「対馬市」が誕生。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
2005 | 組織改編により、対馬支庁を対馬地方局へ改称。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
2007 | 対馬~釜山航路に「ドリームフラワー」就航。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
2009 | 組織改編により、対馬地方局を対馬振興局へ改称。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
2010 | 対馬~韓国間に国際チャーター航空便が運航を開始。厳原港新国際ターミナル供用開始。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
2011 | 対馬市島おこし協働隊(地域おこし協力隊)活動開始。比田勝~釜山間にJR九州高速船「ビートル」就航。厳原~釜山間に未来高速「コビー」就航。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
2012 | 対馬市と中国上海市崇明県が友好関係覚書締結。(対馬)(日本-日本、対馬-) | |||
2015 | 「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」が日本遺産に認定される。観光情報館「ふれあい処つしま」開業。(対馬)(日本-日本、対馬-) |