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南部家(八戸藩)

なんぶ なおふさ

八戸藩藩祖・南部直房

盛岡藩南部利直の七男 母は中里氏

生没・寛永5年(1628)~寛文8年(1668

寛文4年(1664)兄重直が継嗣を定めず死没し、幕府の裁定により本家盛岡藩は8万石と2万石のニ分割にされ、直房に2万石が与えられる、ところが、分割の4年後の寛文8年に直房暗殺事件が起きてしまうのである

8万石は兄の重信に与えられ盛岡南部家を継いだのであるが、10万石の格式を失った盛岡南部家は新藩の八戸南部家の成立を嫌い、家臣団の編成に際して刺客を送り込み、直房を刺殺してしまう

八戸藩は直房の変死を病死として幕府へ届け、嫡子直政の家督相続を願い出る、しかし直房暗殺の噂は幕府にも伝わり、上使が江戸藩邸に訪れ問い質す、これに対し家老の中里弥次右衛門と山崎勘兵衛が病死と頑強に主張し続け、藩主暗殺による八戸藩除封の危機を免れたという

従五位下左衛門佐

正室・不詳

子女・2代直政 直常

なんぶ なおまさ

八戸藩2代・南部直政

直房長男 母は川口氏

生没・寛文元年(1661)~元禄12年(1699

家督・寛文8年(1668)相続

直政は名君であった、砂金で年貢を納入する制度や藩士が積金を出して江戸勤番の費用を融通する無尽制度など藩制の確立に尽力した、また外様でありながら異例の抜擢で将軍綱吉の側衆から側用人に昇格している、さらに盛岡南部家との和解にも心を砕き、正室に行信の娘を娶り、継嗣がいないことから重信の四男を養子に迎えている

元禄元年(1688)側用人に進む

元禄2年(1689)側用人を辞任

従五位下遠江守

正室・盛岡藩南部行信の娘

子女・養子通信(3代)

なんぶ のぶおき

八戸藩5代・南部信興

広信長男 母は遠山氏

生没・享保8年(1723)~安永2年(1773

家督・寛保元年(1741)相続

従五位下左衛門尉

明和2年(1765)隠居

正室・芝村藩織田長亮の娘

子女・6代信依

なんぶ のぶふさ

八戸藩7代・南部信房

信依長男 母は某氏

生没・明和2年(1765)~天保6年(1835

家督・天明元年(1781)相続

従五位下伊勢守

寛政8年(1796)隠居

正室・新発田藩溝口直養の娘

子女・養子信真(8代)

なんぶ のぶまさ

八戸藩8代・南部信真

6代信依の三男 母は某氏

生没・安永7年(1778)~弘化3年(1846

家督・寛政8年(1796)相続

従五位下左衛門尉

天保13年(1842)隠居

正室・小田原藩大久保忠顕の娘

子女・信経 信一 女子→西大路藩市橋長富室 

女子→高取藩植村家貴室 

養子信順(9代) 女子→信順室

なんぶ のぶゆき

八戸藩9代・南部信順

薩摩藩島津重豪の五男 母は某氏

生没・文化10年(1813)~明治4年(1871

家督・天保13年(1842)相続

従四位下遠江守

正室・信真の娘

子女・栄信 女子→櫛笥隆義室

女子→水口藩加藤明実室

養女→高取藩植村家壺室

なんぶ のぶより

八戸藩6代・南部信依

信興長男 母は正室織田長亮の娘

生没・延享4年(1747)~天明元年(1781

家督・明和2年(1765)相続

従五位下甲斐守

正室・伊予吉田藩伊達村信の娘

子女・7代信房 信真(信房養子、8代)

なんぶ ひろのぶ

八戸藩4代・南部広信

通信長男 母は桂氏 

生没・宝永3年(1706)~寛保元年(1741

家督・享保元年(1716)相続

従五位下甲斐守

正室・亀山藩松平信庸の娘

子女・5代信興

なんぶ みちのぶ

八戸藩3代・南部通信

盛岡藩南部重信の四男 母は某氏

生没・延宝元年(1673)~享保元年(1716

家督・元禄12年(1699)相続

従五位下遠江守

正室・大聖寺藩前田利明の娘

子女・4代広信 修理

 

 

わかうかのめのかみ

若宇加能売命

 

 (わかひるめのかみ)? 

稚日女神

 (わくむすびのかみ)? 

稚産霊神

 (わだ あきため)

和田昭為 ????????

常陸・佐竹氏臣。一時、佐竹氏に背いて白河結城氏に属する。しかし、当主義重の白河城攻略に貢献して帰参を許される。以降重用され、文禄の役の時には国元の留守居を命じられる。佐竹氏の秋田転封にも従う。

和田惟政(わだ これまさ) 15321571

和田氏は南近江の甲賀二十一家、南山六家に数えられた名族。将軍足利義輝に仕え、義輝が摂津・三好氏に襲われ討死後は、京を逃れたその弟義昭に仕え庇護し、上洛の為奔走する。その結果、義昭は織田信長の下上洛し、惟政は信長からも重用されたが、やがて義昭が信長と不和になると、義昭を守って戦う。信長の部将荒木村重の軍に攻撃され、池田知正と戦って勇戦するが捕らえられ殺された。  弟:和田定利、定教

和田通興(わだ みちおき)? ????1554

東予・河野氏臣。伊予・岩伽羅城主。次第に勢力を伸ばしていき、河野氏に従わなくなっていった。その為、当主通宣は平岡房実に命じて通興を鎮圧させたので、落城して敗走し山之内で自害して果てた。

 

 (わたつみのかみ) 

綿津見の神

海の神様。

 

 (わたり しげもと)? 15521620

亘理重元

わたり ぬねたか

亘理宗隆()? 14931556

亘理宗隆には嫡男がなく、伊達稙宗と一人娘(天窓慶普信女)の間に生まれた彦四郎(綱宗)と乙松丸(元宗)を養子に迎え、伊達稙宗は涌澤弾正、千石大炊助を兄弟につけて送り遣わした。1544年、亘理綱宗が、亘理宗隆の家督を継ぐ前の「天文の大乱」の掛田の役にて討死を遂げたため、その実弟の乙松丸(元宗)が亘理家を継ぐこととなった。

亘理宗根(わたり むねもと) 16001669

出羽・伊達氏一族。陸奥・佐沼城主。羽柴秀吉が茂庭延元に与えた高田次郎右衛門女(香の前)が母。しかし、香の前はその後当主政宗に差し出され愛妾となり、政宗落胤との説がある。大坂夏の陣で大野治長の武将・中川隼人の首を獲り、功を得る。亘理重宗の子亘理定宗(伊達定宗)が復姓し、伊達氏を称した為、亘理氏を継いだ。

亘理宗元(わたり むねもと)? 14721531

兄亘理元実が早世していたことから、亘理家の家督を継承した。伊達家との戦いに敗れて麾下に加わっていたが、その後は伊達家から離反し抗争を続けていた。亘理宗元の代にふたたび伊達家の麾下に加わった。

 

わたりけかしんだん

亘理家臣団() 

菱沼時久、坂本俊常、村岡胤信、亘理盛景、山寺蔵人盛純、寺内丹後守、小泉主膳繁、米谷下総延常、大塚蔵人、鷲足主水清久、遠藤半内良知、宍戸刑部方則、星與三左衛門玄親、鈴木七郎左衛門義久、上野善九郎延命、斎源内胤行、粟野右近易意、糠田内膳、大塚甚助、砂金藤四郎、西山源兵衛、安部善四郎、足立刑部、佐藤次郎右衛門、松浦助六郎、遠藤四郎左衛門、猪俣彦右衛門濁清、鈴木九郎左衛門豊住、岡崎彦六郎、大村豊後守、高野本太郎知久、門間助九郎、萱野甚四郎、條又十郎友成。