応神天皇・誉田別尊

応神天皇・誉田別尊

おうじんてんのう・ほむたのすめらみこと

『日本書紀』には、譽田天皇(ほむたのすめらみこと)。この名は、天皇が生まれた時、その腕の肉が弓具の鞆(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来し、ほむたに譽田をあてたものだという。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)
※応神天皇を祭神とする八幡神社の神紋が「巴」を使用しているのは、「鞆の絵⇒巴」によるもの。
また、母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので、「胎中天皇」とも称された。
古事記』には、品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)とある。
☆【神話「三韓征伐」の時代】
記紀神話では、仲哀天皇が熊襲征伐のため、香椎宮に居るときに神功皇后に神託があり、それを信じなかった仲哀天皇は急死。神功皇后は、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
渡海の際は、お腹に月延石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し志免でオシメを代えたと伝えられている。応神天皇の胞衣を箱に納めて安置したところが筥崎宮である。
この頃、朝鮮半島の国と非常に密接な関係を持っていた記事が記紀に見える。
『日本書紀』によると応神天皇14年に弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を天皇に上奏し援軍を求めた。
弓月君(秦氏の先祖)は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。 しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。 そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
古事記』では、「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」。『日本書紀』にも同様の記事が見え、応神五年八月条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神十一年十月条に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という。
古事記』に、百済の国主照古王(百済の近肖古王)が、雄雌各一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて献上したとある。この阿知吉師は阿直史等の祖。また、横刀(たち)や大鏡を献上した。また「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので、「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」。『書紀』の十五年八月条と十六年二月条に同様の記事が見える。また、応神二十年九月条に「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」とあって、多くの渡来人があったことを伝えている。
古事記』に、重要な渡来人「天之日矛」が渡来した神話が描かれているのも応神天皇の時代である。
☆【神話に登場し、実在した】
4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性の高い天皇と見られている。
応神天皇をそれ以前の皇統とは無関係な人物と考え、新たに興った新王朝の創始者とする説がある。この応神から始まる王朝は河内に宮や陵を多く築いていることから「河内王朝」、また「ワケ」の名がついた天皇が多いことから「ワケ王朝」などと歴史学上呼称される。
こうした説が唱えられる理由として、応神天皇の出生にまつわる謎がある。父母は14代仲哀天皇とその皇后である神功皇后であるが、この両者はどちらも実在が疑われることが多い。また応神の出生時の状況も不自然であり、母である神功皇后が身重でありながら朝鮮に赴き、出産を遅らせて三韓征伐を指揮し、九州に帰国した際に生まれたとされている。4世紀末に倭国が朝鮮半島に侵攻をかけて百済と新羅を服属させたことは歴史的事実ではあるが、『記紀』における三韓征伐の記述は神話的でありそのまま信用することはできない。さらに、応神は父の仲哀が死んだ後に生まれた子であり、『書記』によればその出生日が仲哀の死からちょうど十月十日であることも信頼を疑わせる根拠となっている。
井上光貞は、『記紀』に応神が九州の産まれで異母兄弟の麛坂皇子と忍熊皇子達と戦って畿内に入ったという記述があることから、応神は本来ヤマト王権に仕えていた九州の豪族であり、朝鮮出兵を指揮する中で次第に中央政権をしのぐ力をつけて皇位を簒奪し、12代景行天皇の曾孫である仲姫命を娶ることによって入婿のような形で王朝を継いだのではないかと推測している。仲哀天皇と先帝の13代成務天皇はその和風諡号が著しく作為的(諡号というより抽象名詞に近い)であり、その事績が甚だ神話的であることから実在性を疑問視されることが多く、井上はこの二帝は応神の皇統と10代崇神天皇から景行天皇までの皇統を接続するために後世になって創作された存在と考察している。また直木孝次郎は、それまで大和地方に拠点を置いていたヤマト王権が応神の代より河内地方に拠点を移していることから、河内の豪族だった応神が新たな王朝を創始したと推測している。
☆【全国で一番多い八幡神社の祭神である】
朝廷から早くに信仰された「宇佐八幡宮」が京都に勧請されたのが「石清水八幡宮」であり、鶴岡八幡宮は石清水八幡宮を勧請したものである。
石清水八幡宮の産湯を使った「八幡太郎源義家」を始めとして、八幡神は武神として信仰された。
神仏習合の時代、弥勒菩薩の化身が「八幡大菩薩」とされて、民衆から非常に信仰された。
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説もある。
また、社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある。宇佐神宮をはじめとする八幡宮の大部分が応神天皇(誉田天皇)を祭神とするのはそのためと考えられる。
本来、天皇を祭神とする神社がこんなに多いはずはない。
江戸時代までは、八幡神社は「八幡大神」とか「八幡大菩薩」を祭神としていて、武の神様として、また弥勒信仰により、とても栄えていた。
それが、明治になり神仏分離令が発行されると、祭神が「八幡大菩薩」では認められなくなった。それで祭神を「応神天皇」としたり、「誉田別尊」としたのである。


日本の神々