允恭天皇

允恭天皇

いんぎょうてんのう
 ?-453

別:
雄朝津間稚子宿禰尊
父:
仁徳天皇

称号 第19代 允恭天皇(いんぎょうてんのう)
名前 雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくね)
父親 仁徳天皇(にんとくてんのう)

母親
磐之媛命(いわのひめ)

皇后
忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)---子=木梨軽皇子
=多形大娘皇女  
=穴穂皇子(あなほのみこ)(安康天皇)、
= 大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけ)(雄略天皇
妃=衣通郎姫(そとおしのいらつめ)---忍坂大中姫命の妹

皇居
遠飛鳥宮(とおつあすか)

陵墓

陵名

	恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)

  古墳 国府市野山古墳
  形状 前方後円墳、堀
  所在 大阪府藤井寺市国府1丁目

  古市古墳群では4番目の規模を誇る前方後円墳。全長227mで前方部を北に向けている。墳丘は三段築成でくびれ部に造り出しを有す。二重の堀をもっていたが現在は埋められているという。
円筒形埴輪や家、盾、人物などの形象埴輪も多数見つかっている。5世紀後半ごろの築成だろうと考えられている。

御陵には、駐車場はあるのだが、支柱が立っていて入れない。交通の頻繁な道路で車で行くと苦労する。

略歴(5世紀)
410-庚戌-反正05年01月23日 同母兄の反正天皇が丹比柴籬宮正殿で崩御
412-壬子-允恭01年12月 即位
皇位継承を懇願されるが病気を理由に一旦は拒否するが妃の忍坂大中姫命に促されようやく引き受ける。
413-癸丑-允恭02年02月14日 妃の忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)を皇后とする。
414-甲寅-允恭03年01月01日 使いを遣わし新羅で良い医者を求める。
414-甲寅-允恭03年08月 新羅から医者がきて天皇の治療にあたった。程なく病気は治ったという。医師には厚く御礼をして国にかえした。
415-乙卯-允恭04年09月09日 姓氏の詐称を憂い正すよう詔する。
415-乙卯-允恭04年09月28日 盟神探湯(くがたち)という審議判定法で姓氏を正した。
盟神探湯とは一種のうそ発見器で、熱湯の中に入るとうそをついているものは傷つき、正しいものは傷つかない・・・というもの・・・・無茶なはなしではある。
416-丙辰-允恭05年11月11日 反正天皇を百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ) に葬る
436-丙子-允恭23年03月07日 木梨軽皇子を皇太子とする
437-丁丑-允恭24年06月 木梨軽皇子と同母妹の多形大娘皇女が相姦していることが発覚し、多形大娘皇女は伊予に移される。
453-癸巳-允恭42年01月14日 崩御 年齢不詳(78歳か?)
453-癸巳-允恭42年10月10日 天皇は長野原陵(ながののはらのみささぎ)に葬られた


第19代に数えられる天皇。名はオアサヅマワクゴノスクネノミコト。仁徳天皇の第4皇子,母は皇后イワノヒメノミコト。大和遠飛鳥宮(→飛鳥)に都し,皇后はオサカノオオナカツヒメノミコトという。兄反正天皇に次いで即位。氏姓の混乱を正すため,盟神探湯(くかたち)を行なったと伝えられる。陵墓は允恭天皇陵,市野山古墳とも呼ばれる大阪府藤井寺市国府の恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)で,2019年世界遺産の文化遺産に登録。(→倭の五王)

允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰尊)

  生没年:?-453
  父:仁徳天皇
    412-453 允恭天皇
  皇后:忍坂大中姫命(父:稚渟毛二派皇子
    皇太子 木梨軽皇子
    名形大郎皇女
    坂合黒彦皇子
    401-456 穴穂尊
    軽大郎皇女
    八釣白彦皇子
    418-479 大泊瀬幼武尊
    但馬橘大郎皇女
    酒見皇女
  妃:衣通姫(父:稚渟毛二派皇子


仁徳天皇━━━允恭天皇━┳━皇太子 木梨軽皇子
            ┣━名形大郎皇女
            ┣━坂合黒彦皇子
            ┣━穴穂尊
            ┣━軽大郎皇女
            ┣━八釣白彦皇子
            ┣━大泊瀬幼武尊
            ┣━但馬橘大郎皇女
            ┗━酒見皇女


天皇家