【日本古代史ミステリー】古代日本を統治した「大和王権」と「邪馬台国」に関連性はあったのだろうか?

今月の歴史人 Part.3
歴史人編集部
古代
日本史
2023.09.25

邪馬台国と大和王権はよく聞く言葉であり、古代日本を統治していたということは周知のとおりだが、改めてこのふたつの国、王権の関連性は、と聞かれると「?」マークがでざるをえない。このふたつのものに果たして関連性はあったのだろうか?

■邪馬台国と大和王権の関連性はあったのだろうか?

神戸市にある「五色塚古墳」。大和王権の大王級の大きさを誇る。

 古代に日本列島を統治した「倭国」のことを、国内では「やまとのくに」と呼んだ。

 漢字表記は、「大和」「倭」「日本」などいくつかあったが、これを当時「やまと」と読んだことは、たとえば『万葉集』の「山跡(やまと)乃国」とか「山常(やまと)」などといった表記や、『日本書紀』神代上・第四段に「大日本〔日本、此 耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆此に效へ〕」とあることによって知られている。「やまと」は元は大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市から桜井市)の地名であって、原義はここにそびえる三輪山(みわやま)の麓という意味であろう。もともとこのような小さな地名であったものが、のちに大和国(現在の奈良県)の国名となり、さらには国家の名前にまでなったのである。これはひとえにこの地域の政治勢力が、奈良盆地全体を治めるまでに成長し、さらにはこの列島の大半を統治し、都を定めるまでに発展したからに他ならない。

「倭国」や「日本国」を普通には「やまと」と読めないにもかかわらず、そう読むのはこうした事情があるからである。 『魏志倭人伝』にみえる「邪馬台国」を、「ヤマト」、「ヤマタイ」国と読むこともほぼ異論はないだろう。3世紀初頭から半ばにかけて卑弥呼が中心地としていたのは、この邪馬台国であった。筑前国や筑後国、またそれ以外にも「ヤマト」という地名は存在しており、邪馬台国がこれらの地名に由来する可能性がないわけではない。

 しかし合理的に考えて、この邪馬台国と『記・紀』万葉にみえる「山跡乃国」「山常」が偶然の一致である可能性は、きわめて低いのではないだろうか。

 もちろんこの一事のみで邪馬台国=大和国説を唱えるのは早計だが、このことを軽視したり無視したりはできない。

 そして卑弥呼の時代にこの「ヤマト」一帯に広がっていた一大集落が纏向(まきむく)遺跡である。ここには最古の巨大前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳がある。その築造は3世紀半ば過ぎと推定され、卑弥呼の墓である可能性は十分にある。

 この周辺一帯には、箸墓を含む「オオヤマト古墳群」(あるいは「大和・柳本古墳群」)がある。箸墓古墳の後にも、西殿塚古墳、行燈山(崇神陵)古墳、渋谷向山(景行陵)古墳と当時最大級の巨大前方後円墳が造られていた。

 このうち西殿塚古墳を卑弥呼の後継者・壱与(いよ)の墓とする説がある。ただ行燈山古墳の被葬者を崇神天皇、渋谷向山古墳の被葬者を景行天皇と確定するには慎重な考察が求められる。

『魏志倭人伝』と『記・紀』とをどう結びつけるのか、つけないのか、深い考察が必要になるだろう。まだ結論は出ていない。

監修・文/水谷千秋

歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より

2024-04-09 (火) 10:19:17
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Last-modified: 2024-04-09 (火) 10:19:17