米軍が日本軍を「三流の兵隊」呼ばわりした理由…米軍が日本兵捕虜から得ていた情報 †2024/8/12(月) 6:30配信 現代ビジネス 敵という〈鏡〉に映しだされた赤裸々な真実。 日本軍というと、空疎な精神論ばかりを振り回したり、兵士たちを「玉砕」させた組織というイメージがあります。しかし日本軍=玉砕というイメージにとらわれると、なぜ戦争があれだけ長引いたのかという問いへの答えはむしろ見えづらくなってしまうおそれがあります。 【写真】「我々は絶滅戦争に突入するだろう」…日本兵の日記に書かれていた「真実」 本記事では、日本陸軍兵士たちが対米戦争についてどう考えたかについて、くわしくみていきます。 ※本記事は一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』から抜粋・編集したものです。 対米戦争についてどう考えたか 日本兵は5年間服役すれば日本に帰ってよいと言われている。5年の服役を終えて帰国する日本兵の一団をみたことがある。彼らは幸運にも戦争から抜けられるのを非常に喜んでいた(今や80パーセントの日本兵が戦争は苦痛で止めたいと思っている、しかし降伏はないとも思っている)。1943年に私が出会った日本兵は完全に戦争に飽いていた。彼らは熱帯を呪い、家に帰りたいと願っていた。ある者は東条〔英機首相〕を含めた全世界の指導者に棍棒を持たせて大きな籠の中で戦わせ、世界中の兵士たちはそれを見物したらいいと言った。 日本兵は降伏しようとしてもアメリカ軍に殺されると教えられているが、私のみるところ、それは降伏をためらう主要な理由ではない。恥(shame)が大きな影響を与えている。都会の日本兵は映画のおかげで親米(pro-American)である。皆お気に入りの映画スターがいて、クラーク・ゲーブルやディアナ・ダービンの名前がよくあがった。私がアメリカで買える物を教えてやると彼らは驚いたものだ。むろん田舎者は信じようとしなかったが、都会の者は熱心に聞いていた。 日本軍の最初の一団はアメリカへ行くものと確信していたが、1942年11月、南西太平洋に出発する前にはこの戦争は百年戦争だと言われ、そう信じていた。 日本軍の最後の一団は戦争に勝てるかどうか疑っていた。日本の市民の何人かは、日本はもうだめだと言った。彼らは生命の危機を案じ、日本陸軍が撤退して置き去りにされたら占領地の住民に皆殺しにされるのではないかと怯えていた。 日本兵たちの多くは「百年戦争」と教えられた戦争を倦み呪っていたこと、同じ日本兵にも都会と田舎では相当の文化的格差があり、特に前者は本当のところ「親米」であったことがわかる。ディアナ・ダービンは1938年正月に主演映画『オーケストラの少女』が日本で公開された人気女優で、若き日の田中角栄は翌39年に徴兵で陸軍に入った際、彼女のブロマイドを隠し持っていたのを上官に見つかり殴られたそうである(戸川猪佐武『田中角栄猛語録』1972年)から、軍曹の話は不自然ではない。 軍曹の見た日本兵たちは確かに「望みは世界を征服して支配民族になること」であり、「我々を打ち負かした後はロシアを取り、続いてドイツと戦うのだと言っていた」(前掲「日本のG.I.」)。しかしその一方で前出の映画に象徴されるアメリカ文化の強い影響下にあり、「親米」でもあった。 これは、対米戦争当初の日本にはアメリカ人に対する蔑称らしいものがなく「鬼畜米英」が盛んに叫ばれるのは44年に入ってから、つまり実際には対米戦意が高いとはけっしていえなかったという、現代の歴史研究者の指摘を裏書きする(前掲吉田裕『シリーズ日本近現代史6 アジア・太平洋戦争』2007年)。引用文中の「日本の市民」とは移民などで現地にいた在留邦人を指すか。 米軍軍曹は戦地の日本兵たちの娯楽について「映画(初期の勝利を宣伝官が観せている)も、古いアメリカの映画もある。日本兵はアメリカの唄と踊り付きミュージカルコメディをみると熱狂する」とも語っている。戦地ですら日本軍兵士が敵米国製映画に「熱狂」していたとの証言は、彼らの「対米戦争観」の内実を考えるうえできわめて興味深い。 名誉意識 †IB「日本のG.I.」の米軍軍曹は日本兵たちの名誉意識、つまり軍人としての誇りや戦って死ぬための大義について、次のような観察をしていた。 日本兵たちは天皇のために死ぬことが最高の名誉だと教えられている。彼らはヤスクニ神社に祀られ、一階級進められる。しかし大きな戦闘だと兵は二階級進められる(戦死すれば)。田舎者はたいへん素晴らしいことだと思っているが、教育を受けた都会の者はだまされない。多くの者が「Little Willie」を切実に求めている〔44年3月、独ベルリン空襲で高射砲に撃破されつつもかろうじて生還した米軍B-17爆撃機「Little Willie」号になぞらえ「帰還」を意味するか〕と言う。 同じ日本人でも、靖国神社をめぐって「都会の者」と「田舎者」の間に温度差があるという指摘は興味深い。お上の教える殉国イデオロギーに対する批判精神の強弱は、それまでの人生で受けてきた教育の場と長さに比例するのだろう。天皇のために死んで靖国へ行くためでなければ、日本兵たちはいったいなぜ戦うのか。軍曹は続けて言う。 だが一方で皆降伏したり捕虜になったら祖国には戻れないと信じている。もしそうなれば殺されると言っており、もっとも教育のある者ですらも同じく信じている。この信念が、彼らを強敵たらしめている基本的要素の一つである。体罰への恐怖もまた、戦場での働きの重要な要素である。個人的には、日本兵は頭脳と自分で考える力を考慮に入れる限り、三流の兵隊だと思う。私は数人の、どの陸軍でも通用する兵隊に出会ったが、それはあくまで数人に過ぎない。 天皇や靖国のためではなく、味方の虐待や体罰が怖いから戦っているに過ぎないという軍曹の指摘を踏まえるならば、日本軍兵士は敵アメリカと戦うための明確な大義を「自分で考え」、敵を激しく憎むことができなかったことになる。このことが米軍側から「三流の兵隊」呼ばわりされるに至った根本理由だったのかもしれない。 ところで軍曹は「日本兵は互いに愛情を持たない。例えばあるトラック中隊は上級将校の命令がない限りよその中隊を手伝おうとしない。トラックの仕事がないとのらくらしている」とも述べて、日本兵たちの態度に奇異な印象を示していた。これは法社会学者・川島武宜が日本の「非近代的=非民主的社会関係」を支配する原理のひとつに挙げた「親分子分的結合の家族的雰囲気と、その外に対する敵対的意識との対立」すなわち「セクショナリズム」そのものである(前掲『日本社会の家族的構成』)。 もっと卑近な言い方をすれば、自分の属するムラ(=中隊)の中では互いに酒を飲み助け合うが、ヨソ者には冷たいといったところか。日本陸軍はその末端において、天皇や「公」への忠誠よりも仲間内での「私」情により結合する組織であった。 日本陸軍が1943年の『軍隊内務令』(軍隊生活の規則書)制定にあたって軍内にはびこる「親分子分の私情」や「功利思想」を完全否定し「大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神」を改めて強調せざるを得なかった(拙著『皇軍兵士の日常生活』2009年)のも、こうした日本兵たちの日常的態度をみればよく理解できる。 捕虜との会話 †写真:現代ビジネス これとは別に、米軍が日本兵捕虜に行った尋問からも、彼らの戦争観や戦いの行く末についての考えを知ることができる。IB1943年5月号「日本兵捕虜から得た情報」は「数人の捕虜が、アメリカ合衆国、イギリスとの戦争に行くのは嫌だったと述べている。一人の捕虜は、日本の兵士や水兵たちが戦争に負けるのではないかとの見通しを語っていたと述べた。彼はロシアが日本に向かってきてウラジオストクを爆撃基地として使うのではないかとひどく恐れていたと述べた」と報じている。 米英との戦争だけでも負けそうなのに、ソ連までが攻めてくるのではないかという恐怖心が兵士たちの間に存在し、その士気を押し下げていたのだろう。 同記事によると、少なくとも二人の日本兵捕虜が、上官からの扱いを恨んで脱走したという。「うち一人はマラリアでニューギニアの休養所(rest camp)に入れられ、上官から「怠け者」と責められて「蹴られ、小突かれ、殴られた」。彼はこの扱いに絶望的となり、オーストラリア軍の戦線にたどり着くまで三日間ジャングルをさまよった」という。もう一人は「ガダルカナルで割り当てよりも多くの米を要求したら将校に叱られたのでジャングルに入りこみ、米軍の戦線にたどり着いた」という。 数は少数かもしれないが、日本陸軍にも上官の振る舞いや待遇に不満を持ち脱走、敵軍を頼った者がいたのだ。軍上層部はこれを「奔敵」と呼び、すでに日中戦争の時から問題視していた。その件数は確認されただけで1937~43年度までに152件にのぼっている(陸軍省『陸密第二五五号別冊第八号 軍紀風紀上等要注意事例集』1943年1月28日)。 これらの日本兵捕虜たちは自分の行く末に関する米軍の尋問に対し、先に示した友軍兵士たちの「万一捕虜になったら国には絶対帰れない」という認識(『日本軍と日本兵』62頁参照)とはいささか異なる趣旨の答えをしていた。 捕虜の多くは、捕まったのは終生の恥(life-time disgrace)であると語った。最近尋問されたある捕虜は、祖国に帰ったら全員殺される、父母さえも自分を受け入れないだろうと言った。しかし、何らかの手心が加えられるかもしれないとも述べた。別の捕虜は、生まれ故郷でなければ、帰国して普通の生活ができると思っていた。(前掲「日本兵捕虜から得た情報」) 捕虜たちにとっては皮肉にも「生まれ故郷」の人びとこそが最大の足かせとなっていた。逆に言うと、「生まれ故郷」以外なら元捕虜の汚名を背負っても何とか生きていけるだろうという打算をはたらかせる者もいたのである。皆が皆、『戦陣訓』的な「恥」イデオロギーを内面化させ、その影響下で日々の生活を送っていたのではない。 なお、ある捕虜は「惨敗した連隊長は「面子を保つ(saving face)」ため部隊の編成地に戻されて厳重に処罰され自殺すると述べた」という。確かに1939年のノモンハン事件で複数の日本軍連隊長が敗北の責任をとらされて自決に追い込まれた事実があり、こうした噂の伝播が将校をして部下もろとも絶望的な抵抗に駆り立てさせたとも考えられる。 日本軍の兵士に対する待遇に関しては、ほかにもいろいろなことが捕虜たちの談話から読みとれる。たとえば、「日本の下士官兵は給料を家族に仕送りするのを禁じられていた。彼〔捕虜〕はこれに関して、下士官兵は給料の全額で必要な品物を買うべきだというのが陸軍の考えだと説明した」(IB「日本兵捕虜から得た情報」)という。日用品を買う程度の給料しか与えられない徴兵兵士たちは、故郷に残してきた家族の生活を案じていたのだ。 さらに【つづき】〈「我々は絶滅戦争に突入するだろう」…米軍が捕獲した日本兵の日記に書かれていた「真実」〉では、日本兵の日記から、対米戦下の日本兵の士気、意識についてくわしくみていきます。 一ノ瀬 俊也(歴史学者) |