【世界史】第6回 古代オリエント史④ 〜オリエントの統一

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1.アッシリアによる統一
 これまでオリエント諸地域の様々な民族や国家の歴史を振り返ってきました。今回はこれまで分裂してきたオリエントが強い国家によって1つにまとまっていく過程を学んでいきたいと思います。その強い国家とはアッシリアとアケメネス朝という2つの国家です。この2つの国の統治の仕方の違いなどにも注目してみて下さい。

 アッシリア王国は前2千年紀(紀元前2000年〜前1001年)初めに北メソポタミアでおこった国です。当初は国際中継貿易を特徴とする地方の都市国家の1つに過ぎませんでした。しかし、徐々に勢力を伸ばし、ヒッタイトから伝わった鉄製の武器や戦車などを使用して、前7世紀には全オリエントを征服したのです。このときの支配者アッシュール=バニパルの名は知っておきましょう。彼はアッシリア最盛期の王であり、実質最後の王でもあります。首都ニネヴェに大きな図書館を建設しました。ギルガメシュ叙事詩などもこの図書館に収められていました。

 ところで、全オリエントとはどこを指すのでしょうか。当然、これまでの講義で扱ったオリエント全ての地域なので、エジプトもメソポタミアもシリアも全て征服したのです(世界史上初の世界帝国と呼んでもいいでしょう)。アッシリアは強大な専制君主(国家の権限を独占的にもっている支配者)たる王が政治や軍事を管理していたのですが、これだけ広い領地をうまく治めるために、国内を州に分けて各地に総督をおきました。また、情報伝達手段として駅伝制を取り入れました。しかし、被制服地を徹底的に破壊したり、民へ厳しい徴税を行ったりという圧政は人々の反発をかう結果となりました。紀元前612年に帝国は民の反抗を招いたことが主因で崩壊することとなったのです。アッシリアは世界帝国と呼ばれるほどの領土を得ながら、短命に終わってしまいました。

2.4王国分立時代
 アッシリアの崩壊後、その領地は4つに分裂してしまいます。エジプト、リディア、新バビロニア、メディアの4つです。さて、聞いたことがある国名がありませんか?そうです、新バビロニアは、ヘブライ人のバビロン捕囚を行った国として前回の授業で紹介しました。 また、リディアの名前も知っておいて下さい。リディアという国は、世界で最初に貨幣を鋳造したことで知られています。

3.アケメネス朝による統一
  紀元前550年、アケメネス家のキュロス2世がメディアを倒してアケメネス朝を建国します。このアケメネス朝は200年ほどの間、オリエントを支配することとなります。キュロス2世はメディアやリディアを征服するなど勢力を拡大し、バビロンを陥れた際にはバビロン捕囚で捕まっていたユダヤ人たちを解放したというエピソードもあります。そして、続く第2代のカンビュセス2世がエジプトを併合し、ほぼ全オリエントを統一しました。さらに、国としての最盛期を迎えるのが第3代の ダレイオス1世の時です。西はエーゲ海北岸から東はインダス川に至る大帝国を建設しました。この広大な帝国を統治するためにアッシリアでも採用された制度を採用します。全国の要地を「王の道」と呼ばれる道でつなぎ、都スサを中心とする駅伝制を取り入れたのです。また、各州には知事(サトラップ)を配置し、一方では「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を巡回して、地方の統治をチェックしました。ダレイオス1世の巧みな帝国統治の方法は他にもあります。フェニキア人やアラム人の貿易を保護して、経済活動を活発化させたこと。また、征服した民族に対してはその民族の宗教や風習を尊重するなどの寛容的な態度をとったことなどが挙げられます(アッシリアの統治とはこの寛容政策の部分が大きく異なりますね)。

  しかし、ダレイオス1世の死後、アケメネス朝は衰退の一途をたどることとなります。そして、アレクサンドロス大王が攻め込んできた後、そのときの王ダレイオス3世は攻勢をしのぐことができずに、アケメネス朝は滅びることとなったのです。

 アケメネス朝はイラン人(ペルシア人)による国です。この時代の文化として、まず知っておくべきなのはゾロアスター教(拝火教)という宗教のことでしょう。 ゾロアスター教は、2つの神の対立によって世界が動かされていると考えます。善なる神(光の神)アフラ=マズダと悪の神アーリマンが対立しているのですが、最終的には「最後の審判」によって、正しいものが勝利し、正しくないものが罰せられるという教えなのです。この「最後の審判」を含めたゾロアスター教の思想は、ユダヤ教やキリスト教に大きな影響を与えました(神が審判を下し、自分たちは救われるという選民思想がユダヤ教にありましたね)。また、中国にも伝わり、祆教(けんきょう)と呼ばれました。他に当時の文化的特徴としては、イラン人は建築や工芸などに多くの成果をあげ、楔形文字を表音化してペルシア文字をつくったことが挙げられます。

4.パルティアとササン朝の興亡
 アレクサンドロス大王がアケメネス朝を滅ぼしたところを確認しましたが、この後、イラン地域はどのような国々が登場してきたのかを簡単に見ておきましょう(アレクサンドロス大王の生きている間の活躍についてはまた後日に触れたいと思います)。 アレクサンドロスの死後、彼が征服したアジアの領土はすべてギリシア系のセレウコス朝(シリア)が請け負うこととなりました。そのなかからアム川上流域のギリシア人が独立してバクトリアという国をつくります。続けて、遊牧イラン人のアルサケスが「よし、おれもいっちょやったるか!」と言わんばかりにパルティアという国を建国しました(中国では安息と呼ばれていました)。パルティアは都をクテシフォンに定めたのですが、場所がヨーロッパとアジアを結ぶ中間点ということで、東西交易の利益を独占して大いに栄えたといいます。
 交易で栄え、騎馬隊が強かった(ローマ帝国は幾度となく敗れています)というパルティアを滅ぼしたのが、農業中心の生活をしていたイラン人が建てたササン朝という国です。国を建てた人物はアルダシール1世。パルティア同様クテシフォンに都をおいて国力の増強に努めました。また、ゾロアスター教を国教に定めたことも知っておきましょう(ササン朝の時代にゾロアスター教の聖典「アヴェスター」が編纂されました)。

 ササン朝の第2代の皇帝はシャープール1世です。彼はシリアに侵入してヨーロッパを支配していたローマ帝国の軍を破り、時の皇帝ヴァレリアヌスを捕虜としているのです。このように自国の西方ではローマと激しく争う一方、東方ではインドのクシャーナ朝を屈服させ、インダス川流域まで支配領域を広げています。後に5世紀頃にエフタルという民族の侵入を受けて、一時的に混乱しますが、6世紀にこの王朝第一と呼ばれる名君ホスロー1世によって、ササン朝は最盛期を迎えます。ホスロー1世は突厥(トルコ系民族の祖)と手を結んで、エフタルを滅ぼし、ローマ帝国から分裂した東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と手を結ぶことに成功しました。

 しかし、ホスロー1世の死後、ササン朝は徐々に力を弱め、7世紀に新興勢力であるイスラーム勢力(アラブ人)によって征服されて滅んでしまいました。イスラーム勢力が入り込んできてオリエント世界は新たな局面を迎えることとなるのです。


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Last-modified: 2019-05-10 (金) 06:31:00