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遠山綱景(とおやま つなかげ) ????~1564 
○直景? 甲斐守 丹波守
◇父:遠山直景 弟:遠山直親?直次? 子:遠山政景
 相模・北条氏臣。江戸衆筆頭として江戸城代を務めた。風流を解し、1544年には江戸城で連歌の会を開いている。第2次国府台合戦において太田康資と戦い討死。


土岐則基(とき のりもと) ????~1578
○大和之介
◇子:高田善助則忠
 津軽・浪岡氏臣。浪岡氏はすでに南部氏に従っており、石川高信による三代主水の乱鎮圧に参陣して功を得て、知行800石の高田館主となる。南部氏から独立した大浦為信によって浪岡氏が滅亡すると、運命を共にした。


土岐政頼(とき まさより) 1499~1547
○二郎 左衛門尉 盛頼 頼純 美濃守
◇父:土岐政房
 第10代美濃守護職に就く。しかし、弟頼芸と対立し、その家臣西村勘九郎(斎藤道三)の攻撃を受け、越前・朝倉氏の元に身を寄せた。その後、朝倉氏の援護を受け美濃に侵攻するが果たせなかった。後に美濃・大桑城に迎えられるが死去。毒殺とも。


土岐頼芸(とき よりあき) 1502~1582
○二郎 左京大夫 美濃守
◇父:土岐政房 室:六角定頼女、一色義清女 子:土岐頼栄、頼次、頼宗、頼元、頼勝、頼昌
 美濃・土岐氏一族。西村勘九郎(斎藤道三)に擁立されて、当主の兄政頼を逐い11代守護となる。しかしやがて自身も道三に逐われて、一度は和解して帰国するも再度追放。以後越前、甲斐、上総を流浪。最後は斎藤氏の滅びた美濃に戻り死去。


土岐為頼(とき ためより) 1523~1583
○頼定? 弾正小弼
◇父:土岐頼元(頼房)? 子:土岐右京大夫頼春、頼実
 父祖は美濃・土岐氏一族というが、安房・里見義堯の義父として、その一翼を担う。上総・万喜城主。1542年相模・北条氏に内応を求められるが、これを断り、逆にこれに応じた真里谷信政を攻略に参陣している。しかし1564年第2次国府台合戦後、北条氏に仕えたことから、里見氏に攻められるが、要害を生かして守り通した。


土岐治英(とき はるひで) ????~1584
○原氏 大膳大夫
◇父:原治頼 子:土岐美作守治綱、胤倫
 常陸・原氏一族。原氏は美濃土岐氏庶流で、美濃土岐氏滅亡の頃から土岐氏を名乗ったという。これまで支援を受けていた関東管領・上杉憲政が越後に逃れると、相模・北条氏と結んで、北の佐竹氏に対抗すると共に、仇敵小田氏治氏とも結んだ。


土岐頼香(とき よりか?) ????~1544
◇父:土岐政房 室:斎藤道三女
 美濃守護・土岐氏一族。1544年尾張・織田信秀と戦いの中、無動寺にて舅斎藤道三の意を受けた松原源吾に討たれた。


土岐頼次(とき よりつぐ) 1545~1614
○太郎法師丸 二郎 左馬助 頼師 宗卜
◇父:土岐頼芸 子:斎藤頼吉、土岐頼勝、頼高、頼泰
 美濃守護土岐頼芸二男。兄頼栄が父と不和となって廃嫡された為、嫡子となる。父と共に、家臣西村勘九郎(斎藤道三)に国外追放され、大和・松永久秀に仕える。1587年豊臣秀吉に馬廻衆として仕えて、河内に500石得る。関ヶ原合戦後、徳川家康に仕えて所領安堵された。


土岐頼栄(とき よりひで) ????~????
○猪法師丸 小次郎 頼秀 宮内少輔
◇父:土岐頼芸 室:稲葉一鉄女 子:土岐光義、昭頼、頼長、栄興
 美濃・土岐氏一族。西村勘九郎(斎藤道三)の讒言等から父と不和となり、叔父揖斐光親らと結んで争う。これは尾張・織田信秀の尽力で和解するが、後に廃嫡された。


土岐頼満(とき よりみつ) ????~????
○七郎 頼充
◇父:土岐政房 室:斎藤道三女
 美濃守護・土岐氏一族。土岐氏弱体化を狙う舅斎藤道三に、宴に誘われ毒殺された。


土岐頼元(とき よりもと) 1549~1608
○五郎左衛門 頼重 道庵 越前守
◇父:土岐頼芸 子:土岐持益
 美濃守護・土岐氏一族。父頼芸が逐われた後も美濃に残り、斎藤家に従う。斎藤氏滅亡後は甲斐・武田氏、さらに羽柴氏、徳川氏に仕えた。


得居通年(とくい みちとし) ????~????
○来島村上氏 太郎左衛門 半右衛門 通之
◇父:来島通康
 来島通康の嫡男。土居、得能両氏の子孫であったことから得居氏を名乗る。水軍を率いて伊予・河野氏に仕えたが、羽柴秀吉の四国侵攻の際これに降る。朝鮮出征の時水軍を率いて出陣するが、慶長の役で朝鮮・鳴梁において戦死。後嗣なく所領は没収された。


戸波親清(となみ ちかきよ) ????~????
○十兵衛 又兵衛 与三兵衛 主水 貞之 親吉
◇父:戸波右兵衛親武
 土佐・長宗我部氏一族。当主元親、盛親に仕えて、諸戦に活躍。大坂の陣にて、盛親が大坂入城にも従う。夏の陣では、徳川方藤堂高虎の軍と戦う。敗戦後、盛親を守って潜行するが、発見されるところとなった。1626年近衛信尋の推挙で高虎に臣従、150石領有。伊賀・荒木又右衛門が仇討の際に、刀を折った事を批判して、これを聞いた又右衛門に師事されたという。


富田隆実(とみた たかざね) 1569?~???? 
○将監
◇父:富田美作守氏実 弟:佐瀬常雄、富田実積
 磐城・蘆名氏のいわゆる蘆名四天の宿老の1人。1589年、陸前・伊達氏との摺上原の合戦において、他の宿老や父美作らが、所領安堵を条件等に裏切る中、蘆名側に忠誠を尽くして参陣。伊達方の猪苗代盛国、原田宗時、片倉景綱らを撃ち破る活躍を見せた。戦後は常陸に流亡したといわれる。


富田長繁(とみた ながしげ) 1552~1575
○弥六郎 弥太郎 長秀
 越前・朝倉臣にて府中城主。尾張・織田氏との戦いでは織田氏に内通し、主家が滅ぼされた後これに仕えた。一向一揆征伐に活躍したが、他の寝返り組の旧朝倉の臣の中で冷遇された為、逆に一向一揆と結んで彼らを滅ぼすが、これで人望を失う。その後、長繁自身も一向一揆との戦いの中、寝返った味方に背後より鉄砲で撃たれた。


土居清良(どい せいりょう) 1546~1629 
○虎松 三郎 式部大輔
◇父:土居清晴 室:西園寺実充女
 伊予・西園寺氏15将の一人。紀伊・鈴木氏の裔と伝う。落城により土佐・一条氏人質として幼少を過ごすが、やがて伊予・三間城に還って勢力拡大に努め、阿波の三好氏、豊後の大友氏ら攻め寄せる外敵に対し度々争い活躍した。1579年には攻め寄せる長曽我部軍を破り、その軍代久武親信を討ち取る働きをみせた。戸田氏の伊予入国後隠棲し、84歳で没。「清良記」は清良を扱った軍記物。


土居宗珊(どい そうざん) ????~1569(1572?) 
◇子:土居肥前守勝行
 土佐・一条氏家老。主君兼定が酒宴遊興に耽り政事を顧みない為、これを諫言したが、疎んじられ殺された。



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Last-modified: 2019-05-15 (水) 22:48:00