アッカド人/アッカド王国/アッカド語

前2300年頃、メソポタミア地域を最初に統一したセム系民族。アッカド王国を建設したが、前2150年頃衰退した。アッカド語はオリエントの公用語として広く用いられた。

メソポタミア最初の統一王朝

 アッカド人はセム語系に属する民族で、メソポタミア全域を最初に統一した領域国家を建設した。アッカドはメソポタミア南部のユーフラテス下流でバビロニアといわれた地方の北よりの地域名で、現在のイラクの中部に当たる。彼らは次第に南部のシュメール人と抗争するようになり、前2300年頃、サルゴン1世がメソポタミア南部を支配し、アッカド王国(前2334~2154年)(アッカド王朝とも言う)を成立させた。サルゴン1世は交易路を抑え、メソポタミア全域におよぶ中央集権的な領土国家の最初の支配者となった。
 アッカド王朝は11代約180年続いたが次第に衰退し、前2150年頃、バビロニアの東北からおこたグディ人の侵略を受けて滅亡した。その後、メソポタミアはふたたびシュメール人が独立し、ウルを拠点にウル第3王朝が出現する。アッカド時代の遺品としては、スサで発見された「ナラム=シン王の石碑」(ルーブル博物館蔵)が有名。 → メソポタミア文明

アッカド語がメソポタミアの公用語となる

 アッカド王国メソポタミアほぼ全域を支配する領域国家となったことによって、アッカド人の使うセム語系のアッカド語がメソポタミアの公用語となり、都市国家段階のシュメール語は使われなくなった。しかし、アッカド人は文字を持っていなかったので、その表記にはシュメール人の楔形文字を使った。これによって楔形文字は継承され、さらにメソポタミア全域で用いられる文字になった。
 前18世紀の古バビロニア時代の有名なハンムラビ法典もアッカド語を楔形文字で書き表している。前14世紀のエジプト新王国時代の外交文書として1887年に発見されたアマルナ文書もアッカド語で書かれていた。さらに前7世紀前半にオリエントを統一したアッシリア帝国においては公用語はアッカド語とアラム語が併用され、アッカド語を書くには楔形文字、アラム語を書くにはアラム文字が使われていた。

アッカド王国

成立 ( 前 2350 年 )関連概念 : 中東 古代文明 現イラク・イラク

メソポタミア文明隆盛時、サハラの砂漠地帯からセム語系の人々が、メソポタミアの南部バビロニアの北半分の地域に移住していた。

「アッカド」とは、この地域の中心的都市である「アガデ」の別の呼び方でもある。
後にバビロニアは、シュメールとアッカドを併せた領域から形成されていき、アッカド語がバビロニアの言語となった。

【歴史】

アッカドに住みついた人々は都市国家を成立させていたが、やがて、シュメール都市国家成立を吸収して、チグリス川とユーフラテス川の間を中心に栄えた。

サルゴン(在位、前2350年頃-前2295年頃)が登場するまで、アッカドについてアッカド語でかかれた記録はなかった。

伝統的にはサルゴンがアッカドとシュメールの統一帝国の最初の支配者と位置付けられている一方、最近の学説では、前王ルーガルザゲシの下でシュメール人の膨張が始まったことを示唆している。

サルゴンはこの膨張をさらに推し進めて多くの地域を征服し、彼によって創造された帝国は地中海やアナトリア半島にまで到達した。

アッカド帝国アッカド王国

サルゴン(サルゴン1世)によって創始されたアッカド帝国は、サルゴンの孫であるナラム=シンの時代までにさらに版図を拡大させたが、各地で勃発する反乱に悩まされ続けた。

ナラム=シンの時代に、自らの名と神をあらわす「サイン」という語が並記され始め、すなわち、王権の神格化が始まっている。

しかし、ナラム=シンの死後は、アッカド帝国の指導力は衰えて各地の勢力が自立していった。

アッカドは、シュメールとともに古バビロニア王国成立に吸収されたが、「アッカド」の名はアケメネス朝ペルシア成立まで続いた。

【アッカド語の衰退】

前15世紀頃には、フェニキア人が地中海貿易に従事し始め、アラム語が普及し始めており、公用語としてのアッカド語の失墜が見られた。

これをメソポタミア文明の衰退と見る。


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Last-modified: 2019-05-11 (土) 18:20:00