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和知直頼わち なおより

和田昭為(わだ あきため) ????~???? 

○掃部助 安房守
◇父:和田豊前守
 常陸・佐竹氏臣。一時、佐竹氏に背いて白河結城氏に属する。しかし、当主義重の白河城攻略に貢献して帰参を許される。以降重用され、文禄の役の時には国元の留守居を命じられる。佐竹氏の秋田転封にも従う。

和田惟政(わだ これまさ) 1532~1571

○伊賀守
◇父:和田惟助 弟:和田定利、定教 子:和田伝右衛門惟長
 和田氏は南近江の甲賀二十一家、南山六家に数えられた名族。将軍足利義輝に仕え、義輝が摂津・三好氏に襲われ討死後は、京を逃れたその弟義昭に仕え庇護し、上洛の為奔走する。その結果、義昭は織田信長の下上洛し、惟政は信長からも重用されたが、やがて義昭が信長と不和になると、義昭を守って戦う。信長の部将荒木村重の軍に攻撃され、勇戦するが捕らえられ殺された。

和田通興(わだ みちおき) ????~1554

◇子:和田河内守吉盛
 東予・河野氏臣。伊予・岩伽羅城主。次第に勢力を伸ばしていき、河野氏に従わなくなっていった。その為、当主通宣は平岡房実に命じて通興を鎮圧させたので、落城して敗走し山之内で自害して果てた。

亘理宗元 【わたりむねもと(1472~1531)】

亘理郡亘理城主。亘理元胤の男。兄亘理元実が早世していたことから、亘理家の家督を継承した。伊達家との戦いに敗れて麾下に加わっていたが、その後は伊達家から離反し抗争を続けていた。亘理宗元の代にふたたび伊達家の麾下に加わった。

亘理宗隆【わたりぬねたか(1493~1556)】 

亘理宗元の男。亘理宗隆には嫡男がなく、伊達稙宗と一人娘(天窓慶普信女)の間に生まれた彦四郎(綱宗)と乙松丸(元宗)を養子に迎え、伊達稙宗は涌澤弾正、千石大炊助を兄弟につけて送り遣わした。1544年、亘理綱宗が、亘理宗隆の家督を継ぐ前の「天文の大乱」の掛田の役にて討死を遂げたため、その実弟の乙松丸(元宗)が亘理家を継ぐこととなった。

亘理重元【わたりしげもと(1552~1620)】

亘理元宗の男。

亘理家臣団【わたりけかしんだん】

菱沼時久、坂本俊常、村岡胤信、亘理盛景、山寺蔵人盛純、寺内丹後守、小泉主膳繁、米谷下総延常、大塚蔵人、鷲足主水清久、遠藤半内良知、宍戸刑部方則、星與三左衛門玄親、鈴木七郎左衛門義久、上野善九郎延命、斎源内胤行、粟野右近易意、糠田内膳、大塚甚助、砂金藤四郎、西山源兵衛、安部善四郎、足立刑部、佐藤次郎右衛門、松浦助六郎、遠藤四郎左衛門、猪俣彦右衛門濁清、鈴木九郎左衛門豊住、岡崎彦六郎、大村豊後守、高野本太郎知久、門間助九郎、萱野甚四郎、條又十郎友成。

上遠野秀永【かどおのひでなが(15??~15??)】

岩城家臣。官途は右衛門大夫。のちに佐竹義昭に服属した。

上遠野秀宗【かどおのひでむね(1561~1637)】

上遠野秀永の男。通称源五郎。官途は隠岐守。永禄期に佐竹義喬に属して陸奥赤館付近に住す。1589年、太平で伊達政宗と戦い、戦後隠岐守の官途を与えられた。

河東田河内守【かとうだかわちのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。1575年、佐竹義重により白河城が攻略されると主家を離れて佐竹家に従い、経営を任された佐竹義久に属して所領を安堵された。

河東田備前守【かとうだびぜんのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。河東田河内守の男。官途は兵部少輔。1575年、父とともに佐竹義久に属した。同年三十貫文を与えられ、陸奥赤館城に在番した。

河東田重清【かとうだしげきよ(15??~15??)】

河東田城主、河東田重治の男。官途は上総介。白河結城家臣。白河結城義親の命で伊達家との交渉に当たった。武勇に優れ、佐竹家との戦いなどで活躍する一方、領内に善政を敷いたので民衆はよく服したという。1576年、佐竹家に奪われていた赤館城を奪回するため、白河勢が最前線の河東田城に集結した。河東田清重も佐藤忠秀に従いこの戦いで奮戦している。1589年、白河結城義親が伊達家に降ると、河東田清重は佐竹家への備えとして関和久城の警護に当たった。1590年、結城白河家が羽柴秀吉により改易される。白河結城義親に従って伊達家に仕えた。

河東田親顕【かとうだしげきよ(15??~15??)】

河東田重清の男。

黒木信房【くろきのぶふさ(15??~15??)】

中村城主。通称弾正。中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ支配していた。1532年「伊達家天文の乱」で伊達晴宗に組した黒木家は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗した。1543年、伊達稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。

黒木丹波守【くろきたんばのかみ(15??~15??)】

相馬家臣。伊達政宗が初陣したさい、相馬方の大将としえ兵3,700余りを率いて大条城を攻撃した。大条城主小梁川行秀は兵100 余りで反撃するが、黒木丹波守の伏兵に会い敗走した。

黒木家臣団【くろきけかしんだん】

黒木大炊介光安、黒木中務、古田主水正。

木幡継清【こばたつぐきよ(15??~1618)】

木幡高清の兄。相馬盛胤、相馬義胤、相馬利胤三代に仕えた老臣。度々合戦で軍功があったという。

木幡高清【こばたたかきよ(1537~1642)】

木幡継清の弟。官途は駿河守。相馬五代に仕えた。検地代官や相馬利胤の傅役も務めた。

木幡清吉【こばたきよよし(1570~1665)】

木幡高清の男。相馬盛胤から相馬忠胤までの相馬五代に仕えた。中村城下街のなわばり奉行を務めた。

桑折久家【こおりひさいえ(15??~15??)】

北郷田中館主。

近藤和泉守【こんどういずみのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。1570年、佐竹家に転仕し、佐竹東家義久の麾下に属した。

近藤対馬守【こんどうつしまのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。南奥山際地方を領した。1570年、枝連衆と共に佐竹家に転仕し、東家義久の麾下に属す。1585年、屋敷山乱入禁止の制札を与えられた。

近藤豊後守【こんどうぶんごのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。通称掃部助。1570年、佐竹家に転仕して東義久の麾下に属す。1574年、東義久から所領安堵を受けた。

草野直清【くさのなおきよ(1514~1563)】

相馬家臣。伊達輝宗に内通、相馬義胤勢の佐藤好信と戦ったい討死した。

小池春憲【こいけはるのり(15??~15??)】

相馬家臣。通称弥七郎。相馬家を辞し、佐々成政に召抱えられた。佐々成政が羽柴秀吉に下ると飛騨高山へ移住した。武功の臣で、剣の達人として飛騨を領した金森家に仕えた。


【さ】

佐藤好信【さとう よしのぶ(1511~1556)】

伊具郡小斎城主。相馬家臣。楢葉郡富岡城にいた岩城家臣であったが、相馬家の武勇を慕い富岡右京進、富岡美濃守らと共に相馬領へ来て相馬顕胤、相馬盛胤の二代に仕えた。草野直清、青田顕治の反乱鎮圧戦などで活躍し、軍奉行として優れ、数多くの功績を立てたが、桑折左馬之助の讒言に遭い、軍奉行職を解かれたうえ、所領を没収された。

佐藤為信【さとうためのぶ(15??~1591)】

佐藤好信の男。官途は紀伊守。通称左衛門。父佐藤好信が桑折左馬之助(郡左馬助)の讒によって失領し、さらにその領知は桑折に与えられた。1582年、佐藤為信は伊達勢に小斎城を攻められたが、援軍に来た桑折を殺害、息子佐藤勝信を人質とし、亘理元宗を介して伊達政宗に降伏した。その後も相馬戦などに活躍するが、1591年「佐沼城の戦い」で討死した。

佐藤勝信【さとうかつのぶ(15??~15??)】

佐藤為信の男。伊達家への投降に際し、人質として差し出された。

佐藤忠秀【さとうただひで(15??~1579)】

佐藤忠量の男。官途は大隈守。白河結城義綱に仕官して、双石館を居館とした。智勇に優れ,伊達家との交渉に当たったほか、佐竹家との合戦では軍師役を務めた。1576年、佐竹家に奪われていた支城赤館城の奪回戦では軍団の総大将を務めた。佐藤忠秀は夜襲を決行し、一度は城の奪還に成功するが、後に再び佐竹家に大軍をもって奪われてしまう。佐竹家の攻勢で本拠の白河城が危機に陥った際、佐藤忠秀は全軍を撤退させ白河城を空城にし、佐竹勢が入ったところを大挙して押し寄せこれを撃破するという策を進言した。白河結城義親はそれを受け入れ、鶴生まで退いて譜代の将や郎党、土豪を集結させ、芦名家に後詰を求めた。しかし、城下が荒れるのを恐れた神社の神官や仏閣の僧侶が和平を嘆願し、入城した佐竹勢もそれを受け入れたため、策が実行されることはなかった。最後は合戦坂での佐竹勢との戦いで戸村和泉守他5名の首を討ち取ったが、後軍破れ討死した。

志賀武治【しがたけはる(15??~15??)】

白石実綱【しらいしさねたね(15??~15??)】

刈田郡白石城主。伊達家臣。1544年「天文の乱」では伊達晴宗に属して功績を挙げた。

白石宗利【しらいしむねとし(15??~15??)】

白石実綱の男。1570年、中野宗時、牧野久仲親子が謀反を起こした際に自領の白石を通過した中野宗時らを捕らえられなかった事により伊達輝宗の怒りを買い赦免された。

白石宗実【しらいしむねざね(1553~1599)】

白石宗利の男。白石宗実は勇将で、伊達輝宗伊達政宗父子に従って相馬家との戦いに従軍。1585年「人取橋の戦い」、1589年「摺上原の戦い」、1593年「文禄の役」など多くの合戦に参加して武功を挙げて活躍した。また武功だけでなく、二本松城の畠山家と激しい抗争を繰り広げていた伊達家に対し、相馬義胤から和睦勧告の提示があり、白石宗実はこれを伊達政宗に取り次ぎ和睦成立に貢献した。1586年、大内定綱の旧領・安達郡塩松33邑を加増され、宮森城主となった。1591年「葛西大崎一揆」鎮圧後、伊達家が岩出山城に移封となった際に安達郡を没収されたため、代わりに胆沢郡水沢城主となり15,000石の所領を与えられた。

白石宗直【しらいしむねなお(1577~1629)】

梁川宗清の男。白石宗実の養子。室は白石宗実の娘。1599年、白石宗実の養子となり、白石宗直と名乗った。1600年「関ヶ原の戦い」では越後長尾景勝の領土となっていた「白石城の戦い」「出羽合戦」で最上義光の援軍として活躍した。伊達政宗の命を受け、南部家に反乱を起こした和賀忠親を支援する。伊達政宗から登米を与えられ入部。城下町の発展や河川の整備などに積極的に取り組み、領地を大いに発展させた。1614年「大坂の陣」では宇和島で伊達秀宗を出迎え「道明寺の戦い」などで大いに功をあげた。

白石家臣団【しらいしけかしんだん】

調査中。

志賀武治【しがたけはる(15??~15??)】

岩城家臣。通称甘釣斎玄胡。佐竹、伊達間の調停、岩城、伊達の和睦など、外交的役割を担っていた。

白土隆通【しらとたかみち(15??~15??)】

岩城家臣。官途は摂津守。甘釣斎と共に伊達家との折衝にしばしばあたっている。佐竹家から岩城貞隆を迎える為に尽力、増田長盛を通じて羽柴秀吉の許可を取り付け、岩城家の存続を得た。白土家は岩城枝連衆である。

白土隆良【しらとたかよし(15??~15??)】

白土隆通の男。官途は右馬助。

白土隆顕【しらとたかあき(15??~15??)】

官途は下総守。白土隆通、白土隆良父子との関係は不明。

白土左近【しらとさこん(15??~15??)】

白河結城家臣。天正初期に佐竹家に従い、佐竹東家義久の麾下に属した。1584年、佐竹義久の命で所領を赤館城番の将士に与えた。

白土弾正忠【しらとだんじょうのちゅう(15??~15??)】

白河結城家臣。1575年、佐竹家に転仕して佐竹東家義久に属した。佐竹義久の命を受け、陸奥南郷、赤館方面で足軽衆を指揮した。

相馬顕胤【そうまあきたね(1508~1549)】

相馬郡小高城主。相馬盛胤の男。隣接する岩城重隆と争い、岩城城下にまで攻めこんで和睦。伊達稙宗の女を室に迎えており、「天文の乱」では伊達稙宗方について伊達晴宗と戦った。岩城重隆相馬家への対抗上伊達晴宗側について田村顕胤を攻めたが敗北。

相馬盛胤【そうまもりたね(1529~1601)】

相馬顕胤の男。室は伊達稙宗の弟伊達義宗の女。また妹は田村清顕の室となり、後伊達政宗の室となる愛姫を産んでいる。このような婚姻関係があるものの、伊達晴宗との直接関係はなく、伊達晴宗伊達輝宗とは激しい戦いを繰り返した。1564年、名取郡で伊達晴宗と激闘、その後も丸森城奪取するなど伊具郡に積極的に侵攻した。伊達輝宗の代にはこれまで防戦一方であった戦いを侵略にまで推し進めた。1549年、妹を田村清顕の室に入れて縁戚を結び、略取した田村領を返還するなど外交にもしたたかであった。

相馬義胤【そうまよしたね(1548~1635)】

相馬盛胤の男。1564年、伊具郡に侵入して伊達軍と激しく争い、二本松畠山家、大内家らと結ぶなど伊達包囲網の一角をなして大いに伊達勢を苦しめたが、伊達政宗が当主となって以後はその猛攻により次々と同盟者は滅亡し、相馬領にも侵攻してくるなど劣勢は否めず、家臣の離反や弟相馬隆胤の討死など、軍事的にも窮地に立たされていた。1589年「小田原の役」に参陣したことにより、行方郡、宇多郡、標葉郡に48,000石余を安堵された。1598年、小高城より牛越城に移る。1600年「関ヶ原の役」では当初日和見をして形勢確定後越後長尾領である安達郡を攻略しようとして失敗、戦後罪に問われて改易された。その後伊達政宗の斡旋と世子相馬利胤の奔走によって相馬利胤に領地が与えられた。

相馬隆胤【そうまたかたね(1551~1590)】

相馬盛胤の次男。草野直清の討死後には中村城代を務めた。伊達勢と激闘を繰り返したがついに討死した。

相馬利胤【そうまとしたね(1581~1625)】

相馬義胤の三男。1600年「関ヶ原の役」で失領した。1602年、父の隠居による家督相続と所領の獲得に至り、1609年に本領へ復帰を果たし、60,000石を領した。1611年、小高城より中村城に本城を移す。1614年「大坂の役夏の陣」では徳川秀忠の先陣を務めて奮戦した。

相馬郷胤【そうまさとたね(15??~1601)】

相馬盛胤の四男。田中城代。

相馬隆胤【そうまたかたね(1551~1590)】

相馬義胤の五男。1563年、中村城代となる。1590年、伊達家との戦いで討死した。勇猛であったが猪突猛進型の武将であった。


【た】

竹貫隆光【たけぬきたかみつ(15??~15??)】

岩城家臣。石川家の庶家であったが岩城家臣となり、重臣として重きをなした。

竹貫広光【たけぬきひろみつ(15??~15??)】

竹貫隆光の男。1541年、佐竹、白川結城家との抗争の調停を岩城家が行ったとき折衝に当たった。

田中隆定【たなかたかさだ(15??~15??)】

岩城家臣。官途は越中守。岩城常隆に仕えた。1590年、隠居の佐竹義重に仕えた。1591年、山尾城の門、橋の普請に当たった。

田村義顕【たむらよしあき(15??~1561)】

田村盛顕の男。室は岩城常隆の娘。当初は守山城を本拠としていたが、1504年、三春城を築き居城とした。田村氏発展の基礎を築いた人物とされる。1532年、田村隆顕に家督を譲って隠居した。

田村隆顕【たむらたかあき(15??~1574)】

田村義顕の男。1532年、父田村義顕から家督を相続したとき、田村家は相馬家、岩城家、佐竹家、葦名家などの諸大名に囲まれて苦しい立場にあったが、田村隆顕は伊達稙宗の娘を室として迎え、伊達勢の援助を得ることで田村家の命脈を保った。「天文の乱」においては伊達稙宗派に属す。 1547年、伊達稙宗派、芦名盛氏と不和を生じ、芦名盛氏が伊達晴宗派に転じると、乱終結後の1549年には伊達稙宗派であった相馬顕胤の娘(盛胤の妹)を自身の嫡男田村清顕の室として迎え、相馬と和平を結んで後顧の憂いを断った。田村隆顕は外交戦略に優れた人物であった。1560年、佐竹家と手を結んで芦名家を攻めた。1572年、佐竹家が攻めて来ると芦名家と手を結んで撃退するなどしている。まさに小領主ながら優れた武将だった。

田村清顕【たむらきよあき(15??~1586)】

田村隆顕の男。室は相馬顕胤の娘(於北方)。英明な武将として知られ、父田村隆顕の死後、田村家の家督を相続する。佐竹家や葦名家に対抗するため、一人娘の愛姫を伊達政宗の室として嫁がせ、伊達勢の援軍を得ることで独立を保持した。伊達家と室の実家である相馬家との領土問題では、相馬義胤を説得し丸森城を伊達輝宗に返還させ両者の和睦に成功した。田村清顕には愛姫以外に子供ができなかった。1586年、田村清顕が没するとその後釜をめぐって田村家中、及び伊達家相馬家の間で再び争いが起った。

田村顕頼【たむらあきより(1492~15??)】

田村盛顕の次男。官途は宮内少輔。通称月斎聖休。1559年、田村隆顕とともに出陣、二階堂家から奪った小泉城の城代に任ぜられた。田村清顕死後の家中騒動では伊達方につく。合戦で戦功が多かったた。

田村顕基【たむらあきもと(15??~15??)】

田村郡小野城主。田村盛顕の次男。官途は右馬頭。通称梅雪斎。家中騒動では田村清顕未亡人と共に相馬方につく。娘は田村清康の室。父田村義顕より小野郷を与えられて新町城主となった。

田村顕基家臣団【たむらあきもとけかしんだん】

田村兵部人政顕、郡司豊前守敏良、郡司雅楽頭敏貞、猪狩中務人親満、野内伊予守正兼。

田村清通【たむらきよみち(15??~15??)】

田村顕基の男。官途は右馬頭。

田村顕長【たむらあきなが(15??~15??)】

田村顕基の次男。「三春四老之内」。

田村清康【たむらきよやす(15??~15??)】

田村郡船引城主。官途は右衛門大夫。田村清顕死後の一門談合体制に参加した。

田村重顕【たむらしげあき(15??~1579)】

田村清顕の弟。1579年、二階堂家を攻めたとき討死した。

田村重時【たむらしげとき(1499~1572)】

田村直顕の弟、重顕の孫。父は重為。

田村氏顕【たむらうじあき(15??~1579)】

田村清顕の弟。1579年、岩瀬郡に侵攻し、二階堂家と合戦した結果、田村勢230人が討たれたが、田村氏顕も討死した。

富岡隆時【とみおかたかとき(15??~15??)】

岩城由隆の弟。岩城家臣。

富岡隆宗【とみおかたかむね(15??~15??)】

富岡隆時の男。1547年、伊達家の竹貫城攻めに対して城を守った。

常葉光貞【ときわみつさだ(15??~15??)】

田村家臣。官途は摂津守。

常葉清重【ときわきよしげ(15??~15??)】 

常葉光貞の男。官途は伊賀守。1544年、大越顕光と共に石川家と田村家の和解に努力することを約している。常葉清重は『奥陽仙道表鑑』に、橋本とともに芦名、二階堂両家の田村郡侵入を撃退した武将として記されている。

常葉貞之【ときわさだゆき(15??~15??)】

常盤館主。官途は甲斐守。天正年間に田村清顕に仕えたが、相馬義胤に討滅された。常葉光貞、常葉清重との関係は不明。


【な】

中津川親宗【なかつがわちかむね(15??~15??)】 

田村家臣。通称兵衛太輔。田村一族であるという。田村氏系図の家臣書き上げに記される「中津川次郎右衛門大夫」や片倉家の記録に「中津川兵衛佐」関係があると思われる。

中畠(畑)晴常【なかはたはるつね(15??~15??)】

官途は上野介。結城晴綱の庶子。母方の中畠家を相続したため、中畠姓を称した。義親が白河城に入ったときに、晴常も晴綱の後継者の資格があったために晴常派家臣も多数存在し、義親派家臣団と深刻な対立を呈したという。

中畠晴辰【なかはたはるたつ(15??~15??)】 

中畠晴常の男。白河結城枝連衆。白河家中において重きをなした。父と義親との対立も中畠晴辰の頃には解決していたようである。

中畠晴時【なかはたはるとき(1570~1590)】

中畠晴辰の養子。官途は大学助。羽柴秀吉が小田原落城後会津に向かった際、「馬尾滝」において狙撃。しかし弾が当たらなかったため逃走した。1589年、蒲生氏郷に従って「九戸一揆」に出陣、討死した。

新田信政【にったのぶまさ(15??~15??)】

田村家臣。官途は美作守。「田村宿老」の一人。


【は】

芳賀綱勝【はがつなかつ(15??~15??)】

白河結城家臣。官途は左衛門。斑目家より家格が高い重臣。

芳賀因幡守【はがいなばのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。官途は兵部少輔。1575年、佐竹義重に転仕し、白河城攻略を援けた。東(佐竹)義久より白河長坂に知行を得て、佐竹義重から因幡守の官途を与えられた。

芳賀讃岐守【はがさぬきのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。官途は玄蕃允。1575年、佐竹義重に転仕し、白河城攻略に寄与。東(佐竹)義久より増見の地を安堵された。佐竹義重から讃岐守の官途を与えられた。1595年、知行割替では白河玉野などに70石を領した。

橋本顕徳【はしもとあきのり】

田村家臣。官途は刑部少輔。家中騒動の時に伊達方についた。田村清顕の病没後の家中を田村一門とともに運営した。田村家中が相馬方と伊達方に二分しているのをまとめ、伊達家への接近を図った。子の但馬(諱は不明)は伊達政宗の室、北夫人に仕えた。なお、片倉家文書の田村家臣団記録中では「田村宿老」には四人が記され、その中の一人が「橋本伊予守」となっているが、田村顕徳との関係は不明。顕徳はその下の格(大越顕光らと同格)で与力五十騎を任されている。

標葉隆成【はようたかなり(15??~1492)】

標葉郡熊野堂城主。標葉郡惣領職。1492年、相馬盛胤に攻められ熊野堂城に籠城した標葉隆成は、相馬勢の攻撃に頑強に抵抗したが、標葉家一門衆の藤橋小四郎隆豊と家老の牛渡九郎兵衛尉が相馬勢に内応したことで落城、標葉隆成は自刃した。

藤橋紀伊守【ふじはしきいのかみ(15??~15??)】

相馬家臣。1564年、谷地小屋城代。1566年、金山城代となった。1568年、金山城は伊達家に攻略された。

藤橋胤泰【ふじはしたねやす(1507~1579)】

泉田胤重の次男。藤橋胤隆の養子。官途は紀伊守。永禄、元亀年間に金山城代となる。

船尾隆輔【ふなお(15??~15??)】

岩城家枝連衆で、岩城由隆の弟。

船尾隆直【ふなおたかなお(15??~15??)】

船尾隆輔の男。官途は下野守。1558年、佐竹家に通じた。1576年、息子船尾昭直とともに佐竹東家義久と起請文を交換するなど、たびたび佐竹家と起請文を交わした。

船尾昭直【ふなおあきなお(15??~15??)】

船尾隆直の男。通称九郎三郎。官途は山城守。1550年、佐竹家に属し、南奥における佐竹家の先鋒として活動した。1575年、滑津城に在番。1578年、白河結城義広が白河結城家に入嗣すると、これに同道して補佐に当たる。1590年、南郷川上に戻る。1595年、知行割替では常陸茨城郡に1600石を知行した。

船尾義綱【ふなおよしつな(15??~15??)】

佐竹家臣。船尾昭直の男。通称三七。官途は右兵衛尉。滑津城に在城し、父とともに白河結城義広を補佐した。1587年、葦名義広が葦名家に入嗣する際、これまでの忠節を賞された。1592年、佐竹義宣とともに肥前名護屋に在陣。1602年、秋田転封により、父とともに同地へ赴いた。

深谷顕衡【ふかやあきひら(15??~1521)】

常陸獅子城主。白河結城家臣。官途は伊豆守。1506年、佐竹義舜に降るが、のちに白河結城晴綱が侵攻すると再び結城家の幕下に属した。1521年、佐竹義篤の侵攻を受けて落城、討ち死した。

堀内俊胤【ほりうちとしたね(15??~1569)】

相馬上野介近胤の次男。通称は右兵衛尉。1569年、伊達家との戦いで討死を遂げ、堀内家は断絶した。この断絶を惜しんだ相馬弾正大弼盛胤は自分の義弟に当たる掛田兵庫義氏に俊胤の娘を嫁がせて堀内家を再興させた。

堀内義氏【ほりうちよしうじ(15??~15??)】

掛田兵庫頭義宗の三男。通称は兵庫。室は堀内右兵衛尉俊胤娘。惣領の相馬弾正大弼盛胤とは義兄弟にあたる。1569年、堀内右兵衛尉俊胤が討死を遂げたため、娘婿だった堀内義氏が堀内家を相続した。しかし義氏と堀内俊胤娘はいさかいが絶えず、堀内義氏は堀内家を出奔して宇多郡に移り住んだ。

堀内大膳【ほりうちだいぜん(15??~1587)】

田村枝連衆の中津川家の出身。室は堀内右兵衛尉俊胤娘。小浜城主の岩角畠山伊勢守尚義(四本松式部大輔久義)の娘を娶った。泉大膳胤秋。大膳は堀内家の家督を継承したが、室の堀内家とは相性があわず、大膳は堀内家を出てしまった。子の胤政が泉家の後嗣となったため、大膳はその後見人となって泉大膳胤秋を称している。1585年に最上義光が相馬義胤臣の「伊泉大膳亮」へ宛てた書状が残っている。

堀内晴胤【ほりうちはるたね(15??~1633)】

掛田伊達一族の藤田七郎晴近入道齊庵の男。通称は四郎。舅の相馬三郎胤乗は相馬惣領相馬盛胤の叔父に当たり、相馬晴胤の父藤田晴近と盛胤は従兄弟となる。実家の掛田家は伊達家の一族であり、祖母は伊達稙宗娘であった。こうしたことから、次第に伊達家からの調略の手が延びた。宗和と兄の黒木城主、黒木中務宗俊は謀反の計画を立てた。1580年、堀内晴胤の兄黒木宗俊は父で馬場野城主藤田七郎晴近に謀反の計画を告げて、ともに立つことを勧めたが、晴近はこれに激怒。宗俊を捕らえて自害させようとしたが、宗俊は城を脱出して黒木城に引き上げてしまった。晴近は二人の実子、黒木宗俊、堀内晴胤の不届きな計画に厳格に対処すべく、両名が謀反の心を抱いていることを早馬に乗せて小高城の新惣領相馬義胤に報告した。これを聞いた相馬義胤は、隠居の相馬盛胤にも出陣を求め、黒木城を急襲して攻め落とし、両者を捕らえた。このとき、建昌寺という寺院の住職が陣中を訪れ、二人の助命を願い出たことから、堀内義胤は彼らの父藤田晴近の忠義に免じて、相馬領から追放とされた。


【ま】

和知直頼
わち なおより

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Last-modified: 2019-05-11 (土) 16:09:00