称号 第16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)
名前 大鷦鷯尊(おおさざき)
皇后 磐之姫命(いわのひめ)---子=大兄去来穂別尊(履中天皇)、 住吉仲皇子、瑞歯別尊(反正天皇)、
                    雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)
八田皇女
父親 応神天皇
母親 仲姫命(なかつひめ)
皇居 難波高津宮(なにわのたかつみや)
陵墓 陵名: 百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)
古墳: 大仙古墳・大仙陵古墳
形状: 前方後円墳、3重堀
所在: 大阪府堺市大仙町

	
	

日本最大の前方後円墳が仁徳天皇陵。墳丘の全長は480m、前方部の幅は305m、後円部の径は245m、周濠を含めた東西の長さは 656m、南北の長さは793m、周囲の距離は2718m、面積464124平方メートルとなっていてその大きさから大仙陵と呼ばれている。
「日本書紀」によれば、仁徳67年10月05日に河内の石津原に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を始めている。
この時、鹿が野の中から飛び出し工事の人々の中で倒れる。怪しんで調べていると倒れた鹿の耳から百舌鳥が飛び出した。鹿の耳が喰裂かれていたことからこの地を百舌鳥耳原と名付けたと伝えられる。
仁徳天皇はそれから20年後の仁徳87年01月16日に崩御し同年10月07日に葬られている。
3段に築造した前方後円墳で両側に造り出しをもち、その墳丘を3重の濠が造られ、その外側に12の倍塚が造られている。

墳丘にもら手田土が周濠を掘った土が利用されたと考えると、毎日1000人の人が働いて4年かかると計算されている。また墳丘に並べる石の運搬、 20000個に及ぶ埴輪の製造や運搬、中堤の築造、倍塚の築造を加えると莫大な労力が費やされたであろう。

江戸時代の中ごろまでは陵墓の管理は十分とはいえなかったが、1852-壬子-嘉永05年 後円部上にあった勤番所を移し天皇を葬ったであろう場所に石塀を設置して陵墓の整備をおこなった。
明治05年09月、前方部正面の第二段のやや上が崩れて立派な石積の竪穴式石室が発見される。長持形石棺と石室面の間から刀剣の断片20、ガラスの椀などが発見されたが元通り埋め戻されたという。
皇后陵墓

	
	たいへん嫉妬深かったといわれる磐之媛命の陵墓。

かなり離れた奈良市の平城宮の北にある。

略歴(3世紀)(4世紀)
257-丁丑-神功57年 生誕
313-甲戌-仁徳01年01月03日 即位
314-乙戌-仁徳02年03月08日 磐之姫命(いわのひめ)を皇后とする
316-丁子-仁徳04年02月06日 高殿にたって眺めると人家に煙がたっていないのは人民が困窮しているからであると嘆く
316-丁子-仁徳04年03月21日 今後3年間の課税をやめる詔。
319-庚卯-仁徳07年04月01日 高殿にたって人家から煙がたっているのを眺め「人民が貧しいのは自分が貧しいのと同じ、人民が富んだなら自分が富んだと同じ」といい喜んだとされる。
319-庚卯-仁徳07年08月09日 大兄去来穂別尊(履中天皇)のための壬生部(みぶべ)を定め、皇后のために葛城部(かずらきべ)を定める。壬生(みぶ)とは養育係のことだから、葛城とは皇后の世話係といったところだろうか。
322-癸午-仁徳10年10月 初めて課役を命じる。
人民は促されなくても老をたすけ、幼きものを連れて材を運び土籠を背負い昼夜を分けず力を尽くしたという。聖帝といわれる所以である。(日本書紀)
343-癸卯-仁徳31年01月15日 大兄去来穂別尊(履中天皇)を皇太子とする。
347-丁未-仁徳35年06月 嫉妬深さに苦労させられた皇后磐之姫命が筒城宮で亡くなる。
349-己酉-仁徳37年11月12日 磐之姫命を奈良山に葬る。(平城坂上陵)
350-庚戌-仁徳38年01月06日 八田皇女を皇后とする
379-己卯-仁徳67年10月05日 河内の石津原に陵地を定める
379-己卯-仁徳67年10月18日 陵墓造成開始
399-己亥-仁徳87年01月16日 崩御
399-己亥-仁徳87年10月07日 百舌鳥耳原中陵に葬られる。


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Last-modified: 2019-05-11 (土) 20:28:00