江戸大名公家

小松宮家
慶応3年(1710)12月創始
宮号変遷・仁和寺宮→東伏見宮
彰仁親王は慶応3年の還俗時に仁和寺宮嘉彰親王と称し、議定に任ぜられ、征討大将軍海陸軍務総督として明治天皇から錦旗を与えられ、戊辰戦争で新政府軍の指揮を執り勲功を立てる。
明治3年には東伏見宮と称を改めイギリスへ留学し、明治5年に帰国すると、「皇族は欧州の例にならい幼年より軍務に服すべき」ことを上書。
明治6年12月、皇族は陸海軍の軍人となるべき沙汰が下る。
明治15年、小松宮彰仁親王と改称する。実子がないため明治18年に山階宮晃親王の養子となっていた弟の依仁親王を嗣子とするが、北白川宮能久親王の第四王子輝久を養子のごとく遇していたことから、依仁親王に東伏見宮を創始させ、輝久は臣籍に下り小松姓を与えられて小松家を興すことになった。
彰仁親王には武張った印象があるが、明治10年に日本赤十字社の前身博愛社の初代総長となっている。
初代・彰仁(あきひと)
仁孝天皇養子(伏見宮邦家親王の第八王子)
母は堀内氏
生没・弘化3年(1846)~明治36年(1903)
安政5年(1858)親王宣下、同年得度するも慶応3年(1867)還俗
一品、仁和寺門跡、兵部卿、軍事総裁職
正室・久留米藩有馬頼咸の娘
子女・養子依仁(2代、伏見宮邦家親王の第17王子)

2代・依仁(よりひと)
山階宮晃親王養子→明治天皇養子(伏見宮邦家親王の第17王子)
生没・慶応3年(1867)~大正11年(1922)
明治19年(1886)親王宣下
明治36年(1903)彰仁親王継嗣を止め、東伏見宮家を創立する
三品、海軍大将、元帥
正室・土佐藩山内豊信の娘、後に離縁
継室・岩倉具定の娘


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Last-modified: 2019-05-12 (日) 08:29:00