秦  

   前221年(-207)、秦が中国を統一しました。秦の都は咸陽(かんよう)。現在の西安に近いところです。

 昔々の学生時代に私はこの咸陽に行ったことがある。まだ、自由に中国を旅行できない時代で学生友好訪中団という名目で観光に行った。
 中国関係の勉強をしている学生ばかりの団体ではじめ咸陽は予定には入っていなかったんですが、西安に行ったついでに是非行きたいとリクエストしたら急遽特別に行けることになった。中国にはどの都市にも歴史博物館があってそこに行ったんですが、観光バスを降りたら現地の人たちがどっと集まってきた。まだまだ外国人が珍しい時期だったし咸陽は普通の観光コースから外れていたから物珍しかったんですね。われわれ日本人学生の周りにアッという間に黒山の人だかりができた。その人たちみんな農民の顔してる。服は全員真っ黒な綿入れを着ているの。ホントに黒山の人だかりだった。
 博物館で何を見たかは、全然覚えていませんが、咸陽の人々にじろじろ見られたのだけは忘れられない。その咸陽です。

  秦が戦国時代を終わらせることができた理由。

 まず、法家の採用がある。商鞅、李斯など法家の政治家を抜擢して内政改革をおこなったことが国力の強化につながりました。

 さらに、秦が地理的に辺境地帯にあったことが有利に働いた。
 戦国時代の先進国はどこかというと、韓、魏、趙、です。ここが一番文化が進んでいる。地図で見ても面積は小さいね。面積が小さいということはそれだけ人口が集中していることの裏返しです。そういうところは文化が高いと見てよい。
 しかし、それは逆にいうと開発の余地が少ないことでもある。

 秦は辺境の遅れた国であったから、進んだ地域の文化や技術を効率よく取り入れることができたし、未開の地が多くあるわけで周辺に向かって領土を拡大することもできたわけです。現在の四川省方面を領土に組み入れて国力を伸ばしました。

 辺境の国としては南方の楚も同様です。やはりここも戦国末期には強国として秦と対抗しています。結局は秦に負けますが、このあとの話になるんですが、秦が滅亡したあと項羽という男が楚の地から出て一時中国全体に号令するようになる。この地域にはやはり秦と対抗できるようなエネルギーがあったんでしょう。

  秦が中国統一したときの王が政(せい)です。秦王政は周の時代とは比較にならないくらいの大領土を支配することになった。そうなると、王という称号では満足できない。王よりもランクの上の称号として皇帝という呼び名を発明した。世界初の皇帝ということで自ら始皇帝と名乗ったといいます。かれは、秦の国が永遠につづくものと考えて子孫の名前も決めた。自分を継ぐ二代目は二世皇帝、その次は三世皇帝、こんなふうにドンドン数字を増やして皇帝名にするように決めたらしい。いずれは九千九百九十九世皇帝も出現する予定だったんですが、実際は三世皇帝で秦は滅んでしまいますがね。

 この始皇帝、秦王政は統一を成し遂げただけあってそれなりの人物だった。仕事も精力的にやった。一日に公文書を30キロ分読んで決済をつづけたという。文書を重さで量るのもすごいですね。

 かれにまつわる話はたくさんあります。先代の秦王の子ではないという出生の秘密も言い伝えられている。有名なのが始皇帝暗殺未遂事件。中国映画になって公開されましたね。
 プリントに載せてある絵は漢の時代に描かれたものですが、直後の時代から、人々に物語として語り継がれていたことがわかる。

 秦による統一直前の話。秦王政を殺せば滅亡を免れると考えたのが燕の太子。太子は荊軻(けいか)という男に秦王政の暗殺を依頼する。戦国時代は能力主義の時代だったね。暗殺技術も立派な能力として認められていたんだ。荊軻はプロの殺し屋ですがこの時は自分の死を覚悟して秦に向かいます。手みやげがないと秦王政に謁見できないので秦からの亡命将軍の首と燕の領土の地図を手みやげに持っていく。首尾よく政に謁見できて、地図の中に隠し持っていた短刀で政に斬りかかった。

 ところが第一撃で刺し損なってしまった。

 謁見の間には多くの秦の役人や軍人が居並んでいるんですが、宮廷で武器を持つことは禁じられていたので誰も荊軻を止めることができない。秦王政ひとりだけ剣を持っているんですがその剣は特別製でやたらに長い。剣というのは鞘に入っている。こう、剣の柄を右手で持って前に伸ばすでしょ。右手が伸びる以上に剣が長ければ鞘から抜けないのですよ。政の剣はそれくらい長かった。
 しかも突然襲われて焦っているからなおさら抜けない。家臣団が見守る中、柱のあいだをぐるぐるまわって逃げる。それを荊軻は追っかける。

 ようやくひとりの家臣が「王よ、背負われよ!」。政は気づいて剣を背中に背負った。そしたら鞘はストンと床に転がってようやく剣が抜けた。反撃を開始して、家臣も後ろから荊軻に飛びついてようやく取り押さえた。その場面を書いてある。

 始皇帝の陵墓を守るために作られた兵馬俑坑(へいばようこう)という遺跡から青銅の剣が出土しているのですがこれが長さ91.3センチ。始皇帝の剣はこれよりもよほど長かったんでしょう。

 そんな事件もありながらの統一だったわけだ。

  秦の政策を見ていきましょう。

 まず、統治方式として郡県制を採用します。絶対に覚えておくこと。秦の政治は郡県制。いいですね。
 周の時代には諸侯や卿、大夫がそれぞれ自分の邑を自由に支配したね。この周の封建制と対称的な方法が郡県制。秦は全国に郡、その下に県という行政組織を置いて、中央政府から官僚を派遣して中央集権的な一元支配を行った。中央集権的専制国家の誕生といいます。基本的に20世紀に清朝が滅びるまで中国の政治制度はこの形を崩すことがありませんでした。そういう意味で、郡県制の採用というのはものすごく大きな制度の変更なわけです。
 ちなみに日本では県の下に郡がありますが、中国では逆。郡の方が県よりも大きな行政単位です。

  さらに秦は統一国家として、制度を統一していきます。
 1,文字の統一。戦国時代には各国で文字の字体が違っていました。これを統一した。秦の字体は篆(てん)書といいます。やがてこれから楷書、草書が発展することになります。

 2,貨幣の統一。秦の貨幣は穴のあいた環銭。特にこの時の環銭を半両銭といいます。

 3,度量衡(どりょうこう)の統一。度は長さ、量は体積、衡はおもさ、それぞれを測る単位です。これを統一した。単位が地域ごとに違っていては行政は混乱しますからね。

 4,車軌(しゃき)の統一。車軌というのは馬車の車輪と車輪のあいだの長さです。当時は舗装道路などありませんから馬車が走れば地面はえぐれる。えぐれた部分がレールみたいになっていくんです。そこを車軌が違う馬車が走ると車体が傾むいて思うように走れない。だから、戦国の各国はわざと自国の車軌を他国と違うようにした。そうすれば敵国の戦車がやって来ても攻めにくいでしょう。でも、天下統一すればこれは不便だから統一しました。

 5,ついでに思想も統一した。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)という。大臣李斯の献策で秦の政治に批判的な学問を弾圧した。医学、農業、占いの学問しか許さず、それ以外の本を集めて燃やした。これが焚書。焚は燃やすことです。戦国時代の学問の多くがこれによって失われました。現在では断片しか残っていない学問もある。残念なことだね。
 坑儒は460人あまりの儒者を生き埋めにして殺した事件です。始皇帝の個人的な怒りから起こった事件なのですが、結果としては学問の弾圧になりました。坑は生き埋めにすることです。

  外征。秦は北方の遊牧国家である匈奴に対して討伐軍を派遣しています。また、南方、ベトナム北部方面には領土を拡大して南海郡など三郡を置きました。

  大土木工事もおこなった。
 その中で有名なのが万里の長城の建設。これはすべて始皇帝が作ったわけではない。戦国時代に北方の各国はすでに個別に長城を作っていたんですが、始皇帝はこれをつないで長城として完成させたのです。
 現在残っている長城はだいたいは明代(1368~1644年)に修築されたものです。資料集の写真は八達嶺(はったつれい)にあるものです。北京から近いので観光地として整備されている所で、上を歩けるようになっています。
 山の稜線の上をどこまでもうねうねとつづいている。どれだけの人間の労力が使われたかを思うと気が遠くなる。

 中国旅行で、ここも行きましたよ。この上を歩いた。三月でちょうど北の空から雪が降ってきたんです。ああ、このはるか向こうから遊牧民族がやって来たんだなと思ったらなかなかロマンチックでしたね。

 宮殿も造った。阿房宮と呼ばれる壮大な宮殿で、一万人が座ることのできる広間があってその下に10メートルの旗指物を持った軍隊が集結できたといいます。

 墓も作った。驪山(りざん)陵といいますが地下に宮殿を造営したらしい。中国人はあの世でもこの世と同じような暮らしをすると考えていましたから同じモノを作るのです。

 さらにこの地下の宮殿を守るために地下の軍隊を作った。これが有名な兵馬俑坑です。始皇帝陵の東三キロの所に人形の軍隊が発掘された。これですね。土台を含めると2メートルの高さの人形です。こんなのが今のところ約三千体発掘されています。これがキッチリ整列していて、当時の軍の編成などがわかるようです。

 この兵士の人形は一つ一つみんな表情や髪型が違うんです。
 当時の人たちは出身部族によって髪型、男でも髪を長く伸ばして髷を結っているんですが、その髷の形が違っていたんです。で、兵士俑を調べていくと、いろいろな部族から軍が編成されていることもわかる。秦は辺境にありましたから周辺の民族も多く加わっていたのでしょう。この辺にも秦の強さの秘密があるのかも知れない。

 兵馬俑坑はまだ全部が発掘されていなくて掘ればまだまだいくらでもでてくるそうです。だけど、出土しても保存処理が追いつかないので埋めたままにしているということです。

 以前テレビでこの兵士の人形を作る実験をやっていましたが一つ完成させるのに一月以上かかっていた記憶がある。全国から陶工が集められて何年もかけて一体一体焼き上げていったんですね。

  長城といい、兵馬俑といい、何をやるにも徹底した人海戦術です。とにかく全国から人を動員しまくる。始皇帝陵だけでも70万人が動員されたといいますから、せっかく戦国時代が終わって平和がやってきたはずなのに庶民にとっては、始皇帝の大動員は迷惑千万な話だったに違いありません。

 さらに始皇帝は全国に自分専用の道路を作らせました。
 これは幅が70メートル。さらにその真ん中に7メートルの少し高い道路がある。ここが皇帝の専用部分。始皇帝の馬車しか走ることが許されない。その他の貴族、官僚、軍隊はその縁の一般道を行きます。

 始皇帝はこの道路で全国を旅行したんですが、その目的は自分の顔を民衆に見せるためなの。
 そもそも、皇帝といったって、出来たてほやほやの単語だから一般民衆には何のことだかわからない。始皇帝の偉さもわからない。
 そこで、度肝を抜くような豪勢できらびやかな行列を連ねて諸国をまわって、その偉さを思い知らせてやろうというわけだ。

 民衆はこの道路工事にも使役されおまけに始皇帝が通過するときには食糧とか徴発されて、その顔を拝ませられるのですね。

 始皇帝はこの専用道で全国をめぐり各地に自分の功績を刻んだ石碑を立てさせ、泰山という山で封禅の儀式をした。封禅というのは天子になったことを天地の神に報告する重要な儀式です。

  さて、天下を統一してやりたいことは何でもやった始皇帝ですが、こうなると最後に欲しくなるものがある。
 それは、不老長寿です。不死を手に入れたい始皇帝に、胡散臭い連中が近づいてきます。方士という魔術師、呪術士のような者たちが始皇帝にいろいろな不老長寿の技法を伝授したようです。

 日本との関係で有名なのは徐福。この人は東の海に蓬莱という島があってそこに不老長寿の秘薬があると始皇帝に教えた。そこで始皇帝は徐福にその薬を取りにいかせたといいます。徐福はまさか自分がいかされるとは思っていなかったみたいで、いやいやだったようですが東の海に出かけた。その後どうなったかは記録がありません。
 ただ、紀伊半島の熊野地方にはこの徐福がやって来たという伝説がある。新宮市には徐福の墓まであるそうです。

 始皇帝に近づいた方士の中に水銀を不老長寿の薬と教えた者もあったようです。
 水銀、触ったことありますか。体温計を割ったことのある人は経験あると思うけど、水銀というのはなんだか不思議なんだよね。液体なのに丸くてコロコロしてる。指で潰すと小さなつぶつぶになる。いじっていると飽きないです。体内に入ったら毒だから水銀で遊んでいると怒られましたね。

 昔のことで、科学的知識は少ないから、水銀を見せられてこれが不死の薬だといわれれば信じるような気がします。
 で、始皇帝はどうも水銀を少しずつ飲んでいたらしい。あんなもの飲んでいたら胃はボロボロでしょう。毎日始皇帝は胃痛で苦しんでいたんじゃないかな。

  水銀服用が原因かどうかはわかりませんが、ついに始皇帝が死にます。前210年のことです。
 さて、死んだのが都の咸陽だったら問題はなかったのですが、全国旅行の途中で死ぬんだ。死んだときにかれの側に仕えていたのが宦官(かんがん)の趙高です。

 皇帝が公の仕事をするときには官僚が補佐するんですが、プライベートの時間に皇帝の世話をするのが宦官です。
 宦官は男性性器を切り取られている者たちです。かれらは身分は低く皇帝の私的な奴隷に近い存在です。皇帝の身近にいるので、妃たちに近づく機会もあるわけだ。妃たちが皇帝以外の男性とまちがいをおこして皇帝の子どもではない子を産んだりしては困るからね。これが宦官が使われる理由です。

 宦官という制度は中国最後の王朝清が滅亡するまでつづいていました。最後の宦官の人はつい20年くらい前まで生きていたと思います。資料集には清朝時代の宦官の写真がありますね。お爺さんの写真だ。宦官は若いときにはすごくきれいなんだそうですよ。ホルモンの関係で歳をとるとおばあさんのような顔になるらしい。
 戦争捕虜や奴隷、犯罪者を手術して宦官にする場合や、貧しい者が自ら宦官になったり、親に手術をされて宮廷に売られたり、宦官になるにはいろいろは理由があるようです。

 この宦官は身分的には低くて、役人でもないのですが、皇帝に身近に接触する時間が長いから、皇帝に成り代わって権力を振るう者もでたりする。皇帝の秘密を知ることもできるしね。

  さて、趙高たち数人の宦官だけが始皇帝専用の馬車に出入りすることが許されていたんだ。始皇帝の死を趙高しか知らない。かれはこれを利用して権力を握ろうとした。
 始皇帝の遺言をこっそり見てみた。すると、次の皇帝は長男に譲ると書いてある。長男はこの時匈奴討伐で北方に遠征中。遠く離れているんだね。始皇帝には何人か息子がいるんだが末っ子の胡亥(こがい)だけが、始皇帝とともにこの旅にでている。そこで、趙高は胡亥にそっと接触して始皇帝の死を告げる。
「陛下の死を知っているのは私とあなただけです。いまなら遺言を書き替えて胡亥様が次に皇帝になることができます。私と協力しませんか?」などといって仲間した。胡亥も皇帝になれるのならと喜んで即位後の趙高の地位と権力を保証したんでしょう。
 もうひとり大臣の李斯もこの仲間に加わった。

 秘密にしたのは陰謀だけではなく、旅行中に死んだことを公にすれば各地で反乱が起きることを心配したということもあったんでしょう。
 ほんの僅かな人間にしか始皇帝の死は伝えられず、皇帝の大行列は咸陽のまちに向かって旅をつづけた。その間に趙高や李斯は胡亥に即位させるようにいろいろな準備工作をしていたんでしょう。

 ところで、始皇帝が死んだのが現在の山東省。時は七月。暑かったんだ。当然始皇帝の死体は腐ってくる。やがて、異様な臭いが始皇帝専用馬車から漂い始めた。何も知らされていない大臣や将軍たちが不審に思い始めると、趙高は干し魚を大量に買い集めて始皇帝の馬車の左右につけて併走させた。魚の臭いで死臭をごまかそうというの。大臣たちが趙高になぜそんなことをするのか、とたずねると「陛下のご命令で、わたくしにも存じかねるのでございます。」と答える。始皇帝の命だといえば、誰もそれ以上は追求できないのですよ。

 奇妙な臭いをまき散らしながら大行列は咸陽に帰り着いた。
 趙高は準備どおり始皇帝の死と胡亥の二世皇帝としての即位を発表しました。長男には匈奴との戦いで戦果を挙げていないことを理由に自殺するように命令する。始皇帝の偽の手紙を送ってだ。

  このようにして即位した二世皇帝胡亥はやがて飾りものになってしまいます。実権は宦官趙高が手にするようになった。
 宦官は普段は人間以下の存在として軽蔑されているから、権力を握るとやりたい放題になる。政治に対して責任感を持つことはあまりない。ひたすら自分の富と虚栄心を追求するようになるようです。どうせ子孫もないわけで守らなければないものもないからね。

 趙高はやがて自分自身が皇帝になる野心を持ったようです。自分がどれくらい宮廷の役人たちをつかんでいるのか試します。
 ある時二世皇帝の前で百官がそろっているところへ、趙高は鹿を連れてきて「馬でございます。」といって献上した。二世皇帝は「趙高、何を言っているのか。角が生えている、鹿ではないか!」と反論した。誰が見ても鹿は鹿ですからね。
 すると趙高はじろりと居並ぶ百官を見回したんだ。すると、趙高におもねる役人たちは口をそろえて、「陛下こそ、何をおっしゃいます。馬ではありませんか。」
 二世皇帝は愕然とする。自分の皇帝の地位なんていうのが実は空っぽのいすだったことに気づくんですね。
 これが「馬鹿」という単語の語源だという。

  実はこのころになると、各地で反乱が起きているんです。だけど秦の政府は宮廷内の権力闘争できちんとした対策がとれない。まさしくこんな馬鹿なことばかりやっているあいだに、反乱は秦を滅ぼすほど大きくなっていきました。


http://www.geocities.jp/timeway/kougi-27.html


   秦 (紀元前778〜紀元前206) 周代の諸侯国で、戦国の七雄の一つ。
   秦朝 (紀元前221~紀元前206) 秦王政のときに天下を統一。

秦は、北西辺境の地(甘粛省)からおこり、渭水に沿って次第に東へ移動しながら勢力を拡大した。春秋時代中期に穆公が発展に努め、五覇の一つに数えられたこともあるが、中原諸侯からは夷狄視され続けた。戦国時代(中国)の孝公のとき都を咸陽に移し、商鞅を用いて強力となり、張儀を用いた恵文王、白起らを用いた昭襄王にかけて戦国七雄のうちで最強となる。秦王の政のとき、紀元前221年に中国を統一した。秦二世皇帝は在位3年で趙高に殺され、子嬰が立ったが漢の劉邦に降伏し、前206年に滅亡した。
秦(王朝)
世界史対照略年表(前400〜600)
世界史対照略年表(前400〜600)©世界の歴史まっぷ

秦は、周代の諸侯国で、戦国の七雄の一つ。のち統一国家を建設(秦朝 紀元前221~紀元前206)。甘粛省方面からおこり、帝顓頊(『史記』に記される帝王)の子孫栢翳が舜から嬴姓を賜わったというが、西周末期までは伝説におおわれた部分が多い。周の平王の東遷を助けた襄公がその功績で諸侯に列せられたという。春秋時代中期に穆公が発展に努め、五覇の一つに数えられたこともあるが、中原諸侯からは夷狄視され続けた。強力になるのは戦国時代中期に商鞅を用いた孝公のときからで、次の張儀を用いた恵文王(秦)、白起らを用いた昭襄王(秦)にかけて韓、魏など6国に圧迫を加え、始皇帝のときに天下を統一した(前221)。秦二世皇帝は在位3年で趙高に殺され、子嬰が立ったが漢の劉邦に降伏し、前206年に滅亡した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2017
秦の統一
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
秦の統一
アジア・アメリカの古代文明
アジア・アメリカの古代文明 ©世界の歴史まっぷ
秦は中国の北西辺境の地におこり、渭水に沿って次第に東へ移動しながら勢力を拡大していった。戦国時代(中国)はじめの孝公(秦)のとき都を咸陽に移し、法家の商鞅を用いて富国強兵政策を行い中央集権化をはかった。その後、秦は戦国七雄のうちで最強となり、秦王の政のとき、東周および東方の6国を次々に滅ぼして、紀元前221年に中国を統一した。中国を統一して諸王の王となった秦王の政は、「王」に変えて新たに「皇帝」(「煌々たる上帝」、光り輝く絶対神という意味)の称号を採用した。すなわち秦の始皇帝(位紀元前221〜紀元前210)である。始皇帝は、法家の李斯の意見にもとづき中央集権的な統一政策を実施した。
秦の統一領域地図
秦の統一領域地図 ©世界の歴史まっぷ

商鞅の改革 商鞅は衛の国の公子で、形名(法律)を学んだが衛の国では受け入れられず、秦に入り、紀元前361年以降、孝公(秦)に使えた。商鞅は孝公に富国強兵を説いて受け入れられ、中央集権的支配体制の確立に努めた。改革の中心は以下の点である。

   県制の実施:新しい占領地(小国)に県制を施行し、長官を派遣しておさめた。これによって農民を直接国家の成員として把握、個々の農民を支配して税役の基盤とした。
   分異の法:成人男性が2人以上いる家庭を強制的に分家させて小家族を作り、新開地に移住させた。この結果、生産力が大いに向上した。
   什伍の制:農民を5家・10家単位で隣組を作らせ、治安維持などの面で連帯責任を負わせた。
   軍功爵  軍功によって爵位を与え、その爵位の等級に応じて土地・財産を与える。出身氏族の区別無しに兵士に採用し、手柄をたてたものには、身分の差なく爵位を与えた。また、爵位の等級によって土地・財産が与えられ、兵士たちの忠誠心や戦意は飛躍的に向上した。

こうした一連の改革は「商鞅の変法」と呼ばれ、厳格な賞罰規定が設けられた。
中央官制では、丞相(行政)・太尉(軍事)・御史大夫(監察)をおいてそれぞれ権力を分立させた。地方では、周の封建制を廃して、統一以前から秦の領土ですでにおこなわれていた郡県制を全国に施行した。 その結果、全国を36の郡に分け(のちに新しい領土が加わったり、大きい郡を分けたりして48郡にしたといわれる)、それぞれの郡には守(行政)・尉(軍事)・監(監察)その下の県には令(行政)・尉(軍事)などの官吏を中央から派遣し統治にあたらせた。郡県制の施行とともに、反乱を防ぐ目的で民間にあった兵器を没収して都の咸陽に集め、全国のおもな都市の城壁を破壊し、12万戸といわれる富豪を咸陽に移した。また、これまで各国で異なっていた度量衡・貨幣(半両銭の鋳造)・文字を統一し(小篆)、さらに車軌(車軸の長さ)の統一もはかったといわれる。
度量衡:戦国時代(中国)の各国で不統一であった度(長さ)・量(容積)・衡(重さ)を統一するため、それぞれの標準器を製造して各地に分配した。現在も「秦量(ます)」あるいは「秦権(分銅)」といわれるものが残っている。
さらに儒家による周の封建制復活の動きに対する李斯の批判にもとづき、医薬・占い・農業技術書以外の書物は全て焼かせ(焚書,紀元前213)、翌年、儒家のうちに皇帝を謗るものがあったことで、咸陽に居住する460数名の儒学者らを捕らえて生き埋めにし(坑儒)、言論・思想の統制をはかった(焚書坑儒)。 そのほか、始皇帝は中国を統一した翌年から地方の巡幸をおこなって皇帝の威厳を各地に示し、皇帝権力の絶対化と中央集権化を推し進めた。 このころ、北方モンゴル高原では、遊牧民の匈奴の勢力が強大になっていたため、秦の北方への進出は阻まれていた。始皇帝は、将軍の蒙恬を派遣し、オルドスの匈奴を攻撃してこれをゴビの北方に退けるとともに、戦国時代(中国)に北辺の燕・趙などが築いていた長城を修復・連結して匈奴の侵入に備えた。長城は、東の遼東(遼寧省遼陽市)から西の臨洮(甘粛省岷県)におよぶ1万余里(4000km余)にわたるもので、これがいわゆる万里の長城である。
現在の長城は明代のもので、始皇帝の長城はこれよりはるか北方に位置していた。
また、南方に対しても南越に遠征して華南・ベトナム北部にまで領土を広げ南海(現広州)・象・桂林の3郡をおいた。こうして、北はモンゴル高原の南辺から、南はベトナム北部におよぶ広大な領土をもつ大帝国が建設された。 始皇帝が採用した支配体制は、以後2000年におよぶ中国の中央集権体制の原型となったが、そのあまりに急激な改革や厳格な法治主義による統治は、旧6国の貴族や民衆の反感を招いた。とりわけ、度重なる遠征および長城の修復や壮大な宮殿(阿房宮)・陵墓(始皇帝陵(驪山陵)造営などの大土木工事に関わる負担は、民衆の生活を大変苦しめた。そのため、紀元前210年に東方巡幸途中で始皇帝が病死し、二世皇帝胡亥が即位すると、翌紀元前209年に陳勝・呉広の乱が起こり、これを契機に各地で反乱が勃発した。そのなかには、のちに漢の高祖となる劉邦やもとの楚の貴族出身の項羽も含まれていた。 こうして各地に起こった反乱の渦中で、秦は統一後わずか15年にして滅亡した(紀元前206)。
陳勝・呉広の乱 陳勝はもと日雇いで生計を立てていた貧しい農民で、北辺を守備する兵士として徴発されたが、期間内に目的地である河北の漁陽に到達できないことが明らかになると、斬罪になるのを恐れて呉広らと引率の隊長を斬り反乱をおこした(紀元前209年)。はじめは小規模な反乱集団であったが、秦の拠点を次々に攻略し、河南に張楚という小さな王朝をたてるようになると、秦の圧政に苦しむ農民の支持をえてその規模も拡大した。陳勝・呉広による反乱そのものは、秦軍の圧力や内部の離反により急速に崩壊し、わずか6ヶ月で鎮圧された(紀元前208年)が、これに呼応するようにして各地で反乱がおこった。 なお、陳勝の 「嗟呼燕雀安知鴻鵠之志哉」「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」(ああ、燕や雀のごとき小鳥にどうして鴻(ヒシクイ)や鵠(白鳥)といった大きな鳥の志がわかろうか)の言葉や、反乱に際しての 「王侯将相寧有種也」「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王や諸侯、将軍、宰相になると生まれた時から決まっている訳ではない。即ち、誰でもなることができるのだ)の言葉は有名である。


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Last-modified: 2018-11-09 (金) 07:41:00