大宝以前の逸年号-逸年号論序説-(Historical)

1.逸年号史料

我が国の「年号」は、「大宝」から始まった。
あるいは、「大化」から始まった。
これが常識である。

ところが、「大宝」「大化」以前から、年号が存在した、とする、史料がある。
『ニ中歴』や『如是院年代記』や『麗気記私抄』などである。
いわゆる「逸年号」だ。

まずは、これら各史料の状況をまとめよう。(『古事類苑』等に基づき、かわにし作成)

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二中歴・・・文保二年(一三一八)~延元四年(一三三九)に一旦成立。文安年間(一四四四~八)頃、最終成立。
麗気記私抄・・・応永八年(一四〇一)。
海東諸国記・・・申叔舟撰。李朝成宗二年(一四七一)。
如是院年代記・・・元亀元年(一五七〇)頃。
和漢年契・・・高安蘆屋著。寛政十年(一七九八)。
襲国偽僭考・・・鶴峯戊申著。文政三年(一八二〇)。
茅窓漫録・・・茅原定著。文政十三年(一八三〇)。

江戸時代以前には、こうした逸年号の研究は盛んであった。
『二中歴』は後醍醐天皇代(一三一八~一三三九)の本であり、逸年号を収集した史料としては、もっとも古いものだ。
これ以降、『麗気記私抄(一四〇一)』→『海東諸国紀(一四七一)』→『如是院年代記(一五七〇)』と同系統の史料が続くのがわかる。
(たとえば、所功『年号の歴史』では、『二中歴』と『海東諸国紀』とが同系統の史料に基づくものであることが、述べられている)
その一方で、異説も多く存在する。
この点が重要だ。
これらの史料群は、「資料集成」の性格を持つからである。
年号とは本来、このような形で残るものではない。
あくまで、単体の、脇役として、史料の中に顔を出すべきもの。
これが基本だ。
そういった、単体の「年号」を渉猟し、組み合わせ、形作られたのが、これら、「逸年号史料」である。

この中から、いくつかの史料を取り上げたいと思う。
『二中歴』『和漢年契』『襲国偽僭考』だ。
これら各史料のもつ問題点を明らかにしたい。
1-1.『二中歴』

まずは、『二中歴』だ。
これは、近年、古田武彦がその史料価値を認めて以来、「九州年号」研究の根本史料と見なされているようだ。
これに基づいて、古賀達也・福永晋三ら、各氏は各自の「九州王朝説」を展開されている。
それはそれでよい。
だが、私には、『二中歴』そのものが、「逸年号史料」として、そこまでの価値があるようには思えないのである。

私にそう感じさせる第一は、「法興年号欠如」だ。
数多くある「逸年号(正史の記載に漏れた年号)」の中で、もっとも、出現時期の古い年号が、「法興」だ。
「法隆寺釈迦三尊像銘」に見える。

   法興元卅一年、歳次辛巳十二月、鬼前皇后崩。

他には、『釈日本紀』に載せる「伊予温湯碑銘」にも見えている。
「釈迦三尊像」は、推古朝頃の作と考えられるから、その銘文に記載された「法興」年号は、その時代に実用されていた可能性が高い。
したがって、この「法興」年号は、他の「逸年号」とは格段に信憑性に勝ると言っていいだろう。
実在・実用がほぼ確定的なこの「法興」年号を、『二中歴』は欠いている。
欠いているだけならまだよい。
『二中歴』を見れば明らかなように、そこには、「法興」年号の入る余地はない。
これは、明らかな矛盾だ。
古田武彦は、これを、「二系統の年号併用」として、解決を試みているが、私には理解できない。
「九州王朝が同じ時代に二つの年号を使用していた」
そのような事態が考えられるのであろうか。
もしも、二系列の年号群の存在を認めるならば、
推古天皇の時代、年号を制定し得る公権力は、天皇家のほかに二つ存在していた」
と言うほうが、正しいのではないか。
ともあれ、古田が「二系統の年号併用」を導き出す際に依拠したのは、『襲国偽僭考』の中の「一説」だ。

後述するように、これは実は『和漢年契』の引用部分だから、この「一説」の成立は、相当新しいものと考えねばならない。
結局、『二中歴』や『襲国偽僭考』の如き「後代史料」によって、「法隆寺釈迦三尊像」のような「第一次史料」を分析することは、正しくない。
むしろ、疑われるべきは、『二中歴』のほうである。

今一つ、例を挙げよう。
『二中歴』では、「仁王」年号は十二年続いたことになっている。
ところが、『如是院年代記』では、「仁王」はなく、「聖徳」年号が記載されている。
また、『海東諸国記』では、「仁王」のあと「聖徳」が続く。
(前掲表参照)
『如是院年代記』や『海東諸国記』には、元年の記載があるだけで、必ずしも、その年号が何年続いたのかは、記載があるわけではないが、素直に読む限り、連続した年号として記載されたことは間違いない。
この中のいずれが「正」かは、今は問題ではない。
重要なことは、『二中歴』が、

   仁王十二年

と明記していることである。
『二中歴』に示された「十二年」という数字に、根拠はあるのだろうか。
私の目には、「仁王元年癸未」から(次と見なした)「僧要元年乙未」までが「十二年」であったから、そう書き記したようにしか見えない。
『二中歴』編者が「聖徳」年号を知っていたら、或は「仁王六年、聖徳六年」と書き記したのではないか。
逆に「十二年」という数字に確たる史料上の根拠があるのであれば、「聖徳年号欠如」は、『二中歴』の遺漏ではなく、何らかの意味が含まれるのであろうが、今は、『二中歴』編者の依拠した史料が明らかではない。
だが、割注に示された「癸未、自唐仁王経渡、仁王会始」が、「原史料」に当ると考えられるから、やはり、「十二年」の数字は『二中歴』編者の手によるものと見なす方が正しいだろう。

要は、『二中歴』の記載も一つの「作業仮説」なのだ。
割注に示されるような「原史料」群を渉猟し、その「干支」と記載内容を勘案して、整然と並べた。
これが、『二中歴』記載の「逸年号表」の実態ではあるまいか。

   年始五百六十九年、内卅九年無号、不記支干、其間結縄刻木以成政<ニ中歴、年代歴、逸年号記載の冒頭部分>
   已上百八十四年、年号卅一、代不記年号唯有人伝言、自大宝始立年号而已<同、末尾部分>

と、あるが、実際に『二中歴』に記載されているのは、三十一個百八十四年分(五一七~七〇一)だけだ。
それも、「代々書き記されたもの」ではない、という。
ところが冒頭には、五百六十九年のうち三十九年は年号がなかった、という。
つまり、『二中歴』が収集できたのは、その「有年号」の五百三十年間のうちでも百八十四年間だけなのである。
一部だ。
ここに示された「五百六十九年間」や「三十九年」という数字については、興味深い史料であるが、今は置いておこう。
このような「作業仮説」の実態を忘れ、『二中歴』を根本史料とすることは、史料批判の方法として甚だ危険だ。
この点を特記しておきたい。
1-2.『和漢年契』

次は『和漢年契』だ。
これは、寛政十年(一七九八)に高安蘆屋(高昶)の著したものであって、『二中歴』や『海東諸国記』と比較すれば、大分時代は下る。
だが、ここには、『二中歴』系統の本には見られないような「逸年号」も収載されているから、注目をしてもよいと思う。
まず、逸年号記載の冒頭部分を見てみよう。

   一、我邦年号、孝徳帝之時大化為始、見于正史、後世無異議、故此書亦沿之、而不敢違矣、然予又嘗[才僉]旧記、大化之前猶有年号、蓋[日方]於孝霊帝之時、其後或断、或不断、以接大化也、竊疑、是当時苟且所為、而未[彳扁]布告天下邪、史編何無徴也、且其年号、往々奇僻難可据信、而百世之下、又不可臆断其無也、因今且並挙、以告好古之士如左
   (一、我が邦の年号は、孝徳帝の時の大化を始めと為すと、正史に見ゆ。後世、異議無し。故、此の書も亦、之に沿いて、敢えて違わず。然るを、予、又、嘗て旧記を[才僉](=検)するに、大化の前に猶年号有り。蓋し、孝霊帝の時に[日方](はじ)め、其の後或は断ち、或は断たず、以て大化に接するなり。竊かに疑うらくは、是、当時苟しくも、且に為されんとして、未だ[彳扁](あまね)く天下に布告せざるか。史編何ぞ徴無かるか。且、其の年号、往々にして奇僻なれば、信を据うべきこと難くして、百世の下、其の無きを臆断すべからざるなり。因りて今且に並挙し、以て好古の士に告がんとすること、左の如し)<和漢年契、凡例>

ここに見えるように、高安は、この「逸年号群」に対し、判断を保留している。
その上で、彼が調べたという「年号群」を紹介しているのである。
さて、その中身を見よう。

   (孝霊帝之時)列滴
   (応神帝之時)璽至
   (継体帝之時)善記(四年終)正和(五年終)定和(七年終)常色(八年終)教知(五年終、一作教到、又曰殷到。按自四年至五年、係安閑帝之時)<和漢年契、凡例>()内は「割註」。

最初の二つの年号は、他の書には見えない。(後の『茅窓漫録』は『和漢年契』によったもの)
この二つの年号は、その原典が明らかでなく、不明と言うほかはない。
次の継体天皇の時の年号群も、他書と大きく異なる。「定和」年号は他に見えず、「常色」年号は、他書においては、孝徳天皇の時代に置かれている。
この不一致も奇妙だが、さらに、他書と高安とが大きく異なるのは、「善記」の開始年だ。
「教知」年号のもとに、「按自四年至五年、係安閑帝之時」とある。これは、善記元年=継体元年として、

   善記=継体元年~四年(四年)
   正和=継体五年~九年(五年)
   定和=継体十年~十六年(七年)
   常色=継体十七年~二十四年(八年)
   教知=継体二十五年~安閑二年(五年)→継体二十八年=安閑元年(『日本書紀』による)

このように見なした場合にのみ成立する説だ。
つまり、高安は、「善記」年号を、「継体元年」からと見なしているのである。
これは、『二中歴』を始めとした諸本が、善記元年を継体天皇十六年壬寅としているのと大きく異なる。
なぜ、このようになったのか。
思うに、諸本の伝える「逸年号」は、天皇の交代年次と必ずしも一致しないことを、不審として、これに合うように並べ替えた、これが真相ではないか。
(改元が必ずしも天皇の交代と一致しないのは、古田が「公権力別在の証拠」と見なす現象でもある)
ともあれ、これも、高安の「作業仮説」を示すものに相違ない。
また、欽明天皇の項では、

   (欽明帝之時)師安(一年終)大長(三年終)法清(四年終。一作靖)兄弟和(一年終。一作兄弟)明要(三年終。或云十一年)蔵知(一年終。知一作和)知僧(一年終。或云七年)貴楽(十八年終。或云二年)金光(六年終。或云四年)<和漢年契、凡例>

とあって、これまた、諸本との違いを見せている。
継体の項の「常色」年号や、欽明の項の「大長」年号には、いかなる根拠があったのであろうか。今は不明である。
次に、推古天皇の項を見よう。

   (推古帝之時)告貴(十年終。按一説推古元年為喜楽、二年為端正、三年為始哭、自四年至十年、為法興。是四年号、通計十年而終。与告貴年数正相符。十年之間、蓋与告貴互相行也耳。始哭一作大)<和漢年契、凡例>

ここには、古田のいう、「二系列の年号並立」説が挙げられている。
高安蘆屋の提唱によるものである。この点を確認しておこう。
ここでも、推古元年を告貴元年と見なしているのである。
要するに高安は、「天皇の即位による改元」を常識として、これに合うように年号の配列を変えたり、年数を変えたりしている形跡が認められるのだ。
そこには「干支」の無視が存在している。
だが、「逸年号」史料にとって、最も重要だったのは「干支」である。
諸本はこれを重視して、天皇の交代と改元の不一致を敢えてそのままに記していた。
結局、高安の試みはその根本において不当だったと言わざるを得ない。
高安は果敢にも、「逸年号」に対し、『二中歴』以来の「定型」を打ち破り、新たな「逸年号」表を作ろうとしたが、その試みは失敗に終わっている。
だが、重要なことは、『二中歴』系統も『和漢年契』も、その根本において、同種の史料である。
「作業仮説」を示すものに過ぎないのである。
1-3.『襲国偽僭考』

さて、古田武彦が「逸年号」研究において、始めに依拠した史料。それが、『襲国偽僭考』である。
ここには「九州年号」という言葉が使われている。
「襲国偽僭説」とは、本居宣長の提唱によるもので、「卑弥呼は熊襲の女酋であり、熊襲が、天皇家を差し置いて日本列島の王を僭称し、中国に使者を送った」とするものだ。「僭称」などの言葉は、本居の根本の概念から生まれた「大義名分用語」であって、その実は、「九州王朝説」である。
だが、『失われた九州王朝』における古田武彦の『襲国偽僭考』の読解は、誤りがある。
今、それを示そう。

   継体天皇十六年、武王年を建て善記といふ。是九州年号のはじめなり。
   年号 けだし善記より大長にいたりて、およそ一百七十七年。其間年号連綿たり。
   麗気記私抄、また海東諸国記などにもこれを載せ、今伊予国の温泉銘にも用ひ、
   如是院年代記にも朱書して出せり。しかれども諸書載るところ異同多し。
   今あはせしるして参考に備ふること左のごとし。
   善記
   (1)襲の元年、継体天皇十六年壬寅、梁普通三年にあたる。
   (2)海東諸国記善化に作る。
   (3)如是院年代記に、或曰、継体天皇自十六年始年号在之云々分者朱ニテ書之、年数相違之処在之不審とあり、
   (4)一説曰、継体帝之時、善記四年終。
                   :
   殷到
   (1)継体天皇二十五年辛亥、殷到元年とす。
   (2)海東諸国記発例に作り、
   (3)如是院年代記教到に作る。同書に、教到元始作暦とあるも、また襲人のしわざなるべし。
   (4)一説に、正和と殷到との間に、定和常色の二年号あり。いはく定和七年終。常色八年終。教知五年終。一説作教到、又曰殷到。按自四年至五年、係安閑帝之時。
                   :
   吉貴
   (1)推古天皇二年甲寅、吉貴元年とす。
   (2)海東諸国記従貴に作る。
   (4)一説告貴に作る。いはく推古帝之時、告貴十年終。又曰、按一説、推古元年為喜楽、二年為端正、三年為始哭、自四年至十年、為法興。是四年号、通計十年而終。与告貴年数正相符。十年之間、蓋与告貴互相行也耳。
   (5)いま按ずるに、伊予風土記に、湯郡云々、天皇於湯幸行降坐五度也云々、以上宮聖徳皇子為一度及侍高麗恵慈、葛城王等也。于時立湯岡側碑文、其碑文処謂伊社邇波之岡、記曰、法興六年十月歳在丙辰云々と見えたり。丙辰は推古天皇の四年にして、すなはち法興寺の成りし年なり。この年を法興六年とすれば、その元年は崇峻天皇の四年辛亥なり。しかるに今記する処とあはず。疑ふべし。
                   :
   大長 (1)文武天皇二年戊戌、大長元年とす。
   (4)一説曰、文武帝之時大長、又曰、按戊戌為元年右大化以後年号。
   九州年号ここに終る。今本文に引所は、九州年号と題したる古写本によるものなり。
   ((1)(2)…の番号はかわにし)

さて、最後に「今本文に引所は、九州年号と題したる古写本によるものなり」と述べているが、本文のどこからどこまでが、「古写本」によるのだろうか。
(2)や(3)は、冒頭で鶴峯自身の語るとおり、鶴峯が『海東諸国記』や『如是院年代記』を対校して記したものだ。
また、(4)は、実は『和漢年契』の文である。
古田はこの事実を見落とした。
ために、「吉貴」の項の「一説」を「九州王朝と題したる古写本」の一節と見なし、「二系統の年号並立説」を打ち立てたのである。
だが、この「一説」に対しては、鶴峯自身が「伊予温湯碑」の「法興」年号を引いて、「疑ふべし」と異論を提出しているのである。
鶴峯の疑いは正しい。
たかだか二十年程度先に成立した『和漢年契』よりも、第一次史料たる「伊予温湯碑」に依拠すべきこと、当然だ。
では、(1)の部分は、どうだろうか。
これも「古写本」の一節ではない。
「善記」の項に「襲の元年」とあるが、これは、鶴峯の言葉と見なす他ない。
したがって、「古写本」にあったのは、「善記」「殷到」といった、年号のみであったのだ。
これは、『二中歴』その他の史料と、大差ない。
また、「古写本」が実在しない以上、これがどの程度古いものなのかは、不明だ。
したがって、古田が始めにこの本に依拠したことは、大きな誤りだったと言わざるを得ない。


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Last-modified: 2019-05-03 (金) 14:44:00