• 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
  • data_人類歴史年表 へ行く。

|&size(12){年代};|&size(12){人類種};|&size(12){発見地(参考図)};|&size(12){化石の名称(略語解説)(注意:この列のリンクは人骨の写真です!)};|&size(12){発見年};|&size(12){脳の容量};|&size(12){発見者};|&size(12){備考};|
|&size(12){137億年前};|>|>|>|>|>|>|&size(12){宇宙の誕生・・・ビッグバン};|
|&size(12){46億年前};|>|>|>|>|>|>|&size(12){地球の誕生(地球誕生から人類誕生までの歴史は「地球と生命の歴史」を参考にしてください)};|
|&size(12){?1050~1000万年前};|&size(12){?チョローラピテクス・アビシニクス(Chororapithecus abyssinicus)?};|&size(12){エチオピア&br;アファール地溝帯&br;チョローラ累層?};||&size(12){2006年?};||&size(12){・諏訪元&br;・河野礼子?};|&size(12){・?は未だ確認中で、確定的では無いため。(参考)&br;・アビシニアはエチオピアの旧称。?};|
|700万年前|サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)|チャド共和国|トゥーマイ|2002年|360|ミッシェル・ブルネ|・ここで人類はチンパンジーとの共通祖先から枝分かれをしました(参考図)。大きな特徴は「直立二足歩行」と「犬歯の縮小」です。|
||(Sahelanthropus tchadensis)|ジュラブ砂漠|TM 266||~370cc?||・「トゥーマイ」は現地のゴラン語で「生命の希望」の意味。|
|||トロス・メナラ遺跡?||||||
|600万~580万年前|オロリン・ツゲネンシス|北ケニア|ミレニアム・アンセスター|2000年|―?|・マーティン・ピックフォード||
||(Orrorin tugenensis)|トゥーゲンヒルズ|BAR 1000'00?|12月||・ブリジッド・セニュ?||
|||ルケイノ層||||||
|580万~520万年前|アルディピテクス・カダバ|エチオピア|??(参考)|2001年|―?|ヨハネス・ハイレセラシエ?|・「カダバ」は現地のアファール語で「家族の大もとの祖先」の意味。?|
||(Ardipithecus kadabba)|ミドル・アワッシュ||||||
|||アサ・コマ||||||
|450~440万年前|アルディピテクス・ラミダス|エチオピア|アルディ?|1992年12月|300|・ティム・ホワイト||
||(Ardipithecus ramidus)|ミドル・アワッシュ|||~350cc?|・諏訪元||
|||アラミス||||・アスファオ||
|420万~390万年前?|アウストラロピテクス・アナメンシス|ケニア|KNM-KP29281?|1995年?|―?|・ミーヴ・リーキー|・「アウストラロピテクス」は「南のサル」の意味。|
||(Australopithecus anamensis)?|トゥルカナ湖西岸||||・カモヤ・キメウ?|・「アナム」はトゥルカナ語で「湖」の意味。?|
|||カナポイ?||||||
|380万~280万年前|アウストラロピテクス・アファレンシス|・エチオピア|・ルーシー|1974年|380|・ドナルド・ヨハンソン|・ラエトリの足跡【注3】?|
||(Australopithecus afarensis)|アファール窪地|AL 288-1||~430cc?|・メアリー・リーキー?|・「アファール猿人」とも呼ばれる|
|||ハダール|・セラム|||・ゼネゼネイ・アレムゼゲド|・「セラム」はアムハラ語で「平和」を意味する。|
|||・タンザニア|DIK-1|||||
|350万~330万年前?|ケニアントロプス・プラティオプス|ケニア|KNM-WT 40000?|1999年|420|・ミーヴ・リーキー|・「プラティオプス」はギリシャ語で「平らな顔」の意味。?|
||(Kenyanthropus platyops)?|トゥルカナ湖西岸|||~500cc?|・ジャスタス・エラス?||
|||ロメクウィー?||||||
|350万~300万年前|アウストラロピテクス・バーレルガザリ|チャド共和国|アベル|1995年|―|ミッシェル・ブルネ||
||(Australopithecus bahrelghazali)|バール・エル・ガザール|K 12|||||
|342万~324万年前|>|>|>|>|>|>|石器の作成(エチオピア北東部のディキカ地区)【注15】|
|320万~240万年前|アウストラロピテクス・アフリカヌス|・南アフリカ共和国|・タウング・チャイルド|・1924年|405|・レイモンド・ダート||
||(Australopithecus africanus)|タウング|Taung 1|・1947年|~625cc|・ロバート・ブルーム||
|||・ステルクフォンティン|・ミセス・プレス|・1994年||・ロナルド・クラーク||
|||シルベルベルク洞窟|STS 5、STS 14|||||
|||・クロムドラーイ|・リトル・フット|||||
||||STW 573|||||
|270万~230万年前|パラントロプス・エチオピクス|ケニア|ブラック・スカル?|1985年|410cc|アラン・ウォーカー?|・「パラ」は「傍系の」を意味する。|
||(Paranthropus aethiopicus)|トゥルカナ湖西岸?|KNM-WT 17000||||・「パラントロプス」=「頑丈型」と覚えてください。【注26】?|
|270万~250万年前|アウストラロピテクス・ガルヒ|エチオピア|BOU-VP-12/130|1997年?|450cc|・ベルハネ・アスフォー|・「ガルヒ」は地元のアファール語で「驚き」の意味。|
||(Australopithecus garhi)|ミドル・アワッシュ|(参考)|||・ティム・ホワイト|・「BOU-VP-12/130」頭蓋の近くで発見されたウシ科の動物の四肢骨片に、石器によるカットマークが付いていた。石器は見当たらなかったが、最古のブッチャリング・サイト(動物解体遺跡)であった。|
|||ブーリ村近郊?||||・諏訪元?||
|260~250万年前?|>|>|>|>|>|>|・肉食の開始(エチオピア、ミドル・アワッシュ、ブウリ)【注27】・石器の作成( ハダール、カダ・ゴナ地区/ケニア、トゥルカラ湖西岸ロカラレイ遺跡ほか )【注16】⇒脳の拡大(石器作成の20~30万年後)|
|250万~178万年前|ホモ・ルドルフェンシス|ケニア|①KNM-ER 1470?|①1972年|790cc|・バーナード・ンゲネオ?||
||(Homo rudolfensis)?|トゥルカナ湖東岸|②KNM-ER 62000ほか|②2012年||・リチャード・リーキー||
|||クービ・フォラ?||||・ミーヴ・リーキー||
|230万~140万年前|ホモ・ハビリス|①タンザニア|①OH 7(オス)||①680cc|①・ルイス・リーキー【注21】?|・ホモ・ハビリスは出土する化石の数が多いので、代表的な3例を記す。|
||(Homo habilis)|オルドヴァイ|②KNM-ER 1813(メス)?|①1964年|②509cc|・フィリップ・トバイアス|・ホモ・ハビリス=「器用なヒト」(オルドヴァイ峡谷の石器製作者と見られている)|
|||②クービ・フォラ|③OH62|②1973年|③不明|・ジョン・ネイピア|・最近余りにも多種の化石が出るため種の帰属を考慮する動きがある。「ハビリス」を「ガラクタ箱」と表現する人もある。|
|||③オルドヴァイ||③1986年||②カモヤ・キメウ||
|||||||③・ドナルド・ヨハンソン||
|||||||・ティム・ホワイト||
|230万~125万年前|パラントロプス・ボイセイ|・タンザニア|・ジンジorナットクラッカーマン|・1959年|500cc|・メアリー・リーキー||
||(Paranthropus boisei)|・?トゥルカナ湖東岸|=OH 5|・1969年||・リチャード・リーキー?||
|||クービ・フォラ|・KNM-ER-406|||||
|200万~125万年前|パラントロプス・ロブストス|南アフリカ|TM 1517?|・1938年|410|・ガート・ターブランシュ||
||(Paranthropus robustus)|スワルトクランス洞窟?|SK6 SK 48|・1948年|~530cc?|・ロバート・ブルーム?||
|195万~178万年前|アウストラロピテクス・セディバ【注14】|南アフリカ・プレトリア近郊|MH1|2008年|420|リー・バーガー|・この辺までを「猿人」と呼ぶ【注1】|
||(Australopithecus sediba)|マラパ洞窟|||~450cc||・「セディバ」は地元のソト語で「水源」の意味。戻る|
|180万年前|>|>|>|>|>|>|人類の出アフリカ(出アフリカⅠ)(ホモ・エレクトスかホモ・ハビリスが実行?)【注17】|
|177万年前|ホモ・ゲオルギクス【注4】|グルジア|D 2700|1991|600|D.ロードキパニッゼ||
||(ホモ・ジョルジクス)|ドマニシ遺跡||~2001年|~680cc|||
||(Homo georgicus)|||||||
|170万年前|>|>|>|>|>|>|・肉食の一般化「文明の誕生へ」の【注7】・病気の痕跡(「ビタミンA過剰症」または「イチゴ腫(熱帯性感染症)」のホモ・エレクトス女性東アフリカ・トゥルカナ湖畔)【注24】|
|153万年前|ホモ・エルガスター|ケニア|トゥルカナ・ボーイ|1984年|880cc|・カモヤ・キメウ|・「エルガスター」は「働くヒト」の意味。|
||(Homo ergaster)|トゥルカナ湖西岸|ナリオコトメ・ボ-イ|||・リチャード・リーキー?|・この辺から「原人」【注1】と呼ばれる?|
|||ナリオコトメ?|KNM-WT 15000|||||
|150万~100万年前|>|>|>|>|>|>|火の使用(南アフリカ・スワルトクランス洞窟第三層【注6】・南アフリカ北部のワンダーウェーク洞窟【注20】)?|
|150万~10万年前|ホモ・エレクトス|・インドネシア|・Trinil 2|・1891年|850|・ウジェーヌ・デュボア|・ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトス)―150年前~10万年前(1891年、ウジェーヌ・デュボアが発見した)|
||(Homo erectus)|トリニール遺跡|・KNM-ER-3733|・1975年|~?1,016cc|・バーナード・ンゲネオ|・北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)―約77万年前|
|||・トゥルカナ湖東岸||||||
|||クービ・フォラ||||||
|120万~80万年前|ホモ・アンテセソール|スペイン|―|1994年|1,000cc|・ベルミューデ||
||(Homo antecessor)?|アタプエルカ||||・アルシュアーガ||
|||グラン・ドリナ遺跡||||||
|104万~4万年前|デニソワ人【注13】|南シベリア・アルタイ山脈|―|2010年|―|スヴァンテ・パーヴォ他|ヒト属(Homo)と考えられていますが、未だそれらしき命名は有りません|
||(Denisova hominin)|デニソワ洞窟||||マックスプランク||
|||||||進化人類学研究所||
|65万~35万年前|ホモ・ハイデルベルゲンシス|・ドイツ、ハイデルベルク近郊|ハイデルベルクのヒト|1907年|1,100cc|シェッテンザック||
||(Homo heidelbergensis)|マウエル採石場|Mauer1(マウエル下顎骨)||~ 1,400cc|||
|||・スペイン、アタプエルカ山||||||
|||シマ・デ・ロス・ウェソス||||||
|60万年前?|>|>|>|>|>|>|宗教的な儀式の可能性(エチピア・ボド発掘のホモ・ハイデルベルゲンシスの頭蓋に石器による切り傷)【注25】?|
|40万年前?|>|>|>|>|>|>|狩猟の開始(ドイツ・シェーニンゲン遺跡で木の槍と獲物の馬の骨の傷跡)【注23】?|
|35万~3万年前|ホモ・ネアンデルターレンシス|ドイツ|ネアンデルタール人|1856年|1,550cc|―?|・ネアンデルタール人を「旧人」【注1】と呼ぶ|
||(Homo neanderthalensis)|ネアンデル峡谷(tal)|||||・参考「サイエンス誌、2010.5.7」?|
|||フェルトホーファー洞窟|||||・居住地域はヨーロッパを中心に中近東、中央アジア、シベリアに限定されている。最大人口は約50万人と推定される。|
|13万年前~10万年前|>|>|>|>|>|>|魚介類を食する?(南アフリカ・クラシーズ・リヴァー洞窟の貝塚、南アフリカ・ブロンボス洞窟の魚骨・貝殻)【注28】|
|10万年前|>|>|>|>|>|>|ホモ・サピエンスの出アフリカ(出アフリカⅡ)【注17】|
|?10万年前~7万5,000年前|>|>|>|>|>|>|・創造力、象徴表現が出現 (貝製のビーズ・オーカー)(南アフリカ・ブロンボス洞窟・イスラエルのスフール洞窟・カフゼー洞窟)【注19】・穀物を食べ始めた(モロコシをすりつぶす、モザンビーク・ニアッサ州・Ngalue洞窟遺跡)【注11】|
|9万5,000~1万7,000年|ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)|インドネシア&br;フローレス島&br;リアン・ブア洞窟|ホビット|2004年|380cc|・マイケル・J・モーウッド&br;・?ピーター・ブラウン||
|?9~8万年前|>|>|>|>|>|>|日本最古の石器(岩手県遠野市の金取遺跡)【注12】|
|?4万年前|>|>|>|>|>|>|淡水魚を常食とする(中国周口店遺跡の人骨の成分分析による【注2】)?|
|3万5,000年前|>|>|>|>|>|>|・芸術(壁画(南フランス・ショーベ洞窟【注18】)・楽器(南ドイツ・ガイセンクレステルレのフルート)・彫刻)の広がり・言語の使用【注8】?・日本列島に人類が現れる(沖縄本島の山下町第一洞穴人【注9】)|
|3万2,000年前|>|>|>|>|>|>|繊維の使用(グルジア・コーカサス山脈・ジュジュナ洞窟【注10】)|
|1万年~8,500年前?|>|>|>|>|>|>|農耕・牧畜の開始(シリア北東部・テル・アブ・フレイラ遺跡---前期ナトゥーフ文化)?|
|16万~15万4,000年|※ホモ・サピエンス・イダルツ【注22】(Homo sapiens idaltu)|エチオピア&br;ミドル・アワッシュ&br;ヘルト|ヘルト人|1997年|1,450cc|ティム・ホワイト|※これはホモ・サピエンスの亜種なので、ここに記すべきではないのですが、上の年表には記されているのと、「オモⅠ、Ⅱ」などとの関係を記すため、取り上げています。【注22】|
|20万年前~現在|ホモ・サピエンス(現生人類)(Homo sapiens)|エチオピア|―|1967~1974年|1,150~1,350cc|・リチャード・リーキー?&br;・ティム・ホワイト|・クロマニョン人(フランス・1868年発掘)は4万年~1万年前に生存していたホモ・サピエンスの地域集団の名前です【注7】&br;・クロマニヨン人、周口店上洞人(これもホモ・サピエンスです)以後を「新人」【注1】と呼ぶ?|
|>|>|>|>|>|>|>|※主な出来事を赤いベルトで示しています。|
|>|>|>|>|>|>|>|※参考:現在のチンパンジーの脳の大きさは「約400cc」です。|
|>|>|>|>|>|>|>|※この表は河合信和著「ヒトの進化七〇〇万年史」の「人類系統図」、内村直之著「われら以外の人類」p.18~19及び「Wikipedia-Human evolution」に基づいて独自に編集していますので、必ずしも冒頭の表「最初の人類からホモ・サピエンスまで」の年代表記とは一致していません。これらの年代については、考古学・人類学などの学会の統一された見解が無く、学者によって様々な主張がなされているので、大まかに把握する他は有りません。|
|>|>|>|>|>|>|>|&size(12){※Wikipedia「List of human evolution fossils」を参考になさってください。これも100%正しくはありませんが。戻る};|
|>|>|>|>|>|>|>|&size(12){※タイトルロゴ左写真は「サヘラントロプス・チャデンシス」の復元図(Dieneke'sAnthropology Blog より)、右は「ダビデ像」からです。};|


|人類化石に用いる略語|||
|略語|正式名称・地名(参考図)|国名|
|AL|Afar Locality(アファール)|エチオピア|
|ARA-VP|Aramis Vertebrate Paleontology(アラミス)|エチオピア|
|BOU-VP|Bouri Vertebrate Paleontology(ブーリ)|エチオピア|
|KGA|Konso-Gardula(コンソ)|エチオピア|
|ER|East Rudolf(=Lake Turkana)(東ルドルフ湖)|ケニア|
|WT|West (Lake) Turkana(西トゥルカナ湖)|ケニア|
|KNM|Kenya National Museum(ケニア国立博物館)|ケニア |
|KP|Kanapoi(カナポイ)|ケニア |
|OH|Olduvai Hominid(オルドヴァイ)|タンザニア|
|SK|Swartkrans(スワルトクランス)|南アフリカ|
|Sts|Sterkfontein South?(ステルクフォンテイン)調査中|南アフリカ|
|Stw|Sterkfontein West?(ステルクフォンテイン)調査中|南アフリカ|
|TM|Transvaal Museum(トランスバール)|南アフリカ|
|TM |Toros-Menalla(トロス・メナラ)|チャド|


|注戻る||
|【注1】|20 世紀の後半から化石の発掘が増え、年代測定の精度も向上し、その結果同じ時代に複数の人類種が併存していたことも分ってきました。そこで猿人・原人・旧 人・新人という単純な分類では対処出来なくなり現在は殆ど使われません。高校の「詳説世界史B」を参考に大体の目安を記しました。(参考図)|
|【注2】|朝日新聞(2009年8月5日夕刊)の報道(広州・小林哲)によります。?|
|【注3】|1976 年、メアリー・リーキーのメンバーであるアンドリュー・ヒルがラエトリで多数の動物の足跡を発見しました。1978年その中にヒトの足跡があることが分 り、ティム・ホワイトと諏訪元はそれが「アウストラロピテクス・アファレンシス」のものであることを究明しました。(内村直之著「われら以外の人類」p.95)?|
|【注4】|こ の種に関して国立科学博物館の馬場悠男氏は「人間性の進化(別冊日経サイエンス)p.70」の中で次のように述べておられます。「ドマニシ化石は専門家に よってはホモ・ハビルス、ホモ・エレクトス、ホモ・エルガステルあるいは新種のホモ・ゲオルギクスとさまざまに分類され、まさにホモ属の多様性を主張する モデルによく符合しているといえるだろう。あるいはドマニシ化石群に見られる解剖学的な違いは、1つの種の変異幅がいかに大きかったかを示す好例だともい えよう。このように考えれば、上のような系統樹(一例:ヒトの進化の足跡)はもう少し刈り込んでもいいかもしれない。」?|
|【注5】|このような系統図に関しては多くの専門家によって色々な説が唱えられています。筆者はその中で最も最大公約数的なものを選びました。系統図に関して前記馬場 悠男氏は「人間性の進化(別冊日経サイエンス)p.30」の中で次のように述べておられます。「化石の記録によって、人類進化の後半期には多数の種が同時 に存在していたことがわかっている。しかし前半期も同じように複数の種がいたかどうかについては、大論争が起こっている。700万~300万年前のすべて の化石は問題なく同一の進化系列上にのると主張する研究者(ランパー・包括分類派―筆者注)もいれば、これらの化石は別々の系統に属するだけでなく、きわ めて多様に分化した未発見の多くの種の代表にすぎないと見る研究者(スプリッター・細分類派―筆者注)もいる。」。今後の発見や研究によって未だ未だ変化 する可能性が多い問題であることを理解しておきたいと思います。なお2010年3月に明らかにされた「デニソワ人【注13】」は、河合信和作成の表以外、このいずれの表にも未掲載です。|
|【注6】|1966 年、C.K.ブレインは南アフリカ・スワルトクランス洞窟第三層(150~100万年前)から、焼けた動物骨約270点を発見しました。この層は約 150~100万年前のものとされています。ただ初期の「火の管理者」は野火などから火を「入手」するだけで、未だ自分で「火を作る」ことは出来ず、それはホモ・サピエンス以降ではないかとされています。「人類進化99の謎」p.59より。Wikipedia「Control of fire by early humans」参照。?|
|【注7】|「人類進化99の謎」p.123によります。?|
|【注8】|リチャード・リーキー著「ヒトはいつから人間になったか」p.197~226によります。|
|【注9】|沖縄県那覇市山下町第一洞穴(やましたちょう)で1968年に発見されました。約3万2000年前とされる6~7歳の子供の大腿骨と脛骨で、日本では最古級の現生人類の人骨とされています。現生人類の人骨は他に沖縄県の港川人(みなとがわじん・約1.8~1,6万年前)と静岡県の浜北人(はまきたじん・約1.4万年前)とが出土しています。なお2010年2月、沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で出土した人骨が、炭素年代測定によって約2万年前の旧石器人の骨であることが分かりました。(これまで最古とされる那覇市の山下町第一洞穴の骨(3万2000年前)も共伴した炭化物での測定のため、年代観を疑問視する意見があります。このサイトでは決定的な実証がなされるまでは山下町第一洞穴人を年表に表示します)|
|【注10】|「河合信和氏ブログ」から。参照:「Science」誌・2009.9.11号|
|【注11】|モザンビークの洞窟から10万年前の石器に付着していたモロコシ属の残留物が発見され、収穫の簡単な果物や木の実が主な食料であったと考えられていた時代、実は初期人類は穀類を扱っていたことが判明した。初期人類が食料として穀類の種を食べるようになった時期は不明であるが、一般的には更新世(180万~11,000年前)末期頃、現代的な行動の始まりにつれてではないかと推測されている。Julio Mercader(カナダ・カルガリー大)はモザンビーク北西部に位置するニアッサ州のNgalue洞窟遺跡で、奥まった部屋の中に約10万年前の石器に付着したデンプンの残留物を大量に発見した。これらの残留物は自生のモロコシ属だと思われ、この遺跡の住人(ホモ・サピエンス)らがモロコシ属を食べていたことを示唆しており、アフリカ南部の更新世の人々にとって種子収集は食料調達における必要性の高い活動ではないという従来の仮説には反しているとMercaderは記述している。「Science」誌・2009.12.18号ハイライト版から|
|【注12】|1949年に相沢忠洋が群馬県みどり市笠懸町岩宿遺跡(いわじゅく)で関東ローム層中から発見した石器は少なくとも約3万年前(岩宿I石器文化)と約2万年前(岩宿II石器文化)の2種類有ります。その後1983年に岩手県遠野市で発見された金取遺跡(かねどり)は2003年7月に約9万年前のものと分かりました。また2003年12月に、長崎県平戸市入口遺跡(いりぐち)で発見された石器は約9万年前、さらに2009年9月島根県出雲市の砂原遺跡(すなばら)から発見された石器は約12万年前のものとされていますが、これらは果たして人類の定住を証明するものなのか(或いはマンモスを追った通りすがりの人類だったのか)検証が待たれています。(このサイトでは年表に金取遺跡の年代を記載しています。)|
|【注13】|南シベリアのアルタイ山脈にあるデニソワ洞窟で 2008年に発掘されたヒトの小指の骨の化石(48,000~30,000年前の地層)から、ドイツのマックスプランク研究所などが細胞内小器官のミトコ ンドリアDNAを抽出し、塩基配列を解読したところこれまで知られている人類とは全く別種のものであることが分かリました。ホモ・サピエンスの祖先はネア ンデルタール人の祖先と約47万年前に枝分かれしています。ところがこの「デニソワ人」は約104万年前に「ホモ・サピエンス、ネアンデルタール人」のグループから枝分かれしていることが分かったのです。これはホモ・サピエンスともネアンデルタール人とも違う新種の人類が存在していたことになる大きな発見です。参照:「河合信和の人類学のブログ」、「Nature News 2010.3.24」、「Nature 464 2010.4.8」|
|【注14】|南アフリカ共和国のヨハネスブルグの北約40キロにあるマラパ洞窟で南ア共和国とアメリカの等で作る国際チームによって発掘されました。2010年4月9日付けの「サイエンス誌」に発表されました。 戻る|
|【注15】|2010年8月の「Nature誌 466」でエチオピア北部・アワッシュ渓谷下流域のディキカ地域で、切り痕や叩き痕がついた大型有蹄類動物の骨の化石が発見されたと報じています。これはアウストラロピテクス・アファレンシスが、石器を用いてつけた傷跡だと推定されていますが、議論の分かれるところではあります。(2010年8月12日朝日新聞)|
|【注16】|1992年、エチオピアの考古学者シレシ・セマウらがハダールのカダ・ゴナ川河畔のEG10、12地点で発掘調査を行い、約260~250万年前のオルドワン文化の石器を大量に発見しました(Nature1997年1月23日号)。その後もエレーヌ・ロシュが1997年にトゥルカナ湖西岸のロカラレイ2C遺跡で234万年前の石器群(計2067個に及びます)を発見しました。他に、クラーク・ハウエルがオモのシュングラ層F層でオルドワン石器群を発見するなど、260万年前頃の石器発見は東アフリカ全体に広がりました。(河合信和著「ヒトの進化七〇〇万年史」p.155、156から)|
||これが従来の定説でしたが、【注15】で記したとおり、約100万年遡る説が推定されています。考古学上の発見は約10年の検証期間を要すると一般に言われます。なのでここでは両論を併記しておきます。|
|【注17】|人類はアフリカから始まったとすることは定説になっています。最近までは①多地域進化説(約180万年前にホモ・エレクトゥスがアフリカを出て世界に散らばり、各地域でホモ・サピエンスまで進化した)と②アフリカ単一起源説(約180万年まえにアフリカを出て各地で進化した人類はネアンデルタールまでは進化したがその段階で絶滅した。その後約10万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスが世界に散らばったのが現在に至っている)の2説がありましたが、現在では遺伝子研究の結果後者が有力とされています。約180年前にホモ・エレクトゥスがアフリカを出たのを「出アフリカⅠ」とし、約10万年前にホモ・エレクトゥスがアフリカを出たのを「出アフリカⅡ」とする説もあります。(参考地図)(参考:ウィキペディア「アフリカ単一起源説」、河合信和著「人類進化99の謎 p.62、p.122」)|
|【注18】|1994年に発見された南フランスのローヌ川峡谷の洞窟です。サイ、ホラアナライオン、オーロックスなどが赤土や炭を使って、とても具体的に描かれており、合計約260点以上有ります。(参考:ウィキペディア)|
|【注19】|南アフリカのブロンボス洞窟から2種類の重要な”文化財”が発掘されました。一つは貝製のビーズ(参考図Ⅰ)でこれは約7万5000年前の物だと分かりました。その後イスラエルのスフール洞窟からは10万年以上前の貝製のビーズが発見されています(河合信和著「人類進化99の謎」p.91、p.114)。「オーカー(Ochre)」というのは、二つの物を指します。一つは三角柱に線刻をつけた石片で、もう一つは顔料として用いられた赤鉄鉱です(参考図Ⅱ)。オーカーの石片は約7万5000年前とされますが、その後オーカー粉を水に溶いたらしい貯蔵用の2枚のアワビ貝殻が発見され(参考図Ⅲ)、これは約10万年前のものと分かりました(「Science」誌・2011年10月14日号、「河合信和の人類学のブログ」から。なお、貝製のビーズや粉末オーカーの副葬品は、最初の「埋葬」の証拠と目されています。今のところ最初の埋葬は、約10万年前のホモ・サピエンスであるとされているのです。|
|【注20】|2012 年4月3日の読売新聞は「米ボストン大などの研究チームがまとめ、米科学アカデミー紀要に発表する」と報じています。さらに詳しくは「研究チームは南アフ リカにある長さ140mの「ワンダーウェーク洞窟」の地層を顕微鏡で分析し、植物の灰や焼けた骨片を確認した。洞窟内に広く分布していることから、野火な どではなく、ホモ・エレクトスが草や葉を燃やして料理していたと推定した。どうやって火をおこしたかは不明だが、同大のフランセスコ・ベルナ博士は「野火 から取ってくることもできただろう」としている」。共伴した石器と地層の調査から、年代は100万年前頃、と推定した。参照:「河合信和の人類学のブログ」|
|【注21】|リーキー家は古人類学界の名家と言われています。ルイス・リーキーとメアリ・リーキーが夫婦であり、その次男がリチャード・リーキー、その妻がミーヴ・リーキーです(参考:Wikipedia)。ルイス夫妻はオルドヴァイ峡谷を開拓・研究し、リチャード夫妻はトゥルカナ湖東岸クービ・フォラを発見・調査しました。(参考図)|
|【注22】|「ホモ・サピエンス・イダルツ」は「ホモ・サピエンス」の亜種という位置づけがされているので、上の内村直之氏の年表には有りますが、他の年表には記されていません。なお、厳密には「オモⅠ」、「オモⅡ」という亜種がその後発見され、これは19万5000年前という年代であることが分かったので、この年代が「ホモ・サピエンス」の最古の年代であると(現在のところ)されています。|
|【注23】|ドイツのシェーニンゲン遺跡で3本の木の槍(両端を尖らせたトウヒの木。長さ2~3m)と、切り傷の付いた獲物の馬の骨が出土しています。傍にあった40万年前のウマの骨には、ホモ・ハイデルベルゲンシスが付けたと推測される傷跡があります。河合信和著「人類進化99の謎 p.134」から)|
|【注24】|河合信和著「人類進化99の謎 p.72・73」から|
|【注25】|河合信和著「人類進化99の謎 p.96・97」から。なお、エチオピアのヘルトで発見された、約16万年前のホモ・サピエンス・イダルツの頭蓋にも切り傷が有るが、ティム・ホワイトは、これは食人ではなく、何かの儀礼の痕と見ています。であれば、これも儀礼の痕である「可能性」は免れません。|
|【注26】|アウストラロピテクス属の後期の「アウストラロピテクス・エチオピクス」、「アウストラロピテクス・ボイセイ」、「アウストラロピテクス・ロブストス」の三つの種はそれぞれ「パラントロプス属」とする説が多いので、当サイトではその説を取り入れています。「パラントロプス属」は「頑丈型猿人」を指します。河合信和著「ヒトの進化七〇〇万年史」p.64から。|
|【注27】|エチオピアのミドル・アワッシュ、ブーリ村近郊でアウストラロピテクス・ガルヒの頭蓋「BOU-VP-12/130」が発掘されたのですが、その196m南で、ウシ科の一種「ハーテビースト」の右脛骨も発見されました。この骨には切り傷と打撃痕が遺されていて、これは骨髄を採るために加えられた傷痕だと推定されました。ゆえに、この地は、人類最古の肉食の名残(ブッチャリング・サイト―動物解体遺跡―)だとされています。|
|【注28】|南アフリカのクラシーズ・リヴァー洞窟群から13~12万年前の貝塚が発掘されました。また南アフリカのブロンボス洞窟からは、約10万年前の層から、サザエの仲間、イガイ、ツノハタガイなどの貝殻や、タイの仲間の30cm程の魚骨が発掘されました。(河合信和著「人類進化99の謎 p.136、137から)|
|【注29】?||
|  戻る||

トップ   編集 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS