加治家

加治家

加治氏(かじうじ)
秩父黒丹五基房の五男経家は高麗郷に進出して高麗五郎を称したが、長男実家は
すでに加治太郎を称している。同じく次男家季(いえすえ)も加治二郎を称している。
さらに五男の実景も加治五郎左衛門尉を称している。
加治郷に進出した中で大きく発展したのが加治二郎家季の系統である。
現在の入間市野田の付近に居を構えたものとみられる。野田の円照寺(えんしょうじ)
には畠山重忠謀殺の時、加治二郎宗季(吾妻鏡は家季を宗季と記す)が北条義時方
に参加して戦死したが、この宗季の菩提を弔うために、家季の長男家茂が円照上人を
開山として埼玉県入間市野田に円照寺を建てたと伝えられている。

        加治氏の菩提寺円照寺:埼玉県入間市野田

         野田馬場:埼玉県入間市野田字馬場
     馬場は北側から東側にかけて藤田堀(とうだぼり)が流れ
     南には、前川(まえかわ)(現在暗渠)が流れている。
     館を構えるには絶好の高台である。現在すぐ近くには
     西武池袋線の元加治駅がある。遺構は見られない。
     わずか藤田堀に面する崖が往時を偲ばせる。
     土地の方の話では鍛冶場の跡などが出土したという。
 加治郷(入間市野田地区・飯能市)は加治氏の本拠地であり、同氏の
 館跡と伝えられる野田字馬場は円照寺から極近い場所にある。
 また飯能市中山智観寺(ちかんじ)には同じく、戦死した加治二郎家季の冥福を願う
 ために次男の助季が建立したとみられる板碑がある。そして智観寺東方には助季の
 末裔の中山家範(いえのり)の館跡があること、あるいは智観寺の創建が元慶(がん
 ぎょう)年中(877~885)であることなど考え合わせると、加治氏の本拠地が
 この飯能市中山であったとも考えられるという。
 いずれが真実かわからないが、どちらも有りうるように思える。
 宗季の弟の五郎左衛門尉実景(さねかげ)の系統も加治を称しているが、飯能市の
 赤沢周辺、のちに市内の中居さらに中山村前田へ移ったのかもしれないという。
 徳川家家臣として後世まで続いた。
 丹党高麗氏が高麗郷から、加治郷へ移った理由として考えられるのは、広大な沃野
 が広がり開発の余地がある。さらに丹党一族は製錬技術に優れており、名栗川
 流域や槻川(つきかわ)上流域の製鉄・金属文化に深くかかわっていたものと見られ
 ている。
 名栗川(なぐりがわ)が成木川(なりきがわ)と合流して入間川となった地点にある
 阿須(あす:飯能市)で採取される良質の砂鉄は、入間郡の名栗村の山中で生産
 される大量の木炭で加熱し、良質な鉄を生産することが出来た。これで中世武士たち
 の用いる馬具・武具あるいは農具などを製造することができた。事実入間市野田
 字馬場の加治氏の館跡とみられる場所からは、鍛冶場の跡などが出土したと土地の
 人が言っている。このように広大な沃野を背景にした農業生産と製鉄技術による
 工業生産が加治氏一族の成長をもたらしたのであろうと言われている。
 また加治氏は、時の権力によって、翻弄された一族でもある。

          円照寺の南を流れる入間川
  加治二郎家季(かじじろういえすえ)
  高麗五郎経家(つねいえ)の次男。
 上武国境にある金窪城(かなくぼじょう)は治承年間(1177~1181)加治家季が築城
 したと伝えられている。元弘年間(1331~1334)新田義貞が修築してその部将畑時能
 に守らせたともいわれている。
 (金窪城の写真はは長浜六郎左衛門のところに載せる)
 ・建久元年(1190)十一月源頼朝上洛の際、先陣六番随兵。
 ・建久六年(1195)平重衡によって焼かれた東大寺が再建され、供養のため、源頼朝
  が上洛した。三月十日行列をつくって奈良に入った。随兵の中に高麗太郎とともに
  加治小二郎(家季)の名が見える。
 ・元久二年(1205)七月。畠山重忠追討では、北条義時にしたがって参戦し、畠山軍
  に討たれた。吾妻鏡では「加治次郎宗季已下(いげ)多くもって重忠がために誅せら
  るる。」と記されている。詳しくは榛沢六郎成清のところで記述。
 上記にあるように野田の円照寺には畠山重忠謀殺の時、加治二郎宗季が北条義時方
 に参加して戦死したが、この宗季の菩提を弔うために、宗季(家季)の長男家茂が
 円照上人を開山として市内野田に円照寺を建てたと伝えられている。
 また飯能市中山智観寺には同じく、戦死した加治二郎家季の冥福を願うために次男の
 助季が建立したとみられる板碑がある。
 「仁治三年(1242)壬寅(みずのえとら)十一月十九日、當先孝聖霊 □(丹)治□□
 (家季)三十八星霜改葬之間建弥陀三摩耶一基之石塔矣」
 (先孝(考)の聖霊丹治家季の三十八星霜に当たり改葬の間、
 弥陀三摩耶一基の石塔を建てる)の銘文が彫られているという。
 これは戦死した加治次郎の没年と「三十八年星霜」は符合するもので、おそらく父の
 冥福を願うために子の助季が建立したものと考えられるという。現在は智観寺の
 収蔵庫に入っているため見られない。
        
            智観寺:埼玉県飯能市中山
     常寂山蓮華院と称する。新義真言宗、江戸大塚護持院末。
     当寺は陽成帝元慶年間(がんぎょうねんかん:877~885)
     中山氏の遠祖、宮内卿家義の孫、丹治武信の創建する所なり。
     それより六百余年を経て、永正の頃(1504~1521)朝覚が
     中興開山し、今の山号・院号は正保三年(1646)四月
     大覚寺宮より賜ったという。(新編武蔵風土記稿)
  加治豊後守家茂(かじぶんごのかみいえもち)
  系図には家茂に「豊後守」の註書がある。元久二年(1205)六月二十二日に亡く
 なった加治家季の長男。
 文永元年(1264)五月二十七日、鎌倉幕府は、熊谷直時と弟祐直の大里郡内
 西熊谷郷及び安芸国三入庄の所領相論を裁決し、それぞれ境を定め、直時に
 三分二、祐直に三分一を給す(武蔵守平朝臣(赤橋長時)・相模守平朝臣
 (北条政村)花押)の裁決文書を下した。
 文書の中に「文暦二年(1235)幕府御使加治豊後前司家茂法師がまいらせる
 ところの絵図に修理権大夫(北条時房)・武蔵前司入道(北条泰時)が判形を加え
 られたとの文言がある」。(熊谷文書) 
 また「尾張文書通覧」に「文永八年(1271)十二月二十二日、幕府は加治豊後
 左衛門入道をして豊後国□聖別符のほか武蔵国の所領にも京都大番役を勤仕
 せしむ」とあり、豊後国の聖別符(ひじりべっぷ:大分県別府市付近か)にも所領を
 もっていたことがわかる。(埼玉苗字辞典)
 ただしこの加治豊後前司家茂はこの頃は相当な高齢のはず。孫の左衛門尉家景
 あたりか。
 これをみると加治氏はかなり早くから豊後国に所領を持っていたことが伺える。
  加治丹内、同中務(なかつかさ)
 承久三年(1221)六月六日、相模守北条時房・足利武蔵前司義氏に属し、美濃国
 大豆渡(まめど)へ向かう。加治丹内は杭瀬川(くいせがわ)渡河に際して弓矢に
 当り流される。
 この加治丹内は加治二郎家季の子丹内左衛門助季、加治中務は加治太郎実家の
 子中務丞実時であろうという。
 「まめど(大豆渡)えはさがみのかみ。あしかがむさしのぜんじむかはれけるが、
 あそぬま(阿曾沼)小二郎ちかつな(近綱)をめして川をわたし。むかひのけしきを
 見せられければ。京がたの兵はことごとくよひよりおちうせたりければ、やかたども
 のこりて人はなし。ぐんぜいどもこれをき々。いくさにあはぬをむねんにおもひ。
 てきにをつつかんとわたすともがらたれたれぞ。いぐの六郎あり時(有時)。
 ぜん(善)ざえもんの太郎。をかじま(岳嶋)のきち(橘)ざえもん。山田五郎兵衛入道。
 あふ(阿保)のぎょうぶのぜう。ゆら(由良)のさこん。あほき(青木)兵衛。しんがい
 (新開)兵衛小次郎。めぐろ(目黒)の太郎。さがら(佐賀羅)の三郎。かぢ(加治)の
 たんない。同なかつかさ。これらをはじめとして。一どにさざめいてわたし。道をよけて
 すすみ行くほどに。みののくにむしろ(筵)田といふ所にて、京がたのせいにおつ付け
 たり。ここに京方返し合。さんざんにたゝかひけるが、おちあしのことなれば。
 いくさもはかばかしからず。一きに二三人せめかかりければ。くみおとしくみおとし。
 のこりすくなにうちとられ。ちりじりにおちて行。
 おち行せいの中に山田二郎しげただ(重忠)は。こんど大しょううけ給りてむかふ
 たる身のいづくにてもはかばかしきいくさもせず。はぢある矢をもい出さずおちて
 のぼり。君より御たづねあらんには何事をかこたふべき。ここにて一いくさせんと
 思ふ也とて。くいぜ川(杭瀬川)のにしのはたに九十よきにてひかへつつ。
 よせくるてきをまちゐたり。ここにおくぜいにおかじまのきちざえもん。よきかたきと
 めをかけてはせよせたり。むかひにひかへ給ふはたそ。これ山田二郎しげただなりと
 こたふ。さてはよきかたきござんなれかう申はあふしうの住人かじまのきちざえもんよ
 とて矢合するほどこそあれ。さんざんにわたしあふ。山田の次郎が郎等には水野左近
 。大かね(金)太郎。大田の五郎兵へ。とう(藤)兵衛。いよばう。あらさこん。兵部坊。
 これらをはじめとして九十よきの兵。河のはたをおりくだり。さんざんにたたかふ。
 あるひは川中にていおとされ。うきぬしづみぬながるるあり。あるひはいたであまた
 取おふて引しりぞくもあり。東がたより
 かぢのたん内(加治丹内)と名のってわたしけるが。かたきのいるや(矢)にくらの
 まへわよろひごめ(前輪鎧こめ)。しりわ(尻輪)にいつけ(射付け)られけるが、
 しばしはたもつやうに見へけるが。終にまさかさまにおちてぞながれける。
 又さがらの三郎もわたしけるが。まつかうのあまり(真甲の余)をいさせて引しりぞく。
 又はたの(波多野)の五郎はやじりもなき矢にてまっかう(真甲)いさせて引しりぞく。
 (承久軍物語)
 加治丹内左衛門尉は嘉禎四年(1238)二月、頼経将軍の上洛に一族の阿保次郎
 左衛門尉や加治次郎兵衛尉、加治新左衛門尉とともに随兵となっている。
 加治氏の名は吾妻鏡に多く出てくる。系図と照らし合わせて特定することも困難なので
 そのまま官位で表すとつぎのようである。
  加治左衛門尉
 仁治元年(1240)八月二日癸巳(みずのとみ)
 頼経将軍二所(伊豆山権現と箱根権現)詣での時の随兵。
  加治八郎左衛門尉
 仁治二年(1241)正月二十三日壬子(みずのえね)
 頼経将軍が馬場におでましになる。北条泰時も参る。そのほか名越朝時・北条有時・
 足利泰氏・中原師員・上総権介(千葉秀胤)出羽前司(二階堂行義)等も参上する。
 若輩の将士に遠笠懸(とおかさがけ)・小笠懸(こかさがけ)を射させる。
 次に弓場(ゆば)において
 射的の儀があった。的の射手は二人1組で六組あり。五番に小笠原六郎(時長)と
 加治八郎左衛門尉(信朝)が射る。
  加治七郎左衛門尉
 寛元(かんげん)四年(1246)八月十五日辛丑(かのとうし)
 鶴岡の放生会(ほうじょうえ)に将軍頼嗣(よりつぐ)臨む。
 (先月父の頼経将軍は京都に追放されたばかりである)
 頼嗣将軍の随兵。加治七郎左衛門尉。同じく加治八郎左衛門尉。
  加治中務左衛門尉
 正嘉(しょうか)二年(1258)正月一日辛亥(かのとい)
 相州禅室(北条時頼)の沙汰で垸飯(おうばん)。両国司は大庇(おおひさし)に座り。
 そのほかの将士は庭上の東西に着座。
 東坐の一人  加治中務左衛門尉
  加治六郎左衛門尉
 文応(ぶんおう:ぶんのう))二年(1261)正月一日癸亥(みずのとい)
 相州禅室(北条時頼)の沙汰で垸飯(おうばん)
 東坐の一人  加治六郎左衛門尉
  閑院内裏(かんいんだいり)造営の雑掌分担目録
  加治人々築地二本負担す。
 (閑院内裏は藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の邸宅であったが、平安末から
 中期には里内裏(さとだいり)として用いられた。建物も内裏にならって造営)
 建長元年(1249)二月一日焼亡したため、建長二年(1250)三月一日閑院内裏造営
 の雑掌を御家人に配分した分担目録を作成す。
 二条より北、西洞院(にしのとういん)より東、築地廿本のうち、加治の人々  二本。
  六条八幡宮造営注文
  加治人々廿貫文負担す。
 六条八幡宮は六条若宮・六条左女牛(さめうし:さめがい)八幡宮とも呼ばれ、天喜
 元年(1053)源頼義の創建と伝えられる。源頼朝は源氏の氏神として崇敬し、社領を
 寄進して二度の上洛にも社参した。当初は現在の下京区西洞院、六条通りと左女牛
 通りの間にあったという。文永十一年(1274)焼失した。建治五年(1275)五月
 造営注文が作成された。造営にあたり鎌倉幕府の御家人に負担を求めた。
 賦課額は「鎌倉中」が123人で4577貫、「在京分」28人で179貫、「諸国分」318人
 で1885貫。合計469人で6641貫である。この造営注文に漏れた人々もあろう
 という。
 加治の人々   廿貫文
 加治の人々と複数の記載で示されているが、この複数表示はこの時点で加治氏が
 惣領によって統括されていたというより、中心となる者を特定できない中・小領主達の
 同族集団としてとらえられていたことを示しているという。
 加治氏は加治郷に広がり誰が惣領かわからない状態であったのであろう。
  加治宗泰(刑部左衛門尉、奉行)
  高野山に町石卒塔婆を建てる。
 文永九年(1272)ころの紀州高野山町石卒塔婆(ちょうせきそとうば)銘文に
 「丹治宗泰」とある。この町石卒塔婆とは参詣道約20kmに一町ごとに石の塔婆を
 建てたものである。第152番目の町石を寄進したのは加治宗泰であった。
 円照寺文永七年碑と同人であろうという。
 (入間市史)(埼玉苗字辞典)
 (「六条八幡宮造営注文」国立歴史民俗博物館研究報告第45集所収)
  加治光家(五郎左衛門)
  北条宗方(むねかた)の乱で誅される。
 加治左衛門尉家景の子。元弘の乱で幕府軍として赤坂城攻や分倍河原で活躍する
 加治左衛門家貞は光家の子である。
 嘉元三年(1305)四月二十三日子(ね)の刻(午前零時)、侍所別当・得宗家執事の
 地位を利用した宗方は、「上の御仰せなり」と称して兵を集め、連署の北条時村邸を
 夜討ちさせた。時村の子息縁者の多くは辛うじて難を逃れて助かったが、時村自身は
 この時斬殺されてしまった。この時、時村邸を夜討ちしたのは、十二人の武士で
 あった。御内人(みうちびと)、外様御家人が半数ずつであった。
 外様御家人赤土長忠・井原盛明・比留宗広・甘糟忠貞・岩田宗家・土岐定親の六名と
 御内人和田茂明・工藤有清・加治光家・海老名秀綱・白井胤資・五大院高頼の六名
 あわせて12名であった。
 この時、時村邸を夜討ちした十二人はたんに私闘と誤解されて捕えられて、一人ずつ
 所々に召し預けの身となり、八日後の五月二日には、逐電した和田茂明を除いて
 処刑されてしまったという。しかし、これら十二人が宗方の「上の御仰せなり」という
 命によって欺されていたことが判明し、その翌々日の五月四日には、北条貞時に
 よって大仏宗宣(おさぎむねのぶ:北条宗宣)、宇都宮貞綱(さだつな)らが宗方の
 討手として差し向けられた。自邸から迎撃して出た宗方は佐々木時清に討ち取られ、
 その家臣たちも諸所で斬られた。
 このとき討手側も八人のものが負傷した。この時宗方は二十八歳だったという。
 この事件は色々な解釈がなされている。ひとつは北条宗方の野心のため。
 あるいは宗方は得宗になろうとしたのではなく、出家した北条貞時の下で実権掌握を
 ねらったものと思われるとか、あるいはまた北条貞時の陰謀であった。つまり貞時は
 得宗家専制体制の総仕上げとして連署殺害という乾坤一擲(けんこんいってき)の
 作戦を決行し、これに失敗して、自己責任回避のため、片腕ともたのむ宗方を切り
 捨てたのではないかという。
  (「鎌倉政権得宗専制論」細川重男)(「鎌倉北条一族」奥富敬之)
 この事件で光家の弟の助家(すけいえ)も兄に同じく誅されると系図に書かれている。
 加治氏は頼朝挙兵のころからの御家人であった。文永八年(1271)には豊後国にも
 所領を持ち、京都大番役を(宮廷の警護をつとめる役)つとめており、このときは
 まだ御家人身分であったが、宗方の乱では御内人と明記されている。
 加治氏は弘安八年十一月に起った(1285)霜月騒動で没落し、御内人となったと
 思われている。
 加治氏はこの二人の菩提を弔って供養塔を円照寺(埼玉県入間市野田)に建立した。
 この供養板碑は現在、国指定文化財に指定されている。 
  加治家貞(かじいえさだ)(左衛門、入道道峰)
 後醍醐天皇の鎌倉幕府の倒幕計画は正中元年(1324)九月事前に六波羅探題に
 察知され失敗した。側近の日野資朝(すけとも)一人が犠牲になって佐渡島に流され
 て終わった。
 その後も討幕の計画はひそかに続けられていたが、これも事前に察知され、元弘
 元年(1331)八月二十四日、天皇はひそかに京都を出て山城国笠置城(かさぎじょう:
 京都府笠置町)に立て籠もり兵を募った。幕府は九月のはじめ、北条氏一門と
 足利尊氏(高氏)の率いる大軍を上京させた。その中に安保道潭(あぼどうたん)一族、
 河越貞重(さだしげ)一族、高坂出羽権守(こうさかでわごんのかみ)、加治家貞、
 中村弥二郎等の武蔵武士をはじめ相模・伊豆・駿河・上野等五カ国の武士が従った。
 二十万七〇〇〇余騎の大軍であったという。
 笠置城は九月二八日に陥ち、天皇は河内の赤坂城(大阪府)に拠って挙兵した楠木
 正成をたよって行く途中で捕えられた。幕府軍は十月一五日、軍を編成し直し、四手
 に分かれて赤坂城攻撃に向かった。武蔵武士たちは全員、大仏貞直に従って宇治
 から大和国へ至る道を選んだ。赤坂城は六日後に陥ち正成は逃亡した。
 天皇は翌年三月隠岐(島根県)に流された。
 元弘三年(1333)五月八日、上州生品神社(いくしなじんじゃ:群馬県太田市新田)の
 社前で鎌倉討幕の旗を上げた新田義貞は越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、
 翌九日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(せんじゅおう:後の足利義詮)と
 合流し、一路鎌倉を目指して南下した。
 幕府軍は桜田貞国を大将とし、御内人(みうちびと)の長崎高重、加治家貞らを副将と
 する武蔵・上野の軍勢六万余騎は鎌倉街道上道(かみつみち)から新田軍の正面に
 向かった。
 幕府軍は入間川(いるまがわ)で新田軍を阻止するため北上、同月十一日朝、義貞軍
 は入間川を渡り、両軍は小手指原(こてさしがはら:所沢市)で遭遇しはげしく戦った。
 しかし勝敗は決せず新田方は入間川に北条方は久米川(くめがわ)に退いた。
 翌十二日新田方は先制攻撃をしかけて久米川の陣を攻め立てたので北条方は
 敗れて府中の分倍河原(ぶばいがわら)に退いた。そして十五日新田方が府中に
 押し寄せたところ、北条方には援軍が来ていたので、新田勢は敗れて狭山堀兼
 (さやまほりがね:埼玉県狭山市)まで退き陣を立て直した。その夜、三浦義勝の
 援軍を得た義貞は十六日早朝分倍河原の鎌倉勢を急襲して大勝した。この二度目の
 分倍河原合戦が戦局を決め、勢いに乗った義貞軍は一気に鎌倉に迫った。
 幕府軍はよく戦ったが、五月二十二日北条高時はじめ一族門葉二百八十三人
 鎌倉小町の東勝寺において自刃。
 太平記には自刃した北条一門の中に加治家貞の名は無いが、この一所にて死する者
 すべて八百七十余人とある。
 御内人の一人として鎌倉幕府とともに運命をともにしたとみられる。
 入間市野田の円照寺に残る元弘三年五月二十二日銘の板碑(国指定重要文化財)
 には無学祖元の七言絶句臨剣頌(りんけんしょう)の漢詩とその下に道峯禅門の名
 が刻まれている。この板碑は加治氏の遺族が家貞の命日を刻んで造立したもので
 あろうという。
    
           円照寺由緒:埼玉県入間市野田
        道峯禅門在銘の板碑に刻まれている無学祖元の
        七言絶句臨剣頌(りんけんしょう)の偈(げ)
        「 乾坤無卓孤節地 只喜人空法亦空
         珎重大元三尺剣 電光影裏析春風
         元弘三年癸酉五月廿二日 道峯禅門」
 「乾坤(けんこん)孤節(こきょう)を卓(た)つるの地なし、只(ただ)喜ぶ人空にして
  法もまた空なるを。
  珍重(ちんちょう)す大元三尺の剣、電光の影裏(えいり)春風を析(さ:斬)く
  元弘三年癸酉(みずのととり)五月廿二日  道峯禅門」
   (入間市史通史編)(埼玉県史通史編2)(太平記)
  加治豊後守季貞(すえさだ)・加治丹内左衛門季光(すえみつ)
 観応元年から三年(1350~1352)に起った足利尊氏・直義両派間の全国的内乱
 である観応の擾乱(じょうらん)は、尊氏派の首領高師直(こうのもろなお)一族の
 滅亡など一進一退していたが、直義の毒殺によって一応終結した。しかしまもなく
 武蔵野合戦が勃発した。南朝は文和元年(1352)閏二月宗良親王(むねよししん
 のう)を征夷大将軍に任命して、新田義宗・同義興・脇屋義治らに鎌倉にいた
 足利尊氏を討伐させることになった。
 このとき新田軍に参陣した武蔵武士は勝代・蓮沼、児玉党の浅羽・四方田・庄・
 桜井・若児玉、丹党の安保修理亮・同六左衛門・加治豊後守・同丹内左衛門・
 勅使河原丹七郎、西党、東党、熊谷、太田、平山、私市党、村山党、横山党、
 猪俣党らであったという。(詳細は省略)
 各地での戦いに敗れた新田義宗らは笛吹峠に退き、ここで足利軍と最後の合戦
 をし、越後へ落ち延びたという。
 加治一族は北条氏が倒れた時惣領を失ったが、この乱で新田軍に加わって再び
 所領の一部を失ったであろうという。
  加治刑部丞実規(かじぎょうぶのじょうさねのり)
 貞治(じょうじ、ていじ)三年(1364)十月二十八日、加治刑部丞実規は上杉憲春
 (のりはる)施行(せぎょう)の旨に任せ、矢野左近将監とともに都筑郡小山田庄内
 黒河郷(神奈川県川崎市)半分を、御任々局(おににのつぼね)の代官に打渡した
 との復命書を同月十一月二十四日に提出している。
  加治氏は上杉禅秀の乱では足利持氏に与す
 応永二十二年(1415)四月二十五日鎌倉府政所で開かれた評定の席で、鎌倉公方
 足利持氏は、関東管領(かんとうかんれい)犬懸(いぬかけ)上杉禅秀の家人で
 常陸国の住人越幡(おばた)六郎の所領を没収した。禅秀はこの処分を撤回させ
 ようとしたが持氏はこれを受け入れようとはしなかった。腹を立てた禅秀は関東管領
 の辞職願いを持氏に提出。持氏は禅秀のライバル山内上杉憲基(のりもと)を管領職
 に補任。
 応永二十三年(1416)十二月二日戌の刻(午後八時)禅秀に味方した足利満隆
 (持氏叔父)、同持仲(持氏弟)がひそかに殿中から西御門の宝寿院に出て旗を
 揚げた。犬懸の家人屋部と岡谷の二人は手の者を率いて、その夜塔辻(とうのつじ)
 へ下り陣を張った。禅秀は持氏の御所へ一気に攻め込んだ。
 (禅秀へ味方した者)
 大類、荏原、蓮沼安芸守、別符、玉井、本庄左衛門、藤田修理亮、岩田左近蔵人、
 白鳥六郎等・・・
 (持氏に味方した者)
 安保豊後守、加治、金子、別符(寝返り)
 (結果)
 応永二十四年(1417)正月十日禅秀の子快尊の雪の下御坊に籠り、満隆、持仲、
 禅秀、憲方(禅秀の子)、憲春(禅秀の子)、快尊(かいそん:禅秀の子)、武蔵守護代
 長尾氏春らは自害して乱は終わった。
  戦国時代
 その後永享十一年(1439)二月鎌倉公方足利持氏は将軍義教と対立。幕府軍に攻め
 られて鎌倉の永安寺(ようあんじ)に籠り自害した「永享の乱」。
 それに続く持氏の遺児安王丸・春王丸が結城氏朝(ゆうきうじとも)に擁立され下総の
 結城城で挙兵した結城合戦(1440~41)。
 持氏の遺児の一人である万寿王丸(鎌倉大草紙では永寿王)が鎌倉公方として迎えら
 れ足利成氏(しげうじ)となった。しかし成氏は享徳三年(1454)関東管領上杉憲忠を
 自邸に招いて謀殺したあと鎌倉を発向し各地を転戦して下総国古河(茨城県古河市)
 に入り、古河公方と称された。このあと関東各地で古河公方足利成氏と関東管領上杉
 氏との対立・抗争、いわゆる「享徳の乱」が続いた。享徳三年にはじまったこの乱は
 文明十四年(1482)十二月室町幕府と古河公方との和睦が成立するまで、三十年近
 くに及んだ。
 つづいて扇谷上杉定正(さだまさ)は家宰の太田道灌(どうかん)を山内上杉顕定の
 讒言(ざんげん)で謀殺。この事件をきっかけにそれまで続いていた山内・扇谷上杉氏
 の協力関係は破綻し両者の対立抗争が始まった。「長享年中の大乱」である。長享二
 年(1488)の実蒔原(さねまきがはら:神奈川県伊勢原市)の合戦から本格化し、
 永正二年(1506)三月まで続いた。約二十年間である。関東の上級権力者の間の
 戦いである。加治氏をはじめ在地領主はそのたびにどちらの陣営につくか右往左往
 しなければならなかった。
 天文六年(1537)上杉朝興(ともおき)が病没したあと嫡子朝定(ともさだ)が扇谷上杉
 氏の家督を継ぎ、河越城を根拠地としていた。天文六年の七月新興勢力の北条氏綱
 によって河越城は奪われた。河越城代は北条氏綱の養子の綱成(つなしげ)が守る
 ことになった。
 松山城(埼玉県比企郡吉見町)に逃れていた扇谷上杉朝定は、河越城を奪回する
 ために関東管領山内上杉憲政(のりまさ)や古河公方足利晴氏(はるうじ)に支援を
 要請した。支援部隊を背景に朝定は天文十四年十月から八万余騎といわれる軍勢を
 率いて河越城を包囲した。天文十五年(1546)四月廿日北条氏康は自ら八千余騎の
 精鋭を率いて夜陰に紛れて攻囲軍の背後から攻撃をかけ、電撃的な勝利をおさめた。
 総大将上杉朝定若干二十三歳で討ち死。関東管領山内上杉憲政(のりまさ)は上野国
 平井城(ひらいじょう:群馬県藤岡市)に敗走。古河公方足利晴氏(はるうじ)は古河
 (茨城県古河市)に逃げ帰った。この戦乱の世を加治氏はなんとか切り抜けてきた。
 以後武蔵国は勢力図が塗り替わり、後北条氏の勢力がひしひしと浸透してきた。
 「金子家文書」(入間市史金石文・中世史料編)に年未詳の六月三日付の北条氏康
 判物がある。これは氏康が入間郡金子郷(入間市)の在地領主であった金子家長・
 同充忠に所領の安堵と宛行を約束した文書である。金子氏が北条氏へ申し合わせた
 ように忠節を尽したならば、本領五十一貫文の地と加治惣領分(入間市・飯能市)百貫
 文を含む新恩地百五十貫文の地を与えると記されている。加治氏の惣領は北条氏に
 反抗したために所領を没収されたものとみられている。
 この北条氏康判物には「右、申し合わせの首尾の如く、忠節を遂ぐに至りては、速やか
 にこれを出し置くべく候。若しまた仕合無き為め、無文に馳せ来たるに於ては、本地
 計(ばか)り出すべく候。兎に角に彼の谷へ打ち詰め候当日、当陣へまかり移るべき者
 なり。よって状件の如し。」
 この文書は北条氏康の自信に満ちた文言が感じられるので河越夜戦以後に出された
 ものと推定される。
 永禄二年(1559)に作成された「小田原衆所領役帳」には加治氏の名は見られない。
  加治左馬助家信(かじさまのすけいえのぶ)
 入間郡誌・野田村条に「加治左衛門尉家季及び野田与一経久なるもの元久二年六月
 二十三日武州都筑郡二俣川に於て畠山重忠と戦ひて討死す。依て其子加治豊後守
 田沼宗茂父の菩提のため円照上人(俗姓加治氏、父は刑部丞盛道)と一寺を建築し、
 光明山正覚院円照寺と号し、加治氏累代の香華院たらしむ。円照宝治二年八月寂す。
 その後建長年間火災あり、康元元年加治左衛門尉田沼泰家に諮り尊永上人と諸堂を
 建つ、多治比氏の氏神、丹生明神を勧請し、寺門守護神となす。元弘年間加治豊前守
 家茂より累代之を領し、天正年間北条氏照に属し、旗下加治左馬助をしてこれを支配
 せしむ。」(埼玉苗字辞典)
 円照寺は加治氏の嫡流がこれを守り、北条氏の時代は加治左馬助がこれを守っていた
 とみえる。
 「新編武蔵風土記稿」によれば、高麗郡の上広瀬村(現在埼玉県狭山市上広瀬)は
 「・・・天正六年(1578)より加治左馬助、慶長十七年より大河内金兵衛、同又兵衛知行
  し、慶安元年時の領主松平伊豆守検地せり。・・・」とある。
 信立寺(しんりゅうじ)の項
 開山 日惺(にっせい)・慶長三年寂す。開基は加治左馬助家信・慶長十七年十一月
 七日没す。法号は円惺院日信(えんせいいんにっしん)とす。又家信が造立せる位牌
 一基。その表に浄光院殿森巌道慰運正大居士神儀。
 後背には時慶長十二稔(ねん)丁未(ひのとひつじ)四月八日越前中納言開眼、右に
 此位牌施主武州住人、左に加治左馬助家信とあり」
        
         信立寺(しんりゅうじ):埼玉県狭山市上広瀬
       当寺に開基墓はあるが、こちらには埋まっていないとこと。
  (新編武蔵風土記稿)
 加治左馬助家信は越前宰相秀康に仕え、後に水戸藩に仕えたという。
 家信は仕えていた越前中納言結城秀康を忍んで、位牌を造立し開眼供養したと
 みえる。結城秀康は慶長十二年四月八日に逝去。戒名は浄光院森巌道慰、菩提所
 は浄光院運正寺である
 野田村の加治氏はその後姓を田沼氏に変えたという。(埼玉苗字辞典) 
  加治弥六郎(かじやろくろう)
 加治惣領分領地を追われた一族の中には加治と山一つ隔てた三田谷(みただに:
 東京都青梅市)の三田弾正少弼綱秀(みただんじょうしょうひつつなひで)のもとに
 走った者もいたのだろうか。その三田氏も永禄六年(1563)には一族が拠った辛垣城
 (からかいじょう)を北条氏照に陥された。三田氏の没落後北条氏照はこの地方在住
 の地侍を「清戸三番衆」に編成し、岩槻の太田氏と対峙する「清戸の番所」(東京都
 清瀬市)を守らせた。その中の一人に加治弥六郎がいた。
  中居加治氏と前田加治氏
 加治二郎家季の弟実景も加治五郎左衛門を称している。やはり加治郷に住んで
 いたとみえる。子息は二人いる。一人は太郎左衛門尉景秀で養子とある。
 もう一人は太郎右衛門尉光景(みつかげ)である。子孫は同族加治氏と共に鎌倉
 幕府に仕えていたようである。のち他の丹党諸族とともに新田義貞の旗下に馳せ参じ、
 王事につとめたが時に利あらず、その所領を失って一族は影を潜め、僅かに清明村
 中居(埼玉県飯能市)に住み一丁屋敷を構えた。中居加治屋敷である。
 加治屋敷のすぐ南にある宝蔵寺の開基は加治豊後新左衛門尉貞継で応永三年
 (1396)八月一日に卒した。年六十二。法名は山翁仁公庵主である。
        
          宝蔵寺遠景(道の奥瓦屋根の建物)
          埼玉県飯能市中居
        
          宝蔵寺の裏山にある加治屋敷(一丁屋敷跡)
          埼玉県飯能市中居
 それから百年関東管領が衰え、両上杉氏の確執があり、地方の乱れたのに乗じて
 兵庫大夫藤兵衛頼胤は、上杉憲政に仕えた。頼胤の子修理亮胤勝(たねかつ)の時
 北条氏に仕えて功があり、中山村前田(埼玉県飯能市)の地に五千坪を得て之に
 移住した。前田の藤兵衛屋敷の起りである。同屋敷は玉寳寺裏にあたるという。
        
                   玉宝寺裏
       現在新町名に変わって前田という地名が残っていない。
       現地の人に尋ねたがよく分からないという。東町から新町に
       かけての地名であったのだろうか。新町に前田公園がある。
 墓地は赤沢勝輪寺(埼玉県飯能市赤沢)というが、現在は廃寺となっているようで
 ある。胤勝の子正胤(まさたね)は初め信胤・左衛門次郎と称した。
 北条氏照に従っていたが、天正十八年に滅亡したため、赤沢村に潜伏。野の鶴を友と
 していたが、徳川家康が関東に入るにあたって召し出され、それ以来家康に仕えた。
 代官を務め食禄二百俵。慶長十七年十月二十六日死。法名全英。赤沢村勝輪寺に
 葬る。その子直胤(なおたね)は慶長十九年家を継ぎ、父と同じく代官となった。
 食禄二百表。寛永十八年十月五日死。四十八歳。法名常参。赤沢勝輪寺に葬る。
 直胤の弟に盛胤(もりたね)がある。中居村加治屋敷を継ぎ、今の半田氏の祖となる。
 寛政重修諸家譜によれば、水戸徳川頼房に仕える。
 これを系譜に沿って表すと次のようになる。
 幕臣加治氏系図(寛政重修諸家譜)
 頼胤(兵庫大夫、上杉憲政に仕える)。家季十三代としている。
  ↓
 胤勝(たねかつ。修理亮。北条氏康につかえる。)
  ↓
 正胤(まさたね。初め信胤。左衛門次郎。母は某氏。
    北条陸奥守氏輝につかえる。天正十八年北条家没落の後、加治郷赤沢村に
    住し、東照宮関東に入らせたまふのときめされて御家人に列し、御代官となり、
    食禄二百俵をたまふ。慶長十七年十月二十六日死す。法名全英。加治郷赤沢村
    の勝輪寺に葬る。)
  ↓
 直胤(なおたね。喜平。母は某氏。慶長十七年遺跡を継。御代官を勤む。
     寛永十八年十月五日死す。年四十八。法名常参。葬地正胤におなじ。
     妻は近藤氏の女。)(直胤の弟盛胤。中居加治屋敷を継ぐ。半田氏祖。)
  ↓ 
 則胤(のりたね。喜八郎、弥兵衛、藤兵衛、母は近藤氏の女。
    寛永十八年十二月四日遺跡を継ぐ。小普請となる。時に八歳。のち大番に列し、
    寛文六年三月番を辞し、貞享(じょうきょう)三年正月朔日(ついたち)死す。
    年五十三。法名良俊。加治郷中山村の能仁寺に葬る。後忠次に至るまで葬地
    とする。妻は林嘉兵衛某が女。
      (以下略。)
 この系統は加治家季の弟五郎実景にはじまる。その住居地によって、中居加治氏と
 前田加治氏にわけられるという。(飯能市史通史編)