雷大臣命

*雷大臣命

いかつおみのみこと

父:巨狭山命

三男子あり、長男は大小橋命なり、又は御味宿称とも申す、二男は意穂命と申し、三男は阿遅速雄命と申す。

国摩大鹿島命━━━巨狭山命━━━雷大臣命━┳━大小橋命━━━中臣阿麻毘舎卿
                     ┃(御味宿称)
                     ┣━意穂命
                     ┗━阿遅速雄命

伊達家


中臣烏賊津使主(雷大臣命)とは、一体、どういった人物であったのか?

 

まず、「紀」の中で、中臣烏賊津使主に関する部分は以下の通りである。

 

仲哀天皇(在位西暦192~200年)8年9月 「天皇神託を疑い、崩御」】

「是(ここ)に、皇后と大臣(おほおみ)武内宿禰天皇の喪を匿(かく)して、天下(あめのした)に知らしめず。則(すなわ)ち皇后、大臣と、中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)・大三輪大友主君・物部胆昨連(いくひのむらじ)・大伴武以連(たけもちのむらじ)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「今し天下、未だ天皇の崩りまししことを知らず。若し百姓(おほみたから)知らば、懈怠有(おこたりあ)らむか」とのたまふ。

則ち四大夫(よたりのまえつきみ)に命(みことおほ)せて、百寮(もものつかさ)を領(ひき)ゐて、宮中(みやのうち)を守らしめたまふ。窃(ひそか)に天皇の屍(みかばね)を収め、武内宿禰に付(さづ)けて、海路(うみつぢ)より穴門〔あなと/P404注9〕に遷(うつ)りて、豊浦宮(とゆらのみや)に殯(もがり)し、天火殯斂(ほなしあがり/喪を秘すために、灯火をたかない殯の意味。ただ、「ほなしもがり」と云わぬことに疑問)をしたまふ。

甲子に、大臣武内宿禰、穴門より遷りて、皇后に復奏(かへりことまを)す。是の年に、新羅の役(えだち/新羅征討)に由りて、天皇を葬(はぶ)りまつること得ず。」

 

と、あるように「中臣烏賊津連」は仲哀天皇の崩御を世の中に秘匿する相談に与るほどに神功皇后の信頼厚い四大夫〔他に大三輪大友主君・物部胆昨連・大伴武以連〕の一人であった。

 

なお、「紀」の(注)で、中臣烏賊津連について、

「神功摂政前紀3月(P417)・允恭紀7年12月条に『中臣烏賊津使主』とある。前者はここと同一人であるが、後者は同一人・異人、両説ある。『続紀』天応元年7月条に『子公等之先祖伊賀都臣(いかつおみ)、是中臣遠祖天御中主命二十世之孫、意美夜麻(おみさやま)之子也。伊賀都臣、神功皇后御世、使於百済、便娶彼土女』とあり、前者と同一人。しかし、『姓氏録』の『雷大臣(いかつのおみ)』と『中臣氏系図』『尊卑文脈』の『伊賀都臣(いかつのおみ)』の名もあり、これも『中臣烏賊津使主』と同一人か否か説がある。」

 

と、説明されている。「神功皇后の時代に『烏賊津使主』が、百済に使いした際に、彼の地の女性を妻とした」とあるのが、後述する雷大臣(いかつのおみ)の伝承と一致し、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)と雷大臣が同一人であると認定してよい。

 

【気長足姫尊(おきながたらしにめのみこと)神功皇后(仲哀天皇9年2-3月)】

「九年の春二月に、足仲彦天皇、筑紫の橿日宮に崩(かむあが)ります。時に皇后、天皇の、神の教に従はずして早く崩りまししことを傷みたまひて、以為(おもほ)さく、祟れる神を知りて、財宝国(たからのくに)を求めむと欲す。是(ここ)を以(も)ちて、群臣(まへつきみたち)と百寮(もものつかさ)に命(みことおほ)せて、罪を解(はら)へ過(あやまち)を改めて、更に斎宮(いつきのみや)を小山田邑に造らしむ。

三月の壬申(じんしん)の朔(つきたち)に、皇后、吉日を選ひて斎宮に入り、親ら神主と為りたまひ、則(すなは))ち武内宿禰(すくね)に命(みことおほ)せて琴撫(ことひ)かしめ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を喚(め)して審神者(さには)(注1)としたまふ。」とある。

 

(注1)  審神者は、神が憑依した神功皇后の発する御言葉を、解釈し、皆に伝える役で、神事に関わる者である。

 

 以上の「紀」の二か所の記述から、中臣烏賊津使主という人物が、神功皇后の重臣中の重臣であり、かつ皇后に憑依した神の言葉を翻訳し伝える神職の役割を担っていたことが分かる。

 

対馬縣主の祖たる中臣烏賊津使主(雷大臣命)は「対馬神道」の祖である

さらに、「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」(815年嵯峨天皇の命により編纂)の「氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」(P342)において、氏族「津嶋直」は「本貫地:摂津国、種別:未定雑姓」に分類されるが、「始祖」は「天児屋根命(あまのこやねのみこと)十四世孫、雷大臣命乃後也」と記載されている。このことから、対馬島内に祭神として数多く祀られている「雷大臣命」と同一人たる「中臣烏賊津使主(いかつのおみ)」が、対馬県主の祖であると断定できる。

 

天児屋根命については、「紀」の【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】に、「・・・且(また)天児屋命は神事を主(つかさど)る宗源者(もと)なり。故、太占(ふとまに)の卜事(うらごと)を以ちて仕へ奉(まつ)らしむ」とあり、この国の「占い神事の宗家・元祖」であることが記されている。

 

先述の通り、中臣烏賊津使主は神の憑依した神功皇后の発する言葉を解釈し人々に伝える「審神者(さにわ)」と呼ばれる神務に携わる特別な存在の人物であった。そして、中臣烏賊津使主が神事の占い事の宗家たる天児屋根命十四世孫とあるのも「審神者(さにわ)」の正統性を裏付けるものである。

同時に、中臣烏賊津使主(雷大臣命)が、対馬神道の特徴をなす「亀卜(きぼく)」の伝道者とされ、占いを専業とする「卜部」氏の始祖と伝えられるのも首肯できる。

 

そのことを、「対馬国大小神社帳」は、「対馬国社家之儀者、往昔雷大臣対馬県主に被相任候より以来、雷大臣之伝来を得而祭祀?請を仕来り、則対馬神道と申候」と記している。つまり、中臣烏賊津使主(雷大臣)が「対馬県主」に任じられてから、祭祀?請(卜の法)を伝授したが、それが即ち「対馬神道」であると云っている。

 

また、卜占に関する伴信友の著書「正卜考」(1858)に本伝とする藤斎延(なりのぶ=斎長の父)の伝書にも、「卜部年中所卜之亀甲を制作して、正月雷命社に参詣して、其神を祭る、雷神を祭る故は、対馬に亀卜を伝る事は 神功皇后新羅征伐之時に、雷命対馬国下県佐須郷阿連に坐して伝へ玉ふなり、依之祭之也」とあり、対馬亀卜法の起源が、中臣烏賊津使主、雷大臣命にあり、その発祥地が「阿連(旧号・阿惠)」だと語られている(下線部分は「霹靂神社」参照)。

 

以上より、中臣烏賊津使主(雷大臣命)は、「対馬縣の祖」であると同時に、「対馬神道の祖」であることが分かる。

伊達家