皇室中興の祖光格天皇陛下とロシア船の驚異

皇室中興の祖 光格天皇陛下 とロシア船の驚異

みなさんは 光格天皇陛下 というおかたはご存知であろうか? 明治以降の 歴代天皇 と比べると一見あまりお知りにならない方も多いと思われる。だが、この 天皇陛下 こそ、皇室の権威を大いに上げたと言っても過言ではない。

どの様な人物か? ざっと見てみよう。閑院宮家 というのは 東山天皇陛下 の第六皇子を初代とする家であり、その三代目の 佑宮様 が 後桃園天皇陛下 急逝の後を受けて九歳で即位なされたのである。

お伊勢参りより御所参りが隆盛だった時代

光格天皇陛下 が中興の祖と言われる原因の一つが、幕府の失態から出たこれである。天明七年(1787)六月七日から始まったこの動き、この日は五十人程だった人数が十日には約一万人、ピークには七万人もの人数に達している。

南門の塀の垣根から銭を投げ入れて、さながら神に祈るように紫宸殿に向かって祈っていたという。この「御所御千度参り」に集まった動きは近国に広まり、淀川を行く船問屋は運賃を半額にした施行船で客を運び、後桜町上皇は三万個のりんごを配らせ、隣接する 有栖川宮家・一条家・九条家・鷹司家 は茶や握り飯を配り、周囲の溝に冷たい湧き水を流して手や顔を洗えるようにしたという。

何故このような事になったのか? それは主上に祈った人の殆んどが「飢渇困窮につき祈誓」「米穀不自由につき」「米穀段々高値になり」、つまり天明の大飢饉が発生したものの幕府が有効な手段を取れなかったためである。米価が高騰し、餓死者まで出るという困難な事態に、人々は幕府の京都所司代や京都町奉行所に繰り返し嘆願したが無駄であった為に前月五月には、怒った大坂の町民が数十軒の米穀商人の家を襲った。堺、播磨、紀伊でも同様の打ち壊しが起こり、五月十九日から五日間、将軍のお膝元の江戸でも数百人が鉦や太鼓を打ち鳴らし竹槍で武装して、騒擾を起こしたという。

幕府に頼んでも埒が明かないため、御所千度参りを行い救済を願ったのである。

この時朝廷には 関白九条尚実 が病気で政務が取れず、弱冠十七歳の 天皇陛下 が自ら仕切る形になっておられるようだが、それはともかくこの動きに危機感を募らせ六月十二日、関白鷹司輔平 を通じて、対幕府の窓口である武家伝奏に幕府方の京都所司代 に対して窮民救済に関する申し入れをするよう命じた。

世上困窮し、飢渇死亡の者数多これあるのよし、内院ははなはだ不憫に思し召され、

と賑給(しんごう、古代の朝廷が毎年5月に全国の貧窮民に米や塩を賜った儀式)などはできないか、関東から救い米を差し出して貧窮を救うことはできないか、との申し入れであった。驚いた事に当時の朝廷では、個別の財産からの救済策すらも幕府の許可がいるという事である。

だが、それまで朝廷が江戸幕府の政治に口を出す、という事は前例がなくまさに前代未聞の申し入れであった事は確かで、そしてなんと幕府は申し入れ以前から米500石(7.5トン)を救済手当てに使っても構わないと京都所司代に指示を出していたが、朝廷からの申し入れを受入れて、さらに千石(15トン)の救い米放出を命じこれを朝廷に報告した。

恐らく賑給という形で皇室が身銭を切るとなると、朝廷の威光が直接一般庶民に広まる事になるとの計算から幕府持ちにしたのであろうが、それでもこの一件で権威は大幅に低下した形になった。

この年の十一月の大嘗祭では次の御製をお詠みになり、それが世上に流布し、評判となった。

       身のかひは 何を祈らず 朝な夕な 民安かれと 思うばかりぞ

民を想うその御心は、後桜町上皇陛下 が与えられた教訓への返書の中で「天下万民への慈悲仁恵のみを思うことは、君主たる者の第一の教えである」と書かれている事からも伺い知る事が出来る。

ロシアの驚異

文化三年(1806)のロシア軍艦が日本に対して攻撃を行った。発端はロシア帝国の使節 陸軍中尉ラクスマン がシベリア総督の書簡を持ち漂流民(大黒屋光大夫等)を伴って来日し、寛政五年(1793)に松前で交渉を行いその途上で通商の約束を取り交わしたにも関わらず レザノフ が来日した時にはその約束を反故にしたというのが理由である。

まず寛政五年の松前での交渉であるが、老中松平定信 は長崎の信牌を確かに ラクスマン に 目付石川忠房 を通じて交付したが、これを正式な条約と見なすには無理があるし「国交樹立していたにも関わらず約束を破った」という意見には賛成しかねる。

ロシアの外交官 レザノフ(ロシア帝国外交官・露米会社代表) は ラクスマン が持ち帰った長崎の信牌と ロシア皇帝アレクサンドル一世の信書を携えて、正式な国交樹立と条約の成立を求めて長崎に来航した。

大学者林述斎 は「信牌を与えた経緯があるので、拒絶するべきだが礼を持って説得するべき」との意見を出したが、老中土井利厚 は「ロシアを怒らせる様な対応をすれば帰るだろう。攻めてくれば武士はいささかも遅れをとらない」と主張し、半年留め置いた後 長崎奉行遠山景晋 を通じて レザノフ の交渉を全面拒否した。

これを受けてロシア帝国側は、九月に樺太の久春古丹(後の大泊町楠渓)に上陸して運上屋を攻撃・略奪・放火し、翌文化四年にはロシアによる樺太の留多加と利尻島を攻撃・略奪、礼文島近海の日本船を襲撃する事件が起き、商船が焼き払われ島民が拉致・虐殺されるなど大きな被害が出た(文化露寇、フヴォストフ事件)。

確かに半年軟禁するというのは非礼ではあるが、その理由を持って戦争をしてむやみやたらに島民の人命を奪って良いという理由にはならない。また日本が蝦夷地に進出したのが原因と言うならば、ロシア帝国が進出した事も原因であるはず。この事件を正当化しているのが左翼であるが、如何に人命を軽視しているか? が解かる。

この事件で庶民の間では「ロシアは既に東北にまで来ている」とか風評が広がり、幕府初の外国との戦争における敗戦は幕府の権威失墜をさらに加速させる事となった。幕府はやむなく朝廷に経緯を報告し、これが幕府が外国と条約を結ぶのに勅許が必要であるという根拠になってくるのである。

この危機における皇室の存在感

光格天皇陛下 はこの事態を憂慮し、石清水八幡宮と加茂神社の臨時祭を再興し国家鎮護をお望みになられていた。おりしも幕府はロシアとの交渉で物入りであろうと気を使われて、文化十年(1813)に永享四年(1432)以来途絶えていた石清水臨時祭が約380年ぶりに挙行され、翌年十一月には応仁の乱以来途絶えていた加茂神社臨時祭も約350年ぶりに再興された。国家護持祈願に立つ帝の姿は、まさに朝廷の威光が輝いていた時代でもあった。

天明八年(1788)に当時16歳の 将軍家斉 に 松平定信 は訓示したが、その中の一つに「六十余州は禁廷(朝廷・天皇の意)より御預かり遊ばされ候事に御座候えば、かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御事に御座候。」とあるそうだ。

認めたくは無いであろうが、朝廷の威光は最早抑えきれなかったのである。

また在位三十九年、院政二十三年という異例の長きにわたって治められた後崩御なされた後、諡号に「天皇」の文字を九百年ぶりに復活させた。そもそもそれまでは仏教国であった為に、崩御後の諡号は「院」とあり「天皇」という呼称は 後醍醐天皇陛下 を除いては無かった。

まさに皇室の権威の復活、伝統の復活に尽力し、威光を輝かせた現人神に相応しい謚と言えよう。