なぜ家康は北条氏居城「小田原城」でなく支城にすぎない「江戸城」へ入った? なぜ秀吉自ら徳川家臣の入封地を指示した? 家康関東転封の<真実>『どうする家康』

10/2(月) 6:31配信
婦人公論.jp

なぜ関東転封した家康は小田原城でなく江戸城に入ったのか?写真は江戸城(皇居)桜田門の高麗門(写真提供:PhotoAC)

松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第37回では秀吉(ムロツヨシさん)と側室・茶々(北川景子さん)の間に長子・鶴松が誕生し、跡継ぎの誕生に勢いづく秀吉は北条攻めを決定。和平を主張する家康だが、秀吉は先陣を命じ――といった話が展開しました。

於愛の方の死後に秀忠を養育した側室「阿茶の局」。家康が別の側室に「茶阿の局」と似た名を付けた理由とは…

一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。今回は「なぜ江戸だったのか?」についてです。

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◆小田原攻めの論功行賞

天正十八年(一五九〇)七月十三日に小田原城へ入った秀吉は、ここで小田原攻めの論功行賞を行なった。

家康にはほぼ北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵の全域、 上総・下総・上野の大半と下野の一部が与えられた。

三河・遠江ほか家康の旧領五ヵ国は、織田信雄に与えられることになったが、信雄が尾張・伊勢にこだわってこれを拒んだために改易(取り潰し)され、下野那須(栃木県那須町)二万石に移された。

このため東海道の諸城については、豊臣系大名がいっせいに配置されることになった。

すなわち、駿河一国は中村一氏に与えられ、一四万五〇〇〇石で駿府城に入った。遠江では、懸川城には五万石で山内一豊、浜松城には一二万石で堀尾吉晴、横須賀城には三万石で渡瀬繁詮、三河では、吉田城には一五万二〇〇〇石で池田輝政(池田恒興の次男)、岡崎城には五万七四〇〇石で田中吉政であった。

『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

◆なぜ江戸だったのか

この家康の関東転封は、豊臣政権による「関東・奥両国惣無事」政策の一環として行なわれたものであった。そのことは、一〇万石を超える徳川氏の最上級家臣について、その知行高や入封地についてまで、秀吉の指示があったことでも知られる。

すなわち、上野箕輪(群馬県高崎市)一二万石の井伊直政、同館林(館林市)一〇万石の榊原康政、上総万喜(千葉県いすみ市。のち大多喜〔大多喜町〕)一〇万石の本多忠勝がそうであった。

関東へ転封した家康は、それまでの北条氏の居城小田原城ではなく、北条氏の一支城であった江戸城に入った。

なぜ江戸だったのかについては、近世以来さまざまな説が唱えられてきた。

かつて江戸は東国の一寒村であり、徳川氏の入部によって発展したといわれたこともあったが、最近では当時の江戸は関東では政治的にも経済的にも重要な地となっていたことが明らかにされている。それとともに、豊臣政権の関東から奥羽まで含めた東国支配政策とのかかわりから、江戸入部もとらえられるようになってきている。

たとえば、家康の江戸入部は、秀吉の会津出陣にともなう小田原~会津間の街道整備と同時並行して行なわれており、その場合、江戸は南関東から北関東・奥羽方面へ向かう「主要道」=「東とおり」と「西とおり」の起点となっていることが注目された。

上方から「東海道」を経て、関東各地のみならず、奥羽へと向かう交通の一大中継地となった江戸の重要性が上昇し、そのような江戸に秀吉は家康を入部させたというのである(竹井英文「徳川家康江戸入部の歴史的背景」)。

◆「奥両国惣無事」政策実現へ

北条氏を滅亡させ、「関東惣無事」を達成した秀吉は、引き続き「奥両国惣無事」政策の実現をめざし、七月十七日に小田原から奥羽に向かった。

すでに奥羽の伊達政宗・最上義光・南部信直らは小田原で出仕していたのであるが、いわゆる奥羽仕置の執行のためであった(小林清治『奥羽仕置と豊臣政権』)。北関東の佐竹義宣・宇都宮国綱らも小田原に出仕していたが、彼らはただちに北条方の忍城(埼玉県行田市)攻めなどに動員された。

二十六日に下野国宇都宮に至り、ここで奥羽仕置の第一段階となるが、新たに安東(秋田)実季・相馬義胤らが出仕した。また伊達・最上両氏には、奥羽仕置の補佐(案内)が命じられた。他方で、大崎・葛西・和賀・稗貫諸氏の所領没収などが決定されている。

家康も宇都宮に出仕しており、七月二十八日には秀吉の直書が下され、翌二十九日付で家康は黒田孝高(官兵衛)・水野忠重宛の請文を呈している。

これによって家康の関東転封の態勢が最終的に確認されるとともに、次男秀康が結城氏の跡目を継ぎ、一〇万一〇〇〇石が与えられた。

◆秀吉による天下統一

八月九日には、秀吉は会津黒川(福島県会津若松市)に到着し、奥羽仕置が行なわれた。

そこでは新たに白川・田村ついで石川の諸氏が所領没収となった。他方で、葛西・大崎氏の旧領は木村吉清に与えられた。伊達政宗は、会津領は没収されたが本領は安堵されて米沢城に入り、伊達氏の会津などの旧領は、代わって会津黒川城に入った蒲生氏郷に宛行(あてが)われた。

その他、諸大名の妻子の上洛(人質の差し出し)、検地・刀狩・城破(しろわり。城郭の破却のこと)などの諸政策の執行を命じて、秀吉が京都に凱旋したのは九月一日のことであった。

こうして、秀吉による天下統一がなったのであるが、実は、事はそう簡単には終わらなかった。豊臣政権による奥羽仕置のためにやってきた大軍が去ると、この天正十八年(一五九〇)の末から翌十九年にかけて、奥羽各地でこの仕置に反発する一揆が起こったのである。

主なものとして、大崎・葛西一揆、和賀・稗貫一揆、九戸一揆などがあった。家康もその平定のため出馬することになったが、九月四日に九戸政実が降伏することで、やっと決着がついたのである。

それゆえ、秀吉による天下統一は、これら奥羽での一揆を平定することによって、最終的に成し遂げられたといえよう。

※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。

本多隆成

2024-04-09 (火) 10:18:36
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