異民族がつくった中華文化

広岡 純=文

異民族でも中華文化が身につく

こんなことを言うと、日本人も中国人も「えっ?」と言うかも知れないが、「文化」という言葉は、19世紀末に日本から中国に渡った言葉である。つまり、日本人がつくった言葉である。古代中国語にも「文化」という文字はあったが、意味は「文をもって教化すること」で、現代使われている「カルチャー」という意味ではない。

さて、「中華文化」とはいつごろ、誰によってつくられたのか。

	
	

三星堆遺跡の人頭像。殷の時代の長江文明の1つとされるが、中華文明起源の多元性を証明する

堯・舜・禹という伝説時代から、約4000年前の歴史時代に入った夏・殷(商)・周に中華文化が形成されたといわれる。

普通に考えれば、中華文化は漢民族によってつくられたと誰しもが思うが、実は必ずしもそうではない。農文協の『図説 中国文化百華』シリーズ『「天下」を目指して』の著者王柯教授は、中華文化の創始者は異民族だったという。

「礼」が萌芽し制度化した時代である夏・殷・周は、いずれも統治者は漢民族ではなく異民族出身者である。その後春秋・戦国時代を経て、秦・漢・三国・晋・五胡十六国・南北朝・隋・唐・五代十国・宋・遼・金・元・明・清という中国の歴史上の皇帝の中で、れっきとした漢民族出身の皇帝は漢・唐・宋・明ぐらいで、その他のほとんどは異民族出身である。

夏・殷・周について孟子は「舜は東夷の人である」と主張し、司馬遷も「禹が西羌地域から興った」と指摘している。また、「商人は中原に侵入し夏族の人民を奴隷のように扱った」とあり、孟子は「(周の開国者)文王は、…西夷の人なり」と指摘している。周はもとは中国以西か北西にいた遊牧部族で、渭水の流域に移り住んで定着し農業をするようになった。周は後に「商」に代わって「中華」の支配者になる。

孔子も荀子も孟子も、「夷狄に暮らせば、夷狄の慣習に基づいて行動する」「楚に居て楚であり、越に居て越であり、夏に居て夏である。これは天性にあらざるものであり、長い間の慣習によるものである」「陳良は楚の生まれである。周公・仲尼の道を悦び、北に来て中国に学んだ」と、いずれも人間の生活慣習と文化様式は先天的なものではなく、後天的な学習を通じて「華」になる、つまり異民族でも中華文化が身につくと考えていたという。

異民族の侵入に備えた「万里の長城」

北京に行ったことのある人は、ほとんど万里の長城を見る。北京で見る長城は、全体のほんの一部である。東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8851.8キロメートルといわれる。万里の長城は異民族に備えるだけではなく戦国七雄の国境間にもつくられていた。始皇帝は中国を統一した後に中国の領域内にある長城を取り壊し、北につくられた長城をつなげたが、その東端は朝鮮半島にまで及んだ。前漢の武帝は匈奴を追って領土を拡張し、長城を西の玉門関まで拡張した。その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、北魏は南よりの現在の線に新しく長城を築いた。漢族の王朝である明はモンゴル人の王朝(元)を北方へ追放し、元の再来に備えて長城を強化して、ようやく現在の形になったのである。一般に秦の始皇帝が長城をつくったとされているが、現存している「万里の長城」の大部分は明代につくられたものである。ところが実際は明も、この長城を破られて、満州族を城内に入れ、清の成立を許すことになる。

夏殷周代の文化圏(王柯著『「天下」を目指して』より)

長城は天下を取った皇帝が異民族に備えてつくった、異民族との攻防の歴史の遺物でもある。

異民族出身の皇帝は中原に帝国を建て中華文化を身につけていくが、彼らの固有の文化も当然のことながら中華文化と融合する。大陸そのものが常に新しい文化の大きなルツボとなり中華文化を熟成させていった。

日本が欲した中国の医術と薬材

中国の伝統医学も中国に多くの民族がいるのと同様、キリシヤ医学、インド医学、アラブ医学、ひいてはヨーロッパ伝統医学など世界各地の医学との交流を通じて、徐々に変化してきた。ただ、「中医学」は明らかにアラブ医学やヨーロッパ医学とは異なっている。

伝統医学では天然物を薬にするので、その地の自然環境が伝統医学の質を大きく左右する。あるオランダ医師が、中国は「南北20余度に跨り、自然生の良薬多くして、精錬の巧を用いずして、病を療する事を得べし」と言い、中国産生薬を賞賛したという。裏を返せば「ヨーロッパの自生の生薬は貧困であるため、精錬の巧を経なければ使えないものが多い」ということでもある。ヨーロッパは、抽出・分離・蒸留などの「精錬の巧」を駆使しながら、有効利用する方向に進む。それがやがてヨーロッパに近代科学を生む原動力になっていく。

中国の伝統医学の特徴は西洋医学と大きく異なって体全体をみることにあり、主に体質をあらわす「証」という概念を持っている。体全体の調子を整えることで結果的に病気を治していく。このため、症状だけを見るのではなく体質を診断し、重んじる。西洋医学が解剖学的見地に立ち、臓器や組織に病気の原因を求めるのとは対照的である。漢方薬はこの「証」にもとづいて患者一人ひとりの体質を見ながら調合される。

日本は多民族によって熟成したその中華文化を遣唐使や渡来僧や留学僧によって伝えられ、持ち帰ったのである。

中国の伝統医学は日本がもっとも欲した文化の一つであった。

東の医学と西の医学

中国の伝統医学は、中原である黄河・長江(揚子江)地域を中心に発展し、春秋戦国・漢・唐・宋・金・明・清の、それぞれの時代に特徴的な医学が形成された。

中国では、伝統医学は、「漢方」とは言わず「中医学」と呼んでいる。

河北省・金山嶺長城の雪景(写真・劉世昭)

日本では明治維新まで、ほぼ医療は漢方にゆだねられていた。漢方とは文字通り中国から学んだものである。しかし「漢方」という言い方は、江戸時代前期までは存在しなかった。オランダからヨーロッパの伝統医学が渡来し、これを「蘭方」と呼ぶのに対して、中国渡来の医学を「漢方」、日本固有の医学を「和方」と言って区別したと、農文協の『図説 中国文化百華』の『癒す力をさぐる』(遠藤次郎・中村輝子・マリア サキム著)には書かれている。

中国の伝統医学は古代の日本には朝鮮半島を通じ、あるいは遣隋使・遣唐使によって中国からもたらされた。八世紀に日本に渡来した鑑真は医学にも精通していたとされ、その将来品には医薬品や薬剤が多数ある。また、空海も医に通じ、貴重な将来本を日本にもたらしている。756年に崩御した聖武天皇の遺物を納めた東大寺正倉院には多くの薬品が納められている。日本にとって先進文化の享受は、何よりもまず病から身を守る医術や薬剤であり、病気の治療はあらゆるものに優先するせっぱつまった事由であった。したがって半島経由であろうが、大陸からの直接輸入であろうが、最新・最先端の医術と医師と薬材が求められた。

中国からの医方書や本草書がいくらあっても材料の薬物がなければ、名医といえども手の施しようがない。漢方の薬材は日本で調達できるものはよいが、犀角や麝香など国内で見つからないものは輸入に頼るしかない。

もちろん遣唐使にも医学にかかわる人間を送り込んでいた。羽栗翼は遣唐留学生阿倍仲麻呂の従者として渡唐した羽栗吉麻呂と、唐の女性との子であるが、734年に16歳で来朝。遣唐録事となり、再度遣唐船に乗って入唐。786年には内薬司正兼侍医となり、皇室の医療を担当した。

日本に蘭方がやってきた

江戸時代までの日本は鎖国政策をとっていたので、欧米の医学が自由に出入りしていたわけではなく、日本唯一の開港地となっていた長崎の出島を介して蘭方医学が伝えられた。

正倉院に残る薬の献納目録。麝香や犀角など日本にはない、薬材が見える

1634年江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された人工島―出島は、明治維新のせまった1859年オランダ商館が閉鎖されるまでは、対外的に開かれた小さな窓であった。オランダ商館医と日本人医師との交流は、出島や江戸の蘭人宿舎(長崎屋)に限定されたが、それでも彼らの医学的知識は、オランダ語の解剖学や外科学の書物とともに、日本の医学に大きな影響を与えた。やがて、杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳を機に、蘭方医学への関心が急速に高まった。また、宇田川玄随がヨハネス・ダ・ゴルテルの医学書を訳した『内科選要』の刊行も、従来外科のみに留まっていた蘭方医学への関心を、内科などの他分野にも拡大させたという点で日本の医学にかなり影響を与えた。このようにして蘭方医学は一大流派となっていったが、日本の医学界全般を見れば、まだまだ漢方医学が圧倒的に勢力を誇っていた。

開国後の1857年、江戸幕府は長崎海軍伝習所の医学教師としてヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトを招聘した。これ以降、日本でも本格的・体系的な蘭方医学教育が行われ、4年後に蘭方専門の医療機関である「長崎養生所」が開設される。蘭方医学は近代日本における西洋医学導入の先鞭を果たすこととなった。

漢方との決別

日本は明治維新(1867年)から間もない1873年に徴兵制を布く。日本陸軍はすでに1871年には創設された。創設当初のフランス式軍制から1888年にはプロイセン式の軍制に改められた。

ウイグルの「80袋屋」。ウイグル語で薬屋の総称(写真・大村次郷)

江戸時代末期には諸外国の影響を受け、蘭方医学が力を持ち始める。漢方医は幕府を動かし、1849年「蘭方禁止令」を出させるが10年もたたないうちに廃止された。背景には幕府がヨーロッパの軍事技術だけではなく、軍陣医学も導入すべくオランダの海軍軍医ポンペを海軍伝習所に招聘し医学教育を依頼した。外科に弱い漢方は戦争にはまったく役に立たないと判断され、蘭方のみが採用されたのである。

明治政府は、江戸幕府とは全く観点を変えて西洋医学を受容する。つまり「富国強兵」を旗印に掲げるには、漢方は全く不向きであると判断したのである。戦争には怪我は付きものであり、弾丸や砲弾を受けて負傷した兵士を助けるのは、外科手術以外に方法はない。漢方のもっとも苦手とする分野であった。さらに漢方は一人一人の症状に合った煎じ薬の処方を考える。戦場で風邪が流行り、百人が高熱を出したとすれば、即座に投薬し、7、80人を回復させる必要がある。下痢も同じである。日本は富国強兵、軍国主義の道を走るために漢方を捨てたのである。


http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2009-12/16/content_235136.htm


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Last-modified: 2024-04-08 (月) 13:12:53