稲作は日本から朝鮮半島に伝わった
2017-01-08 21:30:19 | 古代史

稲作は日本から朝鮮半島に伝わった

1、稲作伝播のルート

①これまで、「日本の稲作は支那大陸あるいは朝鮮半島から来た"倭人(弥生人?)"が伝えた」、さらに進んで「狩猟民族の縄文人vs農耕(騎馬?)民族の弥生人」などと語られてきました。が、これらが全くの誤りであることを「稲作の起源」を中心に明らかにします。

②稲作の伝来ルートについては、植物学者、農学者だけでなく考古学者の間でも、中国江南地域から直接伝来したというのが定説です。そして近年、支那の稲作研究界では、「水田稲作」は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっています。

③稲の遺伝子は7種類あり、現代までの日本で発見された2つをNO,1とNO,2として分類したのが「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」という品種。支那大陸でもこの2つが見つかっていますが、朝鮮半島ではNO,1は見つかっていません。これは中国江南地域より北では気温が低く育たないためです。

④それどころか、炭素放射線14年代測定法での測定の結果、日本の稲作の方が半島より古いことが分かりました。日本の稲作開始は「焼畑稲作」で紀元前6700年程度前、「水田稲作」は3200年程度前であることが判明しています。一方、半島での「水田稲作」は紀元前1500年程度前のもので、

⑤九州北部と栽培法が酷似し、遺伝子学的にいって日本米に満州から入った米の遺伝子が交雑していることから、「水田稲作」は日本から朝鮮半島へ、「焼畑稲作」は満州から朝鮮半島へ伝わったことが証明されています。理由は、朝鮮半島の緯度は日本の近畿地方より北に位置し、寒冷地であるため水田稲作に適さなかったからです。

⑥では、"縄文稲作"とはどのようなものだったのでしょうか?ここで、縄文時代を振り返ってみると紀元前6500〜4000年前の縄文時代・前中期にヒプシサーマル(気候的最適期)と呼ばれる時期があり、当時の気温は現在より東日本で2度、西日本で1.5度ほど高く、その温度上昇は海水面を現在より2~4m押し上げていたと言われています(縄文海進)。

⑦その結果、関東などでは海水が栃木県の内陸まで進み、三内丸山や八ヶ岳山麓集落が繁栄したのもこの時期でした。が、紀元前4000年前以降から冷涼化が始まり繁栄にも陰りが見えてきました。これが品種改良と、「焼畑稲作」である"縄文稲作"から効率的な「水田稲作」への転換のきっかけとなります。

⑧ところで、稲の他、ムギ、キビ、トウモロコシなどのイネ科植物は、吸い上げた水分の中の珪酸という物質を細胞に蓄積する性質があり、稲が枯れたときでもガラス質である珪酸はそのまま1万年でも土の中に残留します。これが「プラントオパール」ですが、

⑨このプラントオパールによって、遺跡などから出た植物の由来が分かり、遂に2005年2月、岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(紀元前約6700年前)の地層から、土1gあたり2000~3000個という大量の稲のプラントオパールが見つかりました。

⑩今後、更なる発見によって"縄文稲作"の年代は更に遡る可能性があります。いずれにせよ、世界最古級とされてきた支那大陸の河姆渡遺跡から僅か300年で日本に伝播するのか、また「弥生人が日本に稲作を伝えた」と俗説は強調しますが、"縄文"時代に"弥生人"が渡来するのか大いに疑問です。

2、"水陸両用稲作"だった「縄文稲作」

⑪ところで、この"縄文稲作"の稲は、麦、アワ・キビなどの雑穀の中の一つとして位置づけられたものであり、かつ水田によって栽培された「水稲」ではなく、焼畑、畑作によって栽培された「陸稲」だったとされます。どういうことかというと、

⑫一つは、東南アジアの焼畑と縄文の焼畑との違いを考えてみると、人口密度が低かった縄文時代には土地も十分にあり、現在のように急な斜面などではなく、縄文の焼畑は平らな土地で行なわれていたのではないかという点です。

⑬もう一つは、このような地形と関連して、縄文時代の焼畑には水が豊富にあったのではないかという点。春先の水位の低いときに草原や隣接する森を焼き払い、夏の間は高くなった地下水位に支さえられて稲作を行うというわけです。

⑭一方、渇水の年には稲に代わってアワ、キビなどの乾燥に強い雑穀を栽培。反対に雨が多い年には稲が多く収穫できたようです。そういう意味で、縄文時代の稲作は「水陸両用稲作」というのが適切でしょう。これに対し、弥生時代に日本に伝来したという稲作は「水田稲作」と言われます。

⑮が、ここにいう「水田稲作」とは、水田を使った稲の安定的かつ大規模な"生産方式"という意味だと考えられます。というのは、日本産の稲の品種は、その後、先に挙げた「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」が混合し、より耐寒性のある「早生ジャポニカ」に品種改良されていたからです。

⑯では、なぜこれ以降、この「水田稲作」が全国に急速に普及したかと言うと、土地の支配者にとって大規模で効率的な生産が可能だったことと、農耕地を中心に人々を定住させて管理するのに好都合だったからではないかと推測されます。

⑰最後に、俗説は「稲作は弥生人=倭人がもたらした」としますが、「倭人」は「古代日本人」を意味するので整合性が取れません。むしろ、そもそも日本人が稲作を大陸にもたらし、 広大な農地での大規模化に成功、その生産方式を持って帰ったと考えることも不可能ではなく、日本が"稲穂の国"と呼ばれる所以ではないでしょうか。

⑱ちなみに、日本の品種改良技術は奈良~鎌倉時代に飛躍的に伸びましたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっています。

⑲また、日本が朝鮮を併合した時に半島に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2・2倍に増加しました。これは灌漑設備の他、植物防疫、施肥法の伝授によるもので、単位収量の増加は半島の人々の生活に安定と豊かさをもたらしました。

⑳実際、食料計画の研究資料によると、摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増え、栄養状態の大きな改善により、日本との併合後の半島の人口は2倍以上に増加しました。

㉑支那大陸でも、当初は半島と同程度の収量であったことなども考えると、日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでトップであったばかりか、古代でも進んだ生産技術だったことが考えられるのです。

3、人糞を肥料に使う日本式農業の知恵

ちなみに、稲作以外にも、日本の農業が優れたものであったことを示す知恵として「発酵」があります。
日本では湿気が多い気候のため、納豆やみそなど古くから生ものを発酵させる知恵が活かされてきました。この知恵は食べ物だけにとどまらず食べた物の排泄、つまり、人の糞尿を発酵させて肥料として使う循環システムが古来より完成していました。

一方、ヨーロッパでは堆肥にせず、河川に流していました。実際、明治維新の直前に日本を訪れたドイツの農業経済学者マロンは、当時の日本農業を次のように評価しています。「日本の農業技術は多毛作と入念な追肥を基礎にした実に合理的な技術体系である。

日本にはヨーロッパと違って畜産がないから、家畜の腹を通して厩肥を作るという余計なことをせず、直接、人糞尿を農地に還元し、したがってヨーロッパのように人糞尿を川や海に流して環境を汚染したり、貴重な肥料を無駄にしたりという馬鹿げたことはない。

日本は一作ごとに肥料を施す追肥方式を採っているが、ヨーロッパでは輪作の一回転に一回厩肥を施す基肥方式だから、土壌の生産性が日本の足許にも及ばないのだ。ヨーロッパの農業技術は見せかけだけの偽りの技術であり、日本のは真の実用的な技術である。

縄文いなさk日本の農業では物質の循環が見事に完結し、数千年にわたって地力の減耗はまったく見られない。自然力の完結した循環の壮大な図式が成り立っているのであって、連鎖のどの環も脱け落ちることなく次々と手をとりあっている。(プロシア王国調査団報告書…1862)」と。


誇り高き日本の歴史


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Last-modified: 2024-04-09 (火) 10:19:53