書評(Historical)

フリードリヒ・ニーチェ『哲学者の書』

フリードリヒ・ニーチェ『哲学者の書』(ニーチェ全集3、渡辺二郎訳、ちくま学芸文庫、1994年)

ふむ。随分と大それた本を選んでしまいました(笑)。
私が、かの大哲学者の著書を評しようとは、畏れ多いにもほどがあるというものですが、感想程度なら、許されるでしょう。
この『哲学者の書』と題されたちくま学芸文庫版全集の第3巻は、厳密には、ニーチェの(完成された)著作物ではありません。
所謂初期のニーチェの、遺稿集として編纂されたものです。
さて、なぜ、この巻なのか、というと、ここには、「『われら文献学者』をめぐる考察」と呼ばれる一連の遺稿(没原稿?)が収録されているからです。
訳者である渡辺二郎の解説によれば、この草稿は『反時代的考察』の一つの篇となるべく企図されたもののようです。
もともと文献学者であったニーチェは、『悲劇の誕生』で文献学者達から非難を浴びるわけですが、次の『反時代的考察』に向けて、文献学のあり方を考えたのが、この草稿です。
そういったわけで、この考察は、文献学への批判に満ちています。
これを、ニーチェが浴びせられた非難への「逆襲」と釈る論者もいるようですが、私が読んだ印象では、やはり「文献学のあるべき姿」をめぐっての、痛烈な文献学批判であると言っていいと思います。
決して、文献学を潰そうと言うことではない。そういう意味での「愛情」或いは「情熱」そして「憂慮」を感じることが出来ます。
ですから、この時点で、彼はやはり文献学者なのです。
(まぁ、そんな区別はどうでもいいことですが)
さて、ニーチェがここで言おうとしているのは、文献学の、或いは古典理解の「方法」について、です。
一般的に、文献学は、古典の「正しい読解」を問題にします。
その時の「正しさ」は、いったい何処から来るのか。ニーチェは、それを問題にしているのです。
よく、ニーチェは、ギリシア神話的(デュオニュソス的)価値観を以ってキリスト教的価値観を批判した、というように言われるようです。
もちろん、そう言うことは、間違いではないでしょうし、特に中期のニーチェがそうした議論を展開していたことは確かなことと思われます。
しかし、少なくとも、この「『われら文献学者』をめぐる考察」は、そういうことよりも、むしろ、文献学の「方法」を問題にしているのだと言っていいと思います。
この言い分は、安っぽく(?)言ってしまえば、「先入観無しに読む」ということに他なりません。
ニーチェは、当時の文献学が、当時の価値観(つまりキリスト教的価値観)に照らして、ギリシア神話を読むという傾向があったことを批判しているのです。
そうしたことを「教育施設(ギムナジウム)」のあり方や、文献学者の「成立過程」に見ています。
こうしたことは、学閥的な日本の「文献学」にも、一種通じるものがあるのかもしれません。
なるほど、こうしたことを論じていけば、教育制度や、そもそも「学問」とは何であるのか、という、それこそ、幅の広い議論に進まざるを得ないのかもしれません。
だから、おそらく始めは純粋に「方法論」を問題にしようとしていたのかもしれませんが、そのような企図は結局、成し遂げられずに終わったのでしょう。
そういうニーチェの「挫折」が、彼を大哲学者にのし上げた、と言ったら言い過ぎでしょうかね。
ともかく、ニーチェの批判は、私の目には、例えば古田武彦や津田左右吉の考えに近いような気がします。
古田武彦は、『「邪馬台国」はなかった』で、こう言っています。
「すなわち、現代のわたしたちに「不審に見える」個所は、いいかえればわたしたちのもっている常識に衝突する地点である。つまり、わたしたちにとって”異質なもの”が厳としてそこに存在するのである。それこそ、わたしたちの生きている時代とは異なった常識の存在していた時代と、古写本というタイム・マシーンを通じてわたしたちがまさに出会った、その接点であるかもしれないのである。」
「「どうせ、わたしたちより劣った、昔の人間のことだ。いろいろ変なまちがいをやるにきまっている。それを正して読むのがわたしたち近代人のつとめだ」――こういう、一見合理主義的で実は高慢な精神は、自分で自分の目を、古代の真相の光の前で、おおいかくしていることとなるのである。」
ニーチェが批判しているのも、やはり、そういう「一見合理主義的で実は高慢な精神」だと言っていいと思います。
(ちなみに、ニーチェはこの草稿でしきりにフリードリヒ・アウグスト・ヴォルフを参照しますが、ヴォルフは、アウグスト・ベークの師に当ります。古田はベークの文献学に影響を受けたと自ら言っていますから、このあたりに関係があるのかもしれませんね。)
また、津田左右吉は、歴史学に「概念」を導入することを徹底的に拒みましたが、そこで言っていることも、やはり、「概念」そのものの成立を問うような、そうした思考であり、私には、両者の議論に近さを感じずにはいられません。
(津田の歴史観/「歴史学」観については、別に詳細に述べる必要があるでしょう。)
それはさておき、私にとっては、そういう意味で、今後もじっくり読み込んでいきたい1冊です。


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Last-modified: 2019-05-03 (金) 22:17:00