『三国史記』 巻23~28 <百済本紀>

 <百済本紀>に倭人関係の記事は思いのほか少なく、17代・阿辛王(治世392年~404年)の統治中に3回、18代・腆支王(405年~419年)の時に1回、20代・ビ有王(427年~454年:ビは田へんに比)の時に1回、そして最後の31代・義慈王(641年~660年)時代にやはり1回、以上つごう6回しか登場しない。

 日本書紀の宣化天皇(535年~539年)の3年(538)に、百済の聖明王(26代・聖王=523年~553年)から仏典・仏像が贈られた――という記事以降、百済が滅び、倭軍が唐・新羅連合軍と白村江で海戦をして大敗した663年頃まで(正確に言うと、敗戦後の百済亡命者の受け入れまで)、百済に関しては数え切れぬほどの記事が書紀には記載されているにもかかわらず、上述のように<百済本紀>における倭人記事は僅かなものである。

 このことから「朝鮮史料のほうが客観性があり信頼できるから、日本書紀の百済関係記事はすべて造作である」と、例によって「記紀捏造史観」を持ち出すことも可能だが、そうは行くまい。
 最後の義慈王の倭人記事は「唐の将軍・劉仁軌が、倭軍と白江(白村江)で4度戦ってすべて勝ち、彼らの船400隻を焼き、それにより義慈王の王子・扶余忠勝・忠志は倭人とともに降伏した」とあるだけで、倭人側の将兵の名などは一切書かれていない。

 それに比べると、日本書紀の斉明天皇6年(660)から天智天皇5年(666)の新羅・唐との戦いに到る百済・高句麗関係の記事の詳しさは、目を見張るほどである。
 もし、そこに登場する人物で「旧唐書」に出て来ない人物はすべて疑わしいから、日本書紀の記事もすべて信ずるに足りないとするなら、もはや日本(倭人)史は成立しないだろう。

 では何が三国史記の百済本紀から倭人記事を省かせたのだろうか?
 簡単に言えば、百済に関与していた倭人の濃密さの故であろう。百済王子を人質に取るなどという最も侮辱的な事をはじめ、倭人の官僚が相当数存在したことなど、「百済主権の侵害」的な史実は、百済を打倒して半島を統一した新羅にしても、その新羅を打破して王権を打ち樹てた高麗にしてもどちらにしても「わが半島史の汚点」に映るのである。
 このようなナショナリズム史観はどの国にもあるので、異とするには当たらない。日本書紀でも古事記でも「大和中心史観」に抵触する記事は、故意に曲げられたり、省かれたりしているのだ(現代でも多くの国に見られる。特に一党独裁の国ではそれが当たり前になっている)。

   < 百済本紀 >に見える倭人記事
王名 紀年 倭人記事 備考
初代
温祚王
前18年
~後27年 倭人に関するものはない。
父:朱蒙(高句麗始祖と同じ)
母:扶余王女(次女) 朱蒙が北扶余から高句麗の中心「卒本扶余」に到来したところ、扶余王に気に入られ、その次女を娶わせ後継とした。
 沸流と温祚とが生まれたが、朱蒙が北扶余にいる時の子・瑠璃がやって来ると、二人は南方へ逃れた。
17代
阿辛王 392年
~404年 6年(397):五月、倭国と友好を結び、太子の腆支を人質に送った。
11年(402):五月、使臣を倭国に遣り、大珠を求めた。
12年(403):二月、倭国から来た使者を大いにもてなした。 「応神紀」8年および14年の記事に対応している。
18代
腆支王 405年
~419年 即位前期:倭国に人質だった王子は阿辛王の死により、帰国することになった。
 腆支は護送の倭人を国境に留め、国の迎えを受けて帰り、即位した。 「応神紀」16年の記事と対応している。
20代
ビ(田に比)有王
427年
~454年 2年(428):倭国から使臣が来た。従者は50人であった。
31代
義慈王 641年
~660年 竜朔2年(662):扶余豊は高句麗と倭国に出兵を要請した。
竜朔3?(663)年
 唐軍と倭軍が白江で会戦したが、唐軍が大勝し、倭船400隻を焼いた。
 扶余豊の王子・忠勝と忠志は倭人とともに投降した。  「天智紀」元年の記事と対応している。
 (注)
沸流と温祚・・・ピュルとオンゾ。高句麗の始祖・朱蒙の子。朱蒙がよそ(北扶余=満州中部)から、扶余王の元にやって来たとき、朱蒙を見込んだ扶余王は娘三人のうち次女を朱蒙にめあわせて後継者とし、その間に生まれたピュルとオンゾのうち、海岸地方に行かなかった弟のオンゾが百済を開いたという。
 この説話は日本の日向神話と構造的にはそっくりである。
 朱蒙をニニギノミコト、オンゾをヒコホホデミノミコト(山幸彦)、海岸地方に行った兄のピュルをホスセリ(ホテリ)ノミコト(海幸彦)になぞらえることができる。しかも朱蒙が娶ったのが、扶余王の長女ではなく次女であったというのも、ニ二ギノミコトが阿多のオオヤマツミ神の長女ではなく次女を妃としたのと同じである。
 これを神話学者は「半島の扶余系大陸型建国神話が日本列島に伝わり、記紀神話に取り入れられた」と考えるのだが、魏志扶余伝・高句麗伝・ワイ(サンズイに歳)伝によれば扶余も高句麗もワイの分かれなのであるから、ワイの神話こそが元になったのではないかとも考察できる。
 ワイは楽浪郡の伸張で滅びた(3世紀半ば)らしいが、後継が高句麗や扶余に逃れたと考えられる国だからである。

応神紀8年の記事・・・春三月、百済人、来朝す。[百済記に曰く、阿花王立ちて貴国(倭国)に礼無し。故に我がトンミタレ・ケンナン・シシン・コクナ・トウカン(すべて地名)の地を奪う。是を以ちて、王子・直支を天朝(倭国)に遣わし、以って先王(16代・辰斯王=385年~391年)の好(よしみ)を修せしむ]
 (百済記による注記の「阿花王」は「阿辛王」、また「王子・直支」は「腆支」である。)

応神紀14年の記事・・・是(この)歳、弓月君、百済より来帰す。よりて(弓月君が)奏して曰く「臣、己れが国の人夫120県を領して帰化せり。しかれども新羅人の妨げによりて、みな加羅国に留まれり」と。
 ここに葛城襲津彦を遣わして、弓月の人夫を加羅に召さしむ。しかれども三年を経るまで、襲津彦来帰せず。
 (阿辛王12年=403年に来た倭国使というのは襲津彦のことであり、百済側が大いにもてなしたので、この記事にあるように、三年間も向こうに留まって帰らなかったのだろう。)

応神紀16年の記事・・・是(この)歳、百済の阿花王、薨去せり。天皇、直支王子を召して謂せて曰く「汝、国に帰りて位を継ぎね」と。よりて東韓の地を賜いて遣わす。[東韓とは甘羅城・高難城・爾林城、是なり]
 
天智紀元年の記事・・・五月、大将軍大錦中・阿曇比羅夫ら、船師170艘を率いて、豊璋らを百済国へ送る。宣勅して豊璋をしてその位を継がしむ。

           (< 百済本紀 >の項、終り)


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Last-modified: 2018-05-28 (月) 01:05:00